瞑想の意味
「瞑想」というと、最近大きく注目を集めています。
マインドフルネス瞑想などは、有名な大企業でも取り入れられています。
他にも、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想や、禅宗の座禅など、瞑想には色々な種類があります。
瞑想の目的や心のしくみ、瞑想をする時に注意すべき危険など詳しく解説していきます。
瞑想とは
まず、瞑想について、仏教の辞典を見てみましょう。
瞑想
めいそう
<冥想>とも書く。
<冥想>は漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味。
東晋の支遁の「詠懐詩」に「道会 冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、大道に合一するために冥想が貴ばれている。
深い精神集中のなかで根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表すことは、『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。
「冥冥に視、無声に聴く。冥冥の中、独り暁を見、無声の中、独り和を聞く」〔『荘子』天地〕、「冥然として造化と一と為る」〔『荘子』養生主、郭象注〕など。
「冥想」もそうした『荘子』の思想を背景として出てきたものと考えられる。
しかし、伝統的な仏教ではこの語はほとんど用いられていない。
近代になって、仏教がヨーロッパで研究・実践されるようになると、禅やチベット仏教の実修がヨーガなどとともにmeditation、contemplationとして理解されるようになり、それが邦訳されて<瞑想>と呼ばれるようになった。
ヨーロッパにおいても、カトリックやキリスト教神秘主義の伝統では瞑想を重視する。
ここから、仏教の瞑想もこれらのヨーロッパの伝統と比較され、また、心理学や精神医学の領域に取り入れられるなどして、広く普及するようになった。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞典にあるように、仏教ではあまり瞑想という言葉は使われないです。
そのため、仏教辞典でも仏教以外の瞑想について書かれていますので、
ここでは仏教の瞑想について分かりやすく解説していきたいと思います。
瞑想を仏教でいわれる禅定の意味だとすれば、
瞑想とは、心を乱さず、一つの対象を見つめることです。
瞑想の目的
瞑想を何のためにするのかと言われれば、
世間では、心身の健康のため、という人が多いと思います。
心を病んでいる人が、心の健康を回復するために試みる人もありますし、
そこまでいかなくても不安なことがたくさんあって心がざわつくので、
心を落ち着けてリラックスするために瞑想をするという人もあります。
また、大企業でマインドフルネス瞑想を取り入れたりしているのは、
能率を上げるためや、創造性を高めるためなど、仕事の成果のためです。
ところが、仏教の瞑想の目的はまったく異なります。
それは、本当の生きる目的の達成を目指すためです。
世間で瞑想をする目的である、心身の健康や仕事のためというのは、
どうすればよりよく快適に生きていけるか、という生きる手段のためですので、
まったく異なります。
仏教の目的は、生きるためではありません。
人間に生まれてきた目的である、本当の幸せになるためです。
仏教の言葉でいえば、解脱をうるためであり、
涅槃をうるため、ということになります。
瞑想を教えられた『念処経』というパーリ仏典には
このように説かれています。
ここに有情の浄化、愁悲の超越、苦憂の消滅、正理の到達、涅槃の作証のために、この一乘あり。
即ち、四念処なり(引用:『中部経典』念処経)
「四念処」というのは仏教の瞑想のことです。
その瞑想が何のためにあるのかというと、
生きるものが清くなり、愁いや悲しみを乗り越え、
苦しみや憂いを消滅し、正理に到達し、涅槃を悟るためにある、
といわれています。
本当の幸せになって、涅槃に到達するため、ということです。
では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。
瞑想の方法
瞑想の方法について、このお経には、四念処を教えられています。
「念処」は、パーリ語では「サティパッターナ」といいますが、
注意を振り向けて、しっかりと把握することです。
分かりやすくいえば、五感や身体の動きに注意して、気づくことです。
それに4つあるので「四念処」といわれています。
その四念処とは、どんな4つかというと、
上記の『念処経』の次のところに、こう教えられています。
四とは何ぞや。
日く、ここに比丘、
身に於て身を隨觀し、熱心にして注意深く、念持してあり、世間に於ける貪憂を除きてあり。
