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大乗起信論とは

大乗起信論だいじょうきしんろん』は、馬鳴めみょう菩薩の作と伝えられる、大乗仏教の教えを簡潔にまとめた論書です。
華厳宗禅宗真言宗などに大きな影響を与えました。
念仏も勧められていることから、浄土教でも尊ばれます。
一体どんなことが教えられているのでしょうか?
全文の原文と書き下し文、現代語訳も含め、
以下の目次のようなことが分かります。

目次
  1. 大乗起信論とは
  2. 大乗起信論の教え
    1. 大乗とは
    2. 衆生心とは
    3. 離言真如と依言真如
    4. 根本無明・迷いの元
    5. 枝末無明・迷いのプロセス
    6. 覚りへ導く真如の働き
    7. 仏までの道のり
    8. 不退の信を得る方法
  3. 原文・書き下し文・現代語訳
    1. 発起序
    2. 因縁分(8つの目的)
      1. 対象読者
    3. 立義分(一心・二門・三大)
    4. 解釈分
      1. 心真如門
        1. 離言真如
        2. 依言真如
          1. 不空
      2. 心生滅門
          1. 始覚
          2. 本覚の2つの相
          3. 覚の体と相
        1. 不覚
          1. 根本不覚(根本無明)
          2. 枝末不覚(枝末無明)三細六麁
        2. 覚と不覚の同相と異相
        3. 生滅の因縁
            1. 三界唯心
          1. 意識
            1. 凡夫には分からない
            2. 忽然念起と六染(枝末無明をなくす)
            3. 根本無明をなくす
        4. 生滅の相
        5. 薫習
          1. 4つの要素と薫習の意味
          2. 染法薫習(妄境界・妄心・無明)
          3. 浄法薫習
            1. 妄心薫習
            2. 真如薫習1自体相薫習
            3. 真如薫習2用薫習
            4. 真如薫習3体と用の未相応已相応
            5. 染と浄は尽きるかどうか
      3. 体大と相大
        1. Q&A
      4. 用大
        1. 応身と報身
        2. 凡夫は応身、菩薩は報身を見る
      5. 生滅門から真如門へ<
      6. 邪執を正す
        1. 人我見1虚空を如来性と思う
        2. 人我見2真如の体は空だと思う
        3. 人我見3如来蔵は生滅の法と同じだと思う
        4. 人我見4如来蔵に迷いの要素ありと思う
        5. 人我見5衆生の始まり涅槃の終わりありと思う
        6. 法我見・生死に実体ありと思う
        7. 究極まで執着を離れる
      7. 仏までの道のり
        1. 信成就発心
          1. 3つの心
          2. 4つの方便
          3. 発心の利益
        2. 解行発心
        3. 証発心
          1. 3つの心
          2. 功徳成満・Q&A
    5. 修行信心分(四信・五門・六字)
      1. 4つの信心
      2. 修行の五門
        1. 施門(布施)
        2. 戒門(持戒)
        3. 忍門(忍辱)
        4. 進門(精進)
        5. 止観門(禅定)
          1. 真如三昧の働き
          2. 善根力がない場合のリスク
          3. 世間の三昧のリスク
          4. 10種の利益
          5. 4つの観
          6. 止と観を一緒に行う
      3. 勝方便の念仏
    6. 勧修利益分
      1. 誹謗不信の報い
    7. 廻向頌
  4. 大乗起信論の結論
    1. 冒頭の宣言
    2. 現実的な制約
    3. 諸仏にあえて1万劫
  5. まとめ
  6. 関連記事

大乗起信論とは

大乗起信論』は、中国と日本の仏教に多大な影響を与えています。
浄土宗を開かれた法然上人は、「傍らに往生浄土を明かす論」であると主著『選択本願念仏集』に記されています。
近代でも、辛亥革命の指導者達が、精神的な支柱としています。
明治時代に東京大学で仏書講読が開講された時にも取り上げられ、現代でもよく学ばれています。
大乗仏教の教えが理路整然とまとめられているので、勉強になります。

大乗起信論』には、真諦しんだいの6世紀半ばの漢訳1巻と、
実叉難陀じっしゃなんだの7〜8世紀の漢訳2巻の2種類がありますが、
大乗起信論』といえば大体真諦の翻訳を指しています。
(この記事でも、真諦訳を取り扱います)
著者はどちらも馬鳴菩薩(アシュヴァゴーシャ)となっていますが、
インド語もチベット訳も出てこないので、インド撰述を疑っている学者がたくさんいます。
疑っている人たちは文体とかサンスクリット訳が復元できるかどうかとかを研究していますが、
そんなことではどうやっても決定的な証明はできません。
文体も容易に真似できるし、意訳もできます。
唯一決着がつくのは、そのうちサンスクリットの『大乗起信論』が出てくることだけでしょう。

与太話はさておき、
大乗起信論』にはどんなことが教えられているのでしょうか?

大乗起信論の教え

まず、原文などに入る前に、基礎知識として、『大乗起信論』の教えの概要をまとめておきます。

大乗起信論』は、「因縁分いんねんぶん」「立義分りゅうぎぶん」「解釈分げしゃくぶん」「修行信心分しゅぎょうしんじんぶん」「勧修利益分かんしゅりやくぶん」の5つの部分からなります。
これらが、何のために著されたかというと、一言でいえば、
すべての苦を離れ、究極の幸せになってもらいたい」ということです。
この論を著した理由は、最初の「因縁分」にこう説かれています。
衆生をして一切の苦を離れしめ、究竟の楽を得しめんが為なり
これは、人々にあらゆる苦しみを離れ、真の幸福になってもらいたい、ということです。

これが総合的な目的ですが、それを詳しく7つに分けて次に述べています。
まずは「二には如来根本の義を解釈し、諸の衆生をして正解不謬せしめんと欲せんが為の故に
これは、如来の説かれた法を、誤解せず正しく理解してもらいたい、ということです。
そのために、「因縁分いんねんぶん」の次の2番目の「立義分りゅうぎぶん」で「」とはどんなものかを分類し、
3番目の「解釈分げしゃくぶん」で解説しています。

次に、すべての人に、信心修行を実践して、色あせることも崩れることもない、不退の信になってもらいたいといいます。
そのことを次に、こう述べています。
三には善根成熟の衆生をして、摩訶衍まかえんの法に於て堪任の不退の信ならしめんが為の故に
四には善根微少の衆生をして信心を修習せしめんが為の故に
善根の成熟した人を真如に於て不退の信にならしめるのが目的ですが、
最初からをたくさんやっている人はいません。
まず、ばかりやっている者に悪を戒め、
善根が微少で宿善の薄い人に信心の修行を勧め、
善根を成熟させ、不退の信を起こさせるということです。

その信心の修行について、4番目の「修行信心分しゅぎょうしんじんぶん」に説かれています。
そこには主として止観を中心とする六波羅蜜ろくはらみつと、念仏が説かれています。
さらに信心の利益をのべて実践せよというのが、5番目の「勧修利益分かんしゅりやくぶん」です。

大乗起信論』の読者対象は、人類を4つに分けて想定しています。
1つには自分で経をたくさん聞いて理解する人
2つには経を少し聞いて理解する人
3つには自分で経を理解できないために、経を解説した詳しい論で理解する人
4つには詳しい論では煩わしいため、少ない文章で理解したいと思う人です。
そしてこの4通りの人の中で、4番目の最も劣った人が読者対象だと言っています。
このように『大乗起信論』は、人類でも最も劣った人に、
あらゆる苦しみを離れ、真の幸福になるために、
仏教を正しく理解して、不退の信を起こしてもらうための論書です。

大乗とは

大乗といえば、すべての人を仏のさとりへ運ぶ大きな乗り物のような教えのことです。
大乗起信論』では、その「大乗」に、法と義の2つがあるといいます。

1つには法、「衆生心」です。
その「衆生心」には「真如門」と「生滅門」の二門があります。

2つには義です。
義は「体大」と「相大」と「用大」の3つです。
仏教で「」は本体とか本質、「そう」はありさまとか現れ、「ゆう」は働きとか作用です。
それについて、
体大」とは真如、
相大」とは如来蔵、
用大」とは一切の善の因果を生ずるものです。

これを一心、二門、三大といわれます。
それが大乗です。

衆生心とは

大乗の法を「衆生心」と言っても、それは人の心ではありません。
本論では「この心の真如相は大乗の体を示す」とか
心真如とは即ち是れ一法界にして大総相法門の体」といって、
それは「一心」であるといいます。
そして「真如」と名づけます。
こんな人間の心はありません。
これは世界全体を遍く唯一絶対の心です。

そして「衆生心」は「法體は空じて妄なきを顯すが故に即ち是れ眞心にして常恒に不變淨法滿足なり」とも
淨法、名づけて眞如となす」ともいわれます。
汚れた染法の要素は全くなく、清らかな浄法です。

さらに「眞如の法、常に熏習する」といわれる作用を持ち、
常に迷いをなくそうと働きかけています。

またその真如について、こうも説かれています。

眞如の自の體と相とは、一切の凡夫、聲聞、縁覺、菩薩、諸佛、増減あることなし。
前際生ずるにあらず、後際滅するにあらず、畢竟常恒なり。
本より已來、性自ら一切の功徳を滿足す。
謂う所の自體、大智慧光明の義あるが故に。
遍照法界の義あるが故に。

これは、真如はすべての人にとって、また、声聞、縁覚、菩薩、諸仏にとっても増減はなく、生ずることも滅することもない常に変わらないものである。
すべての功徳に満ちている偉大な智慧の働きでもある。
世界に行き渡らないところはない、ということです。

ですから、人間にも「衆生心」は行き渡っていますが、
すべての人に行き渡る、変化することのない、無明をなくそうと働きかけているものです。
これは到底人間の心ではありません。
衆生心」は真如につけられた名称です。
また「衆生心」を「一心」とも「自性清浄心」とも「如来蔵」とも「如来法身」とも「」とも「本覚」とも「真如」ともいいます。
これらが出てきたら、すべて同様に人の心ではありません。
これらの中で最も誤解が少ない名称は「真如」かと思います。
衆生心とは真如のことです。

離言真如と依言真如

大乗起信論』で「真如」とは、大乗そのもの、教えの本質であり、
すべての功徳を満足し、世界のあらゆるものに行き渡り、
生きとし生けるものを如来へ導こうと働きかけるものです。

それは、言葉で表すことができず、認識にも乗りません。
その言葉や概念を離れたものを「離言真如」といわれます。
ですから、真如は「真如」と言葉にした時点で、本当の真如ではありません。
言葉で表せないものが本当の真如です。

ですが、それでは真如の境地へすべての人を導けないので、言葉を使って真如を表します。
それはであり、不空であると説かれます。
空というのは、一切の染法を離れた有と無の迷いを離れた非有非無の空だからです。
不空というのは、一切の浄法を満足した、永遠に不変の常住の真心だからです。
これを「依言真如」といわれます。
広い意味では、すべてのお経も、『大乗起信論』も、すべて依言真如ということになります。

根本無明・迷いの元

大乗起信論』では、根本不覚と枝末不覚が教えられています。
根本無明と枝末無明ともいいます。
根本無明というのは、迷いの根本です。

まず不生不滅の如来蔵(真如)と生滅とが和合した阿梨耶識ありやしきがあります。
阿梨耶識というのは、言葉としては阿頼耶識あらやしきと同じですが、
法相宗の唯識でいう阿頼耶識と少し概念が違うので、
阿梨耶識としておきます。

阿梨耶識は人間の心です。
この阿梨耶識は認識する心よりももっと深いもので、
あらゆるものをおさめ、あらゆるものを生じます。
この阿梨耶識に「」と「不覚」があります。

」とは迷いを離れた「法界一相」です。
如来の平等法身」と説かれるので、真如のことです。
これを「本覚」ともいいます。
ですが当然ながら、覚りを開いていない普通の人の阿梨耶識に「」はありません。
涅槃経』にはこう説かれています。

何が故ぞ説きて「一切衆生悉有仏性」とのたまえる。
善男子、衆生の仏性は、現在に無なりと雖も、無というべからず。
虚空の性は現在に無なりといえども、無ということを得ざるが如し。

仏性」とは、如来蔵であり、如来のことです。
これは「一切衆生悉有仏性」と説かれていますが、
実際は衆生には「無である」と仏陀は説かれています。
このことを『大乗起信論』では「一切衆生、名づけて覺となさず」と説かれています。
そうなると、衆生の阿梨耶識にあるのは「不覚」だけとなります。

不覚」は「無明」ともいいます。
一切染因、名づけて無明となす」と説かれるように、すべての迷いの根本です。
大乗起信論』に「不覺の義は、謂く如實に眞如の法、一つなるを知らざるが故に不覺の心起こる」とか、
無明に熏習して眞如の法を了せざるが故に不覺の念起こりて妄境界を現ず
と説かれるように、「不覚」とか「無明」とは、真如が分からない心です。
そのため、「本覺に依るが故にしかも不覺あり」とか
無明の相、覺性を離れざる」、
眞如の法に依るを以ての故に無明あり
等と説かれています。

それは例えば、病気を治す薬があるのに、薬が分からない心があるために、
病気で苦しみ続けるようなものです。
薬とは、すべての人を如来に導く真如の働きであり、
それが分からない心が不覚であり無明です。
この真如が分からない心を「根本不覚」とか「根本無明」といわれます。
この無明は「無始の無明」と説かれ、始まりのない始まりから衆生を苦しめ続けています。
それを「一切衆生無始の世よりこのかた皆無明の熏習する所なるに因るが故に、心をして生滅せしめ、已に一切の身心、大苦を受く
と説かれています。
その無明が滅すれば涅槃ねはんが得られます。
それを「無明滅すを以ての故に心起こることあることなし。
起こることなきを以ての故に境界隨いて滅す。
因縁倶に滅するを以ての故に心相、皆盡くす。
涅槃を得て自然の業を成ずと名づく
」とか
無明を除滅し本の法身をあらわ
と説かれています。
このように衆生が苦しみ迷い続ける根本の原因は無明です。

枝末無明・迷いのプロセス

次に、この根本無明とか根本不覚によって、
どのように苦しむのかを教えられています。
このプロセスを「三細六麁さんさいろくそ」といわれます。
これをまた「枝末無明」とか「枝末不覚」といわれます。

