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凝然『八宗綱要』とは

八宗綱要』とは、鎌倉時代の学僧、凝然ぎょうねんが29才の時に書いた本です。
仏教の代表的な8つの宗派の概要を初心者向けの入門書として書いたそうですが、現代では東大文学部のインド哲学仏教学研究室に入った4年生が読む位のレベルです。
一体どんなことが書いてあるのでしょうか?

目次
  1. 八宗綱要とは
    1. 著者・凝然とは
    2. 八宗綱要の概要
  2. 八宗綱要の原文・書き下し・現代語訳
    1. 序論
      1. 第一章 総説
        1. 第一節 法門大綱
        2. 第二節 教説統摂
      2. 第二章 歴史
        1. 第一節 概説
        2. 第二節 インド
        3. 第三節 中国
        4. 第四節 日本
      3. 第三章 八宗概説
    2. 本論
      1. 第一章 倶舎宗
        1. 第一節 対法蔵義
        2. 第二節 造論縁起
        3. 第三節 翻訳弘伝
        4. 第四節 本論宗旨
        5. 第五節 本論組織
        6. 第六節 五位七十五法
        7. 第七節 三乗因果
        8. 第八節 我空法有
      2. 第二章 成実宗
        1. 第一節 成実名義
        2. 第二節 造論訳伝
        3. 第三節 系譜宗義
        4. 第四節 賢聖階位
        5. 第五節 八十四法
      3. 第三章 律宗
        1. 第一節 宗名諸律
        2. 第二節 翻訳弘伝
        3. 第三節 四分律伝統
        4. 第四節 律宗相承
        5. 第五節 律宗分流
        6. 第六節 止持作持
        7. 第七節 七衆建立
        8. 第八節 判教宗致
      4. 第四章 法相宗
        1. 第一節 宗名所依経論
        2. 第二節 三国相承
        3. 第三節 教判
        4. 第四節 三乗五性
        5. 第五節 五位百法
        6. 第六節 五重唯識
        7. 第七節 四分
        8. 第八節 三性三無性
        9. 第九節 菩提涅槃
      5. 第五章 三論宗
        1. 第一節 宗名所依論
        2. 第二節 破邪顕正
        3. 第三節 真俗二諦
        4. 第四節 仏果行位
        5. 第五節 八不解釈
        6. 第六節 二蔵三転法輪
        7. 第七節 三国相承
      6. 第六章 天台宗
        1. 第一節 宗名所依経論
        2. 第二節 相承系譜
        3. 第三節 教判
        4. 第四節 観門行法
      7. 第七章 華厳宗
        1. 第一節 宗名所依経
        2. 第二節 三国相承
        3. 第三節 教判
        4. 第四節 五教行位
        5. 第五節 仏身仏土
      8. 第八章 真言宗
        1. 第一節 宗名所依経
        2. 第二節 三国相承
        3. 第三節 教判
        4. 第四節 依正二報
        5. 第五節 六大四曼三密
        6. 第六節 仏身教主
    3. 附説 禅宗(並)浄土宗
      1. 第一章 禅宗
      2. 第二章 浄土宗
    4. 奥書
  3. 最後に
  4. 関連記事

八宗綱要とは

八宗綱要』は、鎌倉時代に、東大寺戒壇院の学僧、凝然ぎょうねん(1240-1321)が書いた本です。

著者・凝然とは

凝然は、1240年、伊予国、愛媛県に生まれました。
1255年、15才の時に比叡山で菩薩戒を受け、18才の時には東大寺の戒壇院で受戒します。
それから律宗の僧侶として師僧の円照に律宗を学びます。
他にも東大寺の宗性に華厳宗を学び、円照のお兄さんの聖守に真言宗を、そして浄土宗を九品寺の長西に学びます。
82才で亡くなるまでに160部、1200余巻の本を書いたといわれます。
ですが、今日では失われてしまったものも数多くあります。

その中で、『八宗綱要』は29才の時、伊予国の円明寺で書いたと『八宗綱要』の最後に書いてあります。

八宗綱要の概要

八宗綱要』の「八宗」とは、倶舎宗くしゃしゅう成実宗じょうじつしゅう、律宗、法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗、真言宗です。
最初に仏教全体の概要と歴史を記した上で、
それぞれの宗派の名前の由来、インドから中国、日本へと伝わった歴史、教義の概要を記しています。
奈良仏教といわれる倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗の6つの宗派と、
平安仏教といわれる天台宗、真言宗の2つを合わせて八宗になります。
さらに鎌倉仏教といわれる禅宗と浄土宗を一応簡単に付け加えてあります。
凝然は、八宗の順序は教えが浅い方から深い方へと並べたわけではないと書いてありますが、
実際読んでみると、前に書いてあることを使って理解できることも多いので、仏教が分かった気持ちになれます。
そのため、長らく仏教の入門書として学ばれ、解説書も50以上あります。

八宗綱要』は漢文で書かれているので、原文、書き下し(訓読)、現代語訳を全文にわたって公開します。
数百年にわたって読み継がれる仏教本の雰囲気を味わってみてください。

八宗綱要の原文・書き下し・現代語訳

八宗綱要』の本文(漢文)は、大日本仏教全書所収のものです。
漢文ですが、漢字の右下にカタカナで小さく送り仮名がふってある所がありますので、その部分はカタカナで書いてあります。
漢字と漢字の間にハイフンがある所もあります。
漢字の左下の返り点は表現できませんでした。
改行も少ないため、適宜改行を入れました。
大日本仏教全書所収の『八宗綱要』には見出しがないので、第一章とか第一節とかの見出しは、『講本八宗綱要鈔』でつけられていた見出しを使っています。

序論

第一章 総説

第一節 法門大綱

問。佛教有幾門耶。
答。薄伽教法總有無量門。且擧大途則八萬四千。釋尊一代五十箇年所說法。莫不攝盡。

(書き下し文)
問う。佛教に幾ばくの門ありや。
答う。薄伽の教法に總じて無量の門あり。且(も)し大途を擧ぐるに則ち八萬四千なり。釋尊一代五十箇年所說の法攝盡せずということなし。

(現代語訳)
問い。仏教にはどの位の数の法門があるのか。
答え。世尊の教法は総てあげれば限りない法門がある。
仮におおよその数をあげれば八万四千の法門がある。
釈迦一代50年の間に説かれた法はこの中に摂め尽くすことができないということはない。

問。何故法門數量必爾。
答。為欲對-治一切衆生八萬四千諸塵勞故。所以法門必有八萬四千數。

(書き下し文)
問う。何が故ぞ法門の數量必ず爾るや。
答う。一切衆生の八萬四千の諸の塵勞を對治せんと欲せんが為の故に。所以に法門必ず八萬四千の數あり。

(現代語訳)
問う。なぜ法門の数はそんなに必要なのか。
答え。すべての人の八万四千のたくさんの煩悩ぼんのうを治療するためである。
そのために法門は八万四千の数が必要なのである。

問。此等法門為唯約大乘為通小乘乎。
答。大小二乘各立八萬四千法門也。如俱舍云。牟尼說法蘊數有八十千(已上)加之諸小乘經。多說法有八萬四千。此等竝是小乘所立。如大乘教中盛談此義。文據甚多。不待言論。故大小兩乘。皆各立有八萬四千也。

(書き下し文)
問う。これ等の法門、唯だ大乘に約すとせんや、通小乘に通ずとせんや。
答う。大小の二乘、各八萬四千の法門を立つるなり。俱舍に云うが如し。牟尼、法蘊を說く、數八十千(已上)ありと。しかのみならず諸の小乘經に多く、法に八萬四千ありと説く。これ等は竝びに是れ小乘の立てる所なり。大乘教の中の如き、盛んにこの義を談ず。文據甚だ多し。言論を待たず。故に大小の兩乘、皆各八萬四千ありと立つるなり。

(現代語訳)
問い。これらの法門はただ大乗だけの話か、小乗にも通ずるのか。
答え。大乗も小乗も、それぞれ八万四千の法門がある。倶舎論に説かれている通りである。
釈迦牟尼仏、教法を「八千ある」と説いている。それだけでなく、色々な小乗経典にもよく法に八万四千ありと説かれている。これらは並行して小乗経典に説かれていることである。大乗経典になってくると、盛んにこのように説かれている。証拠の文章は非常に多い。言うまでもないことである。従って、大乗でも小乗でも、どちらもそれぞれ八万四千の法門があるという。

※法蘊……教法

第二節 教説統摂

問。此等法門如何攝束。
答。法門雖多。不過二藏及以三藏。取-攝諸教。皆悉窮盡。厥之五藏。十藏。十二分教等門。亦不出三藏焉。

(書き下し文)
問う。これ等の法門如何が攝束(しょうそく)するや。
答う。法門多しと雖も、二藏及以(および)三藏を過ぎず。諸教を取り攝むに皆悉く窮め盡くす。厥(そ)の五藏、十藏、十二分教等の門、亦た三藏を出でず。

(現代語訳)
問い。これらの法門はどのようにおさめ束ねるのか。
答え。法門は多いが、二蔵及び三蔵に過ぎない。すべての教えはこの中に、みな悉くおさめ尽くされる。五藏、十藏、十二分教などの教えもまた三蔵以外にない。

問。且二藏者何。
答。一聲聞藏。是小乘也。二菩薩藏。是大乘也。大小兩乘。各立有八萬四千者。即此義也。此二藏義。出智度論及莊嚴論。諸家咸引以判大小。

(書き下し文)
問う。且(か)つ二藏とは何ぞや。
答う。一には聲聞藏。是れ小乘なり。二には菩薩藏。是れ大乘なり。大小兩乘に、各八萬四千ありと立つるは即ち此の義なり。此の二藏の義は智度論及び莊嚴論より出づ。諸家咸(ことごと)く引きて以て大小を判ず。

(現代語訳)
質問。そもそも二蔵とは何か。
答え。1つには声聞蔵、これは小乗である。2つには菩薩蔵、これは大乗である。
大乗と小乗の両方に、それぞれ八万四千ありというのは、このことである。この二蔵という概念は、『大智度論』及び『大乗荘厳経論』を根拠とするものである。どの宗派でもことごとくこれを引用して大乗と小乗を論じている。

問。次其三藏者何。
答。一素坦覽藏(古云修多羅。)此翻契經。(古單云經)二毘奈耶藏。(古云毘尼)此云調伏。(古云律)三阿毘達磨藏。(古云阿毘曇。)此云對法(古云無比法。)是論義也。此云三藏。如次詮於定戒慧學。三藏是能詮教。三學即所詮義。以攝法義無有遺餘。

(書き下し文)
問う。次に其の三藏とは何ぞや。
答う。一には素坦覽藏(古には修多羅と云う)此れ契經を翻ず。(古は單に經と云う)二には毘奈耶藏。(古に毘尼と云う)此れ調伏と云う。(古に律と云う)三には阿毘達磨藏。(古に阿毘曇と云う。)此れ對法と云う(古に無比法と云う。)是れ論義なり。此れを三藏を云う。次(つい)での如く定戒慧學を詮(あらわ)す。三藏是れ能詮の教なり。三學即ち所詮の義なり。以て法義を攝するに遺餘あることなし。

(現代語訳)
質問。次にその三蔵とは何か。
答え。1つには素坦覽(そたらん)蔵(昔は修多羅といった)である。これを契經(かいきょう)と漢訳された(古には単に経といった)2つには毘奈耶(びなや)藏である。(昔は毘尼といった)である。これを調伏と漢訳された。(古くは単に律といった)3つには阿毘達磨藏(あびだつまぞう)である。(昔は阿毘曇といった)これを對法と漢訳された。(古くは無比法といった)これは論議である。
これを三蔵という。この順序に従って素坦覽藏に定学、毘奈耶藏に戒学、阿毘達磨藏に慧学を説かれている。三蔵というのはあらわす教え、三学は表される内容である。それによって教えをおさめて余す所がない。

問。云何攝哉。
答。如來一代對機授法。有機即授。處處散說。然說教分齊不過三藏。故結集之時。諸聖者等結為三藏。悉結集已以傳世間。

(書き下し文)
問う。云何が攝するや。
答う。如來一代、機に對して法を授く。機あれば即ち授して處處に散說す。然るに說教の分齊は三藏に過ぎず。故に結集の時、諸の聖者(しょうじゃ)等、結して三藏となす。悉く結集し已(おわ)りて以て世間に傳う。

(現代語訳)
質問。どのようにおさまるのか。
答え。釈迦は一生涯、相手に応じて法を説かれた。人いがいれば法を説いて、色々なところでばらばらに説かれた。だが説かれた教えの分類は三蔵に過ぎない。だから釈迦滅後の経典編纂会議の時、たくさんの聖者たちが集めて三蔵とした。すべて集め終わって世に伝わっている。

問。此之三藏。通大小乘哉。
答。爾通也。如莊嚴論等具明之。故於聲聞菩薩二藏各有三藏。經律論是也。

(書き下し文)
問う。此の三藏は大小乘に通ずるや。
答う。爾り。通ずるなり。莊嚴論等、具に之を明かすが如し。故に聲聞、菩薩二藏に於て各三藏あり。經律論是れなり。

(現代語訳)
質問。この三蔵は、大乗、小乗のどちらにもあるのか。
答え。その通り、どちらにもある。『大乗荘厳経論』などが詳しくこれを明らかにしている通りである。故に声聞蔵、菩薩蔵のどちらにもそれぞれ三蔵がある。経律論がそれである。

第二章 歴史

第一節 概説

問。此等教文。古今傳通其相如何。
答。如來在世不用典籍。隨聞依行。即得證益。如來滅後始有典籍。傳通以開衆生眼目。依之迦葉波等。結小乘三藏於畢鉢之窟場。阿逸多等集大乘教法於鐵圍之中間。于是摩訶迦葉。秉聖法而繼玄綱。阿難尊者。持契範而利群生。末田。商那。各提義綱。優婆毱多。獨彰美號。佛滅百年。瀉瓶無遺。法匠五師。傳持有功。百歳已後諸聖亦出。互傳聖典。各秉大法。然隨諸聖隱沒。法義非無滅。如阿難入定胎衣不測。商那入滅衆經隨隱。雖然遺餘不少。殘教寔多。故正法千年。乃至末法。隨時秉持。隨處流傳。五印諸國乃至日域其餘諸國不可稱計。各弘聖典。竝興佛事。

(書き下し文)
問う。此れ等の教文、古今に傳通せる其の相、如何ぞ。
答う。如來世に在りて典籍(てんじゃく)を用いず。聞くに隨い依りて行じ、即ち證益を得る。如來の滅後に始めて典籍あり。傳通して以て衆生の眼目(げんもく)を開く。之に依りて迦葉波等、小乗の三蔵を畢鉢の窟場に結す。阿逸多等、大乗の教法を鐵圍の中間に集む。是において摩訶迦葉、聖法を秉りて玄綱を繼(つ)ぐ。阿難尊者、契範を持ちて群生を利す。末田、商那、各義綱を提(ひっさ)げ、優婆毱多(うばきくた)、獨り美號を彰す。佛滅百年、瀉瓶(しょうびゃく)遺すことなし。法匠の五師、傳持に功あり。百歳已後、諸聖亦た出でて互いに聖典を傳う。各大法を秉る。然るに諸聖隱沒するに隨いて法義滅することなきにあらず。阿難入定して胎衣測られず、商那入滅して衆經隨いて隱るるが如し。然りと雖も遺餘少なからず、殘教寔(まこと)に多し。故に正法千年、乃至末法に至るまで時に隨いて秉持し、處に隨いて流傳す。五印諸國、乃し日域に至る、其の餘の諸國、稱(あ)げて計(かぞ)うべからず。各聖典を弘し竝びに佛事を興す。

(現代語訳)
質問。これらの教えは、古から今までどのように伝わっているのか。
答え。釈迦の在世中は、経典は使われなかった。聞いたことによって修行し、さとりを得た。釈迦の滅後に初めて経典ができた。それが伝えられてそれによって人々の心の目を開いた。これによって、摩訶迦葉などが、小乗の三蔵を王舎城付近のピッパラグハーの石窟で結集(けつじゅう)した。弥勒菩薩などは大乗の教えを鉄囲山(てっちせん)の山中で大乗の三蔵を結集した。
そこで摩訶迦葉は聖らかな法をしっかりと保ち、深い大綱を継いだ。阿難尊者は経典を保ち、人々に幸せを与えた。阿難の弟子の末田地、商那和修は仏教の綱要を伝え、商那和修の弟子の優婆毱多も活躍して美名を残した。仏滅後100年は、瓶の水を次の瓶に余すところなくそそぐように、すべてを正確に伝えた。これらの5人の聖者たちは法を伝えるすばらしい功績があった。
仏滅百年以降は、また複数の聖者が現れ、聖典を伝え、それぞれ偉大な法を保った。だがそれらの聖者たちが隠れるにしたがって、失われる法もないわけではなかった。阿難が亡くなった時は、商那和修には分からない経があった。その商那和修が亡くなった時も、たくさんの経も失われたようにである。そうはいっても残された経は少なくなく、むしろ非常に多くある。
したがって、正法千年、像法を経て末法に至るまで、時に応じて保ち、所に応じて伝えられた。東西南北中の5つのインド諸国からようやく日本に至る。その他の諸国に伝わったものも、挙げて数えることができない。それぞれ聖典を広めて、同時に仏事を興隆した。

※玄綱……深い大綱
※契範……経典
※義綱……仏教の綱要
※胎衣……商那和修

第二節 インド

今且述天竺。震旦。日域三國弘傳之相者。傳聞。如來滅後四百年間。小乘繁昌。異計相興。大乘隱沒。納在龍宮。就中一百年間。純一瀉瓶。
百餘年依。異計競起。
是以摩訶提婆。徒吐五事之妄言。婆麤富羅。未捨實我之堅情。正量。經量。諍大義而紛紜。西山。北山。起異見而猥綸。
遂使四百年間二十部競-起五印土中乃至五百交諍。

(書き下し文)
今且く天竺、震旦、日域三國弘傳の相を述ぶる。傳え聞く。如來滅後四百年間は小乗繁昌して異計相興こる。大乗隱沒して納まりて龍宮にあり。就中一百年間、純一瀉瓶す。
百餘年依りて異計競い起こる。
是を以て摩訶提婆、徒に五事の妄言を吐く。婆麤富羅(ばそふら)、未だ實我の堅情を捨てず。正量、經量、大義を諍いて紛紜(ふんうん)す。西山、北山、異見を起こして猥綸す。
遂に四百年間の二十部をして、競い起こらしめ、五印土中、乃至五百、交諍わしむ。

(現代語訳)
今しばらくインド、中国、日本の三国に広め、伝えられた様子を述べる。伝え聞くことによると、釈迦滅後400年頃は、小乗仏教が繁栄して、異なる見解が起きた。大乗仏教は隠れて竜宮におさまった。特に百年間は、純粋に一つの教えが瓶から瓶へ水を注ぐように伝えた。百年後、異なった見解が競うように現れた。
そこで大天は虚しく五事の妄言を唱えた。犢子部は未だに、実我が存在するという固い信念を捨てず、正量部、経量部なども正しい教義を争って紛糾した。西山住部、北山住部は異なる見解を唱え、乱れもつれた。
遂に400年間で20部が競い起こり、五インドの中で、500年頃までお互いに争った。

※異計……異なる見解
※摩訶提婆……大天
※婆麤富羅……犢子部

五百年時。外道競興。小乘稍隱。況大乘耶。爰馬鳴論師。時將六百。始弘大乘。起信論等是時則造。外道邪見卷舌皆亡。小乘異部閉口咸伏。大乘深法再興閻浮。衆生機感已趣正路。次者有龍樹菩薩。六百季曆七百初運。紹于馬鳴獨步五印。所有外道無不皆摧。所有佛法皆悉傳持。三本華嚴獨含胸藏。四辯文河妙控江海。廣造論藏而青於藍。深窮佛法而寒於氷。凡斯二大論師。竝是高位大士也。馬鳴則古之大光明佛。今則示迹於第八地。龍樹則昔之妙雲相佛。今則寄位於初歡喜。俱本佛也。竝垂迹也。智辯超倫其事宜哉。

(書き下し文)
五百年時、外道競い興こる。小乗稍隱る。況んや大乗をや。爰に馬鳴論師、時將に六百、始めて大乗を弘む。起信論等、是の時則ち造る。外道邪見舌を卷き皆亡げ小乗異部、閉口して咸く伏す。大乗の深法、再び閻浮に興す。衆生の機感已に正路に趣く。次は龍樹菩薩あり。六百の季曆、七百の初運なり。馬鳴に紹ぎ、五印を獨歩す。あらゆる外道、皆摧せざるなし。あらゆる佛法皆悉く傳持す。三本の華厳獨り胸蔵に含み、四辯の文河、妙に江海を控く。廣く論蔵を造りて藍より青く深く佛法を窮めて氷より寒し。凡そ斯の二大論師竝びに是れ高位の大士なり。馬鳴則ち古の大光明佛,今則ち迹を第八地に示す。龍樹則ち昔の妙雲相佛、今則ち位を初歓喜に寄す。俱に本、佛にして竝びに垂迹なり。智辯倫(たぐい)を超ゆ。其の事、宜なるかな。

(現代語訳)
仏滅後500年に外道が競い起きた。小乗仏教はやや勢いを失う。ましてや大乗仏教はなおさらである。ここに馬鳴菩薩が現れ、時まさに仏滅後600年、はじめて大乗仏教を広めた。『大乗起信論』などはこの時に著された。外道や邪見の物たちは、舌を巻いて逃げ出し、小乗仏教の異なる部派は、閉口して悉く絶句した。大乗の深法は、再び地球上に起こされた。人々の心が正しい道に向かった。
次に龍樹菩薩が現れた。仏滅後600年の終わりから700年の初めである。馬鳴菩薩についで、インド中を独り歩んだ。あらゆる外道はすべて打ち砕かないものはなかった。あらゆる仏の法をすべて伝え保った。三種類の『華厳経』を胸の中におさめ、四無礙の弁舌のさわやかなことは、川がとうとうと江海に注ぐようであった。多くの論を著し、師を超えること出藍の誉れ高く、仏法を極めて、迷いを打ち破ることは氷よりも冷たく厳しかった。
大体、この二人の偉大な論師は二人とも高位の菩薩である。馬鳴菩薩は古の大光明仏、今は第八地の菩薩として現れている。龍樹菩薩は昔の妙雲相佛、今は即ち初歓喜地の菩薩として現れている。共にもともと仏であり、今は菩薩となって現れているのである。智慧も弁舌も人間離れてしているのはもっともなことである。

爰大聖應現。化緣已盡。息化歸本。衆生業緣。亦復雜起。邪見還深。
依之九百年時。無著菩薩。出於世間。利益衆生。夜昇都率。現稟慈氏。晝降閻浮。廣教衆生。然衆生執深。尚不從化。故即請慈尊自降說法。慈尊請ニ應シテ降中天竺阿瑜遮那講堂。說五部大論。如瑜伽論。卷軸二百。八萬法門。深談奧義。一代教文。莫不皆判。故名廣釋諸經論矣。是時衆生。邪見悉伏。正路ニ同ク趣。進入妙麗。慈尊昇天之後。無著繼化閻浮。

(書き下し文)
爰に大聖の應現、化緣已に盡き、化を息め本に歸す。衆生の業緣、亦た復た雜起す。邪見還た深し。
之に依りて九百年時、無著菩薩、世間に出でて衆生を利益す。夜に都率に昇り、現に慈氏に稟(う)く。晝に閻浮に降り、廣く衆生を教う。然るに衆生の執深し。尚化に從わず。故に即ち慈尊に自ら降りて法を說くことを請う。慈尊、請に應じて、中天竺、阿瑜遮那(あゆしゃな)講堂に降り、五部の大論を說く。瑜伽論の如きは卷軸二百、八萬法門なり。深く奧義を談じ、一代の教文、皆判ぜざるなし。故に廣釋諸經論と名づく。是の時衆生、邪見悉く伏し、正路に同じく趣き、妙麗に進入す。慈尊昇天の後、無著繼いで閻浮を化す。

(現代語訳)
ここに仏の応身の現れの人々を導く縁がすでになくなり、導きをやめて本地へ帰っていった。人々はまた悪業を造り、悪縁にまみれた。間違った考えもまた深くなる。
これによって仏滅後900年の時、無著菩薩が世に出でて衆生を幸せに導く。夜兜率天に上り、弥勒菩薩に教えを受けた。昼になると地上に降りて多くの人々に教えた。だが人々の執着は深い。なお導きに従わない。そのため弥勒菩薩に自ら降りてきて教えを説いてもらえないかお願いした。弥勒菩薩は招請に応じ、中インド,グプタ王朝の首都、アヨーディヤーの講堂に降り、『瑜伽師地論』『分別瑜伽論』『大乗荘厳経論』『弁中辺論』『金剛般若経論』の五部の偉大な論書を説いた。
『瑜伽師地論』などは200巻(実際は100巻)八万の法門をおさめる。深く仏教の奥義を説いて、釈迦一代の教えをすべておさめているので、『広釈諸経論』といわれる。この時、人々の間違った考えを悉く正し、正しい道を歩み、すばらしい世界へ進んだ。弥勒菩薩が天に戻った後は、無著菩薩が嗣いで人類を導いた。

此時代中。世親施化。始弘小乘。廣制五百部論。後學大乘。亦造五百部論。故世擧號千部論師。加之訶梨跋摩之成實論。衆賢論師之順正理。此時製矣。

(書き下し文)
此の時代の中、世親化を施す。始め小乗を弘め、廣く五百部の論を制す。後に大乗を學び、亦た五百部の論を造る。故に世擧げて千部の論師と號す。加のみならず訶梨跋摩の成實論、衆賢論師の順正理、此の時製す。

(現代語訳)
この時代に、世親も教化を行った。はじめは小乗仏教を広めて五百部の論を説いた。後に大乗仏教を学び,また五百部の論を著した。故に世の中はこぞって千部の論師と呼んだ。それだけでなく、ハリヴァルマンは『成実論』を著し、衆賢は『順正理論』を著した。

如來滅後一千年間。大乘宗義。未分異計。千一百年之後。大乘始起異見。故千一百年。護法。清辨。諍空有於依他之上。千七百歳。戒賢。智光。論相性於脣舌間。如金剛與金剛。似巨石與巨石。厥餘諸大論師。龍智。提婆。青目。羅睺羅。陳那。親勝。火辨。智月等。竝是四依大士。衆生所歸。古今挺出。蘭菊諍美。諸宗各取以為祖匠。衆生互憑以為上首。如此論師古來繼出。照燭五印。抜濟衆生。是為天竺弘通之相也。

(書き下し文)
如來の滅後一千年間、大乗の宗義は未だ異計に分かれず。千一百年の後、大乗始めて異見を起こす。故に千一百年、護法、清弁、空有を依他の上に諍う。千七百歳、戒賢、智光、相性を脣舌の間に論ず。金剛と金剛との如く、巨石と巨石とに似る。厥の餘の諸の大論師、龍智、提婆、青目、羅睺羅、陳那、親勝、火弁、智月等、竝びに是れ四依の大士、衆生の歸する所なりて、古今に挺出し蘭菊美を諍う。諸宗各取りて以て祖匠と為す。衆生互いに憑みて以て上首と為す。此くの如き論師、古來繼ぎ出で五印を照燭し、衆生を抜濟す。是れ天竺弘通の相となすなり。

(現代語訳)
仏滅1000年の間は、大乗の教えはいまだ異なる見解に分かれなかった。1100年の後、大乗仏教は初めて異なる見解を生じた。そのため護法と清弁は依他起性が空なのか有なのか論争した。1700(1200)年経つと戒賢、智光が、現象と本質を口頭で論争した。それはダイヤモンドとダイヤモンド、巨石と巨石のようなもので平行線をたどった。
その他のたくさんの大論師、龍智、提婆、青目、羅睺羅、陳那、親勝、火弁、智月など、並びに拠り所となる4種類の菩薩に人々は帰依し、古今に抜きん出て現れ、蘭と菊が美を競うようであった。諸宗はそれぞれ、自宗の祖師とする。人々はそれらの人を権威として上首とした。このような論師が次々現れて五インドを照らし、人々を救済した。これがインドに仏教が伝わったありさまである。

第三節 中国

至如震旦國者。如來滅後一千年末。迦騰始來。竺蘭次至。始傳三寶。漸弘五乘。自爾已來。漢魏。晉。宋。齊。梁。陳。隋。唐。宋。此等朝中。三藏諸師。各傳佛教。互弘聖法。至如翻經三藏。或從西至此。或從此往還。大小三藏。皆悉翻傳。顯密二宗。互各弘通。是以羅什。玄奘之窮翻經妙也。果感韋陀之天告矣覺賢。曇無之稱傳譯美也。遂得海龍之神護矣。

(書き下し文)
震旦國の如きに至りては、如來の滅後一千年末、迦騰始めて來たり、竺蘭次に至り、始めて三寶を傳う。漸く五乘を弘む。爾(そ)れ自り已來、漢魏、晉、宋、齊、梁、陳、隋、唐、宋、此等の朝の中に三蔵諸師、各佛教を傳え、互いに聖法を弘む。經を翻ず三蔵の如きに至りては。或いは西從り此に至り、或いは此從り往還す。大小の三蔵、皆悉く翻傳す。顯密の二宗、互いに各弘通す。是れ以て羅什、玄奘の翻經の妙を窮むるや、果して韋陀の天告を感ず。覺賢、曇無の傳譯の美を稱するや、遂に海龍の神護を得たり。

(現代語訳)
中国については、仏滅後1000年の末、迦葉摩騰が初めて、竺法蘭が次にやってきて、はじめて三宝(仏教)を伝えた。ようやく人乗、天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の五乗を広めた。それ以来、漢魏、晋、宋、斉、梁、陳、隋、唐、宋、各朝の三蔵法師たちが、それぞれ仏教を伝え、聖なる法を広めた。経典を翻訳する三蔵法師については、或いは西域から中国に至り、或いは中国僧がインドへ往って帰ってきた。
大乗と小乗の三蔵はすべて翻訳され伝えられ、顕教と密教の二宗はそれぞれ伝えられた。鳩摩羅什くまらじゅうと玄奘の翻訳の妙を極めることは韋駄天の霊告を感じるようである。『華厳経』を翻訳した覚賢、『涅槃経』を翻訳した曇無讖の翻訳の美は、ついに海の竜神の加護を受けるほどであった。

※迦騰……迦葉摩騰
※竺蘭……竺法蘭
※曇無……曇無讖

其餘高僧。崇佛法之者。或金陵。淨影ノ月。澄于八不顯實之水。或南岳。天台ノ華。鮮于一心三觀之薗。慈恩。淄洲ノ風。凉于三草二木之梢。香象。清凉ノ玉。明于十玄六相之臺。加之。光。寶二師。窮對法而明明。礪。宣兩家。瑩戒律而歷歷。况於成實之大義惠。影。獨麗。真言之密教。行。果。俱朗乎。自外諸德。不可稱計。竝弘大道。互通佛教。威德巍巍。數感天給。妙解蕩蕩。頻見心佛。如此高僧。古今之間。多哉。大哉。豈言語之所及乎。此謂震旦弘傳之相也。

(書き下し文)
其の餘の高僧、佛法を崇める者は、或いは金陵淨影の月、八不顯實の水に澄(す)む。或いは南岳天台の華、一心三觀の薗に鮮やかなり。慈恩淄洲の風、三草二木の梢に涼し。香象清涼の玉、十玄六相の臺(うてな)に明らかなり。しかのみならず光、寶の二師、對法を窮めて明明として、礪、宣の兩家、戒律を瑩(みが)いて歷歷たり。况んや成實の大義に於ては、惠影、獨り麗しく、真言の密教は、行、果、俱に朗らかなるをや。自外の諸德、稱(あ)げて計(かぞ)うべからず。竝びに大道を弘め、互いに佛教に通ず。威德巍巍として、數(しばし)ば天給に感ず。妙解、蕩蕩として頻りに心佛を見る。此の如きの高僧、古今の間、多(た)なるかな、大なるかな。豈に言語の及ぶ所ならんや。此れを震旦弘傳の相と謂うなり。

(現代語訳)
その他の高僧、仏法を崇める者は、例えば三論宗の嘉祥大師吉蔵や地論宗の浄影寺慧遠は、八不によって中道を顕す水を澄みわたらせた。或いはまた天台宗の南岳慧思、天台智顗の、一心三観の園は鮮やかである。法相宗の慈恩大師基(窺基)、淄洲大師慧沼の五姓各別の教えは、『法華経』の喩である三草二木の梢に涼しく吹き抜ける。賢首大師法蔵や清涼大師澄観は、華厳宗の玉を十玄六相の台に輝かせた。
それだけでなく、普光と法宝の二師は、『阿毘達磨倶舎論』を極めてを明かした。法礪、道宣の両家は、戒律の玉を磨いて律宗を明らかにした。ましてや成実宗の偉大な教えについては慧影が一人極め、真言密教は一行と恵果が共に明らかであった。自他のたくさんの大徳は数え上げることができない。それぞれ偉大な教えを広め、互いに仏教を伝えた。その威徳は輝き、しばしば天賦の才を感じる。すばらしい解説は広大で、しばしば心の仏を見た。
このような高僧は、古から今日まで、なんと多いことか、偉大であることか。とても言葉で言い尽くすことはできない。これが中国に仏教が伝わったありさまである。

※金陵……南京のこと。金陵に生まれた吉蔵のこと。

第四節 日本

至如日本國者。人王第三十代。欽明天皇御宇。第六年乙丑(當梁大同八年)十一月。從百濟國聖明王。獻金銅釋迦像一軀。及幡蓋若干經論。天皇歡喜。即見崇之。于時臣下雖不敬之。遂建寺宇。安-置佛經。其後漸漸三寶興建。第三十一代。敏達天皇元年壬辰正月一日。聖德太子誕-生和國。更弘佛法。廣滿天下。伽藍諸處。度人無量。守屋逆臣。被定慧弓箭。高麗兩僧。得弘通稱譽。降伏邪見。紹隆三寶。抜濟衆生。施作佛事。千古百來。何處過之。偏是上宮太子善巧之力也。

(書き下し文)
日本國の如きに至りては、人王第三十代、欽明天皇の御宇、第六年乙丑(きのとうし)(當梁大同八年)十一月、百濟國の聖明王より金銅の釋迦像一軀、及び幡蓋(ばんがい)、若干の經論を獻ず。天皇歡喜す。即ち見て之を崇む。時に臣下之を敬せずと雖も遂に寺宇を建てて佛と經とを安置す。其の後漸漸に三寶興建す。第三十一代、敏達天皇元年壬辰(みずのえたつ)正月一日、聖德太子和國に誕生し、更に佛法を弘む。廣く天下に滿ち、伽藍諸處、人を度すること無量なり。守屋逆臣、定慧の弓箭を被る。高麗兩僧、弘通の稱譽を得る。邪見を降伏し、三寶を紹隆し、衆生を抜濟し、佛事を施作す。千古百來、何處か之に過ぐ。偏に是れ上宮太子善巧の力なり。

(現代語訳)
日本については、人王第三十代、欽明天皇の世、6年目の乙丑(梁の大同8年に当たる)11月、百済の聖明王から、金銅の釈迦像一体と、幢幡(どうばん)と天蓋、若干の経典と論書を献上され、天皇は歓喜した。ただちに見てこれを崇めた。その時、物部、中臣などの臣下はこれを敬わなかったが、蘇我氏はついに寺を建立して、仏像と経典を安置した。
その後、だんだんと仏教が興隆した。第三十一代、敏達天皇元年壬辰の正月一日、聖徳太子が日本に誕生し、更に仏法を広めた。広く天下に満ちて各所に伽藍が建てられ、数限りもない人々が救われた。逆臣の守屋は、戒定慧の弓矢を受けた。高句麗の慧慈と慧聡の2人の僧が、仏法を広めて讃えられた。邪見を正し、三宝を盛り上げ、人々を救済し、仏事を行った。古よりどこにこれに過ぎることがあろうか。これひとえに聖徳太子のすぐれたお力である。

自爾已來。高僧頻出。廣傳佛法。大聖垂迹遍弘三寶。慧灌僧正。傳三論深義。玄昉僧正。弘法相大乘。華嚴圓宗。道璿律師傳之。戒律。天台。鑒真和尚弘之。傳教大師。重興天台。弘法大師。盛開真言。俱舍。成實。各有傳承。此等諸德。或從唐至此。或從此往還。

(書き下し文)
爾れより已來、高僧頻りに出で、廣く佛法を傳う。大聖垂迹して遍く三寶を弘む。慧灌僧正、三論の深義を傳う。玄昉僧正、法相の大乘を弘む。華嚴圓宗、道璿律師、之を傳う。戒律、天台、鑒真和尚之を弘む。傳教大師、重ねて天台を興す。弘法大師、盛んに真言を開く。俱舍、成實、各傳承あり。此れ等の諸德、或いは唐より此に至り、或いは此より往きて還る。

(現代語訳)
それ以来、高僧がしきりに現れて,広く仏法を伝えた。仏が化身となって遍く三宝を広める。慧観僧正は、三論宗の深い教えを伝えた。玄昉僧正、法相の大乗を広めた。華厳の円宗は、道璿律師がこれを伝えた。戒律、天台は、鑑真がんじん和尚が広めた。伝教大師は重ねて天台宗を興隆した。弘法大師は、盛んに真言宗を開いた。倶舎論も成実論もそれぞれ伝承した。これらの高僧方は、道璿や鑑真のように唐から日本に来られた方もあれば、玄昉や伝教や弘法のように日本から唐へ行って学んで帰ってきた方もある。

自餘諸師。弘傳甚多。竝前後翫如上法。或汲玉泉之流。或傳慧日之光。或受清凉之滿月。或為玉花之門葉。或彳南山貞松之下。或遊西湖靈芝之薗。或青龍深窮海底。或大雲遍覆四面。大小兩乘。性相二宗。教觀二門。顯密二教。各各傳通不可稱計。七大諸寺。竝肩鑽仰。南北二京。諍美依學。互是龍象之徒衆。俱為人天之大師。厥餘邊方。亦隨弘通。自古至今繼踵不絕。末法味薄クモ教海本深。欲釣其奥不能及。大哉不可得而稱者也。此謂日域弘傳之相也。

(書き下し文)
自餘の諸師、弘傳甚だ多し。竝びに前後、如上の法を翫(もてあそ)ぶ。或いは玉泉の流を汲み、或いは慧日の光を傳え、或いは清凉の滿月を受け、或いは玉花の門葉となす。或いは南山貞松の下を彳(たたず)み。或いは西湖靈芝の薗に遊ぶ。或いは青龍深く海底を窮め、或いは大雲遍く四面を覆う。大小兩乘、性相二宗、教觀二門、顯密二教、各各傳通、稱計すべからず。七大諸寺、肩を竝べて鑽仰す。南北二京、美を諍い依學す。互いに是れ龍象の徒衆、俱に人天の大師となす。厥の餘の邊方、亦た隨いて弘通す。古より今に至るまで踵を繼ぎ、絕えず。末法の味薄くも教の海本深し。其の奥を釣らんと欲するに及ぶこと能わず。大なるかな、得て稱すべからざる者なり。此れを日域弘傳の相也と謂う。

(現代語訳)
それ以外に仏法を伝える師も非常に多かった。そして前から後へ伝えられた法を味わった。ある人は智顗の建てた玉泉寺の流れ(天台宗)を汲み、ある人は、吉蔵の住した慧日道場の光(三論宗)を伝え、ある人は清涼寺の澄観の満月(華厳宗)を受け、ある人は、玄奘の翻訳道場とされた玉華宮の門葉(法相宗)となった。道宣の南山律宗の固く律を守る松の下に立ち、ある人は、南山律宗は西湖菩提寺の允堪律師、霊芝寺の元照律師の園に遊ぶ。
ある人は青竜寺の恵果の深い海底を極め、ある人は、大雲寺の円暉『倶舎論頌疏』により遍く四面を覆った。大乗も小乗も、性宗(三論宗)も相宗(法相宗)も、教相門も観心門も、顕教も密教も、それぞれ伝えられて数えることはできない。奈良の七大寺は肩を並べて仰いで研鑽する。京都奈良の2つの都は美を争って学ぶ。学徳共にひいで力量ある僧侶に学ぶ人々は、共に人と神を導く師とする。京都、奈良以外の地域にもまた伝えられた。
古から現在まで、絶えずに伝えられている。末法になり味は薄くなるが、仏教の海はもともと深い。その奥義を知ろうとしても、及ぶことはできない。なんと大きなことか、言葉であらわすことができない。これが日本に伝えられたありさまである。

※竜象……学徳共にひいで力量ある僧侶のたとえ

第三章 八宗概説

問。三國弘傳之相。略知既爾。然今日域所傳佛法。總有幾許。請重明之。
答。日域教。自昔所翫。本只八宗。至今不改。其之中間。非無異宗。雖然古今共許所翫。其啻八宗而已。

(書き下し文)
問う。三国弘伝の相、略(ほぼ)知ること既にしかり。然るに今、日域に仏法の伝うる所、総じて幾許ありや。重ねて之を明かすことを請う。
答う。日域の教、昔より翫ぶ所、本只八宗なり。今に至りて改めず。其の中間、異宗なきに非ず。然りと雖も古今共に翫ぶ所を許す、其れ啻だに八宗のみ。

(現代語訳)
問い。三国に伝えられたありさまが大体分かったのはこの通りである。だが現在、日本に伝わっている仏教は全部で幾つあるのか。重ねてこれを教えてほしい。
答え。日本の仏教は昔から大切にされているのは、もともとただ八宗だけである。現在まで変わっていない。その間には異なる宗派がないこともない。しかし古今に共に大切にされているのは、ただその八宗だけである。

