施餓鬼とは?
施餓鬼というのは法事の一つで、お施餓鬼とか、施餓鬼会、施餓鬼法要ともいいます。
曹洞宗では「施食会」 ともいわれます。
浄土真宗は行いませんが、それ以外の宗派ではよくお盆の前後に行われます。
多くの人は、お盆にはご先祖さまが帰ってくると思っていることから、施餓鬼も一緒に行うということは、
「自分の先祖や親を餓鬼道に堕ちているとお坊さんは決めつけて法事をしているのではないか?」
「うちの親は立派だったから天上界に生まれているかもしれないから必要ないのではないか?」
と思われる方もあるようです。
それは大変いいご質問です。
施餓鬼とは、一体どんな法事なのでしょうか?
施餓鬼とは
施餓鬼とはどういうものでしょうか。
参考までに仏教の辞典を見てみましょう。
施餓鬼
せがき
餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食物を施して供養することで、特にその法会をいう。
<施餓鬼会>の略。
<施食会>ともいう。
中国では不空訳の瑜伽焰口経に阿難が自分が餓鬼になることを免れるために餓鬼に施食し、陀羅尼を誦したと説かれることに基づいて流行した。
期日は特に定まらないが、日本では年中行事の一つとして盂蘭盆会に行われることが多い。
盆には家の先祖の精霊を祀るほか、ともに訪れてくる無縁仏や餓鬼のためにも施餓鬼棚(精霊棚)をつくって施しをしなければならなかった。
一般に餓鬼は供養するもののいない無縁仏とか祀るもののない霊魂として観念されたので、御霊信仰に通じる性格をもつ。
中世には飢饉や戦乱などの折に河原に数万の群衆を集めてたびたび営まれたり、近世に入っては大火の犠牲者の追善のために大寺院で修されたりした。
両国の回向院で営まれた1657年(明暦3)の江戸大火(振袖火事)の際の死者供養などは、その代表例である。
施餓鬼は浄土真宗をのぞく各宗派で行われる。
また禅宗では、生飯といって食事のたびに飯を数粒施す習慣も施餓鬼の作法だとしているが、これも民俗的な御霊の一種であるひだる神に対する作法と共通するものがある。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように辞典には簡単にまとめてありますので、
ここに書かれていないことも含めて分かりやすく解説していきます。
餓鬼とは
「施餓鬼」 は、餓鬼に施すと書きます。
「餓鬼」 とは何かというと、餓鬼界という苦しみの世界に生きる生命です。
仏教では、私たちは、死ねば次の世界に生まれ変わります。
すべての生命は、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わり、生死を繰り返していると教えられています。
これを「輪廻転生」 といいます。
車の輪が回るように、6つの迷いの世界をぐるぐる生まれては死にを繰り返しているので、「六道輪廻」 ともいいます。
6つの迷いの世界というのは、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の6つです。
「道」 というのは世界のことです。
それぞれどんな世界かというと、
地獄界は最も苦しみの激しい世界です。
餓鬼界は飢えと渇きに苦しむ世界です。
畜生界は弱肉強食の動物の世界です。
修羅界は争いの絶えない苦しみの世界です。
人間界は私たちの世界です。
天上界は楽しみの多い世界ですが、やはり年を取って死ぬ迷いの世界です。
「施餓鬼」 の餓鬼というのは、この中の餓鬼界に生まれた生命のことです。
餓鬼界に生まれるとどんな苦しみを受けるのかというと、どんなにお腹がすいても食べ物を食べられず、どんなに喉が渇いても飲み物を飲めないという苦しみです。
源信僧都の『往生要集』によれば、餓鬼には色々な種類があります。
例えば、人間が吐いた物しか食べられない餓鬼、
とても暑い所で、朝露しか飲めない餓鬼、
線香の匂いだけしか食べられない餓鬼、
僧侶の説法しか食べられない餓鬼、
山のように大きいのに口が針の穴のように小さい餓鬼、
火葬場の火しか食べられない餓鬼、
口から火を吐いてそこに集まってくる蛾しか食べられない餓鬼、
何か食べようとすると猛炎になって食べられない餓鬼、
自分の体しか食べられない餓鬼、
自分の子供しか食べられない餓鬼など、
過去に布施が足りなかった自分の行いによって因果応報の大変な苦しみを味わっています。
このような大変な苦しみを受けている餓鬼をかわいそうに思い、食べ物や飲み物を施すのが、施餓鬼です。
施餓鬼の由来
