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自力と他力の違い

仏教には、自力の仏教と、他力の仏教があります。
小乗仏教は、全部自力ですが、
大乗仏教は、自力と他力があります。

では自力の仏教と他力の仏教は、一体どう違うのでしょうか?

自力の世間の意味

世間では自力というと、
テレビゲームで攻略本を使わずにクリアしたときに
自力でクリアした」と言ったり、
雪山で遭難したときなどに「自力で脱出した」と言ったりします。
また、テレビでも
他力本願ではなく、自力更生でなければならない
などのように、
自分の力のことを自力といわれます。

ところが仏教で「自力」というのは、
単に自分の力ということではありません。
仏教では「自力」はどのような意味なのでしょうか?

自力の語源

現在仏教で使われる意味で
自力とか他力という言葉を初めて使われたのは、
中国の曇鸞大師どんらんだいしです。
主著の『浄土論註じょうどろんちゅう』に、自力をこのように譬喩で教えられています。

ある人が、地獄餓鬼畜生の三悪道の苦しみを恐れて、戒律を守るとします。
戒律を守ることによって心を一つにする禅定ぜんじょうを修めます。
禅定を修めることによって神通力をならいます。
神通力を習得して初めて世界中を意のままに遊ぶことができます。
このようなものを自力といいます。

原文はこうなっています。

まさにまた例をひきて、自力他力の相をしめすべし。
ひと三途をおそるるがゆえに禁戒を受持す。
禁戒を受持するがゆえによく禅定を修す。
禅定を修するをもてのゆえに、神通を修習す。
神通をもてのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。
かくの如きらを名けて自力とす。

(漢文:當復引例示自力他力相 如人畏三塗故受持禁戒 受持禁戒故能修禪定 以禪定故修習神通 以神通故能遊四天下 如是等名爲自力)

つまり、仏教で自力とは、
自分の力で幸せになろうとしたり、
自分の力で苦しみから離れようとすること
です。

世間の自力は、自分の力全般を自力といいますが、
仏教では、自分の力で救いを求めることですから、
仏教で自力を離れた人でも、
善い行いをしなくなるとか、自分で歩けなくなるというわけではありません。

ここは世間で使われる意味と大きく違いますから気をつけないと、
仏教は分からなくなってしまいます。

では自力の仏教とはどんな仏教でしょうか?

自力の仏教とは?

自力の仏教というのは、
山にこもって滝に打たれたり、
座禅や瞑想をしたり、自らの修行によって、
心をコントロールして、さとりを目指す教えです。

これはどんな宗派かというと、
日本で浄土宗を開かれた法然上人は、
漢語燈録』にこのように分けられています。

聖道門しょうどうもんとは即ち難行道なんぎょうどうなり、これ自力なるをもっての故なり。
浄土門じょうどもんとはすなわち易行道いぎょうどうなり、これ他力なるもっての故なり。

(漢文:聖道門者即難行道也 以是自力故 淨土門者即易行道也 以是他力故)

聖道門しょうどうもん」というのが自力の仏教のことで、
わかりやすく具体的にいえば、
華厳宗けごんしゅう法相宗ほっそうしゅう天台宗真言宗禅宗のことです。

これらの宗派は、「難行道なんぎょうどう」といわれているように、
行ずるのが難しい道です。
実際、出家は必須で、戒律を守り、
厳しい修行をしなければなりません。

このような難しい道ですから、曇鸞大師は、
難行道について『浄土論註』にこう教えられています。

ただこれ自力にして他力のたもつなし。(中略)
たとえば陸路の歩行はすわはち苦きがごとし。

(漢文:唯是自力無他力持(中略)譬如陸路歩行則苦)

目的地に向かうのに、歩いて行くようなもので、
苦しい道のりになる、ということです。

自力の仏教で悟りは開ける?

では自力の仏教は現代でも悟りが開けるのでしょうか?

