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シャンカラの幻影主義的不二一元論

シャンカラはわずか30数年の短い人生で、ヴェーダーンタの伝統に革新を起こし、
インド最大の哲学者といわれています。
また、思想が仏教に近いため「仮面の仏教徒」ともいわれます。
その幻影主義的不二一元論とはどんな思想なのでしょうか?

シャンカラとは

シャンカラは、700年から750年頃のヴェーダーンタ学派の学匠です。
その流れは現在にまで続き、インドの人たちから大変崇められています。
シャンカラはどんな生涯を送ったのかというと、
その伝記は死後数世紀経ってから書かれたものばかりで、
確かなことは何一つ分かりません。
その一生は謎に包まれています。

ですがそのような伝説によれば、南インドのケーララ地方のチュールナー河の近くのカーラディという静かな村に、バラモンの子として生まれました。
小さい頃に父親と死に別れています。
ヴェーダの学問を修めると、出家したいと思いましたが、母親から反対を受けます。
やがてある時、河で溺れそうになった事件をきっかけに
母親に許されたと理解して、出家遊行者となっています。

まずシャンカラはゴーヴィンダを訪ね、師事します。
ゴーヴィンダ(670−720頃)の師匠はガウダパーダ(640-690)といわれています。
ガウダパーダの著といわれれる『マーンドゥーキヤ・カーリカー』は、
1章が『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の解説ですが、
2章からはどんどん仏教に近くなっていき、
最終的に仏教と区別がつかなくなるような本です。
後にシャンカラは『マーンドゥーキヤ・カーリカー』の注釈を書いています。

シャンカラの家は、ヒンドゥー教のシヴァを祀っていたといわれますが、
シャンカラの思想はシヴァ教とは異なり、ウパニシャッドに基づいています。
ですが、シャンカラの思想と仏教が大変似ているため、
後に「仮面の仏教徒」と非難を受けるほどです。

その後シャンカラは各地を遊行し、ミーマーンサー学派のマンダナミシュラと激論しています。
シャンカラは都市部の人々に教えを説こうとしませんでした。
当時、都市部では仏教の勢力が強く、商工業者の間にはジャイナ教の人もいたからかもしれません。
主にシャンカラは遊行者に教えを説いています。

やがてシャンカラは、仏教の精舎を真似して、
南のシュリンゲーリ、東のプリー、西のドヴァーラ、北のバダリナータの
4カ所に僧院を建立したといわれます。
最期は32才または38才の若さで、ヒマラヤのケーダールナータで没したといいます。
シャンカラの建てた僧院がシャンカラの哲学を不動のものとして、
インドの主要な哲学にした大きな要因であったといわれています。
では、シャンカラはどんなことを考えたのでしょうか。

シャンカラの不二一元論

シャンカラの思想は一言でいうと
自己のうちにあるアートマンは絶対者ブラフマンと同一であると知り、解脱せよ
ということです。

これはヴェーダの中でも奥義書とされる「ウパニシャッド」の
梵我一如」の流れを汲む思想です。
もともとヴェーダーンタ学派は、
紀元前5世紀頃の「ウパニシャッド」と、
紀元前1世紀頃の『バガヴァッド・ギーター
紀元後5世紀頃の『ブラフマ・スートラ
を首尾一貫して解釈しようとする学派です。
この3つがヴェーダーンタ学派の根本典籍です。
ウパニシャッド」の中には、「梵我一如」が説かれており、
それが「ウパニシャッド」の中心思想と思われています。
(実際には梵我一如はあまり説かれていないことについては、こちらをご覧ください。
梵我一如とは?ウパニシャッドでの本当の意味を簡単にわかりやすく解説

梵我一如」とは、一般的には、
宇宙の最高原理の「」であるブラフマンと
個我の本質の「」であるアートマンは
本来同一であるということです。
そしてそれが解脱げだつの状態だとされています。

ですがそれでは「自己=絶対者」ということになり、
そう簡単には信じられないのではないでしょうか。
能力も美しさも相対的、というより欠点もたくさんあり、
健康も崩れますし、寿命も尽きます。
それのどこが絶対者なのでしょう。