施餓鬼は、『仏説救抜焰口餓鬼陀羅尼経』というお経の、このようなエピソードに由来しています。
お釈迦さまがカピラ城におられた時のことです。
十大弟子の一人、阿難が、夜中に一人で、
焔口
という餓鬼に出会いました。
口から火を吐き、喉は針のように細く、体はやせ細り、爪や牙が細くて鋭い餓鬼です。
その餓鬼が、「あなたは3日後に死んで餓鬼に生まれるでしょう」 と言います。
怖くなった阿難は、「その苦しみから逃れるにはどうすればいいのですか?」 と尋ねると、
餓鬼はとてつもないことを言います。
「あなたがもし明日、百千那由他恒河沙というたくさんの餓鬼と、百千の仙人たちに、それぞれ一石の飲食を布施して、私のために三宝を供養すれば、あなたの命は延びて、私も天上界に生まれることができるでしょう」
現在の数の単位では、恒河沙は10の52乗、那由多は10の60乗で、一石は18リットルです。
加賀百万石の大名でもまったく足りません。
阿難は、お釈迦さまのところへ行ってどうすればいいでしょうかとご相談します。
するとお釈迦さまは、「心配することはない」 といわれ、
「一器のきよらかな水と、一器の食べ物をお供えして、功徳のあるお経の言葉をとなえれば、その布施行を満足できるだろう」
と教えられます。
阿難がその通りにしたところ、その布施行によって四方の多くの餓鬼が天上界に生まれ、阿難も難を免れたといわれます。
(出典:『仏説救抜焰口餓鬼陀羅尼経』)
このお経のエピソードをもとに、施餓鬼会という法要が行われるようになったのです。
施餓鬼の始まり
施餓鬼がいつ頃始まったのかというと、このお経は中国の唐の時代の不空(705-774)という三蔵法師がインドの言葉から翻訳したものですので、8世紀です。
それから遣唐使で中国へ渡った僧侶によって日本へ伝えられます。
最初は密教の僧侶が行っていましたが、やがて禅宗でも行うようになります。
鎌倉時代の終わり頃になると、それ以外の宗派でも行われるようになりました。
室町時代の1421年には、飢饉でたくさんの人が亡くなったので、翌年、京都の五条河原で施餓鬼会が行われました。
このときは数万の群衆が集まったといわれます。
1454年頃に海老名季高が書き残した『鎌倉年中行事』には、鎌倉市の建長寺という禅宗のお寺で施餓鬼が行われていたことが記されています。
現在では、浄土真宗以外の宗派で行われています。
盂蘭盆会との違い
施餓鬼会は、よくお盆の前後に行われたり、お盆に行われたりします。
施餓鬼会のことをお盆ということもあります。
施餓鬼会がお盆の代表的な行事になったり、ほとんど同じになっているので、親が亡くなって、新盆などをする時に、
「うちの親は餓鬼になったということだろうか?」
という疑問が起きたりします。
ですが、もともとお盆と施餓鬼は別の行事です。
お盆と施餓鬼会はどう違うのかというと、まずお盆というのは、もともとは『仏説盂蘭盆経』にもとづくものです。
そのお経には、お釈迦さまの十大弟子の一人の目連が、お母さんが餓鬼界で苦しんでいるのを助けるために、たくさんの僧侶に布施をしたところ、目連のお母さんが天上界に生まれたと説かれています。
お盆については以下の記事で詳しく解説してありますのでご覧ください。
➾お盆の期間とお供え・お盆の意味
その『仏説盂蘭盆経』のエピソードと、日本の先祖供養の習慣が結びついて、先祖が帰ってくると思われているのがお盆です。
お盆は、目連が、たくさんの僧侶に布施をしたのに対して、施餓鬼は、もともと餓鬼界に生きる無数の生命に布施を行うものです。
時期もいつでもよかったので、特定の日を定めずに行われていました。
鎌倉時代の華厳宗の僧侶・明恵は、毎日行っていたといわれます。
施餓鬼の法をぞ毎夕修し給ひける。
(引用:『明恵上人伝』)
それから、飢饉や戦争、大火事などでたくさんの人が亡くなった時にも随時、行われました。
1657年の日本史上最大の火事といわれる明暦の大火(振袖火事)でも行われています。
それがお盆には、先祖があの世から帰ってくる時に、無縁の餓鬼も一緒についてきてしまうと思われて、いつの頃からか施餓鬼も行われるようになったのです。
ちなみに餓鬼というのは、もっと苦しい地獄界に生まれた生命や畜生界に生まれた生命には布施をする必要はない、という意味ではありません。
餓鬼界というのは、特に飢えや渇きに苦しむことが強調されているので、施餓鬼といっているだけで、地獄界や畜生界の生命への布施も含まれています。
そういうわけで、お盆の時期に施餓鬼が行われるからといって、自分の先祖を餓鬼だと決めつけているわけではありません。
施餓鬼会はどんなことをするの?
