仏教とキリスト教の違い
キリスト教と仏教は、どちらも世界宗教で世界の二大宗教です。
「神といっても仏といっても、名前は違うだけで同じ大宇宙の力だ」
と思っている人が多くありますが、少しでも学べば「月とすっぽん」くらい違います。
ではキリスト教と仏教にはどんな違いがあるのでしょうか?
その違いを以下の7つの観点から分かりやすく解説します。
1.開祖
2.聖典
3.世界観
4.人間観
5.科学との関係
6.運命の決まり方と罪悪
7.どのように救われるのか
これらの観点から、率直な事実をたんたんと記していきますので、
数分後、この記事を読み終えられた時には、とても同じとは思えなくなるでしょう。
開祖と聖典の違い
ドイツの宗教学者フリードリヒ・ハイラーはこのように言っています。
(お釈迦さまは)確かにナザレ出身の大工の子(イエス)
のライバルに間違いない。彼は極東の偉大な宗教的天才、アジアの光である。
彼は西洋の光、「西洋の没落」の救世主とはならないだろうか?(出典:フリードリヒ・ハイラー『Die Buddhistische Versenkung(仏教の熟察)』)
ではその違いをみてみましょう。
キリスト教の開祖と聖典
まず、キリスト教の開祖はイエスです。
約2000年前、ナザレの大工のヨセフに、マリアが婚約しました。
ところが、マリアは結婚する前に身ごもっていました。
許嫁の浮気に裏切られたと感じたヨセフは、当然ながら婚約を解消しようとしました。
ところが、夢に神の使いがあらわれマリアのお腹の子は精霊の子だから結婚するようにと言います。
そのことが「マタイ伝」には、こうあります。
その母マリヤ、ヨセフと許嫁したるのみにて、
まだ偕にならざりしに聖霊によって孕り、その孕りたること顕れたり。
夫ヨセフ正しき人にて之を公然にするを好まず密かに離縁せんと思う。
斯くてこれらの事を思い回らし居る時、みよ主の使、夢に現われれていう。
「ダビテの子ヨセフよ、妻のマリヤを納るる事を恐れるな、
その胎に宿る者は聖霊によるなり、かれ子を産まん。
汝その名をイエスと名くべし、己が民をその罪より救い給う故なり」
(「マタイ伝」第1章『大正改訳聖書』)
こうして、処女の母マリアから生まれたのが、イエスです。
そのイエスは、30才過ぎから
「この世の終わりが近づいているから悔い改めて神を信じよ」
と説き始め、約3年後にはりつけで死刑になりました。
最後にイエスは、
「我が神、我が神、なぜに我を見捨てたもうや」
と言って死んでいきます。
この神はユダヤ教の唯一神ですし、イエスは自分を神だとは言っていないので、彼自身の自覚は実はユダヤ教徒です。
ところが、その弟子が、
「イエスを救世主と受け入れれば、死後、この世が終わるときの審判で神の国へ入れてもらえる」
と主張した宗教がキリスト教です。
やがてイエスを神と崇めるキリスト教徒がそれ以外を異端として追放しました。
キリスト教で拠り所とする聖典は、弟子たちのイエスの伝記などをまとめた『新約聖書』と、もともとあったユダヤ教の聖典を『旧約聖書』と名づけたものの、2冊です。
仏教の開祖と聖典
それに対して仏教の開祖はお釈迦さまです。
約2600年前、インドのカピラ城に住んでいた、浄飯王と、マーヤー夫人の王子として生まれられました。
ですから、お母さんだけから生まれたイエスと違って、お釈迦さまには普通にお父さんとお母さんがあります。
そのお釈迦さまが、35才で仏のさとりを開き、80才でお亡くなりになるまでの45年間説かれた教えを仏教といいます。
教えの目的は、何をしても、何を手に入れても幸せになれず、苦しみ迷い続けている人たちを目ざめさせ、この世から未来永遠の救いに導くことで、45年間の間、相手に応じて色々な教え方がなされています。
その教えを書き残された七千余巻といわれる膨大な一切経が、仏教の拠り所となる聖典です。
キリスト教と仏教の世界観
キリスト教の神は、全知全能の創造主です。
あらゆることを知り、何でもできるので、
『旧約聖書』によれば、この世の始まりに、6日間で天地創造を行いました。
その際、人間の男は土から造られており、女は男の肋骨からできています。
動物は、人間が食べるために神が造ったものです。
『旧約聖書』の「創世記」には、こう書いてあります。
「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、
