アショーカ王とは?
アショーカ王(紀元前304-紀元前232)は、マウリヤ朝第3代の王です。
紀元前268年に即位すると、インドを統一し、インド史上最大の領土を統治しました。
その範囲は西はアフガニスタンから東はバングラデシュまで各地に残るアショーカ王の碑文から分かります。
インドでも大変尊敬され、現在のインド国旗に、アショーカ王のデザインが使われているほどです。
そのアショーカ王は、王に即位してから仏教に深く帰依し、国の内外に仏教を広めました。
一体どんなことがあったのでしょうか?
アショーカ王とは?
アショーカ王とは、どんな人なのでしょうか?
アショーカ王のことを阿育王ともいいますので、
まず仏教の辞典で簡単に確認してみましょう。
阿育王
あいくおう
治世前268-232 <阿育>はサンスクリット語 Aśoka(パーリ語 Asoka)に相当する音写。
アショーカ王。
<無憂王>とも漢訳する。
マウリヤ王朝第3代の王。
古代インドにおける統一国家建設の偉業を果たした。
その版図は南はインド亜大陸の南端近くまで、西はアフガニスタンやアラコシアに及んだ。
王は在位中の事業や政策の方針を詔勅(法勅と称する)として岩壁(磨崖法勅)や石柱(石柱法勅)に銘刻せしめた(アショーカ王碑文)。
即位してから8年のちのカリンガ征服によって生じた悲惨な結果を悔恨した王は、仏教に帰依し、武力による征服から法による征服へ政策を転換し、法大官を設置して種々の事業を遂行した。
娯楽の巡遊(狩猟)を廃して法の巡礼をはじめ、婆羅門・沙門・長老を訪ねて金銭を布施し、人民を接見して法の訓誡をなした。
殺生を禁じ饗宴のための浪費を誡め、道路には植樹し、井泉を掘鑿し、休息所を設置させた。
また人と家畜のための2種の療養院を建て、薬草や果樹を栽培させた。
仏教、バラモン教(婆羅門教)、ジャイナ教、アージーヴィカ教(邪命外道)などのすべての宗教を人間の真理の実現に役立つものとして平等に保護し、帝国の辺地やギリシア、エジプト諸国に法の使臣を派遣した。
王は正法の永続を願って比丘らが実践すべき7種の法門を銘刻させ、ルンビニー(藍毘尼園)や過去仏コーナーガマナの塔を訪れて供養した。
当時、仏教教団は分派の傾向にあったため、教団の分裂(破僧伽)を誡める法勅を発布している。
スリランカ史伝によれば、王の治世に首都パータリプトラで第三結集が開催されたと伝えられる。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、アショーカ王についてとても簡単に説明されていますので、ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
ブッダの予言
アショーカ王のマウリヤ朝は、マガダ国の王朝です。
マガダ国といえば、ブッダの時代からインド最強の国でしたが、当時のビンバシャラ王や、アジャータシャトル王とは血のつながりはありません。
チャンドラグプタという人がそれまでのナンダ朝を倒して王朝を開き、その3代目です。
しかし話はブッダの時代のマガダ国にさかのぼります。
マガダ国は、鉄を産出したため、当時からインドで最も勢力がありました。
『雑阿含経』によれば、ブッダが竹林精舎におられた時、たくさんのお弟子を連れてマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)に托鉢に行かれました。
ブッダの面持ちはきよらかで、お姿は輝いて見えました。
王舎城の人々が
「あれが仏様ではないか?」
と噂する位、立派な仏の徳を放たれていました。
その時、2人の子供が道端で砂遊びをしていました。
ブッダが近づいてくるのを見ると、非常に立派なお姿なので、そのうちの一人、闍耶という子供が、
「私はこのむぎこがしあげましょう」
と言って、砂で作った泥団子をブッダの鉢の中に入れました。
むぎこがしというのは、大麦を炒った粉のことで、和菓子なら砂糖を混ぜて落雁になります。
子供が粘土で作った団子のようなものです。
お弟子たちは、ブッダの鉢に子供が泥団子を入れているのを見て、衝撃が走りました。
「仏様に対して何ということを!」
と無礼な子供を追い払わないといけないとブッダの顔色を窺うと、なぜかにっこり微笑まれています。
お弟子の阿難が驚いて、
「世尊、仏は何の理由もなく微笑されることはないと思います。
なぜ今微笑されたのでしょうか?」
とお尋ねします。
「その通りだ阿難よ、仏は何の因縁もなく笑うことはない。