受に於て受を隨觀し、熱心にして注意深く、念持してあり、世間に於ける貪憂を除きてあり。
心に於て心を隨觀し、熱心にして注意深く、念持してあり、世間に於ける貪憂を除きてあり。
法に於て法を隨觀し、熱心にして注意深く、念持してあり、世間に於ける貪憂を除きてあり。(引用:『中部経典』念処経)
このように「身」「受」「心」「法」の4つを気づく対象として挙げられています。
それぞれ「身念処」、「受念処」、「心念処」、「法念処」といいます。
身念処は身体の動きに気づくことです。
代表的なのは吸う息と吐く息です。
受念処の受は感覚作用です。
苦しいとか楽しい、苦しくも楽しくもない、という苦楽の感覚に気づくことです。
心念処は、欲の心、怒りの心、愚痴の心、散乱した心など、心の動きに気づくことです。
法念処も、心の動きです。
代表的なのは五蓋です。
五蓋とは、貪欲、瞋恚、心が沈んで眠くなること、落ち着きがなく後悔すること、疑いの5つです。
仏教の瞑想を分かりやすく説明すれば、
これらの4つに気づくことが基本的です。
瞑想のしくみ
このように、心や体の動きに気づくことによって、
心はどのように動くのでしょうか。
私たちの心は、五感によって何かを感じた後、色々なことを思います。
例えば車に乗っている時に、信号が赤になったとします。
その時には、まず始めに、赤い色を感知します。
その後、せっかく目的地に向かってすいすい進んでいたのに、
到着が遅くなると思って腹が立ちます。
さらに、止まってからまた動き出すのにガソリンを使うので、
お金も損だし、地球環境にも悪いと腹が立つかもしれません。
中には、このタイミングで赤になるのは、誰かが私にいじわるしているんじゃないか、と勘ぐる人もあるかもしれません。
単に信号が赤になっただけなのに、
心は自動的に色々の連想を始めてしまうのです。
このような連想を仏教では、2番目の矢とか、二の受といわれます。
『相応部経典』にはこう説かれています。
寡聞の凡夫は身所属の苦受に触れられ、憂い疲れ悲しみ胸を搏ちて泣き、迷却するに至る。
彼は二種の受を感ず、身に属する〔受〕と心に属する〔受〕となり。
比丘等よ、譬へば人を箭を以て刺すとし、そ〔の人〕をまた第二の箭をもって刺すとせよ。
比丘等よ、是のごとくしてこの人、二の箭の受を感ず。
それと同じく比丘等よ、寡聞の凡夫は苦の受に触れられ、憂い疲れ悲しみ胸を搏ちて泣き、迷却するに至る。
彼は二種の受を感ず、身に属する〔受〕と心に属する〔受〕となり。
苦受に触れらるるや、彼に瞋恚あり、(引用:『相応部経典』箭経)
「寡聞の凡夫」というのは、あまり仏教を聞いていない普通の人のことです。
普通の人は、苦しい感覚を受けると、
憂い、疲れ、悲しみ、胸を打って泣き、迷乱します。
例えるなら、一本目の矢で射貫かれると痛いのですが、
すぐにまた第二の矢が射貫くようなものです。
この一本目の矢が、信号の例でいえば、赤信号を感知したことです。
第二の矢が、その後、続々と起きてくる連想です。
このように、私たちの心は、何かの感覚によって、
自動的に色々と自分が苦しむようなことを連想し始めるのです。
瞑想というのは、この一本目の矢である、五感や身体の動きに注意を留めることによって、心が勝手に動かないようにすることです。
信号が赤になったら、赤になったことに気づいて終わりです。
それによって、余計な苦しみを感じなくて済むということです。
これが瞑想の基本的な原理です。
さらに仏教では、瞑想を2つに分けて2つの瞑想が教えられています。
2つの瞑想
この瞑想によって、深く集中した状態を「三昧」といいます。
世間でも「勉強三昧」とか「掃除三昧」、「贅沢三昧」など、そればかりやっている時に「三昧」をつけます。
これは意味が変わってしまっていますが、もとはといえば瞑想状態から来ているのです。
インドの言葉ではサマーディですが、それを中国の言葉に音写したのが「三昧」で、意訳では「定」といいます。この三昧の状態に心が入ったとき正しい禅定が起きて真理を悟るといわれます。
その三昧に入り、悟りを得るやり方として、2つの瞑想があります。
それが、サマタとヴィパッサナーの2つです。
漢訳では、サマタの音写が「奢摩他」、意訳が「止」です。
ヴィパッサナーの音写が「毘鉢舎那」、意訳が「観」です。
この2つをまとめて「止観」といわれます。
ですから『長阿含経』には、このように説かれています。
いかんが二の修法なる、いわく止と観となり。
(漢文:云何二修法 謂止與觀)(引用:『長阿含経』)
また『増壱阿含経』にはこう説かれています。
比丘はまさに二法を修行すべし。いかんが二法なる、いわゆる止と観となり。
(漢文:比丘當修行二法 云何二法 所謂止與觀也)(引用:『増壱阿含経』)
その他たくさんのお経に説かれています。
このお経に説かれる「止」がインドの言葉ではサマタ瞑想で、「観」がインドの言葉ではヴィパッサナー瞑想ですが、それぞれどんな瞑想なのでしょうか?
