梵我一如とは
「梵我一如」はヴェーダの奥義書・ウパニシャッドの中心思想といわれています。
その意味は、高校の倫理で習った時も、辞典にも、東大名誉教授の本にも、
「大宇宙の原理と個人の本体は同一である」と書いてあります。
ところがこれは、150年間続いた大いなる誤解だったのです。
実は「梵我一如」という言葉すら、古代インドには存在しませんでした。
この4文字は、実に明治時代の日本の学者が作った造語です。
では、本当の「梵我一如」とは何だったのか?
その驚くべき真実を、古代インドのウパニシャッドの原典から解き明かします。
梵我一如を秘めたウパニシャッドとは
「梵我一如」は、ウパニシャッドの中心思想といわれます。
では、ウパニシャッドとは何でしょうか?
ウパニシャッドは、よく「奥義書」とも訳されるヴェーダ文献です。
ヴェーダ文献には、4種類あります。
『リグ・ヴェーダ』
『サーマ・ヴェーダ』
『ヤジュル・ヴェーダ』
『アタルヴァ・ヴェーダ』
の4つです。
これを「四吠陀(ヴェーダ)」といわれます。
どんな内容なのか、簡単にいうと、
『リグ・ヴェーダ』と『サーマ・ヴェーダ』には神々への讃歌が記されています。
『ヤジュル・ヴェーダ』には、祭式で唱える言葉、
『アタルヴァ・ヴェーダ』には呪術で使う言葉が記されています。
これらのヴェーダは、それぞれ4つの部分からなります。
本集(サンヒター)、ブラーフマナ(祭儀書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)の4つです。
本集には、祭式で使う讃歌や言葉が集められています。
ブラーフマナは、散文で祭式などの説明がされています。
アーラニヤカは、人里離れた森林で教える秘儀が集められています。
ウパニシャッド(奥義書)は、「ヴェーダーンタ」ともいわれます。
「アンタ」というのは終わりという意味で、ヴェーダの終わりの部分という意味です。
それがやがて「ヴェーダの極致」と理解されるようになりました。
ヴェーダの中で哲学的に最も深い教えが集められています。
後に、ウパニシャッドを研究するヴェーダーンタ学派が形成され、それは現代にも続いています。
ウパニシャッドの哲学は、今日もインド哲学の中核となっています。
そのウパニシャッドの中心思想といわれるのが「梵我一如」です。
150年続いた梵我一如の誤解
梵我一如について調べると、ほとんどの倫理の教科書や辞書、辞典などで、
宇宙の原理である梵(ブラフマン)と、個人の本体である我(アートマン)が同一であることだと書いてあります。
例えば仏教辞典にはこうあります。
辞典の場合
梵我一如
ぼんがいちにょ
宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と個我の本質であるアートマン(我)は本来同一であること。
このことを知ることによって解脱が達成される。
『シャタパタ‐ブラーフマナ』と『チャーンドーギヤ‐ウパニシャッド』に伝えられるシャーンディリヤ(Śāṇḍilya)の教説に両者の一体性が説かれ、伝統的には二つの大格言(Mahāvākya)と呼ばれるウパニシャッドの文が典拠となっている。
すなわち、『チャーンドーギヤ‐ウパニシャッド』においてウッダーラカ‐アールニが息子に最高存在である有(sat)を示して「汝はそれなり(tat tvam asi.)」と説き、『ブリハッド‐アーラニヤカ‐ウパニシャッド』において世界創造の当初ブラフマンが自身を認識して「私はブラフマンである(ahaṃ brahmāsmi.)」と言葉を発した。
この文の「汝」と「私」がアートマン、「それ」と「ブラフマン」がブラフマンを意味するものとして、後代、ヴェーダーンタ学派で<梵我一如>をあらわす命題としてまとめられた。
この解釈からも知られるように、絶対者としてのブラフマンに対して、アートマンは身体を有する個我と解脱に達する最高我という二つの意義を有していることから、ヴェーダーンタ学派において、シャンカラは不二一元論(advaita)を主張し、両者の本質的関係からすれば現象世界は幻のように実体がないとし、ブラフマンと個我・現象世界の関係をめぐる解釈の相違から、ラーマーヌジャの被限定者不二一元論(viśiṣṭādvaita)、マドヴァの二元論(dvaita)などが展開した。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
この辞典の中でも、「宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と個我の本質であるアートマン(我)は本来同一であること」と書いてあります。
