閻魔大王とは?
閻魔大王
閻魔大王は、地獄の王様で、よく「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と言われます。
また大きなコオロギで、エンマコオロギという虫もいます。
『地獄少女』というマンガの主人公は、「閻魔あい」という少女です。
地獄というからには、閻魔は仏教に教えられているのですが、閻魔とは一体どういう存在なのでしょうか?
多くの日本人に親しまれる閻魔大王
エンマコオロギがなぜ閻魔というのかというと、目の上にある線が怒った眉毛のようで、顔が閻魔大王に似ているためにエンマコオロギと命名されたといわれます。
そのように閻魔大王というと、怒った顔で描かれています。
子供の頃は「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」から嘘をつかないように教えられます。
そしてよく昔話なんかでも、死んだら三途の川を渡って閻魔大王の裁判所に行くと言われます。
鬼たちによって、閻魔大王の前に引き立てられると、ものすごく怖い顔で、生前に悪いことをしなかったか、尋問を受けます。
閻魔大王は裁判資料として、生前の行いを記録された閻魔帳という資料をもとに取り調べを進めます。
閻魔からの問いに対して、何か隠しておきたいことがあっても、そこには浄玻璃の鏡があって、生前の行いを映し出されるので、何一つごまかすことはできません。
そして重い罪があれば、容赦なく地獄へ堕とされます。
でもそれは自業自得なので、閻魔大王を恨むことはできません。
閻魔大王は、裁判官として判決を言い渡しているだけなのです。
また、俗には正月の1月16日とお盆の7月16日は、死んだ人が骨休めしたり、地獄の釜開きとなって、閻魔大王は休日になるとして、イベントを行うお寺もあります。
大体このような感じで日本人に親しまれているのが閻魔大王です。
では、仏教では閻魔大王についてどう教えられているのでしょうか?
閻魔大王とは?
閻魔大王とは、どんな人なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
閻魔
えんま
地獄の主神、冥界(冥途)の総司として死者の生前の罪を裁くと考えられている。
サンスクリット語 Yama(ヤマ)の音写で、<焰摩><焰魔><琰魔><剡魔>などとも表記される。
また罪人を束縛するという意味から<縛>、あるいは yamaが一対をなすの意味から<双王>、また<獄主><獄帝>などとも漢訳される。
<閻羅>ということもあるが、それは<閻魔羅>、すなわち<閻魔王>(Yama-rāja)の略称である。
Yama(しばしば Yāma)はまた<夜摩>とも音写され、六欲天の第三に位置づけられる。
もともとインドの古い神であり、インド最古の文献『リグ‐ヴェーダ』に現れる。
そこではヤマは虚空のはるか奥にある住所に住むとされ、彼はときに死と同一視されることもあったが、死者の楽園の王、死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていた。
後に黄色い衣を着け、頭には冠をかぶり、手には捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの国に連れて行くと考えられ、つまり下界を支配する死の神で、その名は征服者または処罰者の意味とも考えられるようになった。
このように死者の審判を行う神としての<閻魔>は、地蔵信仰などと混じて中国に伝わったが、インド古来の地獄という考えを基礎にし、さらに道教における冥界の主太山府君とも習合して、裁判官である十王の一つとして信仰されるようになった。
地蔵十王経によると、冥界十王の第五で、死者は死後第五七日に閻魔の庁で罪過を裁かれるという。
日本でも地蔵との習合は古く、すでに『日本霊異記』下9に「我は閻魔王、汝が国に地蔵菩薩といふ是れなり」と見える。
なお密教の修法の一つに、閻魔や眷属の后・妃・太山府君などの冥界の神々に供物をささげ、除病・息災・延寿・出産などを祈願する<閻魔天供>がある。
毎年正月16日と7月16日の閻魔天の斎日に行われる。
美術作例としては、醍醐寺の焰摩天の画像と彫像(いずれも平安後期)が著名で、騎牛の姿に表される。
閻魔王は画像・彫像で十王の一つとして表されることが多い。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、閻魔大王についてとても簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
