迷信とは?
「迷信とは聞いたけど本当だろうか……」
夜爪を切ってはいけないとか、黒猫が前を横切ると不幸が起きるとか、
何か小さい頃聞いたことのある場面に遭遇すると心なし不安になります。
迷信とは何かというと、「迷」った「信」と書くように、間違った信仰のことです。
信仰というほど大げさなものでなくても、道理に合わないことを信じることも迷信といいます。
迷信に対する対応を間違えると、大変なことになりますので、迷信の意味と、仏教で教えられる迷信の対応について簡単に分かるように解説して行きます。
よくある迷信の具体例
迷信には、どんなものがあるのでしょうか?
現代日本にも残っている有名な迷信は、案外たくさんあります。
茶柱が立つと縁起が良い
これは何かの現象が未来の幸せの前兆という迷信です。
お茶屋さんが、高級ではない茎の多いお茶を売るために言い出したという説があります。
ですが、実際には茶柱と未来の幸せは関係がないので、迷信です。
これに似たものに、
「朝蜘蛛は吉、夜蜘蛛は凶」
というものがあります。
これもクモと私たちの運命は関係ありません。
海外でも
「四つ葉のクローバーを見つけると幸運が訪れる」
ということも言われます。
クローバーは普通は三つ葉なので、四つ葉は珍しいのです。
嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれる
次に親が子供に教えるしつけの迷信があります。
「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と言って、嘘をつかないようにしつけをする時があります。
仏教では、嘘をついて堕ちる大叫喚地獄で舌を抜かれますが、それは閻魔大王ではなく、地獄の獄卒です。
また、悪口を言った人が閻魔大王から、舌を抜かれる地獄に堕ちると言われることがありますが、閻魔大王自身が舌を抜くわけではありません。
しかし、嘘や悪口を言ってはいけないのは本当です。
同じように、しつけで、
「食後にすぐ寝ると牛になる」
と言うことがあります。
昔は農作業や牛車など、日本でも牛がよく見られましたが、牛は食べた後寝てしまいます。
そこから連想して行儀の悪さを注意する時に言うのですが、実際には食後にすぐ寝ても牛にはなりませんので迷信です。
歯が抜けたら上の歯は縁の下へ、下の歯は屋根の上に投げる
これは、乳歯が抜けたときに、丈夫で立派な大人の歯が生えるようにという願いを込めています。
ただし、立派な大人の歯が生えるのとは何の関係もありません。
下の歯を上に投げたら、上に向かって強い永久歯が生えないかな、という連想系の迷信です。
雷がなるとへそを隠す
雷様はへそが好きなので、へそを取られないように隠すよう言われます。
一説には、雷様は出べそなので、いいへそを見つけると欲しくなって自分のへそにしてしまうそうです。
これは雷がなると気温が下がるので、子供がお腹を出していて風邪を引かないようにするために言われたという説もありますが、そもそも雷は人ではないので出べそでもなければ、好き嫌いもありません。
迷信です。
また、雷がなると雷を避けられるように「くわばらくわばら」という場合があります。
これは菅原道真が左遷されて死んだ後、菅原道真の領地の桑原庄にだけは雷が落ちなかったことから、雷が鳴ると「くわばらくわばら」というようになったと伝えられています。
しかし呪文を唱えたら雷が落ちなくなるわけではありませんから迷信です。
他人に風邪をうつすと治る
これは危険な迷信です。
風邪は、自分の免疫で自然治癒した頃に、他の人にうつしたウイルスが潜伏期間を経て発病するというだけです。
風邪を他人にうつしたら治ると思って、うつして歩いたら有害です。
うつさないように気をつけましょう。
霊柩車を見たら親指を隠さないと親の死に目に会えない
これは昔は霊柩車ではなく「葬列」でした。
それが霊柩車が開発されて進化したのですが、最近は霊柩車も使われなくなってワゴン車になりました。
ワゴン車に亡くなった方が乗っているかどうかは傍目には分からないので、今では廃れてきた迷信です。
なぜ親指なのかというと、昔、親指から霊魂が出入りすると考えていた人がいるので、葬列や霊柩車の周りをとんでいるであろう霊魂が入り込まないようにということで言われているようですが、まったくの迷信です。
夜に口笛を吹くと蛇が出る
これは、インドの蛇使いが笛でコブラを操っているように、蛇は音を聞いて出てくると考えられていたものです。
また、夜は違法取引をしている人たちが商売の合図に口笛を使っていたといわれ、夜の口笛は怖いものでした。
