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生きる意味を、知ろう。

なぜ宗教が必要なのか・3つの理由

科学がこれだけ進歩した今日、現代人には宗教を信仰する必要はないのではないでしょうか?

特に日本人は、「宗教は危ない」と感じている人が多く、多くの人が「自分は無宗教だ」といいます。
ところが実際は、年始にはたくさんの人が神社に初詣に行き、結婚式は神道式、葬式は仏式で行います。
受験になれば合格祈願を行い、ビルを建てる時は地鎮祭を行い、飛行機のコックピットには交通安全の御守りが標準装備されています。
このように宗教は依然として日本人の日常生活に根付き、政治にまで影響を与えています。
世界的にもいまだに人類に大きな影響を与えているのが現実です。
一体なぜ宗教はそんなに影響が大きいのでしょうか?
そもそも宗教は必要なのでしょうか?

それを明らかにするには、まず「宗教」という言葉は何を指しているのか、そして宗教の成り立ちから知らねばなりません。

宗教とは

一般的に宗教とは何か、仏教辞典にはこんなふうに書いてあります。

宗教
しゅうきょう
今日では<宗教>は、人間や自然の力を超えた存在や力を認め、それを中核とした教義や儀礼、また教団組織を有する活動を意味する。
もっとも、必ずしも明確な教義や組織をもたない民間信仰やオカルト的超常現象への信仰の類もあり、必ずしも厳密な定義や線引きができるわけではない。
【宗と教と宗教】
<宗教>という熟語は、古く中国の仏教論書に使われており、法蔵ほうぞうの『華厳五教章けごんごきょうしょう』などでは<宗>と<教>に分けて説明する。
それによれば、<宗>とは教えの中にひそむ究極の理、つまり要義(奥義)・要旨(宗旨)を意味し、<教>とはそれを相手に応じて教え説いたものである。
<宗>は言説を超えたものであるが、<教>はいろいろな形態で存在し得る。
これら二つを合わせて、要するに仏教を意味するものにほかならなかった(「おおよそ宗教を扶竪ふじゅ(確立)するは、すべからく是れ英霊のおのこなるべし」〔碧巌録1-4〕の「宗教」も同じ)。
それが明治維新の前後、欧米諸国との接触の過程で、近代ヨーロッパ語のreligionの訳語として採用され、次第に定着するに至った。
religionの方も、中世以降の西洋にはキリスト教以外の宗教はなかったので、キリスト教と同義であったが、植民地への進出の中でそれ以外の類似現象にぶつかり、他の宗教を認めざるを得なくなった。
しかし、日本にこの語が入ってきた19世紀後半は宗教進化論が主流であり、原始宗教から多神教、そして一神教へと宗教が進化すると考えられ、キリスト教をもっとも進化した宗教と認めるのが主流であった。
その影響により、日本の宗教概念においてもキリスト教を典型とするところが強く、仏教などの日本の諸教もキリスト教をモデルとして再構成されることになった。
同時に、信教の自由や政教分離など、近代国家としての法整備も進められた。
また、学問としての宗教学も形成された。

これも間違いではありませんが、「宗教」という言葉は
元々お釈迦様のお言葉が語源にあります。

宗教の語源

まずは「宗教」という言葉が何を意味しているのかですが、
ここにはかなり複雑な事情があり、幅広い意味を持つ言葉となっています。

宗教の語源

宗教」の語源は、仏教辞典にある『華厳五教章けごんごきょうしょう』のさらに元を訪ねると、
楞伽経』の「宗通」と「説通」にあたります。
宗通」というのは、言葉を離れた真理です。
説通」というのは、言葉による教えのことです。
この『楞伽経』のお釈迦様の教えを元に、法蔵ほうぞうが、『華厳五教章けごんごきょうしょう』に宗と教を分けて教えたわけです。

