大迦葉(マハーカッサパ)とは?
大迦葉は、頭陀第一と讃えられ、釈尊十大弟子のお一人としても有名です。
釈迦の後継者と言われることもあり、特に禅宗では第二祖とされるほどです。
またお釈迦様は、大迦葉は未来、光明如来になるだろうと予言されました。
(出典:『法華経授記本第六』)
大迦葉にはすごいエピソードがたくさんあります。
一体どんな人だったのでしとょうか?
大迦葉(摩訶迦葉・マハーカッサパ)とは
大迦葉とは、どんな人なのでしょうか?
大迦葉は摩訶迦葉ともいわれますので、まず仏教の辞典を確認してみましょう。
摩訶迦葉
まかかしょう
サンスクリット語 Mahākāśyapa(パーリ語 Mahākassapa)に相当する音写。
マハーカーシヤパ。
<大迦葉>ともいい、単に<迦葉>ともいう。
仏十大弟子の一人で、頭陀(衣食住に関して少欲知足に徹した修行)第一といわれた。
王舎城近くの村の婆羅門の家に生まれた。
釈尊に帰依して8日目に阿羅漢果(最高の悟りの境地)に達した。
釈尊の信頼を得て仏衣を授かり、教団の長老にもなった。
釈尊の死後、処々で説法された教えを編纂するために500人の修行者を集めて彼が主幹となって編集会議(結集)を開いた。
このとき経典や戒律のテキストが成立した。
釈尊がこの摩訶迦葉に法を伝える契機になったという<拈華微笑>の故事は有名。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、大迦葉についてとても簡単に説明されていますので、
これがどういうことなのか、辞典では書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
大迦葉の生い立ち
大迦葉は、『仏本行集経』(大迦葉因縁品第四十七)によれば、マガダ国の首府、王舎城から程近くの摩訶波羅陀村の裕福なバラモンの家に一人息子として生まれました。
お父さんの名前をニグローダ・ゴーパ(尼拘律陀羯波)と言い、マガダ国のビンバシャラ王よりもお金持ちでしたが、ビンバシャラ王にねたまれないように、王より少し少なめにしていたといわれます。
大迦葉は、その大邸宅の庭のピッパラ(畢鉢羅)樹の下で生まれたのでピッパラヤナ(畢鉢羅耶那)と名づけられました。
光り輝くようなかわいい子供でした。
両親は、ピッパラヤナのために、抱いてあやす係、乳を与える係、遊び相手係、看護係の4人をつけて大切に育てます。
8歳になると、バラモンとしての決まりを教え、バラモン教の学問や、算術や文章、占い、音楽など、様々な技術を習わせたところ、生まれつき頭のよかったピッパラヤナは、すべてを身につけてしまいました。
ところがピッパラヤナは、成長するにつれて、世間の欲望を満たしても虚しいだけだと思い、出家して修行したいと思うようになります。
やがて結婚適齢期になると、両親は、ピッパラヤナに結婚を勧めます。
ピッパラヤナは、
「私は結婚よりも、煩悩を離れて道を求めたいと思います」
我、心に妻を娶り婦を畜うるを楽まず、我、意に願楽して梵行を修せんと欲す。
(漢文:我心不樂娶妻畜婦 我意願樂欲修梵行)(引用:『仏本行集経』)
と答えると、両親は、
「お前にはうちの財産を継いでもらわないといけない。
それに言い伝えでは、後継者がないと死んだ後は天上界に生まれられないと言われるじゃないか。
どうか、出家などしないで結婚してくれ」
と言って、譲りません。
大迦葉の嫁探し
困り果てたピッパラヤナは、思案の末、工匠に言いつけて黄金で美しい娘の像を作らせました。
それを両親に見せると、
「もしこのような光り輝く美しい娘がいれば結婚しましょう」
と言います。
今度は両親が困り果てていると、一人のバラモンが一計を案じ、
「私が探し出して見せましょう」
と言います。
そのバラモンは、黄金の美しい娘の像を飾り、
「願いごとのある少女がこの美しい神に祈れば、どんな願いもかなう」