お釈迦さまの預言

この自力の仏教について、お釈迦さまは『大集経だいじゅうきょう』などの多くのお経に驚くべき予言をされています。
大集経』にはこのように説かれています。

仏滅度の後、第一の五百年には、我が諸々の弟子を学ぶこと堅固けんごなることを得ん。
第二の五百年には、じょうを学ぶこと堅固けんごなることを得ん。
第三の五百年には、多聞読誦たもんどくじゅを学ぶこと堅固けんごなることを得ん。
第四の五百年には、塔寺とうじを造立し福を修し、懺悔さんげすること 堅固けんごなることを得ん。
第五の五百年には、白法隠滞びゃくほうおんたいして、多く諍訟じょうじゅ あり、
すこしく善法ありて堅固けんごなることを得ん。

(漢文:於我滅後五百年中 諸比丘等猶於我法解脱堅固 次五百年我之正法禪定三昧得住堅固 次五百年讀誦多聞得住堅固 次五百年於我法中多造塔寺得住堅固 次五百年於我法中鬪諍言頌白法隱沒損減堅固)

これは、お釈迦さまが亡くなってから、自力の仏教がどのように衰退していくかを500年ごとに予言されているのです。
お釈迦さまが亡くなって第一の500年間は、お釈迦さまの教えを奉ずる弟子達は、一般にさとりを得るに大切な智慧を学んで堅固にそれを得るであろうといわれています。
これは最もよい時代です。

次に第二の500年間は、智慧を得るための方便である「」を学んで、堅固にそれを得るであろう。
その次の第三の500年間は、多く学び聞いて、経典を読誦することが堅固であろう。
第四の500年間は、慧、定、多聞の人もいなくなり、ただ道徳的な善根功徳を積み、罪障を懺悔することが堅固に行われるであろう。
第五の500年間ともなれば、世間中が大変堕落して、道を修めることが沈滞し、ただ訴え争うことばかりが多くなって、ほんのかすかな善法だけが残るであろうと説かれています。

お釈迦さまが亡くなって最初の500年は、修行をして悟りを開く人もありますが、次の1000年は、修行をする人はあっても悟りを開く人はなくなります。
1500年以上経つと、教えはあっても、その通りに修行する人さえもなくなるだろう、ということです。

お釈迦さま亡くなって1500年間の経緯

この自力の仏教を修行する人がなくなっていく1500年間のありさまを『大術経だいじゅつきょう』にはもっと詳しく教えられています。

涅槃ねはんの後のはじめの五百年には、大迦葉だいかしょう 等の七賢聖僧、次第に住持して正法しょうぼう滅せず。五百年の後、正法滅尽しょうぼうめつじんせん。
六百年に至りて、九十五種の外道競い起る、馬鳴めみょう世に出でて諸々の外道を伏せん。
七百年の中に、龍樹りゅうじゅ世に出でて邪見の幢を摧かん。
八百年において、比丘縦逸にして、僅かに一二の道果を得るものあらん。
九百年に至りて、奴を比丘となし婢を尼とせん。
一千年の中に、不浄観ふじょうかんを聞くに瞋恚しんいして欲せざらん。
一千百年に、僧尼嫁娶し、毘尼を毀謗きぼうせん。
千二百年に、諸々の僧尼等、ともに子息あらん。
千三百年に、袈娑変じて白からん。
千四百年に、四部の弟子、みな猟師の如く三宝物を売らん。
千五百年に拘睒弥国に二の僧あり、互に是非を起して遂に相殺害せん、よりて教法龍宮におさまらん。

『大術経』は『摩訶摩耶経』ともいいます。
お釈迦さまが亡くなってから最初の500年間は、大迦葉だいかしょう阿難等の七賢聖が引き続いて正法しょうぼうを宣伝して滅することはないが、500年後には正法は滅尽するであろう。
仏滅後600年に至ると九十五種の外道邪教が競い起きるが、この時は馬鳴菩薩めみょうぼさつがあらわれて、これら諸々の外道の説を打破するであろう。
仏滅後700年になると龍樹菩薩りゅうじゅぼさつが世に出でて、邪見の幢を打ちくだいて大法を宣布するであろう。
仏滅後800年には色々な修道の僧侶達は勝手気ままな生活をなして、ほんの1、2人が悟りを得るに過ぎない。
仏滅後900年に至ると下僕を僧となし、下女を尼として、在家の者は、これらの僧尼を軽んずるようになるであろう。
1000年も経つと、もし人々が不浄観を聞いたら自分達の五欲の楽しみを減らされるといって怒りの心を起こし、聞くことを嫌がるであろう。
1100年には、僧も尼も在家の人々と同じように結婚するようになり、かえってお釈迦さまの戒律をそしるであろう。
1200年にはあらゆる天下の僧侶も尼も一様に子供を持つであろう。
1300年には壊爛色の袈裟が在家の服装と同じように純白な色となるであろう。
1400年には出家の僧侶、尼、在家の男女の四通りの仏弟子はみな猟師のように殺生をして三宝の供養物を売却するであろう。
1500年には拘睒弥国に二人の僧があって互いに是非の争いを起こし、ついに殺し合いに発展する。
このために如来の教法は龍宮にかくれてしまうであろう。

