三蔵法師とは
「三蔵法師」といえば、『西遊記』に出てくる三蔵法師が有名です。
三蔵法師の性別は男ですが、
日本の『西遊記』のドラマでは、夏目雅子や宮沢りえといった
美人女優が演じて人気ですが、性別は男性の設定です。
さらに、ドラゴンボールでは、三蔵法師がモデルになっているブルマは女性です。
このように大変有名になっている三蔵法師は
もともと仏教から来たのですが、一体どんな人なのでしょうか?
西遊記での三蔵法師
まず、『西遊記』の三蔵法師はどんな人だったでしょうか。
『西遊記』は、中国の16世紀の物語で
三蔵法師は「玄奘」という名前です。
お供に、孫悟空、沙悟浄、猪八戒の3人を従えて、
白馬の玉龍に乗っています。
そして、中国からお経を求めて
釈迦如来が仏教を説かれたインド(天竺)に旅する間に、
色々なドラマが起きるのです。
西遊記には色々な妖怪が出てきたりして、
まったくのフィクションですが、
モデルとなった三蔵法師の玄奘は、実在の人物です。
実在の玄奘三蔵
玄奘三蔵像
実在する三蔵法師の玄奘は、
西暦602年から664年まで生きた
中国の唐の時代の和尚さんです。
11歳で出家し、中国各地をめぐって高僧たちから教えを受けます。
唐の国では外国旅への出国が禁止だったのですが、
26歳のとき、法律を破って一人、インドへ旅立ちます。
西遊記ではか弱い感じの玄奘ですが、
本物は一人でゴビ砂漠を越えますので、
相当屈強な男性です。
ようやくインドへたどりついた玄奘は、
人間の心の中でも最も深い本心である阿頼耶識から
この世の一切が生み出されるという「唯識」を学びます。
40歳まで学問を深め、中国に仏教を伝えたいと
帰ることを決意します。
今度はインドのサンスクリット語で書かれたお経を
22頭の馬につんでの長旅です。
インダス河で船が沈み、お経を失うなどのトラブルを乗り越えて
ついに43歳のとき、たくさんのお経を中国へ持って帰ってきます。
そのときには、唐の状況が変わっており、
時の太宗皇帝が歓迎したので、
持って帰ってきたお経の翻訳に人生を捧げます。
それが『解深密経』や『大般若経』『般若心経』
『倶舎論』や『唯識三十頌』『唯識二十論』『瑜伽師地論』などです。
その翻訳が大変すばらしかったので、
玄奘以降に翻訳された漢訳経典を「新訳」といわれています。
その後、弟子の窺基が法相宗を開いたので、
玄奘は後に唯識に基づく法相宗の開祖といわれるようになりました。
詳しくは以下の記事に解説してあります。
➾玄奘三蔵・旅行記とルート
では、この玄奘のことをよく「三蔵法師」といわれるのは
何なのでしょうか。
三蔵法師とは?
三蔵法師の「三蔵」とは、
「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」の3つです。
「経蔵」とは、お釈迦さまの教えを書き残されたお経です。
お経については、詳しくは以下に解説してあります。
➾お経の数と種類、宗派別のまとめ・お経をあげる意味とは?
「律蔵」とは、お釈迦さまの説かれた戒律です。
戒律については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾戒律の意味・仏教の五戒・八戒・十戒・具足戒・大乗戒の厳しい内容
「論蔵」とは、お釈迦さまの教えを解釈されたものです。
それらの三蔵に精通した僧侶を三蔵法師といいます。
お経だけとか、戒律だけに精通するのでも大変なことなのに、すべてに精通するのは大変なことです。
しかもこれらの三蔵はインドの言葉で書かれていますので、
それを中国の言葉に翻訳した翻訳者を三蔵法師といいます。
ですから、玄奘だけを指す言葉ではなく、
歴史上、たくさんの三蔵法師たちが存在します。
それは、インドと中国の言葉が分かり、
仏教にも詳しくなければできない、
ものすごく賢い人たちです。
そんなたくさんの三蔵法師たちの中でも一番有名なのが、
玄奘ですが、二番目に有名な三蔵法師は誰かというと、
「鳩摩羅什」です。
玄奘と共に「二大訳聖」といわれます。
もう一人の有名三蔵法師・鳩摩羅什
鳩摩羅什は、玄奘よりはやく、344年から413年を生きた人です。
亀茲国といって、インドでも中国でもない国の出身です。
ところが、天才的な語学力を発揮して、
大変美しい文章で翻訳し、
玄奘の新訳に対して鳩摩羅什の翻訳は「旧訳」といわれます。
新訳と旧訳でどのように違うのかというと、
例えば、観音菩薩なら、
鳩摩羅什は「観世音菩薩」
玄奘の訳は「観自在菩薩」
インドで唯識を大成したヴァスヴァンドゥ菩薩なら
鳩摩羅什は「天親菩薩」
玄奘の訳は「世親菩薩」です。
多くの人に親しまれている言葉遣いで、
たくさんの重要な経典を翻訳しています。
たとえば、『維摩経』や『法華経』『阿弥陀経』
龍樹菩薩の『大智度論』『中論』などです。
鳩摩羅什については、さらに詳しく以下のページで解説してあります。
➾鳩摩羅什・法華経や阿弥陀経を翻訳した功績と伝記
このような二大訳聖に、さらに真諦と、義浄または不空 の2人を加えて四大訳経家といわれます。
三蔵法師は、名前が分かっているだけで、少なくとも170人はいるのですが、一番最初の三蔵法師は誰だったのでしょうか?
