インド哲学とは
インド哲学とは、インドで成立した思想です。
哲学といえば西洋哲学が有名です。
西洋哲学の源流は古代ギリシア哲学ですが、それと同じかそれ以上に古くに生まれた哲学がインド哲学です。
インドの人々は論理的で頭がいいので、数千年の昔から様々な思想が現れ、
特に仏教は非常に広範囲に広がり、人類に大きな影響を与えています。
インド哲学とは一体どんなことなのでしょうか?
インド哲学の4通りとは
インド哲学とは一体何なのでしょうか?
参考までに、まず百科事典を見てみましょう。
インド哲学
いんどてつがく
インドで(成立)、発展した哲学・宗教思想の総称、ならびにそれを研究対象とする学問。
従来は主として、インドでおよそ16世紀以前に成立、発達した哲学・宗教思想を意味するのが通例であった。
日本で「印度(インド)哲学」はときとして「仏教」の同義語として用いられた。
「インド」という語は今日のインド共和国のみならず、その近隣諸国をも含むインド亜大陸といわれる地域をさす。
「哲学」はサンスクリット語の「ダルシャナ」darśana(見、観)の訳語として用いられる。
ダルシャナは人間存在、またはそのよりどころとしての世界に関する洞察を意味し、ヒンドゥー教の諸学派やジャイナ教や仏教に適用される。
インドでは哲学と宗教とは不可分離の関係にあり、哲学はいわば宗教的目標の実現のための不可欠の手段である。
このためにインドの諸宗教は哲学によって理論的に基礎づけられ、主知主義的傾向を示す。
インドでは、特殊性よりも普遍性を、個物よりも全体を重んじ、各思想家の独創性よりも伝統に対する忠実さを強調するために、個々の哲学者独自の哲学よりも、むしろ長い間にわたって多数の哲学者たちの貢献によって成立した哲学体系ないし学派が存続し発展する。
内面的、反省的傾向が強く、自然科学との結び付きが比較的弱い。
現実世界を苦と観じ、一見厭世的であるが、その自覚を出発点として、哲学的思索と宗教的実践によって苦の輪廻の世界を脱して、解脱の境地を実現しようとする。(引用:『スーパーニッポニカ 日本大百科全書』第二版)
この中で、
「日本で『印度(インド)哲学』はときとして「仏教」の同義語として用いられた」
とありますように、インド哲学には、詳しく言えば4通りの意味があります。
1つ目は、仏教学という意味です。
その時は「印度哲学」と書きます。
1879年に原坦山が東京大学で仏教講義を始めましたが、
それが1881年に「印度哲学」と改称されました。
その時から、中国仏教、日本仏教、チベット仏教も含む仏教学という意味で「印度哲学」といわれることがあります。
2つ目は、スリランカを含むインド亜大陸の宗教、思想という意味です。
これは、18世紀末にイギリスが植民地としたインドを研究するインド学の1つの分野として発展しました。
インディアンフィロソフィーの翻訳としての「インド哲学」です。
3つ目は、仏教学とインドの思想のすべてを含んだ「印度哲学」です。
東京大学文学部の印度哲学科と言った時の「印度哲学」は
この最も広い意味の印度哲学になります。
4つ目は、仏教以外のインドの宗教や思想という意味です。
仏教では外道といわれるものです。
外道については以下の記事もご覧ください。
➾外道とは?仏教でいう外道な人(六師外道)と人生への影響
この4つのインド哲学を表にすると以下のようになります。
- 中国、日本、チベットを含む仏教学(印度哲学)
- インド亜大陸に成立した宗教や思想
- 中国、日本、チベットの仏教とインドの宗教や思想(印度哲学)
- 仏教以外のインドの宗教や思想
この中でも、仏教については、このサイトの別のページの記事で詳しく解説してありますので、
この記事では、それ以外の宗教や思想、つまり4番目の意味のインド哲学について解説していきたいと思います。
インドで成立した宗教や思想
4通りのインド哲学の中で、2番目に挙げたインド亜大陸で成立した宗教と思想は、
大きく分けると2つになります。
『ヴェーダ』の権威を認める正統派といわれるグループと、
認めない非正統派といわれるグループの2つです。
正統派といわれるのは、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派の6つです。
これを「六派哲学」といわれます。
これが正統派といわれるのは、その時代に主流だったというよりも、後の時代に、シャンカラ派ヴェーダーンタを強く押し出したヒンドゥーリヴァイヴァルの動きがあったことが大きい、ともいわれます。
それに対して非正統派といわれるのは、仏教と、ジャイナ教を含む六師外道です。
六師外道というのは、プーラナ・カッサパ、パクダ・カッチャーヤナ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、サンジャヤ、ニガンタ・ナータプッタの6人の教えです。
ニガンタ・ナータプッタの教えがジャイナ教です。
これらの六派哲学と、仏教、六師外道が代表的なインド哲学です。
ではまず、正統派と非正統派を分ける、『ヴェーダ』というのは一体何なのでしょうか?
