聖徳太子とは?
聖徳太子
聖徳太子といえば、約1500年前の人物ですが、
以前1万円札に描かれていたこともあり、
日本人なら知らない人はいないくらい有名です。
そして、現在の日本が世界最大の仏教国とされる
日本の仏教の基礎を築かれる、偉大な業績がありました。
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、
「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし」と言われ、
聖徳太子を日本のお釈迦様だと褒め称えています。
聖徳太子がしたことはどんなことで、どんなエピソードがあるか紹介します。
聖徳太子とは
聖徳太子とは仏教の観点からすると、どんな方だったのでしょうか?
まずは簡単に仏教の辞典で確認してみましょう。
聖徳太子
しょうとくたいし
574(敏達3)-622(推古 30) 用明天皇の第2皇子。
母は穴穂部間人皇后。
厩戸王(または厩戸豊聡耳皇子、上宮太子)などと称するが、定かではない。
聖王・法王・法大王・法王大王など仏教興隆の徳を称える漢語の称号もある。
聖徳太子は諡号。
おばに当たる推古天皇(554-628)は即位の翌593年(推古1)に太子を皇太子につけて摂政とし、蘇我馬子(?-626)と共に政治に当たらせた。
はやくに神聖化され、『日本書紀』以下の伝記には虚構が多い。【事績】603年(推古 11)新羅遠征の中止と共に太子の内政改革の事業が始まる。
まず同年12月に<冠位十二階>を制定して、官人身分の序列化をはかり天皇の人事支配権を強化した。
この冠位の内容には、中国の儒教の礼制や道教の五行思想の影響が色濃く認められる。
また翌年4月には<十七条憲法>を制定し、儒教・法家・仏教などの思想に基づいて官僚の心得を説いた。
この第2条では「篤く三宝を敬え」と、特に仏教信奉を勧奨している。
605年(推古 13)には斑鳩宮に遷り、607年(推古 15)には小野妹子を隋に遣わして国交を開いた。
前後4次にわたる遣隋使の派遣によって大陸の先進の文化・制度・技術の摂取に努める一方、隋への国書にみえる「東天皇、敬みて西皇帝に白す」の文言などから隋と対等の関係を維持しようとした点も窺われる。
斑鳩宮に遷った頃から太子は仏教研究を深め、『日本書紀』によれば606年(推古 14)自ら勝鬘経・法華経の講経を行い、後に法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である<三経義疏>を作製したとされる。
また四天王寺・法隆寺(若草伽藍)などの寺院を建立した。
天寿国繡帳銘の「世間虚仮、唯仏是真」の語は太子の内面の仏教理解を示すものであろう。
晩年の620年(推古 28)、太子は馬子と議して『天皇記』『国記』などの史書を作った。
622年(推古 30)2月、妃膳部菩岐々美郎女と前後して崩じ、磯長墓(叡福寺)に葬られた。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、聖徳太子についてとても簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
聖徳太子のお名前
聖徳太子の名は、諡号と言われ、生前活躍された方に尊敬の意味を込めて送られる名前です。
「聖のような徳を有する」として名前がつけられました。
天平勝宝三年(七五一年)に出された日本人の漢詩集『懐風藻』には、冠位十二階を制定した聖徳太子の名が出てきます。
この時代になると、太子の名は一般化していたのでしょう。(引用:『聖徳太子 本当は何が凄いのか』)
また日本書紀には、以下のような名前で書かれています。
・上宮厩戸豊聡耳太子
・豊耳聡聖徳
・豊聡耳法大王
・東宮聖徳
10人の話を聞き分ける聖徳太子伝説
聖徳太子はお名前から「10人の話を聞き分けた」という伝説があります。
耳が勝れている動物としてあげられる「厩」(馬)や、
「豊耳聡」「豊聡耳」は『法華経』に「其耳聰利故 悉能分別知」の「耳聰」とあり、
あらゆることを聞き分けられるという意味があります。
そこから10人から同時に相談を受けてもすべての声を聞き分けられ、的確に応えることができた、という伝説が生まれたということです。
「名は体を表す」こともありますが、大変聡明な方だったということでしょう。