今笑ったのは因縁があるのだ。
阿難、まさに知るがよい。
私の死後100年経つと、この子供は今の布施の功徳によって、パータリプトラ(華氏城)において、インドを統一する転輪王となるであろう。
名前はアショーカという。法(ダルマ)によって統治し、八万四千の仏塔を建てて仏舎利をおさめ、各地に仏教を広めて数限りもない人々を幸せにするであろう」
これは、布施というものは、何を布施するかよりも、心が大事だということです。
もしこれが大人であれば、それに応じたものを施したでしょうが、闍耶のした布施の心がそれだけ尊かったということです。
このように、アショーカ王の出現は、すでにブッダが予言されていたのです。
ちなみにアショーカ王の出現は、漢訳経典では仏滅約100年後、パーリ仏典では約200年後となっており、その間の詳しい歴史もはっきりしません。
大体のところでは以下のようになります。
その後のマガダ国
その後、王舎城の悲劇が起きて、ブッダに深く帰依していたビンバシャラ(頻婆娑羅)王は、子供のアジャータシャトル(阿闍世)に殺されます。
次のアジャータシャトル王もブッダに帰依すると共に、マガダ国の領土をますます拡大します。
紀元前4世紀頃には奴隷出身の人物にそれまでのシャイシュナーガ朝が倒され、ナンダ朝が開かれます。
シャイシュナーガ朝が、ビンバシャラ王やアジャータシャトル王の王朝だったかどうかは、はっきりとは分かっていません。
すでにマガダ国の首都は、王舎城からパータリプトラに遷都されていましたが、ナンダ朝は非常に強大な軍事力と経済力を誇りました。
紀元前331年、ギリシアのアレクサンダー大王がわずか4万7千の兵力で20万のペルシアを征服すると、
紀元前327年に北インドに侵入しました。
しかしナンダ朝の戦力を聞いて征服をあきらめ、インダス河を少し渡った所で引き返して行きます。
マガダ国は当時、それほど強大な軍事力を持っていたのです。
ところが、インドの北西部では、ギリシア人の侵入で大きく混乱しました。
その混乱の中の紀元前317年、奴隷出身のチャンドラグプタ(月護)が兵を挙げ、インド北西部からギリシア人を一掃します。
やがてマガダ国の首都へ向かって兵を進め、ついにナンダ朝の軍勢を破って、マウリヤ朝を開きます。
その時、チャンドラグプタ王の宰相を務めたのが有名なカウティリヤです。
カウティリヤの書いた『実利論』は、マキャベリの『君主論』を超えるともいわれるインドの帝王学を著した名著です。
こうしてチャンドラグプタ王は24年間マガダ国を統治し、ますます勢力を拡大したのでした。
そしてチャンドラグプタ王は、子供のビンドゥサーラ(頻頭娑羅)に王位を譲ります。
アショーカの誕生
ビンドゥサーラ王にはスシーマという王子があり、将来はスシーマに王を継がせたいと考えて、かわいがっていました。
それを知ったチャンパーという都市のあるバラモンは、娘が非常に美しかったので、スシーマ王子の妃にしたいと考えました。
チャンパーというのは、今のバングラデシュのあたりで、この時にはマガダ国に併合されましたが、昔はあったアンガ国の首都として栄えた都でした。
そこで、そのバラモンは、娘の将来の運命を知りたいと、占い師に見てもらいました。
すると占い師は、
「お嬢さんは、まさしく王様の妃となるでしょう。
2人の子供を産んで、一人は世界の覇者となり、一人は出家して尊い業績を残すはずです」
と言いました。
それを聞いたバラモンは、ものすごく喜んで、
「じゃあすぐに娘を美しく飾ってパータリプトラの都に連れて行って、スシーマ王子に見せてきましょう」
というと、
「いや?スシーマ王子ではなく、ビンドゥサーラ王の王妃です」
と言います。
それを聞いたバラモンは、さっそくビンドゥサーラ王の王宮に娘を連れて行ったのでした。
ところがビンドゥサーラ王の王宮には、スシーマを産んだビンドゥサーラ王の妃がいます。
その妃と女官が、この娘が来るのを見ると、
「この女は極めて美しい。もし王様がこの者を見たら、私たちは捨てられてしまうでしょう」
と策略をめぐらします。
そこで、バラモンの娘に美容師の技術を教えます。
娘はすぐに習得して美容師になり、王様に仕えることになりました。
その娘のセンスはすばらしく、ある日、王様に褒められました。
「そなたは実にセンスがいい。ほうびをとらせるから何なりと欲しいものを申してみよ」
すると娘は、
「私か欲しいものは、ただ一つ、それは王様の愛です」
「愛?……って、どうしてお前が王の愛を得られると思うのだ?