そこから夜に口笛を吹くと蛇が出るといわれて気持ち悪がられたのですが、実際は蛇は耳が退化して口笛の音には反応しませんので口笛を吹いても出ません。
普通に近所迷惑を考えるようにしましょう。
夜に爪を切ってはいけない
夜に爪を切ることをちぢめて「夜爪」といい、「世詰め」と発音が同じなので、命を縮め、早死にするからといわれます。
さらには早死にするので親の死に目に会えないともいわれますが、これはダジャレで、寿命とは何の関係もありません。
むしろ風呂上がりに爪を切ると、爪が柔らかくなっていて割れにくく、切りやすいので有効です。
お墓の前を通る時は歯を見せてはならない
お墓参りについても午後に行ってはいけないとか、一人で行ってはいけないとか、色々言われることがあります。
ですがこういうのはすべて迷信です。
お墓へ午後に一人で行って歯を見せても何の問題もありません。
また、「カラスが鳴くと人が死ぬ」というのは、カラスがお供えを狙って墓場によくいたことや、真っ黒な色などからの連想です。
人が死ぬことと何の関係もありません。
四階の404号室は縁起が悪い
「4」という数字は「死」と発音が同じなので、縁起が悪いとされ、404号室がないアパートや病院がたくさんあります。
多くの人が信じているために、404号室を作ると売上が落ちるからかもしれませんが、これもダジャレ系の迷信です。
病人のお見舞いにシクラメンの鉢植えをプレゼントしてはいけない
「入院している人へのお見舞いに鉢植えの花をあげてはいけない」
というのも、病室に根がついて退院が遅れるというダジャレです。
花の種類では「シクラメン」がよくないといわれるのも「死」とか「苦」という発音のダジャレです。
ちなみに、さらにすごい名前の花に「シネラリア」があります。
北枕で寝てはいけない
これは、葬式で故人を北枕で寝かせることがあるので、よくないというものです。
葬式の関係の迷信は他にも色々あります。
例えば箸をご飯に縦に突き刺してはいけないというのは、故人にご飯に箸を立てて供えることがあるからです。
また、食べ物を箸で、他の人の箸へわたしてはいけないというのは、火葬場で遺骨を拾う時にそのようにするからです。
ですが、亡くなった方と同じようなことをしたら悪いことが起きるということはありません。
迷信です。
地磁気の関係でむしろ体にいいという説もあります。
友引に葬式をすると故人の友人も死ぬ
葬式の日取りに関する迷信もあります。
友引に葬式をすると亡くなった方がご友人を引っ張って他の人も死ぬというのもダジャレです。
逆に仏滅に葬式や法事をするのはいいとか、結婚式は大安にするのがいいなどといわれます。
この大安や仏滅など六曜に関するものはすべてダジャレの迷信で、気にする必要はまったくありません。
詳しくは以下の記事にあります。
➾六曜(大安や友引、仏滅)の起源は仏教?
蛇の夢を見たらお金持ちになる
蛇は昔から神か神の使いとされてきました。
一方で、夢は何かの予兆と思われてきましたので、神が夢に現れたということで、いい前兆とされたのです。
しかしながら現在は、夢はレム睡眠の時の自分の脳の働きだと分かっています。
夢に何を見たかによって、その後の運命を知ろうとするのは、夢占いです。
夢とその後の運命は、たまたま同じになれば正夢、反対になれば逆夢といわれるだけで、実際には夢で何かを予知することはできません。
また、「蛇の抜け殻を財布に入れておくと、お金が貯まる」という迷信もあります。
これは「実入り(収入)がいい」と「巳入りがいい」のダジャレです。
写真を撮ると魂が抜かれる
昔、写真ができ始めた時に広まった迷信で、今ではスマホで気軽に写真を撮っているので、魂が抜かれると思っている人はないと思います。
また、3人で写真を撮ると、真ん中の人が早死にするともいわれますが、写真はカメラの感光センサーに届いた光を記録しているだけなので、全部迷信です。
茗荷を食べると物忘れがひどくなる
これは物覚えの悪かったシュリハンドクというブッダのお弟子が、自分の名前を忘れてしまうために、名前を書いて背負っていたそうです。
そのシュリハンドクが亡くなった後に生えてきた草に茗荷と名づけたといいます。
「茗荷」という名前から、食べると物忘れをするという連想系の迷信です。
別に茗荷と記憶力は関係ありません。
食べ物に関する迷信は他にも
「冬至にカボチャを食べると病気にならない」
というものがあります。
カボチャは夏に収穫してから保存が利いて、冬に食べることができます。
これは栄養があるので、免疫力を高めて病気にかかりにくくなる可能性はあります。
他にも「節分の日に恵方巻きを丸かじりすると願いがかなう」
というものもあります。
