仏とは?
仏とは何でしょうか?
仏教、仏壇、仏像、仏寺、念仏など、
「仏」(ほとけ・ぶつ)とつく言葉は、日常でたまに聞くと思います。
しかし、「仏」の正確な意味を知っている日本人は、ほとんどいません。
「仏のように優しい人」と言われることもありますが、
その仏とはどういう存在なのでしょうか。
歴史的にも、困難や災難にぶつかったとき、
人々は最後の拠り所として、仏に救いを求めてきました。
実は人種を問わず、全人類にとって大変関わりの深い「仏」の意味について、詳しく解説します。
仏(ぶつ・ほとけ)の意味
まず仏について、国語辞典と仏教辞典に出ている意味を確認しておきましょう。
ほとけ【仏】
悟りを開いた、仏教の聖者。
[狭義では、釈尊(の像)を指す。また、怒ることを知らぬ人・慈悲深い人の意にも用いられる](引用:『新明解 国語辞典』第八版)
日本語としては、仏は、大宇宙の真理を体得して悟りを開いた人というのが中心的な意味で、
慈悲深い優しい人といった意味もあります。
次に仏教辞典です。
こちらは専門用語がたくさん使われていて、基礎知識がないと分からないと思うので、読み飛ばしていただいても大丈夫です。
仏
ぶつ [s、p: buddha]
<ブッダ>すなわち<目覚めた人><真理を悟った人(覚者)>の意をあらわすサンスクリット語に対応する音写。
古くは<浮図><浮屠>とも音写され、後には<仏陀>などと音写された。
ほとけ。
もとはインド一般に、 真理をさとった聖者を意味していた。
仏教の歴史においては仏教の開祖シャーキヤムニ(釈迦牟尼、釈尊)をさすが、釈尊以前にもこの世界には6人の仏がいたとされ、釈尊とあわせて過去七仏と言われる。
それに対して、弥勒菩薩が未来に仏として出現する未来仏とされる。
最高の悟りを開いた覚者の意で、<無上等正覚>(阿耨多羅三藐三仏陀)と規定され、また<如来>などの十号をもって称せられる。
大乗仏教では、この世界だけでなく三世十方の世界に仏がいて、人々の救済のはたらきをなすとされる。
極楽世界の阿弥陀仏もその一人である。
また、教理上は、悟りの普遍性の故に、広く修行者によって達成可能な目標とされる。
仏とは<自覚、覚他、覚行窮満>と説明されるが、<自覚>とは元来、釈尊の菩提樹下の悟りをさし、<覚他>(他を覚らせる)は鹿野苑での初転法輪以後、入滅に至るまでの教導をさす。
前者は智慧の完成、後者は慈悲行の完成で、仏はこの智慧と慈悲の両面が完全であるので<覚行窮満>とされる。
また、仏は法(真理)を悟り、法(教え)を説いた者で、法を身体とするもの、法の体現者という意味で<法身>とよばれる。
<如来>という称号も同様に<如(=真実のあり方)に来至したもの>で、<如よりこの世に来至したもの>との両義をもって解された。
また、帰依の対象として仏は<両足尊>とよばれるが、元来は人類を意味した両足(二本足のもの)を智慧と慈悲の二足をもつものと解したものである。
また仏は三十二相・八十種好の優れた特徴を具えるという。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
仏教辞典ではより詳しく、仏のサンスクリット語の意味や、
仏教における「仏」の詳しい意味について書かれています。
それはそれで間違いではないのですが、「無上等正覚」や「自覚、覚他、覚行窮満」など、馴染みのない言葉も多いので、
それらも含めて、
仏とはどんな存在なのか、
仏のさとりを開いた人の32の特徴、
仏にしかない特別すごい力、
仏はどのように人々を救おうとされているのか、
なども明らかにしていきます。
仏の誤解
世間では、仏を全然違う意味で使っている人が多くあります。
そのような仏の誤解された意味には、大きく2つあります。
1つ目は「死んだ人」、2つ目は「菩薩や諸神」です。
死人という誤解
よく「仏様にお参りしなさい」といわれて、子供がお仏壇に手を合わせると、そこには遺影があって、仏様とは死んだ人や先祖のことだと思っている人が多くあります。