サマタ瞑想(止)とは
サマタは、「止」と漢訳されるように、心を乱さず、心をしずめることです。
一番分かりやすいのは、吸ったり吐いたりする呼吸に気づき続ける瞑想です。
呼吸の数を数えるものを、数息観といいます。
また、有名なものでは、九相観があります。死体が朽ち果てていく9段階のプロセスを通して瞑想するものです。
ほかにも、慈・悲・喜・捨で有名な「四無量心観」があります。
「四無量心」とは、慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心の4つです。
慈とは、楽を与えること、悲とは苦しみを抜くこと、喜とは、他人が楽を得るのを見て喜ぶこと、捨は、他人に愛憎などの心がなく、平等であることです。
「四無量心観」は、無量の衆生に対してこれら4つの心を起こす瞑想です。これができると、
心をしずめても、微細な心の動きが残り、それによって8つの段階があります。
もし「四無量心観」ができれば、8つの段階の一番最初の初禅に至ります。そして死ねば天上界の最初の梵天という世界に生まれることができると教えられています。
ブッダはまだ仏のさとりを開かれる前、アーラーラ・カーラーマの所を訪れ、教えを受けて、すぐに無所有処という境地に達します。
これは、2番目に高い段階です。
驚いたアーラーラ・カーラーマから一緒に教団を率いてくれないかと頼まれますが、ブッダはこの境地に満足されず、もっと高い境地を求めて去って行きます。
次にブッダは、ウッダカ・ラーマプッタを訪れ、教えを受けると、すぐに非想非非想処という境地に達します。
これが一番上の段階です。
驚いたウッダカ・ラーマプッタから、一緒に教団を率いてもらえないかと頼まれますが、ブッダはこの境地に満足されず、去って行かれます。
それ以来、ブッダは、師に依らず、一人で悟りを求めて行かれたのです。
ヴィパッサナー瞑想(観)とは
サマタ瞑想が心をしずめるのに対して、ヴィパッサナー瞑想は、「観」ると漢訳されるように、心で対象を観察する、見るということです。
見る対象は様々なものがありますが、一番分かり易いのがやはり呼吸です。
出る息、入る息を観じます。これを「入息出息観」といいます。
また、有名なのは、「四念処観」です。
ブッダは『雑阿含経』には、こう説かれています。
もろもろの比丘よ、一乗道あり。もろもろの衆生を浄め、憂悲を越え、悩苦を滅し、如実の法を得しむる。いわゆる四念処なり。
(漢文:諸比丘 有一乘道 淨諸衆生 令越憂悲滅惱苦得如實法 所謂四念處)(引用:『雑阿含経』)
この「四念処」とは何かというと、ブッダは『長阿含経』にこのように説かれています。
いかんが四法の涅槃に向うなる、いわく四念処なり。身念処、受念処、意念処、法念処なり。
(漢文:云何四法向涅槃 謂四念處 身念處 受念處 意念處 法念處)(引用:『長阿含経』)
四念処というのは、身念処、受念処、心念処、法念処の4つです。
この四念処を、八宗の祖師といわれる龍樹菩薩は、『大智度論』にこのように解説されています。
何等かこれ四念処なる。答えていわく、身念処、受心法念処なり。
これを四念処となす。四法を観ずる四種あり、身は不浄なりと観じ、受は是れ苦なりと観じ、心は無常なりと観じ、法は無我なりと観ず。
(漢文:何等是四念處 答曰身念處受心法念處 是爲四念處 觀四法四種 觀身不淨 觀受是苦 觀心無常 觀法無我)(龍樹菩薩『大智度論』)
「身念処観」は、身体に関するものを観察するものです。
「入息出息観」も身念処観です。
歩いたり、立ったり、横たわったりするのを観察するのも、身念処観です。
これによって、身体が不浄であることを知らされます。
「受念処観」は、感覚や心の苦楽を観ずることです。これによって、感ずるものは結局は苦であることが知らされます。
「心念処観」は、心を観ずることです。これによって、心は変わり通しで、無常であることが知らされます。
「法念処観」は、存在要素を観ずることです。これによって、一切は無我であることが知らされます。
