阿弥陀経とは
『阿弥陀経』は、浄土宗や浄土真宗でよく読まれるお経です。
内容は極楽浄土のありさまと極楽浄土へ往く方法です。
『鬼滅の刃』でも読まれているので非常に有名です。
最初と最後の「仏説阿弥陀経」を除く、本文の文字数は1857文字なので、よく写経もされます。
ですが、意味が分かる人は少ないのではないでしょうか?
読んだり写経したりする時は、内容が分かっていれば、もっと意義深いものとなります。
しかも『阿弥陀経』の内容は、すべての人が生きている時に本当の幸せになれる道が明らかにされていますので、その意味を知れば『阿弥陀経』がどれほど尊いお経かが知らされます。
それ故に『阿弥陀経』は一切経七千余巻の中でも最も大切なお経の1つに数えられるほどのお経ですが、
それだけに意味を誤解していては大変です。
『阿弥陀経』には一体どんなことが教えられているのでしょうか?
阿弥陀経とは
阿弥陀経とはどんなお経なのでしょうか。
とりあえず仏教の辞典をみてみましょう。
阿弥陀経
あみだきょう[s:Sukhāvatī-vyūha]
<小無量寿経><小経><四紙経>ともいう。
紀元100年頃、北西インドで成立。
サンスクリット名は<極楽の荘厳>の意で、無量寿経と一致する。
浄土三部経の一つ。
阿弥陀仏が説法している極楽世界の荘麗なさま、阿弥陀仏の名号を執持することによってその世界に往生できること、六方世界の諸仏によるその証明などを説く。
鳩摩羅什訳が浄土教所依の経典となっているが、サンスクリット原典、チベット語訳、玄奘訳の<称讃浄土仏摂受経>も現存する。
浄土三部経の中でももっとも短いので、読誦用に広く用いられた。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、仏教の辞典では、簡単な概要しか分かりませんので、辞典では分からないところまで分かりやすく解説していきます。
『阿弥陀経』は、お釈迦さまが晩年に、祇園精舎という当時の代表的な寺院で説かれたお経です。
「一代結経」といわれる、釈迦一代説かれた仏教の、結びのお経、結論のお経です。
漢訳したのは鳩摩羅什で、異訳のお経に玄奘の翻訳した『称讃浄土経』もあります。源信僧都が天皇に講義してほうびをもらわれたのは、この『称讃浄土経』です。
ですが「浄土三部経」の1つとして浄土宗や浄土真宗でよく読まれるのは『阿弥陀経』です。
まず『阿弥陀経』の全文と書き下し文をあげて、その教えの要点を分かりやすく解説します。
『阿弥陀経』の内容が知りたい方は、全文と書き下し文は飛ばしてお読み頂ければと思います。
阿弥陀経の全文と読み方
以下が、阿弥陀経の全文です。
旧字体で書かれた『阿弥陀経』はどこにでもよくあるので、ここでは分かりやすいように、現在使われている漢字で表記してあります。
仏説阿弥陀経
如是我聞。 一時仏。 在舍衞国。 祇樹給孤獨園。 与大比丘衆。 千二百五十人倶皆是大阿羅漢。 衆所知識。 長老舎利弗。 摩訶目犍連。 摩訶迦葉。 摩訶迦旃延。 摩訶倶絺羅。 離婆多。 周利槃陀伽。 難陀。 阿難陀。 羅睺羅。 憍梵波提。 賓頭盧頗羅墮。 迦留陀夷。 摩訶劫賓那。 薄拘羅。 阿㝹楼駄。 如是等。 諸大弟子。 並諸菩薩。 摩訶薩。 文殊師利法王子。 阿逸多菩薩。 乾陀訶提菩薩。 常精進菩薩。 与如是等。 諸大菩薩。 及釈提桓因等。 無量諸天。 大衆倶。
爾時仏告。 長老舎利弗。 従是西方。 過十万億仏土。 有世界。 名曰極楽。 其土有仏。 号阿弥陀。 今現在説法。 舎利弗。 彼土何故。 名為極楽。 其国衆生。 無有衆苦。 但受諸楽。 故名極楽。
又舎利弗。 極楽国土。 七重欄楯。 七重羅網。 七重行樹。 皆是四宝。 周帀囲繞。 是故彼国。 名曰極楽。 又舎利弗。 極楽国土。 有七宝池。 八功徳水。 充満其中。 池底純以。 金沙布地。 四辺階道。 金銀瑠璃。 玻瓈合成。 上有楼閣。 亦以金銀瑠璃。 玻瓈硨磲。 赤珠碼碯。 而厳飾之。 池中蓮華。 大如車輪。 青色青光。 黄色黄光。 赤色赤光。 白色白光。 微妙香潔。 舎利弗。 極楽国土。 成就如是。 功徳荘厳。
又舎利弗。 彼仏国土。 常作天楽。 黄金為地。 昼夜六時。 而雨曼陀羅華。 其国衆生。 常以清旦。 各以衣裓。 盛衆妙華。 供養他方。 十万億仏。 即以食時。 還到本国。 飯食経行。 舎利弗。 極楽国土。 成就如是。 功徳荘厳。
復次舎利弗。 彼国常有。 種種奇妙。 雑色之鳥。 白鵠孔雀。 鸚鵡舍利。 迦陵頻伽。 共命之鳥。 是諸衆鳥。 昼夜六時。 出和雅音。 其音演暢。 五根五力。 七菩提分。 八聖道分。 如是等法。 其土衆生。 聞是音已。 皆悉念仏。 念法念僧。 舎利弗。 汝勿謂此鳥。 実是罪報所生。 所以者何。 彼仏国土。 無三悪趣。 舎利弗。 其仏国土。 尚無三悪道之名。 何況有実。 是諸衆鳥。 皆是阿弥陀仏。 欲令法音宣流。 変化所作。 舎利弗。 彼仏国土。 微風吹動。 諸宝行樹。 及宝羅網。 出微妙音。 譬如百千種楽。 同時倶作。 聞是音者。 皆自然生。 念仏念法。 念僧之心。 舎利弗。 其仏国土。 成就如是。 功徳荘厳。