身分が違いすぎるではないか?」
当時、インドには四姓制度というのがありました。
一番上の「婆羅門」は祭司、
二番目の「刹帝利」は王族や武士、
三番目の「吠舎」は商人や職人、
四番目の「首陀羅」は農家や奴隷です。
当時の美容師は首陀羅の階級ですので、王族と結婚はできません。
首陀羅の階級の者に愛が欲しいと言われて、王様は少しムッとします。
ところが娘は
「いいえ、私はそんな低い身分の者ではありません。
バラモンの身分です」
「もしそうだとすれば、なぜ美容師などしているのじゃ」
「それは、奥様や女官の皆さんにいわれたんです」
「よし、それならもう美容師なぞする必要はない」
王はすぐにバラモンの娘を正室に迎えました。
2人はとても仲が良く、しばらくすると懐胎して子供を産みました。
妃は子供が生まれてすっかり安心したので、憂いが無いという意味の「アショーカ」と名づけました。
やがて二番目の子供が生まれると、憂いを離れているという意味の「ヴィガタショーカ」と名づけました。
親からの虐待
アショーカは生まれつきすぐれた能力を持っていたのですが、醜い顔立ちでした。
ビンドゥサーラ王は妃や側室に100人以上もの子供を産ませていたのですが、その中でもアショーカは醜く、すっかり嫌っていました。
成長するに連れて、アショーカは、際立った才能を現していたのですが、100人の中ではいつも仲間はずれでした。
やがて20年ほどの年月が流れると、アショーカやその他の王子たちもすっかり立派な若者になり、ビンドゥサーラ王も年老いてきました。
ある日、ビンドゥサーラ王は、人相見のバラモンを呼んで、
「私が死ねば誰が王になるべきだろうか?」
と尋ねると、
「それでは王子さま方を城の外の別館で私にお見せください」
「分かった、すぐに王子たちと共にそこに向かおう」
ところがこの連絡を聞いたアショーカは、行こうとしませんでした。
お母さんが、
「お父さんが次の王になるべき王子を選ぶそうよ。なぜあなたは行かないの?」
「どうせお父さんは僕なんか選ぶはずないよ。見るのも嫌だと思ってるもん。行っても無駄だよ」
「何言ってるの!とにかく行きなさい、食事はあとで送らせるから」
こうして母親は、無理矢理アショーカを向かわせます。
アショーカが城を出るとき、一人の大臣に会いました。
「これはアショーカ王子。どちらに行かれますかな?」
「ああ大臣、父が私の兄弟の中から次の王を選ぶというから、そこに行く所だ」
大臣は、あらかじめ王から、もしアショーカが来たらこの年老いた象に乗せよと言われていたので、
「そうですか。それではこの象にお乗りください」
といいます。
アショーカは年老いた象に乗って会場に到着すると、すでに兄弟の王子たちは全員来ていて、ごちそうを囲んで会食をしていました。
一番最後に来たアショーカは、地べたに座って、素焼きの食器で、母から送ってもらった乳がゆを食べていました。
跡継ぎの予言
やがてビンドゥサーラ王は、人相見のバラモンにいいます。
「さあこの王子の中で、誰が私の後を継いで王となるにふさわしい相を備えているか」
バラモンが一人一人見て行くと、まさに帝王の相を持つアショーカを見て、この王子が王位を継ぐに違いないと思います。
同時にビンドゥサーラ王がアショーカを嫌っていることも知っていたので、
率直に本当のことを言うと気分を害されると思います。
「王よ、今から予言を授けよう」
「はい先生、いかがでしょうか」
「この中で、もしすぐれた乗り物に乗っている者があれば、まさしく王になるだろう」
それを聞いた王子たちは、全員私は一番いい乗り物に乗っていたと思います。
アショーカも、自分は年老いた象に乗っていたというのは一番いい乗り物だろうと思います。
ビンドゥサーラ王はつまり誰のことかはっきり分からなかったので
「先生、できればもう一言、何か予言を授けて頂けないでしょうか」と尋ねます。
「ならば授けよう。この中で第一の座に座っている者が、王位を継ぐであろう」
それを聞いた王子たちは、全員自分が第一の座だと思います。
アショーカも、揺らぐことのない地面というのは第一の座だと思います。
ビンドゥサーラ王は、誰が第一の座に座っているのかよく分からなかったので、