問。其八宗者云何。
答。言八宗者。一俱舍宗。二成實宗。三律宗。四法相宗。五三論宗。六天台宗。七華嚴宗。八真言宗也。

(書き下し文)
問う。其の八宗は云何ぞ。
答う。八宗と言うは、一には倶舎宗、二には成実宗、三には律宗、四には法相宗、五には三論宗、六には天台宗、七には華厳宗、八には真言宗なり。

(現代語訳)
問い。その八宗とはどのようなものか。
答え。八宗とは、1つには倶舎宗、2つには成実宗、3つには律宗、4つには法相宗、5つには三論宗、6つには天台宗、7つには華厳宗、8つには真言宗である。

問。此八宗中。幾是小乘。是大乘乎。
答。俱舍。成實及律。此三宗皆是小乘也。法相。三論。天台。華嚴及以真言。此之五宗。竝是大乘也。

(書き下し文)
問う。此の八宗中の幾か是れ小乗、是れ大乗なるや。
答う。倶舎、成実及び律、此の三宗皆是れ小乗なり。法相、三論、天台、華厳、及以(およ)び真言、此の五宗、並びに是れ大乗なり。

(現代語訳)
問い。この八宗の中でどれが小乗で、どれが大乗か。
答え。倶舎宗、成実宗、及び律宗の3つは小乗である。法相宗、三論宗、天台宗、華厳宗及び真言宗の5つは共に大乗である。

問。此之八宗所談義理。各可得聞乎。
答。諸宗義趣。深奧難知。一宗尚嗜未聞。况於八箇宗乎。故唯列名目。粗述一義耳。

(書き下し文)
問う。此の八宗の談ずる所の義理、各聞くことを得べきや。
答う。諸宗の義趣、深奥にして知り難し。一宗尚未だ聞かざることを嗜む。况んや八箇宗においてをや。故に唯だ名目を列(つら)ね粗く一義を述するのみ。

(現代語訳)
問い。これらの八宗の説く教えはそれぞれ聞くことができるか。
答え。諸宗の教義は奥深く、知ることは難しい。一宗でさえ未だ知らないことを学んでいるところである。ましてや八宗ともなると言を俟たない。そのためただ項目を並べて大雑把に一つの意味を述べるだけとなる。

本論

第一章 倶舎宗

第一節 対法蔵義

俱舍宗
問。何故名俱舍宗乎。
答。俱舍者。是本論名。具言之即論題云阿毘達磨俱舍論。論之一字是漢語。餘之六字竝梵語。阿毘此云對。達磨此云法。俱舍此云藏。謂對法藏論也。謂無漏慧名之為對。
對有二義。一者對-向涅槃故。二者對-觀四諦故。法有二義。一勝義法。謂是涅槃也。二法相法。通四聖諦。謂無漏慧。對-向對-觀涅槃四諦故。藏有二義。一者包含。二者所依。包含義者。此論包-含發智論等諸勝義言。故名為藏。對法之藏依主釋也。所依義者。此論依彼發智論等而造故爾。全取本論對法藏名。有對法藏故。名對法藏。是有財釋。論ニ具ナリ。題名其義如此。今此俱舍以為宗。故名俱舍宗也。

(書き下し文)
倶舎宗
問う。何が故ぞ倶舎宗と名づくや。
答う。倶舎は是れ本論の名なり。具さに之を言わば即ち論に題して阿毘達磨倶舎論と云う。論の一字是れ漢語なり。余の六字並びに梵語なり。阿毘は此れ対を云い、達磨は此れ法を云い、倶舎は此れ蔵を云う。謂わく対法蔵論なり。謂く無漏慧、之を名づけて対と為す。
対に二義あり。一には涅槃に対向するが故に。二には四諦を対観するが故に。法に二義あり。一には勝義の法、謂く是れ涅槃なり。二には法相の法、四聖諦に通ず。謂く無漏の慧、涅槃と四諦とに対向対観するが故に。蔵に二義あり。一には包含、二には所依なり。包含の義は、此の論、発智論等諸の勝義の言を包含す。故に名づけて蔵と為す。対法の蔵は依主釈なり。所依の義は、此の論、彼の発智論等に依りて造らるる故に爾り。全く本論の対法蔵の名を取る。対法蔵を有するが故に対法蔵と名づく。是れ有財釈なり。論に具さなり。題名、其の義此くの如し。今此の倶舎を以て宗と為すが故に倶舎宗と名づくなり。

(現代語訳)
問い。なぜ「倶舎宗」と名づけるのか。
答え。「倶舎」は論書の名前である。詳しくいえばその論の名前を『阿毘達磨倶舎論』と言う。「論」の一字は漢語で、他の六字は共にサンスクリットである。「阿毘」は対、「達磨」は法、「倶舎」は蔵という意味である。従って「阿毘達磨倶舎論」は「対法蔵論」という意味である。無漏の智慧を対という。
「対」には2つの意味がある。1つには涅槃ねはんに対向という意味、2つには四諦を対観するという意味である。「法」にも2つの意味がある。1つには勝義の法で、これは涅槃である。2つには法相の法で、これは四聖諦ししょうたいに通ずる。無漏の智慧は涅槃に対向し、四諦を対観するからである。「蔵」にも2つの意味がある。1つは包含、2つには所依である。包含というのは、倶舎論は『発智論』などのたくさんの真理の言葉を包含しているから蔵と名づけるのである。対法の蔵は依主釈である。所依というのは、倶舎論は、『発智論』などによって造られているからそのように名づけられる。全く倶舎論の「対法蔵」という名前そのままである。対法蔵を有するという意味で対法蔵と名づける。これは(横綱を有する者を横綱というような)有財釈である。『倶舎論』の詳しい題名と、その意味はこのようなものである。今『倶舎論』の「倶舎」を宗派の名前とするために、「倶舎宗」と名づけるのである。

第二節 造論縁起

問。此論如來滅後。經幾許年誰人造乎。
答。此論如來滅後九百年時。世親菩薩之所造也。二十部中。是薩婆多部也。源出婆沙。勢插諸教。婆沙是本發智。六足。如來滅後。四百年初。迦濕彌羅國有國王。名迦膩色迦。其王敬-信尊-重佛經。有日請僧入宮供養。王因問道。僧說不同。王甚怪焉。問脇尊者曰。佛教同源。理無異趣。諸德宣唱奚有異乎。尊者答曰。何說皆正。隨修得果也。佛既懸記。如折金杖。王聞此語。因為問曰。諸部立範。孰最善乎。我欲修行。願尊者說。尊者答曰。諸部之中。莫越有宗。王欲修行。宜遵此矣。王即歡喜。令結此部三藏法門。有德諸僧。四方雲集。凡聖極多。不可煩亂。遂簡凡僧。唯留聖僧。聖僧尚繁。簡去有學。唯留無學。無學復多。不可總集。於無學內。定閑滿六通。智圓四辯。內閑三藏。外達五明。方堪結集。所留德聖唯有四百九十九人。遂以世友尊者。足成五百人矣。即以世友尊者。推為上座。於是五百聖衆。初集十萬頌。釋咀怛覽藏。次造十萬頌。釋毘奈耶藏。後造十萬頌。釋阿毘達磨藏。即大毘婆沙是也。五百羅漢。既結集已。刻石立誓。唯聽自國。不許外國。方勅夜叉神。守護城門。不令散出。

(書き下し文)
問う。此の論、如来の滅後、幾許の年を経て誰人の造るや。
答う。此の論、如来の滅後九百年の時、世親菩薩の造る所なり。二十部の中、是れ薩婆多部なり。源に婆沙を出でて勢い諸教を插(はさ)む。婆沙是れ発智、六足を本とす。如来の滅後の四百年の初め、迦濕彌羅国に国王あり。迦膩色迦と名づく。其の王仏経を敬信し尊重す。有る日、僧を請(しょう)して宮に入れ供養し、王、因りて道を問うに僧の説くこと同じからず。王甚だ焉(これ)を怪しむ。脇尊者に問いて曰く、仏教源を同じくして理、異趣なし。諸徳の宣唱、奚ぞ異あるやと。尊者答えて曰く、何れの説も皆正し。修するに随いて果を得る。仏既に懸記す、金杖を折るが如しと。王此の語を聞きて因(よ)りて問いを為して曰く、諸部の立範、孰れか最善なるや。我修行せんと欲す。願わくは尊者説けと。尊者答えて曰く、諸部の中、有宗を越えたる莫し。王修行せんと欲せば宜しく此に遵うべしと。王即ち歓喜し、此の部の三蔵法門を結せしむ。有徳の諸僧、四方より雲集す。凡聖極めて多し。煩乱すべからず。遂に凡僧を簡び、唯だ聖僧を留む。聖僧尚繁くして有学を簡び去りて、唯無学を留む。無学復た多く、総て集むべからず。無学の内に於て、定の閑なること六通を満たし、智、四弁を円かにし、内は三蔵を閑(なら)い、外は五明に達する方に結集に堪え留める所の徳聖、唯四百九十九人あり。遂に世友尊者を以て足して五百人と成す。即ち世友尊者を以て推して上座と為す。是に於て五百の聖衆、初め十万頌を集めて咀怛覧蔵を釈す。次に十万頌を造りて毘奈耶蔵を釈す。後に十万頌を造りて阿毘達磨蔵を釈す。即ち大毘婆沙是れなり。五百羅漢、既に結集し已わんぬ。立誓して石に刻み、唯だ自国に聴(ゆる)して、外国を許さず。方に夜叉神に勅し、城門を守護して散出せしめず。

(現代語訳)
問い。『倶舎論』は、如来の滅後、どの位の時を経て誰が著したのか。
答え。この論は、如来の滅後900年の時、世親菩薩が著したものである。二十部の中、説一切有部である。『大毘婆沙論』をもとに、勢いで他の部派の教えも含んでいる。『大毘婆沙論』は『発智論』や六足論に基づいている。如来の滅後400年の初め、カシミールはクシャーナ朝にカニシカという国王がいた。その王は仏教を敬って信じ、尊重した。ある日、僧を招請して王宮に入れてもてなし、仏道を尋ねた。ところが僧たちの答えは一定しなかった。王はこれをいぶかって、脇尊者に「仏教は同じお釈迦様が説かれたものだから、教えに違いはないはずである。これらの方々のいわれることはなぜ異なるのか」と尋ねた。尊者は「どの説もみな正しいのです。実践すれぱ実りがあります。仏はすでに『私の滅後、諸説現れるのは金の杖を折るようなもので金であることに変わりはない』と予言されています」と答えた。それを聞いた王は「どの部派の教えが最善か。私は修行したいから、どうか答えてほしい」と尋ねた。尊者は「すべての部派の中で、説一切有部を超えるものはありません。王が修行されるなら、有部の教えにしたがうのがいいでしょう」と答えた。王は喜んで、この部派の三蔵を結集させた。有徳の僧が四方から群参したが、凡聖も含まれており、極めて多かった。混乱してはならないので、そのままさとりに至っていない者を除外し、さとりを得た僧だけを留めた。しかそれでもまだ多かったので、まだ阿羅漢に達していない者を除外し、阿羅漢のみを残した。阿羅漢だけでもまだ多く、全員集めることができなかった。阿羅漢の中で、禅定は六神通を満足し、智慧は四無礙弁を完成し、仏教の内には三蔵に精通し、世俗には声明、因明、内明、工巧明(くぎょうみょう)、医方明の五明に熟達した、結集に堪える高僧を留めたところ、499名であった。そして世友尊者を加えて500人になった。そこで世友尊者を推薦して議長とした。こうして五百人の高僧たちは、はじめに10万頌を結集して経蔵を釈した。次に10万頌を結集して律蔵を釈した。最後に10万頌を造り、論蔵を釈した。これが『大毘婆沙論』である。五百羅漢は結集を終わり、自国でのみ説いて、他国で説かないと誓いを立てて石に刻み、夜叉に城門を守らせて外国に流出しないようにした。

然世親尊者。舊習有宗。後學經部。將為當理。於有宗義。懷取捨心。欲定是非。潛名重往。時經四歲。屢以自宗。頻破他部。悟入尊者。被詰莫通。尊者入定。知是世親。私告之曰。此部衆中。未離欲者。知長老破。必相-致害。長老可速歸-還本國。于時世親。至本國已。講毘婆沙。若一日講スレバ便造一偈。攝一日中所講之義。刻赤銅葉。書寫此偈。如此次第成六百頌。攝大毘婆沙。其義周盡。標頌香象。擊鼓宣令。誰能破者アラハ。吾當謝之。竟無一人破斯偈頌。將此偈頌。使人齎往迦濕彌羅國。時彼國王及諸僧衆。聞皆歡喜。謂弘己宗。悟入知非。告怪諸人。遂請造ラシム釋。世親論主。即應王請。為釋本文。凡八千頌。後見彼釋。果如悟入羅漢所言。于時。悟入尊者弟子。衆賢論師。造論破俱舍。名俱舍雹論。令世親見。世親即讚。改名即為順正理論。彼衆賢論師。亦造顯宗論。譯成四十卷。順正理。譯成八十卷。故知。此俱舍論。源出婆沙論。

(書き下し文)
然るに世親尊者、旧には有宗を習い、後には経部を学ぶ。将に理に当れりと為す。有宗の義に於て取捨の心を懐く。是非を定めんと欲して潜かに名を重ねて往く。時四歳を経たり。屡自宗を以て頻りに他部を破る。悟入尊者、詰せられて通ずることなし。尊者定に入りて是れ世親なりと知りて、私(ひそ)かに之に告げて曰く、此の部の衆中、未だ欲を離せざる者は、長老の破を知らば、必ず害を相致さん。長老、速に本国に帰還すべしと。時に世親本国に至り已わりて毘婆沙を講ず。若し一日講ぜば便ち一偈を造る。一日中講ずる所の義を摂し、赤銅葉(しゃくどうよう)に刻して此の偈を書写す。此の如く次第に六百頌を成じて大毘婆沙を摂す。其の義、周く尽くす。頌を香象に標し、鼓(く)を撃ちて宣令(せんりょう)す。誰か能く破する者あらば、吾当に之を謝すべしと。竟に一人の斯の偈頌を破すものなし。此の偈頌を将(も)ちて人をして齎(もたらし)しめて迦濕彌羅国に往かしむ。時に彼の国王及び諸僧衆、聞きて皆歓喜す。謂(おも)えらく己の宗を弘む。悟入非なりと知りて怪を諸人に告ぐ。遂に釈を造ることを請う。世親論主、即ち王の請いに応じ、為に本文を釈す、凡(すべ)て八千頌あり。後に彼の釈を見るに果して悟入羅漢の言う所の如し。時に悟入尊者の弟子、衆賢論師、論を造りて倶舎を破す。倶舎雹論(くしゃばくろん)と名づく。世親をして見せしむ。世親即ち讃して名を改めて即ち順正理論(じゅんしょうりろん)と為す。彼の衆賢論師、亦た顕宗論を造る。訳して四十巻と成る。順正理、訳して八十巻と成る。故に知んぬ。此の倶舎論、源(もと)婆沙論を出づることを。

(現代語訳)
ところで世親菩薩は、もともとは説一切有部を学び、その後、経量部を学んだ。まさに理に適っていると思い、有部の教義をもとに取捨選択しようと思った。自分の考えが正しいかどうかを確かめたいと思い、名前を変えてカシミールに行き、4年が経った。しばしば経量部の自分の考えで説一切有部を論破した。悟入尊者も世親菩薩から詰問されて答えられなかった。悟入尊者は定に入り、これは世親菩薩だと見破り、ひそかに「この部派の僧でまだを離れていない者は、長老の論破を知ったら必ず暴力を振るうだろう。速やかに帰国したほうがいい」と告げた。
そこで世親は本国に帰り、毘婆沙論を講義した。一日講義すれば一偈を造り,一日講義した教義内容を収め、銅板に刻んでこの偈を書写した。このようにだんだんと六百偈を完成して『大毘婆沙論』全体を収めた。その教義はすべてを尽くしている。その銅板を象に示して太鼓を打って、誰かこれを論破できる人がいれば、私は謝罪しようと宣言した。しかしついに一人も偈頌を論破する者は現れなかった。この偈頌を人に頼んでカシミールに持って行ってもらった。
その時、国王や僧侶たちは、それを聞いて、有部の教えを広めていると思い、みな喜んだ。悟入だけはそうではないと気づき、怪しいと人々にいって、偈頌の解説を造ることを頼んだ。世親菩薩は王の願いに応じて、王のために本文を解説した。全部で8000頌あった。後にその解説を見ると果たして悟入羅漢の言う通りだった。その時、悟入の弟子の衆賢が論を造り、倶舎論を批判した。『倶舎雹論』という。世親菩薩に見せると,世親菩薩は称賛して、『順正理論』と改名した。衆賢はまた『顕宗論』も著した。漢訳すると40巻ある。『順正理論』は漢訳すると80巻ある。従って、この『倶舎論』はもともと『大毘婆沙論』からできたものであることが分かる。

※赤銅葉……銅板

第三節 翻訳弘伝

問。此論興起。既九百年時。其傳東夏。是何時耶。
答。此論翻時。即有二代。初陳朝真諦三藏。譯成二十一卷。即自作疏。有五十卷。亡逸不傳。後唐朝玄奘三藏。永徽年中。於慈恩寺。譯成三十卷。今即此本也。然則此論。既世親論主所造。故以世親菩薩。為本祖師。大唐國中遍學三藏。妙翻-傳之。門人普光法師。寶法師。各作疏釋之。及餘諸師。莫不皆翫。乃至。傳于日本。于今不絕。相承繼跡。諸寺競學。

(書き下し文)
問う。此の論の興起、既に九百年時なり。其の東夏に伝うるは、是れ何時ぞや。
答う。此の論の翻ずる時、即ち二代あり。初めに陳朝の真諦三蔵、訳して二十一巻と成す。即ち自作の疏、五十巻あり。亡逸(もういつ)して伝わらず。後に唐朝の玄奘三蔵、永徽年中、慈恩寺に於いて訳して三十巻を成す。今即ち此の本なり。然れば則ち此の論、既に世親論主の所造なり。故に世親菩薩を以て本祖師と為す。大唐国中、遍学三蔵、妙に之を翻して伝う。門人の普光法師、宝法師、各疏を作りて之を釈す。及び余の諸師、皆翫(まな)ばざるなし。乃至。日本に伝わり、今に絶えず相承して跡を継つぐ。諸寺競いて学ぶ。

(現代語訳)
問い。この『倶舎論』ができたのは、すでに仏滅後900年である。それが中国に伝わったのはいつか。
答え。この『倶舎論』の翻訳には2つの時代がある。初めに陳朝の真諦三蔵が翻訳して『倶舎釈論』二十巻とした。自作の解説は50巻あったというが、失われて伝わっていない。後に唐の玄奘三蔵げんじょうさんぞうが永徽年中(650-655)に、慈恩寺にて翻訳して三十巻とした。これが今言っている『倶舎論』である。これは世親菩薩の著されたものだから、世親菩薩が本宗の祖師である。偉大な唐の国で、唐の高宗から遍学三蔵と号せられた玄奘がすばらしい翻訳で伝えた。門人の普光と宝法がそれぞれ『倶舎論記』『倶舎論疏』という解説書を作って解説した。それ以外の僧たちも学ばない者はいなかった。やがて日本に伝えられ、今も絶えてず受け継がれ,続いている。各寺で競って学ばれている。

第四節 本論宗旨

問。此宗唯述有宗歟。頗有兼餘乎。
答。此論正述有宗。故所立義。本薩婆多。而製造之。然時友彼經部之義。故論文云。迦濕彌羅義理成。我多依彼釋對法(已上)。又云經部所說不違理故(已上)。取捨二宗。顯密意趣アリ。依此等文。其義可知。

(書き下し文)
問う。此の宗唯だ有宗を述するのみや、頗る余を兼ぬるありや。
答う。此の論正しく有宗を述す。故に所立の義、薩婆多を本として之を製造す。然も時に、彼の経部の義を友(とも)なう。故に論文に云く、迦濕彌羅の義、理成す。我多く彼に依りて対法を釈す(已上)と。又た云く経部の所説、理に違わざる故に(已上)と。二宗を取捨して顕密の意趣あり。此れ等の文に依りて其の義知るべし。

(現代語訳)
問い。倶舎宗は、ただ説一切有部の教義を説いているのか、一体、他を兼ねていることがあるのか。
答え。倶舎論はまさしく説一切有部の教義を説いている。だから土台は『大毘婆沙論』を根本として顕されている。その上で、たまに経量部の教義を伴っている。だから『倶舎論』の本文に、『大毘婆沙論』の教義を完成させた。私は多く『大毘婆沙論』によってアビダルマを解説している、と述べている。また、経量部の教義は理に適っているから、と述べている。説一切有部と経量部を取捨して、表向きは説一切有部の教義でありながら、密かに経量部の教義が説かれている。これらの『倶舎論』の言葉によってその意味を知るべきである。

問。此論以何為其宗旨。
答。既述有宗。故說一切諸法實有以為其宗。若密言之。非無經部義。今約顯意。唯是有宗。三世實有法體恒有。總是此宗所說義也。然說三世實有。諸說不同。即有四說。一法救尊者云。由類不同。三世有異。二妙音尊者云。由相不同。三世有異。三世友尊者云。由位不同。三世有異。四覺天尊者云。由待不同。三世有異。
今世親論主。竝評此四家。世友尊者以為最善。若經部宗。過未無體唯現是有。
此俱舍論既是對法。故此論藏。

(書き下し文)
問う。此の論何を以て其の宗旨と為す。
答う。既に有宗を述す。故に一切諸法の実有を説きて以て其の宗と為す。若し密に之を言わば、経部の義なきに非ず。今顕意に約すれば唯だ是れ有宗なり。三世実有法体恒有、総じて是れ此の宗の所説の義なり。然るに三世実有を説くに諸説同じからず。即ち四説あり。一には法救(ほっく)尊者の云く、類に由りて同じからずして三世異ありと。二には妙音尊者の云く、相に由りて不同にして三世に異ありと。三には世友尊者の云く位に由りて不同にして三世に異ありと。四には覚天尊者の云く、待に由りて不同にして三世に異ありと。
今世親論主、並びに此の四家を評して世友尊者、以て最善と為す。若し経部宗ならば、過未無体唯現是有なり。
此れ倶舎論既に是れ対法なり。故に此れ論蔵なり。

(現代語訳)
問い。この倶舎論は何をその根本的立場とするのか。
答え。すでに説一切有部を解説しているので、一切の法の実有を説いて根本的立場としている。もし裏の教義もいえば、経量部の教義もなきにしもあらずであるが、今は表向きの教義をいえば、説一切有部のみである。「三世実有法体恒有」は、総括すればこの有部の説く教義である。しかし三世実有といっても、諸説同じではない。諸説に4つある。1つには、法救尊者の類によって三世に異なりができるというもの、2つには、妙音尊者の相によって三世に異なりができるというもの、3つには、世友尊者の位によって三世に異なりができるというもの、4つには、覚天尊者の待によって三世に異なりができるというものである。
今、著者の世親、この4つの説を並べて評価し、世友尊者を最善という。もし経量部の教義を言うならば「過未無体唯現是有」である。
『倶舎論』はすでにアビダルマである。従ってこれは論蔵である。

第五節 本論組織

問。此論總明何等義乎。
答。此論三十卷。總有九品。一界品。二根品。三世間品。四業品。五隨眠品。六賢聖品。七智品。八定品。九破我品。
略頌云。界二。根五。世間五。業六隨三賢聖四。智二定二破我一。是名俱舍三十卷。
其破我品。無別正頌。聚經中伽陀而已。此九品中初之二品。總明有漏無漏。後之六品。別明有漏無漏。就總明中。初界品明諸法體。次根品明諸法用。別明六中。初之三品。別明有漏。後三品。別明無漏。明有漏中。世品明果。業品明因。隨眠品明緣。明無漏中。賢聖品明果。智品明因。定品明緣。其破我品明無我理。
一部三十卷。九品始終所明。義理分齊如此。

(書き下し文)
問う。此の論総じて何等の義を明かすや。
答う。此論三十巻、総じて九品あり。一には界品、二には根品、三には世間品、四には業品、五らには隨眠品、六には賢聖品、七には智品、八には定品、九には破我品なり。
略して頌に「界二、根五、世間五、業六隨三賢聖四、智二定二破我一、是名倶舎三十巻」と云う。
其の破我品、別の正頌なし。経中の伽陀を聚むるのみ。此の九品の中、初めの二品、総じて有漏無漏を明かす。後の六品、別して有漏無漏を明かす。総じて明かす中に就いて、初めの界品、諸法の体を明かす。次に根品は諸法の用を明かす。別して明かす六の中、初めの三品、別して有漏を明かす。後の三品、別して無漏を明かす。有漏を明かす中、世品、果を明かす。業品、因を明かす。隨眠品、縁を明かす。無漏を明かす中、賢聖品、果を明かす。智品、因を明かす。定品、縁を明かす。其の破我品、無我の理を明かす。
一部三十巻、九品の始終、明かす所、義理分斉、此の如し。

(現代語訳)
問い。この論は全体としてどんな教義を明らかにするのか。
答え。『倶舎論』は全30巻、九品に分かれている。1つには界品、2つには根品、3つには世間品、4つには業品、5つには隨眠品、6つには賢聖品、7つには智品、8つには定品、9つには破我品である。略して「界二根五世間五、業六隨三賢聖四、智二定二破我一、是名倶舎三十巻」と記憶用の七言詩にしている。
破我品に偈頌はなく、散文になっている。その散文の中に経典の偈頌が引用されているだけである。この九品の中で、最初の二品に、有漏無漏を総論として明らかにしている。あとの六品では、各論として有漏無漏を明らかにしている。総論の中で、初めの界品には諸法の体、次の根品には諸法の用を明かされている。各論の初めの三品には有漏、後の三品には無漏を明かされている。有漏の中で、世品に果、業品に因、随眠品に縁を明かしている。無漏を明かす中では、賢聖品には果、智品には因、定品には縁を明かしている。破我品には無我の理を明かしている。
『倶舎論』一部三十巻、九品の初めから終わりまで明らかにしている教えはこのようなものである。

第六節 五位七十五法

問。此宗幾種。攝諸法乎。
答。七十五法攝諸法盡。七十五法者。一者色法。此有十一。五根五境及無表色。
二者心法。此唯一也。六識心王。總為一故。三者心所有法。有四十六。分為六位。大地法十。大善地法十。大煩惱地法六。大不善地法二。小煩惱地法十。不定地法八。合有四十六。名六位心所。大地法十者。俱舍頌云。受ト想ト思觸ト欲ト。慧ト念ト與作意。勝解ト三摩地トハ。遍於一切心。(已上)大善地法十者。又同頌云。信ト及不放逸ト。輕安ト捨ト慚ト愧。二根及不害ト。勤トハ唯遍善心。(已上)
大煩惱地法六者。同頌云。癡ト逸ト怠ト不信。惛ト掉トハ恒唯染。(已上)大不善地法二者。頌云。唯遍不善心。無慚及無愧。(已上)小煩惱地法十者。頌云。忿ト覆ト
慳ト嫉ト惱ト害ト恨ト諂ト誑ト憍トハ。如是類名テ為小煩惱地法。(已上)。不定地法八者。略頌云。尋ト伺及悔眠。貪ト瞋與慢疑。四者不相應行。此有十四。俱舍頌云。心不相應行得ト非得ト同分ト。無想ト二定ト命ト。相ト名身ト等類(已上)五者無為。此有三種。一擇滅無為。二非擇滅無為。三虛空無為。此名七十五法。七十五中前七十二竝是有為。後三是無為。一切諸法不過此二。有為法中。有漏無漏。無為是無漏。故此宗中建七十五。攝於諸法。莫不窮盡。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾種に諸法を摂するや。
答う。七十五法にて諸法を摂し尽くす。七十五法は、
一には色法、此れ十一あり。五根、五境、及び無表色なり。
二には心法。此れ唯だ一なり。六識心王、総じて一となす故に。
三には心所有法、四十六あり。分かちて六位と為す。大地法十、大善地法十、大煩悩地法六、大不善地法二、小煩悩地法十、不定地法八、合して四十六あり。六位の心所と名づく。大地法十は、倶舎頌に云く、受と想と思と觸と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍(へん)ず。(已上)大善地法十は、又同頌に云わく、信と及び不放逸と輕安と捨と慚と愧、二根及ぴ不害と勤とは唯だ善心に遍ず。(已上)大煩悩地法六は同頌に云く、癡と逸と怠と不信、惛と掉とは恒に唯だ染なり。(已上)大不善地法二は頌に云く、唯だ不善心を遍ず無慚及び無愧なり。(已上)小煩悩地法十は、頌に云く、忿と覆と慳と嫉と惱と害と恨と諂と誑と憍とは、是の如き類を名づけて小煩悩地法と為す。(已上)。不定地法八は、略頌に云く、尋と伺及び悔と眠と貪と瞋と慢と疑となり。
四には不相応行、此れ十四あり。倶舎頌に云く、心不相応行、得と非得と同分と無想と二定と命と相と名身と等の類なり(已上)
五には無為、此れ三種あり。一には択滅無為、二には非択滅無為、三には虚空無為なり。
此れを七十五法と名く。七十五中、前の七十二、並びに是れ有為なり。後の三、是れ無為なり。一切諸法は此の二に過ぎず。有為法の中、有漏と無漏とあり。無為は是れ無漏なり。故に此の宗の中に七十五を建てて諸法を摂めて窮め尽くさざるなし。

(現代語訳)
問い。倶舎宗、諸法を幾つに分けるのか。
答え。七十五法によってあらゆるものを収め尽くす。七十五法は、
1つには色法が11、五根と五境、無表色である。
2つには心法、これは1つだけである。六識の心王は全部で1つとするからである。
3つには心所有法、46ある。6位に分かれる。大地法10、大善地法10、大煩悩地法6、大不善地法2、小煩悩地法10、不定地法8、合計46ある。これを六位の心所という。
大地法10は、倶舎論の偈頌に「受と想と思と觸と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に起きる」と説かれている。
大善地法10は、同頌に「信と及び不放逸と輕安と捨と慚と愧、無貪と無心の二根及ぴ不害と勤とは唯だ善心と共に起きる」とある。
大煩悩地法6は、同頌に、「癡と逸と怠と不信、惛と掉とは、常に染心について起きる」とある。
大不善地法2は、同頌に、「すべての不善心について起きる無慚及び無愧」とある。
小煩悩地法10は、同頌に、「忿と覆と慳と嫉と惱と害と恨と諂と誑と憍は、これらを小煩悩地法という」とある。
不定地法8は、同頌に、「尋と伺、及び悔と眠と貪と瞋と慢と疑」とある。
4つには不相応行、これに14ある。倶舎論の偈頌に「心不相応行、得と非得と同分と無想と二定と命と相と名身などである」とある。
5つには無為である。これに3つある。1つには択滅無為、2つに非択滅無為、3つには虚空無為である。
これを七十五法という。75の中で、初めから72までは、すべて有為である。後の3は無為である。あらゆるものは、この2つのどちらかである。有為法には、有漏と無漏がある。無為は無漏のみである。従って、倶舎宗では、七十五法によってあらゆるものを収めて、何一つもれるものはない。

第七節 三乗因果

問。此宗之中。三乘因果。云何建立乎。
答。於三乘中。聲聞經三生六十劫。修行得果。方便有七階。果即四級。緣覺經四生百劫。修因證果。因行積集。直登無學。無有多階。唯一向果。菩薩經三阿僧祇劫。修諸波羅蜜。百劫之中。植相好業。最後身中。於金剛座。斷結成佛。化緣已盡。入無餘涅槃。斯迺聲聞觀四諦。緣覺觀十二因緣。菩薩修六度。

(書き下し文)
問う。此の宗の中、三乗の因果、云何が建立するや。
答う。三乗の中に於て、声聞は三生六十劫を経て修行し得果す。方便に七階あり。果は即ち四級なり。縁覚は四生百劫を経て因を修し果を証す。因行は積集し、直ちに無学に登る。多階あることなし。唯一の向と果となり。菩薩は三阿僧祇劫を経て、諸波羅蜜を修し、百劫の中、相好業を植え、最後身中、金剛座に於いて結を断じて成仏す。化縁已に尽きて無余涅槃に入る。斯れ迺ち声聞は四諦を観ず。縁覚は十二因縁を観ず。菩薩は六度を修す。

(現代語訳)
問い。この宗派の中で、三乗の修行とその結果はどのように説かれているか。
答え。三乗の中で、声聞は速ければ三生、遅ければ六十劫の修行をしてさとりを得る。準備として三賢と四善根の七階がある。さとりは預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の四果である。縁覚は速ければ四生、遅ければ百劫の修行をしてさとりを得る。修行を積み集めて直ちに最高位のさとりを得るのであって多くの段階はない。修行段階の向位と、さとりの果位がただ一つずつある。菩薩は三阿僧祇劫の間、六波羅蜜ろくはらみつを修行し、百劫の間、三十二相八十随形好を得るためのたねまきをして、最後の生で、金剛座で煩悩を断ちきり、成仏する。人々を救う縁が尽きて無余涅槃に入る。修行については、声聞は四諦を観ずる。縁覚は十二因縁を観ずる。菩薩は六波羅蜜を行ずる。

第八節 我空法有

問。此宗明幾空乎。
答。唯明生空。不談法空。言生空者。即遣我執。五蘊之中。無有人我。唯是五蘊和合聚成スルヲ假名為人。無有實人。如此觀故。證我空理。然其法體。三世實有。由此義故。他宗名為我空法有宗也。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾(いくばく)の空を明かすや。
答う。唯生空を明かし、法空を談ぜず。生空と言うは、即ち我執を遣る。五蘊の中、人我あることなし。唯是れ五蘊和合して聚成するを仮りに名づけて人となす。実の人あることなし。此の如く観ずる故に我空の理を証す。然るに其の法体は三世実有なり。此の義に由るが故に、他宗名づけて我空法有宗となすなり。

(現代語訳)
問い。倶舎宗は幾つの空を明かすか。
答え。ただ生空を明かして法空を説かない。生空というのは、我執を正す。五蘊の中に、人我は決してない。ただ五蘊が和合して集まって生じているのを仮に人と名づけているだけである。人の実体はない。このように観察するために、我空の理をさとる。しかし、その法体は、三世実有である。この教義があるために、他の宗派から我空法有宗といわれている。

第二章 成実宗

第一節 成実名義

問。何故名成實宗乎。
答。以成實論為所依故。名成實宗。言成實者。釋成如來所說三藏之中實義故也。故彼論師述懷文云。故我欲正論三藏中實義。(已上出彼論第一初。)

(書き下し文)
問う。何が故ぞ成実宗と名づくや。
答う。成実論を以て所依と為すが故に成実宗と名づく。成実と言うは如来所説の三蔵の中、実義を釈成するが故なり。故に彼の論師、述懐の文に云く、故に我三蔵中の実義を正しく論ぜんと欲すと。(已上彼の論、第一の初めに出づ。)

(現代語訳)
問い。なぜ「成実宗」と名づけるのか。
答え。『成実論』を所依とするから成実宗という。「成実」というのは、如来の説かれた三蔵の中で、真実を解説するという意味である。だから『成実論』の著者は、「だから私は三蔵の中の真実を正しく論じようと思う」と説いている。(『成実論』第一の初めに出ている)

第二節 造論訳伝

問。此論如來滅後幾年。誰人造乎。
答。如來滅後九百年中薩婆多宗學者。俱摩羅陀上足弟子。有訶梨跋摩。嫌師見解是甚淺劣。簡取諸部最長之義。以為一類。而成宗矣。姚秦朝代。羅什三藏翻譯弘之。一部十六卷。二百二品。震旦諸師。多造章疏。乃至日域。以依學之。

(書き下し文)
問う。此の論、如来の滅後幾年、誰人の造るや。
答う。如来の滅後九百年中、薩婆多宗学者、俱摩羅陀の上足の弟子、訶梨跋摩あり。師の見解を是れ甚だ浅劣なりと嫌い、諸部最長の義を簡び取り、以て一類をなして而宗を成す。姚秦朝代、羅什三蔵、翻訳して之を弘む。一部十六巻、二百二品なり。震旦の諸師、多く章疏を造る。乃し日域に至り、以て之に依りて学ぶ。

(現代語訳)
問い。『成実論』は、如来の滅後何年に、誰が著したのか。
答え。如来の滅後900年代に説一切有部の学僧、俱摩羅陀の高弟に訶梨跋摩という者がいた。師の考えを非常に浅く劣っていると嫌い、各部派の最もいいところを選び取り,それを一つにして教義を形成した。姚秦朝の時代、三蔵法師の鳩摩羅什がこれを翻訳して広めた。一部十六巻、二百二品ある。中国の僧侶たちがたくさんの解説書を作った。ようやく日本に伝わり、それによって学んでいる。

第三節 系譜宗義

問。此之論宗。二十部中。正何部攝。又最長義者。是何等義乎。
答。定成實論所依本部。諸解不同。或云依多聞部。或云依經部。或云探大釋小。或云依曇無德部。或云取諸部長。(小乘諸長。)或云依化地部。又梁三大法師トハ謂光宅寺法雲法師。開善寺智藏法師。莊嚴寺僧旻法師。此三家。竝云成實論是大乘(云云)。天台。嘉祥。竝判小乘。南山。靈芝。俱云分通大乘。(與四分律同計。)如此諸師異說不同。然淨影。天台已後。多分共評。云成實論是小乘中長(云云)。但南山律師。教是小乘。義通大乘(云云)。小乘之中多云。成實多依經部(云云)。或曇無德部(云云)。其最長義者。此宗之中。具明二空。故觀立二種。一者空觀。如瓶中無水。五蘊之中。無人我故。是人空觀也。二者無我觀。如瓶體無實。五蘊諸法假名故。是法空觀也。既明二空故。其義最長。

(書き下し文)
問う。此の論の宗、二十部の中、正に何部に摂すや。又た最長の義は是れ何等の義なるや。
答う。成実論所依の本部を定むるに、諸解同じからず。或いは多聞部に依ると云う。或いは経部に依ると云う。或いは大を探して小を釈すと云う。或いは曇無徳部に依ると云う。或いは諸部の長を取ると云う。(小乗の諸の長なり。)或いは化地部に依ると云う。又た梁の三大法師とは光宅寺法雲法師、開善寺智蔵法師、荘厳寺僧旻法師、此の三家を謂う。並びに成実論是れ大乗(云云)と云う。天台、嘉祥、並ぴに小乗判ず。南山、霊芝、俱に大乗に分通すと云う。(四分律と同計なり。)此の如く諸師の異説同じからず。然るに浄影、天台已後、多分に共に評して、成実論是れ小乗中の長(云云)と云うと。但し南山律師、教は是れ小乗、義は大乗に通ず(云云)。小乗の中多く云う、成実多く経部に依ると(云云)。或いは曇無徳部と(云云)。其の最長の義は、此の宗の中、具さに二空を明かす。故に観、二種を立っ。一には空観、瓶中に水なきが如し。五蘊の中、人我なきが故に。是れ人空観なり。二には無我観、瓶の体実なきが如し。五蘊諸法仮りに名づくが故に。是れ法空観なり。既に二空を明かすが故に、其の義最長なり。

(現代語訳)
問い。『成実宗』は、二十の部派のうち、何部に属するのか。また最もすぐれているのはどんなところか。
答え。『成実論』の拠り所となる部派を定めようとすると、諸説分かれる。ある人は、多聞部に依るという。ある人は、経量部によるという。『三論玄義』には「大乗の意を探り、以て小乗を釈す」と書いてある。曇無徳部によるという人もいる。あるいは色々な部派のいいとこどりをしているという人もいる。(小乗各部派のいいところである)或いは化地部に依るという人もいる。また、梁の三大法師とは光宅寺法雲法師、開善寺智蔵法師、荘厳寺僧旻法師であるが、共に『成実論』は大乗であるという。天台智顗や嘉祥吉蔵は小乗と判定した。南山道宣、霊芝元照は、共に部分的に大乗に通ずると言った。(それは『四分律』と同様の考えである)このように、祖師たちの諸説まちまちである。しかし浄影寺慧遠、天台智顗以降は、『成実論』は小乗の中で最もすぐれたものであると評価している。但し、南山律師道宣は、教えは小乗であるが、その内容は大乗に通ずるという。小乗の中では、多くの人が、経量部によるところが多いという。または曇無徳部である。『成実論』の最もすぐれている所は、その教えに、欠けることなく二空を明かすことである。そのために二種の観法がある。1つには空観、瓶の中にみずがないようなものである。五蘊の中に人我がないからである。これは人空観である。2つには無我観である。これは瓶の実体がないようなものである。五蘊のあらゆる要素は仮に名づけているだけだからである。これが法空観である。すっかり二空を明らかにしているため、それが最もすぐれている。

第四節 賢聖階位

問。若爾可斷二執。顯二空故。
答。不然。雖談二空。唯斷見思。不斷所知障。啻是智解甚深故。此論中明二十七賢聖。以攝賢聖階位。其二十七者。一隨信行。在聞思位。二隨法行。在四善根位。三無相行。即前二人入見道故。此之三人名預流向。四須陀洹果。五一來向。六一來果。七不還向。不還果中。開十一人。一中般。二生般。三有行般。四無行般。五樂慧。六樂定。七轉世。八現般。九信解。十見得。十一身證。竝前七人。合成十八。名有學人。自下九人。竝是無學。一退法相。二守護相。三死相。四住相。五可進相。六不壞相。七慧解脫。八俱解脫。九不退相。竝前十八。合成二十七賢聖也。