まず三細六麁の「三細」とは、
無明業相と、能見相と、境界相の3つです。

1「無明業相」とは、
根本無明である不覚によって心が動くことです。
これは『大乗起信論』で「」を5つに分けた「業識」に対応します。

2「能見相」とは、
心の動きによって見る作用が生じることです。
これは「転識」に対応します。

3「境界相」とは、
見る作用が生じることによって見られる対象が現れることです。
これは「現識」に対応します。
これが妄境界を現ずる不覚の「」です。

このような認識対象が現れたことにより、
六麁」が生じます。
六麁とは、「智相」「相續相」「執取相」「計名字相」「起業相」「業繋苦相」の6つです。

1「智相」とは、
見られる対象によって主観的認識が生じ、
好き嫌いを分別することです。
智識」に対応します。

2「相續相」とは、
智相により、好きなものに楽、
嫌いなものに苦の感受が起きます。
その心が続いて絶えることがないことです。
相続識」に対応します。
意識」ともいわれます。

3「執取相」とは、
苦楽を感じた対象に執着し、
苦楽を存続することです。

4「計名字相」とは、
その執着したものに名称をつけ概念形成することです。

5「起業相」とは、
その名称をつけたものを求め、
種々の業を造ることです。

6「業繋苦相」とは、
造ったにより報いを受け、
縛られることです。
これが六麁です。

大乗起信論』には「三界は虚僞にして唯心の所作なり。
心を離れれば則ち六塵の境界なし
」と説かれ、
迷いの世界は虚偽であり、
心が生み出したものです。
當に知るべし世間一切の境界は皆衆生、
無明の妄心に依って住持を得
」といわれるように、
この世のあらゆるものは、
無明によって存続している迷いです。

根本無明からこのようなプロセスを経て、
煩悩ぼんのうを起こし、業を造り、
その報いで苦しむことになります。
これが「枝末無明」です。

覚りへ導く真如の働き

大乗起信論』で三大といわれる「体大」と「相大」と「用大」の3つの中で、
体大」と「相大」は簡潔に説かれています。
立義分によれば「体大」とは真如のことで、
相大」とは一切の功徳を具足する如来蔵のことです。

真如については解釈分で、
言葉を離れたもので、
言葉を使えば空であり不空であると説かれました。

相大」については、
覺の體相は四種の大の義あり」と4つ挙げます。
1つは如実空鏡です。
2つには如実不空の因薫習鏡です。
3つには、不空の法である法出離鏡です。
4つは衆生の心を遍照して善根を修めさせる縁薫習鏡です。
この3つまでは体大の空と不空です。

他にも「眞如の自の體と相とは」と一緒に説かれ、
その始まりもなく終わりもなく、
一切の功徳を満足して欠点がないことを如来蔵と言っています。

ところが、「用大」については繰り返し力説されています。
用大とは、真如の「一切世間と出世間との善の因果を生ずる」働きです。
1つには「薫習
2つには「諸仏如来」です。

薫習」とは、
香がしみこむように影響を与えることです。
無明が真如に働きかける薫習も説かれていますが、
真如が働きかける薫習には「妄心薫習」と「真如薫習」の2つがあります。

妄心薫習」とは、
普通の人や声聞、縁覚に対して、
苦しみ迷いの輪廻を離れ、
菩提心ぼだいしんを起こさせる「分別事識薫習」と、
菩薩に対しては勇猛精進させて涅槃に向かう気持ちを起こさせる「意薫習」があります。

真如薫習」は、
自体相薫習」と「用薫習」です。
自体相薫習」とは、
始まりのない始まりから、
真如が不思議な力で環境を整えている働きです。
用薫習」とは、諸仏菩薩の導きです。
また家族や友人、敵にもなって大宇宙が総掛かりで導こうとする働きです。

そしてまた、真如の用は「諸仏如来」であると説かれています。
これに2種類あります。
1つは分別事識による応身です。
普通の人や声聞、縁覚は応身を見ます。
2つには業識による報身です。
菩薩は報身を見ます。
そしてに至ると、
法身になるので見るものは何もなくなりますが、
あらゆる所へ行き渡らない所はないのです。

また別の所では、「無量の煩惱の染垢あり。
若し人、眞如を念ずと雖も、
方便を以て種種に熏修されずば亦た淨を得ることなし
」といいます。
人には限りない煩悩があるので、
方便によって薫習されなければならず、
そのための菩薩の4つの方便が説かれています。
行根本方便」「能止方便」「發起善根増長方便」「大願平等方便」の4つです。

1つ目の「行根本方便」とは、
涅槃に住せずに人々を救済し続ける導きです。

2つ目の「能止方便」とは悪をやめさせる導きです。

3つ目の「發起善根増長方便」とは、
善をもっと実践させる働きです。

4つ目の「大願平等方便」とは、
未来永遠、人々を救い続ける働きです。

仏教では、すべてのものは、
因と縁が揃わなければ成就しません。
例えば木には燃える性質があっても、
木を焼く縁がなければ木は燃えません。
それと同じように、
人が涅槃に入るにも、因と縁が必要です。
その涅槃に入る正因は薫習の力であり、
縁は諸仏如来であると説かれています。

人が、苦を厭い真の幸せを求めるのも、
仏や善知識にめぐり会って教えを受けるのも、
仏教の教えの通りに善根を修習するのも、
涅槃に至るのも、
全く真如の用によるのです。

仏までの道のり

次に、すべての人を、
本論の目的の3番目にある「不退の信」ならしめるために、
まず邪執を破します。
邪執とは外道も含む誤った考え方です。
すべての邪執はみな我見によるといい、
人我見5つと、法我見1つを正します。

そして、仏道を志すありさまを3つに分けて、仏道を成就するまでの道のりを明らかにします。
1つには「信成就発心
2つには「解行発心
3つには「証発心」です。

信成就発心」とは、
真如の薫習と、宿善のある人が、
まいた種は必ず生えると信じ、
十善を行い、輪廻の苦を厭い、
菩提心を発します。
諸仏にめぐり会って供養をささげて一万劫という長期間、
信心を修行することによって信心を成就し発心します。
これを「信成就発心」といいます。
この発心をした人は正定聚に入り、
不退になります。

では、信成就発心とはどんな心かというと、
直心」「深心」「大悲心」の3つです。
直心」とは、真如の法を正念する心です。
深心」とは、一切の諸善を喜んで実行する心です。
大悲心」とは、あらゆる生きとし生けるものの苦しみを抜いてやりたいと思う心です。

この心を得た正定聚の菩薩は、
少分に真如を見ることができるようになります。
その真如の願力によって、
八相を現じて人々を救うことができるようになります。

次に2つ目の「解行発心」が説かれます。
これには第一阿僧祇劫という長期間の六波羅蜜の実践が必要です。
3つ目の「証発心」は、
第二、第三阿僧祇劫の菩薩の最後の段階までです。

しかし、これらは比較的簡潔です。
大乗起信論』の目的は、
1つ目の「信成就発心」なのです。
では、どのように不退の信を起こせばいいのでしょうか。

不退の信を得る方法

不退の信を成就するために、
どのような信心をどのように修行すればいいのかが、
第4章の「修行信心分」に説かれています。
それは、4つの信心と、
五門の行と念仏です。

まず4つの信心とは真如を信ずることと、
仏を信ずることと、
法を信ずることと、
僧を信ずることです。
真如と仏法僧の三宝を信ずることが4つの信心です。

常に真如を念じ、
仏を念じて供養し、
法を念じて六波羅蜜を修行し、
僧を念じて諸菩薩に親近して正しい行を求め、
学ぶのです。
これ自体は不退の信というわけではありません。

では、それらの信心をどのように修行するかということで、
施門」「戒門」「忍門」「進門」「止観門」の五門が説かれます。
これは六波羅蜜で最後の智慧を除いたものです。

1つ目の「施門」とは布施です。
ケチな心を離れて、力の限り財を与えます。
怯えている人には安心感を与えます。
仏教を聞きたい人がいれば、自分の理解していることを伝えることです。

2つ目の「戒門」とは、持戒です。
十悪を離れて十善を行じます。
出家した場合は律を守って頭陀行を行うことです。

3つ目の「忍門」とは忍辱にんにくです。
他人に苦しめられても忍耐して報復しない。
これは「耐怨害忍」です。
また、苦しい時も楽しい時も心を乱さない。
これは「安受苦忍」です。

4つ目の「進門」とは精進です。
果てしない過去から幸せはどこにもなかったことをよく思い出し、
苦しみを離れるために、
勇ましく色々の善に努め、
自利利他じりりたを実践することです。

5つ目の「止観門」とは、禅定ぜんじょうであり、
」と「」を両方同時に実現することです。

」とは、
静かな所で姿勢を正して心を正します。
外界の一切にも、知覚にも執着せず、
ただ心のみあって、
外界の対象は存在しない
」という正念に住します。
日常生活の中でも常に導きを忘れず、
実践します。
長い間かけて習熟すれば、
真如三昧に入ることができます。

ですが善根が少ない者、
外道の瞑想を行う者は、
実践中に悪魔や外道が現れて惑乱されることがあります。
そんな時は、
すべては心が生み出したものだと念ずれば、消えてしまいます。
それらは煩悩によるものだから、十分に気をつけねばなりません。

」とは、
この世のすべては無常だから苦であると観じます。
体にあるものはすべて不浄であると観じます。
無明によって果てしない過去から苦しめられ、
今も苦しみ、
これからも永遠に苦しまねばならないと観じます。

すべての人は無明に気づいてもいない哀れな者であるから、
それらの人を救うという大誓願を建てなければなりません。
これらの止観を同時に実践しなければ、
仏道に入ることはできないといいます。

修行信心分」の最後に、
もし正しい信心を獲たいと思っても、
この苦しみの世界では諸仏にめぐり会って供養できないと恐れ、
断念しようとする人は、
念仏によって阿弥陀仏浄土へ生まれることができると、
こう説かれています。

若し人、西方極樂世界の阿彌陀佛を專念すれば、
修したまう所の善根を迴向せしめたまいて彼の世界に生ずることを願求せしむ。
即ち往生を得。
常に佛を見るが故に終に退くことあることなし。
若し彼の佛の眞如法身を觀ずれば、
常に勤めて修習す。
畢竟して正定に住するを得生せしむが故に。

阿弥陀仏に専念すれば、
阿弥陀仏のご修行の善根功徳を廻向してくださり、
往生できることが決定します。
これは不退の正定聚です。
正定聚に入った人は、
死ねば浄土へ生まれさせて頂けるのです。

原文・書き下し文・現代語訳

では基本を学んだところで、『大乗起信論』の原文と訓読文、現代語訳を全文にわたって見ていきましょう。
漢文は、大正脩大蔵経第三十二巻所収『大乗起信論』真諦訳です。

廻向頌

    歸命盡十方 最勝業遍知
    色無礙自在 救世大悲者
    及彼身體相 法性眞如海
    無量功徳藏 如實修行等
    爲欲令衆生 除疑捨耶執
    起大乘正信 佛種不斷故

(書き下し文)
    十方を尽くす最勝業なる遍知と、
    色無礙自在、救世の大悲者と、
    及び彼の身の體相なる法性眞如海、
    無量の功徳藏と、如實修行等とに帰命したてまつる。
    衆生をして疑いを除き、耶(邪)執を捨て、
    大乘正信を起こし、佛種を斷ぜざらしめんと欲せんが為の故に。

(現代語訳)
大宇宙すべての、最も優れた働きである仏の智慧と、身体は無碍自在の,世を救う大慈悲を持たれた仏宝と、その仏の本質と姿である海のような真如法性、限りない功徳の蔵である法宝と、実の如く修行する僧宝に帰依いたします。
人々の疑いを除き、間違った信心を捨てさせ、大乗の正しい信心を起こし、仏の種を絶やすことのないようにしたいと思うからである。

論曰。有法能起摩訶衍信根。是故應説。説有五分。云何爲五。一者因縁分。二者立義分。三者解釋分。四者修行信心分。五者勸修利益分

(書き下し文)
論じて曰く、法の能く摩訶衍の信根を起こす有り。是の故に應に説くべし。説くに五分有り。云何が五と爲す。一つには因縁分,二つには立義分、三つには解釋分、四つには修行信心分、五つには勸修利益分なり。

(現代語訳)
論じて言う。大乗の信を起こす法がある。だから説くのである。この論は5つの部分からなる。どのような5つかというと、一つには因縁分、二つには立義分、三つには解釋分、四つには修行信心分、五つには勸修利益分である。

因縁分(8つの目的)

初説因縁分
問曰有何因縁而造此論
答曰。是因縁有八種。云何爲八。一者因縁總相。所謂爲令衆生離一切苦得究竟樂。非求世間名利恭敬故。二者爲欲解釋如來根本之義。令諸衆生正解不謬故。三者爲令善根成熟衆生於摩訶衍法堪任不退信故。四者爲令善根微少衆生。修習信心故。五者爲示方便消惡業障善護其心。遠離癡慢出邪網故。六者爲示修習止觀。對治凡夫二乘心過故。七者爲示專念方便。生於佛前必定不退信心故。八者爲示利益勸修行故。有如是等因縁。所以造論

(書き下し文)
初めに因縁分を説く
問うて曰く、何の因縁有りて此の論を造るや。
答えて曰く。是の因縁に八種有り。云何が八と爲す。
一には因縁總相なり。謂う所は、衆生をして一切の苦を離れしめ、究竟の樂を得しめんが爲なり。世間の名利、恭敬を求めるに非ざるが故に。
二には如來根本の義を解釋し、諸の衆生をして正解不謬せしめんと欲せんが爲の故に。
三には善根成熟の衆生をして、摩訶衍の法に於て堪任の不退信ならしめんが爲の故に。
四には善根微少の衆生をして信心を修習せしめんが爲の故に。
五には方便を示して惡業の障を消し、其心を善護し、癡慢を遠離し邪網を出でしめんが爲の故に。
六には止觀を修習するを示し、凡夫と二乘の心の過を對治せんが爲の故に。
七には專念方便を示し、佛前に必定して不退の信心を生ぜしめんが爲の故に。
八には利益を示し行を勸修せんが爲の故に。
是の如き等の因縁有りて論を造る所以とす。

(現代語訳)
初めに因縁分を説く
問い。どのような理由でこの論を説くのか。
答え。その理由に8つある。その8つとはどのようなものかといえば、
1つには総合的な理由である。すなわち生きとし生けるものがすべての苦しみを離れ、究極の幸せになるようにである。世間の名誉や利益、また尊敬を得たいと思ってのことではない。(これを開けば次の7つが現れる)
2つには、仏の根本の教えを解説し、人々が正しく理解して誤りなきようにしてもらいたいと思うからである。
3つには、宿善の厚い人に、真如によって信心を成就して正定聚不退の位に入らせるためである。
4つには、宿善の薄い人に、修行を勧めて信心へ導くためである。
5つには、導きを示して悪業のさわりを除き,その心をよく護り、愚痴や自惚れを離れ,疑いの網をはらすためである。
6つには、止観の実修を示し、凡夫や声聞、縁覚の心の誤りを正すためである。
7つには、専心念仏の導きを示し、仏の御前にて必ず不退の信心を生じさせるためである。
8つには、その結果得られる利益を示し、実践を勧めるためである。
このような理由があってこの論を説くのである。

