一切皆苦とは?
「一切皆苦」とは、すべては苦しみである、という意味です。
これは仏教の特徴的な教えであり、大前提です。
でも、人生には少しは楽しいこともあるように思えます。
本当にすべては苦しみなのでしょうか。
また、もし本当に人生がすべて苦しみなら、生きる意味もなさそうです。
一切皆苦の人生で生きる意味とはどんなものなのでしょうか?
一切皆苦の意味
「一切皆苦」について、仏教の辞書にはこう書かれています。
一切皆苦
いっさいかいく[s:duḥkhāḥ sarvasaṃskārāḥ]
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印に加え、<四法印>と呼ばれる仏教の基本的教義を構成する一句。
サンスクリット原文を原義に忠実に訳せば<一切行苦>となる。
duḥkhaの原義は「不安定な、困難な、望ましくない」という意味。
仏教は苦を、苦苦(duḥkhaduḥkha)、壊苦(vyayaduḥkha)、行苦(saṃskāraduḥkha)の3種(三苦)に分けて説明する。
<苦苦>は肉体的な苦痛を、<壊苦>は損失による精神的な苦痛を表し、一般に用いる苦の意味に近い。
一方、仏教は生まれたままの自然状態、すなわち凡夫の状態は迷いの中にある苦としての存在と捉え、そこから脱却して初めて涅槃という楽に至ると考えて、この迷いの世界のありさまを<行苦>と表現する。
行苦は涅槃に至った者を除いて例外なく存在し、皆苦の意味を持つ。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
この事典に書かれているように、「一切皆苦」は四法印という
他の宗教にはない仏教の特徴のうちの1つというのはその通りです。
三法印や四法印については、こちらに詳しく解説してあるのでご覧ください。
➾三法印(四法印)の意味を分かりやすく解説
ですが、一切皆苦がどういう意味かは分かりましたでしょうか?
「人生には何か楽しいこともあるのではないですか?」という質問に対しては、
仏教では涅槃に至っていない状態を苦と表現する、と答えているようなものです。
「その楽しみも、仏教では苦と表現する決まりなのだよ」という感じなので、全然分かりません。
一切皆苦は、仏教の基本ですが、
何だかこれを書いている人も、残念ながら一切皆苦がどういうことか、
あまり実感がわいていなさそうな雰囲気ではないでしょうか?
仏教では「一切皆苦」にはもっと重要な意味があります。
一切皆苦を教えられた意味
お釈迦様が一切皆苦を教えられた重要な意味が、『ダンマパダ(法句経)』というお経に、こう説かれています。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。(引用:『ダンマパダ』中村元訳)
一切皆苦が明らかに知らされた時、苦しみから離れられるということです。
ですから一切皆苦は悲観的でも厭世的でもありません。
それが知らされれば幸せになれる、という重要な教えが一切皆苦です。
だからその分、一切皆苦を本当に知ることも、そう簡単ではないのです。
逆立ちした考え─顛倒の妄念
仏教では、私たちの考えは逆立ちしていると説かれています。
これを「顛倒の妄念」といいます。
「顛倒」とは、ひっくり返しのことで、
「妄念」とは、間違った考え、迷った考え、ということです。
人は、真理が見えずに迷った考え方をしているから悲劇が起こるのです。
顛倒の妄念には幾つかありますが、その一つが、
「人生は苦なり」なのに、人生が楽しいところと思っている、というものです。
今まであまり楽しいことがなかったとしても、
明日、きっといいことがあるはずと思っています。
「明日」は明るい日と書きます。
明日が暗いと思ったら生きていけません。
「人生楽しいこともあるさ。明日は明るい日だ」
そう思えない人は自殺しますので、
みんな人生には楽しいことがあると信じています。
ですが、天下統一した徳川家康でさえ、人生は苦しかったと言っています。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
(徳川家康・遺訓)
「重荷」とは苦しみのことですから、徳川家康は、天下を統一しても、将軍になっても、幕府を開いても苦しみをなくすことはできず、死ぬまで苦しみ続けたと言っています。
お釈迦様は、
「みんな人生楽なりと思っているが、実際はすべて苦しみなのだよ」
と教えられているのです。
一切皆苦が分かる人は聖者
仏教に教えられている通り、人はみなデフォルトが逆立ちで、
真理とは反対の迷った考え方をしていますので、
「一切皆苦」を知ることはかなり難しいことを、
『スッタ・ニパータ』というお経にはこう説かれています。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦悩」であると言う。
他の人々が「苦悩」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。(引用:『スッタ・ニパータ』762 中村元訳)
逆立ちしている人から見ると、まっすぐ立っている人が逆立ちして見えますので、
一般の人と聖者は苦しみについても全く反対に考えているのです。
このことを『倶舎論』には、こう教えられています。
理としては実に一切は、行苦の故に苦なりと。
これただ聖者のみ能く観見する所なり。
(漢文:理実一切行苦故苦 此唯聖者所能観見)(引用:『阿毘達磨倶舎論』)
これは、真理としては、一切が苦なのは、実に行苦だからである。
この一切皆苦は、聖者のみがよく知ることのできることである、ということです。
聖者とは、深い智慧がある人のことなので、
智慧のない人には分からないし、
智慧のある人が一切皆苦の真理を知ることができると教えられています。
このことをさらに『倶舎論』で、こんなたとえによって教えられています。
少し長くなるので、初めから現代語訳にします。
まつげ一本を手のひらに置いても人は気づかないが、
それを目の上に置けば、目には傷がつき、不安を感じる。
愚者は手のひらのように行苦というまつげに気づかない。
賢者は目の玉のように、わずかな縁(原因)にも深く気づき、厭離と恐れを生じる。(出典:『阿毘達磨倶舎論』)
このように、愚かな人は、自分が苦しんでいることにも気づかず苦しんでいます。
苦しいことを楽しいものと騙されて、果てしなく苦しみ続けるのです。
聖者は苦しみを苦しみと見抜くことができるので、苦しみを解決しようと思うのです。
では、聖者や賢者でなければ分からないという、
「一切皆苦」とはどういうことなのでしょうか?