舎利弗。 於汝意云何。 彼仏何故。 号阿弥陀。 舎利弗。 彼仏光明無量。 照十方国。 無所障碍。 是故号為阿弥陀。 又舎利弗。 彼仏寿命。 及其人民。 無量無辺。 阿僧祇劫。 故名阿弥陀。 舎利弗。 阿弥陀仏。 成仏已来。 於今十劫。 又舎利弗。 彼仏有無量無辺。 声聞弟子。 皆阿羅漢。 非是算数。 之所能知。 諸菩薩衆。 亦復如是。 舎利弗。 彼仏国土。 成就如是。 功徳荘厳。
又舎利弗。 極楽国土。 衆生生者。 皆是阿鞞跋致。 其中多有。 一生補処。 其数甚多。 非是算数。 所能知之。 但可以無量無辺。 阿僧祇劫説。 舎利弗。 衆生聞者。 応当発願。 願生彼国。 所以者何。 得与如是。 諸上善人。 倶会一処。 舎利弗。 不可以少善根。 福徳因縁。 得生彼国。
舎利弗。 若有善男子。 善女人。 聞説阿弥陀仏。 執持名号。 若一日。 若二日。 若三日。 若四日。 若五日。 若六日。 若七日。 一心不乱。 其人臨命終時。 阿弥陀仏。 与諸聖衆。 現在其前。 是人終時。 心不顛倒。 即得往生。 阿弥陀仏。 極楽国土。 舎利弗。 我見是利。 故説此言。 若有衆生。 聞是説者。 応当発願。 生彼国土。
舎利弗。 如我今者。 讃歎阿弥陀仏。 不可思議功徳。 東方亦有。 阿閦鞞仏。 須弥相仏。 大須弥仏。 須弥光仏。 妙音仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 南方世界。 有日月燈仏。 名聞光仏。 大焰肩仏。 須弥燈仏。 無量精進仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 西方世界。 有無量寿仏。 無量相仏。 無量幢仏。 大光仏。 大明仏。 宝相仏。 浄光仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 北方世界。 有焰肩仏。 最勝音仏。 難沮仏。 日生仏。 網明仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 下方世界。 有師子仏。 名聞仏。 名光仏。 達摩仏。 法幡仏。 持法仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 上方世界。 有梵音仏。 宿王仏。 香上仏。 香光仏。 大焰肩仏。 雑色宝華厳身仏。 娑羅樹王仏。 宝華徳仏。 見一切義仏。 如須弥山仏。 如是等。 恒河沙数諸仏。 各於其国。 出広長舌相。 遍覆三千大千世界。 説誠実言。 汝等衆生。 当信是称讃。 不可思議功徳。 一切諸仏。 所護念経。
舎利弗。 於汝意云何。 何故名為。 一切諸仏。 所護念経。 舎利弗。 若有善男子。 善女人。 聞是諸仏所説名。 及経名者。 是諸善男子。 善女人。 皆為一切諸仏。 共所護念。 皆得不退転。 於阿耨多羅。 三藐三菩提。 是故舎利弗。 汝等皆当。 信受我語。 及諸仏所説。 舎利弗。 若有人。 已発願。 今発願。 当発願。 欲生阿弥陀仏国者。 是諸人等。 皆得不退転。 於阿耨多羅。 三藐三菩提。 於彼国土。 若已生。 若今生。 若当生。 是故舎利弗。 諸善男子。 善女人。 若有信者。 応当発願。 生彼国土。
舎利弗。 如我今者。 称讃諸仏。 不可思議功徳。 彼諸仏等。 亦称説我。 不可思議功徳。 而作是言。 釈迦牟尼仏。 能為甚難。 希有之事。 能於娑婆国土。 五濁悪世。 劫濁。 見濁。 煩悩濁。 衆生濁。 命濁中。 得阿耨多羅。 三藐三菩提。 為諸衆生。 説是一切世間。 難信之法。 舎利弗。 当知我於。 五濁悪世。 行此難事。 得阿耨多羅。 三藐三菩提。 為一切世間。 説此難信之法。 是為甚難。 仏説此経已。 舎利弗。 及諸比丘一切世間。 天人阿修羅等
。 聞仏所説。 歓喜信受。 作礼而去。
仏説阿弥陀経
これが『阿弥陀経』の全文です。
これは漢文ですので、書き下すとどうなるのでしょうか。
阿弥陀経の書き下し文
次に、以下が『阿弥陀経』の書き下し文です。
これも分かりやすいように、現在使われている漢字の表記になっています。
仏説阿弥陀経
是の如く、我聞く。
一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。
皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せられたり。
長老舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶倶絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿㝹楼駄、是の如き等の諸の大弟子。並に諸の菩薩摩訶薩あり、文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩、是の如き等の諸の大菩薩、及び釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき。