実際に刑事ドラマで、「仏の身元を洗え」とか「これで仏さん、喜んでるかな」などと、亡くなった人のことを「仏」と呼ぶのを耳にします。
これは日本に特有なことで、中国などでは考えられません。
日本では「死んだら誰でも仏になれる」が常識として考えられているからかもしれません。
これも仏の誤解された意味の1つです。
仏教でいう仏は、決して死人のことではないのです。
もし仏が死人だったら、仏教は死人の教えとなってしまいます。
「死人に口なし」といわれ、死者は仏教を説くことができませんから、
仏が死人であるはずがありません。
仏教辞典にも書いてあったように、仏というのは、仏覚という最高のさとりを開いた方を仏といいます。
菩薩・諸神という誤解
もう1つ、よくある誤解があります。
それが、菩薩や諸神です。
よく、菩薩や諸神の仏像に対して、仏様、と言っている人がいます。
仏教には、仏の他に、観音菩薩や勢至菩薩といった菩薩といわれる方と、
梵天や帝釈天などの諸神が登場します。
いずれも像となったときに「仏像」と一括りにされてしまうため、
仏だと誤解する人があります。
しかし菩薩や諸神は、仏ではありません。
仏と菩薩と諸神の違いが分からないと、仏教が分からなくなりますので、
詳しくは以下の記事で学んでおいてください。
➾仏(如来)と菩薩と神の違い
では、仏とはどんな方なのでしょうか。
仏とは真理を悟った者
仏は、日本では「ほとけ」と言うのが一番多いと思いますが、仏陀ともいいます。
仏陀はサンスクリット語のブッダ(buddha)の音略です。
ブッダという言葉自体は、目ざめた人という意味ですが、
その意味するところは、仏覚を悟った人ということです。
仏覚(さとりの位)
仏教では、悟りには、低いさとりから、高いさとりまで、
52の位があると説かれています。
これを「さとりの52位」といいます。
悟りの位は、たとえ1段しか違わなくても、
その境地は、人間と虫けらほどかけ離れている、といわれます。
その1段違えば人間と虫けらほど違うさとりを、52段も開いた最高の悟りの位を
「仏覚」とか「仏のさとり」といいます。
悟りについて、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾悟りを開くとは?52段階の悟りの境地と意味を分かりやすく解説
悟るとは
1段違っても人間と虫けらほど境涯が違うということからも、
仏教では悟るといっても、気付いたとか、分かったとか、思ったという程度の
日常の認識ではないと分かると思います。
人間の思ったことを虫けらに説明しても分からせることはできませんから、
悟りの境地は悟りを開いていない人に理解できるものではありません。
ですが、気づいたことくらいなら、説明すれば、他の人にも分かりますので、
その程度では悟りではありません。
では、悟るとは、一体何を悟るのかというと、大宇宙の真理です。
大宇宙の真理といっても、数学的真理とか、科学的真理といった、世俗的な真理ではありません。
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
これを「真如」といいます。
仏のさとりを開くと、そのすべての人を本当の幸せにする大宇宙の真理、真如と一体になり、真如を体得できます。
それで仏は、如来とも呼ばれます。
如来とは、真如より来現した人、ということです。
仏(佛)は迷いの人に非ず
また、仏という文字自体にも、迷いの人ではないという意味があります。
仏は、「佛」の略字です。
「佛」という文字を分解すると、「人」と「弗」になります。
「弗」は否定を表すので、「人に非ず」という意味になります。
仏様は、私たちのような「迷いの人間ではない」ため、人に非ずといわれるのです。
私たち人間の迷いの元については、十二因縁で教えられるので、
以下をお読みください。