また、広辞苑でもそうです。
ぼん‐が‐いちにょ 【梵我一如】
インドのウパニシャッド哲学の根本思想で、宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)とが同一であるというもの。(引用:『広辞苑』第七版)
広辞苑でも、「宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)とが同一であるというもの」と解説しています。
本の場合
これは辞典だけでなく、本でも同様です。
例えば東大名誉教授、辻直四郎の『ウパニシャッド』を読むと、もっと詳しく解説してあります。
「ブラフマン」については
「リグ・ヴェーダの讃歌・祭詞・呪詞、更にその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識及びその結果たる神通力」という意味から初めて、
アタルヴァヴェーダ、ブラーフマナ文献での意味を挙げ、
万有そのものと同一視せられる根本原理の位置に上った、と説明しています。
次に「アートマン」については
「気息」という意味から始めて、
アタルヴァヴェーダでは個人の本体という意味だとします。
このようにブラフマンとアートマンを説明した上で、「梵我一如」は、
「個人の本体を直に宇宙の本体と同一視する」
「万有に遍満する呪力より出発してブラフマンに達し、個人の本体を拡大してアートマンを得た。道こそ異なれ求めた所は絶対不二の根本原理に外ならない。
梵・我の二原理を対抗䦧闘せしめずして、両者の完全一致を容認した」
と解説しています。
さらに、ウパニシャッドでそのように個人の本体と宇宙の本体を同一視する理由として、
リグ・ヴェーダのプルシャ讃歌に「眼より太陽生じ、気息より風生じた」とあることから始まり、
ウパニシャッドでは、個人に関する説明と宇宙に関する説明を対比並行させているという歴史的な変遷を説明し、
「もし個人の生活機能がいちいち自然界の威力に相応しているならば、
各個人は即ち小宇宙であり、大宇宙の模型と云うべく、各個人の本体は悉く同一であり、
大宇宙の本体と本質的に一致せねばならぬ」と述べています。
ちなみに「一如」というと、1つであって2つ、2つであって1つという意味かと思いますが、
ここでは「同一」、イコールという意味で使われています。
東京大学名誉教授、前田專學氏の『インド思想入門』でも、
「自己と絶対者が本来同一であるといういわゆる「梵我一如」の思想」とか、
「梵我一如であることを、すなわち万有の最高原理が、われわれの存在の奥底に存在する自己、アートマンであることを」と書いてあります。
ところが実は「梵我一如」という言葉は、ウパニシャッドには出ていません。
「梵我一如」は、明治時代に日本の学者が作った言葉なのです。
このような明治以来の梵我一如の説明に、昭和の終わりに反論が現れます。
学会を震撼させた一人の研究者の告発
湯田豊は1976年、「梵我一如とウパニシャッド」という論文で、
従来の梵我一如は、マクス・ミュラーおよびドイッセンが、ブラフマン(梵)とアートマン(我)が同一不二であるという確信を抱き、
この思想をウパニシャッド哲学最大の特徴であるとみなしたものだといいます。
それが現在まで踏襲され、誰一人疑う人はいなかったと、今までの梵我一如の解説を批判しました。
それによれば、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(1・4・10)で、確かにブラフマンは宇宙の原理ですが、
アートマンも同じ章(1・4・1)で宇宙の原理だといいます。
他にも、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(7・25・2)で宇宙の原理であるアートマンと同様の表現が、
ムンダカ・ウパニシャッドではブラフマンとして出てくるとも述べています。
逆にブラフマンは常に宇宙の原理ではなく、息を意味するところ、つまり小宇宙の原理とされる場合の例を幾つも挙げています。
このようなことから、梵我一如を小宇宙の原理であるアートマンと、大宇宙の原理であるブラフマンを同一視する学説は、
前提からして誤りと断定したのです。
では、梵我一如がどういう意味かというと、大宇宙と小宇宙ではなく、
「種々雑多な原理が一つのものに融合されるのを感じる」と言い、
最終的に「自己自身と直接関連を有する主観だけが実在するという確信である」と結論づけています。
では梵我一如は、本当は何を意味するのでしょうか?
