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山伏とは

ストレスで心身ともに疲れた
強いメンタルがほしい
と日常生活を必死に生きている人たちがいます。
そんな日常を打ち破り、心身を研ぎ澄まし、人智を超えた「」を手に入れる方法があると聞けば、みなさんはどう思うでしょうか。

日本には古来より、大自然そのものを師とし、想像を絶する厳しい修行を通して、超人的な能力「験力げんりき」を身につける人々がいます。
それが、山伏やまぶしです。
世間から離れ、険しい山中で過酷な修行に身を投じる彼らは、
何を求め、何を成し遂げようとしているのでしょうか。
今回は、山伏について詳しく解説します。

目次
  1. 「山伏」とは何者?
    1. 山伏の服装は不思議な力を身につけるため
      1. 頭巾
      2. 結袈裟
      3. 錫杖
      4. 念珠
      5. 法螺
  2. 死の淵で生まれ変わる・大峰山断崖絶壁の究極修行
    1. 人間世界との境界線までの12キロ
    2. 第一の試練「鐘掛の行場」・鎖一本で命を預ける恐怖
    3. 第二の試練「西の覗き」・断崖から逆さ吊りにされる究極の恐怖
    4. 第三の試練「蟻の戸渡り」・一歩踏み外せば奈落の底
    5. すべてを超越した者だけが辿り着く境地
    6. 山上本堂での覚醒・秘仏が示す真の自分
  3. なぜ普通の人間が炎の上を素足で歩くのか?
    1. 山中に響く魂を震わせる読経の声
    2. 炎に込められた人間の心を浄化する秘密の力
  4. 「火渡り」で人間の限界を超える時
    1. 炎が人間を受け入れる瞬間
  5. 火渡りの秘訣
    1. 第1段階:水の神仏への祈り
    2. 第2段階:不動明王の真言
    3. 第3段階:智慧の火の発動
  6. 超自然的な力、験力を身につける
    1. 験力がもたらす現代的な10の幸福
      1. あらゆる願いの実現力
      2. 心からの充実感を得る力
      3. 超人的な能力の覚醒
      4. 豊かさを引き寄せる磁力
      5. 病気や不調を癒す力
      6. 理想のライフスタイルを手に入れる力
      7. 社会的地位と影響力
      8. 人間関係の奇跡的改善
      9. 強力な仲間とチームの獲得
      10. 完全なる自由と自在性
  7. 役行者の物語・本当の自分を解放する生き方とは
    1. 自然が教えてくれた「見えない世界の法則」
    2. たった1人に守られた才能
    3. 17歳、"常識"という檻からの脱出
    4. あなたの中の「鬼」と対話する
    5. 天の意志を地上に顕す・聖なる共同創造の光と影
    6. 逆境がもたらす、ゆるぎない精神的自由
    7. 執着からの解放
  8. 山伏の力を科学する
    1. 炭の上を歩く時間
    2. 自然が作り出す完璧な断熱材
    3. 火傷もまた修行の一部
  9. 山伏が行う祈祷で願いが叶わなかった時の言い訳
    1. あなたに問題があったという説明
    2. 神様の深い考えがあるという説明
  10. 山伏による現世利益の限界について
  11. 真実の幸福が教えられた仏教
  12. 関連記事

「山伏」とは何者?

山伏」は、「山臥」とも書きます。
山伏の「」は「山に身を置く」という意味で、山中で修行する人を表しています。
山野に身を置き修行して、超自然的な力を身につけ、人々に現世利益を与える人をいうのです。

現世利益というのは、商売繁盛とか、交通安全とか、人々の求めている幸福を与えることです。 一体、どのような修行をすれば、そのような不思議な力が身につくのでしょうか?

山伏は修行に入る前に、修行専用の服装に着替えます。
これは、単に登山や修行に適した服装ではありません。
どのような服装をしているのでしょうか?

山伏の服装は不思議な力を身につけるため

山伏の服装
山伏の服装

山伏の服装・装束の一つ一つは、自然の中で自己と向き合い、不思議な力を身につけるための服装です。
一見すると山歩きに適した実用的な装いに見えますが、そのすべてに不思議な力があるといいます。
山伏たちの装束の意味を知っただけでも、山伏のパワーを感じ取れます。

代表的なものは、頭巾ときん結袈裟ゆいげさ錫杖しゃくじょう念珠ねんじゅ法螺ほらというものがあります。
それぞれ解説します。


頭巾

頭巾
頭巾

山伏が頭に巻く小さな黒い布を頭巾ときんといいます。
これは、私たちの悩みや苦しみと関係があります。
毎日毎日、何回も「なぜ自分はこんなことで悩んでいるのだろう」と思うことがありませんか?
そのうち何回、その悩みに立ち向かおうとしたでしょうか?