対象読者

問曰。修多羅中具有此法何須重説
答曰。修多羅中雖有此法。以衆生根行不等受解縁別。所謂如來在世衆生利根。能説之人色心業勝。圓音一演異類等解。則不須論。若如來滅後。或有衆生能以自力廣聞而取解者。或有衆生亦以自力少聞而多解者。或有衆生無自心力因於廣論而得解者。自有衆生復以廣論文多爲煩。心樂總持少文而攝多義能取解者。如是此論。爲欲總攝如來廣大深法無邊義故。應説此論
已説因縁分

(書き下し文)
問うて曰く、修多羅の中に具さに此法有り。何ぞ須らく重ねて説くべきや。
答えて曰く、修多羅の中に此の法有りと雖も、衆生の根行の等しからざると受解の縁別なるを以てなり。所謂如來在世の衆生,利根なり。能説の人の色心の業、勝れたり。圓音、一たび演ぶれば、異類の等しく解すれば則ち須らく論ぜざるぺし。如來の滅後の如きは、或いは衆生、能く自力を以て廣く聞きて解を取する者あり。
或いは衆生の亦自力を以て少しく聞きて多く解する者あり。
或いは衆生、自心の力無く廣論に因りて得解する者あり。
自ら衆生、復た廣論の文多きを以て煩と爲し、心に、總持の少文にして多義を攝せんと樂いて能く解を取する者あり。
是くの如くなれば、此論、如來廣大の深法、無邊の義を總攝せんと欲せんが為の故なり。應に此論を説くべし。
已に因縁分を説く

(現代語訳)
問い。そのような法は、経典の中には詳しく説かれている。なぜ重複して説く必要があるのか。
答え。経典の中にこの法が教えられているのはその通りである。ただ、それを聞く人々に、素質も実践も同じではなく、理解の仕方も異なるからである。いわゆる釈迦在世当時の人々は、極めて優れた素質を持っていた。説かれる方の心も体も非常に優れ、完全な説法を一度説かれれば、素質も実践も異なる人々が等しく理解した。そういうことであれば、この論を説く必要もないであろう。しかし釈迦滅後の今のような時代になると、ある人は、自分の力で広く経法を聞いて理解する、そういう人もいる。またある人は、少し聞いて理解する、そういう人もある。自分で理解する力のない人は、経を詳しく解説した論によって理解する,そういう人もいる。また詳しい論は文が多すぎて煩わしいと思い、すべてを保持した少ない文章で多くの教えを含んでほしいと願って,理解する人もいる。このようであるから、この論は、如来の広大な深い法、限りない教えをすべておさめようと思うものである。これからこの論を説こう。
以上で因縁分を終わる。

立義分(一心・二門・三大)

次説立義分
摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。所言法者。謂衆生心。是心則攝一切世間法出世間法。依於此心顯示摩訶衍義。何以故。是心眞如相。即示摩訶衍體故。是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。所言義者。則有三種。云何爲三。一者體大。謂一切法眞如平等不増減故。二者相大。謂如來藏具足無量性功徳故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。
已説立義分

(書き下し文)
次に立義分を説く
摩訶衍は總じて説くに二種あり。云何が二となす。一には法、二には義なり。
言う所の法は、謂く衆生心なり。この心は則ち一切の世間法と出世間法とを攝す。この心に依りて摩訶衍の義を顯示す。何を以ての故に。この心の眞如相は即ち摩訶衍の體を示すが故に。この心生滅の因縁相は能く摩訶衍自らの體と相と用を示すが故に。
言う所の義は則ち三種あり。云何が三となす。一には體大なり。謂わく一切法の眞如なり。平等にして不増減なる故に。二には相大なり。謂わく如來藏なり。無量の性功徳を具足するが故に。三には用大なり。能く一切世間と出世間との善の因果を生ずるが故に。一切の諸佛本より乘ずる所なるが故に。一切の菩薩、皆この法に乘じて如來地に到るが故に。
已に立義分を説く。

(現代語訳)
次に立義分を説く
すべての人が救われる大乗は総括していえば2つある。
どのような2つかといえば、1つには「法」、2つには「義」である。

まず1つ目の法とは、「衆生心」である。
この心はすべての在家の法と出家の法をおさめる。
この心によって大乗の意味が明らかに示される。
それはなぜか。
この心の真如のすがたは大乗の本質を示すからである。
また、この心が生滅しながら続いていく因縁のありさまは、大乗の本質とすがたと働きを示すからである。

次に2つ目の義には3つある。どのような3つか。
1つには「体大」である。体大とは一切法の真如である。平等で増えることもなければ減ることもないからである。
2つには「相大」である。相大とは如来蔵である。本来的に限りない功徳を具えているからである。
3つには「用大」である。すべての在家と出家の善の原因と結果を生ずるからである。
そして、すべての諸仏はすでに乗じているし、すべての菩薩は皆この法に乗じて仏のさとりに至るからである。
以上で立義分を終わる。

解釈分

次説解釋分
解釋分有三種。云何爲三。一者顯示正義。二者對治邪執。三者分別發趣道相。顯示正義者。依一心法。有二種門。云何爲二。一者心眞如門。二者心生滅門。是二種門皆各總攝一切法。此義云何。以是二門不相離故。

(書き下し文)
次に解釋分を説く
解釋分に三種あり。云何が三となす。一には正義を顯示す。二には邪執を對治す。三には道に發趣する相を分別す。正義を顯示すというは一心の法に依りて二種の門あり。云何が二となす。一には心眞如門、二には心生滅門なり。この二種の門、皆各々一切法を總攝す。この義云何ぞなれば、この二門、相離れざるを以ての故に。

(現代語訳)
次に解釋分を説く。
解釈分には3つある。
どのような3つか。
1つには、正しい教えを明らかに示す。
2つには、邪な執着を正す。
3つには、仏道をゆく姿を明らかにする。

1つ目の正義を明らかに示すというのは、一心の法によって2つの門がある。
どのような2つか。
1つには心真如門、2つには心生滅門である。
この2つの門は、どちらもそれぞれ一切法をすべておさめる。
なぜならこの2つの門は、お互いに別のものではないからである。

心真如門

離言真如

心眞如者。即是一法界大總相法門體。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別。若離妄念則無一切境界之相。是故一切法從本已來。離言説相離名字相離心縁相。畢竟平等無有變異不可破壞。唯是一心故名眞如。

(書き下し文)
心眞如というは即ち是れ一法界にして大總相法門の體なり。謂う所の心性は不生不滅なり。一切の諸法、唯だ妄念に依りて差別あり。若し妄念を離るれば則ち一切の境界の相なし。この故に一切法、本より已來、言説の相を離れ名字の相を離れ心縁の相を離る。畢竟平等にして變異あることなく破壞すべからず。唯これ一心なるのみ。故らに眞如と名く。

(現代語訳)
二門の1つ目の「心眞如」とは、唯一の法界であり、すべてのありのままの姿をおさめる教えの本質である。先に述べた衆生心である心性は、生ずることもなく滅することもない。この世のすべては妄念によって差別がある。もし妄念を離れれば,すべての対象のすがたはない。だからこの世のすべては本来、言葉を離れ、名称を離れ、想像も離れたものである。究極の平等であり、変異はなく、破壊することもできない。ただ一心である。それを表すのにあえて真如と呼ぶのである。

以一切言説假名無實。隨妄念不可得故。言眞如者。亦無有相。謂言説之極因言遣言。此眞如體無有可遣。以一切法悉皆眞故。亦無可立。以一切法皆同如故。當知一切法不可説不可念故。名爲眞如
問曰。若如是義者。諸衆生等云何隨順而能得入
答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念。是名隨順。若離於念名爲得入

(書き下し文)
一切の言説は假名にして實なく、妄念に隨い、得るべからざるを以ての故に。眞如と言うは、亦た相あることなし。言説の極みを謂い、言に因り言を遣る。この眞如の體、遣るべきものあることなし。一切の法、悉く皆眞なるを以ての故に。亦た立つべきものなし。一切の法を皆同じく如なるを以ての故に。まさに知るべし、一切の法、不可説不可念なるが故に名づけて眞如となす。
問うて曰く、若し是の如きの義ならば、諸の衆生等、云何が隨順して能く入ることを得るや。
答えて曰く、若し一切法は説くと雖も能説の説く可きものあることなく、念ずと雖も亦た能念の念ずべきものなしと知らば、これを隨順と名づく。もし念を離れれば名づけて得入と爲す。

(現代語訳)
すべての言説は、仮に名づけたもので実質はない。迷った考えに従って、把握することはできないから真如という言葉もまたすがたはない。言説の限界を言ったもので、言葉によって言葉を離れようというものである。この真如の本質は、斥けるものはない。この世のすべてはみな真だからである。また、差別を立てるものもない。この世のすべてはみな同じく如だからである。当然知らなければならない。この世のすべては、言葉に表すことも、心に思うこともできないから、真如と名づけるのである。
問い。もしそのように不可説不可念であれば、人々はどのように真如に従い、真如に入ることができるのか。
答え。もし一切法は、説いても説けるものがなく、念じても念ずることができるものがないと知れば、それが真如に従ったということである。そしてもし念を離れれば,真如に入る。

依言真如

復次眞如者。依言説分別有二種義。云何爲二。一者如實空。以能究竟顯實故。二者如實不空。以有自體具足無漏性功徳故。

(書き下し文)
復た次に眞如は、言説に依りて分別するに二種の義あり。云何が二となす。一には如實空なり。能く究竟して實を顯すを以ての故に。二には如實不空なり。自體ありて無漏の性功徳を具足するを以ての故に。

(現代語訳)
また次に真如は言葉で分別すると、2つの意味がある。どのような2つかというと、1つは如実空である。究極的な真理を明らかにするからである。2つには如実不空である。本来的に無漏の功徳を具えた実在であるからである。

所言空者。從本已來一切染法不相應故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。當知眞如自性。非有相非無相。非非有相非非無相。非有無倶相。非一相非異相。非非一相非非異相。非一異倶相。乃至總説。依一切衆生以有妄心念念分別。皆不相應故。説爲空。若離妄心實無可空故。

(書き下し文)
言う所の空とは、本より已來、一切の染法、相應せざるが故に。謂く一切法の差別の相を離れ、虚妄の心念なきを以ての故に。當に知るべし。眞如の自性は、有相に非ず無相に非ず、非有相に非ず、非無相に非ず。有無倶相に非ず。一相に非ず、異相に非ず。非一相に非ず、非異相に非ず。一異倶相に非ず。乃至、總じて説けば、一切衆生は妄心ありて以て念念に分別して皆相應せざるに依るが故に、説いて空となす。若し妄心を離るれば、實には空ずべきものなきが故に。

(現代語訳)
「如実空」の空とは、本来的に、あらゆる迷いの法と相応しないからである。すべての事物の差別のすがたを離れ、迷いの心がないからである。まさに知るべきである。真如の本来的な性質は、有相でもなく、無相でもなく、有相でなくもなく、無相でなくもない。有相かつ無相でもない。一つの相でもなく、異なる相でもなく、一つの相でなくもなく、異なる相でなくもない。一つの相かつ異なる相でもない。以下略して総括して言えば、すべての人は迷いの心で瞬間瞬間に分別して真如と相応しないために、空を説く。もし迷いを離れれば、それは真如であるから空ずるものは何もない。

不空

所言不空者。已顯法體空無妄故。即是眞心常恒不變淨法滿足。故名不空。亦無有相可取。以離念境界唯證相應故。

(書き下し文)
言う所の不空とは、已に法體は空じて妄なきを顯すが故に即ち是れ眞心にして常恒に不變淨法滿足なり。故に不空と名く。亦た相の取るべきものあることなし。離念の境界は、唯だ證相應なるを以ての故に。

(現代語訳)
「如実不空」の不空とは、法体は迷いを空じ、無くして顕れるから、これは真心であり、常に変化することがなく、真如で満ち足りたものである。だから不空という。また、認識する対象もない。念を離れた世界は、ただ悟りとのみ相応するからである。

心生滅門

心生滅者。依故有生滅心。所謂不生不滅與生滅和合非一非異。名爲阿梨耶識。
此識有二種義。能攝一切法生一切法。云何爲二。一者覺義。二者不覺義。

(書き下し文)
心生滅は、如來藏に依るが故に生滅心あるをいう。謂う所は不生不滅と生滅とは和合して非一非異なり。名づけて阿梨耶識となす。
この識に二種の義ありて能く一切法を攝して一切法を生ず。云何が二となす。一には覺の義、二には不覺の義なり。

(現代語訳)
二門の2つ目の「心生滅」とは、如来蔵によるからこそ生滅心があることをいう。それは不生不滅の如来蔵と、生滅心は和合しているので、一つのものでもなければ異なるものでもない。この生滅心を「阿梨耶識」という。この阿梨耶識には2つの意味があり、それによってこの世のすべてをおさめ、この世のすべてを生ずる。どのような2つかというと、1つには「覚」,2つには「不覚」である。

所言覺義者。謂心體離念。離念相者等虚空界無所不遍。法界一相即是如來平等法身。依此法身説名本覺。何以故。本覺義者對始覺義説。以始覺者即同本覺。

(書き下し文)
言う所の覺の義とは、心體の離念を謂う。離念の相は虚空界に等しく遍ぜざる所なし。法界一相は、即ちこれ如來の平等法身なり。この法身に依りて説いて本覺と名づく。何を以ての故に。本覺の義は始覺の義に對して説く。始覺は即ち本覺に同ずるを以てなり。

(現代語訳)
阿梨耶識の「覚」の義とは、心の本質が念を離れたことを言う。念を離れた姿は、虚空の遍くないところがないようなものである。大宇宙が一つのすがたであることは、如来の平等法身である。この法身によって「本覚」という。なぜかというと、本覚は「始覚」に対して説かれる。始覚は本覚に同じになるからである。

始覚

始覺義者。依本覺故而有不覺依不覺故説有始覺。
又以覺心源故名究竟覺。不覺心源故非究竟覺。此義云何。
如凡夫人覺知前念起惡故。能止後念令其不起。雖復名覺即是不覺故。
如二乘觀智初發意菩薩等。覺於念異念無異相。以捨麁分別執著相故。名相似覺。
如法身菩薩等。覺於念住念無住相。以離分別麁念相故。名隨分覺。
如菩薩地盡。滿足方便一念相應。覺心初起心無初相。以遠離微細念故。得見心性。心即常住名究竟覺。是故修多羅説。若有衆生能觀無念者。則爲向佛智故。又心起者。無有初相可知。而言知初相者。即謂無念。
是故一切衆生不名爲覺。以從本來念念相續未曾離念故。説無始無明。若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。
而實無有始覺之異。以四相倶時而有皆無自立。本來平等同一覺故