また、この辞典に書かれていることは間違っているところもありますので、注意して頂ければと思います。
閻魔大王について仏教では、『中阿含経』や『長阿含経』、『華厳経』、『大宝積経』、『般若経』、『観仏三昧経』などのお経や、源信僧都の『往生要集』等、至るところで教えられています。
閻魔大王にも色々な別名がありますが、有名なのは閻羅王です。
王はインドのことばでラージャというので、それが一部混じって、閻羅王といわれるのです。
閻魔大王は、どこの王様かというと、地獄の王です。
『問地獄経』には、こうあります。
閻羅王は昔、毘沙国王たり、維陀始王と共に戦う。
兵力敵せずによりて誓願を立つらく、願わくは地獄の主とならんと。(問地獄経)
閻魔大王は、昔は人間界で一国の王だったのですが、戦争で負けてしまい、地獄の主になったということです。
また『長阿含経』などでは、閻魔も地獄で苦しんでいると説かれています。
閻魔もやはり、生まれ変わり死に変わりする生命で、因果応報で地獄に生まれているのです。
また、たまに地蔵菩薩の化身だといわれる時があります。
それについては、『大方広十輪経』に、地蔵菩薩は、堅固の誓願力によって、一切の衆生を救済し、色々な姿を現すと説かれていますが、その中に閻魔の姿にもなると説かれているためです。
閻魔大王が必ず地蔵菩薩の化身というよりも、地蔵菩薩は、閻魔の姿に変身できる、ということです。
では閻魔大王はどこに住んでいるのかというと、地獄と説かれている場合もありますし、閻魔の世界と説かれている場合もあります。
どうもそのあたりに住んでいるようです。
では、閻魔大王の仕事は何かというと、多くのお経に説かれているのは、裁判官です。
例えば『長阿含経』には、こう説かれています。
(閻魔)王また告げて言わく、今汝の罪を受くるは父母の過ちにあらず、兄弟の過ちにあらず、また天帝にあらず、また先祖にあらず、また知識僮僕使人にあらず、また沙門婆羅門の過ちにあらず。
汝自ら悪あるが故に汝今自ら受く。
(漢文:王又告言 今汝受罪非父母 過非兄弟過 亦非天帝 亦非先祖 亦非知識僮僕使人 亦非沙門婆羅門過 汝自有惡汝今自受)(引用:『長阿含経』)
このように罪人に判決を下しているのです。
閻魔大王が言うには、そなたが今罪を受けるのは、両親のせいでもなければ兄弟のせいでもない、神のせいでも先祖のせいでもない、先生や召使いのせいでもない、修行者やバラモンのせいでもない。まさにそなたが悪い行いをしたから、その報いによって苦しみを受けるのだ、ということです。
では閻魔大王は、本当に舌を抜くのでしょうか?
閻魔大王は舌を抜く?
『往生要集』には、嘘をついた人が堕ちる、大叫喚地獄で、獄卒に舌を抜かれると説かれています。
獄卒、熱鉄の鉗を以てその舌を抜き出す。
(漢文:獄卒以熱鐵鉗拔出其舌)(引用:『往生要集』)
獄卒が、真っ赤に熱した鉄の金ばさみで、舌を抜く、ということです。
舌を抜かれると、また生えてきて、繰り返し抜かれるという苦しみがあります。
これはもともと『正法念経』に説かれていることから教えられていることです。
熱炎の鉄鉗は舌を抜き出さしむ。
(漢文:熱炎鐵鉗拔舌令出)(引用:『正法念経』)
また、嘘をついてではありませんが、『観仏三昧経』では、先生を殺し悪口を言って、舌を抜かれるとも説かれています。
閻羅王、宮殿とともに虚空の中にあり。
獄種に告げていわく、汝衆悪を作り、師を殺し師を謗れり。
汝が今生ぜる処を抜舌阿鼻と名づく。
汝この獄にありて当に三劫を経べしと。
この語をなしおわりて、すなわち滅して現ぜず。
(漢文:閻羅王與宮殿倶在虚空中 告言獄種 汝作衆惡殺師謗師 汝今生處名拔舌阿鼻 汝在此獄當經三劫 作是語已即滅不現)(引用:『観仏三昧経』)
閻魔大王が、宮殿と共に地獄の空中に現れて、罪人に告げます。
「そなたはたくさんの悪を造り、先生を殺し、悪口を言った。
そなたが今生まれたところは抜舌阿鼻地獄である。
そなたはこの地獄でこれから3劫という気の遠くなるような長期間苦しみ続けなければならない」
こう言って閻魔大王は姿を消した、ということです。
このように、閻魔大王は裁判官として、その人の死ぬまでの行いによって、六道のうちのどこに行くかという判決を言い渡しただけなので、閻魔大王自身が舌を抜くわけではありません。
では、その閻魔大王の裁判の模様は、どのように教えられているのでしょうか?