これも福を巻き込むというダジャレのようです。
また、
「天ぷらとスイカは食べ合わせが悪い」とか、
「ウナギと梅干しは食べ合わせが悪い」
といわれますが、別に体調を壊すわけでもなく、関係ありません。
「お酢を飲むと体が柔らかくなる」
「昆布を食べると髪の毛が黒くなる」
というのも単なる連想であって、正しくはないのですが、どちらも身体にいいので健康には有効です。
間違った信仰の具体例
迷信というと、ちょっとしたことで、大したことがないイメージがありますが、もっと大きな結果を言うものもあります。
その場合、結果を得るためにやることも大がかりになるので、人生への影響が大きく、危険度も高くなります。
丙午生まれの女性は夫を殺す
「丙午の年に生まれた女性は夫を殺す」という迷信があります。
これは江戸時代の井原西鶴の『好色五人女』の、恋人に会いたい一心で放火を行い、火あぶりになる八百屋のお七が、丙午生まれという所から来ていると言われます。
丙午は、60年に1度やってきますが、お七の生まれた年から60年周期に生まれた女性が夫を殺すというのは何の関係もないことです。
これはまったくの迷信ですが、このために結婚を避けられてしまうなどたくさんの悲劇が起きている実害の大きな迷信です。
生まれた年月日時で運命を推測するものには星占いもありますし、日時で運命が変わるというものには六曜や、欧米なら「13日の金曜日にはよくないことが起きる」という迷信がありますので、年月日時と運命を関連づけるのは、人間が懐きやすい錯誤です。
キツネつき・先祖のタタリ
昔からある種の病気をキツネが憑いたと言われてきました。
これは、病気の原因が分からない所からキツネや悪霊、先祖のタタリのせいにするものです。
そして、お祓いや祈祷をしたり、先祖供養をしたりして、病気の治療を試みてきました。
しかしそんなことで治るはずがありません。
治ったとすれば自然治癒です。
親心を考えれば、子供を病気にする先祖があるはずがありません。
ところが科学や医学の進歩で、病気の原因が分かるようになり、病気の原因が解明されるにつれて減ってきました。
キツネつきについても、ついに21世紀に入ってから、抗NMDA受容体脳炎という病気と分かり、医学で治療できるようになっています。
よく分からない病気を人や動物のせいにして祈祷などをしていると治る病気も治らなくなりますので、有害な迷信です。
生け贄
昔から、祈祷をする時には、様々な儀式が行われてきました。
祈祷というのは祈ることですが、何を祈るかというと、自分ではどうにもならない問題を、神に助けて欲しいと祈るものです。
病気を治して欲しいとか、商売を繁盛させて欲しい、雨乞いや豊作祈願など、願い事は様々です。
その願いを叶えてもらう祈祷の儀式のために、神を祀り、色々なお供えをします。
それが、お米やお酒、果物などから、動物の生け贄や、昔は人間まで生け贄にしてきました。
神に祈っても、病気も治りませんし、商売も繁盛しません。天気も変わりません。
それで動物や人が殺されてしまう恐るべき迷信です。
祈祷については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾仏教の祈祷の種類と効果・リスク
占い
占いというのは、偶然の結果や、何かの状態など、因果関係のないもので未来の運命を知ろうとするものです。
偶然の結果なら例えば、花占いは、「好き、嫌い、好き、嫌い……」と花びらを1枚ずつとって、好きか嫌いか予想するものです。
その他、くじやタロット、夢占いなどもこの類いです。
何かの状態で未来の運命を知ろうとするものには、手相占い、人相占い、墓相占い、家相占い、方角の占い、日時の占いなど、色々あります。
昔の中国で政治家が亀甲占いで政治をしたのは有名です。
日本でも戦国時代でも、大日本帝国も、よく戦争の結果を占ったり、祈祷をして神風を吹かせたりして戦争に勝とうとしましたが、占いも未来の運命とは何の関係もありませんので迷信です。
占いは今でも非常に人気がありますが、それは未来が分からないということです。
確かに未来は誰にも分かりませんが、もし今の首相や内閣が、占いで政治をしていたら怖いです。
国民の信用を失って、国会で不信任案を議決して欲しくなります。
戦争などの国際関係はもちろん、個人的なことでも、結婚相手の選択や、投資や経営判断など、影響の大きい重大なことを占いに頼ると実害が起きるので危険です。
占いについては、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾占いは人生誤るとブッダが警告される重大な理由とは?