(書き下し文)
問う。若し爾らば二執を断ずべきか。二空を顕す故に。
答う。然らず。二空を談ずと雖も唯だ見思を断ず。所知障を断ぜず。啻だに是れ智解甚だ深きが故に。此の論の中に二十七賢聖(けんじょう)を明かす。以って賢聖の階位を摂す。其二十七は、一には隨信行、聞思の位にあり。二には隨法行、四善根の位にあり。三には無相行、即ち前二人、見道に入るが故に。此の三人預流向と名づく。四には須陀洹果、五には一来向、六には一来果、七には不還向、不還果の中に十一人を開らく。一には中般、二には生般、三には有行般、四には無行般、五には楽慧、六には楽定、七には転世、八には現般、九には信解、十には見得、十一には身証なり。並びに前七人、合して十八を成ず。有学の人と名づく。下より九人、並びに是れ無学なり。一には退法相、二には守護相、三には死相、四には住相、五には可進相、六には不壊相、七には慧解脱、八には俱解脱、九には不退相なり。並びに前の十八と合して二十七賢聖を成ずるなり。

(現代語訳)
問い。もし我空と法空を明らかにするならば、我執と法執を談ずることができるか。
答え。できない。我空と法空を説くが、ただ見道で断滅する見惑と修道で断滅する思惑の煩悩を断じ、所知障を断ずることはできない。知的な理解が深いだけだからである。『成実論』には二十七賢聖という階位がある。
1つには隨信行、聞思の位である。2つには隨法行、四善根の位である。3には無相行である。前の二人は見道に入るから、この三人を預流向という。4つには須陀洹果、5つには一来向、6つには一来果、7つには不還向である。不還果の中には11種類ある。1つには中般、2つには生般、3つには有行般、4つには無行般、5つには楽慧、6つには楽定、7つには転世、8つには現般、9つには信解、10には見得、11には身証である。前の7人と合わせて18となり、これ有学の人という。以下の9人はすべて無学である。1つには退法相、2つには守護相、3つには死相、4つには住相、5つには可進相、6つには不壊相、7つには慧解脱、8つには俱解脱、9つには不退相なり。この9すべてと前の18と合わせて二十七賢聖となる。

第五節 八十四法

八十四法。攝諸法盡。雖未進入大乘。於小乘中。尤為優長。寔可怪矣。是大乘歟。一切諸法。歸一滅諦。空理寂然。諸法此上立。實法堅情如氷釋。假有萬像如林森。虛通妙通其旨深矣。

(書き下し文)
八十四法、諸法を摂めて尽くす。未だ大乗に進入せずと雖も小乗中に於て尤も優長たり。寔(まこと)に怪しむべし、是れ大乗か。一切諸法、一つの滅諦に帰す。空理寂然として諸法、此の上に立つ。実法の堅情、氷の如く釈(と)く。仮有の万像は林の如く森(しげ)し。虚通妙通、其の旨深し。

(現代語訳)
八十四の要素であらゆるものを収めきる。大乗に入っていないとしても、小乗の中では最も勝れている。これは大乗ではないかと疑わずにはおれない。あらゆるものは、唯一の滅諦である空に基づく。我がある仮名心、無我だが実法がある法心、諸法無我の空心の3つとも空じる。この静かで澄み切った空の真理にあらゆるものは立脚している。法に実体があるという固い迷いは氷のように融け、因縁和合して仮に生ずる森羅万象は林のようにしげっている。有も空じ、空も空じる、有と空との間に妨げるものが何もない虚の教えは絶妙で非常に深い。

第三章 律宗

第一節 宗名諸律

問。何故名律宗乎。
答。律為所依。故名律宗。

(書き下し文)
問う。何が故ぞ律宗と名づくや。
答う。律、所依となすが故に律宗と名づく。

(現代語訳)
問い。なぜ律宗と名づけるのか。
答え。律を所依とするために律宗というのである。

問。律有幾部。
答。律有諸部。謂二部。五部。十八。五百。
是如來在世五十箇年。隨機散說。滅後弟子。昇座結集スルヲ名為一部。八十誦律大毘尼藏。佛滅百年五師瀉瓶。純是一味。未分異見。一百年後漸分。二部五部及二十部乃至五百異見競鼓。猶如浩波。經論亦然。三藏等教。一類ヲ以テ分ルゝカ故。其中律部。隨計異成。故一大藏。分成諸部。如此諸部數多ケレトモ不出二十部內。故律部中有二十部。天竺之間。諸部竝弘。

(書き下し文)
問う。律に幾部ありや。
答う。律、諸部にあり。謂く二部、五部、十八、五百なり。
是れ如来在世五十箇年、機に随いて散説せり。滅後の弟子、昇座結集するを名づけて一部八十誦律大毘尼蔵と為す。仏滅百年、五師瓶を瀉して純(もっぱ)ら是れ一味にして未だ異見に分かれず。一百年後、漸く分かつ。二部、五部、及び二十部乃至五百の異見競い鼓す。猶し浩波の如し。経論亦た然り。三蔵等の教は一類を以て分るるが故に。其の中、律部、計に随いて異成ず。故に一大蔵、分かれて諸部を成ず。此の如く諸部の数多けれども二十部内を出でず。故に律部の中、二十部あり。天竺の間、諸部並びに弘む。

(現代語訳)
問い。律にいくつの部派があるか。
答え。律は各部派にある。二部、五部、十八部、五百部である。これは釈迦在世の50年,相手に応じて法を説かれた。釈迦入滅後、弟子が会議を開いて結集したものを一部八十誦の偉大な律蔵とする。仏滅100年、5人の祖師が、一器の水を一器に移すがごとく伝えて混じりけなく一つのもので、異説に分かれていなかった。100年後、次第に、2部、5部と分かれ、20部から500部と異なる見解が競うように起こった。まるで大きな波のようである。経蔵も論蔵も同様である。三蔵の教えは、部派ごとに伝持されるためである。その中で、律蔵も教義の違いによって異なって伝えられた。そのため、一つの三蔵が分かれてたくさんの部派ができた。このように部派の数は多いけれども、高々20部である。従って、律は20ある。インドではそれぞれの部派が共に広めた。

第二節 翻訳弘伝

然傳震旦。總有四律及以五論。其四律者。一者十誦律。譯成六十八卷。是薩婆多部律也。二者四分律。譯成六十卷。是曇無德部律也。三者僧祇律。譯成四十卷。此根本二部中。窟內上座也。大衆名通二部故。四者五分律。譯成三十卷。此五部中。彌沙塞部律也。迦葉遺律。唯傳戒本。廣律未流。四律竝翻震旦悉行。然獨流後代。唯曇無德部四分律宗而已。
其五論者。一毘尼母論。二摩得勒伽論。此依薩婆多律。三善見論。此解四分律。四薩婆多論。此釋十誦律。五明了論。此依正量部律。自外毘奈耶律及新譯有部諸律。竝傳震旦。然四分一律。此土緣深。昔智首律師已前。諸部雜亂。未是專翫。智首律師。南山律師。或製五部區分鈔。或檢震旦。初興受體。專依四分而明受體。唯憑曇無而談隨行。自爾已來。乃至日域。唯傳此部。故且就四分一律。述興起之根元。明傳弘之由來。

(書き下し文)
然るに震旦に伝うるに総じて四律及以(および)び五論あり。其の四律とは一には十誦律、訳して六十八巻を成ず。是れ薩婆多部の律なり。二には四分律、訳して六十巻を成ず。是れ曇無徳部の律なり。三には僧祇律、訳して四十巻を成ず。此れ根本二部の中、窟内の上座なり。大衆の名、二部に通ずるが故に。四には五分律、訳して三十巻を成ず。此れ五部中の、弥沙塞部の律なり。迦葉遺の律、唯だ戒本を伝えて広律未だ流(つた)わらず。四律並びに震旦に翻じて悉く行う。然して独り後代に流(つた)わるもの、唯だ曇無徳部の四分律宗のみ。
其の五論とは一には毘尼母論(びにもろん)。二には摩得勒伽論(まとろがろん)。此れ薩婆多律に依る。三には善見論、此れ四分律を解す。四には薩婆多論、此れ十誦律を釈す。五には明了論、此れ正量部律に依る。自外の毘奈耶律及び新訳有部諸律、並びに震旦に伝う。然るに四分一律、此の土、縁深し。昔、智首律師已前、諸部雑乱して未だ是れ専ら翫ばず。智首律師、南山律師、或いは五部区分鈔を製し、或いは震旦を検し、初めて受体を興すや専ら四分に依りて受体するを明かし、唯だ曇無を憑みて随行を談ず。爾りしより已来、乃し日域に至るまで、唯だ此の部を伝う。故に且らく四分一律に就いて興起の根元を述べ、伝弘(でんぐ)の由来を明かす。

(現代語訳)
こうして中国に伝わったのは、全部で四つの律と5つの論であった。その4つの律とは、1つには『十誦律』、61(68ではない)巻に漢訳されている。これは説一切有部の律である。2つには『四分律』、60巻に漢訳された。これぱ法蔵部の律である。3つには『摩訶僧祇律』、漢訳されて四十巻となった。これは根本に畢鉢羅窟内と畢鉢羅窟外で結集を行ったうちの、窟内の上座部である。大衆という名前は、人数が多いという意味で、二部共に通じるからである。4つには『五分律』、漢訳されて三十巻となった。これは五部の中の、化地部の律である。飲光部の律はただ戒律の条項だけを記した『解脱戒経』が伝えられたが、由来なども記した広律はいまだに伝わっていない。このように4つの律が中国語に翻訳され,すべて実践されたが、唯一広大に伝えられたのは,法蔵部の『四分律』だけであった。
中国に伝えられた五論とは、1つには『毘尼母論』。2つには『摩得勒伽論』、これは説一切有部に依る。3つには『善見論』、これは四分律を解釈したものである。(実はパーリ律の注釈)4つには『薩婆多論』、これは『十誦律』の解釈である。5つには『明了論』、これは正量部の律に依っている。これら以外には、『根本説一切有部毘奈耶』や新しく翻訳された有部律が伝えられた。しかし、『四分律』だけが中国と縁が深かった。昔、隋の智首律師以前は、各部派の律が入り乱れて、一つだけが実践されるまでに至っていなかった。ところが智首律師が『五部区分鈔』を著し、南山律師道宣が『四分律行事抄』を著した。中国の戒律の始まりを研究すると、専ら『四分律』に依って受戒し、戒体を作っていたことが分かった。そこで、ただ法蔵部の『四分律』で授戒することにしたのである。それ以来、日本に至るまで、ただ法蔵部の『四分律』を伝えている。そのため、しばらく『四分律』一つについて、盛んになった根元を述べて,伝えられた由来を明かにする。

第三節 四分律伝統

問。四分律宗。何時興乎。
答。未分已前。一味瀉瓶。如來在世。隨機散說。佛滅百年。結集流傳。一百餘年時。曇無德羅漢。隨見誦出。以為一部。此是時此部始而分出。
問。震旦。日本。何時傳乎。
答。曹魏之世。法時尊者創受戒。姚秦之世。覺明三藏。始傳廣律。是震旦傳戒之由來也。
至日域。昔天平年中。日本榮叡。普照。此二師。往于唐朝。請大明寺鑒真大和尚。即應請來-至日本。途難極多。而不奈トモセ之。十有二年。海中忍難。逆浪六廻。志都不倦。第六度時。遂來-至日本。請-入東大寺。聖武天皇。王子百官。歡喜感悅。即毘盧舍那殿前。築壇行於受戒。天皇。皇后。乃至四百餘人。竝皆受戒。後遷大佛殿。西別建於戒壇院。自爾已來。年年行受。于今不絕。日本諸州戒律教宗。厥時廣行。莫不依翫又建唐招提寺。傳弘戒律。迨至于今續續不絕。戒律教宗。傳流日域。偏是鑒真大和尚之力也。

(書き下し文)
問う。四分律宗は何の時に興こるや。
答う。未だ分かれざる已前、一味に瀉瓶す。如来の在世、機に随いて散説す。仏滅百年、結集して流伝す。一百余年時、曇無徳羅漢、見に随いて誦出し、以て一部を為す。此に是の時、此の部始めて分出す。
問う。震旦、日本、何時伝うや。
答う。曹魏の世、法時尊者、受戒を創し、姚秦の世、覚明三蔵、始めて広律を伝う。是れ震旦伝戒の由来なり。
日域に至りては、昔、天平年中、日本の栄叡、普照、此の二師、唐朝に往き、大明寺の鑑真大和尚を請う。即ち請に応じて日本へ来至す。途(みち)難極めて多くして之を奈(いかん)ともせず、十有二年、海中、難を忍び、浪に逆らうこと六廻、志、都(すべ)て倦(う)まず。第六度の時、遂に日本に来至し、東大寺に請入す。聖武天皇、王子百官、歓喜し感悦す。即ち毘盧遮那殿の前に壇を築き、受戒を行う。天皇、皇后、乃至四百余人、並びに皆受戒す。後に大仏殿を遷し、西のかた別に戒壇を建つ。爾りより已来、年年受を行い、今に絶えず。日本諸州、戒律の教宗、厥の時広まり行ず。依りて翫ばぬことなし。又た、唐招提寺を建て、戒律を伝え弘む。今に至るに迨(およ)びて続続として絶えず、戒律の教宗、日域に伝流す。偏えに是れ鑑真大和尚の力なり。

(現代語訳)
問い。四分律宗はいつおきたのか。
答え。部派が分かれる前は、唯一の律が一器の水を一器に移すがごとく伝わった。釈迦在世中は、相手に応じてその都度説かれた。釈迦入滅後100年は、結集したものが伝わっていた。仏滅後100年代に曇無徳羅漢が、自分の考えに従って一部を伝えた。この時に、曇無徳部(法蔵部)が初めて分かれたのである。(『異部宗輪論』上座部→有部→化地部→法蔵部・スリランカの『島史』上座部→化地部→有部と法蔵部)
問い。中国、日本にはいつ伝えられたのか。
答え。曹魏の時代、法時(ダルマカーラ)尊者が授戒を創始し、姚秦の時代、覚明(ブッダヤシャス)三蔵が、初めて広律を伝えた。これが中国に律が伝えられた由来である。
日本については、昔、天平年間に、日本の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)の2人の僧が、唐に渡り、大明寺の鑑真和尚を招請した。招請に応じて日本へ渡ろうとしたところ、途中に困難が極めて多くどうにもならなかった。12年に亘って渡海の難を忍び、波に逆らって6度渡航し、一度も志をあきらめることはなかった。6回目に遂に日本に到着し、東大寺に招かれた。聖武天皇をはじめ、皇太子、多くの官僚たちが喜び感極まった。すぐに毘盧遮那殿の前に戒壇を築き,授戒した。天皇、皇后をはじめ400人が受戒した。後に大仏殿を移動し,西のへうに別途戒壇を建立した。それ以来、毎年受戒を行い、今も続いている。律宗はそれ以降、日本中に広まり行われ、学ばない者はいない。また、唐招提寺を建てて、戒律を伝え、広めている。現在に至るまで、次々と継承され、絶えずに律宗は日本に伝えられている。これは偏に鑑真和尚の功績である。

第四節 律宗相承

問。此宗立幾祖師。
答。自迦葉尊者。至于宋朝近來。其數總別甚多。謂佛是教主。理在絕言。迦葉尊者。阿難尊者。末田地尊者。商那和須尊者。優婆毱多尊者。曇無德。(此云法正尊者)曇摩迦羅(此云法時尊者)法聰律師。道覆律師。慧光律師。道雲律師。道洪律師。智首律師。南山律師。周秀律師。道恆律師。省躬律師。慧正律師。法寶律師。元表律師。守言律師。無外律師。法榮律師。處恆律師。擇悟律師。允堪律師。擇其律師。元照律師是也。
若別據當律初興。至于南山律師。驗為九祖。自法正尊者而取之故。南山已後次第同前。
若依日本弘傳。南山律師。弘景律師。鑒真大僧正。法進大僧都。如寶小僧都。豐安僧正等是也。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾の祖師を立つるや。
答う。迦葉尊者より宋朝近来に至るまで、其の数、総別甚だ多し。謂く仏は是れ教主なり。理として絶言に在り。迦葉尊者、阿難尊者、末田地(までんじ)尊者、商那和須(しょうなわしゅ)尊者、優婆毱多(うばきくた)尊者、曇無徳、(此れを法正尊者と云う)曇摩迦羅(此れを法時尊者と云う)法聡(ほっそう)律師。道覆(どうぶく)律師。慧光(えこう)律師。道雲(どううん)律師。道洪(どうこう)律師。智首(ちしゅ)律師。南山律師。周秀(しゅうしゅう)律師。道恒(どうこう)律師。省躬(しょうぐう)律師。慧正(えしょう)律師。法宝(ほうほう)律師。元表(がんぴょう)律師。守言(しゅごん)律師。無外(むげ)律師。法栄(ほうよう)律師。処恒(しょごう)律師。択悟(ちゃくご)律師。允堪(いんたん)律師。択其(ちゃくご)律師。元照(がんしょう)律師是也。
若し別して当律の初興に据らば、南山律師に至りて験(げん)して九祖と為す。法正尊者より之を取るが故に。南山已後は次第前に同じ。
若し日本の弘伝に依らば、南山律師、弘景(ぐけい)律師、鑑真(がんじん)大僧正、法進(ほうしん)大僧都、如宝(にょほう)小僧都、豊安(ぶあん)僧正等是れなり。

(現代語訳)
問い。律宗では何人の祖師をたてるのか。
答え。迦葉尊者から、宋朝の最近に至るまで、その数は律全体も、四分律も非常に多い。仏は教主だから、当然別格である。迦葉尊者、阿難尊者、末田地(までんじ)尊者、商那和須(しょうなわしゅ)尊者、優婆毱多(うばきくた)尊者、曇無徳、(法正尊者)、曇摩迦羅(法時尊者)、法聡(ほっそう)律師。道覆(どうぶく)律師。慧光(えこう)律師。道雲(どううん)律師。道洪(どうこう)律師。智首(ちしゅ)律師。南山律師。周秀(しゅうしゅう)律師。道恒(どうこう)律師。省躬(しょうぐう)律師。慧正(えしょう)律師。法宝(ほうほう)律師。元表(がんぴょう)律師。守言(しゅごん)律師。無外(むげ)律師。法栄(ほうよう)律師。処恒(しょごう)律師。択悟(ちゃくご)律師。允堪(いんたん)律師。択其(ちゃくご)律師。元照(がんしょう)律師である。
もし別に四分律が最初に興った時から数えれば、南山律師まで確かめると九祖である。法正尊者から起きたからである。それ以降はすでに述べたものと同じである。
もし日本へ伝えられたことをいえば、南山律師、弘景(ぐけい)律師、鑑真(がんじん)大僧正、法進(ほうしん)大僧都、如宝(にょほう)小僧都、豊安(ぶあん)僧正などである。

第五節 律宗分流

問。四分律宗。頗有異解分流乎。
答。唐朝有之。謂相部法礪律師。終南山道宣律師。西大原寺東塔懷素律師。各立異義門葉。互諍此。名律三宗。鑒真和尚。相部大疏。南山虬文竝傳日本。諸寺諸山。竝令講通彼唐朝三宗。後唯南山ノミ遺テ。自餘諸家。廢絕不行。良以。南山宗義。受隨相稱。行相備足。大小途和。解行相應故也。古今諸師。俱競嘆美。諸宗賢哲。竝翫依學。如行事鈔。七十三家互作記解。自界他方。俱致承奉。誰有如祖師。賢聖所嘆人。何其如此乎。汎而言之。四分律藏翻譯已來。諸師製疏。將二十家。然取要言之。不過三疏。慧光律師略疏四卷。相部律師中疏十卷。智首律師廣疏二十卷。此名三要疏。然唐朝三宗礪宣素義。以攝-束諸解。多在此三。相部大疏。嵩岳律師。作記解釋。飾宗義記十卷是也。智首律師大疏。既是南山所承。故與南山而一途也。東塔律師四分開宗記十卷。獨流-行天下。互謂盡美俱稱指南。唐朝之末。東京競起。又玄惲律師毘尼討要三卷。與餘家少異矣。四分大小等疏是也。俱多分與南山同。此六家章疏。日本竝傳焉。今盛依-學南山一家。兼奉-行嵩岳。新家之義。三宗律義之不同。恐繁不述。南山律師。製作章疏。總五大部ナリ。一行事鈔三卷(分為十二卷)二戒疏四卷(分為八卷)三業疏四卷(分為八卷)四拾毘尼義鈔三卷(本是三卷。然下卷逸。唯有上中。今分四卷。)五比丘尼鈔三卷(分為六卷)戒本羯磨。竝作註解。及小部律章。自餘諸文。部帖多多。不可具擧。南山律宗。正所依學。即此五大部等也。其本所依。即四分律六十卷是ナリ。言其論釋。即善見論是ナリ。

(書き下し文)
問う。四分律宗、頗る異解分流ありや。
答。唐朝に之あり。謂く相部の法礪律師、終南山の道宣律師、西大原寺東塔の懐素律師、各異義門葉を立て互いに此を諍う。律の三宗と名づく。鑑真和尚、相部の大疏、南山の虬文(きゅうもん)、並びに日本へ伝う。諸寺諸山、並びに彼の唐朝三宗を講通せしむ。後に唯だ南山のみ遺りて自余の諸家、廃絶して行ぜず。良(まこと)に以んみれば南山の宗義、受随相称(かな)い、行相備足し、大小の途(みち)和し、解行相応するが故なり。古今の諸師、俱に競いて嘆美す。諸宗の賢哲。並びに翫(もてあそ)び、依りて学ぶ。『行事鈔』の如きは、七十三家、互いに記解を作る。自界他方、俱に承奉致すこと、誰か祖師の如くあらん。賢聖の嘆ずる所の人、何ぞ其れ此の如きや。
汎(ひろ)く之を言わば、四分律蔵の翻訳已来、諸師疏を製す。二十家に将(なら)んとす。然るに要を取りて之を言わば、三疏に過ぎず。慧光律師の『略疏』四巻。相部律師『中疏』十巻。智首律師の『広疏』二十巻。此れを三要疏と名づく。然るに唐朝三宗、礪宣素の義、以て諸解に摂束す。多く此の三にあり。相部の『大疏』、嵩岳律師、記を作りて解釈す。『飾宗義記』十巻是れなり。智首律師『大疏』、既に是れ南山の承ける所なり。故に南山と一途なり。東塔律師の『四分開宗記』十巻、独り天下に流行す。互いに美を尽くすと謂い、俱に指南を称す。唐朝の末、東京(とうけい)に競い起きる。又た玄惲(げんうん)律師の『毘尼討要』三巻、余家と少しく異なる。四分大小等の疏是れなり。俱に多分に南山と同じ。此の六家の章疏、日本に並びに伝う。今、盛んに南山一家に依学す。兼ねて嵩岳、新家の義を奉行す。三宗律義の不同、繁きを恐れて述べず。
南山律師、章疏を製作す。総て五大部なり。一には『行事鈔』三巻(分かちて十二巻と為す)二には『戒疏』四巻(分かちて八巻と為す)三には『業疏』四巻(分かちて八巻と為す)、四には『拾毘尼義鈔』三巻(本是れ三巻なり。然れども下巻逸す。唯だ上中あり。今は四巻に分かつ。)五には『比丘尼鈔』三巻(分かちて六巻と為す)戒本、羯磨、並びに注解を作す。及び小部の律章、自余の諸文。部帖多多たり。具に挙ぐべからず。南山律宗、正に依学する所、即ち此の五大部等なり。其の本の所依、即ち『四分律』六十巻是れなり。其の論釈を言えば、即ち『善見論』是れなり。

(現代語訳)
問い。四分律宗には、一体、異なる見解や分派はあるものか。
答え。唐朝にあった。それは相部の法礪律師、終南山の道宣律師、西大原寺東塔の懐素律師が、それぞれ異なる教えを門葉に教え、互いに論争した。これを律の三宗という。鑑真和尚は、相部宗の法礪律師の大疏と、南山宗のすぐれた文章を共に日本へ伝えた。日本中の寺で、それらの唐朝三宗を共に学んだが、後には南山宗だけが遺ってそれ以外の宗派は断絶して行われなくなった。本当に考えてみると、南山宗の教えは、受戒とその実行が一致しており、実践と戒の条文が完全に足りており、大乗にも小乗にも調和し、理論と実践が一致するためであろう。古今の諸師、共に競ってその美しさを嘆える。各宗派の学者たちは、共に大切に学んでいる。道宣の『行事鈔』などは、73人がそれぞれ解説を作っている。都でも地方でも、共に承け奉る祖師は他にいないのではなかろうか。智者や聖者のこのように讃える人はいるだろうか。
一般に、『四分律』の律蔵が翻訳されて以来、たくさんの解説書が著され、全部で20になろうとしている。しかし重要なものをいえば、3つに過ぎない。慧光律師の『略疏』4巻、相部の法礪律師の『中疏』10巻、智首律師の『広疏』20巻である。これを三要疏という。唐朝の三宗、法礪、道宣、懐素の教えによって、ほとんどの解釈をおさめ、多くはこの三つにある。相部の法礪の『大疏』は、弟子の嵩岳律師が解説書を作って解釈している。それが『飾宗義記』10巻である。智首律師の『大疏』は、弟子の南山に教えを継承しているから、南山と解釈は同じである。東塔律師の『四分開宗記』10巻は弟子がいないので単独で世の中に流布している。それぞれがすばらしく、律の指南となっている。唐末には、東京(とうけい)で競って学ばれた。また玄惲(げんうん)律師の『毘尼討要』3巻は、他の派と少し違う。『四分律』の大小の解説書である。共にかなり南山と同じである。この慧光、相部、智首、嵩岳、東塔、玄惲の六家の解説書は、日本にすべて伝えられたが、今は、南山によって学ぶことが盛んである。それに加えて嵩岳と、東塔の教えが学ばれる。3つの宗派の教えの違いは、煩雑になるので述べない。
南山律師は、全部で5つの解説書を著した。1つには『行事鈔』3巻(分けて12巻になっている)2つには『戒疏』4巻(分けて8巻になっている)。3つには『業疏』4巻(分けて8巻になっている)、4つには『拾毘尼義鈔』3巻(もとは3巻であったが、下巻が失われ、上巻、中間だけになっている。今は4巻となっている。)5つには『比丘尼鈔』3巻(分けて6巻になっている)。このように戒本から羯磨まで、すべてに解説を著している。また、比較的小さい律の著述、その他の色々な著作は多々あり、詳しく挙げることができない。南山律宗で、正に学ぶのは、これらの五大部などである。その本の拠り所は、『四分律』60巻である。その『四分律』の解説は、『善見論』である。

※玄惲……智首の弟子、道世律師
※嵩岳……定賓律師
※新家……東塔

第六節 止持作持

問。此宗明何法義。
答。此宗明戒也。有二種。一止持戒。五篇諸止惡門。二作持戒。說戒等諸修善門。如來所說一切諸戒。二持攝束。皆悉窮盡。故本律正宗所詮義理。唯此止作二持而已。初二部戒本。是名止持。後二十犍度。是名作持。二部戒本者。僧尼二部也。比丘比丘尼所持。名具足戒。戒本所說二部戒中。初明僧戒。僧有二百五十戒。分為八段。
一波羅夷。此有四戒。婬盜殺妄也。二僧殘。此有十三戒。一故出精戒。二觸女人戒。三麤語戒。四嘆身索供養戒。五媒嫁戒。六有主房戒。七無主房戒。八無根謗戒。九假根謗戒。十破僧違諫戒。十一助破僧違諫戒。十二汗家擯謗違諫戒。十三惡性拒僧違諫戒。三二不定。一屏處不定。二露處不定。四尼薩耆波逸提。此有三十。長衣。離衣。長鉢。乞鉢等也。五波逸提此有九十。小妄語。兩舌語。掘地。壤生。飲酒。非時食等也。六ニ四提舍尼蘭若受食。學家受食等也。七ニ百衆學戒。齊整著衣。戲笑。跳行等也。八ニ七滅諍。現前毘尼。憶念毘尼等。此之八段。具攝二百五十戒。攝-束八段以為五篇。一波羅夷。二僧殘。此二攝罪即如前段。三波逸提。合前捨墮ト單墮為一。總攝百二十戒。四提舍尼。如前。五突吉羅。合二不定ト百衆學ト七滅諍。以為一篇。總有一百九戒。此就果罪及急要義。立為五篇。自外諸罪。立於六聚而收-攝之。一波羅夷。二僧殘。三偷蘭遮。四波逸提。五提舍尼。六突吉羅。是為六聚。若開吉羅。即為七聚。五全如前。六惡作。七惡說。七聚之中。夷ト殘ト墮罪ト及提舍尼。攝罪同篇門。偷蘭一聚ニハ攝五篇外聚門。吉外一切因果輕重諸罪。惡作惡說ニハ攝篇門吉及餘一切因果吉罪。故離七聚。更無有罪。六聚ト七聚ト攝罪盡故。

(書き下し文)
問う。此の宗、何の法義を明かすや。
答う。此の宗、戒を明かすなり。二種あり。一には止持戒、五篇の諸の止悪門なり。二には作持戒、戒等諸の修善門を説く。如来の説く所の一切の諸戒、二持に摂束して皆悉く窮め尽くす。故に本、律の正宗の所詮の義理、唯だ此の止作二持なるのみ。初めの二部の戒本、是れを止持と名づく。後の二十犍度、是れを作持と名づく。二部の戒本は、僧尼二部なり。比丘、比丘尼の持する所、具足戒と名づく。戒本所説の二部の戒中、初めに僧戒を明かす。僧に二百五十戒あり。分かちて八段と為す。
一には波羅夷(はらい)、此れ四戒あり。婬盗殺妄なり。
二には僧残(そうざん)、此れに十三戒あり。一には故出精戒、二には觸女人戒、三には麤語戒、四には嘆身索供養戒、五には媒嫁戒。六には有主房戒、七には無主房戒、八には無根謗戒、九には仮根謗戒、十には破僧違諫戒、十一には助破僧違諫戒、十二には汗家擯謗違諫戒、十三には悪性拒僧違諫戒なり。
三に二不定。一には屏処不定、二には露処不定なり。
四には尼薩耆波逸提、此に三十あり。長衣、離衣、長鉢、乞鉢等なり。
五には波逸提、これに九十あり。小妄語、両舌語、掘地、壤生、飲酒、非時食等なり。
六には四提舎尼、蘭若受食、学家受食等なり。
七には百衆学戒、斉整著衣、戯笑、跳行等なり。
八には七滅諍、現前毘尼、憶念毘尼等なり。此の八段、具に二百五十戒を摂す。
八段を摂束して以て五篇(ごひん)と為す。
一には波羅夷、
二には僧残、此の二摂罪は即ち前段の如し。
三には波逸提、前の捨墮と単墮とを合して一と為す。総じて百二十戒を摂す。
四には提舎尼、前の如し。
五には突吉羅、二不定と百衆学と七滅諍とを合して以て一篇と為す。総じて一百九戒あり。此れ果罪及び急要の義に就いて立てて五篇と為す。自外の諸罪は六聚を立てて之を収攝す。一には波羅夷、二には僧残、三には偸蘭遮、四には波逸提、五には提舎尼、六には突吉羅、是れ六聚と為す。若し吉羅を開けば即ち七聚と為す。五は全く前の如し。六には悪作、七には悪説、七聚の中、夷と残と墮罪と及び提舎尼、摂罪、篇門に同じ。偸蘭の一聚に、五篇の外、聚門の吉外の一切の因果軽重の諸罪を摂す。悪作、悪説には篇門の吉と及び余の一切因果の吉罪を摂す。故に七聚を離れ、更に罪あることなし。六聚と七聚と罪を摂め尽くすが故に。

(現代語訳)
問い。この宗にはどのような法義を明かしているのか。
答え。この宗は戒を明かしている。これに二つある。1つには止持戒、五篇の止悪の教えである。2つには作持戒、戒など、修善の教えを説く。仏の説かれたすべての戒は、この2つに収てすべて余すところがない。だからもともと律宗の明らかにする教えは、ただこの止悪と作善の2つのみである。初めの二部の戒本は、止持である。後の20章は作持である。二部の戒本は、比丘と比丘尼の二部である。比丘、比丘尼が守るものは具足戒という。戒本に説かれた二部の戒の中、初めに比丘の戒を説かれる。比丘には二百五十の戒がある。八段に分ける。
1つには波羅夷である。これに4つの戒がある。婬、、妄である。
2つには僧残である。これに13戒がある。1つには故出精戒、2つには觸女人戒、3つには麤語戒、4つには嘆身索供養戒、5つには媒嫁戒。6つには有主房戒、7つには無主房戒、8つには無根謗戒、9つには仮根謗戒、10には破僧違諫戒、11には助破僧違諫戒、12には汗家擯謗違諫戒、13には悪性拒僧違諫戒である。
3つに二不定である。1つには屏処不定、2つには露処不定である。
4つには尼薩耆波逸提である。これに30ある。長衣、離衣、長鉢、乞鉢などである。
5つには波逸提である。これに90ある。小妄語両舌語、掘地、壤生、飲酒、非時食などである。
6つには四提舎尼である。これは蘭若受食、学家受食などである。
7つには百衆学戒である。斉整著衣、戯笑、跳行などである。
8つには七滅諍である。現前毘尼、憶念毘尼等である。
これらの八段で、欠けることなく二百五十戒を収める。
この八段を、五篇に収めるる。
1つには波羅夷、
2つには僧残である。この二摂罪は前述の通りである。
3つには波逸提、前述の捨墮(尼薩耆波逸提)と単墮(波逸提)とを合わせて一つにしたもので、全部で120戒を収める。
4つには提舎尼、前述のものである。
5つには突吉羅、二不定と百衆学と七滅諍とを合わせて一篇とする。全部で109戒ある。これらは結果についての重要な罪を5つに分けて五篇とする。
その他の罪も含めて六聚として分類する。1つには波羅夷、2つには僧残、3つには偸蘭遮、4つには波逸提、5つには提舎尼、6つには突吉羅、この6つが六聚である。もし突吉羅を2つに分ければ七聚となる。最初の5つは全く同じである。6つには悪作、7つには悪説である。七聚の中、波羅夷、僧残、波逸提と提舎尼、摂罪は五篇の分類と同じである。波逸提のひとまとまりに、五篇以外の罪、七聚門の突吉羅以外の一切の罪を収める。悪作、悪説には篇門の突吉羅とその他のすべての因果の突吉羅罪をおさめる。従って、七聚以外には決して罪はない。六聚と七聚で、罪を収め尽くしているからである。

※偸蘭遮……未遂罪=因罪
※果罪……結果になった罪
※悪作……悪いことをしたという後悔
※悪説……悪いことをしたと他人に告白すること

次明尼戒。比丘尼戒本律說相。唯有三百四十一戒。束為六段。一ニハ八波羅夷。二ニハ十七僧殘。三ニハ三十捨墮。四ニハ一百七十八單提。五ニハ八提舍尼。六ニハ百衆學尼。無二不定。其七滅諍。古來諍論。或可(ト云)有不(ト云)可ニ有(云云)。今南山律師義。必可有(云云)。本律文略故。可七段。故加七滅。總有三百四十八戒。此亦不出五篇。准比丘戒可知。此為二部廣律。本律前半所說法門。分齊如此。止持戒也。次作持門。犍度法者。本律後半二十犍度。一受戒犍度。二說戒犍度。三安居犍度。四自恣犍度。五皮革犍度。六衣犍度。七藥犍度。八迦絺那衣犍度。九俱腅彌犍度。十瞻波犍度。十一呵責犍度。十二人犍度。十三覆藏犍度。十四遮犍度。十五破僧犍度。十六滅諍犍度。十七尼犍度。十八法犍度。十九房舍犍度。二十雜犍度。此名二十犍度。此等竝是作持戒也。然二段本律。非無互通。止持有作。作持有止。雖有互通。就多分判前後兩段。以配二持。若對五大部者。事鈔。戒ト業ト兩疏。名三大部。戒疏即止持行相。防止隨持事詳也。業疏即作持修行。羯磨攝僧義明。事鈔雙明止作。衆(四人已上)自(一人)共(ノ二人三人)三行。二持備足。其尼鈔一部。別明尼二持。義鈔一部。多解止持。故祖師諸文。唯在二持矣。此二持戒有總有別。總而言之。一切諸善皆二持攝。別而言之。唯就戒律一宗明之。今二持者。且就戒律一門言之。若就總門。非無其義。

(書き下し文)
次に尼戒を明かす。比丘尼の戒本、律の説相、唯だ三百四十一戒あり。束ねて六段と為す。一には八波羅夷、二には十七僧残、三には三十捨墮、四には一百七十八単提、五には八提舎尼、六には百衆学。尼、二不定なし。その七滅諍、古来諍論す。或いは可と云い、あるべからずと云うありと云云。今、南山律師の義、必ずあるべしと云云。本律の文略すが故に七段なるべし。故に七滅を加え、総じて三百四十八戒あり。此れ亦た五篇を出でず。比丘戒に准じて知るべし。此れ二部広律となす。本律の前半に説く所の法門、分斉すること此の如し。止持戒なり。次に作持門なり。犍度法は本律後半二十犍度なり。一には受戒犍度、二には説戒犍度、三には安居犍度、四には自恣犍度、五には皮革犍度、六には衣犍度、七には薬犍度、八には迦絺那衣犍度、九には俱腅弥犍度、十には瞻波犍度、十一には呵責犍度、十二には人犍度、十三には覆蔵犍度、十四には遮犍度、十五には破僧犍度、十六には滅諍犍度、十七には尼犍度、十八には法犍度、十九には房舎犍度、二十には雑犍度、此れを二十犍度と名づく。此れ等並びに是れ作持戒なり。然るに二段の本律、互いに通ずることなきにあらず。止持作を有し、作持止を有す。互いに通ずることありと雖も、多分に就いて前後両段を判じて以て二持に配す。若し五大部に対すれば事鈔と戒と業両疏とを三大部と名づく。戒疏は即ち止持の行相、防止随持の事詳らかなり。業疏は即ち作持の修行、羯磨摂僧の義明らかなり。事鈔は止作を双(なら)び明かし、衆(四人已上)、自(一人)、共(二人三人)の三行、二持、備足す。その尼鈔の一部は、別して尼の二持を明かす。義鈔一部、多く止持を解す。故に祖師の諸文、唯だ二持にあり。此の二持の戒、総あり別あり。総じて之を言わば一切諸善、皆二持に摂す。別して之を言わば、唯だ戒律一宗に就いて之を明かす。今二持は、且らく戒律の一門に就いて之を言う。若し総門に就いても其の義なきにあらず。

(現代語訳)
次に比丘尼戒を明らかにする。比丘尼戒の条項は、『四分律』の説くところによれば、341戒ある。これを大きく6段に分ける。1つには8つの波羅夷、2つには17の僧残、3つには30の捨墮、4つには178の単提、5つには8つの提舎尼、6には100の衆学。比丘尼には二不定はない。七滅諍については昔から議論がある。ある人はあるべきだといい、ある人は、あるべきではないと言う。南山律師は必ずあるべしと言う。『四分律』には省略されているために、七段とすべきである。だから七滅を加えて全部で348戒である。これは五篇以外にはない。比丘戒から類推して考えればよい。これを比丘と比丘尼の二部広律とする。『四分律』の前半に説かれる法門は、分けるとこのようになる。止持戒である。
次に作持門である。犍度法は『四分律』後半の二十章である。1つには受戒犍度、2つには説戒犍度、3つには安居犍度、4つには自恣犍度、5つには皮革犍度、6つには衣犍度、7つには薬犍度、8つには迦絺那衣犍度、9つには俱腅弥犍度、10には瞻波犍度、11には呵責犍度、12には人犍度、13には覆蔵犍度、14には遮犍度、15には破僧犍度、16には滅諍犍度、17には尼犍度、18には法犍度、19には房舎犍度、20には雑犍度、これを二十犍度という。これらはすべて作持戒である。
しかし、この二段の『四分律』は互いに通ずることないわけではない。止持戒も作持戒を有し、作持戒も止持戒を有す。互いに通ずるところがある。しかしながら、大部分は、前段と後段を分けることによって、止持戒と作持戒に分類される。道宣の五大部では、『行事鈔』『戒疏』『業疏(羯磨疏)』を三大部という。『戒疏』は止持戒の行のありさま、を防ぎ、悪をやめ、戒体にしたがって戒を守ることについて詳しく説かれている。『業疏』は作持の修行、羯磨摂僧の教えが明らかにされている。『行事鈔』は止持と作持をどちらも明らかにし、4人以上の衆、自分1人、)、2人か3人の共の三行の、止持と作持を説いている。また五大部の『比丘尼鈔』は、別途詳しく比丘尼の止持と作持について明らかにしている。五大部の『拾毘尼義鈔』では、止持について多く解説されている。このように祖師の著述はただ止持と作持の二持である。この二持の戒、総論と各論がある。総論としては一切諸善は皆二持におさまる。各論としては、唯だ律宗のみについて明かされている。今二持は、一時的に律宗について説かれている。しかし仏教全体からみても、その教えがないわけではない。