施餓鬼の方法については、『仏説救抜焰口餓鬼陀羅尼経』には、一器の食べ物と一器の水を用意し、お経の言葉を唱え、多宝如来、妙色身如来、広博身如来、離怖畏如来の名前をとなえて、用意した食べ物と水をきれいな地面に投じると、無数の餓鬼が満足する施しができると教えられています。
それに習い、宗派によって異なりますが、お寺の外に施食の供養壇を設けます。
これを「施餓鬼壇」 といいます。「精霊棚」 ともいわれます。
そこには食べ物や
閼伽
という水を供え、上や周辺に如来の旗をかけます。
この旗を「施餓鬼旗」 といいます。
如来というのは仏様のことですが、お経に説かれている多宝如来、妙色身如来、広博身如来、離怖畏如来の四如来、または甘露王如来を加えた五如来、さらに宝勝如来、阿弥陀如来を加えた七如来の場合もあります。
また、水死や溺死した人たちのために川べりや船の中で施餓鬼を行い、供物を川に流す場合があります。
これを「川施餓鬼」 といいます。
江戸時代には、お盆の時に船の中で行われたことが、『俳諧歳時記』に出ています。
江戸の僧俗、七月盆中船中に誦経し、経木に志す所の戒名を記さしめ、これを流水中に投ず。
これを川施餓鬼という。
(引用:『俳諧歳時記』)
僧侶が自宅にやってきて読経を行う場合もあります。
普通の法事のように、読経と食事ということもあります。
ただ、せっかくの仏教のご縁なのに、読経だけだと教えは分からないので、できれば法話もして頂くといいかもしれません。
お盆の時はたいていお坊さんは忙しいので、そのお坊さんが何軒回られるのかによっても変わって来ます。
お布施
お布施は大切なことです。
仏教を正しく説いている僧侶にお布施をすることは大きな功徳になります。
仏教では、僧侶は一般の人に法を施して幸せになってもらい、一般の人は僧侶に財施をして仏教を伝えてもらい、また多くの人に幸せになってもらう、という関係があります。
ですからお布施は、尊い教えを聞かせて頂いたお礼であり、仏法に対する財施なので、精一杯するのが尊い布施行です。
ただ、現代日本でのお布施の目安は、普通の法事なら5千円から1万円くらいで、
施餓鬼会の場合は3千円から1万円くらいになっています。
施餓鬼会をされるお寺のお坊さんに尋ねる時は、
「お布施いくらですか」 と聞くと、
定価を聞かれているみたいで、仏教はお金で換算できませんので、通常は答えられませんので、
「目安はどれくらいなのか」 とか、
「大体皆さんどれくらいされる方が多いのか」 など、
あくまでお布施であるという尋ね方だと答えて頂ける可能性があります。
白い封筒に入れて、表書きは「御布施」 とし、「ふくさ」 に入れて持参します。
服装
服装は喪服でなくても大丈夫です。
普通の法事と同じで、地味な平服が一般的です。
派手な色の服や、派手なアクセサリー、イケイケな髪型は控えたほうがいいでしょう。
一緒に参詣する人がある場合には、事前にコミュニケーションをとって、空気を読むことも大切です。
その他の法事については、以下の記事で詳しく解説してあります。
➾法事の種類と意味・お布施の相場や服装と持ち物
先祖供養になる?
では、施餓鬼の法要は、先祖供養になるのでしょうか?
