外道とは
「外道」というと、世間ではほとんどの場合
「卑怯な人」をいいます。
ところが「外道」は、もとは仏教の言葉で、もっと深い意味があります。
仏教を内道といい、仏教以外のすべての宗教を外道といわれていますが、
なぜ外道といわれているのかについても解説していきます。
私たちの幸せに深く関係するのですが、一体どんな意味でしょうか?
外道の意味
外道とは、どんな意味なのでしょうか?
まず仏教の辞典を確認してみましょう。
外道
げどう[s:tīrthika, tīrtha-kara]
1)仏教以外の他の宗教・哲学、またはそれらを信奉する人びとを総称した呼称。
一般には<内道>(仏教)に対していうが、2)道にはずれた人のことを貶していう場合が多い。
1)の場合は、インドに仏教が興った紀元前5-6世紀頃、ガンジス河中流南岸地域にあったマガダ地方に存在していた六師外道や、異教の思想一般を総称し、2)の場合は、むしろ異端邪説を語る人をさしていい、正論者からの貶称である。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、外道について簡単に説明されていますので、
ここでは辞典には書かれていないところまで、分かりやすく解説していきます。
世間で外道とは?
世間で外道というと、「道に外れた人」という意味で、卑怯な人や、邪悪な人、ずるい人がいわれます。
たとえば、権力者でありながら、庶民を苦しめて私服を肥やし、栄耀栄華を極めている人は外道です。
また、力の強いボスで、困っている人から暴力で金品を巻き上げる無慈悲で残酷な人も外道といわれます。
また、頭がよく、人前ではニコニコと人格者を装いながらも、裏ではしたたかに他人を犠牲にして自分の利益をはかっていく人も、外道です。
このように、人の道に背き、邪悪な心を持った卑怯者を世間では「外道」といいます。
釣りの世界では、釣ろうと思っていたのと違う魚が釣れたとき、外道といわれますが、魚がかわいそうです。
仏教では、このような道に外れた卑怯者ももちろん外道に入りますが、もっと広く深い意味があります。
仏教で外道とは
仏教で「外道」は「外学」ともいいますが、
「道」とは教えということですから、
「真理に外れた教え」
「真理の外側の教え」を外道といいます。
真理に反している、真理ではないということです。
『維摩経義記』には、
「法の外の妄計、これを外道と称す」
とあります。
「法」とは真理ということですから、
「真理の外側の間違った考えを外道という」
ということです。
真理とは、いつでもどこでも成り立つものです。
「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理は、いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理ですから、因果の道理に反した教えを外道といいます。
世間でいわれる他人を犠牲にして、自分が幸せになろうとする人も、因果の道理に反していますから、仏教でいう外道ともいえますが、仏教でいう外道はもっと広いのです。
どんな宗教も大宇宙の真理を教えられている?
現代の日本人によくある考え方として、どんな宗教でも、究極的には同じ大宇宙の真理を教えられたもので、ある宗教ではそれを神といい、ある宗教ではそれを仏というのだろう、というものがあります。
ところが実際に色々な宗教の教義の内容を調べてみると、それぞれまったく違うことが教えられており、とても同じ教えとは言えません。
外道の教えの具体例1:三種外道
2600年前、ブッダの時代のインドでも、色々な教えがありました。
代表的なのはバラモン教です。
バラモン教にも色々な教義があって、運命の原因に関する主張が3通りありました。
これを三種外道といいます。
1つ目は、この世を創造した最高神がいて、すべてはその神を原因とする教えです。
現代でいえば、キリスト教やイスラムに似ています。
2つ目は、すべてを生みだした神はいないけれども、すべては過去の原因によって決まってしまっている、という宿命論です。
これは現代でいえば、唯物論に似ています。
3つ目は、すべては何の原因もなく生じ、何の原因もなく消えるという考え方です。
これは偶然論です。
これらの三種外道については、以下の記事でもっと詳しく解説してあります。
➾運命は決まってる?3つの運命論と運命を支配する法則
このように、一方では神によってすべては生み出されたといい、また一方では神などいないといいます。
ある教えでは、すべては過去の原因によってすでに決まっているといい、ある教えでは、原因など何もないと主張します。
これらの教えは、結局は同じことを教えられたどころか、同時には成り立たず、お互いに矛盾しています。
仏教では、このような教えはすべて因果の道理に反する教えとして、「外道」といわれます。
外道の教えの具体例2:六師外道
バラモン教以外にも、当時は代表的な六人の思想家が活発に活動していました。