第七節 七衆建立

問。僧尼具戒。局于此歟。
答。不然。僧尼具戒。無量無邊。若定數限。且隨緣制故。僧尼戒量。各有三重。僧戒三者。廣則無量。中則三千威儀六萬細行。略則二百五十。尼戒有三重者。廣則無量。中則八萬威儀十二萬細行。略則三百四十戒。經說五百戒。是有名無相。大智律師云。托境而言。戒則無量。且列二百五十。為持犯綱領。(已上。)尼戒亦爾。故僧尼二衆。受具戒時。竝得如此無量無邊等戒。量等虛空。境遍法界。莫不圓足。故名具足戒。其五戒。八戒。十戒。六法等。皆從具戒中抽之。漸誘機根。以為具戒方便。漸漸進登。遂成具足無願位故。是故總言戒有四位。五戒ト八戒ト十戒ト具戒トナリ。若加六法。總可五類。佛法七衆ヲ所-立建立。其七衆者。一比丘。二比丘尼。此之二衆竝具足戒。三式叉摩那。此受六法。四沙彌。五沙彌尼。此竝十戒。六優婆塞。七優婆夷。此竝五戒也。前五衆。是出家衆。後二在家。式叉ト沙彌及沙彌尼戒相。標數雖十戒等。至于護持。竝同具位。其八齋戒。為在家衆。授出家戒。然位唯在家優婆塞優婆夷之攝。七衆之外。無別衆故。其五戒者。一不殺生戒。二不偷盜戒。三不邪婬戒。四不妄語戒。五不飲酒戒也。八齋戒者。前五同上。但改邪婬。以為不婬。六香油塗身戒。七歌舞觀聽戒。八高廣大床戒。九非時食戒。薩婆多論云。八箇是戒。第九是齋。齋戒合數フル故有九也。(已上)言十戒者。前九同上。第十捉金銀寶戒。其六法者。一殺畜生。二盜三錢。三摩觸。四小妄語。五飲酒。六非時食也。此七衆中男衆有三。比丘ト沙彌ト及優婆塞。女衆有四。即餘四是。

(書き下し文)
問う。僧尼の具戒、此に局(かぎ)るや。
答う。然らず。僧尼の具戒、無量無辺なり。若し数限を定むれば、且つ縁に随いて制すが故に。僧尼戒の量、各三重あり。僧戒の三は広は則ち無量なり。中は則ち三千威儀六万細行なり。略せば則ち二百五十なり。尼戒に三重あり。広は則ち無量なり。中は則ち八万威儀、十二万細行なり。略せば則ち三百四十戒なり。経に五百戒を説くも、是れ名ありて相なし。大智律師云く境に托して言えば戒則ち無量なり。且らく二百五十を列して持犯綱領と為す。(已上)尼戒亦た爾り。故に僧尼の二衆、具戒を受けし時、並びに此の如き無量無辺等の戒を得。量、虚空に等しく、境、法界を遍く。円足せざることなし。故に具足戒と名づく。其れ五戒、八戒、十戒、六法等、皆、具戒の中より之を抽す。漸く機根を誘(いざな)い、以て具戒の方便と為す。漸漸に進み登り、遂に具足無願位を成すが故に。是の故に総じて戒に四位ありと言う。五戒と八戒と十戒と具戒となり。若し六法を加うれば総じて五類とすべし。仏法七衆を所立し建立す。其の七衆は、一には比丘、二には比丘尼、此の二衆並びに具足戒なり。三には式叉摩那、此れ六法を受く。四には沙弥、五には沙弥尼、此れ並びに十戒なり。六には優婆塞、七には優婆夷、此れ並びに五戒なり。前の五衆は是れ出家衆なり。後の二は在家なり。式叉と沙弥及び沙弥尼の戒相、標数は十戒等と雖も護持に至りては並びに具位に同じ。其の八斎戒、在家衆の為に出家戒を授く。然るに位は唯だ在家の優婆塞、優婆夷の摂なり。七衆の外に別の衆なきが故に。其の五戒は、一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不邪婬戒、四には不妄語戒、五には不飲酒戒なり。八斎戒は、前の五は上に同じ。但だ邪婬を改めて以て不婬と為す。六には香油塗身戒、七には歌舞観聴戒、八には高広大床戒、九には非時食戒、薩婆多論に云く、八箇は是れ戒、第九は是れ斎。斎戒合して数ふるが故に九あるなり。(已上)十戒と言うは、前の九は上に同じ。第十には捉金銀宝戒。其の六法は、一には殺畜生、二には盗三銭、三には摩触。四には小妄語。五には飲酒。六には非時食なり。此の七衆中、男衆に三あり。比丘と沙弥と及び優婆塞なり。女衆に四あり。即ち余の四是れなり。

(現代語訳)
問い。出家の男女の具戒はこれだけか。
答え。そうではない。出家の男女の具戒には数にも広さにも限りがない。数が限定されているのは、縁に随って制定されたからである。出家の男女の戒の数は、それぞれ3種類ずつある。比丘の戒の3種類というのは、広い意味では無限である。中としては『大比丘三千意義経』の3千威儀と、6万の細行である。それを省略して250戒となる。出家の女性の戒にも三種類ある。広は無限である。中は『菩薩瓔珞本業経』の8万威儀と12万細行である。それを省略して340戒となる。経典には五百戒が説かれているが、それは名前だけあって、具体的な条項は説かれていない。大智律師元照は、戒の対象からいえば戒は無限にあるが、仮に250を制定されて、守るべきものと犯してはならないものの綱要とされたのであると言っている。比丘尼の戒も同様である。だから出家の男女の二衆は、具足戒を受けた時、このような数も広さも限りない戒をすべて受けるのである。数は虚空に等しく、対象は大宇宙全体にわたり、足りないところはない。それで「具足戒」というのである。五戒、八戒、十戒、六法なども皆、具足戒から抜き出したもので、だんだんと人を導く。それによって具足戒への導きとしてだんだんと進み、そのままそれ以上求めるべきもののない具足戒に達する。だから戒には、全部で4段階がある。五戒と八戒と十戒と具足戒である。もし六法を加えれば、全部で五種類となる。これが、仏教の七衆を分類する理由である。その七衆とは、1つには比丘、2つには比丘尼、この二衆はどちらも具足戒である。3つには式叉摩那、これは五戒と非時食の六法を受ける。4つには沙弥、5つには沙弥尼、これはどちらも十戒である。6つには優婆塞、7つには優婆夷、これはどちらも五戒である。前の五衆は出家の人々である。後の2つは在家である。式叉摩那は六法戒、沙弥と沙弥尼は十戒を守るが、護持の方法はすべて具足戒と同じである。八斎戒は在家衆のために出家の戒を授けるものである。しかし立場は、在家の優婆塞、優婆夷である。七衆の外には分類がないからである。五戒とは、1つには不殺生戒、2つには不偸盗戒、3つには不邪婬戒、4つには不妄語戒、5つには不飲酒戒である。八斎戒は、最初の5つは五戒と同じである。ただし、邪婬は不婬に改める。6つには香油塗身戒、7つには歌舞観聴戒、8つには高広大床戒、9つには非時食戒である。『薩婆多論』に、初めの八つは戒だが、9番目は斎だから、斎と戒を合計して数えるので9あると説かれている。十戒とは、前の9つは八斎戒と同じである。10番目には捉金銀宝戒がある。六法とは、1つには殺畜生、2つには盗三銭、3つには摩触。4つには小妄語。5つには飲酒。6つには非時食である。この七衆の中で、男性の集まりは、比丘と沙弥と優婆塞の3つである。女性の集まりはそれ以外の4つである。

第八節 判教宗致

問。此宗立幾教。攝諸教乎。
答。南山律師。立化制二教。以攝一代教。亦名化行二教。其化教者。經論所詮定慧法門。四阿含等是也。其制教者。律教所詮。戒學法門。四分律等是也。今此宗部。即律藏教。以戒為宗。戒行清淨ナレハ定慧自立。故先持戒。制-禁業非。然後定慧伏-斷煩惑。(已上。南山御釈。為道制戒。)本非世福。三乘聖道。非戒不立。故如來最初制(シ玉フ)戒意。在茲矣。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾の教を立てて諸教を摂するや。
答う。南山律師、化制の二教を立てて以て一代教を摂す。亦た化行二教と名づく。其の化教は、経論所詮の定慧の法門、四阿含等これなり。其の制教は律教所詮の戒学法門、四分律等これなり。今此の宗部は即ち律蔵の教えなり。戒を以て宗と為す。戒行清浄なれば定慧自ら立つ。故に先に戒を持ち、業非を制禁す。然る後、定慧、煩惑を伏断す。(已上は南山の御釈にして道の為に戒を制す。)本世福に非ず、三乗の聖道、戒に非ずんば立せず。故に如来最初に戒を制したまう意、茲にあり。

(現代語訳)
問い。律宗では幾つの教えによってすべての教えをおさめるのか。
答え。南山律師は、「化制二教」を立てて、それによって釈迦一代の教をおさめる。これを「化行二教」ともいう。その「化教」とは、経蔵や論蔵に説かれる定学と慧学の教えであり、四阿含などである。「制教」とは、律蔵に説かれる戒学の教えで、四分律などである。今この律宗は律蔵の教えである。戒を重要視している。戒行が清浄なれば定慧は自ずと成立するから、先に戒を保ち、悪を禁ずるのである。それから定と智慧によって煩悩を抑え、断ち切る。(以上は南山律師道宣の解釈である。解脱げだつのために戒律は制定されている。)もともと世間的な利益のためではない。声聞縁覚菩薩の3つのきよらかな道は、戒律を守らなければ成り立たない。従って、釈迦が最初に戒を制定された御心はここにあるのである。

問。如常途云。五戒八戒感人天報。十戒具戒。唯得應果。(云云。)此義如何。
答。義未必然。若持五八戒。任因感報。即唯人天。十戒具戒。任因感果。即是小果。依此義故。常途云爾。若約意樂。其義不爾。故大智律師云。戒有四位。五八十具。若約鈍根。通為世善。若論上智。俱作道基。(已上)故知。戒法隨機有異。此是今宗之所談。祖師建立之意致也。

(書き下し文)
問う。常途(じょうず)に云うが如き、五戒、八戒、人を感じ天に報う。十戒、具戒、唯応果を得るのみ。(云云。)此の義、如何ぞ。
答う。義未だ必ずしも然らず。若し五、八戒を持せば、因に任せて報を感ず。即ち唯だ人天のみ。十戒、具戒、因に任せて果を感ず。即ち是れ小果なり。此の義に依るが故に、常途に爾(しか)云う。若し意楽に約せば、其の義爾らず。故に大智律師云く戒に四位あり。五、八、十、具なり。若し鈍根に約せば通じて世善となす。若し上智を論ぜば俱に道を作す基なり。(已上)故に知んぬ。戒法機に随いて異あり。此れは是れ今宗の所談なり。祖師建立の意致なり。

(現代語訳)
問い。普通に言われるような、五戒や八戒によって人や天に生まれ、十戒や具足戒ではただ応供(阿羅漢)の結果を得るだけというのは、どういうことか。
答え。それは必ずしもそうではない。もし五戒、八戒を保てば、その種まきの結果、ただ人や天に生まれるという結果になるだけである。十戒や具足戒は、そのたねまきの結果は小乗の結果(最高でも阿羅漢)である。その意味で、普通はそのように言われるのである。しかし目的によってはそうはならない。だから大智律師元照は、戒に五戒、八戒、十戒、具足戒の四段階がある。もし能力の劣った者からいえば、共通して世間的な善となる。もしすぐれた智慧を論ずれば、すべて仏道を求める基礎となる。(已上)従って知らされる。戒法というものは、人によって異なる。これは律宗の教えであり、祖師が律宗を開かれた心である。

※意楽……意志、目的

問。四分律宗。大小乘中。正是何乎。
答。律宗諸家所判不同。慧光律師云。四分一律宗是大乘(云云。)法礪。玄惲等師竝云。唯是小乘。(云云。)南山律師云。此四分宗。義當大乘。(云云。)今依此義。盛為所憑。故業疏中。立五義分通。謂沓婆廻心。施生成佛。施一切衆生。皆共成佛道。識-了塵境。相召佛子トス。捨財用ルハ輕ナリ。遙超餘部。寔為深義。束上諸戒。總有四科一者戒法。如來所制法。通萬境故。二者戒體。受者所發。心府領納故。今四分宗。依成實論。非色非心為體。三者戒行。受者隨持三業運造故。四者戒相。美德外彰。持相可軌故。一切諸戒。咸具此四。

(書き下し文)
問う。四分律宗、大小乗中、正に是れ何(いず)れぞや。
答う。律宗諸家の判ずる所同じからず。慧光律師の云く、四分一律宗是れ大乗と云云。法礪、玄惲等の師並びに云く、唯是れ小乗と云云。南山律師の云く、此の四分宗、義大乗に当たると云云。今此の義に依りて盛んに憑む所と為す。故に業疏の中、五義分通を立つ。謂く沓婆の廻心、施生成仏、一切衆生に施し、皆共に仏道を成ぜん。塵境を識了す。相召(よ)んで仏子とす。捨財、用うるは軽なり。遥かに余部を超え、寔(まこと)に深義と為す。
上の諸戒を束ね、総じて四科あり。一には戒法、如来所制の法、万境に通ずるが故に。二には戒体、受者の発する所、心府に領納するが故に。今四分宗、成実論に依りて非色非心、体と為す。三には戒行、受は、随持し三業運造するが故に。四には戒相、美徳外に彰れ、持相、軌とすべきが故に。一切の諸戒、咸(ことごと)く此の四を具す。

(現代語訳)
問い。四分律宗はずばり大乗と小乗のどちらなのか。
答え。律宗の専門家によって判定は同じではない。慧光律師は四分律宗は大乗だという。法礪、玄惲などはすべて小乗だという。南山律師は、四分律宗は教義が大乗にあたるという。今この教えによって盛んに拠り所となっている。それで『業疏』の中に、大乗にあたる5つの理由を説明している。1つは沓婆摩羅子(とうばまらし)が阿羅漢を得て利他に尽くしたこと、2つには一切衆生に施し、皆共に仏になろうということ、3つには対象を六識で認識すること(小乗で通常は六根で認識)、4つには仏子と呼ぶこと(小乗で通常は比丘)。5つには律の規定に触れて僧伽に没収になった物を他の比丘が使った横領のような罪を他の律蔵より軽い罪としていることである。
南山律師は、前述の二百五十戒を大きく4つの観点から解説している。1つは戒法(戒の理念)である。仏の制定された法は、すべての対象に通ずるからである。2つには戒体(悪を防ぐ力)である。受戒した人が心におさめるからである。四分律宗では、『成実論』に基づいて、物質でも心でもない不相応行を戒体としている。3つには戒行(戒の実践)である。受戒に基づいて心口意の三業で実践するからである。4つには戒相(戒の表れ)である。美徳が外に表れ、その姿を見た人が軌範とするからである。すべての戒は、みなこの4つを具えている。

問。今宗四分所立。及南山祖師意致。大小乘中。本トスルヤ何行果。
答。此教所依。本是小乘。四分本律。元被小乘故。然義當大乘。機根漸進故。當分小乘故。小無不兼。分通大乘故。大無不期。此是今教所說所旨。
若據南山律祖意者。如來一代所說法門。大小諸教。分為三教。一性空教。一切小乘。即此中攝。二相空教。一切大乘淺教悉攝。三唯識圓教。一切大乘深教悉攝。今四分宗。即性空教中之一分。唯識圓教。是祖師域心。圓融三學無礙圓行故。業疏中。明諸宗所談戒體。出三宗義有宗。空宗。竝性空教攝。圓教妙體。是唯識教也。
大小二宗。各立三學。且大乘圓教三學者。戒即護三聚淨戒。藏識種子。以為其體。定慧則唯識妙行。止觀竝運。以為其相。戒即定慧。無一法而非(スト云コト)定慧。定慧即戒ナレハ無一法而非(ト云コト)戒。此名圓融三學行相。

(書き下し文)
問う。今宗、四分立てる所、及び南山祖師の意の致すところ、大小乗の中、何(いず)れの行果を本とするや。
答う。此の教の所依、本是れ小乗なり。四分本律、元、小乗に被るが故に。然るに義、大乗に当たる。機根漸く進む故に。当分小乗の故に小として、兼ねざるなし。大乗に分通するが故に大として、期(ご)せざることなし。此れは是れ今教の所説、旨とする所なり。
若し南山律祖の意に据れば、如来一代所説の法門、大小諸教、分かちて三教と為す。一には性空教、一切小乗、即ち此の中に摂む。二には相空教、一切大乗の浅教、悉く摂む。三には唯識円教、一切大乗の深教、悉く摂む。今四分宗、即ち性空教中の一分にして、唯識円教、是れ祖師の心の域(あ)るところなり、円融の三学、無礙の円行なるが故に。業疏の中に、諸宗所談の戒体を明かす。三宗の義を出だし、有宗と空宗とは、並びに性空の教に摂む。円教の妙体、是れ唯識教なり。
大小二宗、各三学を立つ。且らく大乗円教の三学は、戒は即ち三聚浄戒を護る。蔵識の種子、以て其の体と為す。定慧則ち唯識の妙行なり。止観並び運び、以て其の相と為す。戒即ち定慧なり。一法として定慧に非ずと云うことなし。定慧即ち戒なれば、戒、一法として非ずと云うことなし。此れ円融三学の行相と名づく。

(現代語訳)
問い。律宗では、『四分律』が立てるところと、また、南山律師の考えでは、大乗小乗の中で、いずれの修行の結果を本とするのか。
答え。この教えの拠り所はもともと小乗である。『四分律』はもともと小乗の人が守るものだからである。しかし、その教えは大乗にあたる。人間がだんだん成長して小乗から大乗に入るからである。もともとの役割は小乗のためだから、小乗を兼ねないことはない。しかし部分的に大乗と共通するため、大乗の修行の結果も期待できる。これが『四分律』の意図である。
もし南山律師の心に依れば、釈迦が一生涯説かれた教えは、大乗小乗の色々な教えを3つに分ける。1つは性空教である。小乗の教えはすべてこの中に収まる。2つには相空教である。大乗の浅い教えはすべてこの中に収まる。3つには唯識円教である。大乗の深教はすべて収まる。今、四分律宗は、性空教の中の一つでありながらにして、唯識円教というのが、祖師の心の域(あ)るところである。なぜなら三学が完全に融合して、さわりのない完全な行だからである。南山律師の『業疏』には、各宗派が説く戒体を明らかにしている。有宗、空宗、円教の三宗の教えを出し、有宗と空宗とは、どちらも性空の教に収めている。円教のすばらしい本体は唯識の教えである。
大乗も小乗もそれぞれ三学を教える。しばらく大乗の円教の三学を解説すれば、護る戒は三聚浄戒である。(南山律師は、自らの南山律宗においては『四分律』と区別して)戒体は阿頼耶識あらやしきの種子である。定学と慧学は唯識のすばらしい行である。止観を同時に行うことによって実践の表れとする。戒学はそのまま定学慧学である。一つの戒も定学慧学でないものはない。定学慧学がそのまま戒だから、一つも戒でないものはない。これを円融三学の行相(三学が完全にとけあった行の表れ)という。

其中戒者。即前所標三聚淨戒。謂攝律儀戒ハ。一切諸惡皆悉斷捨故。攝善法戒。一切諸善皆悉修行故。攝衆生戒ハ荷-負衆生。遍施利益故。此之三聚。亦圓融行。故三聚互攝。諸戒融通。如不殺生。即具三聚。乃至一切諸戒皆爾。隨持一戒。三聚全具。雖是一行。廣攝萬行。故雖一念。頓經三祇。不壞三祇。而立一念。不退一念。而經三祇。長短無礙。生佛平等。諸法互遍。相即無盡。豈非深妙乎。攝善。攝生ハ且略不論。

(書き下し文)
其の中に戒とは即ち前に標す所の三聚浄戒なり。謂く摂律儀戒は、一切諸悪皆悉く断捨するが故に。摂善法戒は、一切諸善皆悉く修行するが故に。摂衆生戒は衆生を荷負して遍く利益を施すが故に。此の三聚、亦た円融行なるが故に三聚互いに摂す。諸戒融通す。不殺生の如し。即ち三聚を具す。乃至一切の諸戒、皆爾り。一戒を随持すれば三聚全具す。是れ一行と雖も広く万行を摂す。故に一念と雖も頓に三祇を経る。三祇を壊ずして一念を立つ。一念を退かずして三祇を経る。長短無礙にして生仏平等なり。諸法互いに遍し相即無尽なり。豈に深妙にあらざるや。善を摂し生を摂すは且らく略して論ぜず。

(現代語訳)
円融三学の中で、戒学は、前述の三聚浄戒である。三聚浄戒の中の摂律儀戒は、あらゆる悪をすべて捨て去るからである。摂善法戒は、あらゆるを悉く修めるからである。摂衆生戒は生きとし生けるものを引き受けて、もれなく幸せを施すからである。この三つはまた完全にとけ合った行であるから、お互いにお互いをおさめている。それぞれの戒がとけ合って一体になっている。例えば不殺生のように、三つを具えている。そしてあらゆる戒はみなそうである。一つの戒を保てば、三聚浄戒はすべてそなわる。一つの行でも、広く万行をおさめている。
だから一瞬といっても、速やかに三阿僧祇劫を経過する。三阿僧祇劫の行を損なわずに一瞬の行が完成する。一念を離れずに三阿僧祇劫を経過する。長短に障害がなく、衆生も仏も平等である。すべてのものがお互いに入り込み、とけ合って尽きない。なんと深く、すばらしいことか。摂善法戒と摂衆生戒については、今回は一旦省略して論じない。

其律儀戒亦有三種。一別解脫戒。二定共戒。三道共戒。其初別解脫中。有三業。即身語意所持戒也。身語二戒有共不共。意業之戒。唯是不共故。聲聞所受。唯此身語一分。共門之分齊也。四分律等所說戒相。即此分齊。((考)齊下一本有也字)但四分律分ハ通意戒。由此義故。有小乘戒。今大乘宗。此共門戒ヲ入三聚中。會歸大乘故。小乘律所說戒行。皆是三聚圓頓大戒。更無別相。純一圓極。彼七衆軌則。全同小律。律儀戒中。建立之故。此則南山大師。教觀宗旨。學者受隨解行之域心也。然受此三聚戒。有通受。有別受。三聚通受故云通。別受律儀故云別。今祖師所立。白四羯磨。圓意戒法。即當彼別受矣。然後受菩薩戒者。即當通受矣。
故今律宗學者。通別二受。遍納壇場。四分梵網。竝護戒相。通別二受名。出法相之家ヨリ義在南山之林。五篇七聚制。起聲聞之聚。行亙大乘之薗。明乎。瑜伽大論之誠說矣。南山高祖之定判矣。行者域心。啻在此宗。大覺妙果豈夫賖乎。
八宗綱要上 終

(書き下し文)
其の律儀戒に亦た三種あり。一には別解脱戒、二には定共戒、三には道共戒なり。其の初めの別解脱の中、三業あり。即ち身語意、持する所の戒なり。身語二戒に共不共ありて意業の戒、唯是れ不共のみなるが故に声聞の受くる所、唯此の身語一分のみにして共門の分斉なり。四分律等所説の戒相、即ち此の分斉なり。((考)斉の下に一本、也の字あり)但だ四分律、分は意戒に通ず。此の義に由るが故に小乗戒あり。今大乗の宗は此れ共門の戒を三聚の中に入る。会して大乗に帰するが故に小乗律所説の戒行、皆是れ三聚円頓の大戒にして更に別の相なく純一円極なり。彼の七衆の軌則、全く小律に同じ。律儀戒中に建立の故に。此れ則ち南山大師、教観の宗旨なり。学ぶ者、受に随いて解行する心の域(あ)るところなり。然るに此の三聚戒を受くに通受あり別受あり。三聚通じて受するが故に通と云う。律儀を別受するが故に別と云う。今祖師の立つる所、白四羯磨と円意の戒法は即ち彼の別受に当たる。然る後に菩薩戒を受する者は即ち通受に当たる。
故に今律宗の学ぶ者、通別二受、遍く壇場に納め、四分梵網、並びに戒相を護る。通別二受の名、法相の家より出でて義は南山の林にあり。五篇七聚の制、声聞の聚(くさむら)に起こりて行は大乗の薗に亙(わた)る。明らかなるかな、瑜伽大論の誠説、南山高祖の定判、行者の心の域(あ)るところ、啻に此の宗にあり。大覚の妙果、豈に夫れ賖(はる)かならんや。
八宗綱要上 終

(現代語訳)
その摂律儀戒に三つある。1つには別解脱戒、2つには定共戒、3つには道共戒である。
1つ目の別解脱戒には、三業がある。身業、語業、意業を保つ戒である。身業と語業の2つの戒に声聞と菩薩に共通するものと、菩薩のみで声聞には共通しないものがある。意業の戒は菩薩のみで声聞には共通しないものだけである。従って声聞の受ける戒は身業と語業の共門だけである。『四分律』などに説かれる戒の条項は、これである。ただ『四分律』は部分的に意業の戒に通じている。この意味では小乗戒である。大乗戒は、共門の戒を三聚浄戒に含んでいる。このように理解して、大乗に帰するから、小乗律に説かれる戒行は、すべて三聚円頓の偉大な戒であり、別の戒の条項があるわけではなく、純粋で唯一の完全なる極致である。
七衆の軌則も全く小乗の律と同じである。摂律儀戒の中におさまっているからである。これは南山大師の理論と実践の主旨である。学ぶ者は、授戒に随って理解し実践する心のありかである。
ところでこの三聚浄戒を授戒する時に、通受と別受がある。三聚浄戒を全部授戒するのを通受といい、摂律儀戒だけ授戒することを別受という。今、祖師南山律師の教えられたことは、白四羯磨を受けるのは、別受である。しかしそれは大乗に通ずるから、その後に菩薩戒を授戒する者は、通受となる。従って今、律宗を学ぶ者には通別の二受をすべて戒壇で心に納め、四分律も梵網経の大乗戒も、すべての戒の条項を護るのである。通別二受の名称は、法相宗から出たものだが、その本当の意味は、南山律師の律宗の林にある。五篇七聚の制度は、声聞の聚(くさむら)から起きたものだが、行は大乗の薗に亙(わた)っている。なんと明らかなことだろうか、偉大な『瑜伽師地論』の誠の教え、高祖南山律師の解説、行者の心は、ただ律宗にある。仏覚の妙なる結果は、どうして遥か遠いものであろうか。
八宗綱要上 終

第四章 法相宗

法相宗の教義については、以下の記事に詳しく解説しましたので、そちらもご覧ください。
法相宗(唯識宗)本山と開祖、その教えとは?

第一節 宗名所依経論

八宗綱要下
凝然 述
法相宗
問。何故名法相宗。
答。决-判諸法性相。故名法相宗也。汎言此宗。総有四名。一名唯識宗。此宗大意。明唯識故。二名応理円実宗。一切法門。皆応理故。三名普為乗教。摂五乗故。四名法相宗。其義如前。今挙其一也。

(書き下し文)
八宗綱要下
凝然 述
法相宗
問う。何が故ぞ法相宗と名づく。
答う。諸法の性相を决判するが故に法相宗と名づくなり。汎(ひろ)く此の宗を言えば総じて四名あり。一には唯識宗と名づく。此の宗の大意、唯識を明らかにするが故に。二には応理円実宗と名づく。一切の法門、皆理に応ずるが故に。三には普為乗教と名づく。五乗を摂するが故に。四には法相宗と名づく。其の義前の如し。今其の一を挙ぐるなり。

(現代語訳)
八宗綱要下
凝然 述
法相宗
問い。なぜ法相宗というのか。
答え。あらゆるもの性相(本体と現れ)を决して判ずるから法相宗という。
広くいえば、全部で4つの名前がある。
1つには唯識宗である。この宗の大意は、唯識を明らかにするからである。
2には応理円実宗である。一切の教えがすべて合理的だからである。
3つには普為乗教という。人乗、天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の五乗をおさめるからである。
4つには法相宗である。その意味は、前述の通りである。今その1つ目を挙げたのである。

問。此宗依-憑何等経論。
答。唯識論中。引六経。十一部論。 其六経者。華厳。深密。如来出現功徳荘厳。阿毘達磨。楞伽。厚厳是也。十一部論者。瑜伽。顕揚。荘厳。集量。摂論。十地。分別瑜伽。辨中辺。二十唯識。観所縁。雑集論是也。若総言之。五部大論。十支論等皆彼所依。然解深密経。瑜伽論。唯識論等。特為所学指南。

(書き下し文)
問う。此の宗、何等の経論を依憑するや。
答う。唯識論中に六経、十一部の論を引く。 其の六経とは、華厳、深密、如来出現功徳荘厳、阿毘達磨、楞伽、厚厳これなり。十一部の論とは、瑜伽、顕揚、荘厳、集量、摂論、十地、分別瑜伽、辨中辺、二十唯識、観所縁、雑集論これなり。若し総じて之を言えば、五部の大論、十支論等、皆彼の所依なり。然るに解深密経、瑜伽論、唯識論等、特に所学の指南と為す。

(現代語訳)
問い。法相宗はどのような経や論を拠り所とするのか。
答え。『成唯識論』の中に6つの経、11部の論を挙げている。
その6つ経とは、華厳経、解深密経、『如来出現功徳荘厳経』、『阿毘達磨経』、『楞伽経』、『厚厳経』である。
11部の論とは、『瑜伽師地論』、『顕揚論』、『大乗荘厳経論』、『集量論』、『摂大乗論』、『十地経論』、『分別瑜伽論』、『弁中辺論』、『唯識二十論』、『観所縁縁論』、『阿毘達磨雑集論』である。
もし総括して言えば、『瑜伽師地論』『分別瑜伽論』『大荘厳論』『弁中辺論』『金剛般若論』の五部の大論、『瑜伽論』を中心としてあとの支分とみなされた『大乗百法明門論』『大乗五蘊論』『顕揚聖教論』『摂大乗論』『大乗阿毘達磨雑集論』『弁中辺論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『大乗荘厳経論』『分別瑜伽論』の十支論など、皆所依である。
然るに『解深密経』、『瑜伽師地論』、『成唯識論』等が、特に学ぶべき指南である。

第二節 三国相承

問。此教以誰為祖師乎。
答。此教三国次第相承分明。

(書き下し文)
問う。此の教誰を以て祖師と為すや。
答う。此の教、三国の次第、相承分明なり。

(現代語訳)
問い。この教えは誰を祖師としているのか。
答え。この教えは、インド、中国、日本と順番に相承されたことは明らかである。

如来滅後九百年時。弥勒菩薩。従都率天。降中天竺阿瑜遮国。於瑜遮那講堂。説五部大論。補処薩埵。位居十地。是則如来在世親聞所伝。非空非有中道妙理。於諸教中。実為明鏡。如瑜伽論者。巻軸百巻。諸教悉判。故名広釈諸経論。次有無著菩薩。位居初地。継于慈尊。広伝此宗。慈氏教文。咸加委解。釈尊所説。広造論釈。次九百年時。有世親菩薩。(無著弟也)四善根中。明得薩埵。承于無著菩薩。広伝此宗。依慈氏論。盛施論釈。初学小乗。造五百部論。一代教文。皆悉通達。
次有護法菩薩。深解世親論。遠弘慈氏教。賢劫一仏ト告-明空中。外道邪執。閉口而如瘂。異部小乗。巻舌而同訥。故西天外道小乗。并称云。大乗唯有此人(云云。)次有戒賢論師。伝法大将。当時絶倫。法相法門咸伝。一代教義皆解。此五大論師。俱是天竺伝法匠矣。

(書き下し文)
如来の滅後九百年時、弥勒菩薩、都率天より中天竺、阿瑜遮国に降り、瑜遮那講堂に於て五部大論を説く。補処の薩埵、位十地に居る。是れ則ち如来の在世親しく聞く所を伝う。非空非有の中道の妙理、諸教の中に於て実に明鏡と為す。瑜伽論の如きは、巻軸百巻なりて諸教悉く判ず。故に広釈諸経論と名づく。次に無著菩薩あり。位初地に居る。慈尊に継ぎ、広く此の宗を伝う。慈氏の教文、咸く委解を加う。釈尊の所説、広く論を造りて釈す。次に九百年時、世親菩薩あり。(無著の弟なり)四善根中、明得の薩埵、無著菩薩を承け、広く此の宗を伝う。慈氏の論に依りて盛んに論釈を施す。初めに小乗を学び、五百部の論を造る。一代の教文。皆悉く通達す。
次に護法菩薩あり。深く世親の論を解し、遠く慈氏の教えを弘む。賢劫一仏と空中に告明す。外道の邪執、閉口して瘂の如し。異部の小乗、舌を巻きて訥に同じ。故に西天の外道、小乗、並びに称して云く,大乗、唯だ此人ありと云云。次に戒賢論師あり。伝法の大将、当時倫を絶し、法相の法門咸く伝う。一代の教義皆解す。此の五大論師、俱に是れ天竺伝法の匠なり。

(現代語訳)
釈迦滅後900年の時代、弥勒菩薩は都率天から中インド、グプタ王朝の首都、アヨーディヤーに降り、阿瑜遮那(あゆしゃな)講堂にて『瑜伽師地論』『分別瑜伽論』『大荘厳論頌』『弁中辺論頌』『金剛般若経論』の五部の大論を説いた。
補処の弥勒菩薩は、十地の菩薩である。釈迦在世中に直接聞いたことを伝えた。非空非有の中道の妙なる真理は、色々な教えの中で、実に明るい鏡のよである。『瑜伽師地論』などは、100巻にわたってすべての教えを解説している。そのため『広釈諸経論』ともいう。
次は無著菩薩である。初地のさとりをえたという。弥勒菩薩を継いで、詳しくこの宗を伝えた。弥勒菩薩の教えにすべて詳しい解説を加えた。釈迦の説いたことを詳しく解説書をつくって解説した。
次に900年の時代、世親菩薩が現れた。(無著の弟である)四善根の中で、明得(煖位)にあり、無著菩薩を承けて広くこの教えを伝えた。弥勒菩薩の論に基づいて盛んに解説を行った。初めに小乗を学び、五百部の論を著した。釈迦一代の教えすべてに通じている。
次に護法菩薩が現れた。深く世親の論を理解し、遠く弥勒菩薩の教えを広めた。32才の臨終の日には、空中から、護法は現在の賢劫に現れる千仏のうちの一仏であると告げる声が聞こえたという。外道の誤った執着を持った者は、閉口してしゃべれない者のようになり、小乗の部派の者は、舌を巻いてどもって口数が減った。だからインドの外道、小乗は共に、大乗に唯だこの人ありと言った。
次に戒賢論師が現れた。法を伝える大将は、当時、並ぶ者がなく、法相の法門を悉く伝えた。釈迦一代の教義を皆理解した。この五大論師は、みなインドで法を伝えた匠である。

次大唐初運。有玄奘三蔵。遠渉流沙。賖往天竺。遂謁戒賢論師。広伝此宗。戒賢論師。待三蔵良久。即五部大論。十支論等。凡法相法門。無遺皆伝。遂還震旦。盛弘此宗。三千門徒。七十達者。四人上足。一朝帰仰。四海朝宗。自余諸経律論。翻伝極多。是大唐法相始祖。天竺相承第六也。
次有窺基法師。是三蔵上足。智解絶倫。継于三蔵。広伝此宗。斯乃百本疏主。十地応迹。盛徳出萃。挙世帰仰。号慈恩大師。次有淄州恵沼大師。継于慈恩大師。盛敷此宗。次有撲揚智周大師。禀于淄洲大師。広伝此宗。此并大唐国相承次第也。

(書き下し文)
次に大唐に初めて運ぶ。玄奘三蔵あり。遠く流沙を渉り、賖か天竺に往く。遂に戒賢論師に謁す。広く此の宗を伝う。戒賢論師、三蔵を待つこと良(やや)久し。即ち五部大論、十支論等、凡そ法相の法門、遺すことなく皆伝う。遂に震旦に還り、盛んに此の宗を弘む。三千の門徒、七十の達者、四人の上足あり。一朝帰仰し四海朝宗す。自余の諸の経律論、翻伝極めて多し。是れ大唐法相の始祖にして天竺相承の第六なり。
次に窺基法師あり。是れ三蔵の上足、智解、倫(ともがら)を絶し、三蔵を継ぎ、広く此宗を伝う。斯れ乃(すなわ)ち百本の疏主にして十地の応迹なり。盛徳、萃(くさむら)を出で、世を挙げて帰仰し、慈恩大師と号す。次に淄州恵沼大師あり。慈恩大師を継ぎ、盛んに此の宗を敷く。次に撲揚智周大師あり。淄洲大師を禀け、広く此の宗を伝う。此れ並びに大唐国の相承次第なり。

(現代語訳)
次に中国の唐に初めて伝えられた。玄奘三蔵が現れ、遠くタクラマカン砂漠を渡り、はるかインドに赴いた。ついに戒賢に会うことができ、法相宗を広く伝えた。戒賢は、三蔵を非常に長い間待っていた。五部の大論、十支論など、凡そ法相宗の法門たる法門は余すところなくすべて伝えた。遂に中国に帰り、盛んに法相宗を広めた。三千の門徒、七十人の弟子、4人の高弟がいたという。唐の太宗は帰依して仰ぎ、中国全土の人が尊んだ。法相宗もそれ以外も経律論を極めて多く翻訳した。玄奘は中国の法相宗の始祖であり、インドの第六祖である。
次に窺基が現れた。玄奘三蔵の高弟で、智慧と理解は兄弟弟子に比べるものがなく、玄奘の後を継いで広く法相宗を伝えた。百の解説書を著した十地の菩薩の化身である。高い徳は群を抜き、世を挙げて帰依し讃仰し、慈恩大師といわれた。
次に淄州の恵沼大師が現れた。慈恩大師を継ぎ、盛んに法相宗を広めた。
次に撲揚の智周大師が現れた。淄洲大師を承け、広く法相宗を伝えた。これはすべて大唐の相承のありさまである。

至于流-伝日本者。総有三伝。一日本智通。智達二人。禀玄奘三蔵。二新羅智鳳禅師。承玄奘三蔵。始伝日本義淵僧正。弘相宗於維摩堂。三日本玄昉僧正入唐。受-学撲揚大師。還授善珠僧正。自爾已来。次第相承。満寺修学。于今不絶。并是龍象之衆徒。智弁之鋒実利。咸是師子之盛徳。決択之音極猛。和国一宇。盛敷法相。何宗及之乎。三国相承。一無墜矣。

(書き下し文)
日本に流伝することに至りては,総じて三伝あり。一には日本の智通。智達の二人なり。玄奘三蔵を禀ける。二には新羅の智鳳禅師なり。玄奘三蔵を承け、始めて日本の義淵(ぎいん)僧正に伝え、維摩堂に相宗を弘む。三には日本の玄昉僧正、入唐(にっとう)す。撲揚(ぼくよう)大師を受学す。還りて善珠僧正に授く。爾るより已来、次第相承し、満寺に修学して今に絶えず。並びに是れ龍象の衆徒。智弁の鋒、実に利し。咸く是れ師子の盛徳なり。決択の音極めて猛し。和国一宇、盛んに法相を敷く。何の宗か之に及ぶや。三国の相承、一つも墜つる無し。

(現代語訳)
日本へは全部で三回伝えられた。
1回目は日本の智通、智達の二人が、玄奘三蔵から学んだ。
2回目は新羅の智鳳禅師が、玄奘三蔵から学び、始めは日本の義淵僧正に伝え、興福寺の維摩堂で法相宗を広めた。
3回目は日本の玄昉僧正が唐に渡って撲揚大師から学び、帰国して善珠僧正に授けた。
それ以来、順番に伝え、多くの寺で学ばれ、現在も続いている。これらの僧はみな優れており、知恵も弁舌の切っ先もまことに鋭い。みな盛んな師子のように正否を決する声は極めて勇猛であった。日本中で盛んに法相を学ばれた。どんな宗が法相宗にかなうだろうか。このように、インド、中国、日本の三国の相承は、一箇所も欠けることなく続いている。

第三節 教判

問。此宗立幾時教。摂一代教。
答。立三時教。摂一代教。是則解深密経ノ誠説分明故也。一者有教。仏初時中。為発-趣彼声聞乗者。破外道実我之執。明我空法有之旨。諸部小乗。皆此教摂。且此約有義。余皆可摂故。二者空教。於第二時為発-趣大乗者。明諸法皆空之旨。以破前実法之執。三者中道教。第三時中。説非空非有之旨。以破前偏有偏空之執。然則初時唯約依他説有。第二時唯約我執説空。未是三性三無性顕了之説。故前二時名為未了。諍論安足処所。第三時中。具説三性三無性。遍計所執故非有。依他起性故非無。是則非空非有中道妙理。元ヨリ離二辺直入正路。一代之中尤甚深。八万之間特微妙。華厳。深密。金光明。法華。涅槃等諸深大乗。皆此中摂。諸部般若。皆第二時摂。諸部小乗並初時摂。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾時の教を立てて一代教を摂むや。
答う。三時教を立てて一代教を摂む。是れ則ち解深密経の誠説、分明なるが故なり。一には有教、仏、初時中、彼の声聞乗を発-趣する者の為に、外道実我の執を破し、我空法有の旨を明かす。諸部小乗も皆此の教に摂む。且らく此れ有の義に約す。余は皆摂むべきが故に。二には空教、第二時に於て大乗を発-趣する者の為に、諸法皆空の旨を明かし、以て前の実法の執を破す。三には中道教、第三時の中に非空非有の旨を説く。以て前の偏有偏空の執を破す。然れば則ち初時、唯依他に約して有を説く。第二時、唯我執を約して空を説く。未だ是れ三性三無性顕了の説ならず。故に前の二時、名づけて未了諍論安足処所と為す。第三時の中、具(つぶ)さに三性三無性を説く。遍計所執の故に有にあらず。依他起性の故に無にあらず。是れ則ち非空非有の中道妙理なり。元より二辺を離れて正路に直入す。一代の中尤も甚だ深し。八万の間,特に微妙なり。華厳、深密、金光明、法華、涅槃等の諸深大乗、皆此の中に摂む。諸部の般若、皆第二時に摂む。諸部の小乗並びに初時に摂む。

