舎利弗(シャーリプトラ)とは?
「舎利弗」は、シャーリプトラとか、サーリプッタともいわれる
釈迦十大弟子の一人です。
日本の名字で舎利弗と書くと「とどろき」さんと読む場合があります。
これは、舎利弗の説法がとどろいたことから当てられた当て字です。
舎利弗は「智慧第一」といわれて、色々なお経に登場し、
『阿弥陀経』では「しゃーりーほー」と36回お釈迦様が呼びかけられ、
『般若心経』では、舎利子という名前で登場しています。
また『法華経』の前半の中心である方便品では、舎利弗に対して
諸法実相を説かれています。
舎利弗は、目連と並んで釈迦二大弟子とまでいわれますが、
断片的に名前が知られているだけで、なぜ出家したのか、
どんな人生を送り、どのように生涯を閉じたのかは意外と知られていません。
一体どんなお弟子だったのでしょうか?
舎利弗とは
舎利弗とは、どんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
舎利弗
しゃりほつ
サンスクリット語 Śāriputra(パーリ語 Sāriputta)に相当する音写。
シャーリプトラ。
<舎利子><鶖鷺子>などともいう。
婆羅門の出身。
舎利弗の名は母シャーリの子(プトラ)という意味。
王舎城近くのウパティッサ村に生まれたので、ウパティッサという名もある。
懐疑論者サンジャヤ(Sañjaya)の弟子であったが、目連と一緒に釈尊に帰依し、サンジャヤの弟子250人を引き連れて集団改宗した。
釈尊の実子羅睺羅の後見人でもある。
至る所で釈尊の代わりに説法できるほど信任が厚く、多くの弟子を擁した。
釈尊より年長で先に世を去った。
智慧第一の弟子として知られる。
仏十大弟子の一人。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
この辞典では舎利弗についてとても簡単に説明されていますので、辞典では書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
舎利弗の家系
舎利弗のお祖父さんは、摩吒羅と言って、マガダ国の首都・王舎城の近くの村に住んでいた論議の得意なバラモン(婆羅門)でした。
当時のマガダ国は、新しく王位についたビンバシャラ王が、周囲の国を打ち破り、日の出の勢いでした。
ある時、南の国のバラモンの挑戦者が論議をしにきたので、王様の前で討論を行いました。
その時舎利弗のお祖父さんが勝ったので、ビンバシャラ王は、褒美に一つの村を与えました。
そこで妻を迎えて、一男一女を生みました。お兄さんに倶絺羅、妹に舎利と名づけました。
(お兄さんの倶絺羅は舎利弗の叔父で、『阿弥陀経』の最初に「摩訶倶絺羅」として登場しています)
2人とも頭がよく、論議が得意でしたが、舎利はお兄さんの倶絺羅を凌いだといいます。
やがてまた南のほうから、底沙というバラモンが王舎城に論議の挑戦に来ました。
摩吒羅が選ばれて迎え撃ちましたが、今度は負けてしまいます。
王様は村を取り上げて、底沙に与えましたが、底沙は謙虚に辞退して、摩吒羅に返しました。
そこで娘の舎利が底沙と結婚することになり、一緒に暮らすことになりました。
ところがお兄さんの倶絺羅は、自分が父に代わって、底沙を打ち破ることのできない力不足を嘆き、南の方に留学するために出て行ってしまいました。
その後、底沙と舎利は摩吒羅と3人で仲良く暮らしたのでした。
舎利弗の誕生
その底沙と舎利のもとに生まれたのが舎利弗でした。
名前を優波低須と言います。
舎利弗というのは、舎利子ともいって、舎利の子供という意味です。
兄弟は7人か8人いて、全員舎利弗ですが、ずば抜けて明晰な頭脳を持っていたのが、優波低須でした。
論議に優れ、博識な両親のもと、小さい頃からバラモン教のヴェーダを暗唱したり、各種の英才教育を受けました。
9才で先生につきましたが、16才ではもう学ぶことがなくなり、名声は四方に聞こえました。
体格も立派で鼻筋が通り、肌の色は、インドの人たちのあこがれの黄金色で、性格も良く、何一つも欠け目がありませんでした。
普通なら、すばらしい青年なので、華やかな青春時代を過ごすはずでしたが、舎利弗は、そんなあっという間に終わってしまう一時的な幸せを、虚しいと感じていました。
欲望を満たす浮世の楽しみしか求めるものはないのかと、常々考えていたのです。
舎利弗には、隣村に住む、一人の親友がありました。
ちょうど年も才覚も家柄も同じくらいで、非常に気があったので、共に語り、学び、遊んでいるうちに、いつしか親友になっていました。