ヴェーダとは
『ヴェーダ』とは、インドの古い文献の総称です。
「知る」という意味の「√vid」から派生した言葉です。
つまり「知識」というほどの意味です。
ヴェーダには、作者はありません。
もし人間が作ったものだとすれば、人間は間違えるものなので、ヴェーダには間違いがあることになってしまいます。
ですが、ヴェーダは自明の真理とされるので、人間の著作ではなく、聖仙や詩人によって感得された掲示とされます。
そのため、天啓聖典ともいわれます。
『ヴェーダ』文献には、
『リグ・ヴェーダ』
『サーマ・ヴェーダ』
『ヤジュル・ヴェーダ』
『アタルヴァ・ヴェーダ』
の4種類があります。
これを「四吠陀」といいます。
- 『リグ・ヴェーダ』
- 『サーマ・ヴェーダ』
- 『ヤジュル・ヴェーダ』
- 『アタルヴァ・ヴェーダ』
では『ヴェーダ』にはどんな内容が記されているのでしょうか?
ヴェーダの構成
各『ヴェーダ』は4つの部分からなっています。
本集(サンヒター)、ブラーフマナ(祭儀書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)です。
本集が中核部分で、狭い意味での『ヴェーダ』は、本集の部分になります。
讃歌や歌詞、祭詞、呪詞などが記されています。
ブラーフマナは、本集に附属した散文の解説です。
神話や伝説も含まれています。
アーラニヤカ(森林書)は、森林で教えられるべき秘儀を記されているということでアーラニヤカ(森林書)といわれます。
祭式や、哲学的な内容もあります。
ウパニシャッドは、ヴェーダーンタともいわれ、哲学的思想の極致が記されています。
ヴェーダの成立年代
インドの思想は、いつでもどこでも変わらない真理を明らかにしようとしているので、年代がほとんど記されていません。
そのため、いつ頃成立したのかは正確には分かりませんが、
色々と推測されています。
例えば本集の一番古い部分は、紀元前1200年頃ではないかといわれています。
ブラーフマナは、紀元前800年頃、ウパニシャッドは紀元前500年頃といわれています。
まとめると、大体このように推測されています。
紀元前2500年頃 インダス文明が興る
紀元前1700年頃 インダス文明が衰退
紀元前1500年頃 アーリヤ人がインドへ侵入
紀元前1200年頃 リグ・ヴェーダの主要部分成立
紀元前1000年頃 アタルヴァ・ヴェーダ成立
紀元前900年頃 サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ成立
紀元前800年頃 主要ブラーフマナ成立
紀元前500年頃 ウパニシャッド成立
どうやって推測しているのかというと、ヴェーダに書かれている内容です。
例えばリグ・ヴェーダには鉄が出てこないため、鉄器が使われ始めた紀元前1200年から紀元前1000年より前にできたのではないか、といわれます。
またブラーフマナ文献の土器の範囲と文化が、考古学で確認されている貴族の土器の文化と重なるので、紀元前800年くらいのことではないか、というような感じです。
4つのヴェーダの内容
4つの『ヴェーダ』の中で一番古いのが『リグ・ヴェーダ』の本集の部分です。
まず『リグ・ヴェーダ』の「リグ」は讃歌という意味です。
全部で10巻あり、1017の讃歌と11の補遺の讃歌があります。
そこに、千を超える神々への讃歌が記されています。
自然を擬人化したものが多くあります。
例えば「サラスヴァティー」というのは大河の名前ですが、川の女神と崇められるようになりました。
そして弁舌と財産の神になります。
日本にも伝わり「弁財天」といわれます。
また、祭式に関わるものや、社会で重視された信念、契約、無限などの抽象概念も神格化されます。
人間の運命は神々に依存しており、悪人は罰せられるものの、贖罪すれば許されると考えられました。
たくさんの神々が登場しますが、古くから三十三神といわれています。
その中でも雷神である「インドラ」が全体の4分の1を占め、重視されています。
(インドラはやがて帝釈天として日本へやってきて、東京の柴又帝釈天などになっています)
それがだんだんと唯一の神が様々な形で現れたという思想が現れ始めます。
ヨーロッパ人は、哲学的な営みが生まれたと考えます。
そして、世界の根元を求める宇宙の創造についても、色々な話があります。
例えば創造神ヴィシュヴァルカマンが創造したとか、別の創造神ブラフマナス・パティが創造したという讃歌もあります。
また、四姓制度の根拠になっている「プルシャの讃歌」もあります。
