懺悔とは?
「懺悔」とはもともと「ざんげ」ではなく、「さんげ」と読みます。
自分の造った罪や悪を深く受け止めて二度としないことです。
誰しも過去に何かとても悪いことをしてしまって
懺悔したいと思うことがあります。
懺悔するには一体どうすればいいのでしょうか?
懺悔の意味
キリスト教でも懺悔と使われる場合がありますが、正確に懺悔ではなく「告解」や「告白」または「悔悛」です。神に対して許しを請う儀式をいいます。
懺悔は仏教に由来する言葉ですので、「懺悔」の意味について、正確に理解しましょう。
まずは参考までに辞書を見てみます。
懺悔
さんげ[s:deśanā, kṣama, āpatti-pratideśanā]
<悔過>ともいい、自ら犯した罪過を仏や比丘の前に告白して忍容を乞う行儀。
<懺悔>または<悔過>と漢訳されたサンスクリット語は種々ある。
中国仏教では、忍んで赦してくれるよう乞う意の<懺摩>(kṣama)と、過去の罪過を追悔する意の<悔>との合成語とする。
律では満月と新月の説戒に、夏安居の終了日に、戒本を誦し、違反した罪を1人(対首懺)ないし4人(衆法懺)の大僧に告白した行儀で、āpatti-pratideśanā(罪の告白)と称した。
阿含経では釈尊に罪を告白して赦しを願った例が多く、大乗仏教では十方仏や諸仏を礼して身口意三業の罪やあらゆる罪過を発露し懺悔する行儀となり、中国ではこれが特定の儀礼となって懺法の儀則が成立した。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞書の内容は、表面的な理解にとどまりますので、
以下では懺悔について詳しく解説いたします。
お釈迦様が勧められる懺悔
お釈迦様はよく、
「悪いことをしたら懺悔しなさい」
と勧めておられます。
例えば、『雑譬喩経』には、こんなことがあったと説かれています。
ある時、お釈迦様が弟子達を連れて遊行していられると、
向こうから3人の酔っ払った人が来ました。
かなりお酒が入っているのか、3人は気分よく歌を歌っています。
ところが、仏教では、戒律でお酒を飲んではいけないことになっています。
3人は、お釈迦様が来られたことに気がつくと、びっくりして急に歌いやめます。
1人目の人は、そばの草むらにコソコソ隠れました。
2人目の人は、隠れる余裕がなかったのか、そのまま道の真ん中にどっかり座り込んで、「万事休す」と、訳の分からないことを口走っています。
3人目の人は踊り始め、傲慢そうに「何がどうしたって言うんだ。オレは何も、他人様の酒を盗んで飲んだわけじゃねーぞ。
逃げ隠れする必要なんかねーじゃねーか」
反り返って言い放ちます。
それをご覧になったお釈迦様は、阿難にこう誡められました。
「第一の男は次の世で、弥勒菩薩が世に現れて、仏になった時、その教えを受けて成仏するだろう。
第二の男は未来、生まれ変わり死に変わり、千の仏の出世にあって仏道を求め、最後にようやく救われるだろう。
第三の踊り始めた男は、どうしても成仏できない男だ」
(出典:『雑譬喩経』)
罪を罪と知り、悪を悪と知って、これを恥じる人は、上の人間です。
罪を罪と知らない人は、中の人です。
罪と知り、悪と知って、しかもこれを改めないものが最下です。
上・中の人は救う手段がありますが、下の人は救う縁がない、ということです。
これはまた、開き直るのが最悪なので、そのような我が身が知らされるところまで、少しでも罪や悪を自覚し、懺悔しましょう、ということでもあります。
また『四分律』には、このように説かれています。
もし自ら犯あることを知らば、すなわちまさに自ら懺悔すべし。
(漢文:若自知有犯者 即應自懺悔)(引用:『四分律』)
これは
「悪いことしたら懺悔しなさい」
ということです。
では、懺悔するとどうなるのでしょうか?
