旦那とは?
「旦那が自己中心的で自分のことしか考えない」とか、
「子供(ガキ)のようにワガママだ」とか、
「赤ちゃん返りした」とか、色々驚くことが起きますが、本来は、ちゃんちゃらおかしなことです。
なぜなら「旦那」の語源は布施ですから、本来与える人であって、もらうばかりの「餓鬼」とは真逆だからです。
旦那はそもそもどんな意味?
「旦那」というと、一番多く使われているのは、奥さんが夫のことを「ダンナ」というときです。女子会では、「うちのダンナがさぁ…」とか「なんかダンナがぁ…」と大きい声で言っています。
その他にも、執事やメイドが主人を「旦那さま」と呼んだり、
昔のホームレスの人も「右や左のダンナさま」と言いますが、
旦那という言葉は、もとは「ダーナ」という仏教の言葉です。
辞書によればこのようにあります。
だんな 【檀那・旦那】
①〔仏〕(梵語dāna)
㋐布施。
㋑仏家が、財物を施与する信者を呼ぶ語。施主。檀越。檀家。今昔物語集(13)「持法聖人は偏へに―の訪ひに懸りて豊かなる事なし」
②家人召使いが主人を呼ぶ語。
③妻が夫を呼ぶ語。また、妾や囲い者の主人。
④商人・芸人などが得意客を呼ぶ語。
⑤目上の男性を呼ぶ語。(引用:『広辞苑』第七版)
このように「ダーナ」は、サンスクリットで「布施」のことですので、この言葉が英語にもなり、臓器提供者を「ドナー」と言ったり、寄付のことを「ドネーション」といいます。
仏教では、布施や、布施をする人を旦那といいます。
「檀那」とも書きますので、「檀家」というのは、お寺に財施をする「檀」那の「家」ということです。
そこから転じて、召使いが主人を呼ぶ言葉になったり、妻が夫を呼ぶとになったり、色々な使い方がされるようになったわけです。
このように、旦那というのは、餓鬼とか自己中心的どころか、そもそも布施をする人のことで、布施こそ旦那のあるべき姿なのです。
餓鬼とは
旦那に対して、餓鬼という言葉があります。
これも参考に国語辞書で調べるとこのようにあります。
が‐き【餓鬼】
①〔仏〕悪業の報いとして餓鬼道に落ちた亡者。やせ細って、のどが細く飲食することができないなど、常に飢渇に苦しむという。
②子供をいやしんでいう称。(引用:『広辞苑』第七版)
餓鬼というのは、餓鬼道に堕ちた衆生のことです。
いつも飢えと渇きに苦しみます。
なぜそんな状態になってしまったのかというと、餓鬼道というのは、いつも欲しがるばかりで、布施することを知らなかった人が堕ちる世界です。
餓鬼というのは、もらうばかりで、与えることを知りません。
いつも「くれーくれー」と言っているので、「クレクレ星人」ともいわれます。
「あれしてくれない、これしてくれない」とも言っているので、かつて「くれない族」と言われた時期もありました。
これがひどくなると「くれないの豚」といわれます。
自己中心的で、自分のことしか考えていないので、他人の気持ちを理解しません。
「自分さえよければ他人はどうなってもいい」と思っていますので、自分が得するとなれば目がらんらんと輝きますが、自分と利害関係のないことにはサイコパスのように冷酷です。
与えることを知らないので、ケチで、一円でも安いものを買う傾向にあります。
その反面、スーパーの試食や無料の試供品をもらうことは大好きです。
そして「愛してくれない、優しくしてくれない、分かってくれない、連絡してくれない、協力してくれない、プレゼントくれない」などと、自分はしないことを他人に要求し、文句ばっかり言います。
そんな人と付き合いたい人はいないので「類は友を呼ぶ」で、徳のある立派な人は離れていき、いつの間にか周りは自己中心的な餓鬼だらけになります。
自分のことしか考えない餓鬼ばかりの集まりになると、みんな少しでも楽して、他人の力で結果を得ようとする、奪い合い、盗み合いの壮絶な餓鬼道が出現します。
そして、自分はもらってばかりで、他人に与えていないことに気づいていないので、なぜ自分が苦しんでいるのか気づかずに、奪い合い、奪われ合って、苦しみ続けるのです。
それでお釈迦さまは、もらうばかりで与えることを知らずに苦しんでいる私たちに、布施することを教えられています。
旦那とは
旦那というのは、布施をする人のことです。
布施というのは、もらうのとまったく反対で、与える、ということです。
影を追いかけると影は逃げていくように、求めれば求めるほど、幸せは逃げていきます。幸せは影のようなものなのです。
求めるばかりで、与えることがなければ幸せにはなれません。
逆に、「光に向かえば影はついてくる」のです。
光に向かうというのは、仏教に教えられているように、布施をする、与えるということです。
光に向かうのは影と反対方向なので、一見影から遠ざかるようですが、光に向かうと影は後から離れることなくついてきます。
ちょうどそのように、幸せは、欲しがるものではなくて与えるものだから
幸せになりたければ、幸せを与えなさい、
優しさが欲しければ、優しさを与えなさい、
分かって欲しければ、まず相手を分かってあげなさい、
欲しがるのではなく、与えなさい、と仏教では教えられています。
「自分はどんなに苦しくても、あなたに幸せになってもらいたい」
と相手を幸せにすることによって自分も幸せになる、「自利利他」が、仏教の精神なのです。
「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」という相田みつをの有名な言葉がありますが、これはまったくその通りです。
このことは『ダンマパダ』にお釈迦さまがこう説かれています。
物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。
愚かな人々は分かちあうことをたたえない。
しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。(引用:『ダンマパダ』177)
餓鬼と旦那を比べると、このように正反対になるのです。
このように、「旦那」はもともと布施をする人のことですから、既婚男性に限らず、男女を問わず、お釈迦さまは、すべての人に旦那になるように勧められています。
それによってみんなで幸せになるのが、大乗仏教の自利利他の精神であり、菩薩道といわれるものなのです。
幸せになって欲しい大切な人には、ぜひ仏教を教えてあげてください。
ではお釈迦さまは、何のために自利利他の道を明らかにされたのかといいますと、実は、本当の幸せに導くためです。
お釈迦さまが本当に説きたいと思われたことは、どんな人でもなれる本当の幸せとは何かということと、本当の幸せになる方法です。
それについては電子書籍とメール講座にまとめておきましたので、以下のページから一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)