これらを六師外道といわれます。
六師外道がどんな人たちかというと、お経にはこのように説かれています。
外道の六師は
富蘭那迦葉、
末迦梨瞿舎梨子、
刪闍夜毘羅眡子、
阿耆多趐舍欽婆羅、
迦羅鳩駄迦旃延、
尼犍陀若提子等。
(漢文:外道六師 富蘭那迦葉 末迦梨瞿舎梨子 刪闍夜毘羅眡子 阿耆多趐舍欽婆羅 迦羅鳩駄迦旃延 尼犍陀若提子等)(引用:『大般涅槃經』)
この6人がどんな思想を持っていたかを
箇条書きにすると、こうなります。
・プーラナ・カッサパ(富蘭那迦葉)
➾道徳否定論
・マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎梨子)
➾宿命論的自然論
・アジタ・ケーサカンバラ(阿耆多趐舍欽婆羅)
➾唯物論・快楽論
・パクダ・カッチャーヤナ(迦羅鳩駄迦旃延)
➾無因論的感覚論・七要素説
・サンジャヤ・ベーラッティプッタ(刪闍夜毘羅眡子)
➾懐疑論・不可知論
・ニガンタ・ナータプッタ(尼犍陀若提子)
➾相対主義、苦行主義
それぞれについて、分かりやすく要約して解説します。
道徳否定論
プーラナは、奴隷の子で、主人の牛舎で生まれました。
やがてその主人から逃げ出した時に、服をとられ、
それからは裸形だったといわれます。
プーラナは、生き物を殺したり、ものを盗んだり、嘘をつくなど、
悪い行いをしても、悪業はなく、悪果はこない。
また寄付やボランティアをしたり、優しい言葉をかけたり、真実を語るなどしても、
善業はなく、善果はこないと説きました。
善悪は人間が勝手に決めたものだというのです。
そのため「正直者がバカを見る」世の中であり、運が良ければ悪いことをしても罰せられないと、
運命を決める法則はなく、デタラメに決まるのだと主張します。
しかし、道徳を否定し、悪いことばかりをしていた人生と、道徳を守り、善に励んだ人生が、
大きく異なるのはやってみるまでもなく分かります。
たとえば小さな約束を守ることで、大きな商談につながった話など、
善因善果の事例は枚挙にいとまがありません。
そして、この世で悪の限りを尽くした人が臨終に後悔し、死後大変な苦しみを受けるのは間違いないと
ブッダは教えられます。
人間の都合で、善や悪をなかったことにはできないのです。
プラーナが、厳粛な因果の道理を否定する、外道だということは、
仏教によらずとも明らかです。
因果応報について詳しくは、下記をお読みください。
➾因果応報とは?意味を分かりやすく恋愛の実話を通して解説
宿命論的自然論
マッカリ・ゴーサーラは、巡礼者だった両親が、雨季を牛舎で過ごした時に産まれたといわれます。
彼が唱えたのは宿命論です。
宿命論とは、私たちの運命は、すべて決まっており、どうやっても変えられないという思想です。
マッカリが言うには、すべての生き物は、限りなく昔から流転輪廻をくりかえし、生まれ変わり続けていますが、これには神の存在もなく、何も原因がありません。
無因無縁でものごとは生じており、宿命(ニヤティ)のみが、運命を決定づけるといいます。
輪廻を繰り返していると、やがて自然に輪廻を離れると説明しました。
修行しても解脱する期間が早くなるわけではありません。
例えると、ちょうど糸巻きを投げると、糸がすべて解きほぐれるまで転がり続けるように、
定まった期間流転し続けるというのです。
しかし今日、「どんな結果にも必ず原因がある」という科学の前提からしても、明らかにおかしい主張です。
また運命が決まっているとなると、努力・精進はなく、絶対に進歩向上につながりません。
ブッダはマッカリを2600年前から明らかな外道だと見抜かれていました。
運命について、詳しくはこちらの記事をお読みください。
➾運命は決まってる?3つの運命論と運命を支配する法則
マッカリの所属していた宗教は、アージーヴィカといわれます。
漢訳では「邪命外道」といわれます。
アショーカ王の現れたマウリヤ朝まではかなり有力でしたが、
その後、ジャイナ教に吸収されました。
唯物論・快楽論
アジタは、毛髪で編んだ服を着ていたと考えられています。
彼は、すべては常住の実在である地・水・火・風の四元素でできていると考えます。
それが虚空の中に存在し、活動します。
地・水・火・風は物質で、それ以外には何もないので、今日でいう唯物論です。
人間もこれらの四元素でできており、死ねば肉体の物質がバラバラになって地・水・火・風それぞれの集合に帰り、各器官の能力は虚空に帰る。
こうして人間は死ねば無になる。
そのため魂や死後は存在せず、今生でどれだけ善いことをしても、悪いことをしても、
来世に善果も悪果もないと主張しました。
そこで「私」は死ねば無くなり、来世も因果応報もないのだから、
宗教も道徳も要らず、この世をできるだけ楽しく生きることが重要だと、快楽論を唱えたのです。
このような唯物論、快楽論は、順世外道とか、ローカーヤタ、チャールヴァーカなどといわれます。
「私」とは何か、今日でも「肉体」と「心」は別だという研究結果があります。