といって各地をふれまわりました。
ところがさすがに黄金の娘以上の美女は現れません。
やがてそれほど遠くない迦毘羅迦という村にたどりついた時のことです。
そこに迦毘羅というバラモンがいて、ちょうど妙齢の妙賢という美しい娘がありました。
ある祭りの日に、友達に誘われて、妙賢が黄金の美しい娘の像を見に来ました。
その妙賢が、黄金の像の前に進み出ると、周りの人は息を飲みます。
妙賢の美しさの前には黄金の像も光を失ってしまったのでした。
それを見た嫁探しのバラモンは、迦毘羅のもとを訪ねて事情を説明し、妙賢をピッパラヤナの嫁にもらえないかと話します。
迦毘羅は、ピッパラヤナの家が本当に大富豪のバラモンなのか確かめてから返事をするといいます。
そして迦毘羅は、二人の息子に、ピッパラヤナの父親のニグローダ・ゴーパの家を調べに行かせました。
嫁探しのバラモンは、大急ぎでニグローダ・ゴーパにそれを伝えると、ニグローダ・ゴーパは数え切れないほどの牛の群れを途中の道に放しました。
そして、妙賢の兄弟がやってくると、手厚くもてなします。
兄弟が「この牛の群れはどなたのものですか?」
と尋ねると、
「これは、ニグローダ・ゴーパというバラモンの牛の群れです。
これから先、ニグローダ・ゴーパ様の家までこのような牛の群れが続きます」
と答えます。
兄弟は、その豊かさを思い知らされ、
「どれだけ大金持ちか分かったから、もう早く父に報告しよう」
とそこで帰ってしまいました。
結婚相手の美しさの確認
黄金の娘よりも美しい娘が見つかったとの知らせを聞いたピッパラヤナは驚きました。
まさかとは思いましたが、自分で言った手前、どうにもなりません。
「それでは私が自分の目で本当に黄金の娘以上に美しいか確かめて参ります」
と言って、托鉢しながら娘の村へ訪ねていきました。
ピッパラヤナが娘の家にたどり着き、布施を請うと、この村の習慣では、その家の女が食べ物を与えることになっていたので、妙賢がピッパラヤナの前に出てきました。
ピッパラヤナは一目見ると、この娘に違いないと思い、
「つかぬことを聞きますが、あなたはとてもいい娘さんですが、結婚はされないのですか?」
「はい、マガダ国のある村のバラモンから、息子のピッパラヤナの妻に欲しいと言われています」
「そうですか。しかし彼は、出家を望んでいるそうですが」
「本当ですか?それは嬉しいことです。
私も実は出家したいのですが、親に勝手に婚約させられてしまったんです」
「そうでしたか。実は私がピッパラヤナなんです」
こうして2人は、お互い共通の願いがあることが分かったので、親孝行のために形だけ結婚することにしました。
結婚生活
やがてニグローダ・ゴーパの家に花嫁がやってきた時には、天女のような美しさでしたが、新郎新婦は、指一本触れず、ましてや一緒に寝ることもありませんでした。
これを知った両親は、夫婦の寝室に一つしかベッドを置きません。
ところが、ピッパラヤナが寝ている時は、妙賢は室内を歩き回り、妙賢が寝ている時は、ピッパラヤナが室内を歩き回るというように、交互に床に就き、誓って枕を交わすことがありませんでした。
ある夜、妙賢が寝ている時に、室内を歩いていたピッパラヤナは、一匹の黒蛇がベッドの下にいるのを見つけました。
妙賢は、片手をベッドから垂らしています。
もし黒蛇に噛まれたら大変なことになるので、ピッパラヤナは、自分の手を衣服に包んで妻の手をベッドの上に乗せました。
黒蛇の、彼より過ぎんと欲し、跋陀羅の手の、既に垂下して懸れるを見、心に是の念を作す、「畏らくは、彼の黒蛇、其の手を蜇螫せん」と。
即ち衣にて手を裹み、跋陀羅の臂を擎げて、床上に安じぬ。
(漢文:見於黒蛇 欲從彼過 跋陀羅手 既垂下懸 心作是念 畏彼黒蛇蜇螫其手 即衣裹手 擎跋陀羅臂安床上)(引用:『仏本行集経』)
驚いて目を覚ました妙賢は、ピッパラヤナがどうして急に手に触れてくるのかと心配しましたが、事情を聞いて安心しました。