聖徳太子は大変仏教と深い関わりがありますので、見ていきましょう。
仏教伝来
聖徳太子のお父さんは、天皇で始めて仏教に帰依した用明天皇、
お祖父さんは、仏教が日本に伝えられたときの天皇である欽明天皇です。
538年、朝鮮半島の百済の国からの使者が、はるばる海を越え、
大和朝廷に船にやってきました。
欽明天皇の前に通された使者は、経典や持参の仏像を献上し、
百済の聖明王からの手紙を渡します。
そこにはこうありました。
この法は諸の法の中に最も殊勝たり。
解り難く入り難し。
周公・孔子も尚知りたまふこと能わず。
この法はよく量もなく、辺もなき福徳果報を生じ、 乃至ち無上れたる菩提を成弁す。
(漢文:是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。)(引用:『日本書紀』)
これは、仏教はあらゆる教えの中でもっともすぐれたものです。
その教えは深く、入りにくいもので、儒教の聖者たちも知ることができませんでした。
しかしそれは、限りなき幸せをもたらし、真のさとりを導くものです。
手紙を読んだ欽明天皇は、躍り上がるほどに喜び、こう言っています。
朕昔より来未だかつてかくの如き微妙しき法を聞くことをえず。
(漢文:朕從昔來未曾得聞如是微妙之法)(引用:『日本書紀』)
これは、自分は昔からこれまで、このような素晴らしい教えを聞いたことがなかった、ということです。
こうして仏教が伝えられてから、30年以上の歳月が過ぎ、
572年、欽明天皇の子供、敏達天皇が即位します。
この時、聖徳太子のお父さんで、同じく欽明天皇の子供である用明天皇は、
まだ天皇ではなく、次期天皇になる人でした。
聖徳太子の小さい頃のエピソード
574年2月7日、聖徳太子のお母さんが馬小屋の前を歩いておられたとき、
急に産気づかれ、聖徳太子が生まれられます。
そのため、聖徳太子を「厩戸皇子」といわれます。
2歳のとき、お母さんに抱かれた聖徳太子が
「南無仏」と2回称えて、合掌し、周り中の多くの人々が、
唖然として息を飲みました。
お釈迦様がお亡くなりになった2月15日のことでした。
これが、聖徳太子の生涯を暗示しているエピソードです。
そして小さい頃から、大変聡明で、立派でした。
5歳のとき、兄弟みんなで楽しく遊んでいると、
どんどん盛り上がって大声ではしゃいでいました。
そのとき、お父さんから「うるさいぞ!」と注意を受けると、
みんな「わーっ」と言って逃げていってしまいました。
その中で、聖徳太子だけが板の間に正座していました。
「どうして逃げないのか」と聞かれると、
「空を飛ぶことも、土に潜ることもできません。
ただお叱りを頂くばかりです」と答えられ、
その立派な態度にお父さんは叱ることができなくなり、
お母さんは、嬉しさの余り抱き上げてほおずりして喜びました。
7歳のとき、百済から数百巻のお経やその注釈が届き、
仏教の勉強をはじめました。
そのスピードたるや、1日1巻から2巻を読破していかれたとのことです。
蘇我氏と物部氏の争い
聖徳太子が11歳のとき、3月頃伝染病が流行ってたくさんの人が死にました。
仏教を快く思っていなかった豪族の物部氏は、
「この伝染病の流行は、蘇我氏が外国の神である仏教を興隆した祟りである」
と朝廷に抗議し、天皇は仏法を中止することにしました。
喜んだ物部氏は、寺院へ攻め込んで焼き払い、
仏像を海に捨てました。
さらに蘇我氏のもとへ攻め込み、
尼僧を引き渡すように要求しています。
それを聞かれた聖徳太子は、物部氏を出頭させ、
「天皇のお言葉をたてに、自分のやりたいことをやるのは、
臣下の道に背くことだからただちに改めよ」
と注意しています。
お父さんが天皇に
12歳のとき、お父さんが天皇に即位し、用明天皇となりますが、
14歳のときには病気で亡くなってしまいます。
41歳でした。
当時、次の天皇を誰にするかは、
有力な豪族が話し合って決めることになっていたのですが、
用明天皇が仏教に帰依したことで豪族間の対立が激しくなっており、
仏教に反対していた物部氏が
仏教を大切にしていた蘇我氏のところへ
軍勢を率いて攻め込んできました。
聖徳太子の初陣
聖徳太子は、14歳のこのとき初陣を飾り、物部氏をことごとく打ち破ります。
兵力も武器も劣勢な物部守屋は、自ら木に登り、