それを知るには、ウパニシャッドに尋ねるしかありません。
梵我一如を知る方法
ウパニシャッドは、実は200以上あるといわれますが、伝統的には108とされます。
制作された時代も、紀元前500年前後から16世紀までと、非常に幅広くなっています。
その中でも最も古い、古ウパニシャッドを列挙すると以下の14になります。
(1)初期
第1期
・ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
・チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(サーマ・ヴェーダ所属)
第2期
・アイタレーヤ・ウパニシャッド(リグ・ヴェーダ所属)
・カウシータキ・ウパニシャッド(リグ・ヴェーダ所属)
・タイッティリーヤ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
第3期
・ケーナ・ウパニシャッド(サーマ・ヴェーダ所属)
・イーシャー・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
(2)中期
・カタ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
・ムンダカ・ウパニシャッド(アタルヴァ・ヴェーダ所属)
・プラシュナ・ウパニシャッド(アタルヴァ・ヴェーダ所属)
・シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
(3)後期
・マイトリ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
・マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド(アタルヴァ・ヴェーダ所属)
・マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド(ヤジュル・ヴェーダ所属)
この中でも、一番成立が早いとされているブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドと
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドで、説かれている梵我一如が後世によく引用されるので、
そこにどのように説かれているかが興味深いところです。
もちろんウパニシャッドには、アートマンやブラフマンについて述べられているところは
非常に数多くあるのですが、
その中でもアートマンとブラフマンが同一であると述べられている部分で、
アートマンが個人の本体であり、ブラフマンが宇宙の原理という先入観を捨てて、
それぞれ文脈のみで意味をとるというのがいいでしょう。
また、ヴェーダのそれ以外の部分とは異なり、
ウパニシャッドには色々な思想家が現れるのが、その特徴の一つです。
ヴェーダは本来、常住不変の真理を聖仙が感得してしゃべり出したものとされているため、人間の作ったものではないといわれます。
ですが、ウパニシャッドになってくると、王様と思想家の対話など、明らかに人間同士の会話が出てきます。
そんなウパニシャッドもヴェーダに含められて、ヴェーダとして伝えられているわけです。
そういうことで、思想は人それぞれ異なるので、
思想家ごとに、梵我一如についてどう考えているのかを聞いてみましょう。
梵我一如をウパニシャッドに聞く
古ウパニシャッドでも最も古い、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドと
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドでは、
シャーンディリヤと、ウッダーラカ・アールニと、ヤージュニャヴァルキヤという思想家が出てきます。
この3人は、それぞれアートマンとブラフマンが同じだと言っていたり、
後世のヴェーダーンタ学派の不二一元論のシャンカラが梵我一如の根拠にしている言葉があったりしますので、
実際どういう意味で言っているのか確かめてみることにします。
まずは、梵我一如を初めて詳細に説いたとされるシャーンディリヤです。
シャーンディリヤの梵我一如
シャーンディリヤの梵我一如の思想は、チャーンドーギヤ・ウパニシャッドの3章に記されています。
シャーンディリヤは、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(3章・14節・4)に、確かに
「これは私の心臓の内部におけるアートマンである。それはブラフマンである」
(サンスクリット語 eṣa ma ātmā antarhṛdaye etad brahma)
とアートマンとブラフマンの同一を述べています。
では、ブラフマンについてはどう言っているでしょうか?