プルシャという原人の口からバラモンが生まれ、両腕から王族、両ももから庶民、両足から奴隷が生まれ、その他の部分から世界が生まれたというものです。
また、「ナーサディーヤ讃歌」では、全宇宙がそこから展開する「かの唯一なるもの」という超越的な原理が登場します。
これが後世の一元論の最初の表現になっています。
また、最初の人間のマヌが登場します。
その兄弟がヤマです。
ヤマは死者の王となっています。
2番目の『サーマ・ヴェーダ』は、大体他の『ヴェーダ』の内容と同じで祭式で歌う讃歌が記されています。
旋律が記されたものがあるので、音楽の歴史の研究には重要です。
3番目の『ヤジュル・ヴェーダ』は祭式について記されていますが、
哲学や思想的なものはあまりありません。
4番目の『アタルヴァ・ヴェーダ』は、最初は『ヴェーダ』に含まれていなかったのですが、後に第四の『ヴェーダ』となりました。
呪術用讃歌が中心ですが、哲学的な思想も見られます。
それは宇宙の最高原理です。
宇宙の創造や維持は唯一の最高原理の働きとし、その原理は最高神と位置づけられています。
ただし、最高原理には色々あります。
呼吸や時間、愛欲、大地、太陽、雄牛、雌牛などの場合もあります。
『リグ・ヴェーダ』に出てくる一元論の傾向が強まり、ブラフマンが最高原理になっている讃歌もあります。
人間がブラフマンと同一視され、その中にアートマンが存在するという讃歌もあります。
ブラフマンというのは梵、アートマンというのは我ですので、後にウパニシャッドでいわれる「梵我一如 」のような思想が芽生えます。
また、心と体の観察が深まり、プラーナ(気息)は、宇宙の最高原理であり、小宇宙である人間の本体とも見なされています。
ブラーフマナの内容
ブラーフマナ文献は、紀元前800年を中心に成立したといわれ、それまでの本集と考え方が変わっています。
これまでは神がすごい力を持っていたのに、ブラーフマナ文献では、祭式によって神を操ることができるようになっています。
祭式のほうが神よりも強くなっているのです。
そうすると、祭式を行うバラモンが最強ということになります。
これは、リグ・ヴェーダから何百年かの間に、祭式を執り行うバラモンたちは、祭式を複雑化してきました。
すると、バラモンは、祭式を行った謝礼をもらえるので、懐が潤います。
そしてバラモンだけがヴェーダを伝え、自分たちにしかできないので、自らの社会的価値が高まります。
最終的には、神々に何かのお願いをするための祭式だったのが、神々さえも操る祭式こそが最も重要と、価値が逆転するまでに至ったと考えられています。
神さえも支配するバラモンが絶大な権力を持ち『シャタパタ・ブラーフマナ』には、
「学識ありヴェーダに精通しているバラモンは人間という神である」
と、生き神のように記されるまでになりました。
ブラーフマナの宇宙観では、最初に水があり、その中に黄金の卵が浮かんでいます。
そこから最高神であるプラジャーパティが出現してすべてを生み出すという宇宙創造説が出ています。
また、『リグ・ヴェーダ』ではあまり重視されなかった、ヴィシュヌ神と、シヴァ神の前身とされるルドラ神の地位が高まっています。
さらに、創造主がプラジャーパティから、もっと高次元のものとして、ブラフマンに変わります。
プラジャーパティは男性名詞なので人格的な感じがしますが、ブラフマンは中性名詞なので抽象的な印象を受けます。
そして、ブラフマンは「自ら生じたブラフマン」と限定され、それ以上にさかのぼれない、最も根源的なものとされます。
ウパニシャッドの内容
ウパニシャッドは、秘密の意義という意味です。
紀元前500年を中心に成立したといわれています。
ウパニシャッドには、色々な思想が記されていますが、相互に矛盾しているものもあります。
論理的ではなく、直感的なことを比喩的に記されています。
その中心テーマは、宇宙の原因は何なのか、私たちはどこから生まれたのか、ということです。
本集から、ブラーフマナ、ウパニシャッドになると、
だんだん人格的な最高神よりも、最高の原理の追及を始めます。
すでにブラーフマナで、その非人格的な最高原理の地位になっていたブラフマンは、ウパニシャッドでも、その後も最高原理となっています。
そして、ウパニシャッドでは、最高原理であるブラフマンと、個人の本体であるアートマンが同一であるという思想に至ります。
これを「梵我一如」といい、ウパニシャッドの中心的な思想といわれています。
世界の根元を探求した究極のブラフマンと、自己の根元を追及したアートマンが、実は同一だったという興味深い思想です。