弓矢で聖徳太子を狙いますが、
逆に弓で射貫かれて戦死してしまいます。
大将を失った物部氏は全軍が総崩れになり、
ついには滅亡してしまいます。
物部氏が滅亡すると、
用明天皇の次は用明天皇の弟、崇峻天皇が即位し、
蘇我氏は百済から僧侶や技術者を招き、日本初本格的な寺院
飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教興隆を推進します。
数年後、崇峻天皇の次は、用明天皇の妹の推古天皇が即位します。
そのとき聖徳太子は20歳で、
叔母さんである推古天皇の摂政となりました。
摂政になってからの活躍
三宝興隆の詔を発令
推古天皇の2年、聖徳太子21歳のときには
「三宝興隆の詔」が出されます。
その後、豪族たちが、氏寺をつくり始め、多くの僧侶が迎えられて、
法事が営まれるようになりました。
ただしその目的は、仏教の目的とは異なり、
一族繁栄の祈願のためでした。
これを「氏族仏教」といいます。
冠位十二階を制定
聖徳太子は、冠位十二階という制度を制定しました。
制度の内容は、徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて十二階とし、
それぞれを紫・青・赤・黄・白・黒の色分けした冠を用意しました。
これは役人(人材)を、身分ではなく実力別に評価するために設けられた制度で、
功績に応じて昇進することができるようになったのです。
また遣隋使の派遣の際や、海外から要人が訪れた際に、
家柄ではなく、個人の地位を明確にして交流することができ、
外交上でも必要な制度だったと言われます。
冠位十二階の制度は、その人の「徳」を考慮しているところが素晴らしいところです。
この冠位十二階も年齢の上下を大切にし、徳・仁・礼・信・義・智という並び順によって、その人の人間としての成熟度をも表そうとしているのです。
つまり、一番高い地位の人は徳を持っている。
次の人は仁を持っている。
そして礼、信、義、智という順番で並んでいくわけですが、一番下の智というのは、人間としてのレベルでいえば、まだ勉強していて知識を持っている程度に過ぎないということです。(引用:『聖徳太子 本当は何が凄いのか』)
これは、仁義礼智信の儒教の影響にも思えますが、実は仏教です。
それまでの日本では、姓によって、生まれつき身分が決まっていました。
生まれによる身分差別です。
それが冠位十二階によって、個人の能力と徳によって評価されるようにしたのです。
例えば造という低い位だった秦河勝という人に、
上から3番目の大仁という位を与えています。
また、帰化人で姓のなかった鞍作止利という仏師(彫刻家)にも
大仁の位を与えています。
これは画期的なことでした。
仏教の四姓平等の現れです。
その上、仏教では人の価値は、その人の持つ「徳」によって決まると言われます。
まさに仏教精神を反映した制度が冠位十二階だったのです。
日本初の憲法「十七条憲法」を制定
聖徳太子が32歳の夏には、
日本初の憲法である「十七条憲法」を制定します。
夏四月の丙寅の朔戊辰に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條を作りたまふ。
(漢文:夏四月丙寅朔戊辰。皇太子親肇作憲法十七條)(引用:『日本書紀巻第廿二』)
第一条は有名な「和するをもって貴しとなす」です。
日本は和の精神でたてられたといわれますが、
一番最初に和を挙げて、非常に重視しています。
聖徳太子のそれまでの人生で長い戦乱を経験し、和することの大切さを痛感していたのかもしれません。
仲良くすることが大切です。
第二条は「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり、すなわち四生の終帰・万国の極宗なり。何の世・何の人かこの法を貴ばざる。それ三宝に帰せずしては何を以てかまがれるを直らせん」とあります。
三宝とは、仏教のことですが、それは「四生の終帰」・「万国の極宗」だと言われています。
「四生の終帰」とは、生きとし生けるものが最後行き着くところ、
「万国の極宗」とは、あらゆる国における究極の教え、ということです。
古今東西、仏教以外に正しい教えはないから、
日本人は仏教を学び、教えの通りに実践しなければならない
ということです。