そこでシャンカラは、ヴェーダーンタの思想に「無明」という概念を導入して、
ブラフマンと同一のアートマンは実在のもので、それ以外の現象世界は、
アートマン以外の自分の体や心も含めて全部、無明のために誤って想定されたもの、としました。
この世はすべて見間違い」みたいな考え方です。
そして無明の状態にある時は、アートマンとブラフマンも別の存在のように思いますが、
真実としては全く同一であると考えました。
このことにより、それまでのヴェーダーンタ学派の実在論的ブラフマン一元論から、
幻影主義的ブラフマン一元論に変容したといわれます。
これがシャンカラの「不二一元論」です。

不二一元論」というのは「」とか「」とか
数が色々あって分かりにくい言葉ですが、
不二」と「一元論」で切れます。
不二」とは、仏教でよくいう、二つであって一つ、一つであって二つみたいな意味ではなく、
二元論ではない、という意味です。
原語は「アドヴァイタ(advaita)」で「」が否定、「ドヴァイタ」が二元論、です。
ブラフマンとアートマンが二元ではないという意味で、不二論だけでいいのですが
日本語訳する時に、二元論ではない一元論と、重ねて言葉を補っているのが
不二一元論」です。
そしてブラフマン=アートマンのみが実在し、
それ以外は全部夢幻のように実在しないものだというので、
幻影主義的不二一元論」と言ったりします。

このような不二一元論自体は『マーンドゥーキヤ・カーリカー』で始まっていますが、
無明の概念に立脚した不二一元論を確立し、
ヴェーダーンタの主要な潮流としたのが、シャンカラだといわれています。
ですが、シャンカラのいうアートマンとブラフマンが同一とは
どういうことなのでしょうか?

ブラフマンとは

まず、ブラフマンとは何でしょうか。
ブラフマ・スートラ』では「」を本性とする、としています。
」というのは存在ということです。
これはシャンカラも同じように考えています。
それは人に恩寵などの幸せを与えたり、
救済したりする神ではありません。
知的で抽象的な存在です。
ブラフマンの本質は、「」と「」と「歓喜」だといわれます。
その中で歓喜は、ウパニシャッドに出てくるので、
シャンカラは消極的に承認しているだけです。

ヴェーダーンタ学派の根本典籍である『ブラフマ・スートラ』では、
虚空をはじめ、世界のすべてはブラフマンから開展します。
開展というのは生じることです。
つまりブラフマンは、世界の原因であり、創造主です。
それは唯一のもので、精神的な存在です。

ですがそれだと、
なぜ唯一のものから色々と多様なものが生じるのか
なぜ精神的な存在から物質的な存在が生じるのか、
なぜ歓喜を本質とするブラフマンから苦しいことが生じるのか
など、一元論特有の色々な矛盾がたくさん生じてきます。

同じようにキリスト教でも、
全知全能の善なる創造主が、なぜこの世にを創ったのか、
なぜ異教徒を創り、愛の神なのになぜ殺せと言うのかなど、
色々な矛盾が生じて神学者の人たちも答えかねて困っています。

そこでシャンカラは、新たに「未開展の名称・形体」を考えます。
これ」であるとも「別のもの」であるとも言えない
未開展の名称・形体」がブラフマンの中にあり、
それが開展することにします。
その「未開展の名称・形体」が虚空となり、世界のすべてが生じます。
最初に未開展の名称・形体をかませることによって、
今までの矛盾に答えようとしたわけです。

しかもシャンカラは、この未開展の名称・形体は、
無明によってブラフマンに誤って附託された実在しないものとしました。
附託というのは投影して見間違うという意味です。
これによって、ブラフマンと世界は、
清らかな水と汚れた泡にたとえられています。
世界原因のブラフマンは実在しますが、
その結果である世界は実在しないものです。

これが納得のいく説明になっているのかという気もするかも知れませんが、
これによってシャンカラは、ヴェーダーンタの一元論を守りつつ、
もう少し分かるように説明しようとしたのでした。

アートマンとは

では、アートマンとは何でしょうか。
アートマンというのは、不変常住の自己の本質です。
不変常住というのは固定不変で変化しないということです。
シャンカラは仏教にも詳しいので、
仏教では、もう千年以上のはるか昔に、固定不変のものはどこにも存在しないという
諸法無我しょほうむが」が明らかにされていることも、
その理由も知っていたと思います。
そういう無我についての詳しいことは、以下をご覧ください。
仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い

500年以上前に、龍樹菩薩が、固定不変の我の誤りを徹底的に破り、
くうを明らかにされたことも知っていたと思います。
空について、詳細はこちらをご覧ください。
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?