爾時、仏、長老舎利弗に告げたまわく、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。
其の土に仏有す、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう。
舎利弗、彼の土を何が故ぞ名けて極楽と為す。其の国の衆生は衆の苦有ること無く但諸の楽のみを受く、故に極楽と名く。
又舎利弗、極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。
皆是れ四宝をもって周匝し囲繞せり。
是の故に彼の国を名けて極楽という。
又舎利弗、極楽国土には七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、池の底には純ら金沙を以て地に布けり。
四辺に階道あり。金・銀・瑠璃・玻璃をもって合成せり。
上に楼閣有り。亦金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・碼碯を以て而も之を厳飾せり。
池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し。青き色には青き光あり、黄なる色には黄なる光あり、赤き色には赤き光あり、白き色には白き光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり。
又舎利弗、彼の仏の国土には、常に天楽を作す。
黄金を地と為す。
昼夜六時に曼陀羅華を雨らす。
其の国の衆生、常に清旦を以て、各衣裓を以て衆の妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養し、即ち食時を以て本国に還り到り、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり。
復次に舎利弗、彼の国には常に種々の奇妙なる雑色の鳥有り。
白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。
是の諸衆の鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。其の音五根・五力・七菩提分・八聖道分、是の如き等の法を演暢す。
其の土の衆生、此の音を聞き已りて皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず。
舎利弗、汝此の鳥は実に是れ罪報の所生なりと謂うこと勿れ。
所以は何ん、彼の仏の国土には三悪趣無ければなり。
舎利弗、其の仏の国土には、尚三悪道の名無し。何に況んや実有らんや。
是の諸の鳥は皆是れ阿弥陀仏の法音を宣流せしめんと欲したまう変化の所作なり。
舎利弗、彼の仏の国土には微風吹動し、諸の宝行樹及び宝羅網微妙の音を出す。
譬えば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。
是の音を聞く者は皆自然に念仏・念法・念僧の心を生ず。
舎利弗、其の仏の国土には是の如きの功徳荘厳を成就せり。
舎利弗、汝が意に於て云何。彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。
舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障碍する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す。
又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く。
舎利弗、阿弥陀仏成仏已来、今に十劫なり。
又舎利弗、彼の仏に無量無辺の声聞の弟子有り、皆阿羅漢なり。
是れ算数の能く知る所に非ず、諸の菩薩衆も、亦復是の如し。
舎利弗、彼の仏の国土には、是の如きの功徳荘厳を成就せり。
又舎利弗、極楽国土に衆生生るる者は皆是れ阿鞞跋致なり。
其の中に多く一生補処有り。其の数甚だ多し、是れ算数の能く知る所に非ず、但無量無辺阿僧祇劫を以て説く可し。
舎利弗、衆生聞かん者は応当に発願し彼の国に生れんと願うべし。
所以は何ん、是の如きの諸の上善人と倶に一処に会うことを得ればなり。
舎利弗、少善根福徳の因縁を以ては彼の国に生るることを得可からず。
舎利弗、若し善男子・善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、若は一日・若は二日・若は三日・若は四日・若は五日・若は六日・若は七日、一心不乱ならん。
其の人命終る時に臨みて、阿弥陀仏諸の聖衆と與に其の前に現在したまう。
是の人命終る時、心顛倒せず。
即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
舎利弗、我是の利を見るが故に此の言を説く。
若し衆生有りて是の説を聞かん者は応当に発願して彼の国土に生るべし。
舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、東方にも亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、南方世界にも日月燈仏、名聞光仏、大焔肩仏、須弥燈仏、無量精進仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、西方世界にも無量寿仏、無量相仏、無量幢仏、大光仏、大明仏、宝相仏、浄光仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、北方世界にも焔肩仏、最勝音仏、難沮仏、日生仏、網明仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、下方世界にも師子仏、名聞仏、名光仏、達摩仏、法幢仏、持法仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、上方世界にも梵音仏、宿王仏、香上仏、香光仏、大焔肩仏、雑色宝華厳身仏、娑羅樹王仏、宝華徳仏、見一切義仏、如須弥山仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
舎利弗、汝が意に於て云何、何が故ぞ名けて一切諸仏所護念経と為す。舎利弗、若し善男子・善女人有りて、是の諸仏の所説の名及び経の名を聞かん者は、是の諸の善男子・善女人、皆一切諸仏と共に護念する所と為り、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。是の故に、舎利弗、汝等皆当に我が語及び諸仏の説きたまう所を信受すべし。
舎利弗、若し人有りて已に発願し、今発願し、当に発願して阿弥陀仏国に生れんと欲はん者は、是の諸の人等、皆阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、彼の国土に於て、若は已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん。
是の故に舎利弗、諸の善男子・善女人、若し信ずること有らん者は、応に発願して、彼の国土に生るべし。
舎利弗、我今諸仏の不可思議功徳を称讃するが如く、彼の諸仏等も、亦我が不可思議功徳を称説して、是の言を作さく、釈迦牟尼仏、能く甚難希有の事を為し、能く娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、是の一切世間難信の法を説くと。
舎利弗、当に知るべし、我五濁悪世に於て此の難事を行じ阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間の為に、此の難信の法を説く、是れ、甚だ難しと為す。
仏此の経を説き已りたもうに、舎利弗及び諸の比丘、一切世間の天人・阿修羅等、仏の説きたまう所を聞き歓喜信受し礼を作して去りにき。
仏説阿弥陀経
これが書き下し文です。
では、『阿弥陀経』にはどんなことが教えられているのでしょうか。
阿弥陀経の2つの特徴
『阿弥陀経』には、2つの特徴があります。
1つ目は、お釈迦さまから話を始められたこと、
2つ目は、お釈迦さまから話しかけられたお弟子の舎利弗が、1度も返事ができないことです。
1.お釈迦さまから話を始められた
1つ目の、お釈迦さまから話を始められたというのは、「無問自説」といわれます。
大部分のお経は、誰かに尋ねられて教えを説かれるのですが、『阿弥陀経』は誰も尋ねていないのに、お釈迦さまのほうから説き始められたのです。
私たちも気分がいい時に、問わず語りにしゃべり出すことがあります。
それはどんなことかというと、言いたくて言いたくて仕方がないことを、
「ねえねえ、聞いて聞いて」と話し始めるのです。
お釈迦さまは、この時、お釈迦さまが地球上にお生まれになられた目的である内容を説こうとされていたので、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのです。
それで誰からも質問されないのに、お釈迦さまが自ら説き始められたのです。
2.智慧第一の舎利弗も言葉を失う
『阿弥陀経』の2つ目の特徴は、舎利弗がお釈迦さまから36回も呼ばれるのですが、1度も返事をしないことです。
普通、仏弟子であれば、師匠であるお釈迦さまから話しかけられて、無視することはできません。
しかも舎利弗といえば、釈迦十大弟子の一人に数えられるすぐれたお弟子です。
返事をしないことは考えられないことです。
ではなぜ舎利弗ともあろう方が返事をされないのかというと、もちろん無視されたわけではありません。
お釈迦さまの説かれたことが、あまりにも驚くべきことであったために、あっけにとられて言葉を発することができなかったのです。
しかも舎利弗は智慧第一といわれ、お弟子の中でも最も智慧のすぐれたお弟子です。
その舎利弗でさえびっくりして返事ができないほど、想像も及ばないことをお釈迦さまは説かれたのです。
お釈迦さまが喜びに満ちて説かれ、最も智慧のすぐれたお弟子でも言葉を失う内容とはどんなことなのでしょうか?