(現代語訳)
問い。法相宗は教えをいくつにまとめて一代教を収めるのか。
答え。三時教を立てて一代教を収める。なぜなら『解深密経』に明らかに説かれているからである。
1つには有教である。仏は初時に、声聞乗を志す者のために、外道の実我の誤りを破られ、我空法有の教えを説かれた。小乗各部派も皆この教えに収められる。部派の中にも法の空を説くものもあるが、一旦小乗は有の教えにまとめる。
2つには空教である。第二時に、大乗を志す者の為に、諸法皆空の教えを明かされ、それによって前の法に実体があるという執着を破られた。
3つには中道教である。第三時に、非空非有の教えを説かれた。それによって前の有か空に偏る執着を破られた。
そういうことであるから、初時にはただ依他起性の立場から有を説かれたのである。
第二時には、ただ遍計所執性の立場から空を説かれたのである。しかしこれでは未だ三性三無性を明らかに説かれてはいない。そのため前の二時は、説明が不十分なために論争が起きる場所ということで、未了諍論安足処所という。第三時に、三性三無性をすべて説かれた。遍計所執性であるから有ではない。依他起性であるから無でもない。これが非空非有の中道のすばらしい真理である。元より二つの偏りを離れて正しい道に直接入る。釈迦一生涯の教えの中で、まぎれもなく非常に深い。八万の法蔵の中でも、特にすばらしい教えである。『華厳経』、『解深密経』、『金光明経』、『法華経』、『涅槃経』などの各深大乗経典は、みなこの中におさまる。般若経典群は第二時に分類される。各小乗経典はすべて初時に分類される。

問。此三時者。為年月次第。為義類次第。
答。学者異議不同。或云年月三時(云云。)或云義類三時。(云云。)或義類年月兼帯三時(云云。)

(書き下し文)
問う。此の三時は、年月の次第と為すか、義類の次第と為すや。
答う。学者の異議同じからず。或いは云く年月三時と云云。或いは云く義類三時と云云。或いは義類と年月と兼ねて三時を帯びると云云。

(現代語訳)
問い。この三時というのは、年月によって分類されているのか、教えの内容によって分類されているのか。
答え。学者によって異説があり、同じではない。ある人は年月によって三時を分類されているという。ある人は、教えの内容によって三時を分類されているという。ある人は教えの内容と年月と兼ねて三時を分類されているという。

問。第三時中。中道者。但約三性而立歟。頗有一法中。而明中道乎。
答。此有二義。一云三性対望中道。(云云。)二云一法中道。(云云。)然多是三性対望中道而已。亦可一法中道。(云云。)

(書き下し文)
問う。第三時の中の中道は但、三性に約して立つるか、頗る一法の中にありて中道を明かすか。
答う。此れに二義あり。一に云く三性対望の中道なりと云云。二に云く一法中道なりと云云。然るに多く是れ三性対望の中道のみ。亦た一法中道もあるべしと云云。

(現代語訳)
問い。第三時の中道は、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性全体で見て空なのか、一体全体、三性それぞれを2辺から見て、それぞれに1つずつ中道を見るのか。
答え。それには2つの解釈がある。1つは三性全体でみて円成実性を中道とする解釈である。2つ目は、それぞれに1つの中道を見る解釈である。多くは三性全体で見るが、中にはそれぞれに1つの中道をみる解釈もある。

問。第二時中。云何説空。
答。此有二義。一云約遍計所執。密意而説皆空(云云。)一云約三無性而説空(云云。)

(書き下し文)
問う。第二時の中、云何が空を説くや。
答う。此れに二義あり。一は云く遍計所執に約す。密意にして皆空を説くと云云。一は云く三無性に約して空を説くと云云。

(現代語訳)
問い。第二時の中で、どのように空と説くのか。
答え。これに2つの解釈がある。1つは小乗の我空法有を破すため、凡夫の見る遍計所執性は空であると説くのである。しかし法相宗で円成実性は有であるが、それは混乱のないように伏せて皆空を説かれている。1つは三性それぞれに空の意味があると説くのである。

第四節 三乗五性

問。此宗立幾許乗。
答。此宗ハ教中立三乗五性。
其五性者。一定性声聞。二定性縁覚。三定性菩薩。四不定種性。五無性有情。
定性二乗。随自乗果。並無余入寂。菩薩種性。二利行満。証大菩提。無性有情。法爾無有無漏種子。唯有有漏種子。若昇進生人天之中。以之為上。

(書き下し文)
問う。此の宗幾許の乗を立つるや。
答う。此の宗は教中に三乗五性を立つ。
其の五性とは、一には定性声聞、二には定性縁覚、三には定性菩薩、四には不定種性、五には無性有情なり。
定性の二乗は自乗の果に随う。並びに無余に入寂す。菩薩種性は二利行満し大菩提を証す。無性有情は法爾に無漏の種子あることなし。唯だ有漏の種子あり。若し昇進せば人天の中に生ず。之を以て上と為す。

(現代語訳)
問い。法相宗には幾つの乗があるのか。
答え。法相宗では教えの中に三乗五性がある。
五性とは1つには定性声聞、2つには定性縁覚、3つには定性菩薩、4つには不定種性、5つには無性有情である。
定性の声聞乗と縁覚乗は、それぞれ声聞乗と縁覚乗の結果に従い、どちらも灰身滅智する。菩薩種性は自利利他の二行を完全に成就し、仏覚を得る。無性有情は本来の無漏の種子がない。有漏の種子だけがある。もし修行して進歩すれば、人界に生まれるか天上界に生まれる。そこまで行けば御の字である。

問。入寂二乗。有還生乎。
答。無此。入無余者。灰身滅智。諸識皆滅。何有還生。不定性人。必廻心向大。都無入寂。廻心之時。入十信初心。初住入僧祇位。乃至成仏。衆生之機。法爾有此五性差別。故仏随此一一機根。授彼相応之法。故必成五乗。謂無性有情。是人天乗。三乗定性。以為三乗。不定種性。随応通三。故有五乗。若唯就出。世即立三乗矣。普為乗名。実由茲焉。

(書き下し文)
問う。入寂の二乗、還生ありや。
答う。此れなし。無余に入る者、灰身滅智し諸識皆滅す。何ぞ還生あるや。不定性人、必ず廻心向大す。都て入寂なし。廻心の時、十信の初心に入る。初住より僧祇の位に入り、乃至成仏す。衆生の機、法爾として此の五性差別あり。故に仏、此の一一の機根に随い彼に相応の法を授く。故に必ず五乗を成ず。謂く無性有情、是れ人天乗なり。三乗定性、以て三乗と為す。不定種性、応に随いて三に通ず。故に五乗あり。若し唯だ出世に就きては、即ち三乗を立つ。普為乗(ふいじょう)の名、実に茲に由る。

(現代語訳)
問い。入寂した声聞乗や縁覚乗は、生まれ変わることはあるか。
答え。それはない。
無余涅槃に入ったなら体は灰になり、智も滅す。どうして生まれ変われるだろうか。不定性人は必ず心をひるがえして大乗に入るので、誰もそのようなことはない。心をひるがえした時、十信の初信に入る。初住からは第一阿僧祇劫の修行が始まる。初地から第二阿僧祇劫、第八地から第三阿僧祇劫と修行して成仏する。人々の心には本来五性の違いがある。それで仏は、一人一人の心に応じて適した教えを授けたのである。だから必ず五乗がある。無性有情は人乗と天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗定性はそれぞれの乗となる。不定種乗は、声聞、縁覚、菩薩のうち2つ以上の無漏の種子を持つため、縁に応じて進む道が変わる。このように、人乗と天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の五乗があるのである。しかし、もし解脱のみについていえば、人乗と天乗は解脱ではないから、三乗となる。このことから、あらゆる素質に応じた教えということで普為乗教といわれるのである。

問。彼法華等。既説一乗。故定性二乗。皆可成仏。何強立五性乎。
答。彼法華等。是密意説。且約不定性。而説一乗。非謂五性俱成仏也。縦言一切。是小分一切。無始法爾五性差別。不可改故。

(書き下し文)
問う。彼の法華等、既に一乗を説く。故に定性二乗、皆成仏すべし。何ぞ強いて五性を立つるや。
答う。彼の法華等、是れ密意の説なり。且らく不定性に約して一乗を説く。謂く五性俱に成仏するにあらざるなり。縦い一切と言うも是れ小分の一切なり。無始の法爾の五性差別ありて改むべからざる故に。

(現代語訳)
問い。かの『法華経』などには「ただ一乗法あり、二無く亦た三無し」とすでに一乗の法門が説かれている。だからすべての人は成仏するはずである。なぜ強いて五性を説くのか。
答え。かの『法華経』などは真実を伏せた教えである。一旦,不定性の立場で一乗を説かれている。五性がすべて成仏するわけではない。『涅槃経』で「一切衆生悉有仏性」と説かれ、「一切」といわれるのは、無性有情を除いた狭い意味での「一切」である。始まりのない始まりから本来の五性差別があって、それは改めることができないからである。

問。三乗修行得果之相如何。
答。声聞三生六十劫而証応果。縁覚四生百劫而証其果。菩薩経三僧祇得大覚果。

(書き下し文)
問う。三乗の修行と得果との相如何。
答う。声聞は三生六十劫して応果を証す。縁覚は四生百劫して其の果を証す。菩薩は三僧祇を経て大覚果を得。

(現代語訳)
問い。三乗の修行とさとりを得るありさまはどのようなものか。
答え。声聞は速ければ三生、遅ければ60劫の修行によって阿羅漢のさとりを得る。縁覚は速ければ四生、遅ければ100劫の修行により、縁覚のさとりを得る。菩薩は、三阿僧祇劫の修行を経て仏覚を得る。

問。就菩薩位。総立幾種。
答。因果合論スレハ総立四十一位。謂十住。十行。十廻向。十地。仏果也。若開等覚。四十二位。然法雲地摂。又開十信者。五十一位。((考)位下一有也字)然以十信摂于初住。故慈恩大師。唯立四十一位也。若西明法師。具立五十二位(云云。)此四十一位。束為五位。一資糧位。是地前三十心。二加行位。第十廻向之後。開四善根。以為見道加行方便。三通達位。是初地入心見道位也。四修習位。従初地住心。乃至十地是也。五究竟位謂仏果。是此名五位修行也。

(書き下し文)
問う。菩薩の位に就いて総じて幾種を立つか。
答う。因果合論すれば総じて四十一位を立つ。謂く十住、十行、十廻向、十地、仏果なり。若し等覚を開けば四十二位なり。然るに法雲地に摂む。又た十信を開けば五十一位なり。((考)位の下に一本也字あり)然るに十信をて初住に摂す。故に慈恩大師、唯だ四十一位を立つなり。若し西明法師、具さに五十二位を立つと云云。此の四十一位、束ねて五位と為す。一には資糧位、是れ地前の三十心なり。二には加行位、第十廻向の後、四善根を開き、以て見道の加行方便と為す。三には通達位、是れ初地入心の見道位なり。四には修習位、初地住心従り乃至十地是れなり。五には究竟位、謂く仏果なり。是れを此れ五位修行と名づくなり。

(現代語訳)
問い。菩薩の位は全部で何段階になっているのか。
答え。修行の階位と結果の位を合計すれば全部で41位となる。それは十住、十行、十廻向、十地、仏果である。もし等覚を開けば42段階になるが、十地の法雲地におさめて41位となっている。十信を開けば51位となるが、十住の初めの初住におさめてある。それで慈恩大師窺基は41位としている。西明法師は欠けることなく全部で52位としている。
この41位をまとめると5位となる。1つには資糧位である。これは十地の段階に入る前の十住、十行、十廻向の三十心である。2つには加行位である。第十廻向の後、四善根を開き、それによって見道に入る加行の方便とする。3つには通達位である。これは初地の入心の見道の位である。4つには修習位である。十地の位には一つ一つに入心、住心、出心の3つの段階があるが、初地の住心から十地までである。5つには究竟位である。これは仏果である。これを五位の修行という。

問。三乗之人。断何等障。
答。二乗之人。唯断煩悩障。
菩薩大乗。具断二障。二障者。一煩悩障。二所知障。二障各有二。謂分別。俱生。菩薩地前。伏分別二障現行。初地断彼二障種子。二地已上乃至十地。地地漸断俱生所知障。至第十地。断俱生煩悩障種子。二障習気。二地已上。如応漸断。登仏果時。一時断尽。

(書き下し文)
問う。三乗の人、何等の障りを断ずるや。
答う。二乗の人、唯だ煩悩障を断ず。
菩薩大乗、具さに二障を断ず。二障とは一には煩悩障、二には所知障なり。二障各二あり。謂く分別と俱生となり。菩薩地前、分別二障の現行を伏す。初地に彼の二障の種子を断ず。二地已上乃至十地に、地地に漸く俱生の所知障を断ず。第十地に至り、俱生の煩悩障の種子を断ず。二障の習気は二地已上に、応の如く漸く断ず。仏果に登る時、一時に断尽す。

(現代語訳)
問い。三乗の人はどのような障りを断ずるのか。
答え。声聞と縁覚の二乗の人は、ただ煩悩障を断ち切る。
大乗の菩薩は二障を欠けることなく悉く断ち切る。二障とは1つには煩悩障、2つには所知障である。二障にはそれぞれ2つある。後天的な分別起と生まれつきの俱生起である。菩薩の十地の前は、分別起の煩悩障と所知障の現行を抑える。初地に分別起の二障の種子を断ちきる。二地から十地までにだんだんと俱生起の所知障を断ち切る。第十地で、俱生起の煩悩障の種子を断ちきる。二障の余力である習気は二地以上でだんだんと断ち切る。そして仏果に至った時に、一度にすべて断ち切るのである。

問。三祇之間。各経何位。
答。三賢四善根。並初僧祇。初地至七地。是第二僧祇。八九十地是第三僧祇。過三祇已。即証仏果。菩薩四十一位。束為四依。地前是初依。供-養五恒沙仏。初地至六地。是第二依。供-養六恒沙仏。七八九地。為第三依。供-養七恒沙仏。第十地是第四依。供-養八恒沙仏。三祇之間。合供-養二十六恒沙仏。此三祇間。万行並修。六度円足。
地前修相唯識。地上顕性唯識。

(書き下し文)
問う。三祇の間、各何位を経るや。
答う。三賢、四善根は、並びに初僧祇なり。初地より七地に至るは是れ第二僧祇なり。八、九、十地は是れ第三僧祇なり。三祇を過ぎ已りて即ち仏果を証す。菩薩の四十一位、束ねて四依と為す。地前は是れ初依、五恒沙仏を供養す。初地より六地に至る、是れ第二依なり。六恒沙仏を供養す。七、八、九地は第三依と為す。七恒沙仏を供養す。第十地は是れ第四依なり。八恒沙仏を供養す。三祇の間、合して二十六恒沙仏を供養す。此の三祇の間、万行並び修し、六度円足す。
地前、相唯識を修す。地上に性唯識を顕す。

(現代語訳)
問い。三大阿僧祇劫の間にそれぞれいくつの位を進むのか。
答え。三賢(十住、十行、十廻向)、四善根(第十廻向に含まれる煖・頂・忍・世第一法)の位は、両方で第一阿僧祇劫かかる。初地から七地までは第二阿僧祇劫である。八地、九地、十地は第三阿僧祇劫である。三阿僧祇劫の修行を完了して仏果をさとる。菩薩の四十一位は、まとめると四依になる。初地に至る前は初依といい、五つのガンジス河の砂の数ほどの仏を供養す。初地から六地までが第二依である。6つのガンジス河の砂の数ほどの仏を供養する。七地から九地が第三依である。7つのガンジス河の砂の数ほどの仏を供養する。第十地が第四依である。8つのガンジス河の砂の数ほどの仏を供養する。三阿僧祇劫の間に、合計すると26のガンジス河の砂の数ほどの仏を供養する。この三阿僧祇劫の間、よろずの行をすべて修め、六波羅蜜を完全に成就する。
初地より前は相唯識を修め、初地からは性唯識を顕すのである。

第五節 五位百法

問。此宗立幾法数摂於諸法。
答。立於百法。摂諸法尽。
問。其百法者何。
答。束為五位。
一心王有八種。眼。耳。鼻。舌。身。意。末那識。阿頼耶識是為八識。二心所有法。有五十一。合為六位。一遍行五トハ作意。触。受。想。思ト。二別境五トハ欲。勝解。念。定。慧トナリ。三善十一者信。精進。慚。愧。無貪。無瞋。無癡。軽安。不放逸。行捨。不害トナリ。四煩悩有六。貪。瞋。癡。慢。疑。悪見。悪見開五。身見。辺見。邪見。見取見。戒禁取見トナリ。五随煩悩二十トハ忿。恨。覆。悩。慳。嫉。誑。諂。害。憍。無慚。無愧。掉挙。惛沈。不信。懈怠。放逸。失念。散乱。不正知トナリ。六不定有四。悔。睡眠。尋。伺。六位合有五十一也。
三色法有十一。眼。耳。鼻。舌。身。色。声。香。味。触及法処所摂色トナリ。此有五種。極略。極迥。受所引。定所生。遍計所起色。此並法処所摂色也。
四心不相応行法ノ二十四種トハ。得。命根。衆同分。異生性。無想定。滅尽定。無想事。名身。句身。文身。生。老。住。無常。流転。定異。相応。勢速。次第。方。時。数。和合性。不和合性也。((考)一本無也字)五無為法有六。虚空。択滅。非択滅。不動。想受滅。真如トナリ。是百法。一切諸法。略不過之。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾(いくば)くの法数を立てて諸法を摂すや。
答う。百法を立てて諸法を摂し尽くす。
問う。其の百法は何ぞ。
答う。束ねて五位と為す。
一には心王、八種あり。眼、耳、鼻、舌、身、意、末那識、阿頼耶識、是れ八識と為す。
二には心所有法に五十一あり。合して六位と為す。
一に遍行の五とは作意、触、受。想。思と。二に別境の五とは欲、勝解、念、定、慧となり。三に善の十一は、信、精進、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、軽安、不放逸、行捨、不害となり。四、煩悩に六あり。貪、瞋、癡、慢、疑、悪見なり。悪見開きて五なり。身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見となり。五に随煩悩の二十とは忿、恨、覆、悩、慳、嫉、誑、諂、害、憍、無慚、無愧、掉挙、惛沈、不信、懈怠、放逸、失念、散乱、不正知となり。六、不定に四あり。悔、睡眠、尋、伺、六位合して五十一あるなり。
三には色法、十一あり。眼、耳、鼻、舌、身、色、声、香、味、触及び法処所摂色となり。此れに五種あり。極略、極迥、受所引、定所生、遍計所起色、此れ並びに法処所摂色なり。
四に心不相応行法の二十四種とは、得、命根、衆同分、異生性、無想定、滅尽定、無想事、名身、句身、文身、生、老、住、無常、流転、定異、相応、勢速、次第、方、時、数、和合性、不和合性なり。((考)一本也字なし)
五には無為法、六あり。虚空、択滅、非択滅、不動、想受滅、真如となり。是れ百法、一切諸法なり。略するに之に過ぎず。

(現代語訳)
問い。法相宗では、幾つの要素に分けてあらゆる現象を解明するのか。
答え。百の要素に分けてあらゆる現象を解明し切る。
問い。その百の要素とは何か。
答え。まとめれば五位となる。
1つには心王、8種ある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識の八識である。
2つ目の心所有法に51ある。まとめると六位になる。
1つ目の遍行の5つとは、作意、触、受。想。思である。2つ目の別境の5つとは欲、勝解、念、定、慧である。3つ目の善の11は、信、精進、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、軽安、不放逸、行捨、不害である。4つ目の煩悩は6ある。貪、瞋、癡、慢、疑、悪見である。悪見は5つに開く。身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見である。5つ目の随煩悩の20とは、忿、恨、覆、悩、慳、嫉、誑、諂、害、憍、無慚、無愧、掉挙、惛沈、不信、懈怠、放逸、失念、散乱、不正知である。6つ目の不定に4ある。悔、睡眠、尋、伺である。六位を合計すると51あるのである。
3つには色法、11ある。眼、耳、鼻、舌、身の五根、色、声、香、味、触の五境と法処所摂色である。法処所摂色に5つある。極略、極迥、受所引、定所生、遍計所起色、これらはすべて法処所摂色である。
4つに心不相応行法の24種とは、得、命根、衆同分、異生性、無想定、滅尽定、無想事、名身、句身、文身、生、老、住、無常、流転、定異、相応、勢速、次第、方、時、数、和合性、不和合性である。
5つには無為法で6つある。虚空、択滅、非択滅、不動、想受滅、真如である。これが百法であり、あらゆる現象である。抽象化すればこれ以外にない。

問。蘊処界三科。摂色心等法。与今百法。其義如何。
答。百法之中。心王。心所及以色法。束為五蘊。色蘊是色法。受想二蘊。即是心所。識蘊是八識心王也。自余心所等。並行蘊摂也。蘊不摂無為矣。其十二処。色広心略。准蘊可知。其十八界。色心ヲ広説。亦摂無為。
此宗本意。只明唯識。一切諸法。皆是唯識。都無一法而在心外。故慈恩大師云。有心外ニ法。転-廻生死。覚-知スレハ一心。生死永棄。(已上)然諸法差別スレハ皆唯識所変。離識無別法。一切境界。皆帰心識。

(書き下し文)
問う。蘊処界の三科に色心等の法を摂するは、今の百法と、其の義如何。
答う。百法の中、心王、心所及以(およ)び色法を束ねて五蘊となす。色蘊是れ色法、受想の二蘊は即ち是れ心所なり。識蘊は是れ八識心王なり。自余の心所等、並びに行蘊に摂するなり。蘊は無為を摂せず。其の十二処、色は広く心は略す。蘊に准じて知るべし。其の十八界、色心を広く説く。亦た無為を摂す。
此の宗の本意、只唯識を明かす。一切諸法、皆是れ唯識にして都て一法として心外にあるものなし。故に慈恩大師云く、心外に法あれば生死に転廻し、一心を覚知すれば生死永く棄つと。(已上)然るに諸法差別すれば皆唯識の所変なり。識を離れて別の法なし。一切の境界、皆心識に帰す。

(現代語訳)
問い。五蘊、十二処、十八界の三科で色や心の要素をまとめるのと、今の百法の要素にまとめるのとどう違うのか。
答え。百法の中で、心王と心所と色法をまとめて五蘊としている。色蘊は色法である。受蘊と想蘊は、心所である。識蘊は八識の心王である。それ以外の心所は、すべて行蘊におさめられる。しかし五蘊に無為法は入らない。十二処は、色について詳しく分類され、心は簡略である。五蘊に準じて理解するとよい。十八界は、色も心も詳しく分類している。また十二処と十八界には無為法も入る。
法相宗の趣旨はただ唯識を明かすことにある。あらゆるものは、唯識のみであって、一つも外界に存在するものはない。だから慈恩大師窺基は、心の外に存在があると思えば輪廻し、唯識を覚れば輪廻を永遠に離れると言っている。あらゆるものに違いを認識するのは、ただ識の生み出したものである。識を離れて別の存在はない。あらゆる認識対象は、すべて識に起因する。

第六節 五重唯識

総明此義。有五重唯識。
一遣虚存実識。遣遍計所執是虚。存依他円成是実故。
二捨濫留純識。依他内境濫外。故捨此唯名識。
三摂末帰本識。摂見相二分末。帰自体分本故。
四隠劣顕勝識。隠劣心所。顕勝心王故。
五遣相証性識。遣依他事相。証唯識理性故。
前四相唯識。第五為性唯識。

(書き下し文)
総じて此の義を明かすに五重唯識あり。
一には遣虚存実識、遍計所執は是れ虚なりと遣る。依他と円成は是れ実なりと存するが故に。
二には捨濫留純識、依他の内境は外に濫するが故に此れを捨して唯識と名づく。
三には摂末帰本識、見相二分の末を摂し、自体分の本に帰するが故に。
四には隠劣顕勝識、劣の心所を隠して勝の心王を顕すが故に。
五には遣相証性識、依他の事相を遣り、唯識理性を証するが故に。
前の四は相唯識、第五は性唯識と為す。

(現代語訳)
全体的にこの唯識の真理を明らかにするのが五重唯識である。
1つには遣虚存実識である。遍計所執は虚妄であると捨て去り、依他起性と円成実性は実であると残すのである。
2つには捨濫留純識である。依他起性の内境(相分)は外界と混乱するのでこれを捨てて唯識という。
3つには摂末帰本識である。末である見分と相分を、本である自体分におさめるのである。
4つには隠劣顕勝識である。(3で自体分になっている)作用である心所を、(3で自体分になっている)本質である心王におさめるのである。
5つには遣相証性識である。依他起性の森羅万象の現れを捨て去り、唯識の真如の本質を証るのである。
前の4つは相唯識、第5は性唯識である。

第七節 四分

此心之用。総有四分。一相分。二見分。三自証分。四証自証分也。分量決云。心用分限。四種差別。故名四分ト(已上)。然四師異説アリ。一安慧菩薩唯立於一分。是自証分也。二難陀菩薩立於二分。是相見分也。三陳那菩薩立於三分。相分。見分及自証分也。四護法菩薩立於四分。即前列(スルカ如シ)。今則護法尽理之説。故立四分。相貌差別シテ。為心所縁。故云相分。能縁前境。故云見分。能縁見分。故名自証分。能縁自体分。故名証自証分也。此四之中。相分唯是所縁。無縁慮義。其後三分。通能所縁。是則八識心王心所。各有四分。八識雖体各一。論用即有四分。是故八識各有四分也。

(書き下し文)
此の心の用、総じて四分あり。一には相分、二には見分、三には自証分、四には証自証分なり。『分量決』に云く、心用の分限、四種に差別す。故に四分と名づく(已上)。然るに四師に異説あり。
一には安慧菩薩、唯だ一分を立つ。是れ自証分なり。
二には難陀菩薩、二分を立つ。是れ相見分なり。
三には陳那菩薩、三分を立つ。相分、見分及び自証分なり。
四には護法菩薩、四分を立つ。即ち前に列するが如し。
今則ち護法理の説を尽くす。故に四分を立つ。相貌差別して心所縁と為すが故に相分と云う。能く前境を縁ずるが故に見分と云う。能く見分を縁ずる故に自証分と名づく。能く自体分を縁ずるが故に証自証分と名づくるなり。此の四の中、相分唯だ是れ所縁なり。縁慮の義なし。其の後の三分、能所縁に通ず。是れ則ち八識心王心所、各四分あり。八識の体各一と雖も用を論ずれば即ち四分あり。是の故に八識各四分あるなり。

(現代語訳)
この心の働きには、全部で四分がある。1つには相分、2つには見分、3つには自証分、4つには証自証分である。
善珠の『分量決』には「心用の分限、四種に差別す。故に四分と名づく」と説かれている。
ところが、四人の論師に異なる説がある。
1つには安慧菩薩の一分説である。一分とは自証分である。
2つには難陀菩薩の二分説である。二分とは相分と見分である。
3つには陳那菩薩の三分説である。相分と見分と自証分である。
4つには護法菩薩の四分説である。前述の通りである。
この中で、護法の四分説が完全に理に適っているので四分説を採用する。姿形を区切って心の対象とするので、相分という。前の対象を見るので見分という。見分を見るので自証分という。自体分を見るので証自証分という。この4つのうち、相分は見られる対象となるだけで、見るということはない。その後の三分は、見ることも見られることもある。八識の本体である心王にも働きである心所にもそれぞれ四分がある。八識の体は、それぞれ一つではあるが、その働きをいえば四つに分けられる。従って、八識それぞれに四分がある。

第八節 三性三無性

此宗明真妄義。総立三性。一遍計所執性。是当情現相。此亦分三。能遍計。所遍計。遍計所執トナリ。前二依他摂。遍計所執。是当情現相。於無謂有。虚妄執著。二依他起性。四縁所生諸法。因縁和合有故。三円成実性。諸法理性。具於円満。成就。真実三義故也。此三性中。所執是妄有。依他即仮有。円成是真有ナリ。遍計所執。既是妄執。依他ト円成トハ即妙真。三性互別。不相乱通。然依他事法。与円成理性。非一非異ナリ。相不離体。体不離相。三十頌ニ説三性偈云。由彼彼遍計。遍-計種種物。此遍計所執。自性無所有。依他起自性。分別縁所生。円成実於彼。常遠離前性。故此与依他。非異非不異。如無常等性。非不見此彼。(已上)対此三性。明三無性。即翻遍計。依他。円成。如次顕相。生。勝義三無性矣。故三十頌云。即依此三性。立彼三無性。故仏密意説。一切法無性。初即相無性。次無自然性。後由遠-離前所執我法性(已上) 如上三性。亦不離識。彼三無性。依三性立故。唯識論云。応知。三性亦不離識。(已上)又云。即依此前所説三性。立彼後ニ説ク三種無性(已上)諸位修行。皆観唯識。仏果所証。但証唯識。故万行自唯識而起。万徳依唯識而感。

(書き下し文)
此の宗真妄の義を明かすに総じて三性を立つ。
一には遍計所執性、是れ当情現の相なり。此れに亦た三を分かつ。能遍計、所遍計、遍計所執となり。前の二は依他に摂す。遍計所執は是れ当情現の相なり。無に於いて有と謂う。虚妄執著なり。
二には依他起性、四縁所生の諸法なり。因縁和合して有るが故に。
三には円成実性、諸法の理性なり。円満、成就、真実の三義を具するが故なり。
此の三性中、所執は是れ妄有なり。依他は即ち仮有なり。円成は是れ真有なり。遍計所執、既に是れ妄執なり。依他と円成とは即ち妙真なり。三性互いに別にして相乱通せず。然も依他の事法は円成の理性と非一非異なり。相は体を離れず。体は相を離れず。三十頌に三性を説く偈に云く、彼彼(ひひ)の遍計に由りて種種の物を遍計す。此の遍計所執は自性。所有なし。依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼が於(うえ)に常に前のを遠離せる性なり。故に此れと依他と異にも非ず、不異にも非ず。無常等の性の如し。此を見ずして彼をみるものに非ず。(已上)此の三性に対して三無性を明かす。即ち遍計と、依他と、円成とを翻じて次いでの如く相、生、勝義の三無性を顕す。故に三十頌に云く、即ち此の三性に依りて彼の三無性を立つ。故に仏密意をもって一切の法は性なしと説く。初のは即ち相無性、次のは無自然の性、後のは前の所執の我法を遠離せるに由る性なり(已上) 上の三性の如く亦た識を離れず。彼の三無性、三性に依りて立つるが故に。唯識論に云く。応に知るべし。三性亦た識を離れずと。(已上)又た云く。即ち此の前の所説の三性に依りて立つ。彼の後に三種の無性を説くと。(已上)諸位の修行、皆唯識を観ず。仏果の証する所、但唯識を証す。故に万行、唯識によりて起つ。万徳唯識に依りて感ず。

(現代語訳)
法相宗では、真理と迷妄を明らかにするために三性を説く。
1つには遍計所執性である。凡夫の迷妄によって現れたイメージである。これを3つに分ける。見分の能遍計と相分の所遍計と、その上に現れる迷妄の認識である遍計所執である。見分の能遍計と相分の所遍計は依他起性におさめるので、遍計所執が凡夫の迷妄によって現れたイメージである。実体がないものに実体があると思う虚妄の執著である。
2つには依他起性である。これは、因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁の四縁から生じた諸法であり、因縁和合して生じるものである。
3つには円成実性である。これは諸法の理性である。完全、完成、真実の三つの性質をそなえている。
この三性の中で、遍計所執性は妄想の存在である。依他起性は仮有である。円成実性は真の存在である。
遍計所執は妄執であり、依他起性と円成実性は妙なる真理である。三性は互いに別であり、乱りにに交わらない。しかも依他起性の現象は円成実性の真如と非一非異である。現れは本体を離れず、本体は現れを離れない。『唯識三十頌』の三性を説く偈に
「彼彼(ひひ)の遍計に由りて種種の物を遍計す。此の遍計所執は自性。所有なし。依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼が於(うえ)に常に前のを遠離せる性なり。故に此れと依他と異にも非ず、不異にも非ず。無常等の性の如し。此を見ずして彼をみるものに非ず」
と説かれている。
この三性に対して三無性が説かれる。計所執性と、依他起性と、円成実性に対して、この順に相無性、生無性、勝義無性の三無性を顕すのである。故に『唯識三十頌』に
「即ち此の三性に依りて彼の三無性を立つ。故に仏密意をもって一切の法は性なし」と説かれている。
また「初のは即ち相無性、次のは無自然の性、後のは前の所執の我法を遠離せるに由る性なり」と説かれている。
前述の三性のように、三無性も識を離れたものではない。三無性は、三性を否定的な面から表現したものだからである。『成唯識論』に「応に知るべし。三性亦た識を離れず」と説かれている。また、「即ち此の前の所説の三性に依りて立つ。彼の後に三種の無性を説く」と説かれている。
各段階の修行は、皆唯識を観察する。仏果に於て証ることは、但唯識ということを証るのである。従って菩薩が修行する万行は、唯識観によって構成されたもので、その結果である仏のそなえる万徳は唯識観によって感得したものである。

第九節 菩提涅槃

此宗転於八識。而成四智。其四智者。一者大円鏡智。二者平等性智。三者妙観察智。四者成所作智也。入初地時。転六七二識。而得妙観平等二智。至仏果時。転五八識。而得円鏡成事二智。此時四智円満。二転妙果朗然。其所証理。有四涅槃。一本来自性清浄涅槃。二有余涅槃。三無余涅槃。四無住処涅槃也。初一凡夫亦具。中二声聞縁覚並得。唯仏果如来ノミ具此四種。
此四総束名清浄法界。加前四智。以為五法。五法三身相摂スルニ唯識論有二師解。其初師意。清浄法界ト。大円鏡智トヲ以為法身。平等。妙観ヲ以為報身。成所作智ヲ以為化身。第二師意ロ。清浄法界是自性身。四智上相。是自受用。平等性智所現之身ハ他受用ナリ。成所作智所現之身。是変化身。妙観察智ハ是説法断疑智也。此宗正義。是第二師ヲ指南トス。当知。五位修行運運窮尽。二障使習蕩蕩断滅。三祇広劫。万善成満。摂-在一念。仏果速疾ナリ。有漏八識。転得四智。二転妙果。三身円満。寂寂而澄。照照而朗カナリ。
加之五乗普摂化。三乗各至極。一乗方便。三乗真実。正体智前。真理寂然。後得智中。衆生ヲ普化ス。依詮談旨。三性三無懸鏡矣。廃詮談旨。四句百非息慮矣。性相決判。無如此宗。義理極成。何教及ハン此。自証三身月円ニ。化他五乗光朗ナリ。自証化他。甚深広大ナリ。上乗所旨。義理円足ス。法相宗旨。大概如此。

(書き下し文)
此の宗八識を転じて四智と成す。其の四智とは、一には大円鏡智、二には平等性智、三には妙観察智、四には成所作智なり。初地に入る時、六、七の二識を転じて妙観、平等の二智を得。仏果に至る時、五、八識を転じて円鏡、成事の二智を得。此の時、四智円満す。二転の妙果朗然たり。
其の所証の理に四の涅槃あり。一には本来自性清浄涅槃、二には有余涅槃、三には無余涅槃、四には無住処涅槃なり。初の一は凡夫も亦た具す。中の二は声聞、縁覚、並びに得。唯だ仏果如来のみ此の四種を具す。
此の四、総束して清浄法界と名づけ、前の四智を加え以て五法と為す。五法三身相摂するに唯識論に二師の解あり。其の初師の意は、清浄法界と大円鏡智とを以て法身と為す。平等、妙観を以て報身と為す。成所作智を以て化身と為す。第二師の意は、清浄法界、是れ自性身なり。四智上相は是れ自受用なり。平等性智所現の身は他受用なり。成所作智所現の身は是れ変化身なり。妙観察智は是れ説法断疑智なり。此の宗の正義、是れ第二師を指南とす。当に知るべし。五位の修行は運運(うんぬん)として窮尽し、二障の使習は蕩蕩(とうとう)として断滅す。三祇の広劫に、万善成満して一念に摂在し、仏果速疾なり。有漏の八識、転じて四智を得。二転の妙果、三身円満す。寂寂として澄み、照照として朗らかなり。
しかのみならず、五乗普く摂化し、三乗各至極し、一乗は方便、三乗は真実なり。正体智の前には、真理寂然、後得智の中には衆生普く化す。詮に依りて旨を談ずるには、三性三無、鏡を懸ける。詮を廃して旨を談ずるには、四句百非、慮(おもんぱかり)を息(や)む。性相の決判、此の宗に如くはなし。義理の極成、何の教えか此に及ばん。自証三身の月円かに、化他五乗の光、朗らかなり。自証化他、甚だ深く広大なり。上乗の所旨、義理円足す。法相の宗旨、大概此の如し。

(現代語訳)
法相宗では、八識を転じて四智とする。その四智とは、1つには大円鏡智、2つには平等性智、3つには妙観察智、4つには成所作智である。初地に入る時、第六識、第七識の二つの識を転じて妙観察智、平等性智の二つの智慧を得る。仏果に至る時、前五識、第八阿頼耶識を転じて成所作智、大円鏡智の二つの智慧を得る。この時、四つの智慧が完成する。第二の転の妙なる結果は朗らかである。
そのさとる真如には4つの涅槃がある。1つには本来自性清浄涅槃、2つには有余涅槃、3つには無余涅槃、4つには無住処涅槃である。1つ目の本来自性清浄涅槃は、凡夫にも届いている。有余涅槃と無余涅槃の2つは、声聞、縁覚がどちらも得る。仏だけが、この4つをすべてそなえている。
この4つをまとめて清浄法界といい、前述の四智を加えて五法とする。五法と三身の関係は、『成唯識論』に2人の唯識論師の解釈が説かれている。1人目の論師は、清浄法界と大円鏡智を法身とする。平等性智、妙観察智を報身とする。成所作智を化身(応身)とする。2人目の論師は、清浄法界を自性身(法身)とする。四智の中で大円鏡智を自受用身(報身)とし、平等性智の現れた身が他受用身(報身)とする。成所作智が現れた身が変化身(応身)である。妙観察智は説法によって疑いを除く智慧である。法相宗では、第二師を正しいものとして指南を仰いでいる。
まさに知らなければならない。資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位の五位の修行は着実に極め尽くし、煩悩障と所知障の二障の正使(本体)と習気(余力)はすっかりと断滅する。三阿僧祇の広劫に万善を完全に成就して一念におさまり、速やかに仏のさとりを得られる。煩悩に染まった八識は、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四智に転じる。二段階で転じた妙なる仏のさとりは、三身を完全に満足する。寂寂として澄みわたり、照照として朗らかである。
それだけでなく、人乗、天乗を含む五乗を普く救済し、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗はそれぞれゴールに至る。一乗は導く手段であり、三乗が釈迦の真意である。根本無分別智によって真理を寂然と体得し、根本智の後に起きる後得智によってすべての人を救済する。言葉によって真理を説けば、三性三無、鏡のように明らかである。言葉を離れた真理は、四句分別や百非によっても表せず、想像も及ばない。本質と現れの分析は、法相宗に及ぶものはない。この教えの精緻さの極みにどんな教えが及ぶだろうか。自ら法身、報身、化身の三身を証得するさとりの月は完全であり、五乗を救済する教えの光は明るく輝いている。自ら覚り、他を覚らせることは、非常に深く広大である。五乗の目的も教えも完全に満足している。法相宗の教えは大体このようなものである。

第五章 三論宗

第一節 宗名所依論

三論宗
問。何故名三論宗乎。
答。以三部論。為本所憑。故名三論宗。
問。其三部者何ソヤ。
答。一ニハ中論四巻。龍樹菩薩造。二ニハ百論二巻。提婆菩薩造。三ニ十二門論一巻。龍樹菩薩造。是名三論。然若加智論百巻。即為四論。亦是龍樹菩薩造。此四論中。三論是通申論。通申大小諸教故。智論即別申論。別釈大品般若故。智論若具訳之。可是千巻。羅什三蔵減於九倍。取簡翻成百巻。
就三論中。中論正破小乗。兼破外道等。顕大乗義。百論正破外道。傍破自余。顕大乗義。十二門論並破小乗。外道。正顕大乗深義。三論所明。不過二諦。

(書き下し文)
三論宗
問う。何が故ぞ三論宗と名づくや。
答う。三部の論を以て本所憑(ほんしょひょう)と為すが故に三論宗と名づく。
問う。其の三部とは何ぞや。
答う。一には中論四巻、龍樹菩薩造なり。二には百論二巻、提婆菩薩造なり。三に十二門論一巻、龍樹菩薩造なり。是れを三論と名づく。然るに若し智論百巻を加うれば、即ち四論と為す。亦た是れ龍樹菩薩造なり。此の四論の中、三論是れ通申論なり。大小諸教を通申するが故に。智論即ち別申論なり。大品般若を別釈するが故に。智論若し具さに之を訳せば是れ千巻なるべし。羅什三蔵、九倍に減ず。簡を取りて翻じて百巻を成ず。
三論の中に就いて中論は正に小乗を破し、兼ねて外道等を破し、大乗の義を顕す。百論は正に外道を破し、傍に自余を破し、大乗の義を顕す。十二門論は並びに小乗、外道を破し、正しく大乗の深義を顕す。三論の明かす処、二諦に過ぎず。

