耶輸陀羅(ヤショーダラー)姫とは?
「耶輸陀羅」は、ヤショーダラーとも言われ、お釈迦様が出家する前、シッダルタ太子と言われていた時の奧さんです。
インド一の美人だったといわれますが、やがてシッダルタ太子は出家してしまいます。
残された耶輸陀羅は、幸せだったのでしょうか?
耶輸陀羅姫とは
耶輸陀羅姫とはどんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
耶輸陀羅
やしゅだら
サンスクリット語 Yaśodharā(パーリ語 Yasodharā)に相当する音写。
ヤショーダラー。
釈尊出家前の妃、羅睺羅の母。
古い経典には仏陀の妃のことはほとんど伝えられておらず、妃の名をあげ、それにまつわる伝説を語るのは比較的後代に成った経典である。
妃の名としては他にバッダカッチャー(Bhaddakaccā)、ゴーパー(Gopā)などがあるが、ヤショーダラーが最も広く知られた名である。
釈尊が女性の出家を許したとき、彼女も他の釈迦族の女性とともに比丘尼となったと伝える経典もある。
その出生については種々の説があるが、仏陀の従妹とするものが多い。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、耶輸陀羅姫はお釈迦様の奧さんです。
ですが、これではとても簡単に説明され、分からない所も多くありますので、
辞典では書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
耶輸陀羅姫とシッダルタ太子との出会い
耶輸陀羅は、シッダルタ太子と同じ釈迦族です。
拘利城主の善覚王の娘として生まれました。
シッダルタ太子と同じ年だったといわれます。
一節には、ダイバダッタも善覚王の子で、耶輸陀羅はダイバダッタの妹だったといわれますが、あまり一般的ではありません。
幼い頃から非常に美しく、成長すると気立てもいい美貌の姫になりました。
『仏本行集経』によれば、シッダルタ太子のお父さんの浄飯王が、太子の妃を選ぶ時に、親が勝手に決めた相手とは結婚しないだろうと思い、本人に選ばせることにしました。そこで国中に
「今日から7日の間、シッダルタ太子が国中の娘たちに会い、金銀をちりばめた宝を与えるから、みんな来るように」
とおふれを出します。
それを聞いた国中の娘達は「これはチャンス!」と、精一杯着飾ってお城へやってきます。
ところがどの娘も、太子の前に出ると、あまりの王子の気品と神々しい輝きに、とても目を合わせられず、うつむいて顔を赤らめて宝をもらうと、そそくさと帰っていくのでした。
そんな娘達に対してシッダルタ太子は、笑顔は見せながらもただ機械的に、ベルトコンベアーのように宝を渡していくだけで、あっという間に7日目の夕方を迎えます。
その様子を見ていた周りの人たちも、シッダルタ太子が国中のどの娘にも何の反応も見せないので、すっかり困っていました。
最後の宝を渡して、もう城門が閉まろうとしていた時、たくさんの侍女に囲まれた娘が入って来ました。
まるで前から知っていたかのように、シッダルタ太子の前までやってくると、まっすぐと目を見て優しく言います。
「王子さま、私にも宝をくださいませ」
今までの娘とは違う振る舞いに、シッダルタ太子は興味を持って
「そなた、名は何という?」と尋ねます。
「はい、耶輸陀羅と申します」
「そうか、そなたは少し遅かった。宝はもうみんな与えてしまった」
すると耶輸陀羅は、
「えっ?言われた通り、期間内にやってきたのに、宝は頂けないのですか?