懺悔の功徳
懺悔するとどうなるかというと、罪が消えるとこのように教えられます。
衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す。
この故に応に至心に六情根を懺悔すべし。
(漢文:衆罪如霜露 慧日能消除 是故應至心 懺悔六情根)(引用:『観普賢菩薩行法経』)
「衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す」とは、色々の罪は、朝日を浴びた霜や露が蒸発するように、仏様の智慧の光明によって消え去るということです。
だから、まことの心で、六情根を懺悔しなさいと教えられています。
「六情根」は、六根と同じで、眼・耳・鼻・舌・身・意
のことです。
この六根によって、心と口と身体で色々な罪や悪を造りますので、それらの心や口や身体で作る色々の悪を懺悔しなさいという意味です。
これは、ただ懺悔すればいいのではなく、至心に、といわれているように、まことの心で懺悔をしなさいと勧められています。
また、『業報差別経』には、こう説かれています。
もし人重罪を造り、なしおわりて深く自ら責め懺悔して更に造らざればよく根本の業を抜く。
(漢文:若人造重罪 作已深自責 懺悔更不造 能拔根本業)(引用:『業報差別経』)
重い罪を犯してしまった時、深く懺悔して、二度と罪を犯さなければ、その罪が抜ける、ということです。
他にも『涅槃経』には、こう説かれています。
もし懺悔して慚愧を懐かば、罪すなわち除滅す。
(漢文:若懺悔懷慚愧者 罪即除滅)(引用:『涅槃経』)
「慚愧」とは、
「慚」とは自分に恥ずる心、
「愧」は他人に恥ずる心です。
悪い行いをしたとき、そのことを自分や他人に恥じて
懺悔すると、罪が消えます。
しかも懺悔は、深くすればするほど罪が消えます。
懺悔の深さは、気持ちによって変わります。
本当に悪いことをしたと思えば思うほど、深い懺悔になります。
ただし、懺悔は後悔とは違います。
懺悔と後悔の違い
懺悔と後悔には決定的な違いがあります。
この懺悔と後悔の違いが教えられるのは仏教だけです。
後悔とは、分かりやすく辞書の言葉を借りるなら、こういうことです。
してしまったことを後になって悔やむこと。
(引用:小学館『スーパーニッポニカ 国語辞典』)
たとえば小学校の時、
クラスのいたずらっ子たちが、校長先生にいたずらをします。
校長先生はかんかんに怒りますが、
誰がやったか分からないので、
自分はやっていないのに、犯人かと思われて、
職員室で立たされます。
だんだん日が暮れて、お腹がすいてきます。
いつもなら帰っている時間になってくると、
「親は心配してるだろうな、
ここらで何とかしなければならないな」と思います。
これはもう泣くより仕方がない、ということで、
自分がやったのではありませんが、
謝る立場だから、仕方なく
「二度と致しませんからお許しください」
ぽろぽろ泣きながら、心から謝ります。
ところが、帰り道、心の中は
「あの時はあれが甘かった。今度はうまくやるぞ」
と次の作戦を考えています。
だからまたやるのです。
このように、後悔した人は、
またやる可能性があります。
本当の懺悔は二度とやりません。
そこが後悔と懺悔の決定的に違うところです。
他の宗教で懺悔といっているのは、仏教でいうと後悔です。
キリスト教などでも悔い改めよ、懺悔せよといわれますが、
その程度では仏教では懺悔の中に入りません。
世界中の人が懺悔といっているのは、
仏教でいうと後悔の中に入ってしまうのです。
仏教の懺悔とは全く違います。
では、仏教でいう懺悔はどんな懺悔でしょうか。
3通りの懺悔
仏教では、その深さによって、
懺悔を3通りに分けて教えられています。
心地観経
まず、『心地観経』にこう説かれています。