「申し訳ありません、先生。できればもう一言、予言を授けて頂けないでしょうか」
と尋ねます。
「ならば授けよう。この中で最もよい器でもっともよいものを食べているものが、次の王となるであろう」
ビンドゥサーラ王は、それで人相見を終わり、王宮に帰っていきました。
アショーカが帰って来るとお母さんは、
「どうだった?バラモンは誰が次の王になるって言ってた?」
と尋ねます。
「一番いい乗り物で来て、一番いい所に座り、一番いい器で一番いいものを食べていた王子だって。
年上の象で乗り込み、大地に座って、素焼きの食器で、牛の乳で煮たうるち米の乳がゆを食べていたオレのことだろ?」
人相を見たバラモンは、アショーカが次の王になることを知ったので、そのお母さんにも愛想良くしていました。
お母さんもそのバラモンに贈り物をしたりして親しくなり、尋ねます。
「大王が亡くなったら、誰が次の王になるんですか?」
「それは誰にも分からないことです」
こういうやりとりが3回ほど繰り返された時、最後にバラモンはこう言いました。
「ではあなたにだけ教えましょう。
慎んで決して誰にも言ってはなりませんよ。
もし言ったら、あなたも私も子供さんも殺されるでしょう。
次の王になるのは、まさしくあなたの産んだアショーカ王子です」
それを聞いた母親は顔をほころばせ、
「本当ですか?もし本当にそうなれば、一生お礼をします」
と喜んだのでした。
タクシャシラーの反乱鎮圧
ビンドゥサーラ王は、スシーマに王位を継がせたいと考えていたので、才能にあふれたアショーカには死んでもらいたいと考えていました。
ある時、タクシャシラー(徳叉尸羅)でマウリヤ朝に対する反乱が起きました。
タクシャシラーというのは、現在のパキスタンの北部のタキシラで、もともと初代のチャンドラグプタが最初に平定した西の辺境の地です。
ビンドゥサーラ王は、アショーカに反乱の鎮圧を命じます。
ところが、象兵、騎兵、車兵、歩兵の四種類の兵を与えましたが、武器を一切与えませんでした。
素手で戦ってこいということです。
アショーカが「承知致しました」と城を出発する時に、
部下があまりに心配になって、
「王子、こたびの戦は、武器なしで戦われるとのこと、どうやって平定されるのでしょうか?」
と尋ねると
「心配するな、私がもし王になるとすれば、それは過去の善いたねまきの結果である。
武器は自ずと手に入るであろう」
その言葉と共に大地から武器が現れて、強力な装備で西へ向かったのでした。
この知らせを受けたタクシャシラーの反乱軍は、城を飾り、道路を整えてアショーカ王子を迎え、
「私たちは、ビンドゥサーラ王やアショーカ王子に反旗を翻したのではありません。
タクシャシラーのお役人さまが民を苦しめるので、お役人さまに反抗せざるを得なかったのです」
と城へ招き入れます。
これで勢いをつけたアショーカ軍は、近くの国々を南の海沿いまで次々に平定してパータリプトラに帰還したのでした。
王位継承
ある日、スシーマ王子が出かけると、一人の大臣にばったり出会いました。
ところが大臣が礼儀にかなう挨拶をしなかったので、スシーマ王子は、この大臣を罰して他の人に打たせました。
大臣は心の中で、
「スシーマ王子は、まだ王位についたわけでもないのにこんな仕打ちをする。
これは王になったら何をされるか分からない。
それに対してアショーカ王子は、天下を治めると聞く。
我々大臣は、アショーカ王子を立てて王になってもらおう」
その頃、再びタクシャシラーで反乱が起きました。
大臣たちは話し合って、今度はスシーマ王子を推薦すると、ビンドゥサーラ王はこれを許してタクシャシラーへ向かわせます。
ところがスシーマ王子は、反乱を鎮圧することができません。
そうこうするうちに、ビンドゥサーラ王が倒れ、危篤になりました。
集まった大臣に
「私はスシーマに王位を継がせたい。
反乱の鎮圧はアショーカに行かせてスシーマを呼び戻してもらえないか」
と言います。
大臣たちは、アショーカの体中を血の気の引いた蝋人形のように黄色く塗り、
「大王、アショーカ王子も重病を患っています」
と言って、アショーカ王子を連れてきます。