お経には、目連や阿難が布施をしたら、餓鬼が天上界に生まれたと説かれています。
これはどういうことなのでしょうか。
仏教は因果の道理を根幹として説かれています。
因果の道理は、すべての結果には必ず原因がある、といういつでもどこでも変わらない真理です。
では、私たちの運命にはどんな原因があるかというと、お釈迦さまはこう教えられています。
善因善果
悪因悪果
自因自果(お釈迦さま)
これは、善いたねをまけば善い結果が現れる。
悪いたねをまけば悪い結果が現れる。
自分のまいたたねは自分が刈りとらなければならない、ということです。
餓鬼界に生まれている生命は、自分が餓鬼界に生まれるようなたねまきをしたために、因果応報で餓鬼界に生まれたのです。
そのため、餓鬼界の生命を天上界に生まれさせるには、自分がやった善を餓鬼に差し向けて与えなければなりせん。
これを回向といいます。
それはちょうど、他人の借金を返すには、自分がお金を払わないといけないようなものです。
その場合、自分にお金がないと、他人の借金の肩代わりができないように、
自分がそれ相当の善ができてはじめてできることです。
では天上界に生まれるには、どのくらいのたねまきが必要なのかというと、「十善」 が必要です。
十善というのは、以下の10の善です。
これはかなり難しいので、天上界といわず、人間界に生まれるにはどうすればいいかというと、五戒という5つのルールを守り続ける必要があります。
以下の5つです。
これもかなり難しく、もうすでに虫などを殺したことがあるのではないでしょうか?
殺生罪をつくると、人間や餓鬼に生まれることもできず、地獄に生まれることになってしまいます。
餓鬼界から天上界に生まれるというのは、分かりやすくお金でいえば、何億円もの借金がある人を億万長者にしてあげるようなものです。
自分が何十億円の借金を抱えながら、何億円の借金のある人にお金をあげて億万長者にすることはできません。
それと同じように、自分がたくさんの生き物を殺して、地獄に行くような行いをしていながら、
むしろ悪の少ない餓鬼道の人を助けることは困難です。
阿難や目連というのは、出家され、これよりはるかに厳しい二百五十戒という戒律を護られていただけでなく、悟りを開いています。
しかも悟り開いていたお釈迦さまのお弟子の中でも、十大弟子といわれるほどの人たちです。
そういう人たちができたからといって、一般の私たちにできるわけではありません。
それはもちろん、善をやる必要がないということではなく、少しでも善をやったほうがいいです。
では、施餓鬼会は無意味なのでしょうか?
施餓鬼会の目的
もともと仏教では、死ねばそれまでの行いによって、因果の道理に従って次の世界に旅立って行かないといけませんので、お盆に先祖が墓に帰ってくることはできません。
浄土真宗で施餓鬼を行わないのも、その仏教の教えに忠実に、先祖供養自体を行わないからです。
たまに、浄土真宗では死んだ人は全員極楽へ往くから施餓鬼をしない、という人がありますが、それは間違いです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、主著の『教行信証』にこう言われています。
一たび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
(引用:親鸞聖人『教行信証』)
「万劫」 というのは、1劫は4億3200万ですから、その一万倍という想像もできないような長期間です。
生きている時に迷いの解決ができずに死んでしまえば、六道輪廻してしまい、もう帰っては来れないといわれています。
今生に仏教を聞いて迷いの解決ができなかった人は、仏様でもどうにもならないといわれていますので、ましてや私たちがどうにかできるものではありません。
それで先祖供養を行わないのです。
また仏教では、天上界といっても迷いの世界で、やがて年を取って死ねばまた迷いの六道を苦しみ迷い続けなければなりませんから、苦しみの世界から天上界に浮かばせても、一時しのぎです。
解決にはなりません。
仏教で目的としているのは、二度と六道に迷うことのない、変わらない幸せになることです。
これは法事全般にいえることですが、仏教で法事を行うのは、実は先祖供養のためではなく、仏教の真の目的である、六道を離れて本当の幸せになることを教えるためです。それで、もともと日本にあった先祖供養の習慣を縁として法要を設けて仏教を伝えるご縁としているのです。
ですから室町時代の後花園天皇の父親、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には、お盆の日の日記に、お寺の施餓鬼で仏教を聞いたと記されています。
晩景大光明寺の施餓鬼聴聞に参る。
(引用:『看聞日記』)
このように、本来私たちが施餓鬼会に行く目的は、死んだ人の供養ではなく、生きている人が仏教を聞いて、本当の幸せになるためです。
どんな人でも仏教を聞けば、生きている時に二度と迷うのことのない幸せの身になれますので、施餓鬼でもお盆でも、ぜひ仏教を聞くようにしてください。
ちなみに、仏教で本当の幸せとはどんなもので、どうすればなれるのかは
電子書籍とメール講座にまとめておきましたので、ぜひ一度読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)