(書き下し文)
始覺の義は本覺に依るが故にしかも不覺あり、不覺に依るが故に始覺ありと説く。
又た心源を覺するを以ての故に究竟覺と名づく。心源を覺せざるが故に究竟覺にあらず。この義云何ぞ。
凡夫人の如きは前念の惡を起すことを覺知するが故に能く後念を止め、其れをして起こさざらしむれば、また覺と名づくと雖も即ちこれ不覺なるが故に。
二乘の觀智と初めて意を發す菩薩等の如きは、念の異を覺し、念に異相なくして麁の分別し執著する相を捨つるを以ての故に相似覺と名づく。
法身の菩薩等の如きは、念の住を覺し、住に念相なくして分別麁念の相を離れるを以ての故に隨分覺と名づく。
菩薩地盡きたるが如きは、方便を滿足し一念に相應す。心の初起を覺して心に初相なくして微細の念を遠離するを以ての故に心性を見るを得。心即ち常住にして究竟覺と名づく。
是の故に修多羅に「若し衆生ありて能く無念を觀ずれば則ち佛に向かう智となす」と説くが故に。又た心の起には初相の知るべきものあることなし。而して初相を知るというは即ち無念を謂う。
是の故に一切衆生、名づけて覺となさず。本來より念念に相續して未だ曾て念を離れざるを以ての故に無始の無明と説く。若し無念を得れば則ち心相の生住異滅を知る。無念と等しきを以ての故に。
而して實に始と覺との異あることなし。四相倶時にしてあり、皆自立なし。本來平等にして同一の覺なるを以ての故に。

(現代語訳)
「始覚」は、本覚があるから不覚があり、不覚によって始覚があると説くのである。
迷いの心の源を覚ったのを究竟覚といい、迷いの心の源を覚らなければ究竟覚ではない。これはどういうことか。
凡夫の場合は、前の刹那の心の悪を自覚して次の刹那の心を止めて悪が起きないようにする。これは始覚といっても、まだ不覚という。
声聞や縁覚で智慧を観ずる者や初発心の菩薩の場合は、悟りによって欲や怒りなどの粗い煩悩が増長するのを見極め、迷いが増長する姿がなくなり、粗い分別や執着を捨てるので、相似覚という。
法身の菩薩の場合は,悟りによって法執を含むほとんどの煩悩が生ずるのを見極め、煩悩に迷うすがたがなくなり、分別と粗い念を離れているので、隨分覺という。
菩薩の十地から仏の位に入る時、最後の方便が満たされ、一念で最も微細な煩悩を断ち切られる。妄念の起こる根源である心の初起を見極め、なくなる。どんな微細な煩悩も離れるため、真如を覚る。心は常住となるので、究竟覚という。
だから経典にも「もし衆生ありてよく無念を観ずればすなわち仏に向かう智となす」と説かれているのである。心が起きるといっても、もはや心が迷いの起きる源の初起はない。迷いの源を知るとは、迷いを離れたことを言うのである。だから、すべての衆生は覚とは言わないのである。始まりのない始まりから、瞬間瞬間と続いて未だ迷いを離れたことがないため、無明というのである。もし迷いを離れれば、心の、迷い始め、煩悩を生じ、煩悩を増長し、悪業を造る4段階を知る。それは迷いを離れているのと等しいのである。
そして始覚と本覚が合一すれば始覚と本覚は異なるものではない。4段階は同時にあり、独立したものではない。本来平等の、同一の覚りだからである。

本覚の2つの相

復次本覺隨染。分別生二種相。與彼本覺不相捨離。云何爲二。一者智淨相。二者不思議業相。智淨相者。謂依法力熏習。如實修行。滿足方便故。破和合識相。滅相續心相。顯現法身。智淳淨故。此義云何以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覺性。非可壞非不可壞。如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壞故。如是衆生自性清淨心。因無明風動。心與無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壞故。
不思議業相者。以依智淨。能作一切勝妙境界。所謂無量功徳之相常無斷絶。隨衆生根自然相應。種種而見得利益故

(書き下し文)
復た次に本覺の染に隨い分別するに二種の相を生ず。彼の本覺と相捨離せず。云何が二となす。一には智淨相、二には不思議業相なり。
智淨相とは、謂わく法力の熏習に依りて實の如く修行して方便を滿足するが故に、和合識の相を破し、相續心の相を滅す。法身を顯現し、智淳淨なるが故に。
この義云何ぞ。一切心識の相、皆これ無明にして、無明の相、覺性を離れざるを以て、可壞にあらず、不可壞にあらず。大海の水、風によりて波動くが如し。水の相、風の相、相捨離せず。しかも水、動性にあらざれば、若し風止滅すれば動相則ち滅す。濕性不壞なるが故に。衆生自性清淨心も是の如し。無明の風に因りて動く。心と無明と倶に無形の相にして相捨離せず。しかも心、動性にあらず。若し無明滅すれば相續は則ち滅す。智性不壞なるが故に。
不思議業相とは智淨に依るを以て能く一切勝妙の境界を作す。所謂無量功徳の相常に斷絶無し。衆生の根に隨い自然に相應し、種種にして利益を得るを見るが故に。

(現代語訳)
始覚が本覚と同じになることを説いたので、次に本覚を説くが、その迷いに対する働きを区別して説くと、2つの特質を現し、それは本覚と離れたものではない。1つは「智淨相」、2つには「不思議業相」である。
「智淨相」とは、真如の力の働きかけによって、真如にかなった行を実践し、覚りへの修行が完成した結果、阿梨耶識のすがたが破れ、迷いの心がなくなるという特質である。真如が現れ、智が淳淨だからである。
阿梨耶識の覚の義である本覚が、阿梨耶識を破るとはどういうことか。
阿梨耶識から生じるすべての識は無明のすがたである。無明は覚りと別のものではないから、壊せるものともいえないし、壊せないものともいえない。例えるならば、大海の水は,風によって波となって動くようなものである。水の形も風の形も離れたものではない。しかも水は動く性質を持たないので、もし風がやめば波のすがたが消える。水の性質は壊せないからである。人の自性清浄心も同じである。無明の風によって阿梨耶識の波となったのである。本覚と無明は共に形はないが離れたものではない。しかも本覚は動く性質を持たないので、もし無明が滅すれば、阿梨耶識も滅する。仏智の性質は壊せないからである。
本覚の2つ目の特質である不思議業相とは、1つ目の智淨相によって、すばらしい認識対象を生ずる。その際、限りない功徳が絶えることはない。相手の性質に応じて、色々の利益を与えるからである。

覚の体と相

復次覺體相者。有四種大義。與虚空等猶如淨鏡。云何爲四。一者如實空鏡。遠離一切心境界相。無法可現非覺照義故。二者因熏習鏡。謂如實不空。一切世間境界悉於中現。不出不入不失不壞常住一心。以一切法即眞實性故。又一切染法所不能染。智體不動。具足無漏熏衆生故。三者法出離鏡。謂不空法。出煩惱礙智礙。離和合相淳淨明故。四者縁熏習鏡。謂依法出離故。遍照衆生之心。令修善根。隨念示現故。

(書き下し文)
復た次に覺の體相は四種の大の義あり。虚空と等しく猶し淨鏡の如し。云何が四となす。
一には如實空鏡なり。一切の心と境界の相を遠離して法の現ずべくものなし。覺照の義にあらざるが故に。
二には因熏習鏡なり。謂わく如實不空なり。一切世間の境界悉く中に現ず。不出不入、不失不壞にして、一心を常に住す。一切の法、眞實性に即すを以ての故に。又た一切の染法、染ずあたわざる所なり。智體不動にして無漏を具足して衆生を薫ずるが故に。
三らは法出離鏡なり。謂く不空の法なり。煩惱礙、智礙を出で、和合相を離れて淳、淨、明なるが故に。
四には縁熏習鏡なり。謂わく法出離に依るが故に、衆生の心を遍照し、善根を修せしめ、念に隨い示現するが故に。

(現代語訳)
これまで本覚の働きを説いたので、次に本覚の本質と特徴を説くが、4つの義がある。それは虚空のように大宇宙にゆきわたり、浄らかな鏡のように汚れがない。どのような4つかというと、1つには「如実空鏡」である。一切の主観も客観も離れ、認識される構成要素はない。迷いは覚りに照らされることがないからである。
2つには「因熏習鏡」である。真如は迷いに働きかける。この世のすべての対象は悉く縁起によって生ずる。外部へ出たり外部から入ったりするものでもなく、失われるものでも壊れるものでもない。一心を常に住めている。この世のすべてに真実性はゆきわたっているからである。また一切の迷いの法は汚すことができない。智の本質は不動であり、煩悩のない清らかな性質を具え、人々を常に薫習して聞法心を起こさせるからである。
3つには「法出離鏡」である。本覚は常住である。煩悩障、所知障を離れ、阿梨耶識を離れて純粋、煩悩を離れて浄らか、無明を離れて明だからである。
4つには「縁熏習鏡」である。3つ目の法出離によって衆生の心を照らして善を実行させ、その心に応じて姿を表すからである。

不覚

根本不覚(根本無明)

所言不覺義者。謂不如實知眞如法一故。不覺心起而有其念。念無自相不離本覺。猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覺故迷。若離覺性則無不覺。以有不覺妄想心故。能知名義爲説眞覺。若離不覺之心。則無眞覺自相可説

(書き下し文)
言う所の不覺の義は、謂く如實に眞如の法、一つなるを知らざるが故に不覺の心起こる。其の念あるも、念に自相なく本覺を離れず。猶し迷人の方に依りるが故に迷うがごとし。若し方を離れれば則ち迷あることなし。衆生亦た爾り。覺に依るが故に迷う。若し覺性を離れれば則ち不覺なし。不覺の妄想心あるを以ての故に能く名義を知り眞覺を説くとなす。若し不覺の心を離れれば則ち眞覺の自相説くべきものなし。

(現代語訳)
阿梨耶識の「不覚」とは、如実に真如の法が一つであることを知らないから、不覚の心が起きる。その心はあっても実体はなく、本覚を離れたものではない。ちょうど道に迷った人が方角にとらわれたために迷うようなものである。もし方角を離れれば道に迷うこともない。人々も同じである。覚にとらわれるから迷うのである。もし覚を離れれば、不覚ということもない。不覚の妄想心によって不覚という名前と意味を知り,それが滅した真の覚りを説く。不覚を離れれば、真の覚りの本体も説くべきものはない。

枝末不覚(枝末無明)三細六麁

復次依不覺故生三種相。與彼不覺相應不離。云何爲三。一者無明業相。以依不覺故心動説名爲業。覺則不動。動則有苦。果不離因故。二者能見相。以依動故能見。不動則無見。三者境界相。以依能見故境界妄現。離見則無境界。以有境界縁故復生六種相。云何爲六。一者智相依於境界心起分別愛與不愛故。二者相續相。依於智故生其苦樂覺。心起念相應不斷故。
三者執取相。依於相續縁念境界。住持苦樂心起著故。四者計名字相。依於妄執分別假名言相故。五者起業相。依於名字尋名。取著造種種業故。六者業繋苦相。以依業受果不自在故。當知無明能生一切染法。以一切染法皆是不覺相故

(書き下し文)
復た次に不覺に依るが故に三種の相を生ず。彼の不覺の相と應に離れざるべし。云何が三となす。
一には無明業相なり。不覺に依るを以ての故に心の動くを説きて名づけて業となす。覺れば則ち動かず。動けば則ち苦あり。果、因を離れざるが故に。
二には能見相なり。動に依るを以ての故に能く見る。動かざれば則ち見ることなし。
三には境界相なり。能く見るを以ての故に境界の妄現す。見を離れれば則ち境界なし。
境界の縁あるを以ての故に復た六種の相を生ず。云何が六となす。
一には智相なり。境界に依りて心起こり、愛と不愛とを分別するが故に。
二には相續相なり。智に依るが故に其の苦樂の覺心を生ず。念を起こして相應し、斷ぜざるが故に。
三には執取相なり。相續に依りて境界を縁念し、苦樂を住持す。心に著を起こすが故に。
四には計名字相なり。妄執に依りて假の名言の相を分別するが故に。
五には起業相なり。名字に依りて名を尋ね、取著して種種の業を造るが故に。
六には業繋苦相なり。業に依りて果を受け、自在ならざるを以ての故に。
まさに知るべし。無明能く一切の染法を生ず。一切の染法皆これ不覺の相なるを以ての故に。

(現代語訳)
また次に、不覚によって、阿梨耶識には3つの特徴が現れる。これらは不覚の特徴と離れたものではない。その3つはどのようなものであろうか。
1つには「無明業相」である。根本無明である不覚によって心が動くことを業という。覚れば心は動かない。心が動けば苦になる。なぜならまいた種は必ず生えるからである。
2つには「能見相」である。心の動きによって見る作用が生じる。心が動かなければ見る作用もない。
3つには「境界相」である。見る作用が生じることによって見られる対象の虚像が現れる。見る作用がなければ見られる対象もない。
対象という縁があるからまた6つの姿形が現れる。どのような6つであろうか。
1つには「智相」である。対象によって主観的認識が生じ、好き嫌いを区別するからである。
2つには「相續相」である。1つ目の智相により、好きなものに楽、嫌いなものに苦の感受が起きる。その心が続いて絶えることがない。
3つには「執取相」である。2つ目の相続相によって対象を主観的に見て、苦楽を存続する。心に執着を起こすからである。
4つには「計名字相」である。迷って執着したものに名称をつけ概念を形成するからである。
5つには「起業相」である。名称によってそれを求め、執着して種々の業を造るからである。
6つには「業繋苦相」である。業によって報いを受け、縛られるからである。
まさに知らなければならない。無明はあらゆる迷いの法を生み出す。なぜならすべての迷いの法は不覚の現れだからである。

覚と不覚の同相と異相

復次覺與不覺有二種相。云何爲二。一者同相。二者異相。同相者。譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同眞如性相。是故修多羅中依於此眞如義故説一切衆生本來常住入於涅槃。菩提之法非可修相非可作相。畢竟無得。亦無色相可見。而有見色相者。唯是隨染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明。隨染幻差別。性染幻差別故

(書き下し文)
復た次に覺と不覺とに二種の相あり。云何が二となす。一には同相、二には異相なり。
同相とは、譬えば種種の瓦器皆同じく微塵の性相なるが如し。是の如く無漏と、無明の種種の業幻とは、皆同じく眞如の性相あり。この故に修多羅の中、この眞如の義に依るが故に説かく「一切衆生の本來、常住にして涅槃に入ることなり。菩提の法、修すべき相にあらず、作すべき相にあらず。畢竟無得なり」と。亦た色相の見るべきものなくして而も色相を見る者あり。唯だこれ染に隨う業幻の所作なり。これ智に色不空の性あるにあらず。智相、見るべきなきを以ての故に。
異相とは、種種の瓦器、各各不同なるが如し。是の如く無漏と無明あり、染幻に随う差別にして染幻を性とする差別なるが故に。

