「お地蔵さん」の正体

お地蔵さん
道端で赤いよだれかけをまとうお地蔵さん。
子どもを守る優しい存在として親しまれていますが、
実は「手を合わせてはいけない」って知ってます?
お地蔵さんに関する日本各地に残る恐ろしい話と、その背後に隠された真実、そしてお地蔵さんが本当に伝えたかった「幸せへの道」を解き明かします。
日本各地の「本当は怖いお地蔵さん」5選
お地蔵さんと言えば、道の片隅で、道行く人を温かく見守っているように思います。
田舎でも都会でも「地蔵盆」が行われ、お地蔵さんをたたえるお祭りもあります。
とても親しみやすい存在なので、「お地蔵さんが怖い」と聞くと、違和感を覚える方も多いでしょう。
でも実は、日本各地には「触れてはならないタブー」として恐れられ、
代々語り継がれてきたお地蔵さんの話が数多く残っています。
特に印象的なお地蔵さんには5つです。
1. 傷口を見てはいけない言成地蔵(言いなり地蔵)
言いなり地蔵とは、お地蔵さんが言いなりになるのではなく、
関わる人がお地蔵さんの言いなりになる、という恐ろしい意味です。
長野県の「言成地蔵」には次のような話があります。
その場所の地蔵堂の前では、馬に乗っている人も必ず降りて通るという習わしがありました。
ある時、侍が馬で通りかかり、馬方が「ここでは馬を降りてください」と伝えましたが、
侍は聞き入れずそのまま通り過ぎようとしました。
するとその侍が、地蔵の前で突然落馬してしまったのです。
怒った侍は、地蔵を袈裟懸けに斬りつけて去っていきます。
斬られた地蔵は、その夜、新福寺の和尚の夢枕に立ち、
「傷口を布で巻いてほしい」と頼みました。
そこで和尚は傷ついた部分に布を巻いたといいます。
その後、地蔵を斬りつけた侍は、
地蔵の祟りで病死してしまったということです。
今でもその地蔵は布でしっかりと巻かれていますが、
この傷を見た者は目が潰れるといわれています。
2. たたみ地蔵からたたり地蔵になったお地蔵さん
大阪の川沿いに佇む地蔵の話です。
かつて明治の大阪を襲ったペストの感染拡大を防ぐため、
死者が最期まで横たわっていた血と汗の染み込んだ「畳」がすべて川沿いに集められ、火が放たれました。
その時の黒い煙には、数多くの死者の無念が染み込んでいたといいます。
そのため、死者の供養のために建てられたのが「たたみ地蔵」でしたが、
いつしかこの場所で手を合わせる者に、原因不明の高熱や「黒い影に足を掴まれる」といった話が相次ぎました。
死者の怨念が地蔵の中に染み込み、それによって災いが起こると言われています。
3. 勝手に動かした者を祟る地蔵
江戸時代からの由緒ある寺社が密集する東京都港区にも、恐ろしい地蔵がたたずんでいます。
そのため、この界隈の再開発には、ある「禁忌」が囁かれています。
それは、土地に安置されたお地蔵さんや祠を軽率に動かしてはならないということです。
実際、ある現場ではお地蔵さんを撤去しようとしたところ、
作業員に原因不明の体調不良や転落事故が続出しました。
事態を重く見た建設会社は、やむなくビルの設計を変更し、
お地蔵さんを元の場所に近い形で祀り直したといいます。
このエピソードは、工事関係者の間で今も語られています。
4. 触れてはいけない首なし地蔵
東京に伝わる話です。
ある夜テレビ番組のロケで訪れたスタッフや出演者たちが、若気の至りから、
道端に安置されていた「首なし地蔵」の首の断面を見て、
面白半分に代わる代わる触ってしまいました。
ところがその直後から、お地蔵さんの凄まじい報復が始まったのです。
ロケの帰り道、タクシーに乗ったスタッフ2人が大型トラックに追突され命を落とします。
数日後には同行していたグラビアアイドルが忽然と姿を消し、行方不明となってしまいました。
さらに別のカメラマンも、バイク事故で帰らぬ人となります。
最後の一人となったディレクターは、周囲が止めるのも聞かず、この惨劇さえも番組のネタにしようとスタジオ収録を強行しました。
その収録当日、絶対に外れるはずのない天井の巨大照明が、
まるで狙いすましたかのように彼の頭上に落下し、無残な死を遂げたといいます。
その後、事故が起きたスタジオは閉鎖され、今では建物も取り壊されて不自然な更地になっています。
このお地蔵さんは何度首を修復しても、車が突っ込んできては首が折れてしまうのだといいます。