そして「行苦」とは何かということも疑問になります。
それを説明するために、まず、人生のすべてが苦しみであることを、
お経には分かりやすく
たとえで教えられているところがあります。
人生は渡りにくい海
『華厳経』やその解説書である『十住毘婆沙論』には、
一切皆苦である人生を、海に例えて「難度海」と言われています。
「難度海」の「難度」は、「渡りにくい」という意味ですから、苦しみのことです。
つまり難度とは、苦難であり、困難であり、災難です。
人生は、苦難・困難・災難が次々やって来て、
苦しみの波の絶えない海のようなものだということで、
「難度海」と言われているのです。
私たちは「おぎゃあ」と生まれた時に、この海に放り込まれたようなものです。
見渡す限り空と海ばかりで、どこへ向かって泳げばいいか分かりません。
ですが、生まれたからには泳がなければならないので、
どこかに向かって泳いでいきます。
すると、苦しみの波が次から次とやって来ます。
一つの波を乗り越えたと思ったら、すぐに次の波が押し寄せてきます。
学生の時、受験を乗り越えたと思ったら、就職活動が待っていたり、
やっとの思いで就職しても、人間関係でトラブルが起きたりします。
時には、いじめ、失業、借金、離婚、介護、人間関係のトラブルなど、
複数の波が同時に押し寄せることもあります。
たとえ順調に人生を送っていたとしても、
急に大きな病気になったり、事故に遭うかもしれません。
予想せず大きな波に襲われ、頼りにしていた健康や仕事、家族が
突然失われることがあります。
泳いでも泳いでも、苦しみの波が次から次へとやって来る海のような人生なので、
人生を「難度海」と言われています。
このように、苦しみが次から次とやって来る海のようなものが人生だと言われても、
実際には、美味しいものを食べたり、職場からボーナスが出たり、
仕事で実績が認められるといった楽しみがあるのではないか、
という疑問が起きる人も多いのではないでしょうか。
楽しいこともあるのでは?
そんな
「一切皆苦といっても、楽しいことも少しはあるんじゃないですか?」
という疑問に対して、
インドの高僧、龍樹菩薩は『大智度論』に、
「傷口のたとえ」で教えられています。
人間はすべてが苦しみであるのに、
悟りを得ていない者は考え方がひっくり返っているために、欲望に迫られ、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲を楽しみだと思い込んでいる。
それは人が傷口に薬を塗って、激しい痛みが一時的に和らぐことを楽しみだと思うようなものである。
しかし実際、傷口は決して楽ではないのである。(出典:『大智度論』)
「楽しいこともあるのではないか」という楽しみは、
本質的には欲を満たす楽しみです。
代表的な欲は、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
それらを満たすのが楽しいというのは思い込みだと教えられています。
なぜかというと、それらが満たされていない時に楽しいと感じるのであって、
満たされてしまえば楽しいと感じないからです。
それどころか苦しいくらいです。
苦しい時しか楽しみを感じないことは、
例えば、傷口に痛み止めを塗ったようなものです。
傷を負った人は、痛み止めの薬を塗ると一時的に痛みが和らぎ、
「ああ、楽になった」と感じます。
しかし現実には、傷口は楽ではなく、苦しみなのです。
私たちの生活における「楽しみ」も、実はこれと同じなのだと龍樹菩薩は言われています。
例えば、虫歯で眠れないほど激痛を感じている時に、痛み止めを使うと楽になります。
ですがそれは、虫歯ですから苦しみです。
美味しい料理を食べて満足感を得る場合でも、
実はお腹が空いているから美味しく感じるのであって、
満腹になった後に、「もっと食べろ、もっと食べろ」
と無理矢理詰め込まれたら、苦しくなります。
楽しいと感じるのは、不満だからであって、それは実は苦しみなのです。
食べもの以外にも、欲しかったものを手に入れて喜ぶ、
名誉や称賛を受けて嬉しくなる、
といった一時的な「楽しみと思えるもの」はすぐに消え、
また次の欲望を満たそうとします。
その「楽しみと思えるもの」は、本当は「渇望」や「虚しさ」「退屈」といった苦しみが一時的に和らいだことを、相対的に楽しみと感じているに過ぎません。