(現代語訳)
次に、覚と不覚には、それぞれ2つの相がある。どのような2つか。1つには共通の現れである「同相」、2つには異なった現れである「異相」である。
まず1つ目の同相とは、例えば色々な素焼きの器はみな同様に土の性質からできた形であるようなものである。ちょうどそのような関係が無漏と無明にもある。色々な業の幻には、皆同様に真如の性質がある(がそれは分からない)。
だから経典の中には、この真如の性質にもとづいて「すべての人の本来のあり方は、常住であり涅槃に入ることである。仏のさとりは修行するすがたではなく、修行によって得られたものではない。究極的には得られたものではない(迷いを捨てる)のである」と説かれている。
また、色も形もないものなのに、色や形が現される。これは迷いによる業の幻である。これは智慧に実体的な色形の性質があるのではない。智慧は目に見えるものではないからである。
次に2つ目の異相とは、色々な素焼きの器がそれぞれ形が違うようなものである。このように無漏と無明もある。迷いに働きかける色形であり、迷いを本質とする現れだからである。

生滅の因縁

復次生滅因縁者。所謂衆生依心意意識轉故。此義云何。以依阿梨耶識説有無明。不覺而起。能見能現。能取境界。起念相續。故説爲意。此意復有五種名。云何爲五。一者名爲業識謂無明力不覺心動故。二者名爲轉識。依於動心能見相故。三者名爲現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。隨其五塵對至即現無有前後。以一切時任運而起常在前故。四者名爲智識謂分別染淨法故。五者名爲相續識。以念相應不斷故。住持過去無量世等善惡之業令不失故。復能成熟現在未來苦樂等報無差違故。能令現在已經之事忽然而念。未來之事不覺妄慮。

(書き下し文)
復た次に生滅因縁とは所謂、衆生なり。心に依りて意と意識とが轉ずる故に、この義云何ぞ。阿梨耶識に依りて無明ありと説くを以てなり。不覺にして起こす。能見して能く現じ、能く境界を取り、念を起こして相續す。故に意をなすと説く。
この意復た五種の名あり。云何が五となす。
一には名づけて業識となす。謂く無明の力ありて不覺の心、動ずるが故に。
二には名づけて轉識となす。動心に依りて能く相を見るが故に。
三には名づけて現識となす。所謂能く一切の境界を現す。猶明鏡の色像を現ずるが如し。現識亦た爾り。其の五塵に對至するに隨いて即ち現じ前後あることなし。一切時を以て任運に起き常に前に在るが故に。
四には名づけて智識となす。謂く分別染淨の法なるが故に。
五には名づけて相續識となす。念の相應して不斷なるを以ての故に。過去無量の世に等しく善惡の業を住持し失せざらしむが故に。復た能く現在と未來との苦樂成熟し、等しく報うこと差違なきが故に。能く現在已に經るの事をして、忽然にして念ぜしむ。未來の事をして、不覺にして妄慮せしむなり。

(現代語訳)
次に生滅の原因とは、いわゆる衆生の心によって意と意識が転ずるのだから、これはどういう意味か。阿梨耶識に依拠して無明があると説かれるからである。不覚によって阿梨耶識に動きが生じる。主観が生じて、対象を顕現させ、概念を形成し、執着の心を起こして持続していく。だから意をなすと説くのである。
この「意」には五種の名前がある。どのような5つか。
1つには「業識」である。無明の働きで迷いの心が動くからである。
2つには「転識」である。動いた心によってもののすがたを見るからである。
3つには「現識」である。あらゆる対象を現すからである。ちょうど曇りのない鏡が像を映すようなものである。現識もそのようなものである。色声香味触という五つの対象に対したと同時に生じ、時間的前後は決してない。常に自然に映り、現前しているからである。
4つには「智識」である。善悪を区別する心だからである。
5つには「相続識」である。心が持続して絶えることがないからである。過去無量の生命の歴史の中で造った善悪の業を保持して消えることがない。また、現在と未来に苦楽の結果が熟して善悪等しく報うことには寸分の狂いもない。また、過去から現在までに行ったことを突然思い出させたり、未来のことを無自覚に心配させたりする。

三界唯心

是故三界虚僞唯心所作。離心則無六塵境界。此義云何。以一切法皆從心起妄念而生。一切分別即分別自心。心不見心無相可得。當知世間一切境界。皆依衆生無明妄心而得住持。是故一切法。如鏡中像無體可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故

(書き下し文)
この故に三界は虚僞にして唯心の所作なり。心を離れれば則ち六塵の境界なし。この義云何ぞ。一切の法皆心より妄念を起して生ずるを以てなり。一切の分別すなわち自心を分別す。心、心を見ずして相の得べきなし。當に知るべし世間一切の境界は皆衆生、無明の妄心に依って住持を得。この故に一切の法、鏡中像の體、得べきなきが如し。唯心にして虚妄なり。心生ずれば則ち種種の法生じ、心滅すれば則ち種種の法、滅するを以ての故に。

(現代語訳)
この故に迷いの世界は虚偽であり、ただ心が生み出したものである。心を離れれば、色声香味触法の6つの対象はない。これはどういう意味か。あらゆる世界の構成要素はみな心から妄念を起こして生じているからである。あらゆる認識は自分の心を認識しているのである。心は心を見なければ、何の姿も得られない。まさに知らなければならない。世界のあらゆる対象はすべて、自分の心の無明の迷った心によって現れている。だからあらゆる世界の構成要素は、鏡に映ったイメージの実体がないようなものである。ただ心だけで、あとは虚構である。心が生ずれば色々なものが生じ、心が滅すればそれらのものは滅するからである。

意識

復次言意識者。即此相續識。依諸凡夫取著轉深計我我所。種種妄執隨事攀縁。分別六塵名爲意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩惱増長義故。

(書き下し文)
復た次に意識と言うは、即ちこの相續識なり。諸の凡夫、著を取ること轉た深くして我我所を計らい、種種の妄執、事に隨い縁を攀し、六塵を分別するに依りて名づけて意識となす。亦た名づけて分離識なり。又た復た説きて分別事識と名づく。この識、見と愛との煩惱に依りて増長する義あるが故に。

(現代語訳)
次に「意識」とは、相続心である。人々は執着をますます深くして、「私」があり「私のもの」があるという迷いをおこし、色々の迷いの執着が、現象にしたがって対象にすがり、色声香味触法の6つを概念形成するので意識と名づける。また、「分離識」とも、「分別事識」ともいう。この識は、見と愛の煩悩によって増幅するからである。

凡夫には分からない

依無明熏習所起識者。非凡夫能知。亦非二乘智慧所覺。謂依菩薩。從初正信發心觀察。若證法身得少分知。乃至菩薩究竟地不能知盡。唯佛窮了。何以故。是心從本已來自性清淨。而有無明。爲無明所染。有其染心。雖有染心而常恒不變。是故此義唯佛能知。

(書き下し文)
無明の熏習に依りて起こす所の識は、凡夫の能く知るものにあらず。亦た二乘の智慧の覺す所にあらず。謂わく菩薩、初め正信従り發心し、觀察して若し法身を證すれば少分知るところを得。乃至、菩薩の究竟地、知り盡くす能わず。唯佛のみ窮めて了すのみ。何を以ての故に。この心、本より已來、自性清淨あり。而して無明あり。無明の染する所にに依りて其の染心あり。染心ありと雖も而して常恒不變なり。この故にこの義、唯佛能く知るのみ。

(現代語訳)
無明の働きによって起こす心は、凡夫が分かるものではない。また、声聞や縁覚の智慧で覚れるものでもない。菩薩が初めて正しい信心を獲て発心し、観法によりもし初地に至れば少し知ることができる。それから菩薩の十地に至っても、すべて知ることはできない。ただ仏だけがすべて知ることができる。それはなぜか。この心はもとより自性清浄であるが、無明がある。無明の働きによって迷いの心がある。迷いの心があるのに、自性清浄心は常に不変である。こういうことだから、この意味はただ仏が知るのみである。

忽然念起と六染(枝末無明をなくす)

所謂心性常無念。故名爲不變。以不達一法界故心不相應忽然念起名爲無明。
染心者有六種。云何爲六。一者執相應染。依二乘解脱及信相應地遠離故。
二者不斷相應染。依信相應地修學方便漸漸能捨。得淨心地究竟離故。
三者分別智相應染。依具戒地漸離。乃至無相方便地究竟離故。
四者現色不相應染依色自在地能離故。
五者能見心不相應染。依心自在地能離故。
六者根本業不相應染。依菩薩盡地得入如來地能離故。

(書き下し文)
謂う所の心性は常に無念なり。故に名づけて不變となす。一法界に達せざるを以ての故に心相應せず、忽然として念を起こすものを名づけて無明となす。
染心は六種あり。云何が六となす。
一には執相應染なり。二乘の解脱及び信相應地に遠離するに依るが故に。
二には不斷相應染なり。信相應地、方便を修學し、漸漸に能く捨つ。淨心地を得て、究竟離るるに依るが故に。
三には分別智相應染なり。具戒地に漸く離る。乃至、無相方便地、究竟離るるに依るが故に。
四には現色不相應染なり。色自在地に能く離るるに依るが故に。
五には能見心不相應染なり。心自在地に能く離るるに依るが故に。
六には根本業不相應染なり。菩薩盡地より如來地に入るを得て能く離るるに依るが故に。

(現代語訳)
真如の本性である自性清浄心は常に妄念がない。だから不変である。絶対の世界に到達できないことにより、真如と相応せず、忽然と妄念を起こすものを無明という。
迷いの心に6つある。どのような6つか。
1つには「執相應染」である。声聞や縁覚が解脱した時、菩薩は十住の位で離れることができる。
2つには「不斷相應染」である。十住から導かれる修行を行って十行、十廻向と三賢位で少しずつなくなっていき、初地に至って完全になくなる。
3つには「分別智相應染」である。三聚浄戒を具える第二地でようやくなくなり始め、第七地で完全になくなる。
4つには「現色不相應染」である。第八地でなくなる。
5つには「能見心不相應染」である。第九地でなくなる。
6つには「根本業不相應染」である。第十地から仏覚を得て、なくなる。

根本無明をなくす

不了一法界義者。從信相應地觀察學斷。入淨心地隨分得離。
乃至如來地能究竟離故。言相應義者。謂心念法異。依染淨差別。而知相縁相同故。不相應義者。謂即心不覺常無別異。不同知相縁相故。又染心義者。名爲煩惱礙。能障眞如根本智故。無明義者。名爲智礙。能障世間自然業智故。此義云何。以依染心能見能現。妄取境界違平等性故。以一切法常靜無有起相。無明不覺妄與法違故。不能得隨順世間一切境界種種智故

(書き下し文)
一法界を了せずという義は、信相應地より觀察し學斷す。淨心地に入り、分に隨い離るることを得。乃至、如來地に能く究竟離るるが故に。
相應と言う義は、謂く心と念法と異なる染淨の差別に依り、而して知相と縁相と同じきが故に。
不相應の義は、謂わく心に即きて不覺常に別異なく知相と縁相と不同なるが故に。
又た染心の義は、名づけて煩惱礙となす。能く眞如根本智を障する故に。
無明の義は、名づけて智礙となす。能く世間自然業智を障するが故に。
この義云何ぞ。以て染心に依りて能見能く現ず。境界を妄取し平等性を違えるが故に。以て一切法は常に靜かにして起相あることなし。無明不覺の妄、法と違えるが故に。世間の一切境界を隨順して種種の智得ること能わざるが故に

(現代語訳)
この中で、「真如が分からない」という意味は、菩薩は十住から、十行、十廻向の三賢位で観察の修行を行い、学階によって少しずつ断っていく。初地に入って、その段階に応じて離れていく。そして仏のさとりを得て、完全に断ち切り、真如を体得することができるからである。
迷いの最初の3つの「相応」という意味は、覚りではなく迷いなので、主観と客観が異なるが、認識するイメージと対象のイメージが同じだからである。
残りの3つの「不相応」という意味は、不覚は常に異なることなく心を覆っているために、認識するイメージと、迷いが晴れた対象のイメージとは同じではないからである。
「染心」という意味は、煩悩障である。それは真如根本智を妨げるものである。
「無明」という意味は、所知障である。世間自然業智(仏の後得智)を妨げるものである。
これはどういう意味か。無明が真如根本智を妨げていると思うかもしれないが、煩悩障によって主観が現れ、虚構の対象を認識して、平等性を失うからである。この世のすべては常に静寂で、分別で切り取られたすがたはない。しかし無明の不覚の迷いによって、実体があると思い込み、この世のどんな対象にも執着して、諸々の智慧を得ることができないからである。

生滅の相

復次分別生滅相者有二種。云何爲二。一者麁。與心相應故。二者細。與心不相應故。又麁中之麁凡夫境界。麁中之細及細中之麁菩薩境界。細中之細是佛境界。此二種生滅。依於無明熏習而有。所謂依因依縁。依因者。不覺義故。依縁者。妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故不相應心滅。縁滅故相應心滅
問曰。若心滅者云何相續。若相續者云何説究竟滅
答曰。所言滅者。唯心相滅非心體滅。如風依水而有動相。若水滅者。則風相斷絶無所依止。以水不滅風相相續。唯風滅故動相隨滅非是水滅。無明亦爾。依心體而動。若心體滅。則衆生斷絶無所依止。以體不滅心得相續。唯癡滅故心相隨滅非心智滅

(書き下し文)
復た次に生滅の相を分別せば二種あり。云何が二となす。一には麁なり。心と相應するが故に。二には細なり。心と相應せざるが故に。又た麁中の麁は凡夫の境界なり。麁中の細及び細中の麁は菩薩の境界なり。細中の細これ佛の境界なり。この二種の生滅、無明の熏習に依りて有り。所謂因に依ると縁に依るなり。因に依るは不覺の義の故なり。縁に依るは。妄りに境界を作る義の故なり。若し因滅すれぱ則ち縁滅す。因滅するが故に不相應心滅す。縁滅するが故に相應心滅す。
問いて曰く、若し心滅すれば云何ぞ相續する。若し相續すれば云何ぞ究竟の滅を説く。
答えて曰く、言う所の滅は、唯心相の滅にして心體の滅にあらず。風の水に依りて動相あるがごとし。若し水滅すれば則ち風相斷絶して依止する所なし。水滅さずを以て風相、相續す。唯風滅するが故に動相隨いて滅す。是れ水の滅にあらず。
無明亦た爾り。心體に依りて動ず。若し心體滅すれば則ち衆生斷絶して依止する所なし。體滅さざるを以て心、相續を得。唯だ癡滅するが故に心相隨いて滅するも心智滅するにあらず。