(3章・14節・1)に「このすべては実にブラフマンである」
(sarvaṃ khalv idaṃ brahma)
と言っています。
アートマンについては、(3章・14節・2)から(3章・14節・3)の冒頭にかけて
「心から形成され、生気を体とし、光の形であり、真実の意志であり、虚空を本質とし、あらゆる行為、欲望、香、味を持ち、このすべてを含み、言葉はなく、無関心である。それが心臓内部における我がアートマンである」と述べています。
(manomayaḥ prāṇaśarīro bhārūpaḥ satyasaṃkalpa ākāśātmā sarvakarmā sarvakāmaḥ sarvagandhaḥ sarvarasaḥ sarvam idam abhyatto 'vāky anādaraḥ || eṣa ma ātmā antarhṛdaye)
次の(3章・14節・4)に、それは限りなく小さいと同時に、限りなく大きいと言います。
このシャーンディリヤの梵我一如の思想は、チャーンドーギヤ・ウパニシャッドの3章・14節で、
ブラフマンについては、ブラフマンはすべてであり、アートマンと同じというだけで、それ以外の説明はありません。
では、アートマンは個人の本体かというと、私のアートマン(ma ātmā)という表現はありますが、
(3章・14節・4)に「『これ(ブラフマン)に、この世を去った後、到達するだろう』という人がいるだろうが、(そういう人はそのことに)実に疑いがない」
(etam itaḥ pretyābhisaṃbhavitā asmīti yasya syād addhā na vicikitsā asti)
と言っていますので、「私のアートマン」と言っている人も、この世で生きている時は「私のアートマン(=ブラフマン)」と同一ではありません。
ですからシャーンディリヤの考えでは、アートマンは個人の本体とは言えないでしょう。
このようなことから、シャーンディリヤの梵我一如は、ブラフマンと同じアートマンという、心でできた本質的に空虚で、あらゆる行為と欲望を含みながら真実の意志である無限小にして無限大の生気を体とする光の形を心臓内部に想定し、死後にそれになるという思想です。
ウッダーラカ・アールニの梵我一如
次に、インド最大の哲学者といわれるシャンカラが梵我一如の根拠として挙げるウッダーラカ・アールニの言葉を確認してみましょう。
それはシャーンディリヤと同じチャーンドーギヤ・ウパニシャッド(6章・8節・7)から9回繰り返される
「この微細なるものは宇宙すべての本質である。それはアートマンである。それは真実である。汝はそれである」
(sa ya eṣo 'ṇimaitad ātmyam idaṃ sarvam tat satyam sa ātmā tat tvam asi)
という言葉です。
ここで「汝」というのは、ウッダーラカの子、シュヴェータケートゥのことです。
ウッダーラカは、ヴェーダを覚えて自惚れている子供に教えを説いています。
その父親の決め台詞として繰り返される言葉となっています。
ここには、ブラフマンは出てきていません。
一方アートマンは、宇宙すべての本質であり、真実だと述べています。
では「この微細なるもの」は何でしょうか。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(6章・8節・6)に
「親愛なる者よ、これらすべての生き物は有を根とし、有を拠り所とし、有に安住する。親愛なる者よ、どのように三つの神性が人間に到達し、それぞれ三重になるのかは、前にまさに述べてある。親愛なる者よ、この人が死ぬ時には、言葉は心の中に、心は生気の中に、生気は熱に、熱は最高の神性の中に溶け込む」
(sanmūlāḥ somyemāḥ sarvāḥ prajāḥ sad āyatanāḥ satpratiṣṭhāḥ |
yathā nu khalu somyemās tisro devatāḥ puruṣaṃ prāpya trivṛt trivṛd ekaikā bhavati tad uktaṃ purastād eva bhavati |
asya somya puruṣasya prayato vāṅ manasi saṃpadyate manaḥ prāṇe prāṇas tejasi tejaḥ parasyāṃ devatāyām)
とありますので、アートマンたる微細なるものは、最高の神性、つまり有(sat)のことです。
そして、この6章の一番初めから最後(16節)に至るまで、ブラフマンという言葉は一度も使われていません。
アートマンについて他にも、「有は生命(jiva)であるアートマンによって3つの神性(熱tejasと水āpasと食べ物annam)に入る」(6・3・2)とか、
「生命であるアートマンが木に行き渡っている」(6・11・1)と言っているので、
アートマンはどうやら生命的なものということは分かります。
ですが、個人の本体とは言っていません。
宇宙すべての本質である有をアートマンともいい、それは人間と同一であると言っているだけです。
これを強いて有と個人の本体が同一と解釈すれば、ウッダーラカ・アールニの思想は、梵我一如ではなく「有我一如」となるでしょう。
ヤージュニャヴァルキヤの梵我一如
最後に、ウパニシャッド最大の思想家といわれる、ヤージュニャヴァルキヤです。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(6章・5節・3)によれば、ウッダーラカ・アールニの弟子であるようです。
ヤージュニャヴァルキヤは、梵我一如についてどのように考えているでしょうか?