それを知るために、まず仏教の宇宙観を見ておきましょう。
仏教の宇宙観
昔のインドの人たちの考え方では、宇宙は神が創造したものでした。
最も発展した高度な考え方でも、宇宙は巨大な卵の殻の形で七層からなっています。
一番下が、私たちの住む地界で、その上の空中から太陽の軌道までが空界、その上の星の軌道が天界、その上に4つの世界があり、神々が住んでいるというものでした。
ところが、2600年前にお釈迦さまが仏のさとりを開かれて説かれた『阿弥陀経』には、「三千大千世界」という言葉が繰り返し出てきます。
仏教では、地球のような世界は、仏教では「須弥世界」といいます。
そんな須弥世界が千個集まっている世界を「小千世界」といいます。
小千世界が千個集まっている世界を「中千世界」といいます。
中千世界が千個集まっている世界を「大千世界」といいます。
この大千世界のことを、小千世界、中千世界、大千世界という3つの千世界からできているので、「三千大千世界」というのです。
略して三千世界ともいいます。
ですから、三千大千世界は、大千世界が三千個あるのではなく、千の三乗で、十億の須弥世界からできています。
ちなみに千といってもそれは無数ということなので、実は計算してもあまり意味がありません。
それが十方にあるので、仏教では大宇宙のことを「十方世界」といいます。
「十方」とは、東西南北上下の「六方」に、北東、北西、南東、南西の四方を加えた十の方角です。
その十方に、地球のようなものが、空中の塵のように数限りもなく浮遊しているので、「十方微塵世界」ともいいます。
現代の宇宙物理学では、太陽の周りを惑星が回る太陽系宇宙があります。
そんな惑星系が、私たちのいる天の川銀河では千億個集まって、銀河系を作っています。
その銀河系が、数百個から一万個集まって銀河団を形成しています。
その銀河団がたくさん集まって、超銀河団を形成しています。
その超銀河団がたくさん集まったのが大宇宙です。
仏教の宇宙観と現代の宇宙物理学を比較するとこうなります。
- 「須弥世界」……惑星
- 「小千世界」……銀河系
- 「中千世界」……銀河団
- 「大千世界」……超銀河団
- 「十方世界」……大宇宙
少し前までは西洋でも、平らな地球の周りを太陽が回っているという考え方が主流で、17世紀にガリレオ・ガリレイが太陽の周りを地球が回っているという地動説を主張したときも、裁判で弾圧されました。
ところが仏教では、それより2000年以上前から、現代の宇宙物理学に近い宇宙観が説かれていたのです。
しかも『スッタニパータ』では、ある人がお釈迦さまにこのように話しかけています。
四方(東西南北)、四維(四方の中間)、上に、下に――これら、十方〔世界〕で、あなたにとって、見られないもの、あるいは、聞かれ思われないものはなく、さらには、世において、識られないものは、何ものも存在しないのです。
(引用:『スッタニパータ』1122)
これは、「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないなにものもありません」ということです。
東西南北上下四維の十方世界に、仏のさとりを開かれたお釈迦さまが知られないことは何もありませんので、仏教には現代物理学でもいまだ分からないことも教えられています。
それというのも、仏のさとりを開くと、「仏仏相念」といって、仏のさとりを開いた仏さま同士、心が通じ合うようになります。
地球上では、仏のさとりを開かれた方は、お釈迦さまただ一人です。
その仏のさとりを開かれたお釈迦さまが、仏仏相念の仏の智慧によって、十方世界には、仏のさとりを開かれた方が数え切れないほどおられることを発見され、それを説かれているのです。
その大宇宙の仏方を「十方諸仏」といいます。
その仏方がどんなことを説かれているのかが『阿弥陀経』に説かれているのです。
このようなとてつもないスケールの話は、現代人でも驚きますので、智慧第一の舎利弗が言葉を失ったのも、無理のないことでしょう。
『阿弥陀経』には、十方諸仏の王である阿弥陀如来について詳しく説かれているのです。
極楽世界のすばらしさ
極楽浄土はどこにあるのかというと、『阿弥陀経』にはこう説かれています。
ここより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽という。
その土に仏まします、阿弥陀と号す、いま現に在して説法したまう。
(漢文:從是西方 過十萬億佛土 有世界 名曰極樂 其土有佛 號阿彌陀 今現在説法)(引用:『阿弥陀経』)
極楽浄土は西のほうにあると教えられています。
ところが、先ほどの現代にも通ずる宇宙観からすれば、
日本でいう西と、地球の反対側にあるイギリスでいう西は逆方向になります。
西というのはどういうことでしょうか?
ここでいわれる「西」というのは、太陽の沈む方角です。
西というのは終帰ということで、最後はここに来なければ助からないことを表しています。
西のほうへ数え切れないほどの仏の世界を過ぎて行くと、極楽という世界があり、阿弥陀如来という仏さまが、今も説法していると説かれています。
そしてまず極楽浄土の様子とそこに住む人々の楽しい生活を教えられています。
蓮の花の意味
よく、本当の生きる意味は万人共通唯一で、本当の生きる意味がハッキリすれば、平等の変わらない幸せに生かされると聞くと、
「そうしたら画一的なまったく同じ人間になってしまうんですか?」
と疑問を持つ人があります。
ところが、極楽浄土の池の中には、蓮の花が咲いています。
その蓮華についてこう説かれています。
池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し。
青き色には青き光あり、