山伏が頭に巻く小さな黒い布・頭巾は、まさにその悩みと向きあい、立ち向かうという意味があります。
この黒い色は、私たちの心を覆う「無明むみょう」という名の心の闇を表現しているのです。
無明とは、真実が見えなくなった状態のこと。
まるで濃い霧の中を歩いているような、不安に満ちた心の状態です。

頭巾に刻まれた12のひだは、私たちを苦しめる「十二因縁」を象徴しています。
これは仏教で説かれる、苦しみが生まれる12の連鎖反応のこと。
簡単に言えば、「なぜ人は悩み続けるのか」のメカニズムそのものです。
山伏は頭巾を身につけることで、「自分の迷いと向き合う覚悟」を宣言しているのです。
闇を隠すのではなく、闇を晴らし、光に変える覚悟で修行を行います。
それが山伏の修行の第一歩なのです。

結袈裟

結袈裟
結袈裟

山伏が肩から斜めにかける装束を、結袈裟ゆいげさといいます。

人生の嵐が吹き荒れる時、あなたは何を支えにしていますか?
また、揺らがないでいられるでしょうか?
まさに結袈裟はその「揺るがない支え」を表しています。

結袈裟は、別名「不動袈裟」と呼ばれます。
それは不動明王の化身としての力を宿しているからです。
不動明王は、その名の通り「動じない」神です。
どれほど激しい困難が襲いかかっても、燃え盛る炎の中にあっても、
その心は微動だにしません。
右手に持つ剣で迷いを断ち切り、左手の縄で人々を救いへと導く、慈悲深き守護神です。

私たちも様々な困難がやって来ますが、心に「動じない核」を持つということが重要になります。
結袈裟を身につけた山伏は、自らがその不動の象徴となり、
周りの人々にも静寂と勇気を与える存在となるのです。

錫杖

錫杖
錫杖

錫杖しゃくじょうとは、6つの輪のついた杖です。
シャラシャラと響く涼やかな音。
錫杖の音色を聞いたことがありますか?
この音には、不思議な力があります。
イライラしていた心が静まり、ザワザワした頭の中が澄み渡る。
まるで清らかな小川のせせらぎのように、心の奥深くまで浸透していく聖なる響きです。
上部についた金属の輪が奏でる音の振動が、私たちの存在そのものに働きかけるからです。
怒りで燃えている心も、不安で震えている魂も、
錫杖の清らかな響きによって本来の静寂を取り戻していくのです。

錫杖は「智杖」とか「徳杖」とも呼ばれ、智慧を形にしたものです。
仏の智慧によって、私たちの心に積もった「煩悩ぼんのうという名の汚れ」を洗い流してくれます。
心を乱すノイズに満ちた日常の中で、本当に大切なものの声に耳を傾ける力を与えてくれる道具と言えるでしょう。

念珠

念珠
念珠

手のひらにおさまる小さな珠の数々。
しかし、その一つひとつに込められた意味の深さは計り知れません。
山伏が用いる「いらたか念珠ねんじゅ」は、一般の家にある念珠とは違い、そろばんの玉のように角張った、平たい形の玉をしています。
この角張った玉同士が擦れ合うことで、独特の音を発します。

念珠の108個の珠は、私たち人間が持つ108の煩悩を表しています。
煩悩とは、心を惑わせ、苦しめる感情や欲望のこと。
怒り、嫉妬執着、恐れ……数え上げればきりがありません。
この念珠を手に取り、珠を一つずつ擦り合わせながら祈ることで、
ネガティブな感情もポジティブなエネルギーへと変えられるのです。

角ばった形状は「智慧の剣」を表します。
智慧の剣は、私たちの煩悩による欲や怒りや愚痴といった日々の悩みを、叩き切るだけではなく、煩悩をそのまま幸福にするという力があり、煩悩即涅槃の教えを表しています。

法螺

法螺
法螺

山の静寂を破って響く、力強い法螺貝の音。
この音色には、単なる楽器を超えた神秘的な力が宿っています。
その深い響きと振動は、目に見えない邪悪なエネルギーを一掃し、周囲の空間を清浄な状態に戻す力があります。

古来より、法螺貝の音は「聖なる境界線」を引く合図でした。
日常の世界から神聖な世界へ、迷いの状態から悟りの状態へ、
古い自分から新しい自分への転換点を告げる号令なのです。
過去の失敗や不安を手放し、新たな可能性に向かって歩み始める瞬間。
法螺貝の音は、そんな人生の転機を力強く後押ししてくれる響きなのです。