その「宗教」が、1868(明治元)年、アメリカ公使から寄せられた文書を翻訳するために、religionの訳語に使われてしまいました。
ところが、宗教とreligionは全く異なります。

religionの語源

"religion"はどういう語源かというと、2つの説があります。
1つはキケロの"legere"を「集める」と解釈した説と、
もう1つはラクタンティウスの"legere"を「結ぶ」と解釈した説です。
legereが集めるなら、"religion"は「再び集める」ということになり、
儀式のために知識を集めて注意深くなるということです。
legereが結ぶなら、"religion"は「再び結ぶ」ということになり、
神に背いた人間が、イエスの教えによって再び神に結びつけられる、ということになります。

キケロは紀元前の哲学者であるのに対して、ラクタンティウスは3〜4世紀のキリスト教の教父なので、我田引水なのですが、
キリスト教が流行すると、こちらの解釈が優勢になりました。
そして、キリスト教やキリスト教の修道院での生活などを意味するようになります。
このようなキリスト教前提があったので、「宗教改革」でも、キリスト教の改革なのに、宗教改革といわれます。
その上、"religious reformation"とは言わずに"the Reformation"と、religionさえも省略です。
それが、19世紀になると、ヨーロッパが世界に進出して世界中で見つけた神聖とされるもの、それにまつわる儀式や崇拝、信心が見つかってきたので、それらをreligionでくくって、"religious studies(宗教学)"ができてきます。
それでまた"religion"が多様な意味を持ちます。

このように"religion"にも色々な意味の変化がありますが、いずれにせよ、本来は仏教語である「宗教」の「言葉を離れた真理と言葉による教え」という意味と、
"religion"の「儀式を行ったりして神聖なものと再結合する」という意味は、
まったく違うことが分かると思います。
それにもかかわらず、明治時代に"religion"の訳語に「宗教」があてられてしまったために、現在では「宗教」といえば、仏教以外にも、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、ゾロアスター教、道教、神道、自然崇拝その他も、全部「宗教」と呼ばれるようになってしまいました。

そこで、もともと「宗教」は仏教のことでしたが、今日では「宗教」=仏教という理解はされていないので、
神や仏を信じる」という意味での宗教(religion)について説明します。
宗教の成り立ちを理解すると、宗教がなぜ信仰されてきたのか分かりますので、詳しく見ていきましょう。

なぜ宗教が生まれたか

宗教は、もともと人間にはどうにもならないことが起きたとき、
それを説明するために、生まれたものです。

例えば、津波や雷、噴火などは、当時、原因が分からなかったので、
きっとが怒っているのだろうと考えます。
また、病気や日照り、不作も、怒りではないかと言い出す人がいて、
みんなきっとそうだと信じ込みます。
そのため、儀式を行い、への捧げ物をして、
豊作を願ったり、雨ごいをしたり、病気治しを
祈ったり、願ったりするのが、宗教です。

何か大いなる力に祈って、
自分ではどうにもならない欲望を、満たして欲しいということです。

他にも、なぜ地球があるのだろうかとか、
人間はどうやって生まれたのか、
などの疑問も、
が創ったということで、みんな納得していました。
分からない事柄に答えを見出すために、宗教が必要だったのです

宗教は、長い間それでよかったのですが、
17世紀頃、科学が始まってから、少しずつ権威が失われ始めました。

宗教の苦境

それというのも、これまで人間に分からなかったことが、
科学によって解明されてきたからです。

キリスト教では、地球の周りを太陽が回っていると教えていたのですが、
ガリレオ・ガリレイなどが、太陽の周りを地球が回っていると主張し始めました。
(参考:ガリレオ・ガリレイ著『天文対話』)

18世紀になると、ベンジャミン・フランクリンが、
雷は、電気であることを解明しました。

19世紀には、コッホが、病気は細菌が原因になっていることをつきとめ、
ダーウィンは、人間はが創ったのではなく、
別の生物が進化したものだという進化論を提唱します。
(参考:ダーウィン著『種の起源』)

こうして、客観的な観察にもとづく科学や医学の進歩によって、
の力ではない本当の原因が、次々と分かってきたために、
近年、科学と相容れない宗教の権威は低下してきたのです。

科学と宗教について、更に詳しく知りたい方はこちらの記事をお読みください。
科学と宗教(仏教・キリスト教)