➾十二因縁(十二縁起)とは?その意味を分かりやすく解説
このような「仏のさとり」である「仏覚」に到達された方は、
地球上では、お釈迦様しかありません。
そこで世界の四大聖人、三大聖人と言われましても、
まずトップに挙げられるのがお釈迦様です。
お釈迦様のような仏様は、大変素晴らしい方であり、仏の徳である仏徳をお持ちですので、様々な異名があります。
仏様の異名(十号)
仏様には有名な異名が10種類あります。
これを「十号」といいます。
仏徳の素晴らしさに応じたお名前がつけられています。
このような10通りの呼び名です。
1. 如来
如来というのは、真如より来現した人ということで、大宇宙の真理を体得された方をいいます。
この真理とは、科学的真理などの世俗的な真理ではなく、
すべての人を幸福にするための真理です。
真理については、以下をご覧ください。
➾真理とは。何の役に立つの?西洋哲学と仏教の真理の違い
2. 応供
応供 とは、阿羅漢の悟りを開いた方で、人々から供養を受け、供養者に功徳を生じさせるだけの徳を備えている人をいいます。
3. 正遍知
正遍知というのは、正しくあまねく知る、つまり、正しい悟りのことをいい、
智慧円満の人をいいます。
仏のさとりは、他のさとりと違って、最もすぐれた、すばらしいさとりだからです。
4. 明行足
明行足
とは、明(智慧)と行(修行)がすべて具足(具備)いるということです。
理論も実践も兼ね備えておられます。
5. 善逝
善逝というのは、善妙(妙往)に世間を超脱して涅槃に趣くという意味です。
6. 世間解
世間解
とは、三種世間の事理をよく理解しているということです。
三種世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の3つです。
五陰世間とは、精神と物質でできた世界です。
衆生世間とは、生きとし生けるものの世界です。
国土世間とは、環境の世界です。
これらの個別具体的な事象についても、真理についても理解された上で、衆生を導く活動をされるということです。
7. 無上士
無上士 というのは、世の最高無上の人ということです。
8. 調御丈夫
調御丈夫 とは、人を調伏制御、巧みに導いて、悟らせることができること。
9. 天人師
天人師
というのは、仏法を説いて、天人と人間を導く師匠ということです。
このことを三界の大導師ともいいます。
10. 仏世尊
仏世尊 というのは、すべての世界で最も尊いお方ということです。
では、このような尊い仏様には、どんな特徴があるのでしょうか?
仏の特徴・姿
仏のさとりを開いた人には、外見上、何か特徴があるのでしょうか?
実は大ありですので、見ればすぐ分かります。
仏のお姿について、中国天台宗の開祖・智顗が、次のように解説しています。
如来応化のこの体、此の三十二相を現じ、以て法身衆得の円極を表し
(漢文:如来応化之体 現此三十二相以表法身 衆徳円極)(引用:『法界次第初門』)
分かりやすくいうと、仏の三十二相という32の特徴がある、ということです。
仏様の心には、あらゆる徳が詰まっており、
人間の姿となった時には、そのお徳が三十二の相となって体に現れます。
あらゆる徳が詰まっているといっても、それにはそれ相応のたねまきが必要です。
例えば『維摩経』には、このように説かれています。
菩薩は忍辱を国と為すが故に、仏国において得道し、三十二相有りて、而も自ら厳飾し
(漢文:菩薩忍辱為国故 於仏国得道 有三十二相而自厳飾)(引用:『仏説維摩詰経』)
この意味は、菩薩は忍辱をもって国のために行いを修めた。
その結果、仏国土で悟りを得て、三十二の特徴を持ち、
それによって自らを飾った、ということです。
仏様を見れば、仏になる前の菩薩時代の修行を成就された結果、
大変な功徳を得られ、お姿にもお徳が現れていることが分かります。
百大劫という果てしなく長い修行の結果といわれます。
そのお徳の数は32通り、仏の三十二相として現れるのです。
