涅槃寂静とは?
「涅槃寂静」とは、安らかな静けさの境地です。
このさとりの世界に出ることが仏教の目的です。
仏教の教えが真実であることを示す旗印「三法印」の1つに挙げられ、
仏教と他の宗教とを明確に区別する特徴でもあります。
世間では、割と簡単に経験できるように誤解されている面がありますので、
今回は、涅槃寂静の「涅槃」と「寂静」の意味、
「涅槃寂静に出るための方法」について詳しく説明します。
涅槃寂静とは
「涅槃寂静」はお釈迦様の説かれたお言葉です。
例えば『涅槃経』という有名なお経には、こう説かれています。
一切諸法は無常無我なり。
涅槃寂静にして諸過悪を離る。
(漢文:一切諸法無常無我 涅槃寂静離諸過悪)(引用:『涅槃経』)
これは、お釈迦様が、六師外道という仏教以外の教えの誤りを正すために説かれたお言葉です。
どういう意味かというと、
この世のすべてのものは「諸行無常」であり、「諸法無我」である。
そして「涅槃寂静」こそが、あらゆる苦しみから離れた境地である、ということです。
この「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つは、三法印といいます。
三法印とは、「法印」は真理の印ということで、旗印ですから、
仏教の3つの旗印を三法印といいます。
これによってお釈迦様は、仏教とその他の宗教との違いを明確にされました。
この記事では涅槃寂静について解説しますが、
諸行無常と諸法無我についても、それぞれ別の記事で詳しく解説していますので、
ぜひそちらもお読みください。
➾「諸行無常の響きあり」の意味と甚大な影響力
➾仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い
では、「あらゆる苦しみから離れた境地」である涅槃寂静とは、
一体どのような世界なのでしょうか。
涅槃寂静を教えられた理由
お釈迦様が涅槃寂静を説かれた目的は、すべての人を本当の幸福にするためです。
幸福というのは、私たちが生きている目的です。
普段の私たちの行動も、すべて安心感や満足感といった幸福を求めてのことです。
政治や経済、科学、医学も、人類を幸せにするために信奉、発達しています。
しかし、人類の歴史が始まってから大変な努力を続けていますが、
本当に幸せになれているのでしょうか?
幸福感はさほど変わっていないという研究結果がたくさんあります。
それはなぜかというと、人類が考えてきた幸せには欠点があるからです。
それについて詳しくは、こちらの記事をご覧ください。
➾幸せとは何か簡単に心理学から解説。幸せになる方法と本当の幸せについて
一般的に私たちが幸せになろうとしてたどる道筋を、
実存主義の創始者といわれる哲学者、キルケゴールがうまくまとめています。
それは、私たちが幸せになるために、3つの段階をたどるというものです。
これを実存への三段階といいます。
幸せを目指しての3つの段階
3つの段階とは、審美的段階、倫理的段階、宗教的段階です。
それぞれどういう段階なのでしょうか。
1. 審美的段階
1つ目は審美的段階です。
普通、私たちが幸せと思うのは、美味しいものを食べたり、好きな服を買ったり、旅行に行ったり、恋愛を楽しんだりすることです。
SNSで「いいね!」の数が増えて評価されたり、人気者になったりするのも嬉しいので、幸せと感じます。
また、好きなことを仕事にしたり、自分が熱中できるライフワークに取り組むのも幸せだと思います。
こういうのが審美的段階です。
これは、本質的には「あれも欲しい、これもしたい!」と、
自分の欲望を満たして幸せになろうとする段階です。
ところが、これは欲望を満たす幸せですから、際限がありません。
高級なレストランに行くと、もっと美味しいものを食べたくなり、
ブランド物の服を買うと、また別のものが欲しくなります。
「もっとお金があれば……」
「もっとフォロワーが増えれば……」
と、常に何かを追い求め続けることになります。
手に入れた時の喜びは一時的なもので、すぐに飽きてしまいます。
新しいスマホを買った時は嬉しくても、すぐに別の新機種が欲しくなるように。
このように、欲望を追い求めるだけでは、本当の満足や幸せは得られないと気づいた人は、次の段階へ心が向きます。
2. 倫理的段階
2つ目は倫理的段階です。
自分の好きなことを仕事にしようとしても、なかなかやっていけないので、他人に喜ばれなければならないと気づきます。
他者への貢献です。
そして、他人に喜ばれることは、実は自分も嬉しい、幸せなことです。
困っている人がいれば助けたり、ボランティア活動に参加したり、