私にどんな過ちがあるというのでしょう」
「いやいや、私は嘘は言わないから、この指輪を与えよう」
シッダルタ太子は、自分がしていた指輪を外して差し出します。
ところが耶輸陀羅は
「他の人にはあんなに宝をあげていたのに、私はこの小さな指輪程度のものなのでしょうか」
とニコリとします。
「そんなことはない。それなら他のアクセサリーも好きなようにとるがよい」
すると意外なことを言います。
「私は王子さまの飾りをはぎとることなどできません。
王子さまを飾って差し上げようと思っているのです」
こうしてシッダルタ太子は、最後にやってきた娘と初めてやりとりしたのでした。
耶輸陀羅姫を思うお父さんの気持ち
ところがそれを周りで見ていた人たちは、浄飯王に報告します。
「王様、大変です。
王子さまは、最後にやってきた娘と会話しておられました。
お互いに見つめ合って、たまに微笑んでおられたようにも見えます。
最後は二人で一緒に笑い合っていました」
それを聞いた浄飯王は、さっそく耶輸陀羅のお父さんに国師のバラモンを使いにやります。
王の勅使が、王子の妃に耶輸陀羅を迎えたいという浄飯王の意向を伝えると、なんとお父さんは難色を示します。
「釈迦族の掟では、技能が誰にも負けない人には喜んで娘を与えることになっています。
しかし、シッダルタ太子は、宮廷の奥深くで遊んで暮らされていると聞きます。
とても学問や武芸どころではありますまい。
うちのかわいい娘は、そういう無能な者にはとても嫁にやれません」
国師が帰ってその言葉を報告すると、浄飯王は大きなショックを受け、深く悩み始めてしまいました。
相手の言うことは最もなことなので、浄飯王は顔色を失い、部屋の隅で座って、「どうしよう」と物思いにふけり続けます。
心配したシッダルタ太子が
「お父さん、どうなさったのですか?」
と尋ねても、
「これは大人の問題だ。子供が聞くものではない」
と教えてくれません。
浄飯王が、毎日暗い顔で何かを考え続けているので、シッダルタ太子が気遣って何度も尋ねると、苦しみに耐えかねた浄飯王は、ようやく口を開いて、
「耶輸陀羅姫のお父さんが無能な奴に娘はやらんと言っている」
と悩みを打ち明けます。
それを聞いたシッダルタ太子は、何とかお父さんを慰めようと、
「そしたらお父さん、全国競技大会を開いてもらえれば、私も出ましょうか?」
と言います。
その言葉を聞いた瞬間、浄飯王の顔はパッと明るくなり、もう大喜びです。
「何?本当か。お前、相撲とかできるのか」
「ええ、まあ、それ位ならできなくもないですよ」
浄飯王は躍りながら、
「よーし、今から全国競技大会を開く。
すぐに準備をせよ」
と部下に命じたのでした。
耶輸陀羅姫との結婚をかけた争奪戦
こうして浄飯王は、釈迦族の慣例に従って、全国競技大会を開きました。
その優勝者が耶輸陀羅と結婚するというものです。
当時のインドでは、バラモン階級の人は親が決めた人と結婚することになっていましたが、王族の場合は、婿選びの儀式である「スヴァヤンバラ」を開くことがありました。
これは、挑戦者に無理難題を出して、それをクリアした人の中から、女性が結婚相手を選ぶというものです。
今回の浄飯王の企画も、その一種でした。
そこには王族の青年が集まり、シッダルタ太子もダイバダッタも参加しています。
競技内容は色々あり、学問も武芸もたくさんの技が競われました。
どんな競技で比べても、シッダルタ太子にかなう人は誰もいませんでしたが、その中で、ダイバダッタだけがシッダルタ太子のライバルでした。
その2人がやがて、弓術で直接対決します。
まずダイバダッタが400メートル離れた的を射貫きます。
これは、ゴルフのホールインワンのようなもので、対戦者は普通もう諦めます。
ところが次に弓をとったシッダルタ太子は、1キロ離れた的を射貫きます。
シッダルタ太子の人間離れした弓術に、ダイバダッタは到底かないませんでした。
ダイバダッタは勝ったと思ったのに負けてしまい、非常に悔しがったのですが、やがて組み手でシッダルタ太子と直接対決となります。
試合が始まると、ダイバダッタはここぞとばかりにシッダルタ太子に突進します。
シッダルタ太子はその猛烈な勢いを片手で吸収すると、ダイバダッタを持ち上げ、投げ飛ばしてしまいました。
こうして、シッダルタ太子が競技大会で優勝を飾り、耶輸陀羅姫は、シッダルタ太子と結婚することになったのです。
ところが、耶輸陀羅姫のお父さんの善覚王は、それでも結婚に反対します。
シッダルタ太子は冷めているので、もし出家でもしたら、耶輸陀羅姫が苦しむのではないかと思ったのです。