実際には、ひどい苦しみが、比較的ましな苦しみになっただけで、
すべては苦しみなのです。
これで大体、すべては苦しみであることは分かったと思いますが、
仏教ではさらに、一切が苦しみであることを、
「
苦苦」「壊苦」「行苦
」の「三苦」で教えられています。
1. 苦苦 - 現在苦しいと感ずる苦
仏教では、苦しみを3つに分けて、「三苦」と教えられています。
まず1つ目の「苦苦」は、現在苦しいと感ずる苦です。
普段の日常生活で誰もが感じやすく、一番分かりやすい苦しみです。
例えば、夏の暑い夜の不快感や、
冬に寒波が訪れた日の凍える寒さとか、
虫歯や口内炎による食事中の痛みやストレス、
交通事故などによる怪我の痛み、
職場の人間関係のトラブルなどによる心の傷、
借金による心理的なストレスなど、様々です。
これらは明白に分かる苦しみです。
この苦苦を感じている時は、明らかに苦しいです。
2. 壊苦 - 楽しかったものが崩れる苦
2つ目の「壊苦」は、楽しかったものが崩れる苦です。
最初は楽しかったものが、変化し、壊れた時に感じる苦しみです。
お釈迦様は「故き苦をもって苦となし、新しき苦を楽となす」(坐禅三昧経)
と言われ、
人は新しいものを楽しみと錯覚し、古くなると苦しみを感じるとも教えられています。
例えば、毎日学校から帰っては寝るまでやり込んだゲームも、数ヶ月もすれば飽きてしまい、同じゲームをする気にはなれなくなります。
最初は毎日会いに行くほど好きだった人が、ずっと一緒にいると、
段々と冷めてしまい、一緒にいるだけで苦痛になることもあります。
お金ができたと喜んで贅沢しても、贅沢にはすぐ慣れてしまいます。
盛者必衰ですから、やがて失敗してお金をなくした時、今までの浪費を後悔するのです。
「あのお金が1万円あれば、あれが買えたのに」
「あそこであんな無駄遣いしなければ、これが食べられたのに」
と果てしなく苦しみます。
なければないで苦苦を感じるのですが、
欲しいものを手に入れてしまうと、
それが失われる時にひどい苦しみを感じるのです。
しかも、ノーベル賞を受賞したダニエル・カーネマンのプロスペクト理論によれば、
失う苦しみは、手に入れた喜びの約2倍の大きさです。
そういうこともあってか、ある投資家が相場で大負けして、
資産が10億円を切ったために自殺したといいます。
資産が10億円もあれば、まだまだかなりの資産家なのですが、
それでも楽しかったものが崩れた苦しみは、自殺するほどひどいのです。
一時的に10億円以上の資産を形成しなければ、苦しむこともなかったのでしょうが、
手に入れてしまったために、死ぬほどの苦しみを味わったのです。
そして、諸行無常の世の中ですので、形あるものは必ず崩れ、
出会った人とは必ず別れなければなりません。
今楽しいと感じることも、実は退屈だから楽しいと感じるわけですし、
やがて必ず2倍大きな苦しみを引き起こし、
差し引きマイナスになりますから、それは苦しみなのです。
3. 行苦 - 無常をなげく苦
3つ目の「行苦」は、無常をなげく苦です。
3つの苦しみの中で最も深く、分かる人にしか分からない苦しみです。
現在は幸せであっても、その幸せが永遠には続かないことを知っている人が感じる虚しさや不安です。
苦苦や壊苦と違って、まだ直接的な身体的、精神的苦しみを受ける前であり、
楽しみが壊れる前に感じる苦しみなのです。
一見すると何も問題がないように見える人生でも、
どこか満たされない、何かが足りないと感じる漠然とした苦しみです。
この行苦は、「一切行苦」とも言われ、一切皆苦と同じ意味です。
お釈迦様は、無常であるからすべては苦しいことなのだと教えられています。
我、一切の行は無常なるが故に、一切の諸行は変易の法なるが故に、以て諸の有する所の受は悉く皆これ苦なりと説く。
(漢文:我以一切行無常故 一切諸行変易法故 説諸所有受悉皆是苦)(引用:『雑阿含経』一七)
どういう意味かというと、
まず「一切の行は無常なるが故に」とは、
すべてのものは無常だから、ということです。
「一切の諸行は変易の法なるが故に」とは、
すべてのものは常に変化するものだから、ということです。
一切が無常であり、変化するものだから、
「諸の有する所の受は悉く皆これ苦なり」とは、
私たちが感じているものは、一切が皆苦しみなのだ、ということです。