海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、
すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう」
(「創世記」第1章『旧約聖書』1955年)
それに対して仏とは、永遠の迷いから目ざめ、さとりを開いた人間です。
キリスト教では、神は人間と断絶しているので、もともと人間だった仏を、神とは絶対に認めません。
人間は神のしもべにはなれますが、神にはなれないのです。
その点、仏教では、誰でも仏になれます。
そして、仏さまは、
「世界を創造した神など存在しない」
と教えられています。
実際、当時のインドには、「自分が世界を創った」と勘違いしていた梵天という神がいましたが、
お釈迦さまが巧みにその誤りを諭しています。
そのお釈迦さまと梵天の対談の様子は以下の記事をご覧ください。
➾生まれ変わりとは(仏教で前世と来世は)
では仏教では世界の始まりはどう教えられているのかというと、因果の道理にしたがって、始まりのない始まりから、終わりのない終わりへ向かって続いていきます。
そして更に言えば、それは万人共通の世界ではなく、一人一人が自分の阿頼耶識によって、自分で生み出した世界で生きています。
このように、キリスト教では、世界を生み出したのは神ですが、
仏教では、一人一人が自分の生きる世界を生み出しています。
人間観
人間観も、キリスト教と仏教では大きく違います。
その考え方の違いによって、その信じている人の行動に違いが出ますから、それが歴史の上に大きく現れています。
どのように違うのでしょうか?
キリスト教の人間観
キリスト教では、人間は神が造ったものです。
キリスト教の神は愛の神ということですが、もともとは戦争の神で、人々が神を信じなくなるとすごく怒ります。
そして、自分で造った陶器が失敗作だったらすぐ処分するように、
神は人間は自分の造ったものなので、神を信じなければすぐに壊します。
たとえば『旧約聖書』の「申命記」にこう記されています。
「主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地の表からあなたを滅ぼし去られるであろう」
(「申命記」第6章『旧約聖書』1955年版)
「あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた」
(「申命記」第9章『旧約聖書』1955年)
こうしてキリスト教の神は、有名なノアの方舟に代表されるような大量虐殺やホロコースト、民族浄化を何回も繰り返しています。
そのため、キリスト教の人たちは、神を信じない人、つまりキリスト教以外の人や、異端の人に容赦はありません。
現実にキリスト教徒は、歴史上、信じられないような殺戮を繰り返しています。
例えば、十字軍で他国を侵略した時もそうです。
第一回十字軍では、このようなことが行われたと記録に残っています。
神殿で約一万人が首を切られた。
もしあなたたちがそこに居合わせていたならば、 あなたたちの足は大腿部まで殺害された者たちの血の中に浸かったであろう。
これ以上何を語ったらよいか。
敵の誰も命の助かった者はいなかった。
女も子供も容赦されなかった。(引用:レーモン・ダジール/フーシェ・ド・シャルトル『フランク人の事績 第一回十字軍年代記』)
それもそのはず、『旧約聖書』の出エジプト記には、偶像を作って拝んだ人に対して、神はこうおっしゃっているのです。
主はこういわれる、「あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」
(「出エジプト記」第32章『旧約聖書』1955年)
信仰が異なる者は、剣で殺すのが神の御心にかなうのです。
それは異教徒だけではありません。
キリスト教の中でも異端者は同じです。
アルビジョワ十字軍では、教皇インノケンティウス3世が十字軍を呼びかけ、フランス王フィリップ2世がフランス南部のキリスト教アルビジョワ派を弾圧しました。
その時、攻め込んだ地域の相手もみんなフランス人なのでアルビジョワ派の見分けがつきません。
そこで十字軍は、
「死ねばカトリックなら神の国へ召されるし、異端なら地獄に堕ちるから何の問題もない。
とにかく皆殺しにせよ」
と言ってせん滅しました。