しかしながらもう競技大会で優勝が決まり、浄飯王が熱心にたのむのと、耶輸陀羅姫もシッダルタ太子と結婚したいというので善覚王はついに結婚を許したのでした。
シッダルタ太子との結婚生活
シッダルタ太子と結婚すると、憂鬱な雰囲気はなく、明るくて頼りになる上に愛情が深く、耶輸陀羅はカピラ城という浄飯王の城で、愛情に包まれた幸せな結婚生活を送りました。
ところが、シッダルタ太子は何か考え事をすることが多くなり、
「やっぱり出家してしまうのかもしれない」
という不安がだんだん強くなってきます。
やがて子供が生まれると、シッダルタ太子は、
「ラーフラが生まれた」
と言ったので、浄飯王は子供をラーフラ(羅睺羅)と名づけました。
そして、結婚してから10年目のある朝、起きるとシッダルタ太子はいなくなっており、カピラ城は大騒ぎになります。
心配した通り、ついにシッダルタ太子は浮世の楽しみを捨て、出家してしまったのでした。
これでは耶輸陀羅姫からすれば、夫に捨てられた形になります。
普通に考えると、悲惨なできごとです。
現代では、これを茶化して蒸発亭主第一号などと言っている僧侶もある位です。
確かに耶輸陀羅姫は、大変な不幸にあったというのも一理ありますが、私は、結局は耶輸陀羅姫が、世界で最も幸せな奧さんだったと思います。
シッダルタ太子の家族への思い
シッダルタ太子がいなくなってすぐに、キョウチンニョという重臣が、
「私に太子を探させてください」
と浄飯王に申し出ます。
「おお行ってくれるか。では家来を4人つけるから5人で探してきてくれ」
と捜索が始まりました。
やがて5人は、カピラ城から約500キロ離れた苦行林で、シッダルタ太子が修行しているのを発見します。
ようやくたどりついたキョウチンニョは、太子にこう尋ねます。
「太子さま、お父さんの浄飯王は、食べ物も喉を通らず、夜も眠れずに大変心配されています。
奥様の耶輸陀羅様も、毎晩泣いておられます。
なぜご家族を苦しめてまで、そんな苦しい修行をされるのですか。
国民もみな国の将来を憂いています。
子供のラーフラ様も
『お父さんはどこ?お父さんはどこ?』
と探し求めておられます。
なぜ家族を泣かせ、国民を失望させるのですか?」
この痛切な問いかけに、シッダルタ太子は、こう答えます。
「それはまことに申し訳ない。
私もよく承知している。
ところが人間には、やがて年老いて、病にかかり、死んで行くという問題がある。
これには気づかない人がほとんどだが、この世のすべては無常であるから、この問題は、父上にも、妻にも子供にもある。
やがてみんな死んでしまう。
その時には、どんなにお金があっても地位が高くても、何も持っていけない。
どんなに愛する人にもついてはきてもらえず、一人で死んで行かなければならないのだ。
この大問題は、いまだ解決できた者はいないから、まず私が解決しなければ、父上も妻も子供も解決できないんだ。
確かに今は親不孝をしていることになります。
しかし私は、この大問題を解決してそれを伝え、本当の親孝行をしたいのだ。
本当に妻や子供を幸福にしたいのだ。
国民を本当の幸福にしたいのだ。
今は苦しませるかもしれないけど、どうか私の気持ちをくみ取って貰いたい」
シッダルタ太子はこう言って、頑として動かれませんでした。
これを「通さぬは 通すが為の 道普請」と言います。
「道普請」というのは、道路工事のことです。
危険なところをそのままにしておくと、大変な事故が起きてしまいます。
それで道路工事というのは、やがて皆さんに安全に通ってもらうために、一時的に通行止めにして、回り道をしてもらっている、ということです。
これを聞いたキョウチンニョたちは、
「なるほど確かにそうかもしれない」
と思って、カピラ城に帰り、浄飯王や耶輸陀羅に報告します。
太子の決意が固いと知った浄飯王は、
「それではお前達は、太子の身の回りの世話をしてくれないか」
といわれます。
こうして、キョウチンニョたちも太子の周りで修行することになり、カピラ城を出て行ったのでした。
それから耶輸陀羅は貞淑な妻として、一人息子のラーフラを育てながら、やがて悟りを開いて帰ってくるという夫を待つのでした。
お釈迦様の帰還
シッダルタ太子が城を出て行って、9年の歳月が経ちました。
シッダルタ太子は、6年間の壮絶な修行の末、みごと大宇宙最高の仏のさとりを開かれて仏陀となり、それから3年目にカピラ城に帰って来られました。
お釈迦様はまず城外の林に宿泊され、翌朝カピラ城に入って托鉢をされ、浄飯王に会って教えを説かれました。
王宮に入られると、一族の者はみんなで出迎えますが、耶輸陀羅は出迎えませんでした。