三十二相の1つ1つについては、以下の記事をお読みください。
➾三十二相八十種好の深い意味を分かりやすく解説
仏はこのような三十二相があると教えられていますが、
ではこのような仏はどこで見られるのでしょう。
次回はいつ頃、現れるのでしょうか。
それを知るには、仏はどのような時期に現れるのかを知らなければなりません。
仏(仏陀)が現れる時期
仏教では、この世には、成劫、住劫、壊劫、空劫の4つの期間(四劫)があり、
この4つの期間を無限に繰り返しているといいます。
- 成劫:成立期
この世界が次第に形を成して、すっかり成立するまでの間 - 住劫:維持期
その成立したものが安定している間 - 壊劫:破壊期
成立した世界が破壊されて混沌たる状態になるまでの間 - 空劫:空漠期
何も形を成していないままでいる間
世界は、成住壊空を繰り返しているというのは、
キリスト教やイスラム教といった宗教が、創造主(神)を考えるのとは異なり、
因果の道理を根幹とする仏教の科学的な側面が表れています。
なぜかというと、
「創造主を第一の原因とすると、創造主の原因は何ですか?」という問いに答えられなくなってしまうからです。
そこで因果律も科学も破綻するのです。
成劫、住劫、壊劫、空劫は、それぞれ20劫という期間があります。
1劫は四十里四方の大盤石を、天人が百年毎に羽衣でふれて摩し、これによって消滅しても未だ尽きない気の遠くなるような長期間です。
20劫はその20倍の時間です。
ですから四劫は合計80劫で一巡します。
四劫のうち住劫の20劫の時期には、各1劫の後半に刀兵、疾疫、飢饉といった災害が起きるといわれます。
ちょうど現在の世界にあるような、戦争や感染症、食糧難のことです。
これを「小三災」と呼ばれます。
壊劫には、火、水、風の「大三災」が起きるので、それに対して小三災です。
「小三災」が起こる時期を「末劫」と言われたり「五濁」と言われたりします。
仏様は、苦しみの強い「末劫」と呼ばれる時代の人々を救うために、世に現れるのです。
つまり成劫、住劫、壊劫、空劫の4つの期間のうち、
世界が成立した後、比較的安定している「住劫」の時期の、
人々が小三災に苦しんでいる時に仏様は現れられ、
私たちを救おうとされるのです。
仏様のご活躍により、戦争や疫病、食糧難もなくなるそうなので、
仏教はこれらにも有効だと思いますが、
仏様の真の狙いは、人々を真の幸福に導くことです。
お釈迦様は、住劫20劫の間の、第9劫の時期にお生まれになられました。
そして次に仏になるのは、弥勒菩薩だと予言されています。
弥勒菩薩はお釈迦様の後継者のようなもので、次に地球上に現れる仏です。
弥勒菩薩について、詳しくは以下の記事をお読みください。
➾弥勒菩薩とは?普通の人でも弥勒より先に仏のさとりを開く法
そして実は、お釈迦様がお生まれになられる前に存在していた仏が、
「過去七仏
」です。
過去七仏
過去七仏とは、お釈迦様と、それ以前に現れた6人の仏です。
お釈迦様は無師独悟といわれて、先生なしで仏のさとりを開かれたのですが、実は果てしない遠い過去にも、6人の仏がおられたと説かれています。
その6人の仏とは、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏の6人の仏様です。
その6人の仏に
釈迦牟尼仏を含めて、過去七仏といわれます。
どの位遠い過去に現れたのかというと、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏の3仏は「荘厳劫」です。
「荘厳劫」とは、現在の成劫、住劫、壊劫、空劫の四劫を「賢劫」といいますが、
その一つ前の成住壊空の四劫が、「荘厳劫」です。
荘厳劫の中の住劫の時代にお生まれになられたのが、
毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏の3仏です。