異端審問も大変です。
異端だと密告されて捕まると、拷問にかけられ異端であるかどうかに関わらず、異端だと言わされます。
拷問のあまりの辛さに「異端です」と言うと、魂を浄化するために火あぶりになります。
異端審問はこのように、捕まった時点で死が確定する恐ろしい裁判です。
また、奴隷貿易をしていたのもキリスト教徒です。
キリスト教を信じている人たちは、異教徒を人間と見做しません。
アフリカから2400万人をアメリカへ連れて行き、奴隷として酷使しています。
日本へ来たイエズス会とポルトガル商人は、九州の大名から日本人の捕虜などを買い取り、奴隷として売っています。
ちなみにそれを禁止してバテレン追放令を出したのが豊臣秀吉です。
宗教改革でプロテスタントが現れると、キリスト教内でもお互いに殺し合いが始まります。
例えばサンバルテルミの虐殺では、カトリックのカトリーヌが、プロテスタントのアンリを結婚式に招待すると騙して、プロテスタント数千人を虐殺しています。
魔女狩りでは、異端審問を受けて、魔女とされた罪もない何万人もの女性たちが、火あぶりになっています。
これも神の御心です。
根拠は『旧約聖書』のこの部分です。
魔法使いの女は、これを生かしておいてはならない。
(「出エジプト記」第22章『旧約聖書』1955年)
神は、男よりも女性に厳しく、つまり男尊女卑なのです。
その後もキリスト教徒は、アメリカ大陸にたどり着くと、インカやアステカを滅ぼしています。
アメリカインディアンも殺して土地を奪いました。
その延長線上に、広島や長崎への原爆投下もあります。
被爆者は20万人以上が亡くなり、その後も放射能などの影響で多くの人が苦しみました。
アメリカ人は今でもそれを正しかったと考える人が多いですが、
キリスト教によって、これまで人類はどれほど苦しめられたか分かりません。
仏教の人間観
このような虐殺は仏教では到底考えられないことです。
よく宗教は排他的になって戦争をするから嫌いだという人がありますが、
それは確かに『旧約聖書』に基づく
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは教義上そうなります。
ところが仏教にはそのような教義はありません。
確かに仏教では、インドでも中国でも日本でもチベットでもよく議論が行われます。
仏法上の論争は、一対一の場合は「論議」、
複数で行われた場合は「談義」といわれ、
平安時代に行われた論争は「諍論」ともいいます。
これは仏教の教えの解釈に対立が生じた時に、
どちらが正しいのか論争するものです。
例えば天台宗の最澄と、法相宗の徳一の「三一権実諍論」や、
浄土宗の法然上人の「大原談義」が有名です。
「大原談義」のことを「大原問答」ともいわれますが、
詳しくはこちらの記事もご覧ください。
➾大原問答・浄土仏教と他宗派連合の対決の内容
仏教で論議はとても一般的なもので、平安時代の法会などは、経典の講説と論議の二部構成だったりします。
これは研鑽を積んだ僧侶同士の学問上の議論であって、殺し合いは行われません。
教えの理解を深めるためのものです。
しかも仏教では、殺生を禁ずる戒律があります。
仏様は慈悲の方ですので、
人間だけではなく、すべての生命は同根であり、上下はないと教えられています。
そしてどんな生き物であれ、殺生はしないように、と教えられています。
どうしてこのような違いがあるのかというと、
キリスト教では、人間の命は、神に造られた一度きりのもので、始まりと終わりがありますが、
仏教では人間は果てしなく遠い過去から生まれ変わり死に変わり、輪廻しているからです。
無限の過去から苦しみ迷いの旅を続けている間には、
動物に生まれたこともありますし、生まれたことのない生命はありません。
そのため仏教では、すべての生命の重さは平等ですし、
すべての生命が仏様の救いの対象です。
もちろん仏様が大量虐殺をされたことはありません。
この仏教の教えに従った場合、当然ながら争いは減ります。
例えばインド史上最も大きな国を治めたアショーカ王などがそうです。
そして仏教の栄えていた国は、その期間は平和なのが歴史上の事実です。
このようなことは、世界史を学べば明らかなので、
神と仏が同じようなものと思う人は、それほど世界史を勉強していないのでしょう。
逆に、世界史を勉強した人では、宗教は戦争を起こすから怖いと、仏教も一緒にする人もあります。