このように無敵とも思えるような装束を纏った山伏は、不思議な力をもとめて、厳しい修行を行います。
その修行の一端を見てみましょう。

死の淵で生まれ変わる・大峰山断崖絶壁の究極修行

現代社会を生きる私たちが抱える「心の弱さ」「逃げ癖」「本当の自分への不信」、
このような悩みをすべて粉砕し、鋼のメンタルと揺るがない自信を手に入れる究極の試練。
それが、千年以上続く大峰山の断崖絶壁修行です。

人間世界との境界線までの12キロ

朝5時、洞川の宿坊に響く鐘の音。
修行者たちの表情は、これから待ち受ける試練への恐怖と決意で引き締まっています。
足音だけが静寂を破る中、一行は標高差800メートルの急峻な山道へと向かいます。
本当に生きて帰れるのだろうか……
誰もがそう思いながら、後戻りのできない12キロの道のりを歩み始めるのです。

3時間後、息も絶え絶えになった修行者たちが到着するのは、洞辻茶屋。
ここが最後の「人間世界」との境界線です。
真の試練がここから始まるのです。

第一の試練「鐘掛の行場」・鎖一本で命を預ける恐怖

足元を見下ろすと、谷底まで数百メートル。
垂直に切り立った岩壁に張られているのは、たった一本の鎖。
その鎖だけが、修行者の生死を分ける唯一の命綱です。
ガシャン、ガシャン……
鎖を掴む手が震え、金属音が山に響きます。
一歩間違えば即死。
そんな状況で、修行者は一歩ずつ、ゆっくりと岩壁を登っていきます。
怖い……怖すぎる……
心の中で何度もそう叫びながら、それでも登り続けなければならない。
なぜなら、後戻りはもうできないからです。

20分間の地獄のような登攀を終えた時、修行者の心に芽生えるのは、
言いようのない達成感と自信です。
自分はこんなに強かったのか……
しかし、これはまだ序の口。
真の恐怖は、次に待っているのです。

第二の試練「西の覗き」・断崖から逆さ吊りにされる究極の恐怖

覚悟はいいか?
山伏の厳しい声が響く中、修行者は断崖絶壁の端に立たされます。
足元は何も見えない深い谷底。
風が吹き抜け、体が宙に浮きそうになります。
そして次の瞬間...
ガクン!
修行者は足首を掴まれ、断崖から逆さまに吊り下げられるのです。
頭に血が上り、視界が真っ赤に染まります。
心拍数は限界まで跳ね上がり、「死ぬかもしれない」という恐怖が全身を支配します。

その時、山伏の声が聞こえてきます。
今まで犯した罪をすべて懺悔せよ!両親への感謝を心から叫べ!
死の恐怖の中で、修行者は人生で初めて「本音」を叫びます。
嘘も建前もない、魂の底からの言葉を。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも必死に叫び続ける。
そこには、もはや社会的地位も年収も関係ありません。
一人の人間として、生きていることの尊さを心の底から実感する瞬間なのです。

第三の試練「蟻の戸渡り」・一歩踏み外せば奈落の底

西の覗き」を乗り越えた修行者を待っているのは、幅わずか30センチの岩の隙間。
その名も「蟻の戸渡り」。
左右は切り立った崖、下は見えない深淵。
蟻のように這いつくばりながら、この狭い岩の上を渡らなければなりません。
一歩一歩、慎重に、慎重に……
バランスを崩せば即座に転落。

しかし、恐怖で立ち止まることはもうありません。
先ほどの「西の覗き」で、修行者の心は既に変わっているからです。
もう怖いものなど何もない
そんな境地で、修行者は蟻の戸渡りを見事に完了します。

すべてを超越した者だけが辿り着く境地

そのあとも険しい岩場を次々と越えていく「飛石」と「平等岩」といった試練が続きます。
しかし、ここまで来た修行者にとって、もはやこれらの岩場は障害ではありません。
むしろ、自分の成長を確認する「踏み台」に変わっています。
恐怖を乗り越えた者には、恐怖など存在しないのです。
朝、震え上がっていた同じ人物が、今は岩から岩へと軽やかに飛び移っています。
その姿は、まさに生まれ変わった新しい自分そのものなのです。

山上本堂での覚醒・秘仏が示す真の自分

すべての試練を終えた修行者が最後に辿り着くのは、山上本堂。
そこで拝む秘仏・役行者えんのぎょうじゃ像は、修行者にとって特別な意味を持ちます。
それは「困難を乗り越えた者だけが見ることを許される、自分自身の姿」だからです。
多くの修行者がこの瞬間、滂沱の涙を流します。
自分はこんなに強かったのか……
こんなに美しい心を持っていたのか……
朝の自分と、今の自分。
まるで別人のような変化に、修行者は心の底から感動するといいます。

修行はこれだけにとどまりません。
山伏たちは、他にも激しい修行を行い、自分自身を極限まで追い込みます。
もう一つ有名な激しい修行を紹介するなら、火渡りがあります。

なぜ普通の人間が炎の上を素足で歩くのか?