一番最初の三蔵法師
一番最初の三蔵法師は、後漢の時代にさかのぼります。
後漢の二代目皇帝の明帝が、ある日、金色に輝く人が西のほうから飛んできて庭に降り立つ夢を見ます。
その人は後光が差していました。
それは西方の仏であろうという人がいたので、明帝は西域に使者を派遣して2人のインド人僧侶を洛陽に招きます。
それが、迦葉摩騰と竺法蘭の2人でした。
明帝は白馬寺というお寺を建立し、2人は『四十二章経』を漢訳し、仏像や仏教の儀礼を伝えたといわれます。
これが、中国への仏教公伝として有名な話です。
明帝に、それは仏だろうと教えた人がいるように、その前から仏教は伝わっていたのですが、皇帝に迎えられた最初で、この2人が最初の三蔵法師といわれます。
こうして、仏教は世界宗教になって行きます。
2人が洛陽に到着したのは、西暦67年のことでした。
三蔵法師の通った道
中国とインドは遠く離れていますので、仏教が伝えられるのは大変です。
生きて帰れるか分からないのはもちろん、生きて到着できるかも分かりません。
命をかけて非常に危険な道を行かねばならないのでした。
例えば中国人の僧侶で一番最初にお経を求める旅に出たのは、三国時代の魏の朱士行です。
後漢の時代に支婁迦讖が翻訳した『道行般若経』の原典が見たいと思い、260年にインドに向かって出発しました。
途中、西域のホータンでみごと原本を手に入れたものの高齢で帰れず、弟子に持ち帰らせて自分は旅先で80歳で亡くなったのでした。
やがて弟子は291年に翻訳して『放光般若経』を完成しています。
このように、お経を求めて旅に出たものの、志なかばにして病気や事故で命を落とす人もたくさんありました。
まさに命がけの旅路だったのです。
では、三蔵法師はどんな道を通ったのかというと、陸路と海路の2つあります。
陸路も危険ですが、海路はもっと危険なため、最初は陸路が使われていました。
陸路というのは前漢の武帝が開いたシルクロードです。
タクラマカン砂漠の北側を通る道を西域北道、
南側を通る道を西域南道といわれます。
西域北道には、クチャ(亀茲)、トルファン(高昌)などのオアシスの都市がありました。
西域南道には、ヤルカンド(莎車)、ホータン(于闐)、チェルチェン(且末)などのオアシスの都市がありました。
さらに西には、安息(パルティア)、月氏、康居(ソグディアナ)などの国がありました。
三蔵法師の名前に「安」がつくのは、安息国、「支」がつくのは月氏、「康」がつくのは康居、「竺」がつくのはインドのことです。
自分や先祖の出身地を表しています。
これが陸路です。
玄奘の唐の時代でも3人に1人は死ぬという険しい道のりです。
もう一つは、海路があります。
海路から仏教を伝えたのは、南宋の時代の求那跋陀羅や、梁の時代の真諦
などの三蔵法師があります。
中国からインドへ行った三蔵法師では、東晋の時代、法顕が陸路でインドに向かいます。
399年に長安から出発して6年がかりでインドにたどり着き、帰りは海路で412年に中国に到着しています。
その様子は、『仏国記』に記されています。
中国に帰って来たのは法顕1人でした。
当時はまだ海路も危険で、やがて唐の時代以降に海路もよく使われるようになるのでした。
唐の時代の義浄になると、行きも帰りも海路です。
『南海寄帰内法伝』という旅行記にその様子が記されています。
主な三蔵法師と翻訳したお経
こうしてインドから中国へ仏教を伝えた三蔵法師は、後漢の時代から元の時代までたくさんありますが、有名な三蔵法師をまとめると以下のようになります。
年代 | 三蔵法師 | 生没年 | 出身 | 翻訳数 | 翻訳した有名なお経 |
---|---|---|---|---|---|
後漢 | 迦葉摩騰 | ? - 73年(67年洛陽へ) | インド | 『四十二章経』 | |
後漢 | 竺法蘭 | 不詳(67年洛陽へ) | インド | 4部 | 『四十二章経』『仏本行経』 |
後漢 | 安世高 | 不詳(148年頃活躍) | 月氏 | 34部40巻 | 『四諦経』『八正道経』『転法輪経』 |
後漢 | 支婁迦讖 | 147年頃 - ?(167年頃活躍) | 月氏 | 14部 | 『平等覚経』『般舟三昧経』『道行般若経』『首楞厳経』『雑譬喩経』 |