NPO法人を作って活動して、社会貢献を目指したりします。
生き方とししても、人の悪口を言わない、嘘をつかない、約束を守るなど、人格の向上を目指します。
このような他人の幸せに貢献することを考えて、道徳的な生き方を追求するのが倫理的段階です。
欲望を満たす幸せの限界に気づいた人は、悪いことをせずに、善いことをして、その結果幸せになろうと考えるわけです。
ところが、この生き方を追求して、善い行いをしていくと、
自分の中の醜い心が知らされてきます。
それは、「見返りを求める心」です。
「これだけしてあげたのに、感謝されない」と不満を感じたり、
「あれだけしてあげたのに、何も返ってこない」という不満な心が見えてきます。
これではせっくの善い行いが台無しです。
「他人のため」と思っていた行為も、
結局は自分のためだったという自己中心的な心が知らされ、苦しむのです。
このように、倫理的な生き方もまた、限界があることに気づき、
他の道を模索し始めます。
3. 宗教的段階
3番目は宗教的段階です。
これは安易に宗教に現世利益を祈るのとは違います。
色々と頑張った末に、自分の力では幸せになれないと気づいたキルケゴールは、宗教に救いを求めました。
キルケゴールの場合は、キリスト教に救いを求めましたが、
どうしても神を信じ切ることができず、しかもそのキリスト教からもかけ離れている教会を批判しました。
その戦いの途中に急死してしまいます。
普通は、幸せになろうと考えると、このどれかしか思いつかないのではないでしょうか。
どんな哲学者であっても、未だに本当の幸せを考え出した人は一人もいません。
もちろん到達した人は、なおさらいません。
人間がどのように考えても、本当の幸福は見つからないのです。
そのような中で、お釈迦様は、本当の幸福があると明らかにされました。
それが涅槃の境地です。
そして人々が生死の苦しみから抜け出し、静かで安らかな涅槃寂静の境地に至る道を教えられました。
ですが世間では、涅槃寂静に誤ったイメージを持たれています。
涅槃寂静の意味のよくある誤解
「涅槃寂静」は仏教用語です。
ですが、多くの人が涅槃寂静を勝手な独自の意味に解釈して、
しかもその間違った考えを他人にまで言っています。
例えば、ストレスフリーになったことが涅槃寂静であるとか、
人間関係が良くなり、イライラがなくなった状態が、涅槃寂静という人もいます。
また、マインドフルネスなどの瞑想をする中で、今の状況に集中している状態を涅槃寂静と言う人もいます。
このように、日常生活の中で涅槃寂静をプチ体験できると教える人もいるのですが、
仏教で教えられる涅槃寂静は、プチ体験できる幸せではありません。
滅茶苦茶です。
このような幸せは長続きせず、ストレスが溜まったり、
イライラしたり、集中状態がなくなったりすれば、すぐに幸福感が消えてしまいます。
涅槃寂静は、一度なれば決して変わらない幸せですから、全然違います。
ではまず、涅槃寂静の「涅槃」とは、どのような意味でしょうか。
涅槃とは
「涅槃」とは、お釈迦様が到達された最高の境地です。
サンスクリット語では「ニルヴァーナ」といって、吹き消すという意味です。
渇愛の滅とか、執着の滅と説かれていますが、
私たちの心を煩わせ、悩ませる「煩悩」の火が完全に消えたさとりの境地です。
涅槃に至れば、すべての束縛から解放されますので、解脱の境地でもあります。
解脱について、詳しくは以下をご覧ください。
➾解脱とは?正しい意味や輪廻との関係、悟りとの違いを簡単に解説
涅槃のことを「不死」ともいいますが、これは肉体が死ななくなるのではなく、
心が輪廻を解脱して、死を超えた境地に達したという意味です。
涅槃に至った人は六道輪廻を永遠に放れ、二度と迷うことはありません。
そういう永遠の平和と安らぎに満ちた境地です。
仏教の教えの中での位置づけからすれば、涅槃は究極の目的です。
お釈迦様が仏のさとりを開かれて、一番最初になされた初転法輪のご説法では、仏教の全体がおさまる四聖諦を説かれています。
四聖諦とは、4つの真理ということですが、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾四聖諦(四諦)─仏教に説かれる4つの真理
この仏教の全体像を教えられた四聖諦の中では、
目的地である滅諦の内容が涅槃です。
滅諦というのは、苦の滅の真理ということで、真の幸せを明かされた真理です。
この涅槃については、大きく4つに分けて教えられています。
それは「有余涅槃」「無余涅槃」「無住処涅槃」「自性清浄涅槃」の4つです。
それぞれどんな意味なのでしょうか?