毎年、奈良県の山奥で行われる「火渡り修行」。
そこには、常識では考えられない光景が広がっています。
真っ赤に燃える炭火の絨毯を、何十人もの修行者が次々と素足で歩いて行く。
誰も叫ばない。
誰も走らない。
まるで涼しい芝生の上を散歩するかのように、静かに、ゆっくりと……
普通に生きていたら、火の上を歩くなんて考えられません。
一体、彼らはなぜ火の上を歩けるのでしょうか?

山中に響く魂を震わせる読経の声

静寂を破って響くのは、山伏たちの低く重い読経の声。
その声は、まるで大地の底から湧き上がってくるような、神秘的な響きを持っています。

護摩行
護摩行

目の前では、オレンジ色の光がゆらめき始めます。
護摩壇と呼ばれる火床に組まれた丸太が、勢いよく燃え始めたのです。

パチパチと弾ける火の粉が舞い上がり、炎は天に向かって激しく踊り狂います。
護摩壇の中には、護摩木ごまぎという祈願するための薪を投じることで、修行者の心の中にある、欲望や執着など、人々を苦しませる煩悩を焼き払うのです。

その炎の前に立つ山伏たちの顔は、まるで別世界の住人のように神々しく輝いて見えます。
これが「護摩行」。
山伏修行の中でも最も神聖で、最も危険な儀式の始まりです。

炎に込められた人間の心を浄化する秘密の力

なぜ山伏は、これほどまでに「」にこだわるのでしょうか?
その答えは、火が持つ「完全なる浄化の力」にあります。
火は、触れたものすべてを原子レベルまで分解し、純粋な状態に戻す力を持っています。

護摩壇の炎の中に投じられる護摩木、それは私たちの心の中にある「不要なもの」の象徴です。
恐怖、怒り、執着、迷い、弱さ……
炎がそれらを一つ残らず焼き尽くし、純粋で強靭な精神だけが残る。
それが護摩行の真の目的なのです。

山伏たちの読経が次第に激しくなり、炎もますます勢いを増していきます。
見ているだけで、心の奥底から何かが湧き上がってくるような、不思議な感覚に包まれます。
しかし、これはまだ序章に過ぎませんでした。

「火渡り」で人間の限界を超える時

炎が最高潮に達した時、ついにその時がやってきます。
山伏の長老が立ち上がり、厳かに宣言します。
火渡りを行う
その瞬間、会場の空気が一変します。
それまで読経していた山伏たちも、見学している人々も、全員が息をのんで見守ります。
これから起こることは、人間の常識を完全に覆す光景だからです。

護摩壇の炎が少し落ち着くと、そこに現れるのは真っ赤に燃える炭火の絨毯。
温度は約100度を超えます。
普通なら、0.1秒触れただけで火傷を負いそうです。
最初の山伏が、ゆっくりと炭火に足を踏み出しました。

炎が人間を受け入れる瞬間

ジュー」という音が聞こえることはありません。
悲鳴が上がることもありません。
山伏は、まるで何でもないかのように、一歩、また一歩と炭火の上を歩いて行きます。
その表情は穏やかで、まるで庭を散歩しているかのよう。
次の修行者も、そのまた次の修行者も、まるで不動明王のように動じることなく、全員が無事に火渡りを完了したのです。
見学していた人々の中から、思わずどよめきが起こりました。
一体、彼らはなぜ渡り切ることができるのでしょうか。

火渡りの秘訣

火の上を渡り切る秘密は、修行者が行う特殊な精神統一法にありました。
それには次の3段階の修行があるといいます。

第1段階:水の神仏への祈り

修行者は、まず心の中に清らかな水を思い浮かべます。
その水が全身を巡り、体温を下げ、心を冷静にします。

第2段階:不動明王の真言

次に、不動明王の特別な真言(呪文)を唱えます。
この真言により、修行者の意識は日常の自分を離れ、不動明王と一体化していきます。

第3段階:智慧の火の発動

そして最後に、不動明王の持つ「智慧の火」の力を自分の中に呼び起こします。
この「内なる火」が、外側の物理的な火を制御するのです。

火渡りを行う山伏たちは、生まれながらの超能力者ではありません。
彼らも、最初は私たちと同じ普通の人間でした。
違いは一つだけ。
彼らは「限界を超える方法」を知り、それを実践したのです。

これらの修行によって、山伏は、人々を幸福にさせる力、験力げんりきを手に入れるといいます。
験力とはどのような力なのでしょうか?

