禅定とは?
今回は、六度万行の5番目の「禅定」についてです。
「禅定」とは、「禅」も「定」も同じことで、心をしずめ、定めることです。
つまり、心を一つにすることです。
私たちは普通、心が散り乱れているので、心を一つにするのは大切なことです。
仏教でいわれる禅定とは、一体どんなことなのでしょうか?
禅定とは
禅定とはどんなことでしょうか。
一応参考までに仏教の辞典を見てみましょう。
禅定
ぜんじょう
サンスクリット語 dhyāna(パーリ語 jhāna)の音写<禅>と、その意訳<定>との合成語。
心静かに瞑想し、真理を観察すること。
またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。
大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜の第5。
中国では禅定を専らとする禅宗の成立を見た。
霊山に登って禅定に入り、修行を積むことから、日本では霊山の頂上をさして禅定ともいう。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、禅も定も同じ意味で、心をしずめて一つにすることです。
しかも、あらゆる善を6つにまとめられた六波羅蜜の5番目にあげられる重要な行いです。
これは「八正道の正定と同じものである」(出典:『仏教の基礎知識』)と言われることがあります。
禅と定の違い
禅定の「禅」と「定」は同じ意味ですが、
「定」は「三昧」(samādhi)のことです。
心の働きが静止するので「止」(śamatha・舎摩他)ともいいます。
そのような心の状態が定です。
その時に何を思い浮かべるのかという方法が「禅」です。
これを「観」(vipaśyanā・毘鉢舎那)ともいわれます。
この止と観の2つはセットなので、「止観」ともいわれます。
この禅定を実践する時には、浅いところからだんだん深いところへ入っていきます。
それには、三界が深く関係しています。
禅定はどのように深まっていくのでしょうか。
禅定の深まり・三界との関係
三界とは、私たちが輪廻している世界を、
欲界、色界、無色界
の3つに分けて教えられたものです。
禅定は、欲界、色界、無色界の三界のそれぞれの世界で行う行があり、
欲界定、色界定、無色界定があります。
それぞれについて解説しますが、少し難しく、普通は到底できない行ですので、もっとできることを知りたい方は「心が散乱する私たち」へお進みください。
欲界定
五欲にまみれた欲界にいる者が、色界に住もうとして行う禅定で、色界定の準備段階とも言われます。
欲によって心が乱れたまま行うので、色界定・無色界定の禅定よりも、とても浅い禅定となります。
色界定
色界は、欲界を離れた清浄な世界ですが、未だ物質性(色)がある世界です。
色界で行われる禅定を色界定といわれ、四禅があり、段階的に禅定が深くなっていきます。
四禅ができれば、それぞれの段階の功徳に応じた天上界(四禅天)に行けます。
天上界について、詳しくはこちらの記事をお読みください。
➾有頂天の意味と天上界とは?
四禅とは初禅、第二禅、第三禅、第四禅の4つです。
初禅とは、色々な欲や悪を離れていますが、
まだ「尋」と「伺」という探究心の煩悩が残っています。
ですが欲と悪を離れているので喜びがあります。
第二禅とは、「尋」と「伺」も停止して、心が清らかになり、統一します。
「尋」と「伺」がなくなったことにより心が安定した喜びが起きます。
第三禅とは、喜を捨て去り、平等心である「捨」と記憶のような「念」があって喜びが起きます。
第四禅とは、楽と苦を断じ尽くして非苦非楽になります。
捨によって念が清らかになっています。
ここで悟りが得られるといわれます。
- 初禅:欲望から離れる喜びが起きる状態(離生喜楽)
- 第二禅:禅定から生じる喜びが起きる状態(定生喜楽)
- 第三禅:喜びを超越した真の喜びが起きる状態(離喜妙楽)
- 第四禅:苦楽を超越した状態(非苦非楽)
これが本来の禅定の基本です。
欲は離れているのですが、身体の安楽が残っているので色界定といいます。
さらに四禅定が深まり、無念無想になってくると無色界定へ進みます。
無色界定
色というのは物質的なもののことなので、物質的な束縛から完全に解放された世界を無色界といいます。
つまり無色界は肉体のない世界です。
無色界定では、心が肉体の束縛を離れて自在に働きます。
天親菩薩の『倶舎論』には、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想処定の4つが説かれています。
空無辺処定とは、虚空の無辺なることを観察して、第四禅を離れて生ずる状態です。
識無辺処定とは、無辺の識を思って、空無辺処を離れて生ずる状態です。
心の働きが虚空と同じようにほとりがないと観察します。
無所有処定とは、無所有を思って、識無辺処を離れて生ずる状態です。
何ものも対象を見ない観察です。
非想非非想処定とは、そのように見る想念があるのでもなく、ないのでもないと観察します。