この3仏は、荘厳劫に現れた数ある仏の中で、最後の3仏です。
賢劫のうち、住劫の時代にお生まれになられたのが、
拘留孫仏、拘那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏の4仏となります。
賢劫に現れた仏の中で、最初の4仏です。
このように、仏様は滅多に現れません。
そして一つの世界には、仏様は一人しか出現しないといわれています。
同じ世界に同時に2人以上は現れないということです。
ですが、大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどありますので、
数え切れないほどの仏がましますと、お釈迦様は説かれています。
三世十方の諸仏
仏のさとりを開くと、「仏仏相念」(大無量寿経)と言って、
仏様同士心が通じ合うようになります。
人間でも、仲のいい人同士、心が通じ合うことがありますが、
それよりはるかにすごいものです。
その「仏仏相念」によって、仏のさとりを開かれたお釈迦様は、
大宇宙に数え切れないほどの仏がましますことを発見されました。
これを「三世十方の諸仏」といいます。
例えば『阿弥陀経』には、東西南北上下の六方に、沢山の仏がおられると説かれています。
『阿弥陀経』の内容については、こちらの記事をご覧ください。
➾阿弥陀経の教えの要点を分かりやすく解説・全文の文字数、読み方と書き下し文
このように、地球以外に現れている仏を、他方仏といいます。
お釈迦様を含め、この大宇宙にまします仏方を
三世十方の諸仏ともいわれます。
『阿弥陀経』には、沢山の諸仏が登場します。
舎利弗、上方世界にも梵音仏、宿王仏、香上仏、香光仏、大焔肩仏、雑色宝華厳身仏、娑羅樹王仏、宝華徳仏、見一切義仏、如須弥山仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して
(漢文:舍利弗 上方世界有梵音仏 宿王仏 香上仏 香光仏 大焔肩仏 雑色宝華厳身仏 娑羅樹王仏 宝華徳仏 見一切義仏 如須弥山仏 如是等恒河沙数諸仏)(引用:『阿弥陀経』)
この意味は、
舎利弗よ。上方世界には、梵音仏、宿王仏、香上仏、香光仏、大焔肩仏、雑色宝華厳身仏、娑羅樹王仏、宝華徳仏、見一切義仏、如須弥山仏、このような様々な仏方が、ガンジス川の砂の数ほどましますのだ
ということです。
大宇宙に多くの諸仏がましますということが、
『阿弥陀経』だけではなく、他にも様々なお経に説かれています。
仏教は、地球だけではなく、大宇宙を舞台として説かれた教えだということも分かります。
このような大宇宙にまします仏方は、皆、仏覚という最高の悟りを開いておられます。
仏様の本性(四種の仏身)
ですが、実はこのような私たちに分かる仏様は、本当の仏様ではありません。
本当の仏様は、色も形も臭いもありません。
言葉でも表現できず、想像もできません。
人間の認識には乗らないのが本当の仏です。
そのような仏を「法身」といいます。
このような本当の仏様は、私たちの認識に乗らないので、
私たちと関係を持つことができません。
そこで私たちと関係をもたれるために、私たちの認識に乗る姿を現されたのが「報身」です。
私たちに分かるように形を現された仏様を「報身」といいます。
十方諸仏は私たちに分かる時点で報身です。
さらに、お釈迦様のように、人間の形となって現れた仏様を「応身」といいます。
この3つの仏身にもう一つ、化仏が入ることもあります。
これは仏が私たちを救うために色々の姿になって現れるものです。
お釈迦様の本生譚には、お釈迦様の過去世に、
仏様が虎になったり鷲になったりされています。
このような仏は化仏です。
また、念仏をたくさん称えると化仏を見ると説かれているお経もあります。
このような化仏の姿の仏様を「化身」といいます。
このように仏様は、4種類のお姿になって衆生を導かれます。
法身、報身、応身、化身の4つです。