有余涅槃とは
まず最初は「有余涅槃」です。
「有余涅槃」の「余」は、肉体のことですから、
肉体がある涅槃ということです。
生きている時に涅槃に達すると、煩悩は一切なくなっていますので、
煩悩の苦しみは離れているのですが、
肉体が残っているため、食事も必要ですし、病気にもなります。
これはお釈迦様が35歳で仏のさとりを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの間です。
次に、お釈迦様がお亡くなりになることを「涅槃の雲に隠れられた」といいますが、
涅槃に達した人が、死んで肉体がなくなると、「無余涅槃」に到達します。
無余涅槃とは
「無余涅槃」とは、肉体のなくなった涅槃です。
煩悩の束縛からも、肉体の束縛からも離れているので、
完全な涅槃という意味の「般涅槃」ともいわれます。
ちなみに「大般涅槃」という時もありますが、
般涅槃に「大」をつけて強調しただけで、般涅槃と同じ境地です。
後世には無余涅槃を、心身ともに完全な無に帰した状態(灰身滅智
)と誤解した人がいますが、それは間違いです。
仏様は、大慈悲を持たれた方ですから、自分だけ永遠の幸せになって、消滅して終わり、ということにはなりません。
苦しみ悩む人がいる限り、とてもじっとしてはいられない慈悲の働きによって、
般涅槃されても、すぐにまた迷いの世界へ赴かれて人々を救う、
衆生済度に力を尽くされます。
これを「無住処涅槃」といいます。
無住処涅槃とは
この「無住処涅槃」が真の涅槃です。
「無住処」とは、「どこにも住まない」という意味ですから、
「無住処涅槃」とは、涅槃という安らぎの世界にも、苦しみ迷いの世界にもとどまらない涅槃です。
このことを天親菩薩は『摂大乗論釈』に、こう教えられています。
般若によるがゆえに生死にとどまらず
慈悲によるがゆえに涅槃に住せず。
(漢文:由般若不住生死 由慈悲不住涅槃)(出典:天親菩薩『摂大乗論釈』)
「般若」とは智慧のことです。
智慧とは、さとりを与える働きです。
仏様は仏の智慧を体得されていますので、生死にとどまることはありません。
生死というのは、苦しみ迷いの輪廻のことです。
ですから、涅槃に至ります。
では、涅槃におられるのかというと、涅槃にもおられません。
智慧と慈悲は一体のものですので、慈悲の働きによって、苦しみ悩む人がまだたくさんいるのに、自分だけ幸せになってのんきに過ごしてはいられないのです。
すぐにまた苦しみ悩みの娑婆世界に赴いて、人々を救うために力を尽くされるのです。
これが生死にも涅槃にもとどまらない、無住処涅槃です。
それは自らも幸せになり、他の人も幸せにする、自利利他の境地です。
清浄な世界にとどまらず、大慈悲によって、苦しみ悩むすべての命を平等に救おうと、
喜んで生死の世界に出向いて救済活動をされるのが仏様です。
このような涅槃について、詳しくは次の記事をお読みください
➾涅槃(ニルヴァーナ)の意味と涅槃に達する方法を分かりやすく解説
自性清浄涅槃とは
最後の「自性清浄涅槃」とは、いつでもどこでも変わらない、本当の幸せにする働きのことです。
これを真如といいます。
真如は永遠であり、常住であり、本来的に清浄なものです。
ですから、これを「自性清浄涅槃」といいます。
この自性清浄涅槃の働きによって、煩悩に穢れた私たちが、本当の幸せになれるのです。
寂静とは
次に、涅槃寂静の「寂静」とはどういう意味でしょうか。