赤道上で東と西へ、それぞれ逆方向に進んでいったら、同じところでばったり会いました、という驚きの事態です。
ですが、ウパニシャッドでは、それについての論理的な説明はありません。
後のヴェーダーンタ学派の不二一元論学派によって理論が作られます。
また、輪廻が明確に説かれるようになったのがウパニシャッドです。
パンチャーラ国王が、かつてバラモンに伝わったことのない、王族の教えである「五火説」と「二道説」を説いています。
五火説とは、人が死ぬと、まず月に行き、雨になり、地上で食べ物になり、人間や動物に食べられて精子となり、母胎に入るという五段階で生まれ変わるというものです。
二道説は、人が死ぬと、死ぬまでの行いによって行き先が神道と祖道に分かれるというものです。
その他にも、悪人の行く第三の道もあります。
神道に行けばブラフマンに到達しますが、祖道に行くと、一度月に行って、また地上に再生します。
悪人の行く第三の道は、小さな虫けらが生まれては死ぬ場所です。
これらは別の話ですが、よくまとめて「五火二道説」といわれます。
輪廻の原動力については、ヤージュニャヴァルキヤが、人前をはばかって、「業」であると言ったといいます。
ですが、それ以上のことは言われていないので、これは公には言えないような話であったのでしょう。
ウパニシャッドでは、輪廻から離れる解脱が究極の目標とされました。
それには、梵我一如にならなければなりません。
そのためには欲望を捨てたり、瞑想をすることを勧めています。
非正統バラモン思想(六師外道)
『ヴェーダ』の宗教や思想は、バラモン教として、紀元前600年から500年くらいまでには広まっていました。
これをバラモンの立場に立つと、正統派とか、正統バラモン思想といいます。
それに対して、ブッダをはじめ、『ヴェーダ』の思想を否定した自由思想家がブッダと同じ頃に現れました。
これらは、バラモンたちからすると非正統派とみなされ、非正統バラモン思想といわれます。
その中でも仏教以外で有力だったのが、仏教で六師外道という6人の思想です。
それが、プーラナ・カッサパ、パクダ・カッチャーヤナ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタです。
それぞれどんな思想を持っていたかを簡潔に記すと以下の通りです。
・プーラナ・カッサパ(富蘭那迦葉)
➾道徳否定論
・マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎梨子)
➾宿命論的自然論
・アジタ・ケーサカンバリン(阿耆多趐舍欽婆羅)
➾唯物論・快楽論
・パクダ・カッチャーヤナ(迦羅鳩駄迦旃延)
➾無因論的感覚論・七要素説
・サンジャヤ・ベーラッティプッタ(刪闍夜毘羅眡子)
➾懐疑論・不可知論
・ニガンタ・ナータプッタ(尼犍陀若提子)
➾相対主義、苦行主義
最後のニガンタ・ナータプッタがジャイナ教の開祖です。
表にまとめると以下のようになります。
- プーラナ・カッサパ(富蘭那迦葉)
- マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎梨子)
- アジタ・ケーサカンバリン(阿耆多趐舍欽婆羅)
- パクダ・カッチャーヤナ(迦羅鳩駄迦旃延)
- サンジャヤ・ベーラッティプッタ(刪闍夜毘羅眡子)
- ニガンタ・ナータプッタ(尼犍陀若提子)
もっと詳しいことは、他のページで解説してありますのでこの記事では割愛します。
六師外道の詳細は以下の記事をご覧ください。
➾外道とは?仏教でいう外道な人(六師外道)と人生への影響
正統バラモン思想(六派哲学)
おおよそ西暦120年から600年頃までの間に、『ヴェーダ』を認める思想の中で、色々な学派ができました。
代表的なのは、サーンキヤ学派,ヨーガ学派,ニヤーヤ学派,ヴァイシェーシカ学派,ミーマーンサー学派,ヴェーダーンタ学派の6つです。
これを「六派哲学」といいます。
- サーンキヤ学派
- ヨーガ学派
- ニヤーヤ学派
- ヴァイシェーシカ学派
- ミーマーンサー学派
- ヴェーダーンタ学派
これらの6つの学派は、一応それぞれの開祖がいますが、その後も長い年月をかけてたくさんの学者が作り上げたものです。
そして各学派はそれぞれスートラという根本経典があります。
さらに『ヴェーダ』の中のウパニシャッドに表れた、輪廻を解脱することを目標としています。
いずれもそのための思想です。
そして、サーンキヤ学派とヨーガ学派,ニヤーヤ学派とヴァイシェーシカ学派,ミーマーンサー学派とヴェーダーンタ学派には密接な関係があります。
では、それぞれどんな思想なのでしょうか?
