神と仏の違いとは?
「神さま仏さま、どうかお助けください」
普段は「無宗教です」といっている人でも、
自分にどうしようもない問題が起きると、
「困ったときの神頼み」で、何気なく神仏の加護を願ったりします。
ところが、自分がどんな存在に助けを求めているのか知らないと、
恥ずかしい場合や、不幸を呼ぶ場合もあります。
一体神とは何でしょうか?
また神と仏の違いとは?
神と仏は全く違いますので、知ってほしいと思います。
神とは
神の意味について、まず辞書の意味を見てみましょう。
神
かみ
漢字の<神>は、神を祭るときの祭卓の形<示>と電光が斜めに走る形<申>とからなり、天神・自然神の意という。
日本人は、民族的伝統の<カミ>にこの字を当て、さらにはキリスト教のGodをはじめ諸宗教のtheosやdeusなども<神>と呼ぶにいたっている。
この一般的呼称としての<神>とは、宗教学的にいえば、超自然的な力と自由なる意志とを持って人間との間に人格的な交わりを結ぶ一個独立の存在のことであるが、インドでは<デーヴァ>(deva、光り輝くもの)、漢訳して<天><天神>と呼ばれた。
仏教は、ヴェーダ以来の諸天諸神を傘下に取り入れて、仏陀より下位にあって随順しながら守護するものとして、これらを位置づけた。
梵天・帝釈天・四天王・八部衆などがそれである。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
辞書の意味だけだと内容があっさりしているので、
以下では辞書に書かれていないことも解説していきます。
神の起源と3種類の分類
そもそもなぜ神というものが生まれたのかというと、
まだ未開の原始時代に、自分たちにどうしようもない
大自然の大きな力にさらされたとき、
何か大いなる意志が働いているに違いないと恐れ、敬ったのです。
そこで、太陽や風、雷といった生活に大きな影響を与えるものに、
人間と同じように意志があり、人間に幸せや不幸を与えていると
未開人たちは考えて、
それらに喜んでもらうための儀式や祭りを執り行って、
生け贄などの捧げ物をするようになったのです。
そして、時代が進んで行くと、
政治家を中心とした英雄など、人間が死ぬと神として祭ったり、
自分はその神の子孫だと主張して
権威づけにも使うようになったのです。
このような色々な神々を分類すると、
大きく分けて3種類になります。
1.日本の神、
2.キリスト教の神、
3.仏教の神
の3つです。
1.日本の神など
まず日本の神とは、
「山や河、石や木などの物や、死んだ人間や動物」などを
神としているものです。
日本では「八百万の神」といって、
ほとんど何でも神にしてしまいます。
最寄りの神社の神体を調べると、下駄や石や紙、
或いは大変下品な物に、
幸せや不幸にする力があると信じて
敬って頭を下げ、商売繁盛や、交通安全など、
現世利益を拝んでいる場合があります。
そして、日本の神で多いのは死んだ人間です。
伊勢神宮の天照大神がその代表ですが、伝説によれば約3千年前の
「おほひるめむち」といわれる争いをおさめる力にすぐれた女性です。
ですから「天照大神」といっても、死んだ人間を神としているものです。
その他、明治神宮なら明治天皇、
日光東照宮なら徳川家康など、
死んだ政治家を神としているところが多くあります。
また、死んだ動物を神にしていることも多く、
蛇やキツネを神として、キツネなら油揚げを供えて
大病平癒や大学合格など現世利益を願っています。
生きているキツネに人間の病気を治す医術も、
大学に合格す学力もありませんが、
死んだキツネにはますますそんな力はありません。
この種類の神を仏教では
仏教では、死んだ人間や畜生の霊を神として、
人間に幸せや不幸を与えると信じているものを
「鬼神」といいます。
仏教では、因果の道理を根幹として、
幸せや不幸という運命は、自らの行いが生みだしたものだと
教えています。
ですから人は死んだ後、死ぬまでの行いによって、
次の世界に生まれますので、社を作って祭っても、この世にとどまることはできません。
私たちの幸せや不幸の運命にしても、自らの行いによって生じます。
仏教では、このような因果の道理に反した鬼神信仰は
完全に否定されています。
『般舟三昧経』には、こう説かれています。
自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。
余道に事うることをえざれ。 天を拝することをえざれ。
鬼神をまつることをえざれ。
(漢文:自歸命佛 歸命法 歸命比丘僧 不得事餘道 不得拜於天 不得祠鬼神)(引用:『 般舟三昧経』)
これは、自ら三宝に帰命して、
仏教以外の教えにしたがってはなりませんよ、
占いをしてはなりませんよ、
鬼神をまつってはいけませんよ
ということです。
これは、ギリシア神話の神々なども、
天地自然を神としたり、
有力者の先祖を神としたりしていますので、
やはりこの類いですから、