それが、後の釈迦十大弟子の一人、目連でした。
舎利弗の出家
ある時、王舎城の近くの山で、盛大な祭りが行われました。
ビンバシャラ王の子供のアジャセ太子も臣下と共に踊りを見に来たほどの大きな催しでした。
そこで舎利弗と目連の2人も、
「どんなものか、一回行ってみよう」
と来てみると、たくさんの人が集まって、喜び、戯れています。
みんなが楽しそうにしているのを見ていると、舎利弗には
「あの人たちって何がそんなに楽しいんだろうな」
と思えてきてきます。
やがて、「歓楽極まりて哀情多し」といわれるような、強烈な虚しさを感じてその場にいたたまれなくなり、舎利弗は誰もいない森へ入って行きました。
祭りの喧噪を離れて、静かな森にいると、心も落ち着いてきました。
「あの人々は儚い幸せを求めて歌ったり、踊ったりして夢中になっている。
まるで酒に酔っている間だけ、苦しみを忘れているようなもので、また明日になればすぐ現実に戻ってしまう。
そしてもう100年もすれば、誰一人この世にいないのだ。
それは他人事ではない、自分もこんな人生を送っていたら、あっという間に酔生夢死してしまう。
一体人は何のために生きるのか」
とつぶやいていると、後から目連が追いかけてきて、
「おれも同じ虚しさを感じていた」
と言います。
人々が楽しんでいる姿を鏡として自分の姿を知らされた2人は、語り合ううちに、一緒に出家する約束を交わしたのでした。
家に帰って両親に話をすると、大反対されて、出家を許してもらえませんでした。
それでも出家したいと思った舎利弗は、7日間断食して、ついに出家したのでした。
舎利弗と目連は、当時、六師外道といわれた6つの教えをすべて聞いた上で、その中の一人、サンジャヤ(刪闍耶毘羅胝子)という思想家の弟子になりました。
その教えは過去の業はどうにもならないから、それによる苦しみを受け尽くせば、おのずと悟りが開けるという苦行主義を基本として、分からないことは考えない主義です。
ところが2人はわずか一週間でサンジャヤの教えを体得し、サンジャヤの弟子250人を預かる教授に任命され、数年間をこの教団で過ごすことになったのでした。
仏教との出会い
舎利弗と目連は、自分たちで見つけた当時最高の先生の教えを習得したはずだったのですが、心からの安心も満足も得られません。
「今の先生は迷いの解決までは教えられていないから、もし迷いの解決を教える先生があれば、お互いに教えあおう」
と普段から約束していました。
ある朝、舎利弗が王舎城の町を歩いていると、向こうの方に、一人の僧侶が厳かな雰囲気で歩いて行くのが見えました。
そこには何か崇高な空気が流れています。
「どなたか高徳な先生かもしれない」
と思った舎利弗は、その僧侶を追いかけて行きました。
当時の王舎城は天下太平で、人々は欲望を追い求めて浮かれた雰囲気が漂っていたので、その僧侶の清らかな空気は際立っていました。
ようやく追いついた舎利弗は、尋ねます。
「少々お待ち下さい。あなたからは大変尊い空気を感じますが、お名前は何といわれるのでしょうか」
「私はブッダの弟子のアッサジと申す者です」
と答えます。
それは、お釈迦様の最初の5人の弟子である五比丘の一人、アッサジでした。
「私はあっという間の人生に虚しさを感じ、迷いの解決を求めているのですが、未だに解決できません。
もし迷いの解決をご存じでしたら教えて頂けないでしょうか」
その時、アッサジが説いたのは、『仏本行集経』によれば、このような言葉でした。
諸法は因より生じ、諸法は因より滅す
生と滅とかくのごとし。沙門はかくの如く説き給う。
(漢文:諸法從因 諸法從因滅 如是滅與生 沙門説如是)(引用:『仏本行集経』)
これは、すべての結果には必ず原因がある。
原因がなくなれば結果もなくなる、
すべてはこのようにできているとお釈迦様は説かれている
という意味です。
これは仏教の根幹の因果の道理ですが、これを聞いた舎利弗は、衝撃を受けました。
「この方の言われる通りだ。
今まで学んできたことは、間違いだった。
この方の先生の教えられていることが真理だ」
今までのわだかまりが晴れわたり、
「これは目連にも教えなければならない」
と思った舎利弗は、アッサジにお礼を言って、喜び勇んで目連のもとへ戻りました。
目連は、舎利弗が晴れ晴れとした顔で、別人のようになっているのに驚いて、
「どうした舎利弗?何かいいことでもあったのか?」
と尋ねると、アッサジに聞いた因果の道理を話すと、目連も顔色がみるみる変わり、目が輝いて、喜びに震え始めました。