ですがシャンカラは、特に固定不変のアートマンの存在は証明していません。
龍樹菩薩の空についても、論ずるまでもないといって、
単純にすべての人はアートマンが存在することを理解していると断言するだけです。
その存在は自明と考えています。
その誰もが思っている単純な考えはすでに思い違いであることを
仏教では論証されているので、本来は反論が必要ですが、
ウパニシャッドに書かれているので、いいと思ったのかもしれません。

そしてアートマンが存在することから
アートマンと同一であるブラフマンが存在することも、よく知られているといいます。
これだと無我である場合、ブラフマンも存在が論証できなくなります。

さらにアートマンの問題があります。
シャンカラにとって真実のアートマンは不変常住で作用を持たないため、知覚主体になれません。
なぜかというと、何かを知覚すると、今まで知らなかったことを知るため、
そこに変化が起きるからです。
不変の存在は、何かを知覚したり、知識を増やしたりできないのです。

そこで、精神的なアートマンが統覚機能に附託されると、統覚機能はアートマンを宿し、知覚主体に見えるといいます。
統覚機能とは、物質的な考える器官で、脳のようなものです。
パソコンと考えてもいいかもしれません。
本当は心のないパソコンに、心であるアートマンが入っていると無明によって誤解すると、
パソコンが心を宿した知覚主体に見える、ということです。

シャンカラがアートマンを知覚主体という時は、
アートマンを宿し、知覚主体であるかのように顕現した統覚機能を言っています。
質問すると答えてくれる生成AIを、機械なのに人間だと言っているみたいなものです。
矛盾を解消するのに大変複雑な考え方をしています。

輪廻とは

このようなアートマンとブラフマンが同一だと知ることによって解脱するということは、
それを知らない限り輪廻りんねしているということです。
輪廻とは何でしょうか。

シャンカラによれば、2つの輪廻を考えているようです。
1つ目は、過去、未来、現在の三世にわたって、、人間、畜生餓鬼の世界を肉体が生まれ変わることを繰り返すことです。
2つ目は、現在の輪廻です。
このうち、2つ目の現在の輪廻を中心に論じています。
その現在の輪廻をシャンカラは主著『ウパデーシャ・サーハスリー』に、
が身体と結合し、
それにより好ましいことと、好ましくないことが生じ、
それにより貪欲と嫌悪が生じ、
それにより諸行為が生じ、
それにより善悪の業が生じ、
無知な人は、また業が身体と結合して永久に回り続けること、
と説いています。
輪廻というのはこういうもので、さらにその原因は無明としていることも分かります。

他のところでは、無知も輪廻の原因としているところがあるので、
輪廻の原因は無知や無明です。
これも仏教とそっくりです。

ですが、アートマンは不変常住ですから、永遠に解脱の状態であり、
無知も輪廻も存在しないそうです。
輪廻はアートマンの宿った統覚機能の錯乱であり、
アートマンと非アートマンを区別する明知がない、無明であるといいます。
あたかも縄に附託された蛇は実在しないのに
縄と蛇を区別する前は蛇が存在しているように、
輪廻は実在しないのに、アートマンと輪廻を区別する前は、輪廻が存在するようなものだといいます。
輪廻も苦しみも全部勘違いだということです。

解脱とは

では、解脱とは何でしようか。
それはアートマンが何かに変化することではありません。
アートマンは変化しないからです。
そして、アートマンがブラフマンと結合することでもありません。
アートマンはもともとブラフマンと同一だからです。
シャンカラにとって輪廻は、アートマンとアートマン以外の区別ができない無明から生じており、
解脱は、輪廻から解放されたことですから、
無明を滅することが解脱です。

では、無明を滅して解脱するにはどうすればいいのでしょうか。
シャンカラによれば、何かの行為は必要ありません。
そしてヴェーダに説かれている祭式も全く捨て去るべきだと言っています。
なぜかというと、行為は無明を原因とし、無明と本性は同じだからです。

そのため、無明を捨てるにはすべての行為は捨てなければなりません。
もちろんヴェーダ祭式もです。
あらゆる行為の放棄が「汝はそれなり」という梵我一如を表すとされるウパニシャッドの言葉の
」の意味を識別する手段となるそうです。
アートマンとブラフマンは同一であるという明知のみが
解脱への手段であるといいます。
つまりすべての行いをやめて、梵我一如の知識を得ることで解脱できるといいます。