このように2人は、指一本触れずに、12年の歳月が経ちました。
その間に、両親とも他界し、ピッパラヤナは、家を継いでいたのでした。
大迦葉の出家の動機
ある日、妙賢は、ピッパラヤナに言われて、牛に飲ませる胡麻の油をたくさんの使用人に絞らせました。
彼等は命令通りに、たくさんの胡麻をさらすと、たくさんの虫が動いています。
使用人たちは、気味悪がって、ささやきます。
「こんなにたくさんの生き物を殺したら、どんな重い罪になるだろう。
でもこれは奥様の命令だから、私たちの罪ではなくて、奥様の罪になるだろう」
それを聞いた妙賢は、確かにそうだと思い、使用人たちに胡麻をしぼるのをやめさせて、部屋に閉じこもって物思いに耽りました。
ピッパラヤナは、いつものように田畑を見回っていると、小作人が牛を使って田畑を耕していました。
たくさんの生き物が踏まれたり、くわに潰されたりして死んでいます。
それを見たピッパラヤナは、
「私は生活に必要な分はもうあるのに、どうしてこんなにたくさんの生き物を苦しめなければならないのだろう。
生活に必要のないぜいたくのために、これだけの生き物を殺しているというのはなんと罪深いのだろうか」
こう思いながら家に帰ると、妻も暗い顔をしています。
お互いに理由を語り合うと、ピッパラヤナは、
「私はどうしても出家したい」
と妙賢に言います。
それは妙賢も結婚前から望むところでした。
これまでは両親への配慮で家業を継いでいましたが、今はもう何も心配することはありません。
ピッパラヤナは、自分の財産を調べて全部人に分け与えると、妙賢に
「私は今からいい先生を探しに行くが、そなたはしばらく家に残るがよい。
もしいい先生が見つかったら連絡するから、その時にそなたも出家しよう」
汝、今、且く住せよ。
我、まさに師を求むべし。
若し尋ね得已れば、まさに汝に告げ知らすべし。
汝、後時に家を捨てて出家せよ。
(漢文:汝今且住 我當求師 若尋得已 當告汝知 汝於後時 捨家出家)(引用:『仏本行集経』)
と言って、先に出家したのでした。
それはちょうど、お釈迦様が仏のさとりを開いた日であったといわれます。
この時からピッパラヤナは、迦葉族の出身だったので、「大迦葉」といわれるようになります。
お釈迦様との出会い
お釈迦様は仏のさとりを開かれた後、まず鹿野苑で五比丘を救い、ブッダガヤに戻られて、三迦葉とその弟子1000人を弟子にします。
それから王舎城へ赴かれ、ビンバシャラ王の帰依を受けて竹林精舎が建立されます。
やがて舎利弗、目連とその弟子250人が弟子入りしていました。
その間、大迦葉は師を探し求めて2年ほど各地をまわっていたのですが、やがて王舎城の竹林精舎にお釈迦様と1250人のお弟子が滞在していることを耳にします。
大迦葉が喜んで竹林精舎に向かいます。
お釈迦様もそれを察知されると、
「彼の過去の善は熟している。今から行って道に入らしめよう」
と言われ、竹林精舎を出て行かれました。
大迦葉が王舎城の近くの村までやってくると、ほこらの近くの樹の下にお釈迦様が座っておられました。
その尊い姿から、お釈迦様だと分かった大迦葉は、ひれ伏して礼拝し、
「世尊、どうかお弟子にしてください」
とお願いします。
快諾されたお釈迦様は、四聖諦、十二因縁などの基本的なところから順をおって説法をされ、それから8日目に大迦葉は悟りを開いたといわれます。
そのとき四禅八定等の修行を行ったことが説かれています。(出典:『仏本行集経』)
四禅八定など禅定については、こちらをお読みください。
➾禅定とは?禅定の意味とやり方(四禅八定)
妻の妙賢の出家
大迦葉は、いい先生が見つかったら連絡するという妻との約束を忘れてはいませんでしたが、最初は女性がお釈迦様のもとへ出家することはできませんでした。
妻の妙賢は、1年待っても2年待っても夫からの連絡がありません。