三国・呉 | 支謙 | 不詳 | 月氏 | 29経 | 『大阿弥陀経』『大般泥洹経』『維摩経』『義足経』(スッタニパータに相当する漢訳経典) |
三国・呉 | 康僧会 | ? - 280年 | 康居 | 『六度集経』『旧雑譬喩経』 | |
三国・魏 | 康僧鎧 | 不詳(252年頃) | インド | 『無量寿経』 | |
西晋 | 竺法護 | 239年 - 316年 | 月氏 | 154部309巻 | 『維摩詰経』『大宝積経』『光讃般若経』『正法華経』『盂蘭盆経』『生経』 |
姚秦 | 鳩摩羅什 | 344年 - 413年 | 亀茲国 | 74部384巻 | 『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』『梵網経』『坐禅三昧経』『十住毘婆沙論』『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』『成実論』 |
東晋 | 法顕 | 337年 - 422年 | 中国 | 『摩訶僧祇律』『五分律』『長阿含経』『大般泥洹経』 | |
東晋 | 仏陀跋陀羅 | 359年 - 429年 | インド | 15部117巻 | 『華厳経』『摩訶僧祇律』『大般泥洹経』『観仏三昧経』 |
梁 | 浮陀跋摩 | 不詳(433年頃活躍) | 西域 | 『大毘婆沙論』 | |
北涼 | 曇無讖 | 385年 - 433年 | インド | 11部112巻 | 『大般涅槃経』『大集経』『金光明経』『悲華経』『優婆塞戒経』『仏所行讃』 |
南朝宋 | 求那跋摩 | 367年 - 431年 | インド | 10部18巻 | 『菩薩善戒経』『四分比丘尼羯磨法』『優婆塞五戒相経』 |
南朝宋 | 畺良耶舎 | 382年 - 443年 | 西域 | 『観無量寿経』 | |
南朝宋 | 求那跋陀羅 | 394年 - 468年 | インド | 52部134巻 | 『雑阿含経』『勝鬘経』『楞伽経』『過去現在因果経』 |
北魏 | 菩提流支 | 不詳(508年頃活躍) | インド | 39部127巻 | 『金剛般若経』『入楞伽経』『解深密経』『浄土論』『十地経論』 |
梁 | 真諦 | 499年 - 569年 | インド | 76部315巻 | 『金光明経』『倶舎釈論』『摂大乘論』『大乗起信論』『唯識論』『仏性論』 |
北周 | 闍那崛多 | 523年 - 600年? | インド | 37部176巻 | 『添品妙法蓮華経』『仏本行集経』 |
隋 | 達磨笈多 | ? - 619年 | インド | 9部46巻 | 『大宝積経』『添品妙法蓮華経』『薬師如来本願経』 |
唐 | 菩提流志 | 572年 - 727年 | インド | 26会39巻 | 『大宝積経』『無量寿如来会』 |
唐 | 玄奘 | 602年 - 664年 | 中国 | 76部1347巻 | 『大般若経』『般若心経』『瑜伽師地論』『倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『成唯識論』 |
唐 | 義浄 | 635年 - 713年 | 中国 | 56部230巻 | 『金光明最勝王経』『大宝積経』『譬喩経』『弥勒下生成仏経』『毘奈耶』 |
唐 | 善無畏 | 637年 - 735年 | インド | 28部53巻 | 『虚空蔵求聞持法』『大日経』 |
唐 | 実叉難陀 | 652年 - 710年 | 西域 | 19部107巻 | 『華厳経』 |
唐 | 金剛智 | 669年 - 741年 | インド | 8部11巻 | 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』 |
唐 | 不空金剛 | 705年 - 775年 | 西域 | 110部143巻 | 『金剛頂経』 |
宋 | 法賢 | ?-1000 | インド | 120部 | 『無量寿荘厳経』 |
宋 | 施護 | ?-1018 | インド | 115部255巻 |
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)