「寂静」とは、漢字だけ見ると、何か物寂しい境地のように思えますが、そうではありません。
煩悩の火が消えて静かになった、穏やかな安らぎの境地ということです。
「寂静」とは、悟りの境地である「涅槃」の別名でもあります。
そのことを『涅槃経』には、こう説かれています。
涅槃の性はこれ大寂静なり。
何を以ての故に。
一切憒閙の法を遠離するが故に。
(漢文:涅槃之性是大寂静 何以故 遠離一切憒閙法故)(引用:『涅槃経』)
どういう意味かというと、
「涅槃の性はこれ、大寂静なり」とは、涅槃の本質は大寂静である、という意味です。
「何を以ての故に」とは、なぜそうなのかと言えば、ということです。
「一切憒閙の法を遠離するが故に」とは、
憒閙の「憒」は、みだれるということで、
心が落ち着かず、とらえどころのない状態、ということです。
「閙」は、「いそがしい」という意味ですから、
憒閙とは、煩悩の煩わしさのことです。
ですから「一切憒閙の法を遠離するが故に」とは、
すべての煩悩による煩わしい性質から遠く離れるからである、という意味です。
煩悩についての詳細は、以下の記事をご覧ください。
➾煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説
まるで馬が走り回り、猿が騒ぎ立てているかのように乱れ続ける煩悩から
解放された状態が、「寂静」ということです。
例えるなら、木々を揺らす風が止み、周囲が静寂に包まれた状態と似ています。
風が吹いている間は、木の葉が騒がしく音を立てますが、
風が止むと、すべてが静かに落ち着きます。
同じように、煩悩という心のざわめきが止んだ時、
人は本当の安らぎを得ることができるのです。
この寂静を涅槃に続けて「涅槃寂静」といいますが、
これを「涅槃は寂静なり」とも読みます。
涅槃こそが最高の境地であり、求めるべきゴールである、ということです。
涅槃は仏教の究極の目的なのです。
この「涅槃寂静」の境地の現存を、仏教は明らかにしているので、
「涅槃寂静」は、仏教の特徴である三法印の最後に挙げられているのです。
では、日々、欲や怒り、そねみねたみの愚痴の心によって煩い悩んでいる私たちが、
「涅槃寂静」という真の幸福の境地に至るにはどうしたらいいのでしょうか。
仏教の究極の目的である涅槃寂静の世界に出るには?
今回は、「涅槃寂静」の深い意味について、詳しく解説しました。
お釈迦様が、「涅槃寂静」を教えられた理由は、
私たちが本当の幸せとは何か分からず、苦しんでいるためです。
私たちは幸せになろうとして、自分の欲望を満たそうとしても際限がなく、
他の人の幸せに貢献しようとしても、結局自分のためになってしまいます。
最後は神などの宗教にすがっても幸せになりきれません。
そのような私たちに、仏教では「涅槃寂静」という本当の幸福の現存を明らかにされています。
この「涅槃寂静」という安らかな静けさの境地に至るには、
苦しみ迷いの根本原因を知り、それを断ち切らなければなりません。
ですが、それは仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
詳しく解説していますので、ぜひ一度見てみてください。
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この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)