ついに妙賢は、自分で先生を探そうと思い、家を出て行ってしまいました。
やがてガンジス河のほとりで、裸形外道(ジャイナ教)のもとで出家をしたのでした。
大迦葉が出家してから約1年後、お釈迦様は故郷のカピラ城に赴かれたので大迦葉もついて行きました。
その間、お釈迦様のお父さんの浄飯王が亡くなり、祇園精舎に戻られると、阿難や阿那律、ダイバダッタなど、たくさんのカピラ城の王族が出家しました。
その後にお釈迦様の養母のマカハジャバダイ夫人も出家を希望し、初めて尼僧の教団ができました。
そこで大迦葉は、一刻も早く妙賢に伝えなければならないと思い、一人の尼僧に頼んで妙賢に連絡をとってもらいました。
すると、待ちに待った大迦葉の迎えに喜んだ妙賢は、仏教の教えを聞くと、身の毛もよだつほどのすばらしさに、すぐにジャイナ教を捨て、お釈迦様のもとへやってきました。
お釈迦様に出家を許されると、マカハジャバダイ夫人のもとで修行に励み、やがて悟りを開いたといわれます。
お釈迦様はこれを褒め称えられて
「女性の僧侶の中で、宿命を識ることにおいて妙賢の及ぶ者はいない、宿命第一である」
と言われました。
是の如き言を作したまう。
聲聞比丘尼の宿命を識る中にて、是の跋陀羅迦卑梨耶比丘尼を、最第一と為す。
(漢文:作如是言 是比丘尼 於聲聞比丘尼識宿命中 是跋陀羅迦卑梨耶比丘尼 最爲第一)(引用:『仏本行集経』)
「宿命を識る」とは、因果応報の道理に従って、自分の運命を諦観することです。
諦観の記事が参考になりますので、下記もあわせてお読みください。
➾諦める、諦観の意味。仏教で教える諦めて幸せになる方法
貧母を度す
また『摩訶迦葉度貧母経』には、大迦葉が托鉢をされていた頃のエピソードが教えられています。(出典:『佛説摩訶迦葉度貧母經』)
お釈迦様が祇園精舎で民人を教化されていた時、
大迦葉は一人王舎城に行って、托鉢を行いました。
大迦葉は托鉢をするにあたって、お金持ちの家には行かずに、常に貧しい家を選びました。
富める者も人生の目的を知らなければ哀れに思われますが、
日常生活すらできない人は、あまりにも貧しいため五欲の楽しみも受けられず、
仏法を聞いて布施をするという幸福も得られない。
大迦葉の慈悲心は、水の低きに流れるように、哀れな貧しい人々にこそ注がれたのでした。
その時、王舎城に極めて貧しい生活をおくる老婆がいました。
住む宿がないためゴミを集めて穴蔵のように造り、衣服にも困るほどで、さらに病気で死を待つのみでした。
老婆は、たまに長者の使用人が食べ残しの米汁を捨てに来るので、それを受け取り、飢えをしのいでいました。
ある日、大迦葉はこの老婆を訪れ、托鉢をし、布施をしないか尋ねます。
布施の功徳については、下記をお読みください。
➾布施とは?お布施の金額の相場や仏教の意味を分かりやすく解説
このように落ちぶれ果ててしまった老婆に会いに来る人は、これまでほとんどいなかったのでしょう。
老婆は驚き、病んだ身を起こし大迦葉を見て、独り言のように呟きました。
「私の身体は病に侵され、ゴミを家として、衣服も持たずに横になっている。国で最も貧しいのは私でしょう。この世に慈悲深い人はいないのでしょうか。私に施しをして貧しさや飢えを救ってくれる人は誰もいません。どうぞ哀れみお恵みください」
大迦葉はこれを聞き、このように諭しました。
「この世で尊く、慈悲深い人にお釈迦様以上の人はいません。あるいはお釈迦様の教えを聞いている人が尊いのです。
私は貧しさに苦しむあなたを救うために、食べ物を托鉢に来ました。あなたがもしわずかでも、自ら食べるものを減らして、私に施しをしたならば、その功徳であなた富める家に生まれられるであろう」
老婆は大迦葉の慈悲に感嘆はしたけれども、施せるものが一つもありません。
「尊い仰せは骨身に徹しますが、ご覧の通り浅ましい身で施せる食も衣服もございません」
老婆は悲しさで泣くばかりでした。
そこで大迦葉は次のように話されました。