「私」を物質だけで説明することは不可能なのです。
来世がないのか、以下の記事で書いていますのでご覧ください。
➾仏教で言われる輪廻転生とは?意味と解脱する方法を解説
無因論的感覚論・七要素説
アジタよりも極端に唯物論を進めた考えを持っていたのが、パクダです。
パクダは、人間を七つの物質で構成する存在と考え、それ以上でもそれ以下でもないといいます。
その7つというのは、地・水・火・風と苦楽、生命の7つです。
これらの7つの要素は、作られたものではなく、
他のものを生み出すことも損なうこともありません。
非常に安定した不変のものです。
従って殺す人も殺される人もありません。
「私」すら無く、ナイフで刺されたら物質にナイフが刺さっただけ、
刺した人も刺された人も存在しないという思想です。
しかし、自分の土地、自分の家、自分の車、自分の体、といった「自分」が存在しないというのは、
普通の感覚では、生きていく上で全く受け入れられない主張でしょう。
私たちは、この「自分」というものが何かを知りたくて生きており、
そして自分を知ることが大切だといわれます。
自分とは何かについては、こちらをご覧ください。
➾2つの自分探しの意味と自分を知る方法
懐疑論・不可知論
サンジャヤは、当時最強であったマガダ国の首都、王舎城に住んでいて、たくさんの弟子がいました。
どんな思想だったかというと、懐疑論であり、不可知論です。
彼は「世界はあるのか」「業による報いはあるのか」「死後はあるのか」など
哲学的な問への答えをひたすら疑いました。
そして真理は、ないか、人間に知ることはできない(不可知)という立場にいたります。
そこで例えば、「死後はあるのか」と質問されると、
「あるとも考えないし、ないとも考えない、それとは異なるとも考えない、そうではないのではないとも考えない」と判断を避け続け、断言しません。
このような曖昧な論法は「鰻のように捕らえがたい議論」と呼ばれ、質問者を混乱させました。
これは思想というよりも、議論の姿勢が間違っているのかもしれません。
疑った先に答えを出すから真実に近づくことができるのであり、
疑っているばかりでは何も答えは得られないでしょう。
ブッダは『ダンマパダ』にこう説かれています。
まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと知る人は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する。
(引用:『ダンマパダ』12)
対応する漢訳の『法句経』では、このように説かれています。
真を知りて真と為し、偽りを見て偽りと知る。
これを正計と為す。
必ず真の利を得ん。
(漢文:知真為真 見偽知偽 是為正計 必得真利)(引用:『法句経』)
初めはサンジャヤの弟子であった舎利弗と目連は、サンジャヤの弟子250人を引き連れてブッダの弟子になりました。
仏教がこのような懐疑論よりはるかに超越していたということです。
苦行主義・相対主義
ニガンタ・ナータプッタは、商業都市のヴァイシャーリーの北部の村で、王族に生まれました。
30才で出家してニガンタ派に入り、苦行を行います。
そして「修行を完成した人」という意味の「ジナ」になり、ニガンタ派の教えを修正してジャイナ教の開祖となりました。
彼は、永久不滅の霊魂の存在を説き、この霊魂はもともと清らかなものだと言います。
しかし過去の業(行為)が、微細な物質となって、霊魂の中に流れ込み、
これによって生死輪廻を繰り返し続けている。
輪廻を食い止め解脱するためには、
①苦行によって過去の業を消し、
②新しい業が霊魂内に流れ込まないようにしなければならない
と主張しました。
これは苦行主義です。
さらに二ガンタはサンジャヤの懐疑論では答えにならないと反省し、
問に対する一方的で、断定的な判断は避けつつも、
「ある視点からはこうも言えるし、別の視点ではこうなるよね」と限定付きの主張をしました。
これは相対主義です。
たとえば「建物が存在するか」という問いに対する答えは
「ある場所から見たら存在するし、違う場所からみたら存在しない」となるでしょう。
しかし相対主義では、本当の幸福が何か全く分かりません。
たとえば犯罪を犯しても「犯罪者にとっては善であり、被害者にとっては悪だ」というのであれば、正邪の判断は不可能です。
これも懐疑主義と同様、思考停止であり、真実を明らかにすることはできません。
ブッダはこの苦行主義に対して、自ら苦行をされたことで、意味がないことを悟られました。
ブッダの修行については、こちらの記事をお読みください。
➾お坊さんの仏道修行とは?意味と各宗派の過酷な修行方法
ブッダは当時、これら外道の教えがはびこる中、
六師外道のような真理に反する教えをあきらかに破邪し、
仏教をインド全土に広めました。
また仏教と他の宗教(外道)との違いについて、以下の記事でもまとめています。
➾仏教と他の宗教の違い
このような、真理に反した教えを信じているとどうなるのでしょうか?