超自然的な力、験力を身につける

人間なら誰しも「人間の真の力」に憧れてきました。
通常の努力では到達できない領域」への憧れです。
限界を超えた集中力、直感的な判断能力、他人を癒し影響を与える力、運命をも予測し変えていける力。
現代社会で真の成功をおさめる人々は、皆この「目に見えない力」の重要性を知っています。

そしてその力こそが、山伏たちが命がけの修行で身につけてきた「験力」です。
山を駆け巡り、滝に打たれ、断食を行うなど、非常に厳しい修験道しゅげんどうの修行をすると「験力」という不思議な力が得られるというのです。
なぜ験力を手に入れられるのでしょうか?

それは、心身を極限まで鍛え抜くことで、「不動明王」と一体になるからです。

そもそも不動明王には、私たちを幸福にする力があるといわれます。
その不動明王の功徳について、密教経典である『不動使者陀羅尼秘密法』 という儀式や作法を表した儀軌ぎきには、10の力が記されています。

験力がもたらす現代的な10の幸福

不動明王の功徳の原文は難しいので、分かりやすく現代風に解釈すると次のような力です。

1. あらゆる願いの実現力

世間の事が満願する」といい、ビジネスの成功、理想のパートナーとの出会い、夢の実現など、人生のあらゆる願いが次々と叶っていく力です。

2. 心からの充実感を得る力

心中所愛の福田が満願する」といい、単なる成功を超えた、魂レベルでの満足と幸福感を手に入れる力です。

3. 超人的な能力の覚醒

神通力をうる」といい、常識では考えられない集中力、記憶力、判断力、直感力を発揮する能力です。

4. 豊かさを引き寄せる磁力

宝を得、福を得る」といわれ、お金、チャンス、人脈など、人生に必要なあらゆる豊かさが自然と集まってくる力です。

5. 病気や不調を癒す力

病気治癒」といい、自分だけでなく、家族や周囲の人々の心身の不調を改善する治癒能力のことです。

6. 理想のライフスタイルを手に入れる力

衣服を得る」といい、服装、住まい、車など、理想のライフスタイルを思いのままに実現する力が身につきます。

7. 社会的地位と影響力

高い官位を得る」といい、昇進、昇格、業界での地位向上など、社会的成功を加速させる力が得られます。

8. 人間関係の奇跡的改善

人の愛を得る」といい、恋愛、夫婦関係、友人関係、職場の人間関係が劇的に改善する力を手に入れます。

9. 強力な仲間とチームの獲得

多くの仲間・部下を得る」といい、信頼できる仲間、優秀な部下、強力なビジネスパートナーを引き寄せる力があります。

10. 完全なる自由と自在性

富貴自在を得る」といい、時間的、経済的、精神的な完全な自由を手に入れ、人生を思いのままにコントロールする力を使えるようになります。

このような不動明王の力を得た山伏は、人々がこれからどうなるのか、
幸せになれるのか、不幸になるのか、
運が良くなるのか悪くなるのか、判断し、
人々の生活に重要な判断の指針を与えました。
このような力を得た最初の山伏が、役行者えんのぎょうじゃといわれます。
役行者とはどのような人でしょうか。

役行者の物語・本当の自分を解放する生き方とは

自分は、どこか周りの人たちと違うのかもしれない
この社会の“普通”に、息苦しさを感じることがある
もしあなたが、心のどこかでそう感じたことがあるなら、
それはあなたの魂が「本来の道」を歩もうとしている大切なサインです。

今から1400年前の日本に実在した伝説の修験者「役行者えんのぎょうじゃ」の物語をお届けします。
彼の人生は、単なる偉人伝ではありません。
社会の常識という檻を壊し、自分自身の内なる声だけを頼りに、魂の力を解放していった一人の人間の「魂の旅路」そのものでした。

自然が教えてくれた「見えない世界の法則」

西暦634年、飛鳥時代。
大和国、葛城山の麓に生まれた少年、役小角えんのおづぬ
他の子どもたちが里で遊ぶ声が遠くに聞こえる中、彼の心はいつも、深く静かな山の奥へと向かっていました。
彼にとって、険しい崖は乗り越えるべき壁ではなく、不動の精神を教えてくれる師。
ごうごうと流れる滝は、心を洗い清めてくれる聖なる儀式。
木々のささやきや動物たちの息づかいは、この世界を動かす「見えない法則」を伝える言葉でした。