『倶舎論』によれば、「非想非非想処」という名前は、「想の昧劣なるによるなり、謂く明勝の想なければ、非想の名を得、昧劣の想あるが故に非非想と名付く」と解説されています。
これは、表象された明らかな心の動きは無いので、非想と名づけられ、極めてわずかな心の動きが無いわけではないために、非非想となづけられる、ということです。
無所有処を離れて、極めてわずかな想がある状態です。
- 空無辺処定
- 識無辺処定
- 無所有処定
- 非想非非想処定
色界定と無色界定をあわせて四禅八定ともいわれます。
ですが、さらにその上があります。
滅尽定・禅定と仏のさとりの違い
非想非非想処でも極めて深い禅定の領域ですが、
さらにその上に「滅尽定」があります。
滅尽定になると、心の働きも完全になくなります。
これらの9つの禅定を合わせて「九次第定」といいます。
ですが滅尽定でも、迷いを完全に断ち切ることはできないので、
解脱はできませんし、涅槃にも入れません。
涅槃はこれらの禅定を超越したところにあります。
実際、ブッダが29才で出家された後、何人かの先生に禅定を習われました。
その時、アーラーラ・カーラーマに学んですぐに
無所有処定を習得されます。
ですが、満足されずに別の先生を捜し求められました。
そしてやがてウッダカ・ラーマプッタに師事して禅定の中では最高の境地である非想非非想処定にたどりつかれます。
それでもブッダは満足されずに、真の悟りを目指して旅立たれています。
ですがもはや最高の禅定を極められたブッダに教えてくれる人は誰もなく、ブッダは仏のさとりを無師独悟されたのでした。
ですから、ブッダの体得された涅槃(仏のさとり)は、四禅八定の延長線上にあるのではなく、まったく別の境地です。
仏のさとりについては、下記をお読みください。
➾阿耨多羅三藐三菩提(仏のさとり)とは?大宇宙最高の真理
しかし、このような禅定を実践するには、三学で教えられているように、まず出家をして、厳しい戒律を守らなければなりません。
仏教では、戒律によって心をおさめて禅定に入ります。
三学については以下の記事をご覧ください。
⇒悟りを開く方法
では、出家して戒律を守れない場合は、どうすればいいのでしょうか。
心が散乱する私たち
禅定の中には、欲があっても心を集中することはできる、ということで、
そんなに深い禅定ではない欲界定もありますし、
出家して戒律を守り、厳しい修行のできない現代人の私たちの場合も、
少しでも心をしずめることが大切です。
「禅定」の反対は、「散乱」です。
私たちは、何となく心がざわつくことがあります。
気になることがたくさんあって、次から次へと心に浮かんでは消えたり、
やらないといけないことがたくさんあるのに、何も手につきません。
そして何もしていないのに、気が滅入ってきて、
結局何もできないまま、次々と手遅れになって大変なことになってしまいます。
ノーマルモードの私たちの心は、
散乱しているのです。
そんな、心があっちへ飛び、こっちへ飛び、
大宇宙をかけめぐっている私たちに、
ブッダは、心をしずめ、一つにしなさい、
と「禅定」を教えられているのです。
心を一つにする科学的な効果
「禅定」は、2600年前から教えられていることですが、
最近では、心を一つにするすばらしさが、
科学的にも分かってきています。
たとえば、マイクロソフトの研究チームは、
マルチタスクとシングルタスクで、
どちらが作業効率がいいかを研究しました。
マルチタスクというのは、色々な作業を同時並行で行うことで、
シングルタスクというのは、一つずつ作業することです。
一見、マルチタスクのほうが、たくさんの仕事ができそうなのですが、
研究の結果、逆にマルチタスクのほうが、
40%も作業効率が落ちることが分かりました。
つまり、物事は一つずつやったほうが、
1.67倍も作業効率がいいのです。
それというのも、人間の脳は、複数のことを同時にすることはできず、
一つずつ実行しているのです。
一見、同時にやっているように見えるのは、
一つずつの作業を高速で切り替えているだけだったのです。
道理で一つに集中したほうが、効率がいいわけです。
心を一つにする方法
しかしながら、一つずつ作業したほうが効率的とわかっても、
やるべきことが色々あると、どうしても気になって、心が散り乱れます。
どうすれば、一つに集中できるのでしょうか。
これは、素手で立ち向かうのは手強いですので、道具を使いましょう。
1.まず紙を用意して、やらなければならないことを書き出します。
2.次に、やる日が決まっているものは、手帳などに書き込みます。
3.最後に、残ったものを優先順位順に並べ直します。
あとは、一番重要なことから一つずつやっていくだけです。
こうすると、ストレスが減り、
心が安定して重要なことに集中できます。
手遅れや失敗も減り、時間も増えて、
やりたいことが自由にできるようになります。
普段それほど心がざわついていない人でも、
ミスをなくし、はるかに多くのことができるようになります。
このように、何かに心を集中するのも大切ですが、
もう一つ大切なのは、自分の心を見つめて、
自分の行いを反省することです。
あなたの運命はどのように決まる?