(現代語訳)
三論宗
問い。どうして三論宗というのか。
答え。三部の論を根本の拠り所とするから三論宗という。
問い。その三部とは何か。
答え。1つには龍樹菩薩の『中論』4巻、2つには提婆菩薩の『百論』2巻、3つには龍樹菩薩の『十二門論』1巻である。これを三論という。だがもし『大智度論』100巻を加えれば、四論となる。『大智度論』も龍樹菩薩の作である。この四論の中、三論は通申論である。大乗、小乗の各教えに共通する教えを解説するからである。『大智度論』は別申論である。『大品般若経』のみを特に解釈しているからである。『大智度論』はもし詳しく翻訳すれば、1000巻になったはずである。三蔵法師の鳩摩羅什は、9倍に減らして、簡潔に翻訳し、100巻で完成した。
三論の中では『中論』は小乗を破り、同時に外道なども破り、大乗の教えを明らかにしている。『百論』は正に外道を破り、ついでにそれ以外も破り、大乗の教えを明らかにしている。『十二門論』は小乗も、外道も破り、まさしく大乗の深義を明らかにしている。三論宗が明らかにするのは、二諦に過ぎない。

第二節 破邪顕正

凡此宗大意破邪顕正二門為軌。論雖有三義。唯二轍ナリ。破邪則下救沈淪。顕正則上弘大法。振領提綱。唯此二轍。頗成大宗。
問。其破邪者破何等邪。
答。総破一切有所得見。略而明之。不出四見。一破外道実我之邪見。二破毘曇実有之((考)一本無之字)執見。三折成実偏空之情見。四摧有所得大乗見解。内外尽破。大小遍折。啻有所得ハ通皆遣破。故無不被破。莫不被責。此謂是宗破邪義也。

(書き下し文)
凡そ此の宗の大意は破邪顕正の二門を軌と為す。論に三ありと雖も義、唯だ二轍ナリ。破邪すれば則ち下に沈淪を救い、顕正すれば則ち上に大法を弘む。振領提綱(しんりょうだいこう)、唯だ此の二轍にして頗る大宗を成ず。
問う。其の破邪とは何等の邪を破する。
答う。総じて一切の有所得の見を破す。略して之を明かすに四見を出でず。一には外道実我の邪見を破す。二には毘曇実有の((考)一本無之字)執見を破す。三には成実偏空の情見を折す。四には有所得大乗の見解を摧(くじ)く。内外破し尽くし、大小遍く折す。啻(た)だに有所得は通じて皆(みな)遣破(けんぱ)す。故に破られざるなく責められざるなし。此れを是の宗破邪の義と謂うなり。

(現代語訳)
三論宗の大体の大意は、破邪顕正の二門を道筋とする。三論があるといっても、教えは唯だ2つの軌道しかない。破邪することによって苦しみに沈む人々を救い、顕正することによって偉大な真理を広めるのである。衣の襟をもって振れば衣がきれいにそろい、網は大綱をもってたたむように、三論宗をきれいにまとめれば、ただこの2つの道筋によって偉大な宗派を作り上げているのである。
問い。その破邪とはどのような邪を破るのか。
答え。一言でいえばあらゆる自分が得たと執着する考えを破る。簡単に説明すれば、4つの間違った考え以外にはない。1つには外道の実我の邪見を破る。2つにはアビダルマの実有の執見を破す。3つには成実宗の法の仮有を説くだけの偏った空に執着した考えを正す。4つには空に執着した有所得大乗の考えを砕く。仏教の内も外もすべてを破り、大乗も小乗もすべてくじく。有所得の考えを持つ限り共通してすべて責め破る。だから破られないものも責められないものもない。これが三論宗の破邪の意味である。

問。其顕正者。顕何等正。
答。破邪之外。無別顕正。破邪已尽キハ無有所得。所得。既無レハ言慮無寄。然対破邪故。亦有顕正。一源不窮。則戯論不滅。毫理不尽。則至道不顕。無源不窮故。戯論斯滅。無理不尽。故玄道是通。寄言談正。莫不顕明。
問。若爾其顕正之義如何。
答。至道是玄極。言論不及。言有則返愚。語無則非智。善吉所呵。身子被責。非有非無。非亦有亦無。非非有非無。言語道断。心行処滅。湛湛無寄。寥寥絶拠。不知何以而銘。強名顕正矣也。
問。言語俱絶。有無俱遣。即是空義。何関顕正。
答。既遣有無。何住於空。仏道大体。実無寄者乎。有無俱絶故。無有所得。顕正之旨。窮于此矣。

(書き下し文)
問う。其の顕正とは何等の正を顕かす。
答う。破邪の外、別の顕正なし。破邪已に尽くれば有所得なし。所得、既になければ言慮、寄ることなし。然も破邪に対するが故に亦た顕正あり。一の源窮らざれば則ち戯論滅せず。毫の理も尽きざれば則ち至道顕れず。源として窮まらざるなきが故に戯論、斯に滅す。理として尽くさざるなきが故に玄道是に通ず。言に寄せ正を談ずるに顕明ならざるなし。
問う。若し爾らば其の顕正の義は如何。
答う。至道は是れ玄極、言論は及ばず。有と言えば則ち愚に返り、無と語れぱ則ち智にあらず。善吉、呵せられ、身子、責めらる。有にあらず無にあらず。亦有亦無にあらず。非有非無にあらず。言語道断す。心行処滅、湛湛として寄るなく、寥寥として拠を絶す。何をもってか銘(な)づけるか知らず、強いて顕正と名づく。
問う。言語俱に絶し、有無俱に遣る。即ち是れ空の義、何ぞ顕正に関する。
答う。既に有無を遣る。何ぞ空に住せん。仏道の大体、実に寄るなきものか。有無俱に絶するが故に有所得なし。顕正の旨。此に窮まる。

(現代語訳)
問い。その顕正というのはどのような正を顕らかにするのか。
答え。破邪の外に別の顕正はない。破邪し尽くせば有所得はない。所得がなければ言葉で言い表すことができない世界である。それを踏まえた上で破邪に対して顕正がある。迷いの根元を極めなければ迷いは滅することができない。ほんの小さな真理さえも残さず明らかにし尽くさなければ無上の道はあらわれない。迷いの根元を極めるから迷いが滅し、真理として明らかにしないものがないので、奥深い道に通ずるのである。言葉によって正を説くに明らかにならないことはない。
問い。もしそうであるならば、その顕正というのはどういう意味か。
答え。無上の道は奥深い極まりだから言葉を離れている。有と言えば実体を考える愚かな外道の教えになり、無と語れぱ言葉を離れた智慧ではない。『維摩経』で、須菩提が、維摩に叱られて、舎利弗は天女に責められた。有でもなければ無でもない。有かつ無でもない。非有かつ非無でもない。言葉を離れた世界である。想像を絶し、湛湛と水を湛えるように深く澄み渡って執着がなく、風が寥寥と吹き抜けるように何物にも邪魔されないので、拠り所はない。どうやって言葉で表現するか分からないので、強いて顕正と言っているのである。
問い。言語を超越し、有も無も共に捨てる。そのような空が、なぜ顕正に関係するのか。
答え。既に有も無も捨てるのになぜ空に住しないことがあるだろうか。仏道の偉大な本質は、実に拠り所のないものである。有も無も共に離れているからこそ有所得なのである。顕正の本質はここに極まるのである。

第三節 真俗二諦

問。既遣有無。若爾縁生諸法。云何得立。
答。縁生諸法是仮有。仮有即無所得矣。二諦所以而立。四中依之而成。
以俗諦故。不動真際。建-立諸法。以真諦故。不壊仮名。而説実相。故空宛然而有。有宛然而空。色即是空。空即是色ノ旨在茲矣。二諦唯是教文。不関境理。以寄縁故有二諦。以理実故泯二諦。有是空之有故。言ヘトモ有非有。空是有之空故。言ヘトモ空非空。非有故即有談空。非空故即空説有。諸仏説法常依二諦トハ即其義也。
此宗所顕。即此無得正観而已。故古人云。八不妙理之風。拂妄想戯論之塵。無得正観之月。浮一実中道之水(已上)
以無得故仮名諸法法爾森羅。准上可知。

(書き下し文)
問う。既に有無を遣る。若し爾らば縁生の諸法、云何が立つことを得る。
答う。縁生の諸法是れ仮有なり。仮有は即ち無所得なり。二諦の所以(ゆえ)に立ち、四中之に依りて成ず。
俗諦を以ての故に真際を動ぜずして諸法を建立す。真諦を以ての故に仮名を壊せずして実相を説く。故に空は宛然として有なり。有は宛然として空なり。色即是空、空即是色の旨、茲にあり。二諦唯だ是れ教文にして境理に関せず。縁に寄するを以ての故に二諦あり。理実を以ての故に二諦を泯(ほろ)ぼす。有是れ空の有なるが故に有と言えども有にあらず。空是れ有の空なるが故に空と言えども空にあらず。非有なるが故に即ち有、空を談ず。非空なるが故に即ち空、有を説く。諸仏の説法、常に二諦に依るとは即ち其の義なり。
此の宗の顕す所の即ち此の無得正観のみ。故に古人の云く、八不妙理の風、妄想戯論の塵を拂う。無得正観の月、一実中道の水に浮かぶと。(已上)
無得を以ての故に仮名の諸法、法爾の森羅たり、上に准じて知るべし。

(現代語訳)
問い。既に有も無も捨て去る。もしそうであれば、原因によって生ずるあらゆるものはどのように存在するのか。
答え。原因によって生ずるあらゆるものは、仮の存在である。仮の存在は無所得である。だから真俗二諦が成り立ち、吉蔵の『三論玄義』にある対偏中、尽偏中、絶待中、成仮中の四つの中も、これによって成立する。
俗諦によれば真如実際(実相)を動かすことなくあらゆるものが存在する。真諦によれば、仮の存在を壊さず実相を説く。だから空のままが有、有のままが空である。『般若心経』の「色即是空、空即是色」の本質はここにある。真俗二諦は、『中論』ではどちらも教えの言葉であるから、本当の真理ではない。相手に応じて説かれたので、真俗二諦があるのである。真実の道理によれば、真俗二諦は消える。有といっても、空の有だから、有といっても実有ではなく仮有である。空といっても、仮有の空であるから、言葉で空と言うと空ではない。実有ではないからこそ有によって空を説く。空に執着しないからこそ空によって有を説くのである。諸仏の説法が常に真俗二諦によるというのはそういう意味である。
三論宗が明らかにするのは、この無所得の正観のみである。だから古人は「八不妙理の風、妄想戯論の塵を拂う。無得正観の月、一実中道の水に浮かぶ」と言ったのである。
無所得の正観によるから、実体がなく、仮に名づけたあらゆるもの、つまりあるがままの森羅万象が現れているのである。これまで説明した通りである。

第四節 仏果行位

問。此宗云何ンカ談成仏果。
答。一切衆生本来是仏。六道衆生。本自寂滅。無迷亦無悟。豈論成不成乎。故此宗迷悟本無。湛然寂滅。然仮名門中。論於迷悟成不成耳。由此義故。成仏有遅有速。由根有利鈍故也。一念成覚是短ナリ。三祇成仏即長ナリ。
一念不礙三祇。三祇不妨一念。一念即三祇。三祇即一念。如一夕眠夢百年事。百年之((考)一本無之字)事還テ故トノ一夕也。経三祇故。万行積成。在一念故。仏果速疾ナリ。
問。三祇積行者。経幾次位。
答。三祇トハ菩薩経五十一位。然後至仏果故。此宗立五十二位也。 故此宗意。覚体本有。迷故有生死。返迷還源。但拂客塵時。本有覚体。宛爾而顕。此名為始覚仏。当知対迷故立悟。対悟有迷。悟発則無迷。無迷故何悟。無迷無悟。迷悟本無。本来寂滅ナリ。迷悟染浄。是仮名施設。無得正観。即妙極至道也。

(書き下し文)
問う。此の宗、云何んが成仏の果を談ずる。
答う。一切衆生は本来是れ仏なり。六道の衆生、本自ら寂滅なり。迷なく亦た悟なし。豈成不成を論ぜんや。故に此の宗、迷悟本無く湛然として寂滅なり。然るに仮名門の中に、迷悟と成不成とを論ずるのみ。此の義に由るが故に、成仏に遅あり速あり。根に利鈍あるに由るが故なり。一念成覚は是れ短なり。三祇成仏は即ち長なり。
一念は三祇を礙(さ)えず。三祇は一念を妨げず。一念即ち三祇、三祇即ち一念なり。一夕の眠に百年の事を夢み、百年の事、還りて故(も)との一夕なるが如し。三祇を経るが故に万行積成し、一念に在るが故に仏果速疾なり。
問う。三祇の積行は幾次の位を経る。
答う。三祇とは菩薩、五十一位を経る。然る後、仏果に至るが故に此の宗、五十二位を立つるなり。 故に此の宗の意、覚体は本有なり、迷うが故に生死あり。迷を返して源に還り、但、客塵を拂う時、本有の覚体、宛爾として顕わる。此れを名づけて始覚の仏と為す。当に知るべし、迷いに対するが故に悟りを立て、悟に対して迷あり。悟り発すれば則ち迷なし。迷なきが故に何をか悟る。迷なく悟なし。迷悟本なし。本来寂滅なり。迷悟染浄、是れ仮名の施設なり。無得の正観、即ち妙に至道を極む。

(現代語訳)
問い。三論宗では、どのように仏果に至ると説くのか。
答え。すべての人は、本来仏である。六道に迷う生きとし生けるものは、もともと涅槃に住している。迷いもなければ悟りもない。どうして仏になるならないを論ずることができようか。だから三論宗では、迷いも悟も本来なく、水が静かに湛えられているように寂滅である。しかし、仮に名づけて迷いとか悟り、成仏、不成仏を論じているのである。だから成仏に遅い速いがあるのである。すぐれた素質の人と劣った人がいるからである。一念で仏になるのは短く、三阿僧祇劫で成仏するのが長くかかる。
一念成仏は三阿僧祇劫成仏を否定しない。三阿僧祇劫成仏は一念成仏を妨げない。一念のままが三阿僧祇、三阿僧祇のままが一念である。夕刻の一眠りで百年の夢を見て、百年の時間が経っても、目が覚めればもとの夕刻であるようなものである。三阿僧祇劫を経過するために万の行を積んで成就し、それが一念にあるので、成仏は極めて速い。
問い。三阿僧祇劫の修行は幾つの階位を経るのか。
答え。三阿僧祇劫とは菩薩が51位を経る。その後、仏果に至るため、三論宗では、52位を立てる。故に三論宗の意、仏の本性は本から持っているものである。迷うので生死輪廻がある。迷いをなくして源に還り、客塵煩悩を払い落とす時、もとから持っている仏性があるがままで顕われる。これを始覚の仏という。まさに知らねばならない。迷いに対して悟りがあり、悟りに対して迷いがある。悟りを得れば迷いもない。迷いがなければ何を悟ろうか。迷いも悟りもない。迷いも悟りももともとなく、本来寂滅なのである。迷悟も染浄も、仮に名づけて考えたものである。無得の正観こそすばらしい無上の道を極めることができる。

第五節 八不解釈

問。其八不者何。
答。不生。不滅。不断。不常。不一。不異。不去。不来ナリ。遣八迷故。説此八不。此即今宗所顕理也。此宗釈一切法。有四種釈義。一依名釈義。二因縁釈義。三見道釈義。四無方釈義。一切法門。以此可釈。
亦立四重二諦。一有ヲ為俗諦。空ヲ為真諦。二ニ有空ヲ為俗。非空非有ヲ為真。三空有非空非有ヲ為俗。非非有非非空ヲ為真諦。四以前為俗。非非不有非非不空ヲ為真。斯乃破外道。毘曇。有所得大乗等故也。

(書き下し文)
問う。其の八不とは何ぞや。
答う。不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来なり。八の迷を遣るが故に、此の八不を説く。此れ即ち今宗所顕の理なり。此の宗一切法を釈すに四種の釈義あり。一には依名釈義、二には因縁釈義、三には見道釈義、四には無方釈義,一切の法門、此を以て釈すべし。
亦た四重二諦を立つ。一には有を俗諦と為し、空を真諦と為す。二には有空を俗と為し、非空非有を真と為す。三には空有非空非有を俗と為し、非非有非非空を真諦と為す。四には以前を俗と為し、非非不有非非不空を真と為す。斯れ乃(すなわ)ち外道、毘曇、有所得大乗等を破すが故なり。

(現代語訳)
問い。八不とは何か。
答え。不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来である。八の迷いを正すために、この八不を説くのである。これが三論宗が顕らかにする真理である。この宗は、あらゆる経論を四通りに解釈する。1つには依名釈義、2つには因縁釈義、3つには見道釈義、4つには無方釈義である。あらゆる教えはこれらによって解釈すべきである。
また4通りの二諦を説く。
1つには有を俗諦として、空を真諦とする。
2つには有空を俗諦として、非空非有を真諦とする。
3つには空有非空非有を俗諦として、非非有非非空を真諦とする。
4つにはこれまでの3つを俗諦として、非非不有非非不空を真諦とする。
これは外道、アビダルマ、有所得大乗などの迷いを破るためである。

第六節 二蔵三転法輪

問。此宗。立幾許教。摂諸教乎。
答。立二蔵。三転法輪。摂一代教。
二蔵者。一声聞蔵。是小乗教。二菩薩蔵。是大乗教。大小二教。此中摂尽。此依智論。三転法輪者。一根本法輪。華厳是也。二枝末法輪。阿含已後。斉法華来。並是也。三摂末帰本法輪。法華経是ナリ。一代諸教。一切摂尽。此出法華経矣。大小二乗。顕理同一ナレトモ随機故教異ス。諸大乗経顕道無二ナレトモ対縁故有別。然判諸大乗経。各立等勝劣三。判一切教。敢無偏解。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾許の教を立てて諸教を摂するや。
答う。二蔵と三転法輪とを立てて一代教を摂す。
二蔵とは一には声聞蔵、是れ小乗の教えなり。二には菩薩蔵、是れ大乗の教えなり。大小の二教、此の中に摂め尽くす。此れ智論に依る。三転法輪とは一には根本法輪、華厳是れなり。二には枝末法輪、阿含已後、法華に斉(のぼ)り来たるまで並びに是れなり。三には摂末帰本法輪、法華経是れなり。一代諸教、一切摂め尽くす。此れ法華経を出ず。大小の二乗、顕す理は同一なれども機に随うが故に教、異にす。諸大乗経、顕す道無二なれども縁に対するが故に別あり。然るに諸大乗経を判ずるに各等勝劣の三を立つ。一切教を判ずるに敢えて偏解なし。

(現代語訳)
問い。三論宗では、諸教を幾つにまとめるのか。
答え。釈迦一代の教えを二蔵と三転法輪にまとめる。
二蔵とは1つには声聞蔵、これは小乗の教えである。2つには菩薩蔵、これは大乗の教えである。大乗と小乗の二つの教えによってすべて収める。これは『大智度論』による。三転法輪とは1つには根本法輪、これは華厳経である。2つには枝末法輪、阿含経から法華経までのすべての教えである。3つには摂末帰本法輪、これは法華経である。この三転法輪に釈迦一代の教えはすべて収まる。これは『法華経』による。大乗と小乗の二乗は、顕す中道の真理は同一であるが、相手に応じて法が説かれるために教えが異なる。諸の大乗経、顕す道は無二であるが、縁(相手)に応じて説かれるために別の教えになるのである。しかし、大乗経典を判定すれば、それぞれ等、勝、劣の3つがある。例えば『華厳経』なら菩薩のためには勝れた法だが、声聞にとっては阿含経に劣るのである。経典は聞く人によって価値が変わるから、一切教を判定して偏った理解をすべきでない。

第七節 三国相承

問。此宗以誰為祖師乎。
答。祖師血脈。三国相承。師師継踵。此宗実明ナリ。初以大聖文殊師利菩薩為高祖。次馬鳴菩薩以為次祖。次龍樹菩薩妙弘此宗。龍樹授龍智菩薩及提婆菩薩。此二大輪師並肩施化。龍智授于清弁菩薩。清弁授智光論師。智光授師子光菩薩。彼提婆菩薩。智解甚深。弁才絶倫。大破外道。盛弘仏教。論師此宗ヲ。授羅睺羅菩薩。羅睺羅授沙車王子。王子授羅什三蔵。羅什三蔵。姚秦之世。来至震旦。大翻経論。専伝此宗。四論即是什師所翻ナリ翻訳之美。古今流誉。深智之才。三国(天竺亀茲震旦)所尊。門徒繞仰。如衆星囲白月。朝代帰宗スルコト。似衆流会大海。生。肇。融。叡。並肩相承。影。観。恒。済。同志美賛。遂使曇済大師。継踵弘伝。以授道朗大師。道朗授于僧詮大師。僧詮授于法朗大師。法朗授于嘉祥大師。嘉祥大師。本胡国人也。幼随父来漢地。従法朗大師。受学三論。実是法門綱領。抜-出古今。威徳巍巍トシテ現象王之威。智弁明明。奪日月之照。製作繁多。広施部帙。三論。法華。並為心府。大小両乗。悉窮玄底。三論甚盛ナルコト専在此師。諸祖之中。特定大祖。解釈尽理。不可加之。遂以三論。授高麗慧灌僧正。僧正来日本。広伝此宗。慧灌授福亮僧正。福亮授智蔵僧正。智蔵並授道慈律師。礼光法師矣。道慈授善議大徳。善議授勤操僧正。勤操授安澄大徳。如是相承。于今不絶。明師挺出。互弘大義明哉。三国伝承不墜故。義浄三蔵云。天竺有二宗。瑜伽与中論(云云。)教理甚深。何宗及此。布貴道詮有言。四河派流。同出無熱。七宗分鑣。俱出三論。当知。諸宗是三論之末。三論是諸宗之本。豈有不入龍樹心府之宗乎矣。諸宗悉崇為大祖者乎。

(書き下し文)
問う。此の宗誰を以て祖師と為すや。
答う。祖師の血脈、三国の相承、師師踵を継ぎ、此の宗実に明らかなり。初めに大聖文殊師利菩薩を以て高祖と為す。次に馬鳴菩薩を以て次祖と為す。次に龍樹菩薩、妙に此の宗を弘む。龍樹、龍智菩薩及び提婆菩薩に授く。此の二大輪師肩を並べて化を施す。龍智、清弁菩薩に授く。清弁、智光論師に授く。智光、師子光菩薩に授く。彼の提婆菩薩は、智解甚深にして弁才、倫(ともがら)を絶す。外道を大いに破し、盛んに仏教を弘む。論師此宗を羅睺羅菩薩に授く。羅睺羅、沙車王子に授く。王子、羅什三蔵に授く。羅什三蔵、姚秦の世、震旦に来至して大いに経論を翻じ、専ら此の宗を伝う。四論即ち是れ什師の翻ずる所なり。翻訳の美。古今に誉れ流る。深智の才、三国(天竺、亀茲、震旦)に尊ばれ、門徒繞仰(にょうごう)すること衆星の白月を囲むが如し。朝代帰宗すること衆流の大海に会するに似たり。生、肇、融、叡、肩を並べて相承す。影、観、恒、済、同志美賛す。遂に曇済大師をして踵を継ぎ弘伝せしむ。以て道朗大師に授ける。道朗、僧詮大師に授く。僧詮、法朗大師に授く。法朗、嘉祥大師に授く。嘉祥大師、本胡国の人なり。幼くして父に随い漢地に来たる。法朗大師より三論を受学す。実に是の法門の綱領、古今に抜出す。威徳巍巍として象王の威を現す。智弁明明として日月の照を奪う。製作繁多にして広く部帙(ぶちつ)を施し、三論、法華、並びに心府と為す。大小の両乗、悉く玄底を窮む。三論甚だ盛んなること専ら此の師に在り。諸祖の中、特に大祖と定む。解釈理を尽くし之に加うるべからず。遂に三論を以て高麗の慧灌僧正に授く。僧正日本に来たりて広く此の宗を伝え、慧灌、福亮僧正に授く。福亮、智蔵僧正に授く。智蔵は、並びに道慈律師、礼光法師に授く。道慈、善議大徳に授く。善議、勤操僧正に授く。勤操、安澄大徳に授く。是の如く相承して今に絶えず。明師挺出(ちょうしゅつ)す。互いに大義を弘む。明らかなるかな。三国の伝承墜ちざることや。故に義浄三蔵の云く、天竺に二宗あり。瑜伽と中論となり(云云。)教理甚深なること何の宗か此に及ばん。布貴の道詮の言えることあり。四河の派流は同じく無熱を出で、七宗鑣(くつわづら)を分かつこと俱に三論を出ずと。当に知るべし。諸宗是れ三論の末にして三論是れ諸宗の本なり。豈に龍樹の心府に入らざるの宗ありや。諸宗悉く崇めて大祖と為す者をや。

(現代語訳)
問い。三論宗はどなたを祖師とするのか。
答え。祖師の血脈、三国の相承、師から師へと踵を継ぎ、三論宗は本当に明らかである。初めに大聖文殊師利菩薩を高祖とする。次に馬鳴菩薩を次祖とする。次に龍樹菩薩がすばらしく三論宗を弘めた。龍樹菩薩は龍智菩薩と提婆菩薩に授けた。この二大輪師は肩を並べて人々を導いた。龍智は清弁菩薩に授けた。清弁は、智光論師に授けた。智光は、師子光菩薩に授けた。彼の提婆菩薩は、智慧も理解も非常に深く、弁舌は群を抜いていた。外道を大いに破り、盛んに仏教を弘めた。提婆は此の宗を羅睺羅菩薩に授けた。羅睺羅は、沙車王子に授けた。王子は、三蔵法師、鳩摩羅什に授けた。羅什三蔵は姚秦の時代、中国にやってきて大いに経論を翻訳し、専ら三論宗を伝えた。四論は鳩摩羅什の翻訳したものである。翻訳の美しさは、古今に誉れ高い。深い智慧の才能は、三国(天竺、亀茲、震旦)の人々に尊ばれ、門徒が取り囲んで仰ぐことは、たくさんの星が白い月を囲むようなものであった。歴代の皇帝が三論宗に帰依することは、諸河川が大海に帰することに似ている。道生、僧肇、道融、僧叡の4人は、肩を並べて教えを継ぎ、曇影、慧観、道恒、曇済の4人は志を同じくして師を讃えた。ついに曇済大師を後継者として教えを弘めさせた。それによって道朗大師に伝えられる。道朗は、僧詮大師に授けた。僧詮は、法朗大師に授けた。法朗は、嘉祥大師に授けた。嘉祥大師は、もともと西域、アルサケス朝ペルシアの人といわれる。幼くして父親に連れられて中国にやってきて法朗大師から三論を受学した。嘉祥の三論宗の綱領は、古今に抜きん出ている。その威徳は輝き、象の王のようであった。智慧、弁舌は明らかで、日や月の明るさを奪った。著作は多く、書物を入れる箱がたくさん必要であった。三論と法華をどちらも重視した。大乗も小乗も、すべて奥深い底まで極めた。三論宗が非常に盛んになったのは、専ら嘉祥の功績である。諸祖の中、特に大祖と定められている。解釈は理を尽くしているので何も加えることはない。遂に三論を高麗の慧灌僧正に授けた。僧正日本に来て広く三論宗を伝え、慧灌、福亮僧正に授けた。福亮は、智蔵僧正に授けた。智蔵は、道慈律師と礼光法師に授けた。道慈は、善議大徳に授けた。善議は、勤操僧正に授けた。勤操は、安澄大徳に授けた。このように伝えられて、今も続いている。明師が次々と現れて互いに偉大な教えを弘めた。明らかであることよ。インド、中国、日本の三国に伝えられて、衰えなかったことは。それで義浄三蔵は、「天竺に二宗あり。瑜伽と中論となり」と言った。三論宗の教理の非常に深いことは、どんな宗派も及ばない。日本の布貴の道詮は、「インドのガンジス河、インダス川、バクス河、シーター河の4つの河の流れは同じ清涼池から出るように、七宗が鑣(くつわ)を並べるのは、共に三論宗から出たものである」と言っている。まさに知らなければならない。仏教の宗派は三論から出たもので、三論宗は各宗派の源である。どうして龍樹菩薩を重視しない宗派があろうか。どの宗派も悉く崇めて八宗の祖師となっている方を。

第六章 天台宗

天台宗の教えについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
天台宗の本山と開祖、その教え(一念三千)とは?

第一節 宗名所依経論

天台宗
問。何故名天台宗。
答。従山為名。此宗従彼山而起故也。
問。此宗何教為所憑乎。
答。以法華為所依本経。以判一代諸教。然判教綱網。諸義咸引。故伊人法師義例云。一家教門。所用義旨。以法華為宗骨。以智論為指南。以大経為扶疏。以大品為観法。引諸経以増信。引諸論以助成。観心為経。諸法為緯。織-成部帙。不与他同。(已上)

(書き下し文)
天台宗
問う。何が故ぞ天台宗と名づく。
答う。山に従い名と為す。此の宗彼の山に従りて起きるが故なり。
問う。此の宗、何を教えてか所憑と為すや。
答う。法華を以て所依の本経と為し、以て一代諸教を判ず。然るに判教、綱網として諸義咸く引く。故に伊人法師の義例に云く。一家の教門、用うる所の義旨、法華を以て宗骨と為す。智論を以て指南と為す。大経を以て扶疏と為す。大品を以て観法と為す。諸経を引き以て増信す。諸論を引き以て助成す。観心を経と為す。諸法緯と為す。部帙を織成す。他と同じからず。(已上)

(現代語訳)
天台宗
問い。なぜ天台宗というのか。
答え。山の名前を宗派の名前とした。天台宗は、天台山でできたからである。
問い。天台宗は、何に基づいて教えられているのか。
答え。『法華経』を所依の根本経典とし、それによって釈迦一代の教えを分類整理する。さらに教相判釈の大綱と細網にあらゆる教えを引用している。だから荊溪湛然は『止観義例』に、「天台宗の教え、趣旨は、『法華経』を骨目として『大智度論』を指南を仰ぐ。『大般涅槃経』を補助的な解説とし、『大品般若行』によって一心三智の観法を行う。『維摩経』『仁王般若経』などその他色々な経典を引用して信を増す。諸論を引用して補助とする。一心三観をを縦糸とし、十界三千の諸法を横糸として天台大師の著作は構成されている。他の宗派とは異なる」と言っている。(已上)

第二節 相承系譜

問。此宗以誰為祖師乎。
答。以天台智者大師。為宗師矣。然慧文禅師。依智論立一心三観。以授南岳慧思禅師。慧思禅師。霊山聴法華。憶在当時。行法華三昧。位登六根浄。智論三智一心中得之文。中論三諦偈。妙領心府。深発定慧。三昧成就。観解円明ナリ。遂授法天台智者大師。
智者大師。亦昔於霊山。同聴法華。謁於南岳大師之時。妙得憶識。修法華三昧。位居五品。建一家大宗。身具十徳。慧文。南岳。唯提義綱。至于天台大師。広立教時。具判一代。此宗盛興。啻在此祖。次有章安大師。承天台大師。広伝此宗。天台唯散説。章安悉結集。以成一宗之((考)一本無之字)典籍。以作一家之綱目。次智威大師承章安大師。広伝此宗。智威ハ授慧威大師。慧威授玄朗大師。玄朗授妙楽大師。妙楽大師。広解祖文。並製記章。天台止観ト玄義ト文句トニ如応作輔行ト釈籤ト疏記トヲ。諸家記章。不及今師。自余祖文。無不解判。故古今特依承。諸方帰為所憑。妙得祖意。唯今家記。頗符大宗。義通法師。知礼法師。浄覚法師等。皆承此後。妙楽大師。授法ヲ道邃和尚。則法門霊府也。行満。道暹及智雲等。皆禀妙楽。並肩行化。互為龍象。爰日本伝教大師。渡大唐国。謁道邃和尚。広伝此宗。瀉瓶無遺。伝写此尽。遂還日本。弘之ヲ叡岳。義真和尚。慈覚大師。智証大師。如是等祖師先徳。互相承流伝。于今不絶。日本一国。無処不弘。異国諸州。伝聞盛学。雖時末法。人之帰仰。無過此宗。貴哉大矣。

(書き下し文)
問う。此の宗、誰を以て祖師と為すや。
答う。天台智者大師を以て宗師と為す。然るに慧文禅師、智論に依りて一心三観を立つ。以て南岳慧思禅師に授く。慧思禅師、霊山に法華を聴き、当時に在りと憶ゆ。法華三昧を行じ、位、六根浄に登る。智論の三智一心中得の文、中論の三諦偈、妙に心府に領し、深く定慧を発し、三昧成就し、観解円明なり。遂に法を天台智者大師に授す。
智者大師、亦た昔霊山に同じく法華を聴く。南岳大師に謁する時、妙に憶識を得る。法華三昧を修し、位、五品に居す。一家の大宗を建て、身に十徳を具す。慧文、南岳、唯だ義綱を提(ひっさ)ぐ。天台大師に至り、広く教時を立て、具さに一代を判ず。此の宗盛に興るは啻に此の祖に在り。次に章安大師ありて天台大師を承け、広く此の宗を伝う。天台唯だ散説す。章安悉く結集して以て一宗の典籍を成ず。以て一家の綱目を作る。次に智威大師、章安大師を承けて広く此の宗を伝う。智威は慧威大師に授く。慧威は玄朗大師に授く。玄朗は妙楽大師に授く。妙楽大師、広く祖文を解し、並びに記章を製す。天台止観と玄義と文句とに応ずる如く輔行と釈籤と疏記とを作る。諸家の記章は今師に及ばず。自余の祖文、解し判ぜざるはなし。故に古今特に依承し、諸方帰して所憑と為す。妙に祖意を得て、唯だ今記の家、頗る大宗に符(かな)う。義通法師、知礼法師、浄覚法師等、皆此の後を承く。妙楽大師、法を道邃(どうすい)和尚に授く。則ち法門の霊府(りょうふ)なり。行満、道暹及び智雲等、皆妙楽に禀け、肩を並べて行じ化すし。互いに龍象と為す。爰に日本の伝教大師、大唐国に渡り、道邃和尚に謁し、広く此の宗を伝う。瀉瓶して遺すことなし。此を伝写し尽くす。遂に日本に還り之を叡岳に弘む。義真和尚、慈覚大師、智証大師、是の如き等の祖師先徳、互いに相承流伝して今に絶えず。日本、一国として弘めざる処なく、異国の諸州、伝え聞きて盛んに学ぶ。時末法と雖も人の帰仰、此の宗に過ぎたるなし。貴きかな大なるかな。

(現代語訳)
問い。天台宗はどなたが祖師か。
答え。天台智者大師が宗師である。そもそも慧文禅師が、『大智度論』に基づいて一心三観を説き、それを南岳慧思禅師に授けた。慧思禅師は、霊鷲山で『法華経』のご説法を聴聞し、当時にいたという記憶があった。法華三昧を行じて六根浄位に達した。『大智度論』27巻の一切智、道種智、一切種智の三智を一心中に得るという文と、『中論』の空仮中の三諦偈を、妙なることに心奥に得心し、深い定によって智慧をおこし、三昧を成就し、観察も理解も明らかであった。ついに法を天台智者大師に授けた。
智者大師もまた、昔、霊鷲山で同じく『法華経』を聴いたという。南岳大師に始めて面会した時、期せずして南岳慧思はその記憶がありすでに面識があった。法華三昧の修行により、五品弟子位に達した。天台宗を開き、身には十の徳を具えていた。慧文と、南岳慧思は、ただ義綱を提示するのみであったが、天台大師は、詳しく五時八教の教判を行い、詳しく釈迦一代の教えを分類した。天台宗が興隆したのは、ひとえに天台大師の功績である。次に章安大師が現れて天台大師を継ぎ、詳しく天台宗を伝えた。天台大師はただ説法したのみであったが、章安はそれをすべて書きとめ、まとめて天台宗の典籍を成立した。それによって天台宗の綱目を作ったのである。次に智威大師が章安大師を継いで天台宗を広く伝えた。智威は慧威大師に授けた。慧威は玄朗大師に授けた。玄朗は妙楽寺の荊溪湛然、妙楽大師に授けた。妙楽大師は詳しく祖師の文を解釈し、すべてに注釈書を著した。天台の『摩訶止観』と『法華玄義』と『法華文句』を、『摩訶止観輔行』と『法華玄義釈籤』と『法華文句記』で解説した。他の人の解説書は荊溪には及ばない。それ以外の祖師の著書も理解して解説しないものはない。従って、昔から特に受け継がれ、代々これに基づいてすばらしく祖師の心を得た。それは荊溪の解釈は、大変に祖師の意にかなっていたのである。義通法師、知礼法師、浄覚法師などが皆、湛然の後を継いだ。妙楽大師は、法を道邃(どうすい)和尚に授けた。法門の最も重要なところである。行満、道暹、智雲なども、皆妙楽に学び、肩を並べて修行して人々に伝え、それぞれすぐれた僧となった。
ここに日本の伝教大師が、唐に渡り、道邃和尚に師事し、広く天台宗を伝えた。一器の水を一器に移すように、余すところなく学び、すべて写しとった。ついに日本に帰り、天台宗を比叡山に弘めた。義真和尚、慈覚大師、智証大師のような祖師先徳が、それぞれ師事して伝え、今に絶えていない。日本中、広まらないところはない。全国から伝え聞いてきた人たちに盛んに学ばれた。末法の時代といっても人が帰依し仰ぐことは、天台宗以上の宗派はない。なんと貴いことか、偉大であることか。

第三節 教判

問此宗。立幾時教。判一代教。又明何法門乎。
答。一宗大義。教観二門ナリ。言教門者。義解養神。仏道円開故。言観門者。観行進登。証覚妙発故。其教門者。四教。五味。一乗十如是等也。其観門者。十二因縁。二諦。四種三昧。三惑義等也。
判一代教。約教有四教。約時有五時。四教之中。亦有二種。一化法四教。是釈義之綱目也。二化儀四教。即判教之大綱也。両種四教。合為八教。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾の時と教とを立てて一代教を判ずる、又た何の法門をか明らかにするや。
答う。一宗の大義、教観二門なり。教門と言うは、義解、神を養ない、仏道、円かに開くが故に。観門と言うは、観行進登し、証覚、妙に発するが故に。其の教門は四教、五味、一乗十如是等なり。其の観門は、十二因縁、二諦、四種三昧、三惑義等なり。
一代教を判じて教に約して四教あり。時に約して五時あり。四教の中、亦た二種あり。一には化法の四教、是れ釈義の綱目なり。二には化儀の四教、即ち判教の大綱なり。両種の四教、合して八教と為す。

(現代語訳)
問い。天台宗では、時と教をいくつに分けて釈迦一代の教えを分類するのか。また、どのような法門を明らかにするのか。
答え。天台宗の大きな骨格は、教観二門である。教門とは、教えを理解によって、精神を養ない、仏への道が完全に開くからである。観門とは、観法の行によって道を進み、妙なる覚りを得るからである。その教門は四教、五味、一乗十如是などである。その観門は、十二因縁、二諦、四種三昧、三惑義などである。
一代教を教という観点から分類すれば四教ある。時という観点では五時ある。四教にはまた二つある。1つには化法の四教である。これは教義内容の綱目である。2つには化儀の四教である。これは説法の形式を分類する大綱である。この2つの四教を合わせて八教とする。

問。且化法四教者何。
答一。三蔵教。一切小乗。此教中摂ナリ。二通教。諸大乗中。通被三乗。此教分斉ナリ。三別教。諸大乗中。不与小共。独被菩薩。即此教摂ナリ。四円教。諸大乗中。円融相即無礙法門。即此教摂ナリ。初三蔵教者。小乗教中。諸部分流。然取要唯四。一有門小乗。即毘曇是。二空門小乗。是成実論。三亦有亦空門。謂毘((考)毘一本作昆次下亦同)勒論。四非有非空。是迦旃経ナリ。彼毘勒論及迦旃経。未伝震旦。且就有門毘曇所説。而明之者。
此教之中。明三乗修行得果之相。先声聞乗。有七賢七聖。其七賢者。一五停心。二別相念処。三総相念処。此三是外凡順解脱分位也。四煗法。五頂法。六忍法。七世第一法。此四是内凡順決択分位也。其七聖者。一随信行。二随法行。三信解。四見得。五身証。六時解脱。七不時解脱ナリ。初二並見道。鈍根者名随信行。利根者名随法行。鈍根者入修道名信解。利根者入修道名見得。此信解見得二人。得滅尽定還名身証。鈍根人得羅漢果名時解脱。利根人得羅漢果。名不時解脱。雖有七聖。唯是四果声聞ナリ。得果極速三生。極遅六十劫。即得証也。其縁覚乗。即有二種。一部行独覚。二麟喻独覚部行出仏世故。部類衆多ナリ。麟喻唯独一故。不知仏世。極速四生。極遅百劫。彼得果也。菩薩経三僧祇。亦逕百劫。然後菩提樹下成仏。三乗俱断見思惑矣。三乗所観。互各不同。声聞観四諦。縁覚観十二因縁。菩薩修六度。
三乗得果。並入無余灰身滅智。此教。明生滅四諦。十二因縁。六度。二諦等法。是界内事教也。