たった1人に守られた才能

他の子どもたちが木の実を集めて遊んでいる頃、わずか3歳の少年、小角おづぬは、誰に教わるでもなく、土で仏の像をこね、地面に神聖な文字を描いていました。
また小角が、不思議なことをしているよ
村人たちは、彼のユニークな個性を「変わった子」の一言で片付けたかもしれません。
しかし、彼の母親だけは違いました。
彼女は息子の奇妙にも見える行動を咎めず、その瞳の奥に宿る特別な輝きを信じ、静かに見守りました。
役行者の才能は、まず「自分を信じてくれるたった一人の存在」によって守られたのです。

17歳、"常識"という檻からの脱出

多くの若者が未来に迷う17歳の春。
小角は、魂の衝動に従うという、人生を賭けた決断をします。
私は、誰も見たことのない境地へ行く
彼は安定した暮らしや人との繋がりを後に、一人、葛城の険しい山へと入っていきました。
それは、現代に生きる私たちが、安定した職やキャリアを捨て、魂が本当に望む道へと一歩踏み出す勇気にも似ています。
そこから始まったのは、常識では測れない「魂の力を取り戻す儀式」でした。

骨まで凍える冬の滝に打たれ、肉体の感覚が消え、意識だけが研ぎ澄まされていく。
水以外を口にしない断食によって、感覚は鋭敏になり、世界のエネルギーを肌で感じるようになる。
完全な静寂と孤独の中で、彼は外側の世界ではなく、
自分自身の「内なる宇宙」へと深く深く潜っていったのです。
彼にとってそれは苦行ではなく、肉体という器の限界を超え、魂が持つ本来の力を解放していく道のりでした。

あなたの中の「鬼」と対話する

修行を経て、小角は人々の傷を癒し、未来を予見する不思議な力を開花させていきます。
そのが広まる中、彼の人生を象徴する出来事が起こります。
生駒山に、人々を苦しめる「前鬼ぜんき後鬼ごき」という夫婦のがいました。
誰もが恐怖で近づかないその存在に、小角は一人、静かに対峙します。
彼は、力で鬼をねじ伏せようとはしませんでした。
ただ、その瞳の奥にある、深い悲しみと苦しみを見つめ、語りかけました。
お前たちの本当の願いは、人を傷つけることではないはずだ

」とは、社会から疎外され、自分の居場所を見失った人々の姿だったのかもしれません。
あるいは、私たち自身の心の中に潜む、怒り、嫉妬、弱さといった目を逸らしたくなるような心の象徴だったのかもしれません。
小角は、恐怖で支配するのではなく、深いレベルの「共感」と「理解」によって、
彼らの魂の奥底に眠っていた善性や光を呼び覚ましたのです。
ひざまずいた鬼たちは、最も忠実な仲間として生まれ変わりました。

真の強さとは、敵を打ち負かすことではありません。
敵対する存在すらも愛し、理解し、自分の一部として統合していく力のことなのです。

天の意志を地上に顕す・聖なる共同創造の光と影

内なる鬼をも味方につけた役行者の意識は、さらに拡大していきます。
彼が次に描いたのは、人間の想像を遥かに超えた、壮大なビジョンでした。
葛城山と金峯山きんぷせんの間に、石の橋を架ける
それは、単なる建造物ではありません。
天と地、神々と人々を繋ぐ、巨大なエネルギーの通り道を創り上げるという、聖なる共同創造プロジェクトでした。
彼はその実現のために、人間だけでなく、日本全国の神々、
すなわち、目には見えない自然界の高次の存在たちを召集します。

しかし、偉大な目的には、必ず試練が伴います。
参加した神の一柱、「一言主神ひとことぬしのかみ」が、協力を渋ったのです。
私は自分の姿が醜いから、太陽の下では働きたくない
彼は自らの神聖さを受け入れられず、劣等感という闇にとらわれ、夜にしか働こうとしませんでした。

全体の調和と計画の遂行を第一に考える役行者は、言い訳を続ける彼に、非情とも思える決断を下します。
彼は神聖な呪術によって一言主神を縛りつけ、動けなくしてしまったのです。

それは、魂が持つ本来の輝きを思い出させるための、荒療治的な「愛の鞭」だったのかもしれません。
しかし、エゴを傷つけられた一言主神は激怒し、朝廷にこう讒言ざんげんしました。
役行者は、国家を転覆させようと企んでいる!」と。