「それをどこで聞いたんだ、舎利弗?」
「今朝、王舎城の町で出会った僧侶から聞いた。ついに本物の先生を見つけたぞ」
「まったくその通りだ」
2人は、もうじっとしていられず、さっそくサンジャヤの所へ行って、
「これまでお世話になりました」
と丁寧にお礼を言うと、ブッダのもとへ向かいました。
ところが、それを聞いたサンジャヤの弟子250人も、舎利弗と目連の後を追ったので、サンジャヤは血を吐いて倒れたといいます。
お釈迦様のおられる竹林精舎についた舎利弗は、アッサジに案内してもらい、お釈迦様から戒律を受けてお弟子となりました。
これは、お釈迦様が35才で仏のさとりを開かれた翌年のことで、舎利弗は20代後半だったようです。
祇園精舎の建立
舎利弗が仏教を求めるようになって、1年余りが経ったときのことです。
お釈迦様が仏のさとりを開かれて3年目に、コーサラ国の舎衛城の、給孤独長者がお布施して、祇園精舎を建立することになりました。
その時、祇園精舎建立の監督に任命されたのが舎利弗です。
舎利弗は、給孤独長者と共に、コーサラ国に赴いて、適切な土地を探すところから始めました。
すでに王舎城では、王様が仏教に帰依していましたが、コーサラ国にはほとんど信者はありません。
周り中バラモン教の人ばかりです。
そんな中、やがて最も適切な候補地として祇多太子の樹林を発見し、莫大な金額で購入して、王様の許しを得て、建立にとりかかろうとしたところ、予想通り、バラモン教の人々の反対が起きました。
バラモン教の人たちの立場からすれば、今まで自分たちのスポンサーだった給孤独長者が、莫大なお金を使って新興宗教の建物を建立するというのです。給孤独長者のところへやってきて
「そんな建物を建ててはならん」
と非難します。ところが長者は
「そんなことはあなたがたの言うことではありません。私の自由です。もう王様の許可も得ました」
というので、王様のところへ行きますが、相手にされません。
そこでまた長者のところへやってきて、
「聞く所によると、釈迦の弟子が一緒に来ているそうじゃないか。
そいつと私たちと論議して、もし私たちが負けたら寺を建ててもいいが、私たちが勝ったら中止すると約束せよ」
と言ってきました。それを聞いた長者は、
「えっ?舎利弗さまと論議したいの?それはいい。
どうぞどうぞ、そうしましょう」
と喜んで承諾しました。
7日後、たくさんの人々の面前に2つの席が設けられ、仏教対バラモン教の公式な論議の試合が開かれました。
舎利弗に対するのは、舎衛国のバラモンの中でも最も弁の立つ、赤眼という人でした。
試合が始まると、バラモンの質問に対して、舎利弗は理路整然と答え、最後には赤眼は舎利弗の弟子になってしまったといいます。見ていたバラモンたちはあっけにとられ、観客たちは舎利弗の威徳に圧倒されました。
その時、舎利弗は、その場にいた人々に対して説法し、たくさんの人が仏教に帰依したといわれます。
バラモン達は、もう論議で勝つ見込みもなくなってしまったため、舎利弗の暗殺を企てます。
暗殺者を職人として建設工事現場に忍び込ませ、現場監督をしている舎利弗を襲わせたのです。
ところが、暗殺者がチャンスを窺っていると、舎利弗の現場監督をしている時の慈悲深さに打たれ、やがて弟子になってしまいました。
こうして、幾多の苦難を乗り越えて、祇園精舎は建立され、お釈迦様が初めて舎衛城で仏教を説かれたのでした。
給孤独長者は大変喜び、舎利弗の弟子になったといいます。
お釈迦様の高弟に
こうして舎利弗は、仏教に帰依してからもめきめきと頭角を現し、教団の内外で活躍します。
例えば舎利弗は、智慧が明らかだっただけでなく、行いもよかったために、お弟子のお手本ともされました。
例えば『増一阿含経』に、子供が出家して仏教を学びたいと思うなら、常に舎利弗や目連のようでなければならないと説かれています。
実際、お釈迦様が仏のさとりを開かれて5年目に、お釈迦様の子供のラーフラ(羅睺羅)が出家したのですが、その時、ラーフラの指導係に任命されたのが舎利弗でした。
その指導力もお釈迦様から信頼されていたのです。
ある時、お釈迦様が祇園精舎におられた時、阿難尊者に対して、
「阿難よ、そなたは舎利弗の説法を聞くのをこのむか」
と尋ねられました。
「お釈迦様、いやしくも智慧のある者は、誰でも舎利弗尊者の説法を喜びます。
舎利弗尊者は少欲知足で高い徳を備え、あらゆる智慧を成就しています。
常に仏法を讃嘆し、多くの人を導いて、休むことがありません」
お釈迦様は、
「阿難よ、その通りだ」