「老婆よ、布施の心がある人は、貧しい人ではありません。慚愧の念(恥ずかしさや反省の心)がある人は、法衣を身に着けている人です。あなたはすでにこの2つを持っているのだから、決して貧乏ではないのですよ。
この世で、立派な衣服を着て、財産をたくさん持っていながら施さず、慚愧の念を持っていない人がいます。その人たちこそ極貧なのです。
あなたはもう貧しい人ではありませんよ」
老婆は、大迦葉から聞いた教えに触れて、躍り上がるように喜びました。
法の喜びがあふれ、汚い身も忘れて、残っていた米汁を大迦葉に布施をし、大迦葉はこの米汁を飲み干しました。
この数日後、老婆は亡くなったのですが、布施の功徳で楽しみの多い天上界に生まれることができました。
頭陀第一
大迦葉は、少欲知足で真面目に修行したので、やがて釈迦十大弟子に数えられるようになり、頭陀第一と讃えられるようになりました。
少欲知足、頭陀第一なるは、摩訶迦葉比丘これなり。
(漢文:少欲知足 頭陀第一 摩訶迦葉比丘是也)(引用:『仏本行集経』)
よくだぶだぶの袋を頭陀袋といいますが、頭陀は頭陀行という修行のことです。
頭陀行というのは、煩悩の塵や垢をふるい落とし、衣食住についての欲望を払い捨てて清らかに仏道修行に励むことをいいます。
そのための12種の実践があり、『十二頭陀経』によれば以下の12項目です。
- 人家を離れた静かな所で修行する
- 常に托鉢で食べ物を得る
- 托鉢するのに家の貧富を差別選択せず順番に乞う
- 1日1食
- 食べ過ぎない
- 正午を過ぎてからは飲食しない
- 人が捨てたボロで作った衣を着る
- 三衣といわれる袈裟、上着、下着以外は持たない
- 墓場に住む
- 樹の下に住む
- 空き地に座る
- 常に座して横にならない
この中でも特に托鉢を頭陀ということがあり、その時に首から下げて物を入れる袋を頭陀袋といいます。
この中の一つだけでもそう簡単にはできませんが、大迦葉はすべてを一生涯守り通したのです。
お釈迦様はしばしば他の弟子に、大迦葉の頭陀行をほめ讃えられました。
糞掃衣を捨てるよう勧められたときのこと
糞掃衣とは、不要になった布を集めて、重ね合わせて縫い綴った袈裟のことです。
これを着ることは頭陀行の一つでした。
『雑阿含経』に説かれる頭陀行に関するエピソードを紹介します。
長年、弛むことなく頭陀行を実践していた大迦葉をお釈迦様がご覧になり、ある時このように言われました。
「そなたも年を積み重ね、元気も失せているようである。常につけている糞掃衣は、重く立ち居に不便を覚えるだろう。これから先は、諸々の頭陀行をやめ、長者が供養した軽い衣を着なさい。身を休め、疲れを癒やして、静かに老いた身体を養うとよい」
お釈迦様のお許しを慰労と受け取りましたが、大迦葉は受けませんでした。
「お釈迦様、私は数々の頭陀の行を修めることを自らの楽しみとしています。この重い衣を身に着け、一日一食で、空き地や墓場で静寂さを楽しむことが、私の願いです。
私が年老いてでも修行を続ける理由は、一つには私の楽しみであり、もう一つは後世の人々に私のように道を修めてほしいと願うためであります」
と申し上げたところ、
「迦葉よ、そなたは後の世の人々の燈火である。多くの人々が幸せになるだろう。それならばそなたの願いのままに、静かに修行を続けなさい。そして私に会いたいと思う時は、いつでも私のところに会いにきなさい」
と仰せられました。
このエピソードからは、大迦葉が、頭陀第一と言われる理由が分かるとともに、お釈迦様と大迦葉の慈悲深く、温かい師弟関係が伝わってきます。
お釈迦様の座を分けられる
『雑阿含経』によれば、お釈迦様が祇園精舎におられる時、大迦葉が頭陀行から帰ってくると、新しい弟子で、大迦葉を知らない人がありました。
大迦葉のボロボロの姿を見て、見下します。
「あのボロボロのさえない者は誰だ?」