(現代語訳)
次に認識の現れを区別すると2つある。1つは「麁」、心と相応するものである。「執相應染」、「不斷相應染」、「分別智相應染」の3つはこれである。2つには「細」、心と相応しないものである。「現色不相應染」、「能見心不相應染」、「根本業不相應染」の3つはこれである。麁の中の麁(執相應染)は凡夫の心の世界である。麁の中の細(不斷相應染、分別智相應染)、細の中の麁(現色不相應染、能見心不相應染)は菩薩がなくしていく心の世界である。細の中の細(根本業不相應染)は、仏だけがなくすことができた心の世界である。
次に心の認識には因と縁がある。因によるというのは、不覚によって生じることである。縁によるとは、それによって虚構の対象を生み出すことである。だから因がなくなれば縁もなくなる。因がなくなれば、根本業、能見心、現識の3つの不相応心がなくなる。縁がなくなるので、分別智、不断、執の3つの相応心もなくなる。
問い。もし心が滅すならなぜ相続するのか。もし相続するならなぜ究極の滅があるのか。
答え。心が滅すといったのは、ただ心の現れが滅すのであって、本質が滅すのではない。風は水によって目に見える動きが現れるようなものである。もし水がなければ、風の現れは途絶え、拠り所がなくなってしまう。水がなくならないことによって、風の現れが相続する。風がなくなることによって風の現れがなくなるのであって、水がなくなったのではない。
無明もまたそのようなものである。心の本質によって動きが現れる。もし心の本質が滅すれば、衆生も途絶えて拠り所がない。しかし本質はなくならないので、心は相続する。ただ無明がなくなるので、分別はなくなる。しかし心の本質である無分別智がなくなるのではないのである。

薫習

4つの要素と薫習の意味

復次有四種法熏習義故。染法淨法起不斷絶。云何爲四。一者淨法。名爲眞如。二者一切染因。名爲無明三者妄心。名爲業識四者妄境界。所謂六塵。
熏習義者。如世間衣服實無於香。若人以香而熏習故則有香氣。此亦如是。眞如淨法實無於染。但以無明而熏習故則有染相。無明染法實無淨業。但以眞如而熏習故則有淨用。

(書き下し文)
復た次に四種の法熏習の義あるが故に染法、淨法起こりて斷絶せず。云何が四となす。一には淨法、名づけて眞如となす。二つには一切染因、名づけて無明となす。三らは妄心、名づけて業識となす。四には妄境界、所謂六塵なり。
熏習の義は、世間の衣服、實には香なきが如し。若し人香をもって熏習するが故なれば則ち香氣あり。此れ亦た是の如し。眞如の淨法實には染なし。但だ無明を以て熏習するが故なれば則ち染相あり。無明染法實に淨業なし。但し眞如を以て熏習するが故なれば則ち淨用あり。

(現代語訳)
次に4つの法の薫習があるので、迷いの法や浄らかな法が生じて断絶しない。どのような4つか。1つには「浄法」、真如のことである。2つには一切の迷いの因、「無明」のことである。3つには迷いの心、「業識」のことである。4つには、妄想、いわゆる色声香味触法の六塵である。
薫習の意味は、世の中の衣服は、本来香があるわけではないようなものである。人が香で薫習するから香が漂うのである。これもそれと同じようなものである。真如のきよらかな法には、本来迷いがあるのではない。ただ無明で薫習するので迷いの現れがあるのである。無明の迷いのにはきよらかな働きはない。しかし真如によって薫習されるので、きよらかな働きがあるのである。

染法薫習(妄境界・妄心・無明)

云何熏習起染法不斷。所謂以依眞如法故有於無明。以有無明染法因故即熏習眞如。以熏習故則有妄心。以有妄心即熏習無明。不了眞如法故不覺念起現妄境界。以有妄境界染法縁故即熏習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。此妄境界熏習義則有二種。云何爲二。一者増長念熏習。二者増長取熏習。妄心熏習義則有二種。云何爲二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支佛一切菩薩生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫業繋苦故。無明熏習義
有二種。云何爲二。一者根本熏習。以能成就業識義故。二者所起見愛熏習。以能成就分別事識義故。

(書き下し文)
云何が熏習、染法を起して斷ぜざるや。謂う所の眞如の法に依るを以ての故に無明あり。無明染法の因あるを以ての故に即ち眞如に熏習す。熏習するを以ての故に則ち妄心あり。妄心あるを以て即ち無明に熏習して眞如の法を了せざるが故に不覺の念起こりて妄境界を現ず。妄境界染法の縁あるを以て故に即ち妄心に熏習し、其の念をして著して種種の業を造り、一切の身心等の苦を受けしむ。
此の妄境界の熏習の義に則ち二種あり。云何が二となす。一には増長念熏習、二には増長取熏習なり。
妄心熏習の義に則ち二種あり。云何が二となす。一には業識根本熏習なり。能く阿羅漢、辟支佛、一切の菩薩、生滅の苦を受くが故に。二には増長分別事識熏習なり。能く凡夫、業繋の苦を受くが故に。
無明熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には根本熏習なり。能く業識を成就する義を以ての故に。二には所起見愛熏習なり。能く分別事識を成就する義を以ての故に。

(現代語訳)
どのように薫習は、迷いを生じて持続するのか。いわゆる真如の法の場に無明がある。無明という迷いの因によって真如に薫習する。薫習するために迷いが生じる。迷いがあるために無明に薫習し、真如の法が分からないために、不覚の念が生じて、虚構の対象を顕現する。虚構の対象という迷いの縁によって迷いの心に薫習し、その心が執着して色々の業を造り,あらゆる体と心の苦しみを受ける。
この虚構なる対象(妄境界)の薫習の意味に2つある。どのような2つか。1つには、迷いの心を増長する熏習、2つには執着を増長する熏習である。
対象を見る心(妄心)の薫習の意味にも2つある。どのような2つか。1つには、業識(阿頼耶識)の根本的な熏習である。これにより阿羅漢、辟支仏、あらゆる菩薩が変易生死の苦を受ける。2つには分別事識を増長する熏習である。これにより凡夫が業に縛られて(分断生死に)苦しむ。
無明の薫習の意味にも2つある。1つには根本(根本無明による)熏習である。これにより業識(阿頼耶識)を成就するという意味がある。2つには枝末無明である見愛などの煩悩による熏習である。これにより分別事識(意識)を成就するという意味がある。

浄法薫習

云何熏習起淨法不斷。所謂以有眞如法故能熏習無明。以熏習因縁力故。則令妄心厭生死苦樂求涅槃。以此妄心有厭求因縁故即熏習眞如。自信己性。知心妄動無前境界。修遠離法。以如實知無前境界故。種種方便起隨順行不取不念。乃至久遠熏習力故無明則滅。以無明滅故心無有起。以無起故境界隨滅。以因縁倶滅故心相皆盡。名得涅槃成自然業。

(書き下し文)
云何が熏習、淨法を起こして斷ぜざるや。所謂眞如の法あるを以ての故に能く無明を熏習す。熏習の因縁力を以ての故に則ち妄心をして生死の苦を厭い涅槃を樂求せしむ。この妄心、厭求の因縁あるを以ての故に即ち眞如に熏習す。自ら己の性を信ず。心の妄動を知りて前の境界なしと遠離の法を修して、如實に前境界なしと知るを以ての故に。種種の方便、隨順行を起こし取せず念ぜず。乃至、久遠の熏習力の故に無明則ち滅す。無明滅すを以ての故に心起こることあることなし。起こることなきを以ての故に境界隨いて滅す。因縁倶に滅するを以ての故に心相、皆盡くす。涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。

(現代語訳)
どのように薫習は覚りを得しめて持続させるのか。いわゆる真如の法があるから無明を薫習する。薫習の因縁の力により、迷いの心に輪廻の苦を厭い、涅槃の楽を求める心を起こさせる。この迷いの心は、迷いを厭い、さとりを求める因縁があるため、真如に薫習される。自らの(仏教に説かれる迷える助かる縁手がかりのない)本性を信じ、心の迷える動きを知らされ、目の前の対象はそのようにあるわけではないと、迷いを離れる修行を行い、真実に目の前の対象はなかったと知らされるからである。色々な仏の導きにより、それに従う行を実行して執着しないように、心を動かさないようにつとめる。こうして、果てしない遠い過去からの仏力によって無明を滅す。無明が滅するために、迷いの心は起こることはない。それに従って対象も滅す。因も縁も滅するために心の現れも皆なくなる。これを、涅槃を得て、仏の救済事業が完成するという。

妄心薫習

妄心熏習義有二種。云何爲二。一者分別事識熏習。依諸凡夫二乘人等。厭生死苦隨力所能。以漸趣向無上道故。二者意熏習。謂諸菩薩發心勇猛速趣涅槃故。

(書き下し文)
妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には「分別事識熏習」なり。諸の凡夫、二乘の人等、生死の苦を厭い、力の能(た)う所に随い、以て漸く無上道に趣くに依るが故に。
二には「意熏習」なり。謂く諸の菩薩、發心して勇猛にして速やかに涅槃に趣く故に。

(現代語訳)
(妄心に真如が薫習する)妄心熏習の意味に2つある。
1つは分別事識(意識)熏習である。
色々な人間や、声聞、縁覚の人など、生死の苦しみを厭い、力のたえられる分に応じて、それによってようやく仏のさとりに向かうからである。
2つには意(業識)熏習である。
色々な菩薩は、菩提心をおこして勇猛に精進して、速やかに涅槃に向かうからである。

真如薫習1自体相薫習

眞如熏習義有二種。云何爲二。一者自體相熏習。二者用熏習。自體相熏習者。從無始世來具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義恒常熏習。以有力故能令衆生厭生死苦樂求涅槃。自信己身有眞如法發心修行
問曰。若如是義者。一切衆生悉有眞如等皆熏習。云何有信無信。無量前後差別。皆應一時自知有眞如法。勤修方便等入涅槃
答曰。眞如本一。而有無量無邊無明。從本已來自性差別厚薄不同故。過恒沙等上煩惱依無明起差別。我見愛染煩惱依無明起差別。如是一切煩惱。依於無明所起。前後無量差別。唯如來能知故。又諸佛法有因有縁。因縁具足乃得成辦。如木中火性是火正因。若無人知不假方便能自燒木。無有是處。衆生亦爾。雖有正因熏習之力。若不値遇諸佛菩薩善知識等以之爲縁。能自斷煩惱入涅槃者。則無是處。若雖有外縁之力。而内淨法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。若因縁具足者。所謂自有熏習之力。又爲諸佛菩薩等慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃修習善根。以修善根成熟故。則値諸佛菩薩示教利喜。乃能進趣向涅槃道

(書き下し文)
眞如熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には自體相熏習なり。二には用熏習なり。
自體相熏習とは無始の世よりこのかた、具(つぶさ)に無漏法、備えて不思議業ありて境界の性を作る。この二義に依りて恒常に熏習する力あるを以ての故に能く衆生をして生死苦を厭わしめ涅槃を樂求せしむ。自ら己の身と眞如の法ありとを信じて發心し、修行す。
問いて曰く。若し是の如くの義ならば、一切衆生悉く眞如等ありて皆熏習す。云何が有信と無信ありて無量の前後差別あるや。皆應に一時に自ら眞如の法ありと知り方便等を勤修して涅槃に入るぺし。
答えて曰く。眞如本一つなり。而して無量無邊の無明あり。本より已來、自性の差別厚薄不同なるが故に。過恒沙等の上煩惱、無明によりて差別を起こす。我見愛染煩惱、無明に依りて差別を起こす。是の如く一切の煩惱、無明に依りて起きる所となり、前後無量の差別あり。唯如來のみ能く知るが故に。
又た諸佛の法、因あり縁あり。因縁具足して乃ち成辦を得。木の中の火性これ火の正因にして、若し人知ることなくして、方便を假らず、能く自ら木を燒くこと、是くある處(ことわり)なきが如し。衆生亦た爾り。正因熏習の力ありと雖も若し諸佛菩薩善知識等と値遇して以て之を縁となさずば、能く自ら煩惱を斷じて涅槃に入るは則ち是くの處なし。若し外縁の力ありと雖も而して内淨法の未だ熏習力あらざる者は亦た究竟して生死の苦を厭い涅槃を樂求すること能わず。若し因縁具足する者は所謂自ら熏習の力あり。又た諸佛菩薩等の慈悲の爲に願護せられるが故に、能く厭苦の心を起こし、涅槃ありと信じて善根を修習す。善根を修し成熟するを以ての故に則ち諸佛菩薩、教えを示すに値い、利喜す。乃ち能く進みて涅槃の道に趣く。

(現代語訳)
「眞如熏習」の意味に2つある。どのような2つか。1つには「自體相熏習」、2つには「用熏習」である。
「自體相熏習」とは、始まりのない始まりから、ことごとく無漏の法がゆきわたり、想像もできない働きがあり、環境を整えていた。この二つの働き(想像もできない働き、環境を整える働き)によって、常に薫習する力が働きかけてきたから、衆生に生死の苦を離れて涅槃に入りたいという気持ちを起こさせるのである。自ら(仏教に説かれる)自己の姿と真実の法があることを信じ菩提を求める心を発して修行するのである。
問い。もしそのような意味なのであれば、すべての人は、ことごとく真如によってみな薫習されるはずなのに、なぜ信じる人と信じない人がいて、救われるのに限りない前後があるのか。みな同時に自分で真如の法があると知らされ、導かれる方便の行を実践して涅槃に入るはずだ。
答え。真如の働きかけは本来同じである。ところが無明の深さと広さに限りがない。衆生一人一人の無明が異なり、厚い薄いが同じではないからである。ガンジス河の砂の数以上の所知障は無明によって違いを生じ、煩悩障も無明によって違いを生じる。このように、一切の煩悩は無明によってじ、救われるのに限りない前後ができるのである。それはただ仏のみが知ることである。
 また、仏教には因と縁が説かれ、因と縁が和合して結果が生じる。木の中の燃える性質が、火の因である。しかし人がこのことを知らず、手段の力を借りなければ、自然に発火することはありえない。衆生もそのようなものである。正因である薫習の働きかける力があっても、もし諸仏・菩薩、善知識などとめぐりあい、それを縁としなければ、自分で煩悩を断ち切って涅槃に入る、そのようなことはありえない。もし外からの働きかけがあっても、内なる浄法(宿善)が熟していない人はまた究極的に生死の苦を厭い、涅槃を求めることができない。もし因縁がそろった人は、自然に薫習の力が働く。また、諸仏菩薩などの慈悲によって願い護られるので、そのお力で苦しみを厭う心を起こし、涅槃があると信じて善を実践する。善を実践し、宿善が熟するために、諸仏菩薩の教えにめぐりあうことができ、喜ぶ。そして涅槃への道を進んでいくのである。