「ここはまずアショーカ王子に王位をお譲りになれば、この通りアショーカ王子はすぐに死にますので、それからスシーマ王子に王位を譲りましょう」
と言います。
それを聞いたビンドゥサーラ王は、すっかり不機嫌になり、何も答えませんでした。
その時アショーカが、
「もし私が王になるならば、天の神々が私の頭に水を注ぎ、絹を首にかけるであろう」
というと、アショーカの頭に水が注がれ、絹が首にかけられたのでした。
それを見たビンドゥサーラ王は、ショックのあまり息を引き取ってしまいました。
アショーカは、丁寧にビンドゥサーラ王の葬儀を執り行い、王に即位したのでした。
宰相には、アヌルダ大臣を登用します。
兄弟を粛正
遠征中のスシーマ王子が、ビンドゥサーラ王が亡くなってアショーカが王位を継いだと聞くと、怒りを露わにしました。
すぐに兵を集めて、パータリプトラの都に攻め寄せます。
アショーカ王は、城の東門を守り、西門と南北の門は、別の将に任せて待ち受けました。
その時宰相のアヌルダが、アショーカ王の精巧な象を作り、象に乗せて東門の外に配置し、その前に落し穴を作りました。
穴の底には煙の出ない火を焚いて、外からは何もない地面に見えるようにふさいであります。
スシーマ王子がパータリプトラにたどりついた時、アヌルダはスシーマ王子にアショーカ王の居場所を教えます。
「王子、アショーカは東門を守っています。
東門のアショーカさえ倒せばあなたは自動的に王になれます」
それを聞いたスシーマは、自ら先頭を切って東門に向かい、火の穴に落ちて死んでしまいました。
スシーマが殺されたことを聞いたある王子は、ただ一人出家して難を逃れます。
それ以外の99人の王子はすべて殺され、アショーカ王は、ついにマウリヤ朝の第三代の王となったのでした。
時に紀元前268年でした。
秦の始皇帝が生まれたのは紀元前259年ですから、それよりも9年前のことです。
暴悪アショーカ王
アショーカ王は、正しい法にもとづいて政治を執り行うようになりました。
ところが、大臣たちは、我々がアショーカを王に擁立したと思っているので、王を軽んじて臣下の礼をとりません。
アショーカ王も、大臣たちが自分を見下していることに気づいていました。
ある時、アショーカ王が、王宮の花や果物を伐採して、いばらを植えるように命じました。
大臣たちは、「未だかつて花や果物をとって、いばらを植えるなんて見たことも聞いたこともない。
いばらを取り除いて花や果物を植えるなら分かる」といって、従いませんでした。
そんなことが3回も繰り返されるうち、アショーカ王は怒って自ら鋭い剣をとり、その大臣たち500人を惨殺してしまいました。
またある時、アショーカ王が女官をひきいて城の外の庭園に遊びに出かけたとき、そこには、アショーカという花が美しく咲き誇っていました。
それを見たアショーカ王は、「この美しい花は、私と同じ名前だ」と喜びました。
ところが女官たちは、醜いアショーカ王を心から嫌っており、アショーカ王が休んでいる間にその花を全部摘んでしまいました。
やがてそれを見つけたアショーカ王は、大いに腹を立て、女官たちを縛って焼き殺してしまいました。
このように、アショーカ王は、乱暴で残酷なことをしていたので、いつしか「暴悪アショーカ王」といわれるようになりました。
地獄の処刑人
この残虐な事件を聞いた宰相アヌルダは、
「大王様、いくらなんでも王様が自ら大臣や女官を殺してしまわれては法にかないません。
死刑執行人が処刑場で死刑にすべきでしょう」
と諫めます。
近くの山に住んでいた織物師にギリカという息子がありました。
生まれつき凶悪で、自分より弱い者はしばって殴り、動物や魚を殺し、両親には逆らってばかりいたので、人は彼を「凶悪ギリカ」と呼んでいました。
そのギリカの所へ王の使いがやってきて
「お前は国の死刑執行人にならないか?」
というと、
「私は罪のあるすべての人を死刑に処しましょう」
と喜んで引き受けます。
両親がそれに反対したところ、ギリカは自ら両親を殺して死刑執行人になりました。
アショーカ王に謁見したギリカは、
「処刑場にするための小屋を私にください」
と願い出ます。
そこでアショーカ王は、入り口が一つしかない立派な小屋を作って与えました。
ギリカが