サーンキヤ学派
「サーンキヤ」はサンスクリット語で、数(saṃkhyā)に由来すると考えられるので、数論派と漢訳されます。
サーンキヤ学派の開祖は、カピラであるといわれています。
サーンキヤ学派では、宇宙の根本原理として、2つの実体的な原理を想定しました。
1つは純粋精神のプルシャで、もう1つは根本物質のプラクリティです。
この2つが究極の根本原理なので、サーンキヤ学派は二元論です。
純粋精神プルシャ(神我)はアートマンとも呼ばれます。
根本物質プラクリティは「未開展物」ともいわれます。
これは宇宙の質料因です。
そこから生じるものを「被開展物」といいます。
この純粋精神、未開展物、被開展物の3つを区別して知ることによって、苦しみをなくすことができると説きます。
純粋精神は原子の大きさで実体があり、たくさんあります。
常住不変でまったく活動することはなく、知を本質として、常に解脱の状態にあります。
それに対して根本物質は物質的で活動性があり、宇宙の質料因です。
それは、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)の3つのグナからできています。
グナというのは構成要素です。
サットヴァは快で、照明の働きがあります。
ラジャスは不快で、活動の働きがあります。
タマスは無気力で、抑制の働きがあります。
この3つのグナの平衡状態が根本物質です。
それが純粋精神の観照によってラジャスが活動を始めると、平衡状態が破れ、世界の開展が始まります。
ですが、あらゆる結果の原因はすでに根本物質の中に潜在的に存在し、宇宙が創造されるのは、それが顕在化するだけだといいます。
そのため、すべての被開展物も3つのグナからできています。
宇宙の開展が始まると、まず3つのグナからなる心ができて、さらに自我意識や感覚、思考器官や行動器官、元素などができていきます。
これらは根本物質から開展したので意識はなく、物質的ですが、純粋精神と結合して、あたかも意識があるように振る舞います。
つまり人間の意識や感覚、思考は精神ではなく物質です。
ですが、純粋精神はグナと結合したために苦しみ、輪廻することになります。
それで、解脱するためには、純粋物質と、開展物、被開展物を明確に区別する知識を得なければならないといいます。
その智を得る補助的な方法としてヨーガが勧められています。
そして智が完成した時、解脱できますが、それは純粋精神に変化を与えず、根本物質のほうに起こります。
ヨーガ学派
ヨーガ学派の開祖は根本経典である『ヨーガ・スートラ』の著者のパタンジャリとされています。
ヨーガの起源は極めて古いですが、『ヨーガ・スートラ』が現在の姿に編纂されたのは、西暦400年頃です。
サーンキヤ学派と姉妹学派なので、理論的な思想は大体共通です。
大きく違うのは、ヨーガ学派では、最高神を認めます。
といっても、世界を創造したり救いを与えたりするような存在ではなく、純粋精神の一つです。
『ヨーガ・スートラ』によれば、ヨーガとは、心の作用の抑制です。
そのため、心の性質や解脱の方法が詳しく教えられています。
まず、心の働きには、煩悩と煩悩ではないものがあります。
煩悩とは、無明、自己意識、貪欲、憎悪、生存欲の5つです。
根本的な煩悩は無明です。
無明とは、本来は無常、不浄、苦、非我なのに、
常、浄、楽、我であると誤解することです。
人間は、果てしない過去から輪廻転生を繰り返し、心の中に、潜在印象と煩悩と業の3つの潜勢力を堆積します。
その中で業が、次に生まれる世界や寿命などを決定します。
その業を生み出す動機が煩悩なので、中でも根本的な無明をなくせば輪廻はなくなり、その上で肉体が死ねば完全に解脱できると教えています。
そのためのヨーガ学派の実践で最も重要なものが八実修法です。
1制戒、2内制、3坐法、4調息、5制感、6凝念、7禅定、8三昧の8段階です。
この中で前半の5つが外的段階で、後半の3つが内的段階です。
後半の3つを総称して総制といい、これに熟達した時、真の智が生じると教えています。