真如薫習2用薫習

用熏習者。即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義。略説二種。云何爲二。一者差別縁。二者平等縁。
差別縁者。此人依於諸佛菩薩等。從初發意始求道時乃至得佛。於中若見若念。或爲眷屬父母諸親。或爲給使。或爲知友。或爲怨家。或起四攝乃至一切所作無量行縁。以起大悲熏習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。此縁有二種。云何爲二。一者近縁。速得度故。二者遠縁。久遠得度故。是近遠二縁。分別復有二種。云何爲二。一者増長行縁。二者受道縁。
平等縁者。一切諸佛菩薩。皆願度脱一切衆生。自然熏習恒常不捨。以同體智力故。隨應見聞而現作業。所謂衆生依於三昧。乃得平等見諸佛故。

(書き下し文)
用熏習とは即ち是れ衆生外縁の力なり。是くの如き外縁に無量の義あり。略して二種を説く。云何が二となす。一には差別縁、二には平等縁なり。
差別縁とは、この人諸佛菩薩等に依りて、初めて發意し、求道を始めし時より乃至佛を得る中に於て、若しは見、若しは念ず。或いは眷屬父母諸親となり、或いは給使となり、或いは知友となり、或いは怨家となり、或いは四攝を起こし、乃至一切、無量の行縁を作る所なり。大悲熏習の力を起こすを以て能く衆生をして善根を増長せしむ。若しは見、若しは聞いて利益を得る故に。この縁に二種あり。云何が二となす。一には近縁なり。速やかに得度する故に。二には遠縁なり。久遠に得度する故に。
この近遠二縁の分別、復た二種あり。云何が二となす。一には増長行縁、二には受道縁なり。
平等縁とは、一切の諸佛菩薩、皆一切衆生を度脱せんことを願う。自然の熏習、恒常にして捨てず。同體の智の力を以ての故に。見聞に隨い應じて作業を現ず。所謂衆生三昧に依りて乃ち平等に諸佛を見ることを得るが故に。

(現代語訳)
「用熏習」とは衆生に外から働きかける力である。このような外からの働きかけにも限りなくたくさんの意味があるから、大きく2つにわけて説く。どのような2つかというと、1つには「差別縁」、2つには「平等縁」である。
「差別縁」とは、この人は、諸仏菩薩などの教えにあい、初めて仏道を志し、求道を始めた時から仏の覚りを得るまでの間に、時には見たり、時には思ったりする、仲間や父母、親族になったり、従業員になったり、友達になったり、敵になったりする。そして人々を救うために布施をし、愛語し、利益をはかり、同じ仕事をする四攝という4つの活動を行う。そしてとにかく一切の数限りもない仏縁を結ぼうとするのである。仏の大慈悲は、薫習の力を起こすことによって人々に善根を実践ざる。見たり聞いたりして幸せをうるからである。
この働きかける力に2つある。どんな2つか。一つには近縁である。宿善の厚い人は速やかに救われるからである。2つには遠縁である。宿善の薄い人は救われるのに時間がかかるからである。
この近縁と遠縁の2つの分別にまた2つある。どんな2つか。1つには増長行縁(行を実践させる方便の働き)、二つには受道縁(さとりを獲させる真実の働き)である。
「平等縁」とは、あらゆる諸仏と菩薩は、みなすべての人を救おうと願っている。その願いによる働きかけは、途切れることなく、捨てることもない。真如と本質的に同じ智慧の力によるからである。人々が仏を礼拝したり、仏教を聞いたりすることに応じて,導く働きを現す。いわゆる、人は三昧により、平等に諸仏を拝見することができるからである。

真如薫習3体と用の未相応已相応

此體用熏習。分別復有二種。云何爲二。一者未相應。謂凡夫二乘初發意菩薩等。以意意識熏習。依信力故而能修行。未得無分別心與體相應故。未得自在業修行與用相應故。二者已相應。謂法身菩薩得無分別心。與諸佛智用相應。唯依法力自然修行。熏習眞如滅無明故

(書き下し文)
この體と用の熏習、分別するに復た二種あり。云何が二となす。一には未相應なり。謂く凡夫、二乘、初發意の菩薩等、意、意識熏習を以て信力に依るが故に而して能く修行す。未だ無分別心、體と相應を得ざるが故と、未だ自在業修行、用と相應するを得ざるが故に。二には已相應なり。謂く法身の菩薩、無分別心を得る。諸佛と智用相應す。唯法力自然の修行に依りて眞如を熏習し、無明を滅するが故に。

(現代語訳)
この真如薫習の自体相薫習と用薫習を、今度は衆生の側から分別するとまた2つある。どのような2つか。
1つには「未相應」である。凡夫や声聞、縁覚、初めて仏道を志した菩薩など、業識への薫習と意識への薫習によって、仏教を信じる力を拠り所として修行を行う。未だ無分別智が、その人の体と相応していないし、自在に衆生済度する働きが、その人の活動と相応していないからである。
2つには、「已相應」である。法身の菩薩は無分別智を得る。諸仏と智慧の本質も慈悲の活動も相応する。ただ真如の力による修行で真如を薫習し、無明をなくすからである。

染と浄は尽きるかどうか

復次染法從無始已來熏習不斷。乃至得佛後則有斷。淨法熏習則無有斷盡於未來。此義云何。以眞如法常熏習故。妄心則滅法身顯現。起用熏習故無有斷

(書き下し文)
復た次に染法、無始より已來、熏習、斷ぜず。乃至、佛を得て後に則ち斷あり。淨法熏習、則ち未來を尽くして斷あることなし。この義云何ぞ。眞如の法、常に熏習するを以ての故に。妄心則ち滅して法身顯現す。用を起こして熏習する故に斷あることなし

(現代語訳)
次に染法薫習は、果てしない過去から途切れたことはないが、仏のさとりを得るとなくなる。淨法熏習は未来永遠に途切れることはない。これはどういう意味か。真如の法は常に働きかけるからである。迷いがなくなって法身が顕現する。そうなれば真如の衆生救済の働きが現れるから、途切れることはないのである。

体大と相大

復次眞如自體相者。一切凡夫聲聞縁覺菩薩諸佛無有増減。非前際生非後際滅畢竟常恒。
從本已來性自滿足一切功徳。所謂自體有大智慧光明義故。遍照法界義故。眞實識知義故。自性清淨心義故。常樂我淨義故。清涼不變自在義故。具足如是過於恒沙不離不斷不異不思議佛法。乃至滿足無有所少義故。名爲如來藏。亦名如來法身

(書き下し文)
復た次に眞如の自の體と相とは、一切の凡夫、聲聞、縁覺、菩薩、諸佛、増減あることなし。前際生ずるにあらず、後際滅するにあらず、畢竟常恒なり。
本より已來、性自ら一切の功徳を滿足す。謂う所の自體、大智慧光明の義あるが故に。遍照法界の義あるが故に。眞實識知の義あるが故に。自性清淨心の義の故に。常樂我淨の義の故に。清涼不變自在の義の故に。是くの如く恒沙に過ぐ不離不斷不異不思議の佛の法を具足す。乃至、滿足して少(か)く所あることなき義の故に名づけて如來藏となす。亦た名けて如來法身なり。

(現代語訳)
また次に真如そのものの本質と現れは、一切の凡夫、声聞、縁覚、菩薩、諸仏に対して多いとか少ないということはない。過去に生じたのでも無ければ、未来になくなるのでもない。常に同じである。本来、真如の本質にはあらゆる功徳が満ち足りている。例えば偉大な智慧の働きがある。世界をあまねく照らす働きがある。また、真実識知(その知がすべて真実に合致する)であり、自性清浄身であり、常楽我浄であり、清涼不変自在である。このようなガンジス河の砂の数よりも多い、離れもしない、途切れもしない、異なりもしない、想像もできない仏の法を具えている。そして完全が、絶対に欠点はないから、「如来蔵」とも、「如来法身」とも名づけるのである。

Q&A

問曰。上説眞如其體平等離一切相。云何復説體有如是種種功徳
答曰。雖實有此諸功徳義。而無差別之相。等同一味唯一眞如。此義云何。以無分別離分別相。是故無二。復以何義得説差別。以依業識生滅相示。此云何示。以一切法本來唯心實無於念。而有妄心不覺起念見諸境界故説無明。心性不起即是大智慧光明義故。若心起見則有不見之相。心性離見即是遍照法界義故。若心有動非眞識知無有自性。非常非樂非我非淨。熱惱衰變則不自在。乃至具有過恒沙等妄染之義。對此義故。心性無動則有過恒沙等諸淨功徳相義示現。若心有起。更見前法可念者則有所少。如是淨法無量功徳。即是一心更無所念。是故滿足名爲法身如來之藏

(書き下し文)
問いて曰く、上に眞如其の體平等にして一切の相を離ると説く。云何ぞ復た體に是の如き種種の功徳ありと説くや。
答えて曰く、實に、この諸功徳の義ありと雖も、而して差別の相なし。等同一味にして唯一眞如なり。この義云何ぞ。無分別を以て分別の相を離る。是の故に無二なり。復た何れの義を以てか差別を説くを得んや。業識の生滅の相に依りて示すを以てなり。これ云何が示すや。一切の法、本來唯心にして實に念なきに、而して妄心あり。不覺にして念を起こし、諸の境界を見るを以ての故に無明を説く。心性に起きざれば即ち是れ大智慧光明の義の故に。若し心、見を起こせば則ち不見の相あり。心性に見を離れれば即ち是れ遍照法界の義の故に。若し心動きありて眞識知にあらざれば、自性あることなし。常にあらず樂にあらず我にあらず淨にあらずして熱惱し衰變せば則ち自在ならず。乃至、具(つぶさ)に過恒沙等の妄染の義あり。この義に対する故に心性動きなくば則ち過恒沙等の諸の淨功徳相の義ありて示現す。若し心起ありて更に前法の可念なるを見れば則ち少(か)く所あり。是くの如く淨法の無量の功徳は即ち是れ一心にして更に念ずる所なし。是の故に滿足するを名づけて法身如來の藏となす。

(現代語訳)
問い。さきほど真如の本質は平等であらゆるすがたを離れると説いたのに,なぜまた本質にこのような色々な功徳があると説くのか。
答え。実にこのような色々な功徳があるといっても、何かと比較相対した現れではない。どれも等しく同じ絶対の味わいであり、唯一の真如である。これはどういう意味か。無分別智によって、区別されたすがたを離れている。だから絶対である。どういう意味で比較相対して説くことができるのか。業識から展開する様々な現象に基づいて示しているからである。それはどのように示しているのか。この世のすべては本来ただ心のみで無分別であるが、迷いの心がある。不覚によって分別が起こり、様々な対象を見るので無明という。心の本質に無明が起きなければ、これを大智慧光明という。もし心に主観が起きれば、主観では見えないものが生じる。心に主観を離れれば、これを遍照法界というのである。もし心に動きがあって真の判断力がなければ、拠り所となる本質もない。永遠を求め、楽を求め、我に執着し、浄を希うけれども、事実はその逆であるため、苦しみ悩み、衰え滅び行く。だから思い通りにはならないのである。以下省略するが、すべてを尽くせばガンジス川の砂の数以上の種類の妄染がある。その一つ一つに対する功徳があるから、心の動きが無くなれば、ガンジス川の砂よりも多くの数限りもないきよらかな功徳が生じる。
もし心に妄念が起きて、認識対象が実在すると考えれば、功徳が欠けてしまう。このように真如の限りない功徳は唯一絶対にして,決して妄念は存在しない。それによって無量の功徳があることを法身とも如来蔵とも言うのである。

用大

復次眞如用者。所謂諸佛如來。本在因地發大慈悲。修諸波羅蜜攝化衆生。立大誓願盡欲度脱等衆生界。亦不限劫數盡於未來。以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。此以何義。謂如實知一切衆生及與己身眞如平等無別異故。以有如是大方便智。除滅無明見本法身。自然而有不思議業種種之用。即與眞如等遍一切處。又亦無有用相可得。何以故。謂諸佛如來唯是法身智相之身。第一義諦無有世諦境界。離於施作。但隨衆生見聞得益故説爲用。

(書き下し文)
復た次に眞如の用とは所謂諸佛如來なり。本因地に在りて大慈悲を發す。諸波羅蜜を修し衆生を攝化す。大誓願を立て、盡く等しく衆生界を度脱せんと欲す。亦た劫數を限らず未來を盡くす。一切の衆生、己身の如く取を以ての故に。而して亦た衆生相を取せず。これ何の義を以てか。謂く如實に一切衆生を知ると、及び己身とは眞如平等にして別異なきが故に。是の如き大方便智あるを以て無明を除滅し本の法身を見(あらわ)す。自然に不思議の業、種種の用あり。即ち眞如と等しく一切處を遍く。又た亦た用相、得べきものあることなし。何を以ての故に。謂く諸佛如來、唯だ是れ法身智相の身なり。第一義諦にして、世諦の境界あることなし。施作を離る。但だ衆生の見聞に隨いて得益せしむ故に説いて用となす。

(現代語訳)
次に真如の働きとはいわゆる諸仏如来である。もともと仏を目指す段階で大慈悲心を起こす。六波羅蜜を修行して人々を教え導く。大誓願を立てて、ことごとく平等に人々を救済したいと願う。また、期限を設けず未来永遠に救い続ける。あらゆる衆生を自分自身のように思うからである。しかし衆生のすがたに執着することはない。それはなぜか。すべての人の真実の姿を見抜いていることと、自分と真如が一つになっていることからである。このような偉大な導く智慧の働きによって無明を破られ、本来の法身を見る。仏力によって、想像もできない仏の働きには色々の作用がある。その作用は、真如と同じくあらゆるところにゆきわたっている。しかしその作用の表れを知ることはできない。それはなぜか。諸仏如来は色も形もない法身だからである。言葉を離れた絶対の真如であり、相対的な真如ではない。認識を超えている。ただ、人々の認識にしたがって導くために、言葉を遣って作用と言っているのである。

応身と報身

此用有二種。云何爲二。一者依分別事識。凡夫二乘心所見者。名爲應身。以不知轉識現故見從外來。取色分齊不能盡知故。二者依於業識。謂諸菩薩從初發意。乃至菩薩究竟地心所見者。名爲報身。身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種莊嚴隨所示現即無有邊不可窮盡離分齊相。隨其所應常能住持不毀不失。如是功徳皆因諸波羅蜜等無漏行熏。及不思議熏之所成就。具足無量樂相故。説爲報身。