ところが、人間がどうしても知りたいことで、
科学や医学がどんなに進歩しても分からないことが、
3つあります。

1.科学や医学がどんなに進歩しても分からないこと

まず第一に幸せ」とは何かが分かりません。

すべての人は、色々なことを目標として生きています。
それは何のためなのか、それは何のためか、と聞いていくと、
最後は「幸せになるため」に行き着きます。

それ以上は出てきませんので、
究極的には、みんな幸せを求めて生きていることになります。

ところが、「幸せ」は、主観的な心の問題ですから、
あることを幸せと感じる人もいれば、
不幸と感じる人もあります。

一方、科学の場合は、客観的に観測できる物質のみを対象としています。
物理学や化学はもちろん、生物学も、生物の心ではなく、物質的な側面を研究しています。
心を扱う心理学となると、途端に科学らしくないイメージになってしまい、統計を使って何とか学問的に論じようとしています。

医学でも、痛みを取り除く上で、主観的な痛みは計測できないので困っています。
同じ刺激で同じ痛みを感じるとは限りませんし、幻肢痛 げんしつうといって、切断してなくなったはずの手足から痛みを感じる人もあります。

このように、心は科学の対象ではなく、「客観的な観察」もできず、手も足も出ません。
幸せは科学で取り扱える領域の外にあるのです。

実際、科学や医学が飛躍的に進歩している現代でも、
幸福感は、昔とまったく変わりません。
よけい苦しくなっているという人もあるほどです。

幸せについては、実は科学の対象外なのです。

さらに、幸せとは何か、そしてたまに一時的に感じる幸せではなく、
変わらない幸せとは何かとなると、心理学や哲学でも解明できていません。
ましてや科学や医学の力はまったく及ばない
のです。

そのため、宗教の役割の一つとして、幸せとは何かを教えることが挙げられます。

2.科学や医学で解決できない重大な問題

2番目に、重大な問題として、
私たちは何のために生まれてきたのか
科学や医学で分かりません。

なぜなら、科学は現実がどうなっているかは分かりますが、
どうあるべきかは分かりません。

たとえば、アインシュタインの相対性理論によって
E=mc2」(物質の質量に、ものすごいエネルギーがある)
ということが分かりました。

ところが、そのことを応用して、
原子爆弾という殺人目的の兵器もつくれますし、
何らかの平和利用もできることでしょう。

しかし、その研究成果を何に使うべきかは、
科学は教えていません。
科学を応用する人の意志に任されています。

このように、科学では、ものごとが「どうあるのか」は分かりますが、
どう使えばいいのか、「どうあるべきか」は分からないのです。

ですからたとえ科学で人生がどんなものかは分かっても、
人生を何に使うべきか、人生の目的は分かりません。

人生の目的が分からなければ、人が生きる意味も分かりません。
ただ生きるために生きて、やがて死んでいくだけの無味乾燥な人生になってしまいます。

医学も同様に、苦痛を緩和し、命を延ばすことはできます。
しかし、延ばした命を何に使うかは教えていません。
ただ少しでも命を延ばすだけでは、味もそっけもない人生になってしまいます。

限りある命を何に使うべきか、
私たちは何のために生まれて来たのかという
人生全体の目的が分からないと、
苦労して生きる意味がなくなってしまいます。

生きる意味は、私たちにとって重要な問題なのですが、
医学や科学では分からないのです。

ですから、宗教の役割というのは生きる意味を与えることにあります。

その意味では、お金を稼ぐために生きているという人は、
お金に人生をかける価値があると考えているわけですから、
自分の宗教を持っているとも言えます。
共産主義に命を捧げる人は、共産主義が生きる意味ですから、宗教のようなものです。
また、ライフワークに価値があると思って人生を捧げる人は、
そのライフワークを命と引き換えにする価値があると信じる宗教を信仰しているようなものです。

科学の進歩によって、天地自然を神と信じてご利益を祈ったり、世界を創造したという神を信じる人は減ってきましたが、科学や医学だけでは虚しい人生になってしまうので、やはり何か生きる意味を与える宗教が必要なのです。