とささやく声が聞こえると、お釈迦様は座を半分に分けられて
「大迦葉よ、よく来た。ここに座るがよい」
と言われます。
周りの仏弟子たちからどよめきが起こる中、大迦葉は
「畏れ多いことでございます。私は末席において頂ければ十分有り難く思います」
と辞退します。
その時お釈迦様は、大迦葉の徳の高さをほめられて、悟りとはどんなものかを教えられたといわれます。
拈華微笑
霊鷲山の先端
お釈迦様が霊鷲山におられた時、金波羅華という一本の花を持って説法に立たれました。
ところが一向に話をされず、つまんでおられる花をひとひねりされました。
集まった人々は、誰もその意味が分かりません。
その中で、大迦葉だけがその心を分かり、にっこり微笑みました。
これを拈華微笑といわれます。
このことから禅宗では、悟りは最後は言葉を使わずに、心と心で伝えるものとしています。
これを「以心伝心」といわれます。
こうして禅宗では、お釈迦様から悟りを受け継がれた大迦葉を禅宗の第二祖としています。
禅宗については、こちらもご覧ください。
➾禅宗とは?総本山・開祖と教えの特徴を簡単に分かりやすく解説
仏典結集
お釈迦様が亡くなられた時、大迦葉はたくさんの修行僧を率いてお釈迦様のもとへ向かっている途中でした。
すれ違う旅人が、美しい花を持ってやってくるので、呼び止めて尋ねます。
「あなたは私たちの先生のお釈迦様をご存じですか?」
「ああその方なら、7日前に涅槃に入られました。
この花はそこへ集まって来た人からもらったものです」
それを聞いた大迦葉は悲しみのあまり卒倒しましたが、やがて起き上がると、急いでお釈迦様の元へ駆けつけます。
お釈迦様の元では、阿難尊者をはじめとして、お弟子たちが亡骸を火葬しようとしていましたが、7日間燃え上がらず、大迦葉が到着して初めて燃え上がったのでした。
お釈迦様が亡くなられて7日目のこと、
ある僧侶が、
「みなさんそんなに悲しまれるな。
今まではあれしちゃいけない、これしちゃいけないと色々言われて大変だったが、これからは好きなようにできるではありませんか」
と言っているのが聞こえてきました。
それを聞いた大迦葉は、大変な危機感を覚えます。
「お釈迦様がお亡くなりになってすぐにこれでは、仏教の教えは消えてなくなってしまうかもしれない。
早くお釈迦様の説かれた教えや定められた戒律を確かめ合っておいたほうがいい」
こうして長老達に呼びかけて、お釈迦様の教えをまとめ、確かめる結集という会議が設けられることになりました。
お釈迦様が亡くなられて約3カ月後、王舎城のアジャセ王に後援してもらい、500人の長老が集まって、結集の会議が開かれます。
そしてまず十大弟子の一人、ウパーリが戒律を暗唱し、それを他の長老達が間違いないと承認します。
それから同じく十大弟子の一人、阿難尊者がお経を暗唱し、それを長老達が満場一致で間違いないと承認したものだけがお経として残されました。
こうして、人類の光となる仏教の教えが、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経となって残されたのでした。
経典に書き残された本当の幸せ
今回の記事では、大迦葉の一生を通して、大迦葉はどのようなお弟子だったのか、詳しく解説しました。
生まれた時から本当の幸福を求め、師にであった喜び、頭陀第一と言われるほど真面目に修行に取り組まれる姿、お釈迦様との信頼関係など、たくさんのエピソードが伝えられています。
お釈迦様がお亡くなりになった後は、大迦葉が座長となり開かれた経典の編纂会議によって、今日までお釈迦様の教えが伝わっています。
その経典には、私たちを本当の幸せにする教えが書き残されています。
ではその本当の幸せとはどんなもので、どうすれば本当の幸せになれるのか、ということについては、
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)