それは主宰神との合一ではなく、単に精神が物質から完全に分離しているという状態です。
ヨーガ学派の実践は、他の学派で採用されることもあります。
この思想内容から、仏教の影響が非常に大きいといえるでしょう。
ニヤーヤ学派
ニヤーヤ学派は、論理学を最初に体系化した学派です。
開祖は、西暦250年から350年頃に『ニヤーヤ・スートラ』を著したガウタマとされています。
350年頃に、『註解』を著したヴァーツヤーヤナによって確立しました。
ニヤーヤ学派では、苦しみは人間が生まれることに基づくと考えます。
その人間の生存は、活動に基づきます。
活動は貪欲、嫌悪などの欠点に基づきます。
更に欠点は誤った知識に基づいていると考えます。
『ニヤーヤ・スートラ』にはこうあります。
「苦・生存・活動・欠陥・誤った認識が、あとのものから順に生滅するとき、それぞれの直前のものが消滅して、最後に解脱がある」
(『ニヤーヤ・スートラ』Ⅰ.1.2)
図に書くとこうなります。
苦←生存←活動←欠陥←誤った認識
従って戒律を守り、ヨーガの修行を行って、16の正しい知識によって誤った知識がなくなれば、
欠陥がなくなり、欠陥がなくなれば活動がなくなり、活動がなくなれば生存がなくなり、
生存がなくなれば苦がなくなり、解脱が得られると考えています。
では16の正しい知識とは何かというと、以下の通りです。
1認識手段、
2認識対象、
3疑惑、
4動機、
5実例、
6定説、
7論証肢、
8検証、
9決定、
10論議、
11論争、
12論詰、
13誤った理由、
14詭弁、
15誤った非難、
16敗北の立場
1つ目の認識手段には、直接知、推理、類比、証言の4つがあります。
直接知とは、自分の感覚です。
推理は、直接知に基づく考察です。
類比は、類推です。
証言は、信頼できる人の言葉です。『ヴェーダ』も含まれます。
2つ目の認識対象は、認識手段によって認識されるもので、12挙げられています。
アートマン、身体、感覚器官、対象、意識、思考器官、活動、欠陥、転生、結果、苦、解脱の12です。
3つ目の疑惑から、6つ目の定説までは、7つ目の論証形式に至るまでの心のプロセスです。
疑惑というのは疑問を懐くことです。
4つ目の動機は、疑惑を解決したいという気持ちです。
5つ目の実例は、みんなが承認する例です。
6つ目の定説は、すべての学派が承認する説や、各学派だけが承認する説などです。
7つ目の論証肢は論証形式のことです。
「五分作法」が教えられています。
五分作法というのは、1主張、2理由、3実例、4適用、5結論の5つのプロセスです。
ちなみに仏教の論理学を因明といいますが、この五分作法よりも発展した三支作法を生み出しています。
その新因明については、以下の記事をご覧ください。
➾仏教の論理学・因明とは?因の三相や遍充の意味を分かりやすく解説
8つ目の検証とは、主張が正しいかどうか吟味することです。
9つ目の決定とは、主張が正しいかどうか決定することです。
ここまでが準備です。
10番目の論議は、誰かに対して主張について論じることです。
11番目の論争とは、論議で、14番目の詭弁、15番目の誤った非難、16番目の敗北の立場が混ざった時、論争といいます。
12番目の論詰とは、五分作法を行わず、相手の主張を詰問することです。
13番目の誤った理由は、正しいように見えて誤っている理由です。
14番目の詭弁とは、主張に対する反対意見を意図的に曲解して非難することです。
15番目の誤った非難とは、不当な非難です。
16番目の敗北の立場とは、誤解や無理解で敗北に至ることです。
これらの16項目について詳細に論じ、解脱を目指しています。
『ニヤーヤ・スートラ』では、「真理の認識に依って、至福の達成がある」と説かれています。
至福とは解脱のことです。
具体的には、「苦・生存・活動・欠陥・誤った認識が、あとのものから順に消滅する時、それぞれの直前のものが消滅して、解脱がある」と説かれています。
後に正統説になった4世紀頃のヴァーツヤーヤナの『註解』によれば、16原理の2番目の認識対象の12に対して、誤った認識が生じると、貪欲、嫌悪、妬みなどの「欠陥」が生じます。