こうして、「常楽我浄」は妄念であり、無常、苦、無我、不浄が真理であることが知らされます。
ちなみによくある「マインドフルネス瞑想」というのは、もともと八正道の7番目の「正念」を英訳された言葉ですが、ヴィパッサナー瞑想のことをマインドフルネスと言っている人もあります。
ただ、マインドフルネスの場合、病気を治したり、集中力を高めて仕事の効率を上げるのが目的で、仏教とは異なります。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の関係
では、サマタ瞑想はいらなくて、ヴィパッサナー瞑想だけやればいいのでしょうか?
そうではありません。サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は、密接不離の関係にあります。
この止観を重視し、天台宗を開いた智顗は、『天台小止観』に、こう言っています。
「まさに知るべし、この二法は車の双輪、鳥の両翼のごとし。もし偏えに修習すれば、すなわち邪側に堕す」
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は車の両輪、鳥の両翼のようなものだから、もし片方だけを修行すれば、よこしまな、間違った道に堕ちるであろう、ということです。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の関係について、『首楞厳経 』にはこう説かれています。
心を摂するを戒と為す。
戒によって定を生じ、定によって慧を発す。
(漢文:摂心為戒 因戒生定 因定発慧)(引用:『首楞厳経』)
このように、悟りを得る修行を「戒定慧」といわれます。
悟りを得るには、煩悩を減らして行く必要があります。
そのために、「戒定慧」の「戒」は戒律で、煩悩を抑え、「定」で心を一つにして煩悩をさえぎり、「慧」は智慧で、煩悩を断つということです。
この「戒定慧」でいうと、サマタが「定」で、ヴィパッサナーが「慧」となるのです。
各宗派の瞑想
このように、瞑想の基本はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想であり、止観ですので、各宗派でも、とても重視されています。
テーラワーダ仏教
現代のテーラワーダ仏教では、伝統的な最高権威のブッダゴーサの『清浄道論』に従った瞑想ではなく、マハーシ(1904-1982)やゴエンカ(1924-2013)の教えに従い、ヴィパッサナー瞑想に偏って瞑想を行います。
テーラワーダ仏教の世界では、瞑想はミャンマー、戒律はタイ、学問はスリランカと言われています。
ミャンマーの瞑想
まず、ミャンマーで廃れかけていた瞑想を復興し、僧侶の養成機関を作ったのが、レディ(1846-1923)という人です。
そのレディが育てた一人がマハーシであり、オーバーキンという人です。
そのオーバーキンの弟子がゴエンカです。
マハーシは、ビルマに沢山の瞑想センターを作って成功をおさめた人です。
現在の瞑想センターの大半がマハーシのものです。
瞑想を簡単にするために呼吸したときのお腹の膨らみやへこみに集中するのが特徴です。
ゴエンカは、もともと商売人だった人で、瞑想で病気が治ったので瞑想に打ち込むようになり、教団を作った人です。
こちらは出家者ではなく、在家の人が教えています。
タイの瞑想
タイは、国教が仏教で、男性は基本的に一度は出家するほど仏教が盛んです。
タイでも、瞑想はミャンマーの影響を受けて、お腹の膨らみとへこみを用いた瞑想が行われています。
また、タンマガーイという集団で行われる瞑想では、水晶玉を使ったり、護符を使ったりします。
その上、仏教では諸法無我であるにもかかわらず、真我をみるといい、仏教とは異なる瞑想の実践がなされています。
スリランカの瞑想
スリランカのテーラワーダ仏教もミャンマーの人々の開発した瞑想の影響を強く受けています。