さらに、すべての人が直面する、決定的に重大な問題があります。

3.科学や医学がかすりもしない最悪の現実

最後に、すべての人が直面する人生最大の問題が、死です。
死は、どんな人も、避けることのできない100%確実な未来です。

ところが、不治の病にかかって余命を宣告されるなど、
死に直面すると、普段死を忘れて生きているときと、
人生観がガラリと変わってしまう
のです。

今まで問題だった、
どうしたらお金が儲かるだろうかとか、
人からほめられるか、
ばかにされないか、
愛情に包まれるかということは、
一切が光を失い、もはや関係がなくなります。

お金や財産、地位、名誉、妻子、才能といったものは、
死んだら何もなりませんから、
線香花火のような儚い幸せだったことが
知らされます。

そんなものを必死でかき集めてきた自分の人生は
一体何だったのだろうと疑問が起きて、
目前に迫る死んだらどうなるかだけが大問題となります。

しかし、科学や医学で、死ななくなることもできませんし、
死の問題に対しては、何の力にもならないのです。

これらの「本当の幸福」「人生の目的」「」の3つの問題は、
科学や医学では解決しようがありませんから、
解決できるとすれば、宗教によるしかありません。
これらのために、人類の存続する限り
宗教が必要とされる
のです。

宗教の問題点

このように、人間にとって必要かくべからざるものが宗教であるが故に、その力が悪用されれば、大変な苦しみを引き起こします。
特に2番目の生きる意味を与えるのが宗教だとすれば、それを信じている人は、そのために人生を費やします。
従って、それがとるに足らない変なものであれば、人生を棒にふることになります。

もしその宗教の教祖が、自分の私的な欲望のために信者を使おうとすればそれも可能になります。
それで、苦しみから逃れたいと思って救いを求めている純粋な信者が、その教祖の都合のために、それまで以上の余計な苦しみを味わうことになるわけです。

日本では、宗教法人は税制面で優遇されているため、非常にたくさんの宗教団体があり、それぞれ違う教義を教えています。
日本人は宗教については無知で、特に教えは知らずに信じている人も多くありますが、どれも同じではありません。
全部違います。
幸せ1つとっても、人それぞれ自分が楽しいと思う幸せならいくらでもあるでしょうが、
変わらない本当の幸福がそんなに色々あるものではありません。
本当の生きる目的についても、死の解決についても同じです。
真理となると一つです。

正しい宗教の選び方は、こちらをご覧ください。
宗教の選び方3つの基準(これを満たさないと危険)

この3つの大問題を一度に解決する方法

これらの3つは、実は、それぞれ別々の問題ではなく、実は、根っこは一つです。
それは、人生最悪の問題である、死の大問題です。

幸せについては、必ず死ぬのに、心からの安心も満足もありません。
生きる意味については、必ず死ぬのになぜ生きるのか、
最後は 100%死んで行くのにそれに意味があるのかが問題になります。

どんな人も死は避けられないので、全人類が必ず直面するのが死です。
死ぬときに、一番問題なのは死んだらどうなるかです。

いつ死ぬかは分かりませんから、心は真っ暗です。
死んだらどうなるかハッキリしていないと
今が安心できませんし満足もできません。

実際今晩死ぬとなったら、どういう心になるでしょうか。

仏教を聞くと、その死んだらどうなるかが、ハッキリします。

これは、仏教以外の世界宗教であるキリスト教やイスラム教のように、
人間の考えた、世界を創造したというや、死後の世界を信じるのではありませんから、
信じ方が深まるにつれてだんだんとハッキリするのではありません。
あっという瞬間に、水際だってハッキリします。

そのとき「人間に生まれてよかった
という生命の歓喜が起きて、
死ぬまで変わらない幸福になります。
これは信じるのではなく、体験できることです。

人間に生まれて来たのも
今日まで苦しみながら生きてきたのも、
これ一つだったと
人生の目的も、ハッキリします。

それ以外は何も変わりません。
身体も変わりませんし、趣味生きがいも変わりません。
怒りねたみそねみ煩悩も、
減りもしなければなくなりもしません。
一切変わらないとハッキリします。

このように、仏教の教えによって、
本当の幸せも、
人生の目的も、
死の大問題も、
これら3つが同時に解決する
のです。

それにはどうすればいいのかは、
メール講座と電子書籍にまとめてあります。
ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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