欠陥のある人は、殺害、偸盗、不倫などの身体的な活動、虚言、粗暴な言葉、とげのある言葉、脈絡のない言葉という言語的活動、他人に対する害意、他人の財を得たいという欲望、虚無的な思想を懐くという心的活動を行います。
そのような悪性の活動が罪過を生じます。
財貨を積み重ねると、地獄、餓鬼、畜生に転生します。
その新しい「生存」が、困苦、痛苦、苦難という苦をもたらします。
そして、この12の認識対象に対する真理の認識によって「誤った認識」が無くなれば、「欠陥」がなくなり、それによって「活動」がなくなり、それによって「生存」がなくなり、それによって「苦」が消滅し、「苦」が消滅した時解脱できるといいます。
これはかなり仏教の十二因縁(十二縁起)に似ています。
このニヤーヤ学派は、次のヴァイシェーシカ学派と関係が深く、11世紀のシヴァーディトヤの『七原理論』で両学派は融合します。
ヴァイシェーシカ学派
ヴァイシェーシカは勝論と漢訳されるので、勝論学派ともいわれます。
祖は、紀元前100年頃のカナーダといわれます。
ただ、その著作とされる『ヴァイシェーシカ・スートラ』は西暦100年から200年頃に編集されたと推定されています。
その後、500年頃にプラシャスタパーダが『諸原理と法との綱要』を著して、ヴァイシェーシカ学派の基本学説となりました。
ヴァイシェーシカ学派では、解脱は、「実体」「性質」「運動」「不変」「特殊」「内属」という6つの原理に基づいて得られる特別のダルマから生ずる真理の認識によって得られると教えています。
そのためにはヨーガの実践によって、思考器官を制することも必要です。
また、現象世界についても、この6つの原理で明らかにしようとします。
現象世界で何かを観察すると、その性質や形、位置や運動などが分かります。
ですが、それらはそれそのものである「実体」ではありません。
「実体」の静的な属性を「性質」といい、動的な属性を「運動」といいます。
そして、たくさんの物事に共通する属性が「普遍」で、それぞれを特徴づける属性が「特殊」です。
「実体」と、これらの4つの原理の関係が、「内属」です。
『ヴェーダ』は価値があるものの、その通りに実践しても、天に生まれるだけで解脱はできません。
この6つの原理の本性を真に理解すれば解脱できます。
それには心が乱れていては無理なので、ヨーガが必要になるわけです。
ヨーガによって、前世からの力である不可見力を滅ぼし尽くし、アートマンが身体と合することもなく、再生もしなくなると解脱の実現です。
そうなると、アートマンは何の活動もしない実態となります。
元々『ヴァイシェーシカ・スートラ』に神は出てこなかったのですが、プラシェスタパーダは、宇宙の創造と破壊を神の意志としたので、有神論となりました。
ミーマンサー学派
ミーマンサーとは「考究」ということで、『ヴェーダ』の研究のことです。
『ヴェーダ』の祭事に関する研究を祭事ミーマンサーといわれ、この学問からミーマンサー学派ができました。
それに対して『ヴェーダ』の知識部に関する研究をヴェーダーンタ・ミーマンサーといい、この学問から次のヴェーダーンタ学派が生まれています。
この2つは『ヴェーダ』の研究部門でしたが、紀元前100年頃学派が2つに分かれました。
当時有力だったジャイミニがミーマンサー学派の開祖とされ、バーダラーヤナがヴェーダーンタ学派の開祖とされています。
ミーマンサー学派のテーマは「ダルマ」です。
そして、『ミーマンサー・スートラ』には、ダルマを「ヴェーダの教令を特徴とする事柄」と定義しています。
「教令」とは行為を起こさせる言葉です。
そのため、ダルマとは、至福に導くとして『ヴェーダ』で命じられているものです。
したがって、ダルマを認識する方法は、『ヴェーダ』のみです。
ミーマンサー学派では、『ヴェーダ』は命令・マントラ・祭名・禁令、釈義の5つに分類されますが、その中核は命令です。
『ヴェーダ』は神や人間が作ったものではなく、それ自体で永遠に実在しているものです。
間違いは一切ありません。
なぜなら『ヴェーダ』の言葉は常住不滅だからです。