黄なる色には黄なる光あり、
赤き色には赤き光あり、
白き色には白き光ありて、微妙香潔なり。
(漢文:池中蓮花 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔)(引用:『阿弥陀経』)
極楽浄土の宝の池に咲く蓮の花は、車輪のような大きな花で、色は一色ではありません。
青、黄、赤、白など色々な蓮の花が咲いています。
蓮の花に色々な色があるように、人間の性格や趣味、生きがいは人それぞれ色々あります。
しかも、極楽浄土の蓮の花にも色々あるということは、
本当の幸せになっても、性格や趣味、生きがいは変わりません。
それまでの好き嫌いも変わりません。
青色だった人は青色、黄色だった人は黄色、赤色だった人は赤色、白色だった人は白色、人それぞれです。
では本当の幸せになったらどう変わるのかというと、それらの色がそのまま光り輝く、ということです。
それまでの性格や趣味、生きがいなどを生かして、心から人生を楽しめる大活躍が始まるのです。
ちなみにこちらも現代と比較すれば、青と黄と赤は今で言う「色の三原色」です。
信号にも利用されています。
それらの3つの色に白を加えて、あらゆる色が作り出せます。
お釈迦さまが他ならぬこれらの色を説かれたということは、
すでに2600年前に、あらゆる色が生み出せる三原色が分かっておられたことになります。
どんな趣味や生き甲斐をもった人でも、あらゆるタイプの人が、そのまま本当の幸せになることができる、ということです。
鳥がいる意味
極楽浄土は、六道輪廻を離れた世界です。
動物は畜生界の生命ですから、極楽浄土には犬や猫、虫けらなどはいません。
ところが、鳥がいると説かれています。
かの国には常に種々の奇妙なる雑色の鳥あり。
白鵠・孔雀・鸚鵡・舍利・迦陵頻伽・共命 の鳥なり。
(漢文:彼國常有種種奇妙雜色之鳥 白鵠 孔雀 鸚鵡 舍利 迦陵頻伽 共命之鳥)(引用:『阿弥陀経』)
白鵠とは鶴、
孔雀と鸚鵡、
舍利
は水鳥です。
迦陵頻伽は人の顔を持ち、声が非常に美しい鳥です。
美しい芸者は迦陵頻伽に例えられます。
共命
は首が二つある鳥、つまり東ローマ帝国の紋章の双頭の鷲みたいな鳥です。
このように、極楽浄土には様々な妙なる鳥がいると説かれているのですが、なぜ極楽浄土に畜生界の衆生がいるのかというと、お釈迦さまは、この鳥たちは因果の道理にしたがって、罪悪の報いを受けて鳥になっている者たちではなく、仏法を説こうとされる阿弥陀仏の化身だと教えられています。
舎利弗、汝この鳥は実にこれ罪報の所生なりということなかれ。
(中略)
この諸の鳥は皆これ阿弥陀仏の法音を宣流せしめんと欲したまう変化の所作なり。
(漢文:舍利弗汝勿謂此鳥實是罪報所生(中略)衆鳥皆是阿彌陀佛欲令法音宣流變化所作)(引用:『阿弥陀経』)
さらにもう一つ質問すると、鳥たちのさえずりによって仏教の教えが説かれているということですが、他にも声の出せる生き物はいるのに、なぜ鳥なのでしょうか?
それはよくは分かりませんが、鳥は飛びながらでもフンをします。
ためたり我慢したりすることなく、いつでもその場で出して行くのです。
それと同じように、仏教を聞いて、疑問が起きたら、それをためずにその場で口に出して、疑問を解消したほうが、仏教の理解が深まって、早く浄土へ往ける身になるのではないかという人があります。
本当かどうか定かではありませんが、仏教は因果の道理を根幹として、論理的に説かれているので、教えの内容を論理的に理解することができます。
もし分からないことがあっても、分かったふりをするのではなく、口に出した言ったほうが、間違いがあれば正されるので、結果的によくなります。
「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」ともいわれます。
仏教の教えの理解が間違っていて、本当の幸せになれなかったら大変ですので、分からないことは尋ねるようにしましょう。
それにしても、動物が畜生界の衆生だったとしても、極楽浄土に動物がいるよりはるかに不思議なことは、悪ばかり造って地獄しか行き場のない人が、極楽浄土に生まれられることです。
それがどうしてかは次に、どうすれば極悪人が浄土へ生まれられるかは、その次に教えられています。
どんな人も極楽へ往ける理由(阿弥陀仏のお名前の2つの由来)
極楽浄土のすばらしいありさまを説かれたお釈迦さまは、
次にこ舎利弗にう尋ねられます。
舎利弗、汝が意に於て云何。彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。
(漢文:舍利弗 於汝意云何 彼佛何故號阿彌陀)(引用:『阿弥陀経』)
これは「舎利弗よ、阿弥陀仏はなぜ阿弥陀仏というお名前なのか、分かるか?」
と、阿弥陀仏の名前の由来を尋ねられているのです。
舎利弗は、答えられません。
そこでお釈迦さまは、2つの理由を挙げられます。
限りないお力(光明無量)
1つ目はこう言われています。
舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに障碍する所無し、この故に号して阿弥陀と為す。
(漢文:舍利弗 彼佛光明無量 照十方國 無所障礙 是故號爲阿彌陀)(引用:『阿弥陀経』)
阿弥陀如来の光明は限りがなく、十方世界を照らすのに妨げるものがない。
大宇宙をくまなく照らしている。だから阿弥陀仏というのだ、ということです。
「阿弥陀」とは、限りがない、無限という意味ですが、阿弥陀仏は光明に限りがない「光明無量」の仏だから、阿弥陀仏といわれるのだ、とお釈迦さまは教えられています。
「光明」というのは、仏様のお力のことです。