法身
仏陀の真理そのものの身で、永遠不変の真理を表します。
形も匂いもありません。
人智では認識できない、色も形も臭いもない仏です。
報身
因に報いて現れるということで、私たちに分かる姿を示された仏様です。
私たちの認識に乗る姿形の仏です。
私たちに分からなければ一切、縁を結ぶことも救うこともできないので、
私たちに分かる姿を示された仏身です。
例えば阿弥陀如来という仏は、真実では法身で形も匂いがありませんが、
法蔵菩薩が四十八願という誓願を建て修行された報身となって現れておられます。
応身
応身の「応」とは、救済する相手に応じて、ということです。
衆生を救済するために、相手に応じたお姿で現れる仏様です。
人間に対しては、肉体を持って世界に現れ、
人間のために仏法を説き、悟りまで導きます。
お釈迦様のような人間の姿の仏が応身です。
化身
人間以外に姿を変えて現れられた仏様です。
「化」とは「姿を変えて」ということです。
「変化身」ともいわれます。
経典には、ハトやワシ、羅刹など様々な姿となっていることが説かれています。
このように、仏の本性は色も形もない法身なのですが、それでは私たちに分からないため、色々な姿を表して、すべての人を救おうと力尽くされています。
では、仏にはどんなお力があるのでしょうか。
その力の根本にあるのは、仏は智慧と慈悲の覚体であるということです。
仏は智慧と慈悲の覚体
覚体とは、覚りの体ということで、分かりやすくいえば兼ね備えておられるということです。
智慧と慈悲の覚体が仏ということは、仏は智慧と慈悲の塊ということです。
智慧だけでも慈悲だけでも仏様とはいえません。
智慧と慈悲を両方持っておられるのが仏様です。
これを「悲智円満」ともいいます。
仏様は悲智円満の方です。
「悲」とは慈悲のことです。
助けたいと思う心です。
「智」とは智慧です。
助ける力です。
「円満」とは、この2つを兼ね備えておられることです。
どちらが欠けても人々を助けることはできません。
仏様は慈悲と智慧が両方あるから、人々を本当の幸せに導くことができるのです。
仏の慈悲とは
では、仏の慈悲とは何なのでしょうか。
慈悲とは、苦しみの原因をなくして、人々を幸せにしてやりたいという
抜苦与楽の心をいいます。
慈悲といっても、人間の慈悲と仏の慈悲では、大きな違いがあります。
人間の慈悲は、ある特定の人にしかかかりません。
たとえば、2人の子どもが苦しんでいたとしても、
隣の家の子どもよりも、自分の子どもの方がより可愛く、強く慈悲がかかります。
一方、仏の慈悲は、すべての人に平等にかかるのです。
慈悲について、詳しくは以下の記事をお読みください。
➾慈悲の意味をできるだけ簡単に分かりやすく解説
仏の慈悲は、仏の智慧に裏付けられています。
仏の智慧とは
仏の智慧とは、真理をハッキリと知り、人間の迷いを破る働きのことです。
本当の幸福にする力でもあります。
たとえば医者は、優しさだけでは患者の病を治すことができません。
患者を助けるだけの知識や経験、技術が必要であり、
言い換えるなら助ける力を持たなければなりません。
仏も、苦しみ迷う人々を助ける力があります。
すべての人は、なんのために生まれてきたのか分からず、どう生きるかばかりで苦しんでいます。
その迷いをぶち破って本当の生きる目的を知らせ、真の幸福にする働きが智慧です。
智慧について、詳しくは以下の記事もご覧ください。
➾智慧とは?意味と実践方法と慈悲との違いを分かりやすく解説
このように、仏様は、智慧と慈悲を兼ね備えておられます。
打ちひしがれている人には、慈悲によって温かく癒す時もあります。
ですが、「そのままでいいよ」と優しく癒し続けるだけでは、
一時的な安心しか得られません。
そこで智慧によって、苦しみから根本的に離れる方へ導くわけです。
それで、優しさも厳しさも両方必要になるようなものです。
では仏様には、どのようなお力があるのでしょうか?