といわれて、阿難と夜がふけるまで、舎利弗の徳をたたえ合ったといわれます。
こうしてお釈迦様は、ご説法の後に舎利弗にそれを詳しく解説させることがよくありました。
『中阿含経』には、お釈迦様が
「舎利弗は、実の智慧を備えている。なぜなら、私が四聖諦を略説すれば、舎利弗は、他のために広くこれを説きあらわす」
といわれています。
また『増一阿含経』には、
「智慧きわまりなく、もろもろの疑いを決する」のが舎利弗である、と説かれています。
このように舎利弗は、お釈迦様の片腕となり、十大弟子の一人、智慧第一の舎利弗といわれるようになったのです。
舎利弗の最期
こうして舎利弗は、40年以上、お釈迦様に従って仏教を伝え、後進の指導にあったのですが、お釈迦様が80才になられた時、70代になった舎利弗も、病気にかかってしまいました。
自ら死期を自覚した舎利弗は、お母さんの舎利を思い出しました。
「母上はいまだ仏法を知らず、余生を過ごしている。
最後に母にも仏法を伝えて、自分の生まれた部屋で死にたい」
こう思った舎利弗は、王舎城の竹林精舎におられたお釈迦様の許しを得て、
聞き難い仏法を聞かせて頂いた洪恩に深く感謝して、合掌礼拝すると、生まれ故郷の村に向かいました。
たくさんの僧侶が別れを惜しんでついてくるので、舎利弗は、振り返ると
「そんなにたくさんの供は要らぬ、一人で十分である。
人身は受け難く、仏法は聞き難し。
諸行は無常であるから、そなた方は直ちに帰って修行せよ」
みんなは涙ながらに後ろ姿を見送るのでした。
こうして舎利弗は、弟子を一人だけ連れて、生まれ故郷の村へ向かったのでした。
夕方、村はずれにつくと甥に出会ったので、
「ばあちゃんはいるか?」と聞くと、
「ああ、いるよ」と言います。
「それなら舎利弗がもうすぐ帰るから、私が生まれた部屋を清めて欲しいと伝えてくれ」
甥が急いで帰って伝えると、舎利弗の母親は大いに喜び
「あの子は若い頃に出家したから、ようやく還俗して帰ってきたんだね」
と部屋を清めて待っていました。
薄暗くなった頃、舎利弗が家に帰ると、急に容態が悪くなって、器にあふれるほどのおびただしい血を吐き、自分の部屋に倒れ込みました。
これを見た母親が、茫然としていると、光り輝く人々がどこからともなくやってきて、舎利弗を介抱し始めます。
一人だけついてきた舎利弗の弟子に、
「この人たちは何者だい?」
とお母さんが尋ねると、
「梵天や帝釈などのたくさんの神々が師匠を看護するために現れたのです」
と答えるので、たくさんの神々に護られている我が子の威徳に驚きました。
舎利弗は、今こそ仏法を説く時だと感知し、母親に対して夜明けまで最後の説法をしたのでした。
それを聞いたお母さんは、
「そなたはなぜこんな尊い教えを今まで教えてくれなかったんだえ?」
と法悦にむせんだのでした。
「私はようやく母の恩に報いることができた。
母上、今は私をこの部屋に一人にしてください」
こうして激しい病苦に襲われ、やがて動かなくなったのでした。
お母さんは動かなくなった舎利弗をじっと見つめて、別れを悲しんだといいます。
こうして舎利弗は、生涯を仏教を広めることに捧げたのでした。
舎利弗はなぜ独立しなかったのか?
ある時舎利弗が祇園精舎でお釈迦様のご説法を聞き、喜びにひたりながら帰る途中、知り合いの拝火教徒に会いました。
「よお舎利弗、これからどこへ行くんだ?」
「今日はお釈迦様のご説法を聞いて、今帰る途中だ」
それを聞いて冷ややかに笑いながら
「お前はまだ師匠から乳離れできないのか。
おれはもうとっくに師匠から離れて独立したぞ」
拝火教徒は、独立したことを誇りとして、いまだに先生の教えを聞いている舎利弗をさげすんだのでした。
それを聞いた舎利弗は即座に答えます。
「そなたの奉ずる教えはよこしまではないか。
だからいち早く師匠の教えを捨てるのである。
なぜよこしまな教えを説くかというと、そなたの師匠は正しいさとりを開いた者ではないからだ。
だから師匠を捨てたのだ。
しかる私の聞いている教えは本当の幸せへ導く正しい教えである。
そして師は、正しいさとり、正覚を開かれている。
だからその底知れない深い教えは、どれだけ味わっても飽きることはないのである」
これを聞いた拝火教徒は、感嘆して別れたといいます。
このように、舎利弗が一生を捧げた仏教には、すべての人が本当の幸せになれる道が教えられています。
ではその本当の幸せとはどんな幸せなのか、どうすればその幸せになれるのかについては、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)