阿弥陀仏のことを無量寿仏ともいいますが、大宇宙の諸仏が足下にも及ばないずば抜けたお力がありますので、お釈迦さまは『大無量寿経』にこう説かれています。
無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり。
(漢文:無量壽佛 威神光明 最尊第一 諸佛光明 所不能及)(引用:『大無量寿経』)
「威神光明」とはすばらしいお力ということです。
阿弥陀仏には、大宇宙のすべての仏が総がかりになっても及ばない、限りないお力があるのです。
具体的には、諸仏の光明では、私たちの煩悩が妨げとなって、救うことができません。
ところが、阿弥陀如来の光明は「障碍する所なし」ですから、煩悩に妨げられることなく、すべての人を救うことができるのです。
私たちは、どんなに科学が進歩しても、経済が発展してお金があっても、心からの幸せになれずに有無同然で苦しんでいます。
どんなに欲しいものを手に入れても、やりたいことをやっても、心からの安心も満足もありません。
それはなぜかというと、死んだらどうなるか分からない心の闇があるからです。
その私たちの限りない心の闇を破れるのは、阿弥陀仏だけです。
阿弥陀仏の無量の光明だけが、私たちの心の闇を破り、絶対変わらない、絶対の幸福にする力があるのです。
限りない命(寿命無量)
2つ目にお釈迦さまは、こう言われています。
また舎利弗、彼の仏の寿命及びその人民も無量無辺阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と名く。
(漢文:舍利弗彼佛壽命及其人民無量無邊阿僧祇劫故名阿彌陀)(引用:『阿弥陀経』)
阿弥陀仏とその浄土の人々の寿命には限りがない、だから阿弥陀仏というのだ、ということです。
阿弥陀仏は寿命にも限りがない「寿命無量」の仏だから、阿弥陀仏といわれるのだ、とお釈迦さまは教えられているのです。
生まれ変わり死に変わり、限りなく迷いの旅を続けている私たちに、永遠の命を与えるには、命に限りのある仏さまではできません。
もちろん大宇宙の仏方は、みんな限りない命はお持ちなのですが、
「彼の仏の寿命及びその人民も」と教えられているように、他の人にも限りない命を与えることができるのは阿弥陀仏だけです。
私たちを未来永遠の幸せにする力があるのは、永遠の命を与えることのできる阿弥陀仏だけなのです。
では、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くにはどうすればいいのでしょうか?
極楽浄土へ往く方法
実際に極楽浄土へ往くにはどうすればいいか、『阿弥陀経』にはこのように明確に説かれています。
ここが『阿弥陀経』の肝心要です。
阿弥陀仏を説くを聞いて、名号を執持すること、若は一日・若は二日・若は三日・若は四日・若は五日・若は六日・若は七日、一心不乱ならん。
その人命終る時に臨みて、阿弥陀仏諸の聖衆と與に其の前に現在したまう。
この人命終る時、心顛倒せず。
即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。(引用:『阿弥陀経』)
ここの意味は、浄土宗と浄土真宗で違いがありますが、まず共通しているのは「 名号」とは、南無阿弥陀仏のことです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が十方世界のすべての人を救うというお約束を果たすために、全身全霊をかけて作られたものです。
ですから名号には、阿弥陀仏の光明無量の智慧と、寿命無量の慈悲が全部おさまっている、大宇宙の宝です。
「もしは一日、乃至もしは七日」とは、7日間のことではなく、死ぬまでです。
これも、浄土宗でも浄土真宗でも共通です。
では、浄土宗と浄土真宗でどこが違うかというと、浄土宗では「名号を執持する」ことを称名念仏と考えて、南無阿弥陀仏を死ぬまで一心不乱に、心を乱さず称えると、臨終に阿弥陀仏がお迎えに来てくだされて、極楽浄土へ連れて往ってくだされると理解しています。
しかし、それには1日7万回から8万回の念仏を称える必要があります。
もしそれだけできたとしても、臨終まで阿弥陀仏がお迎えに来て下されるか分からず、心を乱さない一心不乱というのも大変なことですから、死ぬまで不安はなくなりません。
ところが浄土真宗では「名号を執持する」というのは、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いて、名号と一体になったことを「執持名号」といいます。
散乱粗動の心のおさまらない私たちに、心を乱すなと仏様がおっしゃるわけはありません。
だからこの一心は、変わらない心を阿弥陀仏がくだされる、ということです。
この名号を頂いた信心が他力の信心です。
すると「その人命終る時に臨みて」の命は、迷いの命です。
果てしない過去から私たちを苦しめ続けてきた心の闇のことです。
名号には、光明無量の働きがありますから、頂いた瞬間、心の闇が破れます。
その時、いつ死んでも極楽へ往ける正定聚に入り、「即得往生」の絶対の幸福の身になるのです。
生きているその時から阿弥陀仏と大宇宙の数限りもない諸仏から常に守られるようになりますから、肉体の臨終は関係がなくなります。
この『阿弥陀経』の最も重要なところについて、浄土宗と浄土真宗の違いを表にするとこうなります。
阿弥陀経 | 浄土宗 | 浄土真宗 |
---|---|---|
執持名号 | 名号を称える | 名号を頂く |
一心不乱 | 心を乱さず一つにして | 他力の信心 |
命終 | 肉体が死ぬ | 迷いの心が死ぬ |
浄土宗と浄土真宗で、どうしてこんな違いが起きてしまうのかは、
以下の記事に詳しく解説しましたのでご覧ください。
➾浄土宗と浄土真宗の教え3つの大きな違い