仏様にしか備わっていない功徳(十八不共仏法)
このような智慧と慈悲を円満された仏様には、十八不共法とか十八不共仏法といわれる十八種類の功徳が備わっていると教えられています
。
不共とは、仏様以外には、備わっていないという意味です。
その十八不共仏法とは、「十力」「四無所畏」「三念住」「大悲」のことです。
これは数としては、10+4+3+1=18で、十八不共仏法となります。
具体的には、このようなお力です。
十力
これらの十力は、智慧を体とする力です。
仏の限りない智慧を十通りに教えられたものです。
「如来の十力」といわれます。
- 処非処智力
処は、道理という意味。
何が道理で、何が道理ではないかを完全に知る力。 - 業異熟智力
様々な業因が、異熟な結果をあらわすことを知る力。 - 静慮解脱等持等至智力
諸の禅定に於て自在であり、禅定の浅い、深い、次第などを知る力。 - 根上下智力
所化の衆生の機根(能力など)に、優劣があることを知る力。 - 種種勝解智力
勝解は心のこと。
さまざまな衆生の心の状態を知る力。 - 種種界智力
さまざまな衆生の性質の違いや、行動の違いを知る力。 - 遍趣行智力
衆生の六道(六趣)の諸世界に趣く原因(行為)と、どこに趣くか(結果)を知る力。 - 宿住随念智力
自他の過去世のことを細かく深く思い起す力。 - 死生智力
衆生の未来の生死と善や悪によって趣く世界を知る力。 - 漏尽智力
煩悩を滅したことを知って、後有を受けないことを知る力。
四無所畏
仏や菩薩が説法する際に、何ものにも畏れない自信をいいます。
仏にも菩薩にも、それぞれ4つずつありますが、
仏の四無所畏は以下の4つです。
- 一切智無畏
いかなる難しいことに出合っても、知らぬ分からぬと卑屈という心は全くない。 - 漏永尽無畏
一切の煩悩が断じているので、六道輪廻の迷いに沈むおそれがない。 - 説障道無畏
大神通力を得ているがゆえに、天魔外道の障りが来てもすぐに降伏し、畏れる心がない。 - 説尽苦道無畏
四無碍七無碍といわれる弁舌の力を備えているため、いかなる難問を言われても直ぐに説き捌いて、畏れる心が全くない。
三念住
常に以下の3種類の平常心でいられるお力をいいます。
- 人から恭敬や崇拝を受けて心がみだりに歓喜を生じない
- 他人から自分を非難・誹謗されても、悲しみ憂うことはない
- たとえ一部の人々が自分を尊重・崇敬し、他の人々が自分を非難・誹謗しても、歓喜や憂い、怒りの心が生じない
大悲
大悲とは、大慈悲のことです。
慈悲というのは、抜苦与楽のことで、苦しみを抜いてやりたい、楽しみを与えてやりたいという心です。
これまでの十力、四無所畏、三念住を総括したものでもあります。
『観無量寿経』には、仏の心は、大慈悲そのものだと教えられています。
仏心とは大慈悲これなり。
(漢文:仏心者大慈悲是)(引用:『観無量寿経』)
仏徳を備えられている仏様は、大慈大悲の方なのです。
人間の慈悲と仏様の慈悲の違いについては、以下の記事をお読みください。
➾慈悲の意味をできるだけ簡単に分かりやすく解説
このようなお力や功徳を持たれる、もの凄いお方が仏様なのです。
このように仏様は、智慧と慈悲とを兼ね備えておられますので、
自分が真理を悟るだけでなく、他を悟らせる存在です。
これを自覚覚他・覚行窮満といいます。
仏は自覚覚他・覚行窮満
自覚覚他・覚行窮満について、中国で浄土仏教を広められた善導大師は、このように教えられています。
自覚覚他、覚行窮満、之を名づけて仏と為す。
(漢文:自覚覚他覚行窮満 名之為仏)(引用:善導大師『観無量寿仏経疏』)
「自覚」とは、自ら覚ること。
大宇宙の真理をさとり、私たちが本当の幸福となれる真理をさとります。
「覚他」とは、他人を覚らせること。
周囲を見渡せば、苦しんでいる人ばかりです。
一人で真実の幸福を味わっていればいいわけではありません。
仏は、苦しんでいる人を助けようとします。
なので、他の人をさとらせようとするのです。
「覚行」は、さとりのまま行ずることです。
誰から言われたわけでもありません。
十方衆生を救おうと動かずにおれなくなります。
窮満は、さとりの働きが極まり満ちていることです。
どんなに人々が教えを聞かなくても、そのままにはしておれません。