このことから、言葉は無常とするニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派と対立しました。
言葉の意味は永遠不変で、言葉と意味の関係も永遠不変です。
だからその関係は常に真実です。
ですから、『ヴェーダ』は、ダルマを知る根拠になります。
祭事の果報は必ず天界で、解脱については『ミーマンサー・スートラ』には論じられていませんが、やがてミーマンサー学派でも論じられるようになりました。
ミーマンサー学派では、言葉は神が作ったものではなく、祭事行為の果報も神が与えるものではありません。
ただ祭事で供物を捧げるための道具のようなものです。
ヴェーダーンタ学派
ヴェーダーンタ学派は、インド哲学で最も有力な学派です。
ヴェーダーンタとは、『ヴェーダ』の終わりの部分という意味です。
西暦400年から450年頃に編集された『ブラフマ・スートラ』が根本聖典です。
紀元前50年頃のバーダラーヤナの作とされました。
そして、バーダラーヤナがヴェーダーンタ学派の開祖とされています。
『ブラフマ・スートラ』には、ヴェーダーンタ学派のテーマは、ウパニシャッドの中心テーマである、ブラフマンの考究です。
『ヴェーダ』や言葉に対する考え方は、ミーマーンサー学派と共通です。
したがって、ブラフマンを知るための根拠は、『ヴェーダ』のみです。
『ブラフマ・スートラ』では、ブラフマンは、この世界の生起などの起こるもとと定義しています。
サーンキヤ学派では、世界の原因は純粋精神と根本物質があるので二元論ですが、ヴェーダーンタ学派では、それを否定して退け、ブラフマンを一切の原因とする一元論です。
ブラフマンから生じます。
これを「開展」といいます。
すべてはブラフマンの自己開展です。
世界が創造される順序は、まずブラフマンから虚空が生じます。
虚空から、風、火、水、地と生じていきます。
この地、水、火、風、虚空の5つの元素から世界ができます。
ブラフマンはそれらの作られた一切のものの中からそれらを支配しています。
そして非常に長い期間が経つと、作られたものは逆の順番でブラフマンに還ります。
そしてまたしばらく経つと自己開展が始まり、それを繰り返しています。
これは仏教の成住壊空に似ています。
成住壊空については、以下の記事をご覧ください。
⇒色即是空の恐ろしい意味
個人の本体である個我は、ブラフマンの部分です。
生きている時に祭祀などの善を実行し、ブラフマンの明智が得られれば、
死ねば神道を通ってブラフマンと合一して解脱できます。
解脱してもブラフマンと同じになるわけではありませんが、区別はなくなるといいます。
そして、望んだだけで何でも望みが叶います。
もし生きている時に明智が得られなければ、
月の世界へ行って、地上に降り、輪廻します。
どうすればブラフマンの明智が得られるのかというと、3つの方法があります。
1つには、出家してブラフマンを念想することです。
2つには、家庭で祭祀などを実践しながらブラフマンを念想することです。
貧しかったりして、これらがどうしてもできない場合、
3つ目に、常に正しい行いをしつつ、ブラフマンを念想することです。
インド哲学の目的
このようにインド哲学は、『ヴェーダ』を認める立場から正当派と非正統派に分かれます。
正統派の代表は六派哲学といわれる6つの学派です。
非正統派の代表はジャイナ教を含む六師外道と仏教です。
それらは相矛盾したものもあり、互いに排斥しているものもありますが、共通する目的は、輪廻からの解脱です。
そのためにそれぞれの学派の哲学があります。
このように、色々なインド哲学が生まれましたが、その中で唯一、インド亜大陸の地域の枠を超えて、世界宗教になったのが仏教です。
仏教は、それだけ普遍的で、時代や場所に関わらない真理が教えられているということでありましょう。
では仏教では、どうすれば、輪廻から解脱して、本当の幸せになれるのか、ということについては、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)