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(4章・4節・5)で、
「実にこのアートマンはブラフマンである。それは認識作用、心、生気、目、耳、地、水、風、空、火、非火、欲、非欲、怒り、非怒り、法、非法、すべてから形成される」
(sa vā ayam ātmā brahma vijñānamayo manomayo prāṇamayaś cakṣurmayaḥ śrotramayaḥ pṛthivīmaya āpomayo vāyumaya ākāśamayas tejomayo 'tejomayaḥ kāmamayo 'kāmamayaḥ krodhamayo 'krodhamayo dharmamayo 'dharmamayaḥ sarvamayaḥ)
と言っています。
確かにアートマンとブラフマンが同じと考えていることが分かります。
では、アートマンについては何だと言っているでしょうか。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(4章・2節・4)では
「このアートマンは『〜ではない、〜ではない』というものである。把捉されないから把捉されない」
(sa eṣa neti nety ātmā agṛhyo na hi gṛhyate)
とも言っていますが、それは表現の一つです。
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの別の部分(4章・3節・7)では
「アートマンはどんなものか。認識作用から形成された生気ある心臓内部の光なる精神である」
katama ātmeti -- yo 'yaṃ vijñānamayaḥ prāṇeṣu hṛdy antarjyotiḥ puruṣaḥ
と言ったり、同じく(4章・4節・15)では、
「このアートマンを神と直接見て、過去に存在したもの、未来に存在するものの直接の支配者と見る時、そのことから嫌悪はしない」
(yadaitam anupaśyaty atmānaṃ devam aṅjasā | īśānaṃ bhūtabhavyasya na tato vijugupsate)
と言ったり、さらに同じく(4章・4節・22)では、
「この偉大な不生のアートマンは生気に於て認識作用からなる。それは心臓の中の虚空であり、その中に横たわっている。すべての支配者であり、統治者であり、主である」
(sa vā eṣa mahān aja ātmā yo 'yaṃ vijñānamayaḥ prāṇeṣu ya eṣo 'ntar hṛdaya ākāśas tasmiñ chete sarvasya vaśī sarvasyeśānaḥ sarvasyādhipatiḥ)
と言ったりしています。
アートマンは、言葉にならない認識作用でできた神であり、すべての支配者と考えていたのでしょう。
ブラフマンについては同じ章の最初(4章・1節・2)に、
他の思想家の言うように、ブラフマン=言葉(vak)では不完全(ekapād一本足)だとして、言葉を領域(āyatana)とし、虚空(ākāśa)を所依(pratiṣṭhā)とする言葉こそ、最高のブラフマンであると言っています。
同様のことが、(4章・1節・3-7)で生気(prāṇa)、目(cakṣus)、耳(śrotram)、心(manas)、心臓(hṛdaya)についても繰り返されています。
この言葉、生気、目、耳、心、心臓の6つからすると、どちらかというと、ブラフマンは宇宙の原理よりも、個人よりに聞こえます。
ですが、個人の本体でもないでしょう。
アートマンもブラフマンも同じもので、大宇宙の原理でもなければ個人の本体でもなく、心からなりすべてを支配する生命の働きと考えているようです。
それは無限小ともいえますし、無限大ともいえます。
そして、(4章・4節・6)では輪廻との関係が説かれます。
それによれば、人は欲望があると生まれ変わりますが、
「無欲で、欲を離れ、欲を達してアートマンを欲とする者は、その生気が出て行かない。まさにブラフマンであり、ブラフマンに到達する」
(yo 'kāmo niṣkāma āptakāma ātmakāmo na tasya prāṇā utkrāmanti brahmaiva san brahmāpyeti)と言い、