(書き下し文)
問う。且らく化法の四教とは何ぞ。
答う。一には三蔵教、一切の小乗、此の教の中に摂すなり。二には通教、諸大乗の中、通じて三乗を被るは此の教の分斉なり。三には別教、諸大乗の中、小と共ならず、独り菩薩に被るは、即ち此の教に摂すなり。四には円教、諸大乗の中、円融相即、無礙の法門は即ち此の教の摂なり。初めの三蔵教とは、小乗教の中、諸部、流を分かつ。然るに要を取らば唯四なり。一には有門小乗、即ち毘曇是れなり。二には空門小乗、是れ成実論なり。三には亦有亦空(やくうやくくう)門、毘勒論(びろくろん)を謂う。四には非有非空なり。是れ迦旃経なり。彼の毘勒論と及び迦旃経とは、未だ震旦に伝らず。且らく有門毘曇の所説に就きて之を明かす。
此の教の中、三乗の修行と得果との相を明かさば、先ず声聞乗に七賢七聖あり。其の七賢とは、一には五停心、二には別相念処、三には総相念処、此の三は是れ外凡、順解脱分の位なり。四には煗法、五には頂法、六には忍法、七には世第一法、此の四は是れ内凡、順決択分の位なり。其の七聖とは、一には随信行、二には随法行、三には信解、四には見得、五には身証、六には時解脱、七には不時解脱なり。初めの二は並びに見道、鈍根の者、随信行と名づけ、利根の者は随法行と名づく。鈍根の者は修道に入り信解と名づく。利根の者は修道に入り見得と名づく。此の信解、見得の二人、滅尽定を得て還りて身証と名づく。鈍根の人は羅漢果を得て時解脱と名づく。利根の人は羅漢果を得て不時解脱と名づく。七聖ありと雖も、唯だ是れ四果の声聞なり。得果の極速は三生、極遅は六十劫にして即ち証を得るなり。其の縁覚乗は即ち二種あり。一には部行独覚、二には麟喻独覚なり。部行は仏世に出ずるが故に、部類衆多なり。麟喻は唯独一の故に仏世を知らず、極速は四生、極遅は百劫にして彼果を得るなり。菩薩は三僧祇を経、亦た百劫を逕て然る後、菩提樹下に成仏す。三乗俱に見思の惑を断ず。三乗の所観、互いに各同じからず。声聞は四諦を観ず。縁覚は十二因縁を観ず。菩薩は六度を修む。
三乗の得果、並びに無余灰身滅智に入る。此の教、生滅の四諦、十二因縁、六度、二諦等の法を明かす。是れ界内の事教なり。

(現代語訳)
問い。ひとまずは化法の四教とは何か。
答え。1つには三蔵教である。一切の小乗の教えはこの中に入る。2つには通教である。大乗の教えで、三乗に共通する教えの分類である。3つには別教、大乗の教えの中で、小乗とは共通せず、菩薩のみに説かれたものはこの教えに入る。4つには円教である。大乗の教えの中で、対立概念も完全にとけ合い、妨げにならない法門はこの教えに入る。
まず初めの三蔵教とは、小乗の教えは色々な部派に分かれているが、大きく分ければ4つである。1つには有門小乗、アビダルマである。2つには空門小乗、『成実論』である。3つには亦有亦空門、『毘勒論』である。4つには非有非空、『迦旃経』である。『毘勒論』と『迦旃経』は、まだ中国に伝えられていない。そこで、一旦、有門のアビダルマの教えについて明らかにする。
この教えの中で、声聞と縁覚と菩薩の三乗の修行と得果のすがたを明かせば、まず声聞には七賢七聖がある。七賢とは、1つには五停心、2つには別相念処、3つには総相念処である。この3つは外凡、順解脱分の位である。4つには煗法、5つには頂法、6つには忍法、7つには世第一法である。この4つは内凡、順決択分の位である。七聖とは、1つには随信行、2つには随法行、3つには信解、4つには見得、5つには身証、6つには時解脱、7つには不時解脱である。初めの2つはどちらも見道で、鈍根の者は随信行、利根の者は随法行という。修道に入ると、鈍根の者は信解、利根の者は見得という。信解、見得の二人とも、滅尽定を得て還れば身証という。阿羅漢果を得ると、鈍根の人は時解脱、利根の人は不時解脱という。七聖あるといっても、これは四果の声聞である。
阿羅漢果を得るまでは、極めて速くて三生かかる。極めて遅ければ六十劫かかって証を得る。
縁覚乗には二つある。1つには部行独覚、2つには麟喻独覚である。部行独覚は仏が現れているために、もともと声聞で集団行動していたのが一人になって覚ったものである。麟喻独覚はただ一人でさとりを開くため、仏の存在を知らない。極めて速ければ四生、極め遅ければ百劫で縁覚のさとりを得る。
菩薩は三阿僧祇劫の修行を行い、その後、三十二相を得るための百劫を経て、菩提樹下で成仏する。三乗は共に見惑と思惑の2つを断ち切っている。三乗の観察する対象はそれぞれ同じではない。声聞は四諦、縁覚は十二因縁を観ずる。菩薩は六波羅蜜を行ずる。
三乗の最終的なさとりは、すべて無余涅槃で灰身滅智する。この三蔵教の教えは、生滅の四諦、十二因縁、六度、二諦などである。三蔵教は有為の世界の中で現象を見る教えである。

二通教者。此有四門。多明空門。此教明三乗共十地。其十地者。一乾慧地。是外凡位。二性地。是内凡位。三八人地。四見地。断三界見惑。是初果也。五薄地。即一来果。六離欲地。是不還果。七已弁地。是羅漢果。声聞従初至此。乃至無余灰断ス。八支仏地。除習気入空観。縁覚至此証果入寂。九菩薩地。是出假位。菩薩至此動逾塵劫。出假利生。道観双流。十仏地。菩薩最後身。断余残習。七宝樹下。天衣為座成道。乃至入寂。此教。明無生四諦。十二因縁。二諦等法。此界内理教也。

(書き下し文)
二に通教とは此れ四門ありて多く空門を明かす。此の教、三乗共の十地を明かす。其の十地とは、一には乾慧地、是れ外凡位なり。二には性地、是内凡位なり。三には八人地、四には見地、三界の見惑を断ず。是れ初果なり。五には薄地、即ち一来果なり。六には離欲地、是れ不還果なり。七には已弁地、是れ羅漢果なり。声聞、初め従り此にに至り、乃至無余灰断す。八には支仏地、習気を除き空観に入る。縁覚は此に至り証果入寂す。九には菩薩地、是れ出假の位、菩薩、此に至り動(やや)もすれば塵劫を逾(こ)え、出假利生し、道観双流す。十には仏地、菩薩の最後身にして、余の残習を断じ、七宝樹下に天衣を座と為し成道し、乃至入寂す。此の教、無生の四諦、十二因縁、二諦等の法を明かす。此れ界内の理教なり。

(現代語訳)
次に通教とは、有門、空門、亦有亦空、非有非空の四門があるべきだが、多くは空門が説かれている。この教えは、声聞、縁覚にも共通する、三乗共の十地を明らかにしている。その十地とは、1つには乾慧地、これは外凡位である。2つには性地、これは内凡位である。3つには八人地、4つには見地である。三界の見惑を断ち切る。これは初果である。5つには薄地、一来果である。6つには離欲地、不還果である。7つには已弁地、これは阿羅漢果である。声聞は、この段階に至り、無余涅槃に入って灰身滅智する。8つには支仏地、習気を除き、空観に入る。縁覚はこの段階で縁覚のさとりを得て入寂する。9つには菩薩地である。これは有為の世界に出て生きとし生けるものを救済する位である。菩薩は、この段階でともすれば微塵劫を超えて迷いの世界で衆生を利益し、化道しながらも空を観じて見返りを求めない。10には仏地である。菩薩の最後身であり、すべての残された習気を断ち切り、七宝樹の下に天人の衣を座として成道し、入寂する。通教では、無生の四諦、十二因縁、二諦等の法を説く。これは有為の世界で本質的な真理を見る教えである。

三別教者。亦有四門。多用亦有亦空門。此教明五十二位。一十信。是外凡位。従仮入空。二十住。是習種性位。初住断三界見惑。次之六住。断三界修惑。後三住。除前惑習気並塵沙惑此位空観成就。傍習仮中。三十行。性種性位。正習仮観。傍習中観。破塵沙惑。四十廻向。是道種性。修中道観。伏無明也。此住行向。是内凡位。五十地。聖種性。六等覚。上二並破無明。分証中道。名分聖位。七妙覚。是極聖位。破無明証仏果也。即七宝為座成道矣。此教明無量四諦。十二因縁等。此界外事教也。此宗明障総立三惑。一見思惑。二塵沙惑。三無明惑。見思是界内惑故。蔵通二教三乗所断。塵沙無明是界外惑故。別円二教而所断也。五十二位具伏-断此三惑。円教六即亦爾。

(書き下し文)
三に別教とは亦た四門ありて多く亦有亦空門を用う。此の教は五十二位を明かす。一には十信、是れ外凡位なり。仮従り空に入る。二には十住、是れ習種性位なり。初住に三界の見惑を断ず。次の六住に三界の修惑を断ず。後の三住、前惑の習気並びに塵沙の惑を除く。此の位に空観成就し、傍に仮中を習う。三には十行、性種性の位なり。正しく仮観を習い、傍に中観を習い、塵沙の惑を破す。四には十廻向、是れ道種性なり。中道観を修し、無明を伏すなり。此の住行向、是れ内凡位なり。五には十地、聖種性なり。六には等覚、上の二は並びに無明を破し、分に中道を証す。分聖位と名づく。七には妙覚、是れ極聖(ごくしょう)の位なり。無明を破し仏果を証するなり。即ち七宝を座と為し成道す。此の教、無量の四諦、十二因縁等を明かす。此れ界外の事教なり。此の宗、障りを明かすに総じて三惑を立つ。一には見思の惑、二には塵沙の惑、三には無明の惑なり。見思は是れ界内の惑故に蔵と通との二教の三乗の所断なり。塵沙、無明は是れ界外の惑故に別と円との二教の断ずる処なり。五十二位具さに此の三惑を伏断す。円教の六即亦た爾り。

(現代語訳)
3つ目の別教とは、これも有門、空門、亦有亦空、非有非空の四門があるべきだが、多くは亦有亦空門が用いられている。この別教は五十二位を説く。。1つには十信、外凡位である。凡夫の迷いである差別から平等の空に入る。2つには十住、空を習する種性の段階である。初住で『倶舎論』と同様の三界の見惑八十八使を断ち切る。次の六住で三界の修惑八十一品を断ち切る。後の三住で、これまで断ち切った惑の習気と塵沙の惑をなくす。この段階で空観を完成し、仮観と中観も行ずる。3つには十行、諸法の自性を知る種性の位である。仮観を中心に中観も行い、塵沙の惑を破す。4つには十廻向、中道の真理を生ずる種性である。中道観を修し、無明を伏す。この十住、十行、十廻向は、内凡位である。5つには十地、聖者の種性である。6つには等覚である。この十地と等覚の2つはどちらも無明を破し、部分的に中道を証るため、分聖位という。7つには妙覚、究極の聖者の位である。無明を破し仏果を証る。七宝を座として成道する。別教は無量の四諦、十二因縁等を説く。これ三界の外の現象を見る教えである。天台宗では、障りとして全部で3つの惑を説く。1つには見思の惑、2つには塵沙の惑、3つには無明の惑である。見思の惑は三界の中の惑だから、蔵教と通教の二教の三乗が断ち切るものである。塵沙の惑と無明の惑は三界の外の煩悩だから、別教と円教の二教で断ち切るのである。52位で三惑を残らず抑え断ち切る。円教の六即もまた同じである。

四円教者。亦有四門。多約非有非空門。此教立六即位。
一理即。一切衆生一念心。即如来蔵理。此心即具三諦妙理。不可思議。是名理即。二名字即。聞上所説一実菩提。於名字中。通達解了。知一切法皆是仏法。是為名字即。
三観行即。是五品位。十心具足。十法成乗観也。読誦経典。更加説法。兼行六度。正行六度。修此等行故。名五品位。是外凡位也。四相似即。是六根清浄ニシテ鉄輪十信位也。初信断三界見惑。次六信断三界思惑後三品断習気並界外塵沙。伏無明惑。是内凡位也。五分真即。是十住。十行。十廻向。十地。等覚也。於四十一位中。各断一品無明。各顕一分中道之理。並八相成道。而度衆生。普門示現而益機根。名為分聖位也。六究竟即。等覚一転入于妙覚。仏果円満断証窮極。此教明無作四諦。十二因縁等。

(書き下し文)
四に円教とは、亦た四門ありて多く非有非空門に約す。此の教、六即位を立つ。
一には理即、一切衆生、一念の心は即ち如来蔵の理なり。此の心、即ち三諦妙理を具して不可思議なり。是れを理即と名づく。二には名字即、上に説く所の一実菩提を聴いて、名字の中に於て通達し、解了し、一切の法、皆是れ仏法なりと知る。是れを名字即と為す。
三には観行即、是れ五品位なり。十心具足の十法成乗観なり。経典を読誦し更に説法を加え、兼行六度、正行六度、此れ等の行を修するが故に、五品位と名づく。是れ外凡位なり。四には相似即、是れ六根清浄にして鉄輪十信の位なり。初信に三界の見惑を断ず。次の六信に三界の思惑を断じ、後の三品に習気並びに界外の塵沙を断じ、無明の惑を伏す。是れ内凡位なり。五には分真即、是れ十住、十行、十廻向、十地、等覚なり。四十一位の中に於て、各、一品の無明を断ず。各、一分の中道の理を顕わす。並びに八相成道して衆生を度す。普門示現して機根を益す。名づけて分聖位と為すなり。六には究竟即なり。等覚一転して妙覚に入る。仏果円満、断証すること窮極なり。此の教えは無作の四諦、十二因縁等を明かす。

(現代語訳)
4つ目の円教とは、これも有門、空門、亦有亦空、非有非空の四門があるべきだが、多くは非有非空門による。円教では、六即位を説く。
1つには理即である。全ての生きとし生けるものの一念の心には如来蔵の道理がある。この心は三諦の妙なる真理を具えて想像を超えているとする。これを理即という。2つには名字即である。前述の一実菩提の教えを聴いて、言葉の上でよく理解し、一切の法に、すべて仏性があると知る。これを名字即という。
3つには観行即であり、これは随喜品、読誦品、説法品、兼行六度、正行六度の五品を修行する五品位である。随喜品では、法華経の妙法である仏性が自分の心であると観察する。それは一刹那の心で十乗観法を行う。そして読誦品に基づいて経典を読誦し、更に説法品によって修行し、兼行六度、正行六度の修行を進めていくので五品位という。これは外凡位である。
4つには相似即である。これは六根清浄位とも、鉄輪位ともいう。十信位である。初信で三界の見惑を断ち切る。次の六信で三界の思惑を断ち切る。最後の三品に習気と界外の塵沙の惑を断ち切り、無明の惑を抑える。これは内凡位である。
5つには分真即である。これは十住、十行、十廻向、十地、等覚である。四十一位のそれぞれの段階で一品ずつ無明を断ち切り、それぞれ一分の中道の真理を体得する。そして八相成道して人々を救済する。観音菩薩が三十三身を現す普門示現のように人々を幸せにするので、分聖位という。
6つには究竟即である。等覚が一転して妙覚に入る。仏のさとりは完全に満たされ、煩悩を断じて真如を証する究極の境地である。円教では無作の四諦、十二因縁等を説く。

問。四教所談仏果。三身之中何乎。
答。蔵通二教是応身。於中蔵教劣応身。通教勝応身也。別教他受用身。円教自受用身。理智冥合。融通無礙。三身即一如来也。
問。四教之仏。居何等土乎。
答。此宗。立四種仏土。一同居土。凡聖雑居故。蔵教所談劣応身仏。居此土中。於中有二。一同居穢土。如娑婆等。二同居浄土。如安養等。二方便有余土。在三界外。唯三乗人。離三界身。住彼浄土。通教所談。勝応身仏。即居此土。三実報土。別教十地。円教十住已上菩薩。断無明惑。顕中道理。住於彼土。若據教主。別教所明他受用身。四寂光土。唯仏実身。住彼浄土。機根離絶。仏仏境界。即是四徳波羅蜜。周遍寂照。理智冥合。法身所住ナリ。四教仏居如此四土也。

(書き下し文)
問う。四教談ずる所の仏果は、三身の中、何れぞや。
答う。蔵通の二教是れ応身なり。中に於て蔵教は劣応身、通教は勝応身なり。別教は他受用身、円教は自受用身なり。理智冥合にして融通無礙、三身即一の如来なり。
問う。四教の仏、何等の土にか居すや。
答う。此の宗、四種の仏土を立つ。一には同居土、凡聖雑居するが故に。蔵教談ずる所の劣応身仏、此の土中に居す。中に於いて二あり。一には同居穢土、娑婆等の如し。二には同居浄土、安養等の如し。二には方便有余土、三界の外に在り。唯だ三乗の人、三界身を離れ、彼の浄土に住す。通教の談ずる所の勝応身仏、即ち此の土に居す。三には実報土、別教の十地、円教の十住已上の菩薩、無明の惑を断じ、中の道理を顕し、彼の土に住す。若し教主に據れば、別教の明かす所の他受用身なり。四には寂光土なり。唯だ仏の実身、彼の浄土に住す。機根離絶し、仏仏の境界なり。即ち是れ四徳波羅蜜、周遍寂照し、理智冥合にして法身の住する所なり。四教の仏、此の如く四土に居すなり。

(現代語訳)
問い。四教の説く仏果はそれぞれ三身の中のどれか。
答え。蔵教と通教の二つは応身である。その中でも、蔵教は劣応身(歴史上の釈迦)、通教は勝応身(応身の姿をした他受用身)である。別教は他受用身である。円教は自受用身である。真如と智慧が一体となってとけ合い、互いに妨げない、法身を本体として報身と応身を働きとする三身即一の如来である。
問い。四教の仏はどのような国にましますのか。
答え。天台宗では、四種の仏土を説く。
1つには同居土である。凡聖がまじわり住するからである。蔵教に説く劣応身の仏はこの世界にまします。
その中に2つある。1つには同居の穢土、娑婆などのような世界である。2つには同居の浄土、安養界等のようなものである。
2つには方便有余土である。三界の外にある。ただ三乗の人は、三界の身を離れ、その浄土に住する。通教に説く勝応身の仏はこの世界にまします。
3つには実報土である。別教の十地、円教の十住以上の菩薩は、無明の惑を断ち切り、中の道理を顕し、その世界に住する。その教主は別教の説く他受用身である。
4つには寂光土である。仏の真実身だけがまします。凡夫の能力を絶し、仏と仏の境界である。常楽我浄の四徳を具え、遍く寂光を照らし、真如と智慧が一体となり、法身の住する所である。四教の仏はこのような4つの世界にましますのである。

以此四教。判如来一代大小諸教。莫不窮尽。化法四教大概如此。次化儀四教者。一頓教如華厳経。二漸教。阿含。方等。般若之三時也。三不定教。機解不同。同聴異聞。聞大解小。聞小解大等。然互相知。名不定教。四祕密教。一会之説。対機異説。或説小之座説一実法。或説大之座ニ。而説余法。然互不相知。故名祕密教。是総名化儀四教也。当知。化儀所説。不出化法。化法説儀。不過化儀。故立八教。以為判解。即大綱網目ナリ。
其五時者。華厳。阿含。方等。般若。法華涅槃。化儀次第。一代説教。不過此五。名為五味。

(書き下し文)
此の四教を以て如来一代、大小の諸教を判ずるに、窮め尽くさざることなし。化法の四教、大概此の如し。次に化儀四教とは、一には頓教、華厳経の如し。二には漸教、阿含、方等、般若の三時なり。三には不定教、機解同じからず。同聴異聞す。大を聞きて小と解す。小を聞きて大と解す等なり。然るに互いに相知る、不定教と名づく。四には祕密教なり。一会の説、機に対して異説す。或いは小の座に説いて一実の法を説く。或いは大の座に説いて余法を説く。然るに互いに相知らず。故に祕密教と名づく。是れ総じて化儀の四教と名づくなり。当に知るべし。化儀の所説、化法を出でず。化法の説儀、化儀に過ぎず。故に八教を立て、以て判解と為す。即ち大綱網目なり。
其の五時とは、華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃なり。化儀の次第、一代の説教、此の五に過ぎず。名づけて五味と為す。

(現代語訳)
この四教によって釈迦一代、大乗、小乗の諸教を分類すれば収まらない教えはない。化法の四教は、大体このようなものである。
次に化儀の四教とは、1つには頓教、華厳経のようなものである。2つには漸教、阿含時、方等時、般若時の三時である。3つには不定教である。人によって理解は同じではない。同じことを聴いて、異なって理解する。大乗の教えを聞いて小乗と理解したり、小乗の教えを聞いて大乗と理解したりする。それらの人々は、互いに何を聴いたか知っている。このようなものを不定教という。4つには秘密教である。一回の説法で、相手に応じて異なって説かれる。ある時は小乗の説法で一実の法を説かれる。或る時は大乗の説法で、小乗を説かれる。これは互いに何を聴いているかは分からない。それで秘密教という。これらを化儀の四教という。まさに知らなければならない。化儀の四教は化法の四教えを出ない。化法の四教は、化儀の四教に過ぎない。故に八教を説いて教判とする。化儀は大綱、化法は細目である。
五時とは、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華涅槃時である。化儀の次第、一代の説教は、この五時に過ぎない。これを五味ともいう。

第四節 観門行法

此宗百界千如。三千世間。一念之中頓具。不縦不横。建-立二諦。総有七重。四種三昧ヲ為行方法。一心三観具足円満。相即自在。無礙円融。即凡見仏。即仏現凡。三千在理。同名無明。三千果成。咸称常楽。今法華妙旨。実在茲矣。諸教之中。此教最長ナリ。諸宗之中為深奥。超八極円。厥旨深高。速疾大果又妙矣。

(書き下し文)
此の宗、百界千如、三千世間、一念の中に頓具す。縦ならず横ならず、二諦を建立するに総じて七重あり。四種三昧を行方法と為す。一心三観は具足円満し、相即自在、無礙円融、凡に即して仏を見、仏に即して凡を現す。三千理にあれば、同じく無明と名づく。三千果成ずれぱ、咸く常楽と称す。今、法華の妙旨、実に茲に在り。諸教の中、此の教最長なり。諸宗の中深奥と為す。超八の極円、厥の旨深高なり。速疾の大果、又た妙なり。

(現代語訳)
この宗は、十界に十界をかけて百界とし、それに十如是があるから千如是となる。それに国土世間、衆生世間、五蘊世間の三世間があるから三千世間になり、それを日常の一念の中に頓に具足する。それは時間的に縦に並ぶのでもなければ空間的に横に並ぶのでもなく、一念のそのままが三千世間である。二諦については全部で七重の真俗二諦がある。修行方法は、四種三昧である。一念を空仮中と観ずる一心三観は三千世間が具足して欠け目なく、自在に溶け合って、妨げなく完全である。凡夫を離れず仏を見、仏を離れず凡夫を現すことができる。三千の諸法があっても凡夫は無明と名づけ、仏のさとりに至ればすべて常楽となる。法華のすばらしい教えはここにある。数々の教えの中で、天台宗は最も長じており、奥が深い。化儀化法の八教を超えた『法華経』『涅槃経』の究極円満の教えは、深くて高い。仏のさとりが速やかに得られることもまたすばらしい。

第七章 華厳宗

華厳宗の教えについては、こちらの記事もご覧ください。
華厳宗の教え・奈良公園の東大寺の教えの秘密を公開

第一節 宗名所依経

華厳宗
問。何故名華厳宗。
答。以華厳経。為其所憑。故云爾也。
問。華厳総有幾経乎。
答。若委論之。有十類別。然今取要言。只有三本。上本華厳。十三千大千世界微塵数偈。一四天下微塵数品。二中本華厳。四十九万八千八百偈。一千二百品。此二本経。摂在龍宮。不伝閻浮。三下本華厳。十万偈。三十八品。此伝閻浮。五印盛弘。此云三本華厳也。下本経十万頌内。伝-訳震旦。経於三訳。東晋朝代。覚賢三蔵。翻成六十巻。得彼梵本。三万六千偈。次大唐朝。喜覚三蔵。翻成八十巻。得彼梵本。四万五千偈。後大唐朝。般若三蔵。貞元年中。翻成四十巻。唯是八法界一品也。

(書き下し文)
華厳宗
問う。何が故ぞ華厳宗と名づく。
答う。華厳経を以て其の所憑と為すが故に爾云うなり。
問う。華厳総じて幾経ありや。
答う。若し委しく之を論ずれば十類の別あり。然るに今要を取りて言えば只だ三本あり。上本の華厳は十三千大千世界微塵数偈、一四天下微塵数品なり。二には中本の華厳、四十九万八千八百偈、一千二百品なり。此の二本の経、龍宮に摂在し閻浮に伝わらず。三には下本の華厳、十万偈、三十八品なり。此れ閻浮に伝え、五印盛んに弘む。此れ三本華厳と云うなり。下本経、十万頌の内、震旦に伝訳して三訳を経る。東晋朝代、覚賢三蔵、翻じて六十巻を成す。彼の梵本を得るに三万六千偈なり。次に大唐朝、喜覚三蔵、翻じて八十巻を成す。彼の梵本を得るに四万五千偈なり。後に大唐朝の般若三蔵、貞元年中、翻じて四十巻と成す。唯だ是れ八法界一品なり。

(現代語訳)
華厳宗
問い。なぜ華厳宗というのか。
答え。『華厳経』を所依とするからそういうのである。
問い。『華厳経』は全部でいくつあるか。
答え。もし詳しくいえば十種類ある。しかし今は重要なものだけをいえば、3つである。上本の『華厳経』は十の三千大千世界を微塵に砕いた数の偈と、世界を微塵に砕いた数の章からなっている。2つには中本の『華厳経』49万8800偈、1200章である。この二本の経典は、龍宮におさめられ、地上には伝わらなかった。3つには下本の『華厳経』、10万偈、38章である。これが地上に伝えられ、インド中に盛んに弘められた。これを三本華厳という。下本の『華厳経』10万頌のうち中国に伝えられたのは、三訳である。東晋の時代、覚賢(仏陀跋陀羅)三蔵が漢訳して六十巻とした。支法領から得た梵本3万6000偈を本にした。次に唐の時代、喜覚(実叉難陀)三蔵、漢訳して八十巻とした。4万5000偈の梵本を本にしている。約100年後の唐の時代の般若三蔵は、貞元年中に翻訳して四十巻とした。これは入法界品のみである。

第二節 三国相承

問。此宗。以誰為祖師乎。
答。香象大師。以為高祖。然具言之。立於七祖。第一馬鳴菩薩。第二龍樹菩薩。第三震旦元祖杜順禅師。是文殊応迹。居終南山。製華厳法界観。五教止観。十玄章等。流-通此宗。諡号帝心尊者。第四智儼禅師。承杜順師。盛弘此宗。製作多多。居雲華寺。号雲華尊者。第五香象大師。禀智儼禅((考)禅一本作大)師。広敷華厳。一朝国師。四海重宝。講スレハ経感天雨花。開義口出五光。大唐則天皇后。諡号賢首菩薩。経論解釈。製造極多。大経本疏。余経別章。諸論義記。一宗総義。解釈無遺。義理尽述。凡華厳甚盛ナルハ啻在此祖。第六清凉大師。承香象大師。弘華厳教。智解深広。兼-通諸宗。以此円宗。為其心府。製大疏演義鈔及自余章疏。其数多多。一朝帰宗。以為国師。十誓堅固。終身不懈。居清凉山。諡号華厳菩薩。第七宗密禅師。承清凉大師。盛弘華厳。兼通諸宗。製作甚多。居圭峯草堂寺。諡号定恵禅師。此之七祖。浄源法師奉敕記之。
若據震旦。杜順已下。唯立五祖。
日本所翫。特仰四祖。杜順。智儼。香象。清凉ナリ。流伝スルニハ日本。道璿律師為其始祖。律師承香象大師。律師授良弁僧正。自爾已来。至今継跡。血脈相承。敢不中絶。

(書き下し文)
問う。此の宗、誰を以てか祖師と為すや。
答う。香象大師、以て高祖と為す。然るに具さに之を言えば、七祖を立てる。第一に馬鳴菩薩、第二に龍樹菩薩、第三に震旦元祖、杜順禅師、是れ文殊の応迹なり。終南山に居し、華厳法界観、五教止観、十玄章等を製して此の宗を流通す。諡号、帝心尊者なり。第四に智儼禅師、杜順師を承け、盛んに此の宗を弘む。製作多多あり。雲華寺(うんかじ)に居し、雲華(うんげ)尊者と号す。第五に香象大師、智儼禅師を禀け、広く華厳を敷く。一朝の国師、四海の重宝、経を講ずれば、感天、花を雨ふらす。義を開き口より五光を出ず。大唐則天皇后、諡(おくりな)して賢首菩薩と号す。経論の解釈(げしゃく)、製造極めて多し。大経の本疏、余経の別章、諸論の義記、一宗の総義、解釈して遺すところなく、義理尽く述す。凡そ華厳甚だ盛なるは啻に此の祖に在り。第六に清凉大師、香象大師を承け華厳の教えを弘む。智解深広、諸宗に兼通す。此の円宗を以て其の心府と為す。大疏、演義鈔及び自余章疏を製す。其の数多多たり。一朝、宗に帰し以て国師と為す。十誓堅固にして終身懈せず清凉山に居す。諡号は華厳菩薩なり。第七に宗密禅師、清凉大師を承け、盛んに華厳を弘む。諸宗に兼通し、製作甚だ多し。圭峯草堂寺に居す。諡号は定恵禅師なり。此の七祖、浄源法師敕を奉りて之を記す。
若し震旦に據れば、杜順已下、唯だ五祖を立つ。
日本の翫ぶ所、特に四祖を仰ぐ。杜順、智儼、香象、清凉なり。日本に流伝するには、道璿律師を其の始祖と為す。律師、香象大師を承く。律師、良弁僧正に授く。爾る自り已来、今に至るまで跡を継ぐ。血脈相承、敢えて中絶せず。

(現代語訳)
問い。華厳宗はどなたを祖師とするのか。
答え。香象大師を高祖とする。しかし詳しく言えば、七祖を挙げる。第一に馬鳴菩薩、第二に龍樹菩薩、第三には中国の元祖、杜順禅師である。杜順は文殊の化身である。終南山に住し、『華厳法界観』、『五教止観』、『華厳十玄門』等を著して華厳宗を広めた。諡号は帝心尊者である。第四に智儼禅師である。杜順師に師事し、盛んに華厳宗を伝えた。多くの著作がある。雲華寺に住し、雲華尊者と号した。第五に香象大師法蔵である。智儼禅師を継ぎ、広く華厳宗を広めた。一朝の国師、四海の重宝と尊ばれ、経典を講義すれば、感動した天が花を降らせた。教えを解説すれば口から五つの光を放った。唐の則天武后は賢首菩薩と諡(おくりな)した。経論の解釈は極めて多く、『華厳経』の注釈である『華厳経探玄記』、他の経典の解説、『起信論義記』など諸論書の解説、華厳宗の大綱など、余すところなく解説し、その教えをすべて述作した。華厳宗が非常に盛んなのは、ほぼこの法蔵一人の功績である。第六に清凉大師澄観である。香象大師を承け華厳宗の教えを弘めた。智慧や理解が深くて広く、諸宗に兼ねて通じていたが、この円宗を其の最も重要なものと心においていた。『華厳疏』20巻、『華厳経随疏演義鈔』その他多くの著書を著した。その数は多々ある。唐の皇帝も帰依し国師とした。十誓を堅固に護り死ぬまで怠ることなく清凉山に住した。諡号は華厳菩薩である。第七に宗密禅師である。清凉大師に師事し、盛んに華厳宗を広めた。諸宗に兼ねて通じ、著作は非常に多い。圭峯草堂寺に住す。諡号は定恵禅師である。この七祖は宋の浄源法師が勅命によって定めたものである。
もし中国だけを考えれば、杜順以下の五祖だけである。
日本の華厳宗では、特に四祖を仰ぐ。杜順、智儼、香象、清凉である。日本に伝えられたのは、道璿律師が始祖である。律師は香象大師師事し、良弁僧正に伝えた。それ以来、今に至るまで続いている。血脈相承して途絶えたことはない。

第三節 教判

問。此宗。立幾宗教。摂一代法門乎。
答。立五教二宗。摂一代法門。其五教者。一小乗教。二大乗始教。三大乗終教。四頓教。五円教也。
初小乗教者。如来出世。為説一乗開化衆生故。菩提樹下説本教一乗。高山先受光而獲大益。日輪初耀照而覚群機。然小志衆生。不堪聞深法。故如来於一乗中。分別三乗。漸誘浅機。以令趣大道。此中小乗教。是如来権方之施設。暫授羊鹿。以誘小志。仮設化城。而息労窮。故所説義理随機浅近。所指果証。唯存狭劣。如此誘摂。漸令趣大乗故也。問。此経中所説義理。其相如何。答。所説義理。衆多無量。且挙一二。謂言法相則七十五数。為無為之相歴然。談法源。則六識三毒。染不染之義宛爾。四果証入。只存入寂。三祇進趣。専在五分。外道邪見之幢。如塵而砕。分段見思之員。如雲而晴。然未尽法源。故諍論極多。二十部党類。即此教相貌也。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾の宗教を立てて一代の法門を摂むや。
答う。五教二宗(十宗)を立てて一代の法門を摂む。其の五教とは、一には小乗教、二には大乗始教、三には大乗終教(だいじょうじっきょう)、四には頓教、五には円教なり。
初めに小乗教とは、如来世に出で一乗を説いて衆生を開化せんが為の故に、菩提樹下に本教一乗を説く。高山先ず光を受けて大益を獲。日輪初めて耀照して群機を覚す。然るに小志の衆生、深法を聞くに堪えず。故に如来一乗中に於て三乗を分別す。漸く浅機を誘(いざな)い、以て大道に趣かしむ。此の中の小乗教は、是れ如来権方の施設。暫く羊鹿を授けて以て小志を誘い、仮に化城を設けて労窮を息めしむ。故に所説の義理、機の浅近に随い、指す所の果証、唯だ狭劣を存す。此の如く誘摂して漸く大乗に趣かしむるが故なり。問う。此の経の中に説く所の義理、其の相如何。答う。所説の義理、衆多にして無量なり。且く一二を挙げん。謂く法相を言えば則ち七十五数、為無為の相、歴然なり。法源を談ずれば則ち六識三毒なり。染不染の義、宛爾(おんに)たり。四果の証入は只だ入寂を存し、三祇の進趣は専ら五分に在り。外道邪見の幢(はた)は塵の如くに砕け、分段見思の員は雲の如くに晴る。然るに未だ法源を尽くさず、故に諍論極めて多し。二十部の党類は。即ち此の教の相貌なり。

(現代語訳)
問い。華厳宗は幾つの宗教で釈迦一代の教えを分類するのか。
答え。五教十宗によって釈迦一代の教えを収める。五教とは、1つには小乗教、2つには大乗始教、3つには大乗終教(だいじょうじっきょう)、4つには頓教、5つには円教である。
まず小乗教とは、如来世に現れ、一乗を説いて衆生を目覚めさせるために、菩提樹の下で、『華厳経』の一乗を説かれた。『華厳経』如来性起品の喩、日が昇るとまず高山が光を受けて利益を獲るように、太陽の光が初めて照らし、たくさんの人を覚らせた。しかし志の小さい人々は、深い法を聞くことに堪えられなかった。そのため如来は一乗の中に三乗を分けて劣った人々を誘引して大道に導こうとされた。この中の小乗教は、如来が仮に設けられたものである。『法華経』譬喩品のように火事から救うために一旦羊車と鹿車を授けて志の小さい人を誘引したり、化城喩品のように、仮に化城を設けてそのままではあきらめてしまう人を休ませる。そのため説かれる教えは、相手の低いレベルに合わせて、示すさとりは、唯だ狭くて劣ったものがある。このように導きおさめて、時間をかけて大乗に導くためである。
問い。この経の中に説かれる教えはどのようなものか。
答え。小乗経に説かれる教えは非常に多く限りがない。そこで一旦、一二例を挙げる。あらゆるものや現象に75の要素をあげる。その中で72は有為、3は無為と、有為と無為をはっきりと分けている。法の源は六識三毒であり、六識に三毒が生ずれば染、なくなれば不染というそのままである。預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の四果のさとりは灰身滅智を目指す。三阿僧祇劫の菩薩の修行は五分法身だけである。因果の道理によって外道邪見の幢(はた)は粉々に砕かれ、分段生死や、見思の惑のさわりも雲のように晴れた。しかし現象の源を尽くしていないため、論争が極めて多い。二十部の部派が興ったのは、その教えの現れである。

次大乗始教者。此教既出小乗。始入大乗。故少雖影-似小教。多談直進深義。三祇修行。趣極証之大果。二空顕証。高出偏小之情。百法鏡(ノ如ク)明ニシテ決択分明。故諍論斯止。法苑即平カナリ。四智心品。自用之月明カニ。三身妙果。断証之光リ円カナリ。八識建立。法相広張リ。二諦法門。重重深奥。二障伏断。衆惑知氷消。六度修行。自他並運フ。妙理沖遠。実非小乗所窺。大義深玄。迥超羊鹿権車。然真如無知。縁起之途未通。事理不即相ニシテ融之門未開。故五性分機。出世有成不成。二乗有差。仏果立趣不趣。是有性無性之隔別。定性不定之差異也。故此教無性。不出生死。定性都無廻心。即此教意也。退雖出大衆上座之党。進未及随縁皆成之談。始教之名。実由此矣。

(書き下し文)
次に大乗始教とは、此の教既に小乗を出で、始めて大乗に入る。故に少しく小教に影似すと雖も、多く直進の深義を談ず。三祇の修行、極証の大果に趣く。二空の顕証は、高く偏小の情を出で、百法鏡の如く明らかにして決択分明なり。故に諍論斯に止みて法苑即ち平らかなり。四智の心品は自用の月明らかに、三身の妙果は、断証の光り円かなり。八識の建立、法相広く張り、二諦の法門、重重にして深奥なり。二障、伏断して、衆惑氷消すと知る。六度の修行、自他並びに運ぶ。妙理沖遠にして実に小乗の窺(うかが)う所にあらず。大義深玄、迥(はるか)に羊鹿の権車を超ゆ。然るに真如は無知にして縁起の途未だ通らず。事理不即にして相融の門未だ開かず。故に五性の機を分かち、出世に成と不成とあり。二乗の差ありて仏果に趣と不趣とを立つ。是れ性と無性との隔別あり。定性と不定との差異なり。故に此の教、無性は生死を出でず。定性は都(す)べて廻心なし、即ち此の教の意なり。退きて大衆上座の党を出ると雖も進みて未だ随縁皆成の談に及ばず。始教の名、実に此の由なり。

(現代語訳)
次に大乗始教とは、小乗を出て始めて大乗に入るため、少し小乗の教えに似ているが、多くは直ちに深義を説く。三阿僧祇劫の修行は、究極の覚りの偉大な結果に向かう。我法二空のさとりは高く、小乗の我に偏った迷いを出ている。五位百法は鏡の如く明らかにして法相の違いははっきりしている。そのため論争はなくなり、部派間の争いはなく、平和である。四智の心、自受用のさとりの月は明らかに、三身の妙なる覚りの断惑証理の光は完全である。八識を建立して、法相はすべて網羅し、四重の二諦の教えは、重重にして深奥である。煩悩障と所知障の二障を抑え断ち切って、数々の煩悩は氷のように消える。六波羅蜜の修行は、自利利他して自他共に彼岸へ運ぶ。妙なる真理は高遠にして小乗の窺い知ることのできる境地ではない。偉大な教えは奥深く、遙かに声聞の羊車、縁覚の鹿車を超えている。しかし「真如凝然不作諸法」を主張して真如に無知であり、真如の縁起する道を知らない。現象と真如は行ったり来たりできないので、溶け合って相即する門は開いていない。そのために五つの素質を分け、声聞、縁覚、菩薩の出世の人でも、成仏できる人とできない人がおり、声聞縁覚の二乗は菩薩と違いがあり、仏果には到達できないとする。これは仏性のある者とない者という隔別の教えである。定性の三乗と、不定と差別する。故にこの教では、無性は生死を解脱することはできない。声聞や縁覚の定性は廻心して菩薩になることはできないというのがこの教えである。小乗の大衆部や上座部を出てて大乗に進んだのではあるが、未だ真如随縁や一切皆成の教えには及ばない。だから始教といわれるのである。

次終教者。此教諸相融即。入不二之定門。真如随縁。栄森羅之法苑。故如来蔵海。通八識而氷水。有性無性唱皆成而虚空(ノ如)。依他無性。即是円成。衆生煩悩。即是涅槃ナリ。第一義空。該真妄而寥寥。生住異滅。離三時而絶絶。是即大乗深義。方此中尽。法義建立。既此教窮マル。然未談事事無礙。未明主伴具足。及泯絶之門未絶。昇進之相立位。是故猶名為漸教也。

(書き下し文)
次に終教とは、此の教、諸相融即し、不二之定門に入る。真如随縁し、森羅の法苑に栄える。故に如来蔵の海、八識を通じて氷水、有性、無性、皆成を唱えて虚空の如く、依他の無性は即ち是れ円成なり。衆生の煩悩、即ち是れ涅槃なり。第一義空、真妄を該(か)ねて寥寥たり。生住異滅は三時を離れて絶絶たり。是れ即ち大乗の深義、方に此の中に尽く。法義の建立、既に此の教に窮まる。然るに未だ事事無礙を談ぜず。未だ主伴具足を明かさず。及び泯絶の門未だ絶せず、昇進の相に位を立つ。是の故に猶名づけて漸教と為すなり。

(現代語訳)
次に大乗終教である。この教えは、諸相が溶け合い、不二の法門に入る。真如は縁に随って、森羅万象の法の苑に栄えている。だから如来蔵の海の水が凍って八識の氷となっているようなもので、仏性の有る者も無い者も皆成仏して虚空の如くである。依他起性は自性がなく、そのまま円成実性である。衆生の煩悩はそのまま涅槃である。
第一義空は真妄を兼ねて、寥寥としている。生住異滅の四相を同時の存在と見て過去現在未来の三時の世界を離れ、永遠へと隔絶する。大乗の深い教えはまさにこの中に尽きる。教えはすでにここに極まっているが、未だ事事無礙を説かず、それを空間的に見た主伴具足を明かさず、言葉を絶した頓教に届かない、さとりの位を登っていく相に段階を設定する。だから未だなお漸教というのである。