迷信と俗信の違い
このような迷信の中で、有害なものだけを迷信と言い、有害ではないものを俗信とか、民間信仰という場合もあります。
その場合、「他人に風邪をうつすと治る」とか「丙午生まれの女性は夫を殺す」というような危険なものを迷信といい、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」というのは俗信となります。
このような色々な言い伝えでも実験的に検証できるものは検証が進んでいます。
例えば、「黒猫が前を横切ると不幸が起きる」というのは、黒猫を横切らせた場合、白猫を横切らせた場合などで、実験が行われ、何の関係もないという論文が出ています。
また、神への祈りによって幸せになれるかどうかも幾つもの実験がなされていますが、何の関係もないか、むしろ有害であることが分かっています。
こうして色々な言い伝えの中でも、科学的に検証された場合は、消えるか迷信ではなくなります。
例えば雨乞いの祈祷や、晴れることを祈るてるてる坊主などは、気象衛星が打ち上げられ、天気予報が発達した現代では廃れてしまいました。
病気が悪魔の仕業とする迷信なども医学の進歩で消えて行きます。
また、科学的に正しいと分かった場合は迷信とは言われなくなります。
例えば「宵越しのお茶は飲んではならない」など、淹れて一晩放置した茶葉が身体に悪くなるのは現在は科学的にも明らかなので、俗信でもなく当たり前の事実になります。
このように、迷信と思われていたものでも、科学や医学が進歩した結果、理由が明らかになれば消えたり、迷信とは言われなくなります。
科学的には検証できない迷信の場合、有害なものだけを迷信として、無害なものは俗信といって区別する人もあります。
- 科学的に検証できて間違い→消滅
- 科学的に検証できて正しい→科学
- 科学的に検証できなくて無害→俗信
- 科学的に検証できなくて有害→迷信
こうして分類してみると、科学や医学が対象としているのは物質的な部分だけで、それは世の中のごくわずかの単純な領域なので、これからも迷信の生まれる余地はたくさんあります。
なぜ迷信が生まれるのか
このような様々な迷信はどうして生まれるのでしょうか?
これまでにあげたたくさんの迷信を見ると、健康や病気、幸せや不幸、葬式やお墓など死にまつわることで迷信が生まれています。
迷信というのは、間違った信仰や道理にかなわない信心ですので、健康や病気、幸せや不幸、死などの未来の運命がどうして起きるのか分からない場合に生まれます。
これには大体2通りあります。
一つは原因不明の悪いことが起きた時、その原因を神や霊などのせいとするものです。
例えば雷が落ちた時に、なぜ雷が落ちたのか分からないので、神のせいだと信じるようなものです。
もう一つは、言葉や動作などのダジャレや連想によって、幸せや不幸が起きるのではないかと心配するものです。
どちらも科学が進歩するにつれて、原因が解明されてきましたので、迷信が減ってきています。
ところが、科学が解明できるのは物質的な現象だけですので、自然現象や病気については解明できても、人生については分かりません。
それで科学がどんなに進歩しても、幸せや不幸、死に関することは迷信がなくならないのです。
それだけ人は自分の未来の運命を知りたいのに、分からないということです。
つまり迷信の本質は、未来の運命について、誤った原因を信じることです。
なぜ迷信を信じてしまうのか
そんな迷信を普段は笑い飛ばしている人でも、
「困った時の神だのみ」
と言われるように、苦しいことが起きてきて、自分ではどうにもならない時には信じやすくなるので、苦しい時は特に注意が必要です。
実際、高学歴な人でも、変な宗教にはまってしまうことがあります。
それは、どんなに頭がよくても、才能があっても、人生が苦しいことには変わりがないということです。
そして、何とか苦しみをなくしたいと思っても、何を信じればいいのか分かりません。
「そんなの迷信だから信じるな」
といっても、苦しいと何かにすがりたいので、
「ひょっとしたら……」
と思って迷信を信じてしまうのです。
これが、科学が進歩しても迷信はなくならず、高学歴な人でも迷信を信じてしまう理由です。
喉が渇いている人が泥水を飲んでしまうように、
「そんなの迷いだから信じるな」といっても、苦しんでいる人は迷信を信じてしまいます。