閻魔大王の取り調べの様子
閻魔大王の取り調べの様子は、色々なお経に説かれています。
閻魔大王との面接を受ける時のために、どんなことを聞かれるのか事前に知っておいたほうがいいでしょう。
予習になりますし、今のうちから準備や対策を進めたほうが、いい結果になります。
例えば『中阿含経』にこのように教えられています。
ブッダが舎衛国の祇園精舎におられた時のことです。
たくさんのお弟子に向かって
「私にはきよらかな天眼があるから、人々が死んだり生まれたりする時、よい世界や悪い世界に生まれ変わる様子を明らかに見ることができる。
もし人が、心と口と身体で悪を行い、聖者をそしれば、命が終わって後、地獄に生まれるのである。
そなたがたのために、地獄の閻魔が罪人を取り調べる有様を説き聞かせよう」
と言われました。
悪いことをした人は、命が終わると、閻魔の世界に生まれます。
閻魔の家来にしょっぴかれて閻魔の前に引き出されると、
「この者は、人であった時、親孝行をせず、教えを説く人を尊敬せず、善いことをせず、死んだらどうなるかを恐れませんでした。
この罪の処分をお決めください」
第一の天使
すると閻魔大王はこう言います。
「そなたはかつて、第一の天使を見たことがないか」
「いいえ、見ませんでした」
「そなたは、赤ん坊を見なかったか。
親がおむつを替えるのを見たことがあるだろう」
「それは見たことがあります」
「それこそ私の第一の使いである。
そなたはその有様を見て、私もこの世に生まれてきたのだから、心と口と身体で善い行いをしようと思わなかったのか」
「あ、それは気づきませんでした」
「きままなものだ。それなら罪を正さなければならない。
そなたの悪業は、父母のせいでも、王のせいでも神のせいでも他人のせいでもない。
すべて自業自得である。そなたは自分のまいたタネを刈り取らなければならない」
第二の天使
次に閻魔大王は、第二の取り調べを始めます。
「そなたはかつて、第二の天使を見たことがないか」
「いいえ、見ておりません」
「そなたは年老いて、苦しみながら命が終わろうとしている者を見たことがあるだろう。
歯は落ち、頭は白く、身体は曲がり、身を震わせながら、よろよろと杖を頼りに歩く者である」
「はい、見ました」
「それこそ私の第二の使いである。
そなたはそれを見て、私もやがて老いるのだから、心と口と身体で善い行いをしようと思わなかったのか」
「あ、それは気づきませんでした」
「きままなものだ。それなら罪を正さなければならない。
そなたの悪業は、父母のせいでも、王のせいでも神のせいでも他人のせいでもない。
すべて自業自得である。そなたは自分のまいたタネを刈り取らなければならない」
第三の天使
続いて閻魔大王は、第三の取り調べを始めます。
「そなたはかつて、第三の天使を見たことがないか」
「一向に見かけませんでした」
「そなたはかつて、病気で床や地に伏せて苦しんで、命を失っていくのを見ただろう」
「それは見かけたことがあります」
「それこそ私の第三の使いである。
そなたはそれを見て、私も病を免れることはできないのだから、心と口と身体で善い行いをしようと思わなかったのか」
「あ、それは気づきませんでした」
「きままなものだ。それなら罪を正さなければならない。
そなたの悪業は、父母のせいでも、王のせいでも神のせいでも他人のせいでもない。
すべて自業自得である。そなたは自分のまいたタネを刈り取らなければならない」
第四の天使
続いて閻魔大王は、第四の取り調べを始めます。
「そなたはかつて、第四の天使を見たことがないか」「全く見ませんでした」
「そなたはかつて、死んだ者を見たことがないか」
「はい、見ました」