外道を信じていたらどうなるの?
ブッダは『涅槃経』に、こう教えられています。
一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く。
(漢文:一切外學九十五種 皆趣惡道)(引用:『涅槃経』)
「外学」とは外道のことです。
ブッダの当時、インドには、六師外道といわれる6人の思想家がいました。
その6人には、それぞれ16人の弟子がいましたので、それらを全部合わせると、6×16=96で、96種類の外道があったのですが、その中で、1人だけ、因果の道理に似たことを教えていたので、96−1=95で、「九十五種」といわれます。
ですから「一切外学の九十五種」とは、仏教以外の全宗教のことです。
そのような仏教以外の宗教を信じていると、
「みな悪道におもむく」と教えられています。
「悪道」とは、苦しい世界のことですから、真理に反した教えを信じていると、この世も未来も苦しまなければならない、ということです。
そのような宗教で不幸になった実例は枚挙にいとまがありません。
例えば、輸血はいけないと教える宗教を信じて死んで行く人があります。
日本でも、たまに医者にかからずに祈祷をして死ぬ人があります。
これが国レベルになると大変なことになります。
キリスト教では、動物は人間が食べるために創られたと信じ、有色人種は人間とはみなさないために、インディオを虐殺してインカ帝国やアステカ王国を滅ぼしました。
日本でも、ヒロシマやナガサキを一瞬で壊滅させ、ほとんどの主要都市を空襲し、当時の国際法に反して民間人を大量虐殺しました。
また、日本でも江戸時代までは仏教でしたが、明治時代になると、明治政府が神道によって国民を統制し、10倍の国力を持つアメリカに無謀な戦争を挑み、最後は神風が吹いて勝てると信じて国を滅ぼしました。
ブッダが
「一切外学の九十五種はみな悪道におもむく」
と教えられている通りです。
では仏教ではどのように教えられているのでしょうか?
では仏教は?
今回の記事では、外道とは何か、仏教における外道の意味、
そこからブッダが存命当時の有力な思想家たちであった六師外道について解説しました。
外道とは、真理に外れた教えという意味で、仏教以外の全宗教をいいます。
ブッダの当時のインドで代表的なのは、バラモン教と六師外道です。
六師外道とは以下の六人です。
・プーラナ・カッサパ(富蘭那迦葉)
➾道徳否定論
・マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎梨子)
➾宿命論的自然論
・アジタ・ケーサカンバラ(阿耆多趐舍欽婆羅)
➾唯物論・快楽論
・パクダ・カッチャーヤナ(迦羅鳩駄迦旃延)
➾無因論的感覚論・七要素説
・サンジャヤ・ベーラッティプッタ(刪闍夜毘羅眡子)
➾懐疑論・不可知論
・ニガンタ・ナータプッタ(尼犍陀若提子)
➾相対主義、苦行主義
ブッダはこれら外道の教えの間違いを正しながら、インド全土にたいして、仏教を広めました。
では仏教の教えとはどんなものなのでしょうか。
「外道」に対して、
「真理の内側の教え」
「真理の内に立つ教え」
「真理」を「内道」といいます。
仏教は、因果の道理に立脚して教えられていますので、一切経七千余巻を貫く教えが、因果の道理です。
どれだけたくさんのことが説かれても、仏教には因果の道理に反した教えは1つもありませんから、仏教は、内道です。
分かりやすくいえば、
「内道」とは仏教のことで、
「外道」とは仏教以外のすべての宗教のことです。
ブッダは、因果の道理に反する教えでは、幸せになれないから、因果の道理に立脚して教えられた仏教を信じなさいと教えられているのです。
では仏教で、どうすれば、本当の幸せになれるのか、ということについては、仏教の真髄ですので、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)