「この小屋に入った者は二度と生きては出られないという法律をお作りください」
と願い出ると、アショーカ王は「よかろう」とそれを認めました。
ギリカが喜んで王宮から帰る途中、一人の僧侶が説法していました。
「地獄に堕ちた罪人は、鉄の鉗子で口をこじ開け、焼けた鉄の玉を口の中に押し込まれる。
そして熱でとけた銅を口に注ぎ込まれる。
そして鎖で縛られて身体を鉄斧で切断される。
お経に説かれる通りである」
それを聞いたギリカは、今の地獄を自分の小屋の中に作り出そうと思いつきます。
こうしてギリカは小屋の中を地獄のような状態にしていったのでした。
修行僧が地獄へ迷い込む
ある日、一人のサムドラという修行僧が、パータリプトラの都を托鉢に歩いていると、誤ってギリカの小屋に入ってしまいました。
その火や苦しむ人々の地獄のような有様に全身の毛が逆立ち、すぐに出ようとすると、ギリカが
「この小屋に入った者は二度と生きて出ることはできない」
と制止します。
それを聞いたサムドラは泣き出してしまいました。
「なぜお前は子供みたいに泣くのだ」
とギリカが尋ねると、
サムドラは
「私は死ぬのが怖いのではありません。
今まで求めてきた悟りがまだ開けていないので泣いているのです。
人身は受けがたく、仏法は聞き難し
せっかく今生に仏教にあえたのに二度とあうことはできないでしょう」
と詩で答えます。
「どうせ死ぬんだ。そんなに悩むことはない」
「どうか一カ月だけお待ち頂けないでしょうか」
「ならん」
「じゃあ20日間だけ……」
「ダメだ」
「では2週間…」
「そんなに待っておれん」
「では7日では……」
「それなら7日だけ待ってやろう」
こうしてサムドラは、最後の修行に臨むことになりました。
死を目前にして、サムドラは死に物狂いで修行に励みます。
心を凝らして一生懸命、勇猛精進しましたが、ついに7日経っても悟りは開けませんでした。
その最後の日、王宮で罪を犯した美しい女が送られてきて、生きたまま臼に入れられます。
そして杵でつかれて死んで行きました。
それを見たサムドラは、私も間もなくあのようになる。何と苦しいのだろうと詩を歌いました。
「ああ大慈悲の仏は尊い教えを説かれた。
この身は泡のようなもの。実体はない。
今の美女はどこへ行ったのだろう。
生死は捨てるべし、愚か者は執着するが、
心を彼岸にかけて、今まさに枷を抜け出すべし。
三界を離れてもう二度と輪廻はしない
仏法の方便の力で一切の煩悩を断ちきり悟りを得るべし」
ギリカが「すでに7日の期限は尽きた」というと、サムドラは、
「私は悟りを得た。この身体はそなたのなすがままに任せよう」
と言います。
そこでギリカは、修行僧を釜の油の中に入れ、薪に火をつけようとしました。
ところがどうしても火が燃えないので、釜の中を見てみると、
サムドラは、蓮華の上に座っていました。
アショーカ王が仏教に帰依する
驚いたギリカはすぐにアショーカ王に報告します。
アショーカ王がたくさんの人を引き連れてやってくると、
サムドラは、空中に浮かび上がります。
それを見た王は、非常に喜んでサムドラに合掌し、
「あなたは見た目は人のようですが、未だかつて見たこともない神通力をお持ちだ。
一体どんな法を修められたのか。私にもお説きください」
といいます。
サムドラは今こそアショーカ王に仏法を説く時だと思い、
「私はブッダの説かれた仏教を修めて悟りを開き、三界の輪廻を離れ、神通力を体得しました」
というと、王は、仏教を敬う心を起こし、
「ブッダはどのようなことを教えられたのでしょうか?」
と尋ねます。
「ブッダは予言をされました。
私が死んで100年が過ぎると、パータリプトラの都に国王が現れる。
名をアショーカという。インド全土を支配する転輪王となり、法にもとづく政治をするであろう。
八万四千の仏塔に仏舎利をおさめ、仏教を広めるであろう。
然るに今大王は、このような地獄を作ってたくさんの人を殺しています。
王は今こそすべての人に慈悲をかけて、安心を与えるのです」
それを聞いたアショーカ王は、サムドラに合掌し、
「私は大きな罪を造った。深く懺悔して仏教に帰依しよう」
と言いました。
ついにサムドラは、アショーカ王に仏教を伝えたのでした。