「それこそ私の第四の使いである。
そなたはそれを見て、私も必ず死んで行かなければならないのだから、心と口と身体で善い行いをしようと思わなかったのか」
「ああ、それは気づきませんでした」
「きままなものだ。それなら罪を正さなければならない。
そなたの悪業は、父母のせいでも、王のせいでも神のせいでも他人のせいでもない。
すべて自業自得である。そなたは自分のまいたタネを刈り取らなければならない」
第五の天使
続いて閻魔大王は、第五の取り調べを始めます。
「そなたはかつて、第五の天使を見たことがないか」
「いいえ、見ませんでした」
「そなたは、国王が、違法行為をした人を捕まえて、刑罰を与えたり、死刑にしたりするのを見なかったか」
「それは見たことがあります」
「それこそ私の第五の使いである。
そなたはそれを見て、悪い行いをしたらひどい目にあうと考えなかったのか」
「ああ、それは気づきませんでした」
「きままなものだ。それなら罪を正さなければならない。
そなたの悪業は、父母のせいでも、王のせいでも神のせいでも他人のせいでもない。
すべて自業自得である。そなたは自分のまいたタネを刈り取らなければならない」
これは現代日本の私たちでいえば、駐車違反やスピード違反で罰金の刑になっている人を見たり、ニュースで犯罪者が死刑になっているのを見た時に、自分のこととして反省しなかったのかということです。
閻魔大王は、このような5人の使いによって取り調べを終えると、罪人を獄卒に引き渡して、地獄に送り込むのです。
これが閻魔大王の取り調べの内容です。
閻魔大王の願い
ブッダはこのあと、恐ろしい地獄の責め苦のありさまを説かれ、閻魔大王の願いを説かれます。
それは、閻魔大王も、人間に生まれたいと思っているということです。
人間に生まれて、仏のさとりを開かれた方を敬い、尊い教えを聞きたいと閻魔も願っていると説かれています。
そして最後にブッダは、こう言われています。
私はこの話を他の修行者やバラモンに聞いて語るのではありません。
そうではなく、私が自ら知り、自ら目にし、自ら了解したことを、それを私は語るのです。(引用:『中部経典4』p.347)
先に挙げた仏教辞典でもそうですが、たまに、閻魔大王はもともとバラモン教の神で、仏教に取り入れられたという人があります。
ですが、それは単なるその人の推測に過ぎません。
ブッダは、仏のさとりを開かれて、自分で閻魔大王を発見されて説かれているのです。
閻魔は、人間界に使いを送り込んで、その使いを縁として、私たちを救おうとしているのです。
そして閻魔によって人間界に送り込まれた5人の使いに会いながら、我がまま放題に振る舞う人は、気の遠くなるような長い間、苦しみを味わい、
その苦しみを恐れ、輪廻の根本原因を知り、断ち切られたならば、永遠の幸せになれると教えられています。
その変わらない幸せの身になることが、人間に生まれた本当の生きる意味なのです。
では私たちが、生きている時に仏教を聞いて、苦悩の根元を断ち切られ、永遠の幸せになったら、閻魔大王はどういう対応になるのかというと、『金光明経』には、閻魔大王は、その人を、昼夜離れずこの世で常に護ると説かれています。
閻魔も迷いの衆生なので、迷いの解決ができた人に対しては、態度をガラリと変えて、心から尊敬し、対応が一変するのです。
では、どうすれば永遠の幸せになれるのかというと、
苦しみ悩みの根元を断ち切られればいいのですが、
それは仏教の真髄となりますので、電子書籍とメール講座にまとめてあります。
ぜひ一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)