次頓教者。此教ハ一念不生即名為仏。法相之差異都亡泯。真性之妙理直顕現。一切所有。唯是妄想。一切法界。皆是絶言ナリ。五法三自性俱空亡。八識二無我双呵遣。階位悉泯。仏不都絶。然未知森焉タル諸法皆悉毘盧果徳。浩然タル衆相俱是仏海妙相。故尚号浅教也。

(書き下し文)
次に頓教とは、此の教は、一念不生、即ち名づけて仏と為す。法相の差異都べて亡泯す。真性の妙理、直ちに顕現す。一切の所有、唯だ是れ妄想なり。一切の法界、皆是れ絶言なり。五法三自性俱に空亡す。八識二無我双(なら)べて呵遣す。階位悉く泯(みん)じ、仏不、都べて絶す。然るに未だ森焉たる諸法、皆悉く毘盧の果徳、浩然たる衆相、俱に是れ仏海の妙相なることを知らず。故に尚お浅教と号すなり。

(現代語訳)
次に頓教である。この教えは、一念の妄念も生じない真心を仏とする。五位百法などの法の現れの違いはすべてなく、真如が直ちに顕現する。あらゆるものは妄想であり、あらゆる世界は言葉で表せない。名、相、分別、正智、如如の五法も、遍、依、円の三性も共になくなる。八識も人無我、法無我の二無我もどちらも否定する。悟りの段階もすべてなく、成仏するしないもすべて超越する。しかし未だ数限りもない諸法が、皆悉く毘盧遮那仏の果上の功徳であり、水の流れのようにゆったりした諸々の相も、共に仏の世界の妙なるすがたであることを知らない。だから尚お浅い教えといわれるのである。

後円教者。此教明事事無礙。窮諸法之体相談主伴無尽。彰果相之円備。故十玄縁起。融諸法而即入。六相円融。通衆相而無礙ナリ。一即多而無隔。多即一而円通。摂九世以入刹那。舒一念而該永劫。三生証果。還彰本成。十信道円。没-同果海。行布之施設。備経多劫。円融之妙義。現身証果。行布不礙円融。円融不妨行布。故得一切相即相融。此是教意也。

(書き下し文)
後に円教とは、此の教、事事無礙を明かす。諸法の体相を窮め、主伴無尽を談じて果相の円備を彰わす。故に十玄縁起、諸法を融じて即入し、六相円融、衆相に通じて無礙なり。一即多にして隔てなく、多即一にして円通す。九世(くせ)を摂して以て刹那に入る。一念を舒(の)べて永劫を該(か)ぬ。三生の証果、還りて本成を彰す。十信の道円、果海に没同(もつどう)す。行布の施設、備(つぶ)さに多劫を経。円融の妙義、現身に果を証す。行布、円融を礙げず。円融、行布を妨げず。故に一切の相即相融することを得。此れ是の教の意なり。

(現代語訳)
最後に円教である。この教は、事事無礙を明かす。毘盧遮那仏の世界では、諸法の真如と性功徳が完全に現れ、一つの微塵の中に無量の功徳が備わり、それは仏の世界の完全性をあらわしている。だから十種の奥深い縁起である十玄縁起によって、あらゆるものが溶け合って互いに入り、それと六相は同時に成立し、あらゆる現象を通して妨げがない。一はそのまま多であり、あらゆる存在に隔てはなく、多はそのまま一であって、すべての働きが影響する。三世それぞれに三世がある九世は刹那に収まり、一念を延ばして永劫にゆきわたる。見聞生、解行生、証入生の三生によって仏果を得ることは、もとの仏性を彰す。十信の初発心に仏道を円満し、仏果の徳海に沈み同一になる。行列分布(差別)の施設では、すべて多劫を経て仏覚に至るが、完全に溶け合った妙なる教えからすれば、この世で仏のさとりを得る。行列分布(差別)は、完全に溶け合うことを妨げず、完全に溶け合うことは、行列分布(差別)を妨げない。だから一切の存在も働きも一つであり、一つの存在も働きも一切であることができる。これが円教の趣旨である。

如来所説。一代教文。浅深雖区。不出此五。実判諸法而無遺。摂法門而莫余。
此之五中。初一ハ小乗。後一ハ一乗。中三並三乗教ナリ。始終二教是漸。合為漸頓二教。漸中分始終。故成三也。此五総束以為一大善巧。広大法綱。摂法分斉。円教備足セリ。四法界中。収摂窮尽故。凡一代最長。諸宗玄底。莫如此円教。唯此教ノミ窮極セリ。華厳如須弥。諸教似群山。諸教皆会華厳大海。三乗並出今経広苑ヨリ。故此教名為根本法輪。円極自在教也。

(書き下し文)
如来の所説、一代の教文、浅深、区(まちまち)なりと雖も此の五を出でず。実に諸法を判じて遺すところなく、法門を摂して余すところなし。此の五の中、初め一は小乗なり。後の一は一乗なり。中の三は並びに三乗の教なり。始と終との二教は是れ漸。合して漸頓二教と為す。漸く中に始と終とを分かつ。故に三と成すなり。此の五、総じて束ね以て一大善巧と為す。広大の法綱、摂法の分斉は円教備足せり。四法界中、収摂し窮尽するが故に。凡そ一代の最長、諸宗の玄底、此の円教に如くはなし。唯だ此の教のみ窮極せり。華厳、須弥の如く、諸教、群山に似たり。諸教皆華厳の大海に会す。三乗並びに今経の広苑より出ず。故に此の教を名づけて根本法輪と為す。円極自在の教なり。

(現代語訳)
如来の説かれたところ、釈迦一代の経典の浅深は色々あるが、この5つ以外にはない。まことに諸法を分類して漏れがなく、教えをおさめて余すところがない。この5つの中、最初の1つは小乗である。最後の1つは一乗である。中の3つはすべて三乗の教えである。始教と終教の二教は漸教であり、頓教と合わせて漸頓二教となる。漸教の中に始教と終教とを分けるので3つになるのである。この5つは、すべてをまとめて一大善巧方便とされる。広大な教えとあらゆる法を完全に具えている。四法界の中に、おさめ、極め尽くすからである。この円教は釈迦一代の教えの中で最もすぐれており、その他の宗派の真髄、この円教に及ばない。この教えだけが究極の極致である。華厳を須弥山とすれば諸教はその他の山々のようなものである。もろもろの教えは皆華厳経の大海に流れ込む。三乗はすべてこの経典の広い園から出たものである。だからこの教えを根本法輪という。完全究極自在の教えである。

次十宗者。上之五教。約宗分之。不過十宗。一我法俱有宗。二法有我無宗。三法無去来宗。四現通仮実宗。五俗妄真実宗。六諸法但名宗。已上宗並小乗教中開之。七一切皆空宗。八真徳不空宗。是終教。九相想俱絶宗是是始教也。是頓教也。十円明具徳宗是円教也。

(書き下し文)
次に十宗とは、上の五教、宗に約して之を分かつ。十宗に過ぎず。一には我法俱有宗、二には法有我無宗、三には法無去来宗、四には現通仮実宗、五には俗妄真実宗、六には諸法但名宗、已上の宗は並びに小乗教中に之を開く。七には一切皆空宗、八には真徳不空宗、是れ終教。九には相想俱絶宗、是れ頓教なり。十には円明具徳宗、是れ円教なり。

(現代語訳)
次に十宗とは、上述の五教を、宗の観点から分けたもので、十宗に過ぎない。
1つには我法俱有宗、
2つには法有我無宗、
3つには法無去来宗、
4つには現通仮実宗、
5つには俗妄真実宗、
6つには諸法但名宗、以上の宗はすべて小乗の教えの中で説かれている。
7つには一切皆空宗、
8つには真徳不空宗、大乗終教である。
9つには相想俱絶宗、頓教である。
10には円明具徳宗、円教である。

第四節 五教行位

問。五教行位。其相如何。
答。小乗教中。行位分斉。全同小論。大乗始教。亦明三乗位。其菩薩乗。立五十一位。以其十信。立為位故。此據直進機也。或立三乗共十地等。此據廻心機也。終教ハ一切衆生皆成仏道。立四十一位。以其十信。不為位故。等覚一位ハ開合之異アリ。頓教ハ泯絶無寄。本不立位。
円教有二。一同教一乗。全同終教。二別教一乗。全別三乗。与彼不同故。此有二門。一次第行布門。因果次第進修証入故。二円融相摂門。因果融摂無礙即入故。以行布故。経不可説不可説微塵数劫。以円融故。一念速疾ニ証仏果也。此教立三生成仏。見聞。解行。証入是也。円教義理。四法界中。一切摂尽。無有余矣。一事法界。二理法界。三事理無礙法界。四事事無礙法界也。

(書き下し文)
問う。五教の行位、其の相如何。
答う。小乗教の中、行位の分斉、全く小論に同じ。大乗始教、亦た三乗の位を明かす。其の菩薩乗、五十一位を立つ。其の十信を以て、立てて位と為すが故に。此れ直進の機に據るなり。或いは三乗共の十地等を立つ。此れ廻心の機に據るなり。終教は一切衆生皆成仏の道、四十一位を立つ。其の十信を以て位と為さざるが故に。等覚一位は開合の異あり。頓教は泯絶して寄なく、本、位を立てず。
円教に二あり。一には同教一乗、全く終教に同じ。二には別教一乗、全く三乗に別なり。彼と同じからざる故に。此れに二門あり。一には次第行布門、因果次第に進修し証入するが故に。二には円融相摂門、因果融摂し無礙にして即入するが故に。行布を以ての故に説くべからず、不可説微塵数劫を経。円融を以ての故に、一念速疾に仏果を証すなり。此の教え三生成仏を立つ。見聞、解行、証入是れなり。円教の義理、四法界中に一切摂尽して余あることなし。一には事法界、二には理法界、三には事理無礙法界、四には事事無礙法界なり。

(現代語訳)
問い。五教の修行の位はどのようなものか。
答え。小乗の中、修行の段階の区切り方は全く『倶舎論』と同じである。大乗始教は、三乗それぞれの段階を説く。その中で菩薩乗は51位である。十信を位とするからである。最初から大乗に直進する人のための位である。或いは三乗に共通の十地等を説く。これは小乗から大乗へ転向する人のためである。大乗終教は、すべての人が仏になれる道である。41位とする。十信を位としないからである。等覚の位を開けば42位となるが、十地におさめれば41位である。頓教は言葉を絶して仏までに寄るところはないから、もともと位を立てない。
円教には2つある。1つは同教一乗であり、修行の階位は全く終教に同じである。2つには別教一乗であり、三乗とは全く別の階位がある。三乗と同じではないからである。これに2つの門がある。1つには次第行布門である。因の位から果の位へ次第に修行を進みめて証るからである。2つには円融相摂門である。因の位と果の位が、溶け合って収めあい、妨げなくお互いに入るからである。次第行布門によれば説くことのできない微塵数劫の修行を必要とする。円融相摂門によれば、一念速疾に仏のさとりを得る。円教では三生成仏を説く。見聞生、解行生、証入生の3つである。円教の教えは、四法界の中にすべて収め尽くして余すところがない。1つには事法界、2つには理法界、3つには事理無礙法界、4つには事事無礙法界である。

第五節 仏身仏土

問。此宗仏之身土。立幾種乎。
答。五教不同。且円教中。土立三類。皆是華蔵荘厳世界。浄穢融即一多無礙ナリ。仏有十身。衆生身。国土身。業報身。声聞身等。一切諸法。無非仏体。万徳荘厳。包摂無窮故。言断則一断一切断。言証則一成一切成。十身具足。毘盧遮那最初顕-開無尽玄宗。一切諸法。此中皆尽。為浅近機。漸漸分流。乃至法華会三帰一。遂令悟-入華厳一乗。一代化儀。唯舒此経。終窮摂帰。唯入此経。舒フレハ則一代八万森羅交絡。巻ケハ則九会妙説深広該摂。大方広仏華厳経トハ理智冥合。題名ニ已ニ顕ル。華厳海会善財童子。一生ニ証入。後会実明。欲得速疾大果。無過此経。教理甚深。何宗及此。十玄縁起花鮮矣。六相円融月朗矣。衆経上首。諸宗尊主。洋洋矣。蕩蕩矣。不可得称者。唯此経宗而已。

(書き下し文)
問う。此の宗、仏の身土に幾種を立つや。
答う。五教同じからず。且らく円教の中に土に三類を立つ。皆是れ華蔵荘厳世界にして浄穢融即し、一多無礙なり。仏に十身あり。衆生身、国土身、業報身、声聞身等なり。一切諸法、仏体にあらずということなし。万徳荘厳して包摂すること無窮なるが故に。断を言えば則ち一断一切断なり。証を言えば則ち一成一切成なり。
十身具足の毘盧遮那、最初に無尽の玄宗を顕開し、一切諸法、此の中に皆尽くす。浅近の機の為に漸漸に分流し、乃至法華の会三帰一は遂に華厳一乗に悟入せしむ。一代の化儀、唯だ此の経を舒ぶ。終窮の摂帰は唯だ此の経に入る。舒ぶれば則ち一代八万、森羅として交絡し、巻けぱ則ち九会の妙説、深広にして該摂す。大方広仏華厳経とは理智冥合、題名に已に顕る。華厳海会の善財童子、一生に証入す。後会に実に明らかなり。速疾の大果を得んと欲せぱ此の経に過ぎたるはなし。教理は甚深にして何宗か此に及ばん。十玄縁起の花鮮かに、六相円融の月朗らかなり。衆経の上首、諸宗の尊主、洋洋として蕩蕩たり。称えるを得るべからざるは唯だ此の経宗のみ。

(現代語訳)
問い。華厳宗では、仏身と仏土を何種類説くのか。
答え。五教のどれかによって同じではない。とりあえず円教では3つの仏土を説く。しかしそれらはすべて華蔵荘厳世界に他ならず、浄と穢とが溶け合い、一と多とが妨げない。仏身には10ある。衆生身、国土身、業報身、声聞身等である。あらゆるものに仏の本体ではないものはない。あらゆる徳を飾り、おさめ含むこと限りがないからである。華厳宗では一即一切だから、煩悩を断ずることを言えば一人の煩悩を断ずれば一切の人の煩悩が断ぜられる。仏覚について言えば、一人が成仏すれば、すべての人が成仏する。
十身を具足した法身の毘盧遮那仏は、応身の釈迦として現れ、最初に無尽の奥深い教えを『華厳経』として顕開し、あらゆるものをその中におさめた。理解の浅い人の為にだんだんと教えを分けて導き、『法華経』で三乗を一乗に帰し、遂に華厳経の一乗の悟りに入れさせた。釈迦一代の教えは、ただ『華厳経』を展開したものである。終極の摂め帰す所は唯だ『華厳経』である。展開すれば釈迦一代、八万の法蔵であり、森羅万象と交わり、収束させれば深く広い『華厳経』九会の妙説におさまる。『大方広仏華厳経』という題名にすでに真如と智慧が一体となっている理智冥合が表れている。
海のような多くの大衆が集まる華厳の会座で、善財童子が一生でさとりを開いたことが説かれたのは、入法界品でまことに明らかである。速疾の大果を得たいと思うなら、『華厳経』を超えるものはない。教理は甚だ深く、どの宗派が匹敵するだろうか。十玄縁起の花は鮮かに、六相円融の月は朗らかである。数あるお経の上首であり、多くの宗派の尊い主であることは、洋々として盛大であり、蕩々と流れている。どんなに称讃しても称讃し尽くすことができないのは、この『華厳宗』だけである。

第八章 真言宗

真言宗の教えについての詳細は、こちらの記事に書いています。
真言宗は危険な教え?簡単に分かりやすく特徴とお経について解説

第一節 宗名所依経

真言宗
問。何故名真言宗。
答。此以大日経。蘇悉地経等祕密真言教。為其所憑。為云爾也。

(書き下し文)
真言宗
問う。何が故ぞ真言宗と名づく。
答う。此れ大日経、蘇悉地経等、祕密真言教を以て其の所憑と為すが為に爾云うなり。

(現代語訳)
真言宗
問い。なぜ真言宗というのか。
答え。『大日経』『蘇悉地経』など、秘密真言教をその所依とするのでそのように言う。

第二節 三国相承

問。此宗誰人而伝-弘於之乎。
答。如来滅後七百年時。龍猛菩薩。開南天鉄塔。遇金剛薩埵。受職灌頂。然後広流-伝之。金剛薩埵。親承大日如来。大日如来。是教主也。龍猛菩薩。授之ヲ龍智菩薩。自爾已来。善無畏三蔵。金剛智三蔵。一行禅師。不空三蔵。恵果和尚。互各継跡。血脈流伝。至于日域之流伝者。弘法大師。渡於海波。謁恵果阿闍梨。広伝此宗。遂還日本。盛開此宗。自爾已来。日本一国。花洛田舎。無不(スト云ヿ)受学。至今不絶。凡此教盛于日域。偏是弘法大師之力也。大師是大権応迹。盛徳絶倫。行業無双。顕密諸宗無遺。兼-通大小三蔵。皆悉窮尽。護法感通。威験才芸。豈有及大師之人乎。実照千古之明燈。耀来後之日月也。遂於高野山入定(シ玉フ)。人天帰敬。八部尊重。内証外用。不可思議矣。

(書き下し文)
問う。此の宗、誰人か之を伝弘(でんぐ)するや。
答う。如来の滅後七百年の時、龍猛菩薩、南天の鉄塔を開き、金剛薩埵と遇う。受職灌頂し、然る後、広く之を流伝(るでん)す。金剛薩埵、親しく大日如来を承く。大日如来は是れ教主なり。龍猛菩薩、之を龍智菩薩に授く。爾るより已来、善無畏三蔵、金剛智三蔵、一行禅師、不空三蔵、恵果和尚、互いに各々跡を継ぎ、血脈流伝す。
日域の流伝に至りては、弘法大師、海波を渡り、恵果阿闍梨に謁し、広く此の宗を伝う。遂に日本に還り、盛んに此の宗を開く。爾るより已来、日本一国、花洛田舎(からくでんしゃ)、受学せずということなし。今に至りて絶えず。凡そ此の教日域に盛なり。偏に是り弘法大師の力なり。大師是れ大権の応迹、盛徳、倫を絶し、行業、無双なり。顕密諸宗遺りなく大小三蔵に兼通し、皆悉く窮め尽くす。護法感通、威験才芸、豈に大師に及ぶの人あらんや。実の千古を照らすの明燈、来後を耀かすの日月なり。遂に高野山に入定したまう。人天帰敬し、八部尊重す。内証外用、不可思議なり。

(現代語訳)
問い。真言宗はどなたが伝えたのか。
答え。釈迦滅後700年の時代、龍猛菩薩、南インドの鉄塔を開き、金剛薩埵と遇った。王位を譲る時頭に水を注ぐ儀式を受け,真言の法を受けた。その後、広く伝えた。金剛薩埵は、直接大日如来から法を受けた。大日如来が真言宗の教主である。龍猛菩薩は龍智菩薩に授けた。それ以来、善無畏三蔵、金剛智三蔵、一行禅師、不空三蔵、恵果和尚という血脈により法を伝えた。
日本への伝来については、弘法大師が海波を渡り、恵果阿闍梨に面会して法を受け、広く真言宗を伝えた。遂に日本に還り、盛んに真言宗を開く。それ以来、日本全国、都でも地方でも、学ばない者はいない。今日まで絶えずに続いている。真言宗は日本で盛んである。これ偏に弘法大師の力である。弘法大師は第三地の菩薩の化身であるから、盛徳は群を抜き、修行は並ぶ者がなかった。顕教も密教も、あらゆる宗派を漏らさず、大乗、小乗の三蔵を兼ねて精通し、皆悉く窮め尽くした。法を護り、神通を感じ、威徳、霊験、才能、技芸、弘法大師に及ぶ人がいるだろうか。まことに千古を照らす明るい燈火であり、未来を輝かせる日月である。遂に高野山で入定したまま亡くなった。人も天も帰敬し、八部衆も尊重した。内なる証も外に現れた働きも想像を絶する。

第三節 教判

問。此宗立幾教乎。
答。立十住心。摂大小顕密等諸教。窮尽無遺。
問。其十住心者何。
答。一異生羝羊心。二愚童持斎心。三嬰童無畏心。四唯蘊無我心。五抜業因種心。六他縁大乗心。七覚心不生心。八一道無為心。九極無自性心。十祕密荘厳心。是名十住心。初三住心。是世間乗。於中第一是三悪道。第二即人乗。第三是天乗。後七住心。是出世間乗ナリ。於中第四声聞。第五縁覚乗。総是小乗ナリ。後五大乗ナリ。他縁ト覚心トハ是三乗教。一道ト極無トハ即一乗教ナリ。第十是金剛乗教ナリ最尊最極之実教也。九種住心。皆是権乗。並是因位ナリ第十住心。独是実果ナリ。

(書き下し文)
問う。此の宗、幾の教を立つるや。
答う。十住心を立て、大小顕密等の諸教を摂め、窮め尽くして遺すことなし。
問う。其の十住心とは何ぞ。
答う。一には異生羝羊心、二には愚童持斎心、三には嬰童無畏心、四には唯蘊無我心、五には抜業因種心、六には他縁大乗心、七には覚心不生心、八には一道無為心、九には極無自性心、十には祕密荘厳心、是れ十住心と名づく。初めの三住心、是れ世間乗なり。中の第一は是れ三悪道。第二は即ち人乗、第三は是れ天乗なり。後の七住心は是れ出世間乗なり。中の第四は声聞、第五は縁覚乗、総じて是れ小乗なり。後の五は大乗なり。他縁と覚心とは是れ三乗教、一道と極無とは即ち一乗教なり。第十は是れ金剛乗教なり。最尊最極の実教なり。九種の住心、皆是れ権乗、並びに是れ因位なり。第十住心、独り是れ実果なり。

(現代語訳)
問い。真言宗では、教えを幾つに分類するのか。
答え。十住心を説いて大乗、小乗、顕教、密教等の諸教をおさめ、余すところなく分類しつくす。
問い。その十住心とは何か。
答え。1つには異生羝羊心、2つには愚童持斎心、3つには嬰童無畏心、4つには唯蘊無我心、5つには抜業因種心、6つには他縁大乗心、7つには覚心不生心、8つには一道無為心、9つには極無自性心、10には秘密荘厳心である。これを十住心という。初めの三つの住心は、世間乗である。その中の第一は三悪道。第二は人乗、第三は天乗である。後の7つの住心は出世間乗である。その中の第四は声聞、第五は縁覚乗、どちらも小乗である。後の5つは大乗である。他縁大乗心と覚心不生心とは三乗教、一道無為心と極無自性心とは一乗教である。第十は金剛乗の教えである。最も尊く究極の実教である。九種の住心は皆これ仮の乗り物であり、すべて因の修行の位である。第十住心だけが真実の結果である。

第四節 依正二報

大日如來ハ。心王覺體。塵數諸聖ハ。心數眷屬。五智所成ナリ。依正二報ハ。本有金剛界。自在大三摩耶。現覺諸法。本初不生。大菩提心。不壞金剛。光明心殿。(是依報也)三十七尊。九會曼荼。十三大會。四重曼荼。重重帝網。塵剎聖衆。(是正報也)依正無盡。自在圓滿。高超諸宗而聳聳。廣包衆典而廓廓。然則顯乘大果。未上此堂。出世小聖。豈得入室乎。是以四大乘宗。以空寂而謂實理。九界情執。覆心城而未開顯。唯此密教ノ明見實理。深入心城。密嚴華藏。塵數諸尊。森羅而住。一切衆生。萬德妙用。歷然而具。故一切衆生。皆是毘盧遮那也。一切諸相。悉是覺王境界ナリ。

(書き下し文)
大日如来は心王の覚体、塵数諸聖は心数の眷属にして五智の所成なり。
依正二報は本有(ほんぬ)金剛界、自在大三摩耶、現覚諸法本初不生、大菩提心、不壊金剛光明心殿(是れ依報なり)と、三十七尊、九会曼荼、十三大会、四重曼荼、重重帝網、塵刹の聖衆となり。(是れ正報なり)
依正無尽にして自在円満なり。
高く諸宗に超えて聳聳(しょうしょう)、広く衆典(しゅてん)を包(か)ねて廓廓(かくかく)たり。
然れば則ち顕乗の大果すら未だ此の堂に上らず、出世の小聖、豈に室に入ることを得んや。
是こを以て四大乗宗は空寂を以て実理と謂い、九界の情執、心城を覆うて未だ開顕せず。
唯だ此の密教の明のみ実理を見、深く心城に入る。
密厳の華蔵、塵数の諸尊、森羅として住し、一切の衆生、万徳の妙用、歴然として具す。
故に一切衆生は皆是れ毘盧遮那なり。
一切の諸相は悉く是れ覚王の境界なり。

(現代語訳)
大日如来という覚体を心王に例えれば、数限りもない諸仏菩薩という眷属は心所のようなものであり、それらはすべて五智によってなるものである。
依報と正報の2つは、本有(ほんぬ)金剛界(法界体性智)、自在大三摩耶(妙観察智)、現覚諸法本初不生(平等性智)、大菩提心(大円鏡智)、不壊金剛光明心殿(大日如来の住する所、成所作智)(この五智が大日如来の住所たる依報である)と、三十七尊を主とする金剛界の九会曼荼、十三大会よりなる胎蔵界曼荼羅、それぞれが四重になっており、帝釈天の網の目の珠に他の珠が映って互いに入り込むように、数限りもない国土の諸仏菩薩である。(これが正報である)
依報も正報も尽きることがなく、自在であり完全である。
諸宗に超えて高く聳え、たくさんの仏典を広く包んでいる。
だから顕教の偉大なさとりでさえも、密教の堂には入れない。
ましてや小乗の聖者はどうして部屋に入ることができようか。
こういうわけで、法相、三論、天台、華厳の4つの大乗宗派は空寂無相を真実の理と言い、十界のうち仏界以外の九界の迷いが心の城を覆って未だに開顕しない。
ただ密教の明かりだけが実理を見て深く心城に入ることができる。
密厳の華蔵世界には数限りもない諸仏菩薩が、森羅として住している。
全ての生きとし生けるものにも、この万徳の妙なる働きが、歴然と具わっている。
従ってすべての生きとし生けるものは皆毘盧遮那仏である。
すべての人のあらゆる経験は、悉く大日如来の境界である。

第五節 六大四曼三密

此宗ハ建-立六大。總明佛體。四種曼荼ハ此上相貌。三密相應スレハ即其業用ナリ。六大之中。前五大者是理。第六識大即智ナリ。理智之上。各有相用。四曼三密。所-以ナリ建立。智即金剛界。理是胎藏界。是名兩界兩部大日。所以而成六大。即大日如來ナリ。一切諸法。不離六大。六大法性。周-遍諸法。故一切諸法。無非(スト云コト)大日。大日如來。周-遍法界。當知。兩部者。是大日如來理智之德也。理德無量ナリ。故胎藏有四重聖衆。智德無量故。金剛界有三十七尊。兩部不二ニシテ為理智冥合。

(書き下し文)
此の宗は六大を建立し、総じて仏体を明かす。
四種曼荼は此の上の相貌、三密相応すれば即ち其の業用なり。
六大の中、前五大は是れ理にして、第六識大は即ち智なり。
理智の上、各々相用あり。四曼、三密、建立せる所以なり。
智即ち金剛界、理是れ胎蔵界なり。是れを両界両部の大日と名づく。
所以に六大を成ず。即ち大日如来なり。
一切諸法、六大を離れず。六大の法性、諸法を周遍す。
故に一切諸法。大日にあらずということなし。
大日如来、法界を周遍す。当に知るべし。
両部は是れ大日如来、理智の徳にして理徳無量なるが故に胎蔵四重の聖衆あり。
智徳無量なるが故に金剛界三十七尊あり。
両部不二にして理智冥合たり。

(現代語訳)
真言宗は地水火風空識の六大という体系で大日如来の体大を明らかにする。
大曼荼羅、三摩耶曼荼羅、法曼荼羅、羯磨曼荼羅の四種曼荼羅はこの大日如来の上にあらわすすがたであり、衆生の身語意の三密が大日如来の三密と相応するのは、その働きである。
六大のうち、前の五大は大日如来の理であり、6つ目の識大は大日如来の智である。
この理と智の上に、それぞれ姿と働きがあって、四種曼荼羅、三密が成立する。
智は金剛界、理は胎蔵界であり、これを両界両部の大日という。
それによって六大が成立し、それはそのまま大日如来である。
あらゆるものは六大を離れたものではない。六大の法性はあらゆるものに行き渡っている。
従ってあらゆるものは大日でないものはない。
大日如来はあらゆる世界にいきわたっている。まさに知らねばならない。
両部というのは大日如来の理と智の徳である。
理の徳が限りないから胎蔵界の四重の諸仏菩薩があり、智の徳が限りないから金剛界の三十七尊があるのである。
両部は二つのものではなく、理と智は一体となっている。

第六節 仏身教主

此宗ハ佛立四身。自性。受用。變化。等流。是名四種法身。五方五智。以成四身。即身成佛。大覺速證。毘盧覺王。登之方極。即事而真。森然諸相。宛爾諸法。皆是真如ナリ。顯教是釋迦說。密教即大日說。是故二教說主。炳然差別。

若得實義。即二佛無二。離此釋迦。別無大日。故十住階級。捨劣得勝。皆是遮情之分齊。十心諸法。平等怛然。即是表德之義門。常差別門。常平等門。不二而二。二而不二。表德故一塵不棄皆毘盧妙德ナリ。遮情通顯乘。表德局密乘故。此教意。一切諸法。皆是大日ナリ。真如即我身。佛法即吾體也。四重秘釋。重重深妙三密業用。密密秘奧。若離此教。永無成佛之路。求出含生。豈不信行。真言祕教。大概如此。

(書き下し文)
此の宗は仏に四身を立つ。自性、受用、変化、等流なり。是れ四種の法身と名づく。
五方、五智、以て四身を成ず。即身成仏し、大覚速やかに証す。
毘盧の覚王、之に登り方(まさ)に極まる。
即事而真にして森然たる諸相、宛爾たる諸法、皆是れ真如なり。
顕教是れ釈迦の説にして密教即ち大日の説なり。是の故に二教の説主、炳然(へいねん)として差別あり。

若し実義を得れぱ即ち二仏は無二なり。此の釈迦を離れて別に大日なし。
故に十住の階級、劣を捨て勝を得るは皆是れ遮情の分斉なり。
十心の諸法、平等怛然たるは即ち是れ表徳の義門なり。
常差別門、常平等門、不二にして二、二にして不二なり。
表徳の故に一塵も棄てず、皆毘盧の妙徳なり。
遮情は顕乗に通ず。表徳は密乗に局るが故に此の教の意、一切諸法、皆是れ大日なり。
真如即ち我が身、仏法は即ち吾が体なり。
四重の秘釈は重重にして深妙、三密の業用は密密にして秘奥なり。
若し此の教を離るれば永(とこしえ)に成仏の路なし。
含生を出でんと求むるもの、豈に信行せざらんや。
真言の秘教、大概此の如し。

(現代語訳)
真言宗は仏に四種の仏身を説く。自性身、受用身、変化身、等流身である。これを四種の法身という。
中央と東西南北の五方にある五仏が五智の現れであり、それぞれに四種の法身がある。
この法身説法の教えによって即身成仏し、偉大な覚りを速やかに得て、毘盧の覚王である大日如来となり、究極のさとりにのぼりつめる。
現象がそのまま真如であり、びっしりと並び立つあらゆるすがた、そっくりそのままのあらゆるものがすぺて真如である。
顕教は釈迦の説法であり、密教は大日如来の説法である。だからこの2つを説かれた仏は、明白に違いがある。

しかしもし本当の意味からいえば、釈迦と大日は2つの仏ではない。釈迦を離れて大日はない。
従って十住心を段階をおって劣ったものから勝れたものへ進んでいく九顕一密は、迷いを否定する表し方である。
十住心のそれぞれに平等に密教の教えが表れているとする十顕十密は、肯定的な表し方である。
これらの常差別門と常平等門とは、2つでなくして2つであり、2つにして2つではない。
肯定的に明らかにする表徳であるから、微塵も捨てるものはない。すべては毘盧遮那仏の妙なる徳である。
否定的に明らかににする遮情は顕教に共通する。表徳は密教だけであるから、真言宗ではあらゆるものは皆大日如来である。
真如はそのまま我が身となり、仏法はそのまま吾が本質である。
浅略釈、深秘釈、秘中の深秘釈、秘秘中の深秘釈の四重の秘釈は、幾重にも重なり深く妙なるものである。
三密の働きは、深い秘密の奥義である。
もし真言宗を離れれば、永遠に成仏する道はない。
迷いの生を出でんと求める者はどうして信じ、行じないことがあろうか。
真言の秘密の教えは大体このようなものである。

附説 禅宗(並)浄土宗

第一章 禅宗

禅宗の教えについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
禅宗とは?総本山・開祖と教えの特徴を簡単に分かりやすく解説

   禅宗(並)浄土宗
夫諸宗義理。冲邈難測。今渧一毛。以霑初心。日本所伝。自昔已来。共許所翫。唯此八宗ナリ。然八宗外。禅宗及浄土教。盛而弘通。

彼禅宗者。仏法玄底甚深微妙。本来無一物。本無煩悩。元是菩提。達磨西来。不立文字。直指人心。見性成仏セシム。不同餘宗森森タル万法相違法義。重重扣論。天竺二十八祖。以心伝心。彼第二十八祖達磨大師。梁世伝之ヲ漢地。乃至六祖次第相承ス。然五祖之下。南北二宗始分。六祖南宗之末。漸分五家。道璿律師承北宗之禅。伝之日本。伝教大師自大唐國。伝於此宗。名仏心宗。近来名徳。亦自宋朝而伝之矣。日本諸処盛以弘伝。

(書き下し文)
   禅宗(並)浄土宗
夫れ諸宗の義理、冲邈として測り難し。
今一毛を渧(したた)らし、以て初心を霑(うるお)す。
日本の所伝、昔より已来、共に許して翫ぶ所は唯だ此の八宗なり。
然るに八宗の外に禅宗及び浄土教、盛んに弘通す。

彼の禅宗とは、仏法の玄底にして甚深微妙なり。
本来無一物にして、本、煩悩なく、元是れ菩提なり。
達磨西来し、不立文字、直指人心、見性成仏せしむ。
餘宗の森森たる万法相違の法義、重重論を扣(たた)くに同じからず。
天竺の二十八祖、以心伝心す。
彼の第二十八祖達磨大師、梁の世に之を漢地に伝う。
乃至六祖次第相承す。
然るに五祖の下、南北二宗に始めて分かつ。
六祖南宗の末、漸く五家を分かつ。
道璿律師、北宗の禅を承け、之を日本に伝う。
伝教大師、大唐國より此の宗を伝え、仏心宗と名づく。
近来名徳、亦た宋朝より之を伝う。
日本の諸処、盛んに以て弘伝す。

(現代語訳)
   禅宗と浄土宗
各宗派の教理は深遠であり、どれほど深いかは測ることができない。
今回は一毛の先から滴をしたたらせ、初学者の渇望を潤そうとしたのである。
日本に伝えられ、昔から今まで自他共に認めて学んでいるのはこの八宗のみである。
ところが、八宗の他にも、禅宗と浄土教が盛んに伝えられている。

その禅宗とは、仏法の奥深い底であり、甚だ深くすぐれている。
本来一物もなく、本より煩悩はなく、他ならぬ自分の心がそのままが仏である。
達磨は西からやってきて、文字によらず、人の心に真理を求め、直ちに自己の本性を見ることにより成仏させた。
他の宗派で、樹木が生い茂るような五位百法の違いの教義など、幾重にも重ねて論ずのとは異なる。
インドの二十八人の祖師たちはは以心伝心で法を伝え、第二十八祖の達磨が梁の時代に中国に伝えた。
それから六祖まだ順に受け継がれたが、第五祖弘忍の門下で、慧能の南宗と神秀の北宗の二派に始めて分かれた。
六祖慧能の南宗でやがて五家に分かれた。
道璿律師は北宗の禅を承け、日本に伝えた。
伝教大師は中国から禅宗を伝え、仏心宗と名づけた。
最近も名徳の僧が宋朝から禅宗を伝え、日本の多くの地域で盛んに広められている。

第二章 浄土宗

浄土宗の教えについての詳細は、こちらの記事に書いています。
浄土宗の教え・末法の悪人も他力念仏1回で救う究極の救済力

又浄土宗教。日域広行。凡此教意。具縛凡夫。欣-楽浄土。以所修業。往-生浄土。西方浄土。縁深于此土。念仏修行。劣機特為易。生浄土後。乃至成仏。

汎而言之。一切諸行。廻-向浄土。名浄土門。修-行万行。期スルヲ於ニ此成スルヲ名聖道門。諸教諸宗。皆是聖道。欣-求往生是浄土門ナリ。源出於起信論。継在龍樹論教。天親菩薩。菩提留支。曇鸞。道綽。善導。懐感等。乃至日域。咸作解釈。競而弘通。日本近代已来。此教特盛ナリ。若加此二宗。即成十宗。然常途所因。其啻八宗而已。以前所列諸宗次第。非是浅深次第。唯随言列爾。列何可得。故且如上列之耳。人身聖教難受難値。適得受値。豈得默止乎。仍挙管見。以結来縁。微功不ンハ朽必証菩提矣。
八宗綱要下

(書き下し文)
又た浄土の宗教、日域に広く行わる。
凡そ此の教の意は具縛の凡夫、浄土を欣楽(ごんぎょう)し、所修の業を以て浄土に往生す。
西方浄土は縁、此の土に深し。念仏の修行、劣機特に易しと為す。
浄土に生じて後、乃至成仏す。

汎く之を言えば一切の諸行、浄土に廻向するを浄土門と名づけ、万行を修行し、此に成ずるを期するを聖道門と名づく。
諸教、諸宗、皆是れ聖道なり。往生を欣求するは是れ浄土門なり。
源を起信論に出で、継いで龍樹の論教にあり、天親菩薩、菩提留支、曇鸞、道綽、善導、懐感等、乃し日域に至るまで咸く解釈を作し競うて弘通す。
日本近代已来、此の教特に盛なり。
若し此の二宗を加うれば、即ち十宗と成る。
然るに常途に因る所は其れ啻に八宗のみ。
以前列(つら)ねる所の諸宗の次第、是れ浅深の次第にあらず。
唯だ言うに随いて列ねるのみ。何れを列ぬるも得べきが故に且らく上の如く列ねるのみ。
人身聖教、受け難く値い難し。適(たまた)ま受値することを得ば、豈に默止することを得んや。
仍(より)て管見を挙げて以て来縁を結ぶ。微功(みく)朽ちずんば必ず菩提を証せん。
八宗綱要下

(現代語訳)
又た浄土の宗教は日本で広く行われている。
大体浄土教の教えは煩悩に縛られた凡夫は、浄土を願い求め、(法蔵菩薩)のなされた修行の功徳によって浄土に往生する。
西方浄土はこの世界に非常に縁が深い。念仏行は、劣った者に特に易しい行である。
浄土に生じてから成仏する。

広い意味ではあらゆる行を浄土に向けるのが浄土門である。
万ずの行を修行し、この世でさとりを開こうとするのを聖道門という。
諸教、諸宗はすべて聖道門である。往生を願い求めるのは浄土門である。
起信論に源を発し、龍樹の論教に説かれ、天親菩薩、菩提留支、曇鸞、道綽、善導、懐感等、そして日本に至るまで、みな解説を行い、競うように広め伝えている。
日本の近代以来、浄土教は特に盛んである。
もしこの二宗を加えれば十宗となる。
だが一般には八宗だけである。
この書に書いた各宗派の順序は、教えの浅深の順序ではない。
単に出てきた順に書いたのである。
どのような順序にも書けるため、仮にこの順序で並べただけである。
人身は受け難く、仏法には値い難い。
幸いにもあうことができた私は、どうしてこれを言わずにいられようか。
だから管から天を見るような細かい知恵でこの書をしたためた。
一人でも多くの人に仏縁を結んでもらいたい。
この微かな功徳が朽ちなければ、やがて必ず菩さとりを得られるだろう。
八宗綱要下

奥書

文永五年戊辰正月二十九日於豫州円明寺西谷記之予一宗教義尚非所軌餘宗教観一トシテ無所知唯挙名目聊述管見仍錯謬極多正義全闕諸有識見者質之
華厳宗沙門凝然(生年廿九)

(書き下し文)
文永五年戊辰正月二十九日、豫州の円明寺の西谷に於て之を記す。
予一宗の教義尚軌とする所にあらず。
餘宗の教観一つとして知る所なし。
唯だ名目を挙げて聊か管見を述ぶ。
仍(よ)りて錯謬極めて多く正義全く闕けん。
諸識見ある者、之を質せ。
華厳宗沙門凝然(生年廿九)

(現代語訳)
文永五年戊辰正月二十九日、豫州の円明寺の西谷でこれを記した。
私は華厳宗一宗の教義さえも、なお軌範とすることができていない。
ましてや他の宗派の教義や修行は一つとして知っているとはない。
ただ項目を列挙してわずかに卑見を述べたのである。
だから誤りは極めて多く、正しい意味は全く欠けていると思う。
見識ある方々に正して頂きたい。
華厳宗沙門凝然(生年29才)

最後に

八宗綱要』は、初心者向けといっても、宗派毎の専門用語をそのまま使っており、よく理解するには、自分でその意味を調べる必要があります。
そうすれば、まあまあ各宗派の概要を理解できます。

ただ、各宗派の教義を理解したからといって、本当の幸せになれるわけではありません。
これらをふまえて、結局、お釈迦様が何を教えられたかったのか
という仏教の真髄については、
以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
今すぐ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。