人々を本当の幸せにする、という目的果たすまで、
あきらめることはありません。
では仏様は、どのようにすべての人を救おうとされているかというと、
教えを説かれています。
奇跡を起こすとか、願いを叶えるというのではなく、
教えを説いて人々を本当の幸せに導こうとされているのです。
それが仏教です。
仏様は仏教に、私たちに本当の幸福とは何かを、言葉を尽くして教えられています。
では、仏の説かれる本当の幸福とは、一体どのようなものなのでしょうか。
仏によってあきらかにされた本当の幸福
今回は「仏」「仏様」とはどのような存在なのかについて詳しく解説しました。
仏とは、仏覚という悟りを開いた方であり、仏陀(ブッダ)ともいわれます。
仏様は、成劫、住劫、壊劫、空劫という期間のうち、
住劫のときに苦しむ人々を助けようと世界に現れられます。
仏様は、人間を済度される際に、私たちに合わせたお姿で現れられますが、
三十二相など、人間には滅多にない様々な特徴を持っておられます。
そして地球上の仏様は、お釈迦様だけでしたが、
大宇宙には数限りない仏方が存在し、仏様しか持たれていない尊いお力で
私たちを真実に導こうとされています。
その真実とは、私たちを本当の幸福にするための真実です。
ですが、その仏様にめぐりあうのが非常に難しいのです。
仏にあうことは非常に難しい
仏に出会うということは、非常に難しく、めったにないことだと
お釈迦様ご自身が教えられています。
無量億劫にも、値い難く見難し。
なお霊瑞華の時あって、すなわち出づるがごとし。
(漢文:無量億劫難値難見 猶霊瑞華時時乃出)(引用:『仏説無量寿経』)
仏がこの世に生まれ出ることは、限りない時間を経ようとも値うことは稀である。
ちょうど、三千年に一度だけ咲く霊瑞華(優曇華)の花に出会うほど、困難なことなのです。
考えてみれば、仏教に出会うには、少なくとも以下の条件が必要です。
- 人間に生まれる(出生)
- 仏が生まれた時代に生まれる(時代)
- 仏がおられる場所に生まれる(場所)
- 誰かに教えてもらう(巡りあう)
まず数多く生物がいる中で、人間に生まれなければなりません。
人間程度の知恵がなければ、仏教を理解することはできないからです。
ちなみに人間に生まれる難しさは「盲亀浮木
のたとえ」で教えられていますので、
以下の記事をご覧ください。
➾ありがとうの語源(盲亀浮木)と人間に生まれる確率
また、人間に生まれる難しさを、
「梵天
の糸に海底の針を釣る」とまでいわれます。
これは梵天のいる天上界から糸を垂らして、海底にある針を釣り上げるという意味で、
極めて難しいということです。
次に人間に生まれたとしても、仏様がお生まれになった時代に生まれなければなりません。
現在でいえば、約2600年前に生まれなければなりませんでしたが、
今この記事を読んでいる方は、私も含め、生まれることができませんでした。
また、たとえお釈迦様と同じ時代に生まれたとしても、
お釈迦様と会える場所に生まれなければなりません。
当時お釈迦様はインドで活躍されていましたので、
もし当時のアフリカや日本で生まれていたならば、絶対に会うことはなかったでしょう。
最後に、お釈迦様が活躍されているところに生まれたとしても、
お釈迦様がおられることを教えてくれる人がいるか、
お釈迦様と巡りあう必要があります。
そのためお釈迦様は、次のようにも教えられています。
人身受け難し、今 已 に受く。
仏法聞き難し、今 已 に聞く。
この身今生に向かって 度 せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。(お釈迦様)
意味は、生まれ難い人間に生まれてよかった。
聞き難い仏法を聞けてよかった。
何が何でも今生で、仏の教えを聞いて救われ、永遠の幸福の身にならなければ、
いつの世でできるであろうか。
永遠のチャンスは今しかない。
どうか皆さん、すべての人よ、
はやく仏教を聞くがよい、ということです。
では、仏教に明らかにされた本当の幸せとはどんな幸せで、どのようにして私たちは本当の幸福になれるのでしょうか。
仏の説かれる真理は仏教の真髄なので、電子書籍とメール講座に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)