お釈迦さまが亡くなった後の時代区分

この最初の500年を正法しょうぼうといい、次の1000年を像法ぞうぼう、次の10000年を末法まっぽうといいます。
正法の時代には、教えもあり、教えの通り修行する人もあり、さとりを開く人もあります。
像法の時代には、教えもあり、教えの通りに行ずる人もありますが、さとりを開く人がなくなります。
末法の時代になると、教えはありますが、行ずる人も、さとりを開く人もなくなります。さらにその後を法滅といって、教えもなくなると説かれています。
表にするとこうなります。

時代 時期 きょう ぎょう しょう
正法 仏滅後5百年
像法 正法後1千年
末法 像法後1万年
法滅 末法後永久に

これは、お釈迦さまが説かれていることなので、自力の仏教を求めている人ももちろん知っています。
例えば日本に自力の仏教である天台宗を伝えた最澄も『末法灯明記まっぽうとうみょうき』にこう記しています。

末法の中において、ただ言教ごんきょうのみありて行証ぎょうしょうなけん。
若し戒法あらば。破戒あるべし。
すでに戒法なし、何の戒を破するによりてか破戒あらん。
破戒なおなし、いかにいわんや 持戒じかいをや。
(中略)
末法の中に持戒の者あらば、すでにこれ怪異なり。
市に虎あらんが如し。
これ誰か信ずべきや。

末法というのは、お釈迦さまの教えだけあって、行ずる人もなければ悟る人もない時代である。
もし戒律があるのならば戒律を破る破戒ということもあるだろう。
しかしすでに破る戒律もないのだから、どんな戒律を破って破戒ということがあるだろうか。
破戒さえもないのだから、戒律を保つ、持戒などあろうはずがない。
このような末法の時代に持戒の者を探すのは、市場に行って虎を探すようなもので、誰がまともに信ずる者があるであろうか、ということです。

今日スーパー行ったら虎がいてさー」と言っても
お前何言ってるんだ?
と言われるだけで、誰にも信じてもらえません。

それと同じように、
今日戒律を守っている人に出会っちゃってさー」と言っても
何言ってるんだ?いるわけないだろ
と誰にも信じてもらえないと最澄は言っています。

当時と同じく、現代も末法ですから、現代人が修行を始めるために出家して戒律を守るということは、極めて困難でしょう。
ましてや悟りを開くなど、お釈迦さまが説かれているように、できないことなのです。

では、もう仏教によって本当の幸せになれる道はなくなってしまったのでしょうか?
そうではありません。
お釈迦さまは、出家しなくても本当の幸せになれる、他力の仏教を教えられています。

他力の世間の意味

他力」というと、世間では、「他人の力」だと思われています。
例えば、自分で車を出さず、他人の車に乗り合わせて来たとき、
他力で来させてもらいました
と言ったりします。

また、他力が他人の力という意味ではないと知っている人でも、
天地自然や大宇宙の力、
自分を超えた何やら大いなる力だと
思っています。

ところが、これらはすべて間違いです。
他力はもともと仏教の言葉ですが、
仏教ではどんな意味なのでしょうか?

他力の語源

他力を現在の主流の意味で使われたのは、
自力と同様、中国の曇鸞大師です。

上に述べた『浄土論註』で、自力に続き、
たとえでこのように教えられています。
普通の人は、ろばに乗っても神通力を持った人のように空を飛ぶことはできませんが、
神通自在の世界を支配する伝説の王の全国巡回に付き従う時は、
王の力によって何ものにも妨げられず、
自由に世界中を遊ぶことができるようなものです。
このようなものを他力というのです。

原文はこうです。

また劣夫の驢にまたがりて上らざれども、転輪王の行に従わば、
すなわち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。
かくの如き等を名けて他力とす。

(漢文:又如劣夫跨驢不上 從轉輪王行 便乘虚空遊 四天下無所障礙如 是等名爲他力)

このように、仏教で他力とは、
他人の力でも、天地自然の力でもありません。
では、どんな仏教が他力の仏教なのでしょうか?

他力の仏教とは?