仏教では信じてはいけません。
2.キリスト教の神など
次に、キリスト教の神は、旧約聖書のヤハウェです。
ユダヤ教のヤハウェも、イスラム教のアラーも同じ神です。
ヤハウェは全知全能で、6日間で天地を創造し、
土から人間を創ったと旧約聖書に書かれています。
そして、人間が食べるために動物を創りました。
ところが神は、人間がいいつけを破ったので、
腹を立てて、楽園を追放します。
その後も神は、人間が意志に背くと、このようにするといいます。
「神は人間を罰する時には剣と火とで苦しめる」
(イザヤ書第66章16)
「神は神に背いた民を滅ぼす時には全地を嫉妬の火に呑ませてしまう」
(セバニヤ書第1章18)
「神は人が神を信じなくなると怒りの火で山でも大地でも産物でも、
みな焼いてしまい、信じない人を矢で射つくす」
(申命記第32章22〜23)
神は全知全能だということですから、
人間が信じるようにできるはずですし、
背く前に予知して対策も立てられるはずです。
それなのに人間があっさり神を信じなくなって、
ソドムとゴモラという町を全滅させたり、
ノア以外の全人類を洪水で流したりするのは
自らの意志で人間に背かせて大量虐殺している自作自演ということになります。
ですからフランスの生物学者ジャン・ロスタンは、このように言っています。
一人殺せば殺人者、百万人殺せば征服者、皆殺しにすれば神になる。
(ジャン・ロスタン)
神の存在論
また神の存在については矛盾を大きくはらむため、
神とはどのような存在なのかについて、さまざまに主張がなされています。
有神論、理神論、汎神論の3つの主張について簡単に紹介します。
有神論(人格神)
神とは、創造主であり、全知全能であり、
人類の運命を決定づけ、罰を与えたり、
奇跡を起こして世界と人間に干渉するような存在ということ。
有神論に対する反論には、全能のパラドックスがあります。
神は全能と言ってしまうと
「四角い円をつくれるのか」とか
「神は何でも持てるはずなのに、神ですら持てない石を作れるのか」
といった問いに答えられず、全能であるがゆえに矛盾をかかえてしまいます。
これを全能のパラドックスと言います。
このような矛盾を解消するため、以下のような主張がされました。
理神論
神とは、超自然的な知性はあるが、宇宙の法則を設定したあとは人類に一切干渉しない存在ということ。
人格神ではないとする立場です。
これによって神は奇跡を起こしたりはしないとされ、
理性によってでも神の存在を認めようとされました。
しかし、不条理な生物の体の作りや、最適化しない宇宙のつくり、
低すぎる生命の発生確率など不条理な世界のありかたをみると、
知性のある神が設定したとは到底思えないという批判がされます。
汎神論
そこで神とは超自然的な存在ではなく、自然をあえて神と比喩するとする立場の人が現れました。
この立場は、アニミズム信仰と同類にみなされたり、
無神論の立場とされる場合があります。
ここから分かるのは、神の存在を理性で理解して信じるのは非常に難しいということです。
仏教の創造神についての話
キリスト教などで言われる創造神について、仏教にはこんな話があります。
あるとき第六天魔王が、人々を集めて
「お前達は私がつくってやったのだから、
言うことを聞けば幸せにしてやるし、
背けば不幸にしてやるぞ」と説法していました。
お釈迦様は、第六天魔王を呼んで、
「お前は何というでたらめをいうのだ。
この世の中は誰のつくったものでもないだろう」
といわれると、第六天魔王は
「いや真理はそうでしょうが、こうでも言っておかないと、
こいつらは何をするか分りませんからね」と答えたといいます。
このように仏教では、因果の道理にもとづいて、
すべての結果には必ず原因があり、
宇宙の始まりというものはありません。
始まりのない始まりから、因縁がついたり離れたり、
変化し続け、流転しています。
このような支配的な神もなければ、
幸せや不幸を与える神もなく、
すべての運命は自分の行いの結果だと教えられています。
ですからドイツの哲学者ニーチェは、このように言っています。
「仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です」
「仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう」
(ニーチェ『キリスト教は邪教です』)
この種の神は他にも、
儒教の「天」があります。
儒教でいう「天」とは、人々に「天寿」や「天命」を与え、
「天子」に「天下」をおさめさせたりする神のようなもので、
『論語』に「死生は命あり、富貴は天に在り」とあるように、
生きるも死ぬも富貴になるも天命である、と考えています。
また、陰陽道の神の中心である「中神(天一神)」などもそうです。
この種類の神の共通点は、人間が空想した架空の存在が、
人間の運命を左右していると考えてできたというところです。
このような神に従うと?