強すぎる光は、時に他者の闇を刺激し、思わぬ反発を招きます。
役行者の純粋なまでの情熱と、妥協を知らない強い意志が、
皮肉にも彼自身を最大の試練へと導いていくことになるのです。

逆境がもたらす、ゆるぎない精神的自由

一言主神の讒言をきっかけに、小角の絶大な影響力を危険視した朝廷は、
妖術で人々を惑わした」という無実の罪で彼を捕らえ、絶海の孤島・伊豆大島へと流してしまいます。
それは、社会的な死刑宣告にも等しい、絶望的な状況でした。
しかし、ここからが彼の真骨頂でした。
昼間は、監視の目で大人しく過ごす一人の罪人。
ですが夜になり、すべての者が眠りにつくと、彼の魂は自由な翼を広げました。
伝説では、彼は海を歩き、霊峰富士で修行を続けたと伝えられます。

これは、物理的な事実を超えた、深遠な真実を私たちに語りかけます。
どんな牢獄も、目覚めた魂の自由を縛ることはできない
あなたが今直面している困難や逆境は、魂のステージが上がる前に必ず訪れる「最終試験」なのかもしれません。
その試練は、あなたから何かを奪うためではなく、
あなたに「ゆるぎない精神的自由」を与えるために現れているのです。

執着からの解放

やがて罪を赦された小角は、もはや以前の彼ではありませんでした。
流罪という究極の試練を経て、彼は怒り、悲しみ、社会的な評価といった、
人間的なあらゆる執着から解放されていくのでした。
伝説が描く最後には、
故郷の山に戻った彼は、愛する母を伴い、五色の雲に乗って天へと還っていった
とあります。

役行者の物語は、遠い昔の特別な誰かの話ではありません。
それは、私たち一人ひとりの中に眠っている「無限の可能性」を思い出させてくれる、壮大な物語です。
このような役行者を開祖とする、山伏の精神が永遠と現代にも受け継がれているのです。

では、役行者のような伝説的な力は、現代を生きる山伏たちにどのように受け継がれているのでしょうか?
彼らもまた、超常的な力だけで燃え盛る炎を渡り、断崖絶壁を乗り越えているのでしょうか。
ここからは少し現代の科学的な視点で解読してみましょう。

山伏の力を科学する

たとえば激しい修行の一つである、火渡りについてです。
火渡りで火傷をしない理由は、一般的には「神仏の守護」や「信心の強さ」が強調され、不思議と大火傷に至ることは少ないですが、物理的な理由も存在します。

炭の上を歩く時間

人間の皮膚が火傷を負うには、高温との接触時間が重要な要素となります。
1000度の熱でも、接触時間が極端に短ければ、熱は皮膚の深部まで到達できません。
火渡りでは、歩いても3秒から5秒くらいです。
短い時間しか歩かなければ、熱が皮膚を焼くことなく、火傷をすることもかなり少なくなります。

自然が作り出す完璧な断熱材

また、火渡りの際には、燃え盛る炎ではなく「灰に覆われた熾火おきび」を歩いています。
この灰層は、天然の断熱材として機能します。
そのため極端に高温の箇所を歩かなくて済むのです。

火傷もまた修行の一部

実際には、軽い火傷を負う修行者も少なくありません。
しかし、これを「失敗」と考えるのは誤解です。
山伏にとって火傷は「不動明王の炎が煩悩を焼き尽くした証」として、むしろ歓迎されるものでした。
つまり、山伏は「痛み」さえも「成長の証」に変える心の技術を持っていたということです。
火傷のリスクを乗り越えて渡りきること自体が、強い精神力と信仰心の表れなのです。

しかし、このような強い精神力を兼ね備えた山伏にお祈りをお願いしても、時には願いが叶わないこともあります。
そんな時、昔から次のような説明がされてきました。

山伏が行う祈祷で願いが叶わなかった時の言い訳

山伏が行う祈祷護摩行をしてもらったのに、願い事が叶わなかった時、山伏側はどのような説明をするのでしょうか。
大きく分けて2つのパターンがあります。

1. あなたに問題があったという説明

  1. 祈る気持ちが足りなかった
    本当に心から神様にお願いしていなかったから、神様に気持ちが届かなかった」と言われます。
    でも、それなら山伏にお金を払ってお願いする意味がないのでは、という疑問はあります。
  2. 普段の行いが悪かった
    日頃から良いことをしていない」とか「修行が足りない」から、神様からの恵みを受け取る準備ができていなかったと説明されます。
    それなら最初から山伏に頼まず、自分で善い行いをしていた方が良かったという後悔が残ります。
  3. これまでの悪行が多すぎた
    今まで悪いことをし過ぎたので、一回の祈祷では悪いことを取り除けなかった」という理由です。
    結局は自分の責任ということになってしまうので、早めに自分の行動を反省したほうがいいのかもしれません。