どんな仏教が他力の仏教かというと、
法然上人は、このように教えられていました。
浄土門とはすなわち易行道なり、これ他力なるもっての故なり
浄土門」であり、「易行道」の仏教が他力の仏教です。

浄土門」の仏教とは、阿弥陀如来の本願力によって、
生きているときに完全な救いにあずかる教えです。
つまり「他力」とは、阿弥陀如来の本願力のことで、
つまり阿弥陀如来のお力のことです。
仏教では阿弥陀如来のお力だけを他力といいます。

易行道の仏教とはどんな仏教かというと、
曇鸞大師は、『浄土論註』にこう教えられています。

易行道というは、いわくただ信仏の因縁をもて浄土に生ぜんと願ず。
仏願力に乗じてすなわちかの清浄の土に往生することをえしむ。
仏力住持して、すなわち大乗正定の聚にいれたまう。
正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。
たとえば水路の乗船はすなわち楽しきがごとし。

(漢文:易行道者 謂但以信佛因縁 願生淨土 乘佛願力 便得往生 彼清淨土 佛力住持 即入大乘正定之聚 正定即是阿毘跋致 譬如水路乘船則樂)

易行道は、阿弥陀如来の本願によって浄土往生間違いなしの身に救われます。
正定聚しょうじょうじゅ」とは、正しく仏になるに定まった人たちのこと、
阿毘跋致あびばっち」とは不退転のことで、
退転しない、変わらないということです。
生きているときに阿弥陀如来に救われると
正定聚不退転しょうじょうじゅふたいてん」になります。
正定聚不退転」とは、絶対変わらない絶対の幸福のことです。
自力の仏教は、目的地まで陸路を歩いて行くように苦しい道のりですが、
他力の仏教は、船に乗って水路を行くように、浄土へ向かう楽しい旅路になります。

他力の仏教は現代でもOK?

では、他力の仏教は、自力の仏教と同じように、お釈迦さまが亡くなった後、どんどん衰退していくことはないのでしょうか?
お釈迦さまは、阿弥陀如来の本願を説かれた『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』にこのように教えられています。

当来の世に経道滅尽きょうどうめつじんせんに、我慈悲を以て哀愍あいみんし、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。
(漢文:當來之世 經道滅盡 我以慈悲哀愍 特留此經 止住百歳)

当来の世に経道滅尽せんに」とは、やがて私の教えが消滅する法滅の時代が来ても、ということです。
我慈悲を以て哀愍し」とは、この釈迦は、慈悲の心であわれんで、ということです。
特にこの経を留めて止住すること百歳せん」というのは、この『大無量寿経』の阿弥陀如来の本願は、永遠に残り、いよいよすべての人が救われるたった一本の道として、人々を救い続けるであろう、ということです。

ここで「百歳」というのは、100年という意味ではありません。
法滅の時代からプラス100年続いてもほとんど誤差の範囲です。
中国で99年プラス1年の100年を表す時は、「一百歳」となります。
百歳」になりますと、「もう100回言ってるだろう!」という時と同じで、ものすごく多いことを表す表現です。
他力の仏教は、未来永遠人々を救う輝きを放つであろう、ということです。

これがお釈迦さまが説かれる自力の仏教と他力の仏教の時代による変化の違いです。
では、自力の仏教と他力の仏教は本質的にはどこが違うのでしょうか?

自力の仏教と他力の仏教の本質的な違い

自力の仏教といっても色々な宗派がありますが、
それらの宗派に共通した、本質は、
私たちは果てしない遠い過去からの
煩悩のサビによって曇っているものの、
サビの底には輝く仏性があると思っていることです。

そのため、私たちがこの本当の姿を体得すれば、
煩悩即菩提、成仏できると考えて、
その仏性を磨き出すための修行をすsるという教えです。

それが座禅や瞑想であり、
それが心の整え方や心のコントロールとなります。

ただし、さとりを得るには出家は必須条件で、
出家して戒律を守り、難行苦行してもさとりを得るのは不可能なほど難しく、
ものすごい長期間がかかります。
在家のままでは100%不可能です。

ところが他力の仏教では、
真実の自己は、煩悩でできた悪人で、
仏性などはないと教えています。

ところが私たちは、
何とかすれば自分の力で幸せになれると自惚れているので、
仏教を聞いて、他力阿弥陀如来のお力)によって
自惚れ心が打ち砕かれ、
真実の自己が知らされたとき、
変わらない幸福になれると教えられています。

この他力の仏教では、出家しなくても、
男も女も、すべての人が救われます。

それには、苦悩の根元を知り、
それを他力によって断ち切られなければなりません。
苦悩の根元については、仏教の真髄ですので、
メール講座と電子書籍にまとめておきました。
今すぐ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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