現代の日本に来ているテーラワーダ仏教も、原始仏教とか初期仏教と自称していますが、実際にはミャンマーのこのどちらかの系統で、仏教を参考に作られた現代的な瞑想法になっています。
これらの瞑想の特徴
これらの瞑想は、サマタ瞑想にあまり重きをおかず、ヴィパッサナー瞑想ばかりを行うのが特徴です。
ところが、本来の伝統的なテーラワーダ仏教では、サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も行います。パーリ仏典の、増支部経典には、こうあります。
比丘衆よ、これらの二は順明分の法なり。何をか二とす。
奢摩他(サマタ瞑想)及び毘鉢舎那(ヴィパッサナー瞑想)なり。
比丘衆よ、奢摩他を修して何の義を成就するか、心を修す。
心を修して何の義を成就するか、所有する貪が断たる。
比丘衆よ、毘鉢舎那を修して何の義を成就するか、慧を修す。
慧を修して何の義を成就するか、所有する無明が断たる。
比丘衆よ、貪に染せられたる心は解脱せず、無明に染せられたる慧は修せられず。
(引用:『増支部経典』)
このように、テーラワーダ仏教で伝えられるお経には、サマタ瞑想を軽んじていると貪(欲望)が断たれないため、解脱することはできないと説かれています。
また、テーラワーダ仏教の最高権威の僧侶であるブッダゴーサの『清浄道論』にも、サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も行うことを、このように記されています。
止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)との習熟によりてこれらの区別を知るべし。止に習熟せざる者には苦行道あり、習熟せる者には楽行道あり。次に観に習熟せざる者には遅通達あり、習熟せる者には速通達あり。
(引用:ブッダゴーサ『清浄道論』)
現代のテーラワーダ仏教のように、サマタ瞑想を軽んずると、苦しい道のりとなるのです。
天台宗
天台宗を開いた中国の智顗は、止観を重視しました。三種止観によって、瞑想を整理しています。
三種止観とは、漸次止観、不定止観、円頓止観の3つです。
漸次止観とは、戒律をたもち、だんだん深い境地に入る瞑想方法で、『次第禅門』に解説されています。
不定止観とは、性質や能力に応じて定まっていない瞑想方法で、『六妙法門』に解説されています。
円頓止観は速やかで完全な究極の瞑想で、『摩訶止観』に解説されています。
『摩訶止観』は、四種三昧から始まり、十乗観法に至ります。
四種三昧が「止」で、十乗観法が「観」です。
基本に忠実に、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が実践されるのです。
真言宗
真言宗の瞑想の特徴としては、口には真言を唱え、手には印を結びます。
瞑想に入るまでの細かい作法があります。
種類としては、呼吸を数える「数息観」もありますし、月輪を観ずる「月輪観」もあります。
代表的な瞑想は「阿字観」といわれるものです。
究極的にはすべてをサンスクリットの「阿」に相当する一文字と観ずるものです。
また、「入我我入観」という瞑想もあります。「入我」とは、本尊の身が自分に入ることで、「我入」とは、自分の身が本尊の身に入ることです。
本尊の身と自分の身と不二と観ずる瞑想です。
さらに、本尊の言葉と自分の言葉が不二と観ずる正念誦、本尊の心と自分の心が不二と観ずる字輪観も行い、本尊と一体になって即身成仏しようとするのが真言宗の瞑想です。
禅宗
達磨が開いたといわれる禅宗では、瞑想を極めて重視します。
そして禅宗の瞑想には特徴があります。
現在の禅宗に大きな影響を与えたのは、中国の達磨から8代目の馬祖道一です。
馬祖道一の禅は、「平常心これ道なり」という言葉に表れています。
日常生活のありのままが瞑想であり、日常生活の中に悟りを見いだすというものです。
そして禅宗のもう一つの特徴は、公案を使うことです。