このような「自己のうちにあるアートマンは絶対者ブラフマンと同一であると知り、解脱せよ
というのがシャンカラの思想なのです。

シャンカラの輪廻や無明の問題点

これまでの話で、どうもしっくりこない違和感はなかったでしょうか。
それはシャンカラが、実在するのは不変常住のブラフマン=アートマンのみで、
輪廻は勘違いで実際は存在しないというところです。
実際に輪廻し、苦しんでいる現実はどうなるのでしょうか。

この疑問に対してシャンカラは、アートマンは永遠に解脱したものであり、輪廻しないものであるけれども、
そのアートマンが存在するために、
無明によってあたかも輪廻するかのように勘違いされているだけだといいます。
実際は輪廻の主体はどこにも存在しないということです。

そこで主著『ウパデーシャ・サーハスリー』によれば、
さらに無明について弟子が質問しています。
無明は自分のアートマンを対象とすることはできません。
無明というのは、よく知られているAの性質を、よく知られているBに附託(投影)することです。
例えば、よく知られている銀を、よく知られている二枚貝の内側(銀色に光っている)に附託します。

しかし、よく知られていないものを、よく知られていないものに附託することはありません。
アートマンはよく知られていないので、
よく知られている自己を、よく知られていないアートマンに附託することはありません。
逆に、よく知られていないアートマンを、よく知られている自己に附託することもありません。
だから無明はアートマンを対象にできないと思います。

この問いに対してシャンカラは、
それは一般原則であって、原則には例外があるという別の例を挙げるだけで、
シャンカラのいう無明がアートマンを対象とできるとは答えずに終わっています。

ラーマーヌジャの被限定者不二一元論

シャンカラの約300年後、インド南東のマドゥライに、
ラーマーヌジャ(1017-1137)が現れます。
初めはシャンカラの思想を学んだそうですが、意見が異なり、
ヴェーダーンタの別の派の開祖となりました。
その思想は、シャンカラとはどう違うのでしょうか?

ラーマーヌジャは、ヴィシュヌ教の中で、
マハーバーラタ』に登場するナーラーヤナをヴィシュヌとみなす
パンチャラートラ派系統のシュリーヴァイシュナヴァ派です。

ラーマーヌジャは、それまでヴェーダーンタの伝統教学では異端の要素があるとされた
ヴィシュヌ教のパンチャラートラ派を擁護しようとしました。
そこで『マハーバーラタ』の著者ヴィヤーサを
ブラフマ・スートラ』の著者バーダラーヤナと同一視する俗説を利用して、
バガヴァッド・ギーター』や『ヴィシュヌ・プラーナ』を論証の根拠としました。
そしてブラフマンと、ヴィシュヌ教の最高人格神ナーラーヤナとは同一であるとしています。

シャンカラの場合は『ブラフマ・スートラ』のブラフマン観を受け継ぎ、
ブラフマンと真実のアートマンは、主宰神と交換できます。
その後継者たちは主宰神とブラフマンを明確に区別し、中性的原理を重視して人格神は無明の状態の時のみ認めます。

しかし、ラーマーヌジャは逆に、人格神的な性格を強調します。
シャンカラがブラフマンの本性を知的に考えているのに対して、
ラーマーヌジャはブラフマンの本質を「有・知・歓喜・無垢・無限」をあげますが、
知と歓喜の2つのみで言う場合もあります。

シャンカラが知によっているとすれば、ラーマーヌジャは歓喜によっています。
ですがラーマーヌジャは、ブラフマンをナーラーヤナと同一視して
大衆受けする信愛(バクティ)との融合を計ってはいますが、
その信愛は知に近いといわれています。

ラーマーヌジャの場合、ブラフマンは世界創造の際、
自己の意思によって、それまで自己に帰入していた
自己の部分である純粋精神と根本物質を分離し、
その両者によって世界を創造したと考えます。
純粋精神は知と歓喜のみを属性とする無数の個我(pratygātman)となり、
根本物質から一切の物質的なものが開展したといいます。

ブラフマン、個我、物質世界はすべて実在し、異なった別のものです。
ですが最高ブラフマンは、世界創造の後、個我と物質世界に入り内制者となったため、不可分だといいます。
例えるなら、最高ブラフマンを魂とすれば個我は身体のようなものです。
魂と身体は同じではないですが、離れたものでもありません。
ブラフマンは個我と物質世界に限定された存在ではありますが、
それらは不二なので、
このラーマーヌジャの思想を「被限定者不二一元論」といわれます。