この世で不死のブラフマンになると言います。
これらのことから、ヤージュニャヴァルキヤの梵我一如は、認識からなり、すべての支配者であるアートマン(ブラフマン)に、欲をなくせば私は到達するという思想であることが分かります。
遂に判明するウパニシャッドの真の梵我一如
このように、古ウパニシャッドの中でも最も成立が早いとされるチャーンドーギヤ・ウパニシャッドとブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの3人の思想家の考えを確認してみると、梵我一如について、梵が大宇宙の原理、我が個人の本体で、それらが同一とする思想は誰一人持っていませんでした。
むしろ彼らは、非生物を含む世界のすべての存在は、認識作用からなるアートマンともブラフマンともいう生命的な要素に満ちていているという世界観を持っていて、私はそれであると知らねばならないと考えていたことが分かります。
梵と我とは、同じものの別名のようなものですので、一如であるのは当然となります。
その梵我は吾であるということなので、
漢字四字で表すとすれば、「梵我一如」よりも「梵我即吾」といったほうが適切でしょう。
アートマンが仏教で「我」と漢訳されるので、我がアートマンなのか私なのか分からなくなり、混同してしまったのかもしれません。
このウパニシャッドの思想は、パーリ仏典に批判されています。
中部経典にはこう説かれています。
「彼は世界なり、彼は我なり、かの予は死後、常住、常恒、久遠、非変異法と成らん、永遠にその状態に在らん」との、かの見処は、比丘達、是、実に全く愚法にあらずや
(引用:《南伝大蔵経》第9巻中部経典一p.253)
これは「それは世界である、それはアートマンである、私は死後、固定不変の性質のものとなり、永遠にその状態にある」という思想は、まったく愚かだという意味です。
なぜかというと諸行無常なので、固定不変のものは存在しないからです。
ここで、「固定不変の性質のもの」というのは、その世界でありアートマンであるものの性質なので、
「彼は世界なり、彼は我なり、かの予は死後、常住、常恒、久遠、非変異法と成らん、永遠にその状態に在らん」という思想は、
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドのシャーンディリヤの梵我一如の思想と一致します。
仏教のほうが、日本の明治以来の学者より、よっぽどウパニシャッドの思想を正確に理解しています。
不二一元論シャンカラの梵我一如は仏教の「盗用」か
このウパニシャッドの研究をするヴェーダーンタ学派の中でも、最も大きいのは、シャンカラの不二一元論派です。
シャンカラは、ウッダーラカ・アールニの「汝はそれである」という言葉は、個人の中にあるアートマンが、絶対者ブラフマンと同一であることを端的に示す文章と考えました。
そして、それがウパニシャッド全体の中心思想を表し、自分たちの立場を表現している「大文章」と呼んで尊重しています。
それがシャンカラのいう梵我一如であり、彼の根本思想です。
シャンカラによれば、真の実在はブラフマンのみで、それ以外は迷妄に過ぎません。
そしてそれは識であり、存在そのものであるといいます。
このブラフマンが、アートマンそのものであるとされます。
このような識が存在である、一元論ですが、現実世界は主観と客観の二元的なものです。
そのような世界は、無明によって起きる夢幻のようなものだといいます。
それが不二一元論の梵我一如です。
ところがそうなってくると、苦しみの一番の原因が無明であるという仏教の十二因縁や、
この世界は阿頼耶識が生み出したものだという仏教の唯識にそっくりです。
シャンカラは同時代の人から「仮面の仏教徒」と言われていたくらいです。
ですが、仏教は諸法無我を説きますので、固定不変のアートマンを想定する限り、仏教ではありません。
仏教では、諸法無我を前提とした上で、変わらない幸せになる道を明らかにされているのです。
では仏教では、どうすれば輪廻から解脱して、本当の幸せになれるのか、ということについては、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度読んでみてください。
関連記事
この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)