アショーカ王が地獄の小屋を出ようとすると、ギリカが、
「王様、王様といえどもこの小屋に入ったら二度と生きて出ることはできません」
と言い出します。
「そなたは私を殺そうというのか」
「その通り」
「それならこの小屋に入ったのはお前のほうが先だろう。お前が先に死ね」
アショーカ王はギリカを焼き殺してしまい、この地獄の小屋も壊させたのでした。
カリンガ戦争
こうして仏教に帰依したアショーカ王でしたが、即位してから9年目のことです。
強大な隣国のカリンガ国と大戦争が起きました。
カリンガ国は南のベンガル湾に面していて、マウリヤ朝の前のナンダ朝に征服されていたこともありましたが、再び独立した国です。
歩兵6万、騎兵1千、象7百を擁する強国でした。
マガダ国の大きな障害とみたアショーカ王は、カリンガ国に侵攻、ついに征服し、インド史上最大の大帝国を築きます。
ですがその犠牲が大きすぎました。
15万人の兵士を捕虜にし、10万人を殺した上に、何十万人もの人が戦争の犠牲になりました。
その時、王になる時の兄弟争いでただ一人だけ出家して生き残った兄弟と再会します。
すっかり立派な僧侶になっていました。
その兄弟の僧侶から仏教の教えを聞き、アショーカ王は、多くの人を殺した罪の恐ろしさを深く懺悔しました。
そして二度と戦争はしないと心に決めたのです。
これまでマガダ国は、ビンバシャラ王がアンガ国を併合して以来、領土を拡張してきましたが、それが終わりを迎えたのです。
アショーカ王の碑文と業績
サールナートの柱頭
それからのアショーカ王は、武力ではなく、法(ダルマ)によって統治をするようになります。
その法(ダルマ)を徹底するために、石柱や磨崖に法を刻んで各地に立てたのでした。
これらをアショーカ王の碑文と呼んで、現在も各地に残っています。
そして、当時の文化を知ることができる貴重な文字史料にもなっています。
アショーカ王のマークは仏教のマークなのですが、アショーカ王が非常に尊敬されているために、ヒンドゥー教の現在のインドの国旗の中央にまで配置されています。
インドの国旗
こうしてアショーカ王は、仏教の教えによって戦争をしなくなり、
アジャータシャトル(阿闍世)王が王舎城に造った仏塔など、8つの仏塔から分骨して八万四千の小箱に入れてそれを壺に入れ、インド各地の人口の多いところに仏塔を作ったのです。
また、僧侶を集めて仏典の結集を行いました。
これが第3回の仏典結集といわれます。
そしてアショーカ王は、
「ブッダが過ごされた場所に参詣し、後世の人の幸せのために標識を立てたい」
という願いをおこました。
そして香や花を用意して、まずブッダの産まれられたルンビニー園に到着すると体を投げ出して礼拝し、十万金の布施をして廟を建て、ブッダを偲びました。
それから出家されるまで過ごされたカピラ城、修行された苦行林などに参詣し、仏のさとりを開かれたブッダガヤーにやってきました。
アショーカ王はそこでも十万金を布施して廟を建てました。
そしてブッダが初めて法を説かれたサールナートにも赴いて十万金の布施をして廟を立てます。
それからビンバシャラ王に法を説かれた王舎城などをまわり、最後にお亡くなりになったクシナガラを巡礼します。
アショーカ王は、ここでブッダが涅槃に入られたと聞いて気絶したほどだといいます。
また十万金を布施して廟を立てたといわれます。
こうしてアショーカ王は、暴悪アショーカから、法アショーカと呼ばれるようになったのです。
このようにアショーカ王がインド中に仏教を広めなければ、仏教が中国や日本に伝わることもなかったかもしれません。
スリランカなど周りの国への布教
さらにアショーカ王は、周りの国々にも仏教を伝え始めます。
カシミール
ガンダーラ
アパラーンタカ(パンジャーブ地方)
ギリシア
ヒマラヤ
ミャンマーなどです。
特にスリランカには、アショーカ王の王子、マヒンダが出家して4人の僧侶と共に仏教を伝えました。
アショーカ王の当時、上座部仏教があったかどうかは分かりませんが、今でもスリランカは上座部仏教(テーラワーダ仏教)が盛えています。
また、日本が第二次世界大戦に負けた時、分割統治案が出されましたが、スリランカの代表が反対して日本は分割されずに済んでいます。