第四条では、「礼を以て本とせよ。それ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉ず。下礼なきときは、必ず罪あり」とあります。
これも「礼」を重視した儒教思想に見えますが、そうではありません。
儒教では「刑は士に及ばず、礼は民に及ばず」といわれます。
これは、支配階級は刑罰は免除、でも一般ピープルに礼を教えることはできない、
だから刑法で取り締まるほかはない、ということです。
ところが聖徳太子の十七条憲法では、一般の日本人も礼を身につけることができる、
それによって治安はよくなる、ということです。
仏教の影響からか、儒教よりもはるかに平等思想です。
第十条には、人に対して怒りを起こしてはならないことを述べ、
「我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ」
と書かれています。
欲や怒り、愚痴でいっぱいの
煩悩具足の凡夫であることを言われているのです。
仏教で自分とは何かということについては、以下の記事にありますのでご覧ください。
➾2つの自分探しの意味と自分を知る方法
法隆寺の建立
法隆寺金堂と五重塔
607年、聖徳太子35歳のときに法隆寺が建立されたと言われています。
法隆寺は、仏教の勉強の場となり、別名「法隆学問寺」ともいわれます。
60年後に火災に遭い、再建されていますが、
世界最古の木造建築としても有名です。
法隆寺五重の塔の心柱と斑鳩寺
法隆寺五重の塔の檜の心柱は594年頃(推古天皇2年)に伐採されたものと測定されています。
(出典:奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ「法隆寺五重の塔心柱年輪年代」)
『日本書紀』には、推古天皇2年春、2月頃から、
皇太子と大臣の命令によって、仏教興隆が図られ、
競って仏舎を建てたことが記載されていますので、
この頃に法隆寺の心柱も伐採されたものと言われます。
二年春二月の丙寅朔、皇太子及び大臣に詔して、三寶を興隆せしむ。
是の時、諸の臣連等、各君親の恩の爲めに、競いて佛舍を造る。
卽ち是を寺と謂う。
(漢文:二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣令興隆三寶。
是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、卽是謂寺焉)(引用:『日本書紀巻第廿二』)
法隆寺の心柱が法隆寺建立時期より古いのは、
聖徳太子が斑鳩宮へ引っ越したあとに建立した斑鳩寺に使われ、
斑鳩寺が後の法隆寺となったためではないか、と言われています。
日本初の仏教の研究書「三経義疏」執筆
36歳の時には、第3回の遣隋使で、
4名の僧侶を中国へ送り、中国の仏教を学ばせました。
それまでの日本では、百済や高句麗の朝鮮仏教を学んでいましたが、
はじめて中国から直接学び始めたのです。
また聖徳太子自身も、高句麗から招いた僧侶・恵慈について
仏教を深く学び「三経義疏」を著したといわれます。
「三経義疏」とは『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の注釈書で、
39歳のときの『勝鬘経義疏』1巻
41歳のときの『維摩経義疏』3巻
43歳のときの『法華義疏』4巻です。
これは、日本最初の仏教の研究書となります。
恵慈は高句麗に帰国した時、『三経義疏』を持ち帰り、高句麗に伝えたのでした。
聖徳太子の死因
こうして、仏教の興隆に多大な貢献をしてこられた聖徳太子は
49歳で亡くなられました。
死因は、当時はやった疫病(天然痘)による病死が定説です。
法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文には、
聖徳太子の母、聖徳太子、聖徳太子の后が
病気のため相次いでなくなったことが、
以下のように各行14字14行で記されています。
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆干食。王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。(引用:法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘)