あなたの運命はどうやって決まるのでしょうか。
まかぬタネは生えませんが、まいたタネは必ずはえる。
幸福も不幸も、すべてあなたの行いが原因なのだと
仏教で解き明かされています。
西洋のことわざにも
You reap what you sow.
ユーリープ ホワットユーソー。
(あなたは、自分がまいたものを刈り取る)
という言葉があります。
ですから、不幸や災難がきた時、自分の過去の行いを
反省できれば、向上があるのです。
逆に反省できなければ、同じ不幸が繰り返し襲ってきます。
失恋を繰り返す人は、
失恋を相手のせいにする傾向があると
アメリカの心理学の研究結果もあります。
自分のどこが悪かったのか反省する人は、
次はうまく行く傾向にあるようです。
反省すると、落ち込んでしまう?
反省は、幸せを生み出す善い行いですから、
反省によって、不幸が生じることはありません。
反省して自己嫌悪に陥ったり、落ち込んだり、うつになる、
というのは、まだ反省できていないのです。
たとえば、後で食べようと思って
冷蔵庫に入れておいたプリンが
知らないうちになくなっていたら、
「きっと妹が食べちゃったんだ」
と思って腹が立ちます。
ところが、考えてみると
「やっぱり自分が食べたんだった」
と思い出すと、腹立ちがすーっと消えてしまいます。
まだ腹が立っているとすれば、
心の中では人のせいにしているのに、
むりやり自分が悪いと思おうとするからです。
「自分をこんなにしたのは、あいつのせい、こいつのせい」
調子の悪い時、自分に不幸がきた時、
他人や環境に原因があると思いがちですが、
それは本当でしょうか。
一呼吸置いて、自分に落ち度はなかったのか、
振り返ってみるようにしましょう。
自分が悪かったと分かれば、
相手を恨んでいた気持ちも、
すーっとおさまります。
不幸なのは、恨まれた人?それとも恨んでいる人?
他にもこんな言葉があります。
Happiness consists in contentment.
ハピネス コンシスツ イン コンテントメント。
(幸せは満足によってできている)
世の中には、すぐれた才能や美貌、お金や財産、健康があっても、
ウラミや呪いの人生を送っている人があります。
逆に、何もなくても、周りに感謝して、生きる喜びいっぱいに
生きている人もあるのです。
幸せか不幸かということは、
どれだけの物を持っているかによって決まるのではありません。
心によって決まるのです。
心の豊かな人は、幸せですし、
心の貧しい人は、苦しみます。
恨まれている人が不幸なのではありません。
恨んでいる人が不幸なのです。
つまり、
この世でもっとも不幸な人は、
他人を恨み、世間を呪い、
感謝の心のない人なのです。
自分が悪かったとわかれば向上できる
あなたが不幸になるのは誰のせいでしょうか。
間違いなく、自業自得です。
失敗を真正面から見つめることができれば、
その不幸を引き起こした行いを反省して、
同じ失敗はせず、
しかも、今までになかった向上ができるのです。
天下人といわれる徳川家康は、生涯に一度だけ
戦いに負けたことがありました。
それが、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」です。
当時の家康は、「信玄恐るるに足らず」という自負があり、
その自惚れ心によって信玄の思うままとなってしまい、
結果惨敗となりました。
家康はその時、負けただけでは終わりませんでした。
自分の自惚れ心が敗戦の原因だったと深く反省し、
自分が体験した信玄の戦法から学びを得て、
後の関ヶ原の戦いで実践し、勝利しました。
つまり負け戦を活用して天下人になったのです。
反省によって、失敗の教訓を見事に生かした事例といえるでしょう。
また、ライト兄弟はキティーホークで初の有人飛行に成功する前、
何度も墜落しました。
それを人や環境のせいにしていたら、飛行機はできたでしょうか。
リンカーンは上院選に2回落ちました。
ディズニーの最初のアニメ会社はつぶれました。
その失敗を見つめ、行いを反省し、向上したのです。
トーマス・エジソンは白熱電球を作るまでに失敗を
1万回くらい分析しました。
ジョン・ペンバートンは健康飲料を作る過程での
失敗を探った結果、
コカコーラを世に送り出しました。
アーサー・フライは接着力の弱い接着剤という
失敗の分析から、ポストイットを考え出しました。
今直面している不幸を乗り越えたところに、
すばらしい世界が広がっているのです。
何か不幸や災難が起きたときは、
他人のせいにせず、自分のたねまきを振り返り、
反省するようにしましょう。
ブッダが禅定を説かれたのは、
欲や怒りや愚痴ばかりで、一つにならない私たちの心のすがたを知らせて、
苦しみ迷いの根本原因は別にあることを知らせるためです。
その苦しみ迷いの根元さえ断ち切れば、
欲や怒りなどの煩悩あるがままで、変わらない幸せになれます。
では、苦しみ迷いの根元と、その解決の方法はどのように教えられているかというと、
それは仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
今すぐ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)