5. 冒涜への報復をする地蔵
埼玉県に伝わる話です。
ある晩、土地の若者たちが夜遊びの帰り、若さゆえの浅はかさから、
お地蔵さんを裏の川まで担いで行き、川の中に投げ込んでしまいました。
ところがその夜、お地蔵さんが若者たち全員の夢枕に立って、こう言います。
「私はお前たちに何もしていないのに、お前たちはひどいことをする。
今度は私がお前たちに仕返しをする番だ」
さあ大変。
次の朝、若者たちが集まって話をすると、全員が同じ夢を見ていたことが分かりました。
祟りを恐れた若者たちは、すぐに冷たい川に入ってお地蔵さんを担ぎ出し、
元の場所に戻して謝りました。
しかし、その若者たちは、その後の人生で悪運が続き、
誰もよい死に方はしなかったといいます。
また別の話では、お地蔵さんの管理をしている人が、境内の杉の木を切ったところ、
お地蔵さんが怒って家に病人が出たという話もあります。
このようにお地蔵さんは「慈悲深い存在」ではなく、
「不敬を働く者には倍返しで報復する処刑人」として恐れられています。
道端にいるのは本来の「お地蔵さん」ではない
これらが本当にあったことだとすれば、背筋が凍ります。
「お地蔵さんは慈悲深いはずなのに、なぜこれほどまでに恐ろしいのでしょうか?」
ですが実は、これらの命を奪い、祟りをなす存在は、
本来の「お地蔵さん(地蔵菩薩)」ではありません。
それらの振る舞いは、仏教の教えとは全く異なるからです。
仏教の教えとの決定的な矛盾
まず目立つのは、仏教の「不殺生」の真逆を行っていることです。
殺生」とは、生き物の命を奪うことで、「十悪」という悪い行いの一つです。
仏教では、生き物の命を奪ってはならないと教えられています。
ましてやせっかく生まれ難い人間に生まれ、
人間に生まれた時にしか果たせないことがあると仏教に教えられているのに、
それを殺すというのはとんでもないことです。
そうでなくてもお釈迦様は「怨みによって怨みを晴らしてはならない」と説かれ、
仏教で報復は固く禁じられています。
もちろん「ルールを破ったから殺す」
「悪戯されたから祟る」
こうした行動は、仏教の教えとは正反対です。
どんな人がやっても、それは恐ろしい悪業ですが、
ましてや人々を救うはずの「菩薩」が、
そのようなことをしていては論外です。
では、道端にいるあの恐ろしい石像の正体は何なのでしょうか?
変わってしまったお地蔵さん
もともと仏教はインドから伝わってきましたが、日本に来ると日本の土着の信仰と混ざり合ってしまいました。
これを「神仏習合」といいます。
その結果、本来の地蔵菩薩の姿を借りているものの、
村の境界を守る「道祖神」や「塞の神」、あるいは「土地の精霊」といった、
仏教とは異なる存在が祀られるようになったのです。
これらは「神」として祀られていますが、中には人間に害をなす「悪霊」や「妖怪」に近い性質を持つものもあります。
気に入れば守ってくれますが、気に障れば容赦なく祟ります。
今の日本にある路傍のお地蔵さんの多くは、形こそ地蔵菩薩に似ていても、
中身は全く別の「何か」に入れ替わってしまっているのです。
上辺は仏教のように見せかけて、中身は仏教とは異なる外道が入っている恐ろしい存在です。
だから正体の分からない道端のお地蔵さんに、安易に手を合わせてはいけないのです。
見た目はお地蔵さんの姿で安心させて、中身は仏教とかけ離れた魔物なので、
子どもの悪戯すら許すことなく直接報復し、命まで奪う、
仏教の教えとは似ても似つかない振る舞いをするのです。
それで人々はお地蔵さんを恐れるようになり、手を合わせないだけでなく、
視線すら合わせられなくなっています。
今の日本にあるほとんどのお地蔵さんは、残念ながら、
仏教で説かれるお地蔵さんではありません。
仏教では、そのような仇をなす神々を敬うことを厳しく否定されています。
仏教で神々を信じては行けない理由
仏教では、神々や悪霊を信じたり仕えてはならないと教えられます。
例えば『薬師琉璃光如来本願功徳経』という経典には、次のようにあります。
もし浄信の善男子・善女人等ありて、乃至尽形までに余天に事えざれ。
(漢文:若有浄信善男子善女人等 乃至尽形不事余天)(引用:『薬師琉璃光如来本願功徳経』)
「尽形」とは形尽きるまでということで、死ぬまで、
「天」とは神のことですから、