2. 神様の深い考えがあるという説明

  1. タイミングが悪い
    神様はあなたにとって最適な時に願いを叶えようとしている。今はまだその時ではない」と言われます。
    でも私たちは今すぐ幸せになりたいのに、神様の都合で決められるのは納得できません。
  2. 試練として与えられた
    願いが叶わないこと自体が、あなたを成長させるために神様が与えた試練」とも言われます。
    これも納得がいかず、本当は叶える力がないのでは、と疑ってしまいます。
  3. 見えないところで守られている
    願いは叶わなかったけれど、もっと悪いことが起こるはずだったのを神様が防いでくれた」と言われることもあります。
    これも結局、願いを叶える力がなかっただけかもしれません。

そして、山伏から護摩行などを受けてみると、気づくことがあります。

山伏による現世利益の限界について

山伏の験力が私たちにもたらす現世利益について、その本質を深く見つめ直してみましょう。
確かに私たちは人生の荒波の中で、病気や経済的困窮、人間関係の悩みといった避けがたい試練に直面します。
そんな時、神仏の加護や山伏の祈祷に最後の希望を託すのは、人として自然な心の動きでしょう。
そして時として、その願いは現実のものとなります。
長患いの病が癒され、商売が繁盛し、良縁に恵まれる。
こうした目に見える恩恵を受けた瞬間、私たちの心は確かに深い喜びと安堵に包まれます。

しかし、ここで立ち止まって考えてみなければならないことがあります。
この温かな安堵感は、果たして永続的な幸せと呼べるものなのでしょうか。

重い病が治った時の感謝の気持ちは、言葉では表現しきれないほど深いものです。
けれども冷静に考えてみると、人間である限り
再び別の病に襲われる可能性は常に存在し、
老化という自然の摂理からも逃れることはできません。
一つの病気が治っても、今度は別の健康への不安が心の奥底から静かに湧き上がってくる。
どこまでいっても、この不安の根は完全には断ち切れないのです。

経済的な豊かさについても同じことが言えます。
お金持ちになりたい」という切実な願いが叶い、経済的不安から解放されたとしても、
今度は手に入れた富を失う恐怖が新たな苦悩として立ち現れます。
お金目当てに近づく人々への不信感、そして何より、
より多くを求めずにはいられない心の渇きが、
以前にも増して激しく燃え上がるのです。

満足という言葉は遠い彼方へ消え去り、欲望は終わりなく私たちの心を渇かし続けます。 お金は確かに生活の多くの問題を解決する有効な手段ではあっても、
心の平穏や真の幸福そのものを保証してくれる目的にはなり得ません。
どれほど豊かになっても、心の奥底にある根本的な不安や空虚感は消えることがないのです。

待望の子どもを授かった喜びでさえ、その子の成長とともに
新しい心配事へと姿を変えていきます。
進学、就職、将来への漠然とした不安。
愛する家族や友人がいても、いつか必ず訪れる別れの苦しみからは逃れられません。

そして、仮に生まれてから人生のすべてが順調に進んでいたとしても、
最後には死によってすべての幸福が崩れ去ってしまうのです。
つまり、現世利益ばかりを追い求める人生は、常に不安と隣り合わせであり、
最終的には必ず苦しみに直面せざるを得ないという現実があります。

では、私たちが本当に求めるべき真実の幸せはどこにあるのでしょうか。

真実の幸福が教えられた仏教

今から約2600年前、お釈迦様の説かれた仏教は、
この根本的な問いに明確な答えを示しています。
仏教の目的は「抜苦与楽ばっくよらく」、
つまり、苦しみの根本原因を完全に取り除き、
すべての人に真の幸福をもたらすことです。

この幸福は、老いによっても、病によっても、
死によってさえも決して妨げられることのない、
絶対的で永続的な幸せです。
しかも山伏のような厳しい修行を必要とせず、
どんな人でもこの幸福に到達できると教えられています。

お釈迦様が本当に伝えたかった変わらない幸せとはどんなものなのか、
そして、どうすればその境地に達することができるのか。

この仏教の真髄について、より詳しい内容を、メール講座と電子書籍にまとめました。
真の安らぎを求める皆様に、ぜひお受け取りいただければと思います。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。