「もし今でも愛してくれているなら、きっとお釈迦様から部屋に会いに来てくれるはず」
と思ったのです。その気持ちを察知されたお釈迦様は、お弟子の舎利弗と目連を連れて、耶輸陀羅の部屋を訪れました。
そのお姿を見ると、耶輸陀羅は喜びや今までの苦労が胸にこみあげてきて、思わずお釈迦様の足に取りすがって泣きました。
耶輸陀羅の貞節はすばらしく、シッダルタ太子が褐色の衣を身にまとわれたと聞けば、耶輸陀羅もお化粧をやめて褐色の衣をまとい、シッダルタ太子が一日一食だと聞けば、自分も一日一食で過ごしていました。
しばらくして高ぶった感情がおさまると、お釈迦様は変わらない幸せへ導くための教えを説いて帰って行かれました。
ところがその7日後に、最もショックなことが起こります。
お釈迦様がたくさんのお弟子と共に、カピラ城を托鉢しておられたので、耶輸陀羅は子供のラーフラに、
「あの一番立派な方がそなたのお父さんですよ。
今からお父さんの所へ行って、遺産をもらってらっしゃい」
と言います。ラーフラは、
「どの方がお父さんですか?」
と尋ねるので、
「あの方ですよ」
と教えていると、お釈迦様は托鉢のために王宮に入ってこられました。
ラーフラはお釈迦様のもとへ歩みより、少しも人見知りせずに
「お父さま、お会いできて嬉しいです」
といいます。
それから家族で食事をして、お釈迦様が城外の林へ戻って行かれるとき、ラーフラは言われた通り、
「お父さま、遺産をください」
と言って、ついて行きます。
耶輸陀羅は、その後ろ姿を見ているうちに、ふと
「ひょっとして出家させられてしまうのでは」
と直感し、何となく悲しくなって涙を拭いたのでした。
その予感は的中し、ラーフラはそのまま出家してしまい、母の元に帰って来なかったのでした。
耶輸陀羅の出家
耶輸陀羅は、夫が出家して以来、ラーフラを育てることを生きがいとし、心の支えとして生きてきたのですが、今ではラーフラも出家してしまい、生きる望みを失ってしまいました。
「お釈迦様は、せっかく悟りを開いて帰って来られたのにどうしてあんなに冷たいんでしょう。
家族なのに他人のように振る舞って、城外の林に泊まられる。
これまで寂しい生活に耐えてきたのに、今度はかわいいラーフラを奪っていくなんて、ひどいではありませんか。
仏教は慈悲の教えだといわれながら、家族はどうなってもいいというのでしょうか」
耶輸陀羅は孤独に打ちひしがれて、悲痛な思いでお釈迦様を恨んだと『未曽有因縁経』に説かれています。
ところが、仏の慈悲は苦しむ者にひとえに重くかかります。
耶輸陀羅は仏教の教えを聞くうちに、だんだん自分の求める幸せは、束の間の儚い幸せであることが分かってきました。
やがて浄飯王が亡くなると、
「次は自分が同じように死んで行かなければならない。死んだらどうなるのだろう」
と心配になります。
自分はラーフラとの生活をずっと続くと思い込んでいましたが、その幸せも、最後は死によって引き裂かれます。
耶輸陀羅はそう思うと居ても立ってもいられなくなったのでした。
浄飯王が亡くなると、お釈迦様もラーフラも、義理の弟の難陀も、親戚のアナンダもダイバダッタも出家してしまったので、王家の遺産はすべて耶輸陀羅が受け継ぐことになるのですが、それを捨てて、お釈迦様の育ての親のマカハジャバダイ夫人と共に出家したのでした。
耶輸陀羅の幸せ
耶輸陀羅が出家して仏弟子になると、お釈迦様のもとへ行って教えを受けるようになりました。
やがて耶輸陀羅も悟りを開き、変わらない幸せに救われたのでした。
それからも耶輸陀羅はお釈迦様の教えを聞き続けたのですが、人々はその高徳を慕って、たくさんのお布施をしたので、カピラ城にいる人よりも豊かなくらいでした。
耶輸陀羅は、そんなことをされても困るということで、引っ越しをすると、そこの人たちもたくさんのお布施をされます。
耶輸陀羅はこのように、尊い比丘尼となったのでした。
やがて78歳まで長生きして、お釈迦様より2年早く亡くなり、涅槃に入ったといわれます。
このように耶輸陀羅は、最初は夫が出家してしまい、子供に出て行かれて苦しみましたが、結局はお釈迦様やラーフラとも再会し、お釈迦様のもとで変わらない幸せになった上に、その後はこの世の幸福にも恵まれるという幸せの身になりました。
では、仏教に説かれる変わらない幸せとはどんな幸せなのか、しかも出家や戒律なしで、どんな人でも変わらない幸せになるにはどうすればいいのかについては、以下のメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)