これは、正しい紳士淑女の皆さんは、一生涯、神々に仕えてはなりませんよ、ということです。
仏教では、なぜ神々を信じたり敬ったりしてはいけないといわれるのでしょうか。
それは私たちの運命は、神を怒らせたり、喜ばせたりして決まるものではないからです。
神が勝手に創造したり、決めたりしたものでもありません。
もちろん悪霊や妖怪、物の怪のしわざでもありません。
では、私たちの幸せや不幸という運命は、何によって決まるのでしょうか。
それは、ひとえに自分自身の行いによって決まるのです。
この運命を決める法則を、因果の道理といいます。
因果の道理というのは、「自業自得」のことです。
自業自得の本当の意味
「自業自得」と聞くと、どんなイメージを持つでしょうか。
「勉強しなかったから試験に落ちた、自業自得だ」というように、
悪いことが起きたときに使う言葉だと思っていませんか?
ですが、実は自業自得とは、「自分のまいた種は自分が刈り取る」という意味です。
善いことも、悪いことも、すべて自分の行いが生み出した結果なのです。
毎日コツコツ努力して、目標を達成した。
これも自業自得です。
健康に気をつけて、体調が良くなった。
これも自業自得です。
自業自得とは、自分の行いが自分の運命を決めるということです。
だからこれは、「あなたの行いを変えれば、あなたの未来も変わる」という、
希望に満ちたメッセージなのです。
この自業自得は、「因果の道理」ともいい、運命がどのように決まるのか、
その法則を教えられています。
仏教で教える運命の決まり方
「因果の道理」と聞くと、難しく感じるかもしれません。
でも実は、とてもシンプルな法則なのです。
庭にチューリップのタネをまけば、チューリップの花が咲きます。
コスモスのタネをまけば、コスモスの花が咲きます。
チューリップのタネをまいて、「コスモスが咲いてほしい」と願っても、
咲くのはチューリップです。
仏教では、私たちの人生もこれと同じだと教えられています。
あなたが周囲の人に優しい言葉をかければ、周りの人もあなたに優しくしてくれます。
あなたが不機嫌な態度を取れば、周りの人はあなたから離れていきます。
これは、神様が決めたことでも、お地蔵さんの呪いでもありません。
あなた自身の行いが、あなたの運命をつくっているのです。
お釈迦様はこう教えられます。
人が何をしようとも、その報いが自分に起るのを見る。
善いことを行なった人は良い報いを見、悪いことを行なった人は悪い報いを見る。(引用:『ウダーナ・ヴァルガ』第9章・第8詩)
善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果が生じる。
これがお釈迦様の教えられた因果の道理です。
善行には善い果報、悪行には悪い果報が生じることが明確に説かれています。
だから仏教では、呪いや祟りで運命が決まるのではないと教えられています。
私たちの運命を決めるのは、神でも悪霊でもなく、私たち自身の日々の行いなのです。
道端のお地蔵さんは、今や仏教とは言い難く、
手を合わせたり、現世利益を祈ったりしていてはいけません。
運命は自分の行いによってつくられるのですから、
私たちは仏教の因果の道理を深く学び、実践し、幸せになることが大事なのです。
そして、お釈迦さまがこの因果の道理を教えられたのは、
私たちを「絶対の幸福」へ導くためです。
私たちが知っている幸せは、一時的です。
お金は使えばなくなりますし、健康もいつ失うか分かりません。
家族や友人との関係も、いつも順風満帆とは限りません。
仏教に説かれる「絶対の幸福」は、そんな移り変わるものではなく、
何があっても決して崩れない、永遠に変わらない幸せです。
では、その永遠に変わらない幸せはどんなもので、
どうすればその幸せになれるのかについては
これは仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座にまとめてあります。
ぜひ一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細・お問い合わせ
X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)
京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。