どうしたら泥水を飲まなくなるかというと、きれいな清水を供給するのが大切です。
そこで仏教では約2600年前から、
私たちの運命を生み出す原因と法則が解明され、教えられています。
運命の法則とは
仏教では、「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理を根幹として説かれています。
「すべての結果」の中でも、私たちが最も知りたいのは、将来の自分の運命です。
その運命を生み出す法則について、ブッダはこのように教えられています。
善因善果
悪因悪果
自因自果(ブッダ)
善因善果とは、善い原因は良い結果を生みだし、
悪因悪果とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、
自因自果とは、自分のまいたたねは自分が刈り取らねばならないということです。
この「果」というのが運命のことですので、
「善果」というのは幸せな運命、
「悪果」は不幸な運命です。
「自果」というのは自分の運命のことです。
ではそれらの運命は何によって生み出されるのかというと、「因」というのは行いのことです。
「善因」というのは善い行い、
「悪因」は悪い行いです。
「自因」というのは自分の行いのことです。
ですから善因善果というのは、善い行いが幸せな運命を生み出す、
悪因悪果は、悪い行いが不幸や災難を引き起こす、
自因自果というのは、自分の行いが自分の運命を生み出す、ということです。
例えば商売がうまく行くのは、その人に商才があって努力したからです。
病気になるのは、悪いものを食べているとか、生活習慣や健康管理に問題があるからです。
このように仏教では自分の運命は、幸せな運命も不幸や災難も、その原因は、自分の行いだと教えられています。
これを「因果応報」とか、「自業自得」と言います。
この因果の道理については、以下の記事に詳しく解説してあります。
➾因果応報の意味とは。恋愛における実話と運命の法則
こうして仏教では、運命の原因を自分の行いであることを詳しく明らかにされ、それに外れている迷信を排斥されるのです。
迷信に対する仏教の教え
約2600年前のブッダの時代にもたくさんの迷信がありました。
例えば、星の運行や日時で運命が決まると考える星占いや、日の善悪、方角の善悪がありました。
また、食べ物についても、善悪がありました。
例えば杖と杖の間に置かれたものや、妊婦がくれるもの、犬が近くにいる時などは食べ物を受け取ってはいけないというのがあります。
また、たまねぎやきのこ、神に供えたものは食べてはいけないというのもあります。
バラモン教のマヌ法典にも、
水に映った自分の姿を見てはいけないとか、
夫婦で食事をしてはいけないとか、
明け方に食べてはいけないとか、
食べる時に向かう東西南北の方角によって様々ないいことがある
などと書かれています。
また当時のインドには、日本神道で石や木にしめ縄をはって祈っているように、山や川や樹木を祀って祈祷する人があったようで、ブッダはこのように説かれています。
ある多くは自ら山川樹神に帰し、廟を立て像を図し、祭祀して福を求む。
かくのごとく自ら帰するは吉に非ず上に非ず。
彼来たりて我が衆苦を度すること能わず。
(漢文:或多自歸 山川樹神 廟立圖像 祭祠求福 自歸如是 非吉非上 彼不能來 度我衆苦)(引用:『法句経』)
世の中の多くの人々は、山や川や樹木などにすごい力があると思って信仰している。
そして社を建てたり、絵像を描いて、祭壇にまつり、幸せにしてくださいと祈っている。
しかしそんな信仰は幸せを呼ぶものでもなければ、すばらしいことでもない。
それらの力で人は色々な苦しみから離れることはできない、ということです。
似たような具体的な事例が、『雑譬喩経』にも説かれています。
バラモン教の母子家庭で、ある日、子供がお母さんに尋ねます。
「お父さんは、生きてた時、毎日どんなことをしてたの?」
「お父さんはね、一日3回水浴びしていたのよ」
「何のために?」
「ガンジス河の水で汚れを除いて神通力が得られるんだって」
「そんなことないよ」
「どういうこと?」
「もしそうだとしたら、河の北の人は、毎日河を渡って牛を南岸で放牧して、また河を渡って帰っていくから一日2回水を浴びてるけど、神通力得た?