その場合は、やはりキリスト教と仏教の違いをよく知らないのでしょう。
キリスト教の神は、自分で人間を造り、人間の食糧として動物を造ったといいます。
そして神を信じないような失敗作は容赦なく壊します。
仏教では、すべての生命は、生まれ変わり死に変わり輪廻していると教えられています。
このように、人間観もキリスト教と仏教ではまったく違います。
科学との関係
キリスト教では、イエスの意義を論じるとき、復活を頂点とする奇跡の証拠に依存しています。
科学が発達し、ニュートンなどによって、世界が機械的な法則によって動いていると明らかになるにつれ、キリスト教は疑問を持たれ始めました。
コペルニクスの地動説により、
「神のましますはずの天とはどこなのか?」
分からなくなります。
ダーウィンの進化論によって、
「本当に女性は男のあばら骨から造られたのか?」
という疑いが起きてきます。
イエス自身についても、お父さんはなく、処女のマリアから生まれたそうです。
そして、色々な病気を癒したとか、
死んだ者を蘇らせたとか、
人についていた悪鬼を追い出したとか、
2つのパンと2つの魚を50人に分配して余りがあったとか、
海の上を歩いたとか、
海の風波を一喝して鎮めたとか、色々奇跡を起こします。
そして、死んでも3日後に復活し、40日後、肉体を持ったままで飛び、昇天します。
イエスには父親がないという点については、キリスト教の正統派を自称するカトリックの「三位一体説」によれば、イエスの父はイエス自身だそうです。
その点、仏教を説かれたお釈迦さまには両親があります。
また、死んだ人は仏様でも生き返らせることはできません。
それというのも、仏様は、大宇宙の真理である因果の道理をさとられて、因果の道理を根幹として教えを説かれているからです。
因果の道理を曲げることは仏様でもできないのです。
因果の道理とは
「すべての結果には必ず原因がある」
という教えです。
奇跡が原因なしに結果が起きることだとすれば、仏教に奇跡はありません。
ですからドイツの有名な哲学者ニーチェは、こう言っています。
仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。
(ニーチェ『キリスト教は邪教です』)
ノーベル賞をとったイギリスの哲学者ラッセルはキリスト教には手厳しいですが、仏教に対しては、このように言っています。
今日の宗教では、仏教がベストだ。
その教えは深遠で、おおよそ合理的である。
(バートランド・ラッセル『Russell on Religion』)
20世紀最高の天才科学者といわれるアインシュタインは、こう言っています。
仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である。
(アインシュタイン・引用:『仏教と西洋の出会い』)
このように、キリスト教の国の人達も、科学とキリスト教は相容れず、仏教と調和すると考えています。
あなたの運命はどのように決まるのか
運命のしくみ
キリスト教では、運命は神の与えたものです。
しくみは特にありません。
たとえば、ヨハネによる福音書の第9章では、イエスが道で目の見えない人を見たとき、弟子達が
「あの人の目が見えないのは誰の罪ですか?」
と尋ねます。
するとイエスは、
「誰の罪でもなく、神のわざが現れるためである」
と答えています。それまで神が目を見えなくしていた、ということです。
実際、大地震で多くの人が苦しみ、キリスト教の教会が破壊されるのも、神の意志であり、何か意味のある試練だろうと解釈します。
仏教では、自業自得の因果の道理にしたがって、自分の行いが自分の運命を生み出します。
運命は自分の業が作りだしたものです。
罪悪について
キリスト教でいわれる罪は、アダムとイブが、俗にりんごといわれている知恵の木の実を食べたことです。
これを「原罪(げんざい)」といいます。
そのためにすべての人は死ななければなりません。
キリスト教では、罪は魂の犯すものなのに、なぜ肉体的に遺伝するのかについては、アウグスティヌスが悩んだ末、答えを見つけられませんでした。
そもそも「なぜ全知全能の愛の神が世界を創造したのに、この世に悪が存在するのか」は、キリスト教神学の「弁神論(べんしんろん)」の1つの大きなテーマです。