特に、無常の中でも最も深刻なのは、自分の命が続かないことです。
難度海のたとえでいえば、いくら泳いでも果てしのない海で、
やがて力尽きて土左衛門になるだけということです。
どれだけ泳いでもゴールはありません。
泳げば泳ぐほど土左衛門に近づきます。
やがて必ず力尽きることは、最初から分かっているのですが、
みんなどう生きるかという生きる手段ばかりに一生懸命で、
どこへ向かって泳ぐのか、という生きる目的を考えようともしません。
生きる目的が分からず、
とにかく一生懸命生きるだけでは、
生きれば生きるほど死に近づくだけです。
何をやっても、
何を手に入れても、喜びは続かず、
それどころか一生懸命泳げば泳ぐほど、
早く力尽きて土左衛門になりますので、
一生懸命生きる意味が分かりません。
やがて必ず死ななければならないのに、
何のために生まれてきたのか分からず、
苦労が報われるわけでもなく、
ただ死んでいくだけなのが、
行苦なのです。
お釈迦様が解決しようとされた苦
お釈迦様ご自身も、出家される前は王様の子供だったので、
生活の不自由もなく、将来の地位も約束されていたのですが、
どんな幸せに恵まれていても、老いと病と死によって、やがて必ず崩れ去ってしまうと
無常を歎かれて出家されたのでした。
ところが、6年間の想像を絶する修行の末、
みごと仏のさとりを開かれて、
老病死を超越した、変わらない幸せを発見され、
それを説かれたのが仏教です。
お釈迦様は、まだ若くて健康で、王族の恵まれた生活をしていた時に、
人生を深く見つめられ、一切皆苦に気づかれたのですが、
私たちは、智慧がないので、
何となく虚しいとか、何となく満たされないとは思っても、
なかなか一切皆苦だとは思えません。
それでお釈迦様は、一切皆苦の人生の真理を教え、
本当の幸せに導こうとされているのです。
本当の幸福になるために
「一切皆苦」は、この世に幸せはないという意味でも、
生きる意味がないという意味でも、ありません。
実は「一切皆苦」の教えは、私たちに希望を与える言葉です。
例えば、私たちが重い病気にかかっているとします。
ある日、その病気に気づいた時、私たちはどうするでしょうか。
「病気だと分かったから、もう治療はあきらめよう」とは考えません。
むしろ、「この病気を完治させたい。そのために、いい医者を探そう」と考えるはずです。
「一切皆苦」の教えも同じです。
日常の「幸せ」は一時的なもので、実は苦しみみたいなものだと気づいた時、
私たちは、決して絶望して終わりではありません。
「では、一時的ではない本当の幸せ、永続的な幸福はなんだろう」と
ここから本当の幸福を求めようとするのです。
日常生活で感じる一時的な幸福で満足するのではなく、
より深い、永続的な幸福を追求し、人間として生まれた意味を探し始めます。
一切皆苦は、老病死を超えた幸せへ導く希望を与える教えなのです。
一切皆苦の人生で、本当の生きる意味とは
最後にまとめると、一切皆苦の意味は、すべては苦しみである、ということです。
そう聞くと、私たちは「少しは楽しみもあるのではないか」と思ってしまいますが、
お釈迦様は、人生を苦しみの波の絶えない「難度海」と、海にたとえて教えられています。
しかし、一切皆苦という真理は、仏様から教えを学び、智慧を身につけなければ、
なかなか分かりません。
それで、私たちに真理を分からせるために、私たちの理解にあわせて
お釈迦様が導いてくださっています。
しかし、一切皆苦が分かってくると、
幸せはもうないのではないか、生きる意味はなくなるのではないか、
と思う人もいますが、そうではありません。
人生の苦しみが分からなければ、本当の生きる意味を探そうとも思いませんから、
人生の苦を知ることが仏教の出発点です。
一切皆苦を教えられているのは、一時的な幸せを求めるのではなく、
永続する本当の幸福になりなさい、と勧めてくださっているのです。
色あせることも崩れることもない、本当の幸福になることこそ、
私たちが人間に生まれてきた目的であり、本当の生きる意味だからです。
では、本当の幸福とは何か、どうしたらなれるのかということについては、
仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ一度、見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)