もしよく法の如く懺悔せば、あらゆる煩悩、ことごとく皆除こること、なおし 劫火の世間を壊し、須弥 並びに巨海を焼き尽くすが如し。
(漢文:若能如法懺悔者 所有煩惱悉皆除 猶如劫火壞世間 燒盡須彌并巨海)(引用:『心地観経』)
これは懺悔の凄まじさを教えられています。
「劫火」というのは、世界が一旦滅びる時に起きる大火災のことです。
教えの通りの懺悔が煩悩を滅することは、世界の終わりに大火災が陸地も海も燃やし尽くすようなものだ、とたとえられています。
次いで、この凄まじい懺悔を3通りに分けて教えられています。
上、中、下根の三品です。
品というのは種類のようなものです。
上根の人の懺悔というのは、一番すぐれた懺悔です。
目からは血涙を流し、体中から血を吹き出して懺悔します。
悲涙泣血し、常に精懇す。
哀感し、徧身に皆血を現ず。
(漢文:悲涙泣血常精懇 哀感徧身皆血現)(引用:『心地観経』)
慈悲の血涙を流し、常に精進し、衆生を哀れんで全身から血を流します。
非常に激しい悲痛な懺悔です。
中根の人の場合は、目から涙を流し、全身から汗を流して懺悔します。
これが中くらいの懺悔です。
下根の人の懺悔は、目から涙を流し、全身の毛を逆立てて懺悔します。
これが最低の懺悔です。
最低といっても、一般にそれほど懺悔している人は滅多にないと思います。
善導大師『往生礼讃』
このような、三通りの懺悔を、善導大師は、『往生礼讃』に分かりやすくこのように教えられています。
三品の懺悔有り。
上品の懺悔とは、身の毛孔の中より血流れ、眼の中より血出る者を上品の懺悔と名づく。
中品の懺悔とは、遍身に熱き汗、毛孔より出で、眼の中より血流るる者を中品の懺悔と名づく。
下品の懺悔とは、遍身徹して熱く、眼の中より涙出ずる者を下品の懺悔と名づく。(引用:善導大師『往生礼讃偈』)
これを「三品の懺悔」といいます。
「三品の懺悔」とは、
「下品の懺悔」、
「中品の懺悔」、
「上品の懺悔」の3つです。
目からは熱い涙、全身の毛穴から熱い汗を流して、
「私が悪うございました」と懺悔します。
これは最も浅い懺悔ですので、これ以下になると、仏教では懺悔といいません。
さっきの子供の例では、目から涙は流していますが、
間違いなく後悔です。
「中品の懺悔」は、中くらいの懺悔です。
目から血の涙、全身から熱い汗を流します。
血の涙ですから、下品の懺悔より上等です。
恐ろしい悪を知らされるとそうなります。
「私が悪うございました、二度といたしません」
という誓いがあります。
「上品の懺悔」は、最も深い懺悔です。
目から血の涙、全身から血の汗を流します。
仏教では、このような懺悔以外は後悔に過ぎません。
こういう懺悔を懺悔といいます。
懺悔の仕方
仏教は「法鏡」といわれ、
自分の真実の姿を映し出す鏡のようなものです。
仏教を聞けば聞くほど、今まで知らなかった
本当の自分の姿が知らされて来ます。
聞くといっても、教えの通り実践しなければ聞いたことにはなりません。
懺悔でいえば、深い懺悔を心がけていきますと、
懺悔のできない自分の姿が実地に知らされて来ます。
仏教を聞いて、教えの通り進んでいき、
最後、真実の自己がはっきり知らされた時、
自分を迷わせ続けてきた迷いの元凶が知らされて、
「何と恐ろしい心であったか」と
三品の懺悔と等しい懺悔が起きます。
それと同時に絶対の幸福になれます。
迷いの根元が知らされたときに起きる懺悔は、
三品の懺悔と等しいといわれるものすごい懺悔です。
「無二の懺悔」といわれます。
二つとない懺悔です。
そして二度とその迷いの心は起きなくなります。
未来永遠の幸せに救われるのです。
ではその恐ろしい迷いの根元とは何かということについては、
仏教の真髄なので、
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)