ラーマーヌジャにとって、完全無欠の神に対して人間は卑小な存在でした。
そのような者がシャンカラの言うように
明知によってブラフマンとアートマンの同一性を知ることができると思えなかったのでしょう。
そこで従来説かれていた念神をヴィシュヌ教で説かれる信愛(バクティ)と捉え直し、
知識ではなく信愛が、至福に至る唯一の道としました。

このように、シャンカラとラーマーヌジャの思想の違いは、
ブラフマンとアートマンの関係にあります。
ブラフマンとアートマンを同一とするシャンカラの思想よりも、
ラーマーヌジャのほうが少し謙虚になっているといえます。

マドヴァの二元論

ラーマーヌジャの死後約100年経った頃、
シャンカラの生まれたケーララより北のインド南西部、
ウデゥピにマドヴァ(1238-1317)が現れます。
マドヴァはヴィシュヌ教でクリシュナをヴィシュヌとみなす
バーガヴァタ派の系統です。
マドヴァも初めはシャンカラの思想を学んだそうですが、
やはり意見が合わずにヴェーダーンタの別の派を立てます。

マドヴァはラーマーヌジャを踏まえ、
同様に『ブラフマ・スートラ』の著者バーダラーヤナと
マハーバーラタ』の著者ヴィヤーサを同一視します。
その上にバーダラーヤナを神の権化として、この三者を同一視しています。
バーダラーヤナ=ヴィヤーサ=神の権化
さらに最高ブラフマンとヴィシュヌも同一視します。
最高ブラフマン=ヴィシュヌ

ところが、バーダラーヤナ=神が質量因として同質の世界を生み出すのを嫌い、
まったく分離した因と考えます。
独立した実体はブラフマンのみで、他はすべてブラフマンに依存した実体となります。
1. ブラフマンと個我、
2. ブラフマンと物質、
3. 個我と他の個我、
4. 個我と物質、
5. 物資と他の物質
は厳然と異なっており、
この別異性は永遠に実在するとします。
これを「五別異論」といいます。
特にブラフマンと個我の間に永遠に実在する別異性があることから、
マドヴァの思想を「二元論」といいます。
といってもほとんど多元論なので、注意が必要です。

そして、シャンカラが神と個我を同一視し、他人は実在しないというのを批判しました。
他人が存在しないなら、他人と論争することもあるまい」とシニカルです。
マドヴァの場合、輪廻の原因の無知も実在し、知識によって取り除くことはできません。
それができるのは神の恩寵のみであり、
恩寵を受けるために、信愛は最高の道だといいます。

このように、マドヴァの場合は、ラーマーヌジャよりもさらに謙虚で、
神と個我が同じだとはとても思えず、永遠に異なっていると考えたわけです。

3つの思想の違い

このように、シャンカラはヴェーダーンタの思想に無明を導入し、
ブラフマンと全く同一のアートマンのみ実在で、あとは実在しないと考えました。
解脱のためには行為は捨て、知識によらなければなりません。

ラーマーヌジャの場合は、ブラフマンを魂とすれば
アートマンも世界も身体であるような不一不異の関係にあり、
すべて実在すると考えます。
解脱に至る道は信愛(バクティ)です。

マドヴァの場合は、ブラフマンのみが独立した実体で、それ以外の個我も物質も依存した実体であり、全く別個であると考えます。
知識では解脱できず、信愛と相即の関係にある神の恩寵によってのみできるといいます。
この3人の思想の相違の根底には、「ブラフマンとアートマンの関係」の捉え方の違いがあるのです。

ヴェーダーンタ学派の3つの比較

このように色々な変化を遂げながらも、六派哲学の中で現代まで影響を残しているのは
ヴェーダーンタ学派のみです。
その基本路線は梵我一如にあるわけです。
インドで仏教は滅びたといわれますが、ヴェーダーンタの中で仏教に近い
シャンカラの不二一元論が主要学派になっているということは、
その中に仏教は残り続けたともいえます。

ですがやはり仏教とは違いますので、
何の行いもせずに知識だけ得ることで解脱して苦しみが解決したり、
神を信じて熱烈に愛することによって解脱したりできるのでしょうか。

ブッダも最初は不変常住のアートマンがあると教えられて
修行をしていても覚りは得られず、
最終的には無我真理を体得されました。
その諸法無我や諸行無常を現実的に前提として、
どんな人でも変わらない幸せになれる道があることを教えられています。

では仏教では、どうすれば、輪廻から解脱して、本当の幸せになれるのか、
ということについては、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。