「弁神論」とは、神を弁護する議論ということで、昔から色々な説明を考えていますが、矛盾を解決できた議論は一つもありません。
もはやアインシュタインは、こう言っています。
人間の愚行の責任は、ひとえに神自身にある。
(アインシュタイン・引用:『人間─この愚かなるもの』)
仏教では説かれる罪悪は、煩悩によって心と口と身体で犯す色々な悪業が説かれています。
それが目に見えない悪業力となって阿頼耶識という自らの永遠の生命におさまり、縁が来ると悪い運命となって現れます。
仏教には煩悩や心のしくみについて非常に詳しく説き明かされていますが、キリスト教には人間の心についてほとんど教えられていませんので、人工知能の父といわれるマサチューセッツ工科大学のマービン・ミンスキー教授は、このように言っています。
人工知能をやろうとすれば、当然ながら人間の知能、それから心の仕組み、働き方が標的になり、特に心の研究には仏典が比類なきテキストになる。
(マービン・ミンスキー教授・出典:田原総一朗『生命戦争 脳・老化・バイオ文明』)
どのように救われるのか
キリスト教では、救われるのは、イエスを救世主(キリスト)と信じた人だけです。
それ以外の人は、永遠にハデスやゲヘナといわれる地獄で苦しみを受けます。
人間以外は対象外です。
仏教では、仏の慈悲は生きとし生けるものすべてにかけられます。
すべての生きとし生けるものが救いの対象です。
キリスト教で救われる条件を満たした人は、カトリックの場合、煉獄で罪を清めます。
そして最後の審判で肉体が復活して天国に行きます。
プロテスタントの場合、煉獄を認めず、死後、天国へ行き、最後の審判で肉体が復活します。
肉体は復活のために大切なので、キリスト教では火葬にせず、土葬にします。
最近では、復活に備えて遺体をセメントで固めるサービスがあります。
百歩譲って本当に肉体が復活した場合、現実的に考えて、身動きできず、すぐに窒息死するように思いますが、キリスト教では、利用する人が増えています。
仏教では、教えを聞いて、永遠の迷いの根元が断ち切られると、生きているときに絶対の幸福になります。
迷いの根元が絶ち切られた人は、死ねば仏に生まれます。
まとめると、以下の表のようになります。
キリスト教と仏教の7つの違い
No. | 項目 | キリスト教 | 仏教 |
---|---|---|---|
1 | 開祖 | イエス(大工の子・35才) | 釈迦(王様の子・80才) |
2 | 聖典 | 旧約聖書と新約聖書の2冊 | 一切経七千余巻 |
3 | 世界観 | 世界は神の創造したもの。始まりと終わりがある。 | 因果の道理に従って無始無終。一人一人が自分で生みだした世界に生きている。 |
4 | 人間観 | 全知全能の神が造った一度きりの人生。信ずる人を愛ししもべにする。信じない人は怒り滅ぼす。 | 因果の道理にしたがって果てしない過去から輪廻転生する。仏の慈悲はすべての生命が救いの対象。 |
5 | 科学 | 奇跡をイエスが神である証拠とするので相容れない | 因果の道理に立脚するので調和する |
6 | 運命と罪悪 | 神の与えたもの アダムとイブが知恵の木の実を食べた原罪が全人類の罪 |
自業自得 煩悩によって罪悪を造る |
7 | 救い | 神を信じる人は最後の審判で神のしもべになれる | すべての人が仏になれる |
このような違いがありますから、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、こう言っています。
仏教は理性や現実性、現代まで人間が達成した業績に矛盾することがない。
皮肉なことに、東洋の宗教は、西洋の宗教以上に西洋の合理的な思想によくなじむことが判明している。(引用:エーリッヒ・フロム『Zen Buddhism and Psychoanalysis』)
また、ノーベル賞をとった天才科学者アインシュタインは、こうも言っています。
現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教です。
(アインシュタイン)
では仏教で救われるにはどうすればいいのか、ということについては、電子書籍と無料メール講座にまとめてあるので以下のページからご覧ください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)