五比丘(憍陳如、アッサジ……)
「五比丘」は、お釈迦様が仏のさとりを開かれてから最初のご説法を聞いて、お弟子になった最初の5人です。
この5人は、ずっとお釈迦様に従っていたわけではなかったのですが、一番最初に弟子になりました。
一体どんなことがあったのでしょうか?
五比丘とは
五比丘とは、どんな人たちだったのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
五比丘
ごびく
釈尊と6年間の苦行をともにした5人の比丘。
釈尊が、苦行は菩提への道ではないと知って村に入り食を得たのを見ていったんは離れていったが、釈尊成道後、鹿野苑において最初の説法を聞いて悟りを開き、最初の仏教僧伽の構成員となった。
5人とは阿若憍陳如(Ājñāta-kauṇḍinya)、阿説示(Aśvajit)、摩訶男(Mahānāman)、婆提(Bhadrika)、婆数(Bāṣpa)であるが、伝承によって多少の出入りがある。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
五比丘とは、お釈迦様と一緒に修行をした5人で、最初の弟子になった人たちです。
辞典では、五比丘についてとても簡単に説明されていますので、
ここには書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
五比丘のメンバー結成
五比丘は、もともと、お釈迦様がまだシッダルタ太子と言われていた時、出家された太子を探しに行った捜索部隊の5人でした。
シッダルタ太子が29歳になったある朝、城からシッダルタ太子がいなくなっていました。みんな
「どこへ行ったの?」
と心配している所へ、車匿が帰ってきます。
車匿は、太子が出て行くときに途中まで一緒に行って、荷物を預かって帰ってきたのでした。
それからが大変です。
一人しかいない跡継ぎが出家してしまっては、国の一大事です。
浄飯王は重臣達を集めて緊急会議を開き、誰か探してくれるものはないかと言います。
その時、
「私に探させてください」
と言ったのが、「憍陳如」という重臣でした。
「では4人の家来をつけるから、くれぐれもよろしく頼む」
それが、
「阿説示(アッサジ)」、
「摩訶男」、
「婆提」、
「婆沙波」
の4人です。
この5人が後の五比丘です。
リーダーは憍陳如で、お釈迦様よりかなり年上でした。
2番目のアッサジはやがて「威儀第一」といわれるようになり、十大弟子の一人、「智慧第一」の舎利弗を、威儀正しい振る舞いによってお釈迦様のもとへ導いたことで有名です。
3番目の摩訶男は、十大弟子の一人、阿那律のお兄さんの摩訶男とは別人です。
五比丘が修行を始めた理由
この5人が全力をあげて捜索すると、ついにシッダルタ太子は約500キロ離れた苦行林で苦行をしていることが分かります。
ようやく苦行林にたどりついた5人が、
「シッダルタ太子、一体なぜそんなに幸せに恵まれているのに、浮世の楽しみを捨てて苦行なんかなさるんですか」
と尋ねると、
「お前らはまだ分からないのか。
この世は無常なんだ。
一日たてば一日年がいく。
いつ病気になるか分からない。
最後は必ず死んでいく。
まるで死ぬために生きているようなものではないか。
まだ分からないのか」
と一喝されます。
「これはダメだ。でも太子の言うことも確かに一理ある」
と思った憍陳如たちは、帰って浄飯王に報告したのでした。
そうなると、シッダルタ太子がなぜそんな決意をしているのか、
浄飯王には、まったく分からなかったのですが、浄飯王も親ですから、
決心が変わらないと分かると、
「太子はそれほどまでにかたく決心しているのか。
今まで、苦労知らずの生活をしてきた。
それが、苦行林の生活をするとなると、苦しいのではないか。
お前たち、面倒をみてもらえないか」
と言われます。
それで、憍陳如たちは、
「親というのは、有難いものだな。
親を裏切って出て行った子供にさえ、まだそのように思うのか。
浄飯王さまのためだ」
と、シッダルタ太子の世話係になって、苦行林に行きました。
シッダルタ太子が、
「お前らまた来たのか。
何回来てもだめだぞ」というと
「いえいえ、浄飯王からお世話を頼まれました」
と答えます。
「世話なんかされて苦行になるか」
「では一緒に修行させて頂きます」
こうして、5人はシッダルタ太子と一緒に苦行をすることになったのでした。
五比丘の誤解
シッダルタ太子の修行は極めて厳しく、命をかけての難行苦行でした。
五比丘もシッダルタ太子の無常観に共感していただけあって尊く、だんだん本気で悟りを目指して苦行に取り組むようになります。
ところがシッダルタ太子は6年間の苦行により、骨と皮ばかりになっても悟りは開けません。
太子は、苦行では悟りは開けないと知らされます。
そこで、シッダルタ太子は、ニレゼン河(尼蓮禅河)で沐浴をされます。
沐浴というのは水浴びですが、すでに壮絶な修行で体力を著しく消耗しており、岸に上がる力がなくなってしまいました。