これは浄土宗の解釈が間違いというわけではなく、どちらも本当です。
とはいえ、死ぬまで毎日何万回も心を乱さず念仏を称えたら、臨終に阿弥陀如来が迎えに来てくれるかもしれない、というよりも、生きている今、名号を頂いて、今から阿弥陀如来に常に護られる身になったほうがいいですから、生きているときに名号を頂くことが重要なのです。
このあたりは、さらに詳しく以下のビデオでお話ししています。
ところが、こう言われると私たちは「本当ですか?」と疑いますので、次に前代未聞、史上空前の保証人がついています。
前代未聞の保証人
この極楽往きの切符が有効であることの、とてつもない保証人がこの方々です。
舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、東方にも亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏、是の如き等の恒河沙数の諸仏有して、各其の国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、汝等衆生、当に是の称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべしと。
(引用:『阿弥陀経』)
ここも『阿弥陀経』の要です。
「舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く」とは、今この釈迦が「阿弥陀仏の不可思議功徳」をほめたたえたように、ということです。
「阿弥陀仏の不可思議功徳」とは名号のことです。
お釈迦さまと同じように、大宇宙のすべての諸仏が、南無阿弥陀仏をほめたたえ、受け取りなさいと教えられています。
「東方にも亦、阿閦鞞仏、須弥相仏、大須弥仏、須弥光仏、妙音仏」とは、十方世界の中でも、東のほうの、
「阿閦鞞仏」
「須弥相仏」
「大須弥仏」
「須弥光仏」
「妙音仏」
という代表的な仏さまをあげておられます。
「かくの如き等の恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国に於て、広長の舌相を出して遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまう、『汝等衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と」とは、このようなガンジス河の砂の数ほどの数限りもない仏さまが、それぞれ自分の国で、大雄弁をもって、「そなた方よ、まさにこの『阿弥陀経』を信じなさい」とまことの言葉を説かれている、ということです。
大宇宙の数え切れない仏さまが、東のほう以外にも、南のほう、西のほう、北のほう、下のほう、上のほうと、六方について以下同文で説かれています。
「六方」とは、東西南北上下の6つの方角で、十方と同じ意味です。
『阿弥陀経』の異訳の『称讃浄土経』では十方ですが、『阿弥陀経』では十方を六方で表されているのです。
その大宇宙のあらゆる方角に、それぞれガンジス河の砂の数ほどの仏様がおられます。
ガンジス河といえば、世界的な大河です。
日本で一番広い利根川に対して、ガンジス河は長さで8倍、流域面積で64倍あります。
そのガンジス河の砂の数ですから、数え切れないほどの仏さまです。
そのすべての仏方が異口同音に、名号の功徳をほめたたえ、受け取りなさいと勧められているのです。
これを異訳の『称讃浄土経』には、こう説かれています。
百千倶胝那由他多劫をへて、それ無量百千倶胝那由多の舌をもって、
一々の舌の上に無量の声を出だして、その功徳を讃めるにまた尽くること能わじと。
(漢文:經於百千倶胝那庾多劫 以其無量百千倶胝那庾多舌 一一舌上 出無量聲 讃其功徳 亦不能盡)(引用:『称讃浄土経』)
「倶胝」とは、数の単位で、億のことです。
「那由他
」とは、極めて大きい数の単位です。
数の単位は、こうなっています。
一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・𥝱・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量大数
ですから数の単位の、大きいほうから3番目が那由他です。
「百千倶胝那由多」となると、百×千×億×那由多ということで、この単位で計算すると、100×1000×100000000×10の60乗ですから、10の73乗です。
「
劫」は、4億3200万年です。
「百千倶胝那由他多劫」という果てしない遠い過去から、数え切れないたくさんの仏方が、数え切れないたくさんの舌のそれぞれから、限りない大きな声を出され、
「名号の功徳はすごいぞ、すごいぞ、すごいぞ、すごいぞ……受け取れよ、受け取れよ、受け取れよ、受け取れよ……」
と顔中口にして叫び続けても、未だに叫び尽くせないのです。
このように、お釈迦さまを含む大宇宙のすべての仏が保証人となって、諸仏の王である阿弥陀仏のお約束された名号を受け取る以外に、本当の幸せになる道はないのだと真実の説法をされ、阿弥陀仏のお約束を保証されているのが『阿弥陀経』なのです。
ところがこれは『阿弥陀経』には「難信の法」、
『称讃浄土経』には「極難信の法」と教えられています。
一体どうすれば、名号を受け取って、絶対の幸福になれるのでしょうか。
それについては仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍に分かりやすくまとめておきました。
今すぐ読んでみてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)