魚なんかずっと水の中にいるけど神通力ないし」
こう言われて、お母さんは、一言も反論できなかったと説かれています。
(出典:『雑譬喩経』)
それが迷信であることは、よく考えれば子供でも分かるのです。
死ぬまで無駄な努力をして、人生を棒に振ったら大変です。
また、当時は一定の食べ物しか食べない人がいたり、生臭い肉や魚を食べると穢れた人間になると信じられていました。
そのため、ブッダはこのように説かれています。
生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗み、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、 邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。
肉食はそうではない。(引用:『スッタニパータ』242)
肉食などの食べ物によって人が穢れるのではなく、生き物を殺すなどの悪い行いによって、不幸や災難がやってくる、という意味です。
ちなみに肉食については殺生をしなければ肉食もできません。
仏教では、肉食というのは殺生をするからよくないのです。
また、バラモン教では、ガンジス河などの神聖な川で洗い流せば、罪悪が清められて、死後は天上界に生まれて、幸せになれると教えられています。
これは現在のヒンドゥー教でも信じられていて、行われています。
『雑阿含経』によれば、ブッダがコーサラ国におられた時、河の近くに住んでいたバラモンがブッダに
「河で沐浴しませんか?」
と誘いました。
ブッダが「何のために河で沐浴をするのか」と尋ねると
「一切の諸悪が除かれますよ」とバラモンが答えます。
それに対してブッダは、
「河で身体を洗ったからといってもろもろの悪が除かれるものではない。
善い行いが自らを清めるのだから、殺生や泥棒、不倫や嘘をついたりしてはいけない。
布施がケチという垢を除く。
身体の垢を洗い流しても心の中を清める事はできない」
と言われています。
また、パーリ仏典の『テーリーガーター(長老尼偈)』にも、こう言われています。
(もし河水が罪垢を浄むとすれば)蛙も亀も、竜も鰐も、その他の水行者も、すべて天に行くべきには非ずや。(241)
もしこれらの河が汝のかつてなせる悪法を運び去るとせば、それはまた汝の福善も運び去り、汝は福善なき者となるべし。(243)(テーリーガーター)
これはもし河で身体を洗えば罪悪が消えて天上界に生まれられるとすれば、河に住む生き物は、みんな天上界に生まれるはずだ。
またもし河で身体を洗えば罪悪が洗い流されるなら、善い行いも洗い流されてしまうはずだ、ということです。
仏教では極めて合理的、論理的に迷信のおかしな所を指摘されています。
また、当時は病気になるのはすべて悪魔や鬼神のしわざだとして、祈祷やまじないで治そうとされていました。
ところが仏教では、病気は症状や原因に応じて薬や治療法を使うよう、仏典に記されています。
また占いについても、このように説かれています。
呪術や占夢や占相や、また占星を行うべからず。
(引用:『スッタニパータ』927)
「呪術」というのは祈祷のことです。
夢占いや手相や人相などの占い、星占いをしてはならない、ということです。
このように、仏教では、当時の色々な迷信について具体的に教えられています。
当時の迷信以外でも、自分の運命が自分の行い以外から生み出されると教えるものは仏教では外道といってすべて排斥されていますので、一切の迷信を排斥する合理的な教えが仏教です。
さらに、今でも根強く残っている最大の迷信があります。
人類最大の迷信とは
現代人も誰もが信じている人類最大の迷信は、
「お金を手に入れたら幸せになれる」とか、
「好きな人と一緒にいたら幸せになれる」とか、
「人から好かれ、認められれば幸せになれる」とか、
「好きなことをやったら幸せになれる」とか、
「欲望を満たしたら幸せになれる」という考えです。
実際、ライフワークによってお金や財産、地位、名誉を手に入れて、自由に欲望を満たしても幸せにはなれません。
これを仏教では有無同然と教えられています。
有無同然については、以下に詳しく解説してあります。
➾お金持ちは幸せ?お金で幸せは変えないブッダの説かれた有無同然
このことはうすうす気づき始めている人もあります。
例えばノーベル賞を受賞したイギリスの哲学者、ラッセルはこう言います。
金というものが、ある一点までは、幸福を増大するうえに非常に役立つものであることを、私も否定しない。
しかしその一点を越えてなお、金が幸福を増大せしめるとは思わない。
(ラッセル『幸福論』)
お金があれば幸せになれるというのも迷信なのです。
ではなぜお金があって、好きなをことをして、他の人に喜ばれても本人は幸せになれないのか。
苦しみ悩みがなくならない根本原因を解明して、
本当の幸せになる方法も教えられているのが仏教です。
それについては仏教の真髄なので、
電子書籍とメール講座にまとめてあります。
一度見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)