それもこの時アショーカ王がスリランカに仏教を伝えていなければ、今頃日本は4つに分割され、日本人同士で争っていたかもしれません。
こうしたアショーカ王の活躍により、仏教はインドの外へと広まっていき、世界宗教になって行くのです。
最後の布施
アショーカ王は、ある時僧侶たちに、
「これまでで最もたくさんの布施をしたのは誰だ?」
と尋ねました。
僧侶たちは、
「給孤独長者です」
と答えます。
給孤独長者というのは、祇園精舎の建立のために土地を布施した長者です。
「どのくらいの布施をしたのだ?」
「はい、千億金といわれています」
それを聞いたアショーカ王は、
「一介の長者でさえ千億金の布施をするというなら、王である私はその100倍は布施しなければなるまい、よし百千億金の布施をしよう」
と心に決めます。
それからアショーカ王は、八万四千の仏塔に10万金ずつ施し、5年間の法要を開いて集まった人々に300億金を施しました。
また、妃や女官、王子や大臣を僧団に施し、それを四十億金で買い戻す形で布施を行い、ついに累計96千億金まで布施をします。
ところが36年間王の位にあったアショーカ王は、紀元前232年頃、そこで最後の重い病にかかります。
自ら死期を悟った王は、
「私はもう財産や王位を失うことに何の未練もない。
ただ一つの心残りは、百千億金の布施をしようと決めたのに、まだ4千億金できていないことだけだ」
アショーカ王は、残された宝を僧団に送ろうとしました。
その時、皇太子であったアショーカ王の孫のサンパディが、
「これでは蔵が空になってしまう」と思い、大蔵大臣に
「大王に宝を持ち出させてはならぬ」と命じます。
アショーカ王は、もう財宝が自由にならないと知ると、食事の時に出てきた金の器を僧団に送らせます。
そこで皇太子はもう金の器はやめて銀の器にするように命じます。
王は食事を終わると、銀の器を僧団に布施します。
皇太子が大王には銅の器を使うように命じると、アショーカ王は、銅の器も僧団に布施しました。
皇太子は、今後は素焼きの器を使うようにと命じると、アショーカ王は、涙と共に大臣に尋ねます。
「この国の王は誰だろうか?」
「それはもちろん大王さまでございます」
「そんな気を遣って嘘を言わなくてもよい。
私は玉座に座っていても、もう何も自由にならない。
思い通りになるのはこの手の上の半分のマンゴーだけだ。
かつては全インドを支配したが、今では貧しいものだ。
富も地位も厭い捨てるべし。
川の水が流れれば戻ってこないように、富も地位も失えば返ってこない。
盛者必衰、仏教の教えは真理にほかならなかった。
もう何一つ思い通りにならず、死んで行くだけだ」
こう言って、半分のマンゴーを僧団へ送らせたのでした。
しばらくたったある日、アショーカ王は突然、
「この国の王は誰だ」
と大臣に尋ねました。
「大王さまでございます」
「私は国をすべて三宝(仏・法・僧)に布施する。
私はもう王になることも神になることも願わない。
ただ悟りを願うばかりだ」
こう言ってついにアショーカ王は息絶えてしまいました。
その後、手厚い葬儀が行われ、皇太子が王になろうとすると、アヌルダ大臣が、
「この国は僧団のものです。勝手に王を決めることはできません」
と言います。
「ではどうすればよい?」
「大王は、百千億金の布施するという願いを立てておられました。
ですから四千億金で国を買い戻すのがいいでしょう」
こうして、僧団に四千億金の布施がなされ、アショーカ王の願いは満たされたのでした。
こうして、アショーカ王が紀元前3世紀に仏教を保護してインド中に広め、国外にも積極的に伝えたために、それから現在までの2000年以上の間に、世界中でどれだけの人が本当の幸せになったかしれません。
アショーカ王がこれほどまでに、生涯をかけて広めようとした仏教には、
どんな人でも本当の幸せになれる道が教えられています。
では、本当の幸せとはどんなことで、どうすれば本当の幸せになれるのかについては、以下のメール講座と電子書籍にまとめてありますので、今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)