書き下すと以下のようになります。
法興の元三十一年、歳次辛巳の十二月、鬼前太后、崩ず。
明年正月二十二日、上宮法皇、病に枕し、干食を悆ず。
王后、よりて労を以て疾み、ならびに於床に著く。
時に王后王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐き、
共に相発願す。
仰て三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるものを造る。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延べ、世間に安住せん。
若し是れ定業にして、世に背くときは、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らせん。
二月二十一日癸酉の日、王后即世し、翌日法皇登遐す。
癸未年の三月中、願の如く敬んで釈迦尊像ならびに侠侍、
及び荘厳の具を造り竟る。
斯の微福に乗せば、信道の知識は、現在安隠にして、
生を出で死に入る。
三主に随い奉り、三宝を紹隆し、遂に彼岸を共にせば、
六道に普遍する法界の含識は、苦縁を脱し得て、
同じく菩提に趣つかん。
司馬の鞍の首止利仏師を使して造らしむ。
「法興の元三十一年」は621年、干支は辛巳の12月に、
聖徳太子のお母さん「鬼前太后」が亡くなりました。
翌年622年の1月22日、「上宮法皇」といわれる聖徳太子が
病気で寝込み、食事がとれなくなりました。
次いで聖徳太子の妃も病気になって寝込みます。
そこで、聖徳太子と妃は、大臣たちと共に、
仏教によって釈迦像を建立しようと発願します。
できれば病気が治ることを願うも、
もし過去の業力により、この世に縁が尽きたならば、
浄土へ往って仏のさとりを開きたいと考えます。
ところが2月21日には妃が世を去り、翌22日には聖徳太子が亡くなります。
享年49歳でした。
その翌年、癸未の623年に、仏師の鞍作止利に発願の通りの釈迦三尊像を作らせた、ということです。
それが法隆寺金堂釈迦三尊像です。
このように、聖徳太子は最後、病気になって程なく亡くなってしまいましたが、
翌年に作られたお釈迦様の像は、聖徳太子をイメージして彫られたといわれています。
ここから聖徳太子がお釈迦様のように慕われていたことが分かります。
聖徳太子の遺言
聖徳太子は子供の山背大兄王などに、このように遺言されています。
これは「七仏通戒偈」といわれ、
仏教の根幹である
因果の道理を教えられたものです。
因果の道理(因果応報)については、以下の記事をご覧ください。
➾因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説
聖徳太子の深い仏教の理解と信仰
今回は、聖徳太子が生前したことについて、解説しました。
小さい頃から聡明で、蘇我氏と物部氏の争いの中でも
仏教を守るために活躍されました。
推古天皇の摂政に就いてからは、
冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、法隆寺建立、
仏教の解説書『三経義疏』の執筆などをしておられます。
これらのことから、仏教に対する深い理解と信仰をもって、
日本人を本当の幸福へと導こうとされていたことがよく分かります。
聖徳太子は、生前、よく奥さんに対して、
「世間虚仮 唯仏是真」
と話をしておられました。
これは、お金や財産、地位、名誉など、
この世のすべては続かないもので、
一時的な喜びしかなく、はかない幸せしかないということと、
仏教だけが、本当の幸せを教えている
ということです。
蘇我氏をはじめ、豪族たちが、
一族の繁栄を祈るために仏を信仰していた氏族仏教の時代、
そのような一時的な幸せではなく、変わらない幸せを説かれた
仏教の教えの本質を理解し、日本仏教の基礎を築かれたのです。
ではその仏教に説かれた変わらない幸せになれる道とは
どんなものなのか、
その、どんな人も本当の幸せになれる仏教の教えは、
一言では述べられないので、メール講座と電子書籍で、
分かりやすく学べるようにまとめてあります。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)