公案というのは、師匠の僧侶から与えられる問題です。
最初は答えのある問題だったようですが、「だんだん片手で拍手をした時どんな音がするか」など、答えが出ない問題になります。
師匠に回答を求められて答えると、否定されます。
これによって問題を考え続け、心を一つにしようというものです。
ちなみに参禅していると、警策で叩くためにウロウロしている人がいるのですが、結構気になって気が散ります。
参禅する時間帯は朝早かったりしますが、もし寝ちゃった場合、一度肩に警策を置かれてロックオンされ、パシッと叩かれます。
瞑想で注意すべき危険
瞑想をしていると、色々な弊害が起きることがあります。
天台宗を開いた智顗は、それを色々と教えています。
例えば、過去の経験が思い出されてきたり、幻覚が見えたり、などです。
中でも、煩悩が見えてくる、ということがあります。
『摩訶止観』にはこう教えられています。
駛水の流れ、これに順ずればその疾きことを覚えず、これをはかればすなわち奔猛なることを知るがごとし。
行人、煩悩の流れに任せ、生死の海によりてすべて覺知せず。
もし道品を修すれば、諸有の流れにさからって煩悩鬼起す。
(漢文:如駛水流 順之不覺其疾 概之則知奔猛 行人任煩惱流沿生死海 都不覺知 若修道品泝諸有流 煩惱嵬起)(引用:『摩訶止観』)
「駛水」とは、速い川の流れのことです。
心を速い川の流れにたとえて、それにしたがえば、その速いことに気づきません。
ところが、心に逆らえば、流れが速いことが知らされます。
ちょうどそのように、煩悩の流れに任せていれば、
生まれ変わり死に変わりして、まったく気づかない。
ところが、「道品を修すれば」、つまり悟りを目指して修行をすれば、
生まれ変わりの流れに逆らって、煩悩が鬼のように噴き上がってくる、
ということです。
これは例えば、食欲に任せていつもお腹いっぱい食べていれば、
自分に食欲があることに気づきません。
ところが、ダイエットをしてお腹がすいてくると、
とにかく食べたいという食欲が噴き上がってくるようなものです。
心を一つにしずめようとすればするほど、散り乱れる心が知らされ、
欲望を抑えようとすればするほど噴き上がってくるのです。
瞑想の意味
瞑想は、現代ではリラックスしてストレスを解消するためとか、集中力を鍛えて仕事に生かすために世間でも取り入れる企業がありますが、
それは本来の目的ではありません。
仏教の瞑想は、悟りを得るための修行です。
ではその悟りを得るための瞑想修行は簡単なのかというと、瞑想を行う宗派では、必ず出家して、戒律を守る必要があります。
では出家して戒律を守れば悟りが得られるのかというと、極めて困難です。
悟りには、低いものから高いものまで全部で52の段階があります。
その最高のさとりを仏のさとりといい、どの宗派も目指すゴールです。
ところが、天台宗を開いた智顗でも、一生涯瞑想修行を行って、52段でいえば10段にも達しなかったと言い残しています。
真言宗を開き、弘法大師といわれる空海でも、現在も瞑想修行をしているという伝説があるほどですので、仏のさとりまでは至りません。
禅宗を開いた達磨は、手足が腐ってなくなるほど「壁観」という瞑想修行を行いましたが、それでも30段程度だったといわれます。
このような一宗一派を開いた祖師達でも瞑想によって悟りを開くことはできないのです。
ブッダが瞑想を説かれたのは、それによって悟りを得させようというのではなく、欲や怒りや愚痴ばかりで、一つにならない私たちの心の姿を知らせて、苦しみ迷いの根本原因は別にあることを知らせるための方便なのです。
その苦しみ迷いの根元さえ絶ち切れば、煩悩あるがままで、変わらない幸せになれます。
それが、ブッダの明らかにされた、どんな人でも本当の幸せになれる道なのです。
では、苦しみ迷いの根元とは何かというと、仏教の真髄なので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)