そこへ通りかかったスジャータという美しい娘に乳がゆの布施を受け、体力を回復されると、菩提樹の下へ行かれ、
「我正覚を成ぜずんば、ついにこの座を立たじ」
と決死の覚悟で、座につかれたのでした。
ところが五比丘は、シッダルタ太子が沐浴されたことに驚きました。
修行者は沐浴してはいけないとされていたのです。
さらには女性を見てもいけないのに、女性から乳がゆをもらって食べた。5人は、
「きっと苦行の苦しさに耐えきれず、堕落してしまったに違いない」
と思い込みます。
「あんな堕落した者と一緒に修行していては、開ける悟りも開けなくなってしまう」
と5人で相談して、苦行林から波羅奈国の鹿野苑まで行ってしまいました。
現在の鹿野苑
苦行林のあったブッダガヤから約240キロありますので、日本でいうと、東京から浜松くらいの距離があります。
やがてお釈迦様が12月8日の明け方に、一見明星、豁然として仏のさとりを開かれると、まず慈悲の心を注がれたのが、これまで6年間、共に励まし合って、修行に打ち込んできた五比丘でした。
お釈迦様は五比丘が鹿野苑にいるのを知られると、自分は仏のさとりが開けたのに、まだ迷いの中にいる五比丘を哀れに思われ、五比丘のいる鹿野苑に向かわれました。
五比丘の反応
お釈迦様は、道の途中で二人の商人に出会ったので、話をしてお弟子になりました。
そして鹿野苑が見えてきます。
鹿野苑で修行していた五比丘は、遠くにお釈迦様の姿が見えると、
「向こうからやって来るのは、堕落したシッダルタではないか。
こっちへ来ても見るのも汚らわしいから、挨拶したり、言葉を交わしたりする必要はない。無視しよう」
と相談が決まりました。
ところがお釈迦様が近づいて来られると、ついこの間までとはまったく異なる威容を放っています。
その尊い空気はとても無視することはできず、あまりの尊さに、一人は
「世尊ー」
と言って、走って行ってひれ伏し、礼拝しました。
一人が走って行ったので、もう一人が見ると、思わず後を追いかけて行ってひれ伏し、お釈迦様の敷物を準備しました。
それをもう一人が見ると、また走って行って水をお持ちしました。
そうやって5人とも走って行ってひれ伏したのでした。
するとお釈迦様は、
「私はいま大宇宙の最高の仏のさとりを開いた。
輪廻の迷いを離れて、何の苦しみもない。
そなた方は、今から教えを受けて、さとりを開くがよい」
といわれます。
ところが五比丘は、体は勝手に動いてしまったものの、頭では相談の通りに、
「シッダルタよ、あなたは苦行を捨てておりながら、どうして私たちを導くことができよう」
と反論します。
「愚か者よ、そなた方は、仏を目の当たりにしながら、その清らかに澄みわたる仏の徳を感じられないのか。
そなた方は、4つの真理を知り、八正道によって、正しい道を進むがよい」
こうしてお釈迦様は、五比丘の心のえぐられるような四聖諦の説法をされたのでした。
これがお釈迦様の最初の説法で、「初転法輪」といわれます。
この初転法輪の説法を聞くうちに、憍陳如は心のまなこが開けます。
それを察知されたお釈迦様は、
「阿若・憍陳如」といわれました。
「阿若」というのは分かった、という意味です。
それ以来、憍陳如は「阿若・憍陳如」と呼ばれるようになりました。
こうして五比丘は全員お釈迦様のお弟子になり、仏宝、法宝、僧宝の三宝がそろって、仏教の初めての教団ができたのでした。
これはお釈迦様が仏のさとりを開かれた4カ月後の、4月14日のことでした。
その後の五比丘
それ以来、五比丘は、一番最初の正式な仏弟子として、仏教の教団が大きくなるにつれて、仏弟子の重鎮として重きを置かれるようになりました。
お釈迦様が55歳になられ、身の回りの世話をする人を求められた時、真っ先に立候補したのは、憍陳如でした。
ところがお釈迦様より年上なので、とても無理ということで、20歳の阿難が選ばれています。
また、お釈迦様が80歳でお亡くなりになり、今まで聞かせて頂いた教えをお経にする「結集」の場にも、憍陳如は出席しています。
阿難がお釈迦様の説かれた教えを正確に暗唱すると、憍陳如は、
「私はかつてこの教えによって、苦しみ迷いを離れ、生死の解決ができた」
と言って、感極まってぶっ倒れたといわれます。
そして、また阿難がまた次のお経を暗唱すると、また感極まって卒倒し、また阿難が次のお経を暗唱すると、感極まって気絶するというように、お経が暗唱される度にあまりの喜びにむせび泣いたといいます。
現在でも、仏教の教えによって救われた人は、仏教の話を聞いているあいだじゅう、
まったく同じ話でも、
「その通り、その通り」
と泣きながら聞かれることがあります。
自分を変わらない幸せに救ってくれた仏さまのご恩に、嬉し泣きせずにはおれないのです。
では、仏教に説かれる変わらない幸せとはどんな幸せなのか、どうすればその幸せになれるのかについては、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)