このような神に従うとどうなるかについて
『涅槃経』には、こう説かれています。
一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く。
(漢文:一切外學九十五種 皆趣惡道)(引用:『涅槃経』)
「一切外学の九十五種」とは、
仏教以外のすべての宗教のことです。
これらは、宇宙の真理である因果の道理に外れた教えですから、
「外学」とか「外道」といわれます。
お釈迦様の時代には、それが95種類ありましたので、
仏教では、仏教以外の宗教を「九十五種」といわれています。
「悪道」とは、苦しみの世界のことですから、
道理に外れた教えを信じると、苦しみの世界へ行くと教えられています。
お釈迦様の説かれている通り、確かに歴史をひもとけば、
仏教が広まっている時代、その国は大変平和ですが、
他の宗教になるとすぐに戦争を起こします。
特にキリスト教やイスラム教に共通する旧約聖書の神は、このように指示していますから大変です。
他の土地に行って他民族を討ち取るとき、
彼らに何の憐れみも示さず完全に滅ぼさなければならない。
(申命記第7章1〜2)
ヨーロッパはキリスト教の名のもとに他国を侵略し、
アステカやインカを滅亡させ、ネイティブアメリカンをほぼ全滅させ、
常に世界中を戦争に巻き込んでいます。
イスラム教も暴力で他の地域に侵略・征服し、
現在もテロ攻撃は絶えません。
日本でも、江戸時代までは仏教が広まって平和でしたが、
明治時代に神道を信じ治め始めると、
日本を何度も戦争に導き、最後は神を盲信して国力の違いも分からなくなり、
世界を相手にしても第二次世界大戦を開戦してしまいました。
敗色濃厚になってもただひたすら天祐神助を信じ、
神風によって最後は勝てるんだと狂信しているうちに、
キリスト教の国に、東京、大阪、名古屋を始めとする
すべての主要都市を空襲で焼かれ、広島と長崎に原爆を落とされ、
何百万という人が死に、無条件降伏でアメリカに占領されて、
国を滅ぼしています。
その上、危うく仏教に救われなければ分割統治されています。
お釈迦様が「一切の外学の九十五種はみな悪道におもむく」
と説かれている通りです。
お経には他にも、こうも教えられています。
一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、
現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。(お釈迦様)
3.仏教の神
最後に、仏教で言われる神は、
六道輪廻中の迷いの衆生です。
例えば、梵天、帝釈天、四天王等の諸天、
堅牢地神、龍王、炎王等、
善鬼神や
夜叉、羅刹などの悪鬼神などのことです。
尚、これらの神の中には、六道輪廻中の業報の神のほかに、
垂迹の神もあります。
「業報の神」とは過去世のたねまきの報いを受けている衆生のことで、
「垂迹の神」とは仏や菩薩が、衆生を救う為に一時、神の姿で現れたものです。
このように、仏教で説かれる神は、架空のものではなく、
因果の道理にかなった存在で
仏教を勧め、仏法者を守るものです。
しかしながら、守るというのは救うことではなく、
これらの神も私たちと同じように、ほとんど六道輪廻中のもので、
自分さえも六道輪廻から離れられないのに、
私たちを六道輪廻から解脱させる力がないのは当然ですので、
お釈迦様は、これらを信仰の対象とすべきではないと教えられています。
このように、仏教では、仏教以外の神だけでなく、
仏教で説かれる神も含めて、
「いかなる神も拝んではならない」と教えられているのです。
仏とは
次に仏といいますのは、
死んだ人のことでもなければ、神のことでもありません。
仏のさとりといいますのは、全部で52あるさとりの中でも
最高のさとりを仏のさとりといいます。
地球上では、仏のさとりを開かれた方は、
お釈迦様ただお一人ですが、
大宇宙には、地球のようなものが数え切れないほどありますから、
仏のさとりを開かれた方も、数え切れないほどおられると、
お釈迦様は説かれています。
その大宇宙の仏方は、みな、因果の道理にしたがって、
迷いを離れ、仏のさとりを開かれた方々ですから、
神とはまったく異なります。
そして、それぞれの世界で、
すべての人が本当の幸福になれる道を説かれているのです。
神と仏の違い
今回は、神とは何か、仏とは何かについて解説しました。
神には、日本の八百万の神やキリスト教の神、仏教の神があります。
キリスト教のような創造神は矛盾が多いため、理性で信じようとして、
有神論、理神論、汎神論といった存在のあり方が主張されています。
しかしこれらの神を理性で信じるのは難しく、
仏教ではこのような神を信じていては不幸になるとまで断言されています。
また仏教に出てくる神は、
因果の道理を教える仏教を勧め、仏法者を守る存在です。
一方仏とは、52段目の「仏覚」というさとりを開かれ
迷いの世界を離れた方であり、地球上ではお釈迦様のことです。
そして仏は、全ての人が本当の幸福になるための方法を教えられています。
したがって、神と仏とは全く違う存在なのです。
仏教に依らなければ、本当の幸福には絶対になれません。
ではどうすれば、迷いを離れて、本当の幸福になれるのかについては、
メール講座と電子書籍にまとめてあります。
一度見てみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)