(書き下し文)
この用に二種あり。云何が二となす。一には分別事識に依るなり。凡夫、二乘の心、見る所の者は名づけて應身となす。轉識現ずるを知らざるを以ての故に外より來ると見る。取色の分齊、盡く知る能わざる故に。二には業識に依るなり。謂く諸菩薩、初發意より乃至、菩薩究竟地の心、見る所の者は、名づけて報身となす。身、無量の色あり。色、無量の相あり。相、無量の好あり。住する所の依果も亦た無量種種の莊嚴あり。隨所に示現すれば即ち邊あることなく窮むべからずして、盡く分齊の相を離る。其の應ずる所に隨い常に能く住持して毀せず失せず。是の如き功徳皆、諸波羅蜜等、無漏の行熏と、及び不思議熏の成就する所に因るものなり。無量の樂相を具足するが故に説いて報身となす。

(現代語訳)
この作用に2つある。どのような2つであるか。
1つには意識によるものである。人間、声聞、縁覚の心にうつる仏は、応身という。転識が現れていることを知らないので、外から来たものと思う。自分の心がイメージを生みだしていると知らないために、外界の実在を認識していると思い込んでいる。概念に分けて認識し、その働きすべてを知ることはできないからである。
2つには業識によるものである。それは諸菩薩が初めて仏道を志して以来、最高の境地に至るまでの心にうつるのは、報身という。報身には数限りもない色形がある。報身の色形には、応身の立派な特徴である三十二相だけでなく、数限りもない特徴がある。報身の相には応身の小さな特徴である八十随行好に限らず、数限りもない小さな特徴がある。仏のまします依報である浄土にも数限りもない色々な荘厳がある。それは場所であるかのように顕現するので、広さに限りがなく、極まることがない。あらゆる概念化された認識を離れている。相手に応じて常に現れ続けて壊れることも失われることもない。このような功徳はみな、六波羅蜜などの煩悩を離れた清らかな善の薫習と、想像もできない真如の薫習によってできあがった結果である。数限りもないすばらしいありさまを具えているために、報身という。

凡夫は応身・菩薩は報身を見る

又爲凡夫所見 者是其麁色。隨於六道各見不同。種種異類非受樂相故。説爲應身復次初發意菩薩等所見者。以深信眞如法故少分而見。知彼色相莊嚴等事。無來無去離於分齊。唯依心現不離眞如。然此菩薩猶自分別。以未入法身位故。若得淨心所見微妙其用轉勝。乃至菩薩地盡見之究竟。若離業識則無見相。以諸佛法身無有彼此色相迭相見故
問曰。若諸佛法身離於色相者。云何能現色相
答曰。即此法身是色體故能現於色。所謂從本已來色心不二。以色性即智故色體無形。説名智身。以智性即色故。説名法身遍一切處。所現之色無有分齊。隨心能示十方世界。無量菩薩無量報身。無量莊嚴各各差別。皆無分齊而不相妨。此非心識分別能知。以眞如自在用義故

(書き下し文)
又た凡夫の見る所となすは是れ其の麁い色なり。六道に隨いて各々見、同じからず。種種の異類、樂相を受くにあらざる故に説いて應身となす。
復た次に初發意の菩薩等の見る所の者は、眞如の法を深信するを以ての故に少分に見る。彼の色相、莊嚴等の事、來ることなく去ることなく分齊を離れ唯だ心に依りて現じ眞如を離れずと知る。然してこの菩薩猶し自ら分別す。未だ法身の位に入らざるを以ての故に。若し淨心を得て見る所、微妙にして其の用、轉た勝る。乃至、菩薩地盡きて之を見ること究竟なり。若し業識離れれば則ち見相なし。諸佛の法身、彼此の色相、迭(たが)いに相い見(あら)わるることなきを以ての故に。
問いて曰く、若し諸佛の法身、色相を離るれば云何ぞ能く色相を現ずるや。
答えて曰く、即ちこの法身、是れ色の體なるが故に能く色を現ず。所謂本より已來、色心不二なり。色性即ち智なるを以ての故に色の體、形なきを説いて智身と名づく。智の性即ち色なるを以ての故に説いて法身一切處に遍くと名く。現ずる所の色、分齊あることなし。心に隨って能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の莊嚴を示す。各各差別ありて皆分齊なくして相妨げず。此れ心識の分別の能く知るところにあらず。眞如の自在用の義を以ての故に。

(現代語訳)
人間の目にうつるものは、粗い色形である。迷いの六道のどこにいるかによってそれぞれが見るものは異なる。色々な業によって好ましい姿を受けているように見えないので、応身という。
また次に、初めて仏道を志した菩薩などの目にうつるのは、真如の法を深信しているので、真如を部分的に見る。かの仏の姿や浄土の荘厳などは、来ることもなく去ることもなく、概念を離れ、ただ心に応じて現れ、真如を離れたものではないと知っている。しかし、この菩薩は自ら分別している。いまだ法身を見る初地に入っていないからである。もし初地に入って見れば、すぐれて見事で、その作用はますますすぐれている。そして菩薩の最上位で見るのが究極の報身である。もし業識を離れて仏になれば、転識も現識もないから主観も客観もなく、報身を見ることはない。諸仏の法身は、互いの色形を見ることはないのである。
問い。諸仏の法身が色形を離れているのであれば、どうして色形を現すことがあるのか。
答え。法身は、色形の本質なので、色形を現すことができる。本来、形と本質は別なものではない。色形の本性は智であるから、色形の無形の本質を智身という。智の本性は色形なので、法身はあらゆる場所にゆき届いているという。顕現した色形は区別はない。心に応じて大宇宙の数限りもない菩薩、報身、荘厳を顕現する。それぞれ違いがありながら区別されたものではなく、お互いに妨げない。これは人間の認識の概念で分かるものではない。真如の自在の作用だからである。

生滅門から真如門へ

復次顯示從生滅門即入眞如門。所謂推求五陰色之與心。六塵境界畢竟無念。以心無形相十方求之終不可得。如人迷故謂東爲西方實不轉。衆生亦爾。無明迷故謂心爲念心實不動。若能觀察知心無念。即得隨順入眞如門故

(書き下し文)
復た次に生滅門より即ち眞如門に入ることを顯示す。謂う所は五陰を推求するに色と心とのみとするに、六塵の境界、畢竟無念なり。心の無形相を以て十方に之を求め終に得るべからず。人迷う故に東を謂いて西となすも、方、實に轉ぜざるが如し。衆生も亦た爾り。無明の迷の故に心を謂いて念となすも、心、實に不動なり。若し能く觀察して心無念と知らば即ち隨順して眞如門に入ることを得るが故に。

(現代語訳)
次に消滅門から真如門に入ることを明らかにする。色受想行識の五蘊を精神と物質だと思っているが、色声香味触法の六塵は、究極的には外界に実在するものではない。心は形がないから、大宇宙にこれを求めてもついに得ることはできない。例えば人が迷って東を西といっても、方角は変わらない。衆生もそれと同じようなものである。無明の迷いがあるから心は妄念だといっても、本来、心は不動である。もしよく観察の修行を行い、妄念はないと知らされれば、真如門に入ることができる。

邪執を正す

對治邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種。云何爲二。一者人我見。二者法我見。

(書き下し文)
邪執を對治するとは、一切の邪執皆我見に依る。若し我を離れれば則ち邪執なし。この我見に二種あり。云何が二となす。一には人我見、二には法我見なり。

(現代語訳)
邪見を正すとは、すべての邪見はみな我見による。もし我を離れれば邪見はなくなる。この我見に2つある。どのような2つか。1つは人我見、2つには法我見である。

人我見1虚空を如来性と思う

人我見者。依諸凡夫説有五種。云何爲五。一者聞修多羅説如來法身畢竟寂寞猶如虚空。以不知爲破著故。即謂虚空是如來性。云何對治。明虚空相是其妄法體無不實。以對色故有。是可見相令心生滅。以一切色法本來是心實無外色。若無色者則無虚空之相。所謂一初境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅。唯一眞心無所不遍。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故。

(書き下し文)
人我見は、諸凡夫に依りて説いて五種あり。云何が五となす。
一には修多羅に「如來の法身、畢竟寂寞にして猶し虚空の如し」と説くを聞いて、著を破るとなすを知らざるを以ての故に、即ち虚空、是れ如來性なりと謂(おも)う。云何が對治するや。「虚空の相、是れ其の妄法、體無にして不實なり。色に對するを以ての故に有なり。是れ可見の相にして、心をして生滅せしむるに一切の色法は、本來是れ心なるを以て、實には外の色なし。若し色なければ則ち虚空の相もなし」と明かす。謂う所は、一初の境界は唯心にして妄に起こるが故に有なり。若し心、妄動を離れれば則ち一切の境界滅す。唯一眞心、遍ぜざる所なし。これ如來の廣大性智の究竟の義と謂う。虚空の相の如きにあらざるが故に。

(現代語訳)
「人我見」は、色々な人に基づいて説くと5つある。どのような5つか。
1つには経典に「如來の法身、畢竟寂寞にして猶し虚空の如し」と説かれているのを聞いて、それが執着を破すためだと知らないために、虚空が如来性だと誤解してしまう。
どのように正すか。空間のすがたは、迷いの生みだした虚構であり、本質はなく、実在しない。色形に対して、色形のない状態を概念化したものである。目に見える色形によって心に認識されるが、あらゆるものは、本来は心が生みだしたもので、外界に実在するものではない。もし色形がなければ、空間のすがたもない。どういうことかというと、あらゆる対象はただ心であって、迷いによって生じて、実在すると思われている。もし心が迷いの動きを離れれば、あらゆる対象は消える。唯一の真如はゆきわたらない所はない。これは如来の広大な不変の智慧である。空間の姿のようなものではないからである。

人我見2真如の体は空だと思う

二者聞修多羅説世間諸法畢竟體空。乃至涅槃眞如之法亦畢竟空。從本已來自空離一切相。以不知爲破著故。即謂眞如涅槃之性唯是其空。云何對治。明眞如法身自體不空。具足無量性功徳故。

(書き下し文)
二には修多羅に「世間の諸法、畢竟體は空なり。乃至、涅槃眞如の法、亦た畢竟空なり。本より已來、自空一切の相を離る」と説くを聞きて、破著を破する爲と知らざるを以ての故に、即ち眞如涅槃の性は唯だ是これ其れ空なりと謂(おも)う。云何が對治する。眞如の法身の自體は不空なりと明かす。無量の性功徳を具足するが故に。

(現代語訳)
2つには、経典に「世間の諸法、畢竟體は空なり。乃至、涅槃眞如の法、亦た畢竟空なり。本より已來、自空一切の相を離る」と説かれているのを聞いて、執着を破るためだと知らないために、真如涅槃の本性はただ空だけだと誤解してしまう。どのように正すか。真如の法身そのものの本質は空ではないと明かす。限りない不変の功徳を具えているからである。

人我見3如来蔵は生滅の法と同じだと思う

三者聞修多羅説如來之藏無有増減。體備一切功徳之法。以不解故即謂如來之藏有色心法自相差別云何對治。以唯依眞如義説故。因生滅染義示現説差別故。

(書き下し文)
三には修多羅に「如來藏、増減あることなし。體に一切功徳の法を備う」と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、即ち如來藏、色心の法と、自相の差別とありと謂(おも)う。云何が對治する。唯だ眞如の義に依りて説くが故なると、生滅の染の義に因りて示現せるを、差別と説くが故なるを以てす。

(現代語訳)
3つには、経典に「如來の藏、増減あることなし。體に一切功徳の法を備う」と説かれているのを聞いて、理解できないために、如来蔵には、(生滅の法である)精神や物質の本質と、現れの違いが備わっていると誤解する。どのように正すか。「増減あることなし」と説かれたのは、ただ真如に立脚して説いたからで、「體に一切功徳の法を備う」と説かれたのは生滅の迷いによって顕現したものを差別と説かれたからだ、と示すことである。

人我見4如来蔵に迷いの要素ありと思う

四者聞修多羅説一切世間生死染法皆依如來藏而有。一切諸法不離眞如。以不解故謂如來藏自體具有一切世間生死等法。云何對治。以如來藏從本已來唯有過恒沙等諸淨功徳。不離不斷不異眞如義故。以過恒沙等煩惱染法。唯是妄有性自本無。從無始世來未曾與如來藏相應故。若如來藏體有妄法。而使證會永息妄者。則無是處故。

(書き下し文)
四には修多羅に「一切世間の生死の染法、皆如來藏に依りて有とす。一切の諸法、眞如を離れず」と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、如來藏の自體、一切世間の生死等の法を具有すと謂(おも)う。云何が對治する。如來藏、本より已來、唯だ過恒沙等の諸の淨功徳ありて、眞如を離れず斷ぜず異ならずの義あるが故なるを以てす。過恒沙等の煩惱の染法、唯だ是れ妄有なるのみにして性自ら本より無なり。無始の世より來(このか)た、未だ曾て如來藏と相應せざるを以ての故に。若し如來藏の體、妄法あれば、證會して永に妄を息めしむること、則ち是の處(ことわり)なき故に。

(現代語訳)
4つには経典に「一切世間の生死の染法、皆如來藏に依りて有とす。一切の諸法、眞如を離れず」と説かれているのを聞いて、理解できないために、如来蔵そのものの本質は、この世のあらゆる迷いの事物を具えていると誤解する。どのように正すか。如来蔵には果てしない過去から、ガンジス川の砂よりも多くの色々なきよらかな功徳のみがあり、真如を離れず、途切れず、異なったものではないと徹底することによる。ガンジス川の砂よりも多くの迷いの事物は、迷いの虚構でしかないから本性はもともと存在しない。果てしのない過去から未だかつて如来蔵と相応したことはないからである。もし如来蔵の本質に迷いの事物があるとすれば、さとりを得て永遠に迷いがなくなるという道理がなくなるではないか。

人我見5衆生の始まり涅槃の終わりありと思う

五者聞修多羅説依如來藏故有生死。依如來藏故得涅槃。以不解故謂衆生有始。以見始故復謂如來所得涅槃。有其終盡還作衆生。云何對治。以如來藏無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生始起者。即是外道經説。又如來藏無有後際。諸佛所得涅槃與之相應則無後際故。

(書き下し文)
五には修多羅に「如來藏に依るが故に生死あり。如來藏に依るが故に涅槃を得」と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、衆生、始まりあり。始まりを見るを以ての故にと謂(おも)う。復た如來の得る所の涅槃も其の終盡ありて還りて衆生に作ると謂(おも)う。云何が對治する。如來藏、前際なき故に、無明の相、亦た始まりあることなし。若し三界の外に更に衆生ありて始まりを起こすと説くは、即ち是れ外道の經説なり。又た如來藏、後際あることなし。諸佛の得る所の涅槃と相應すれば則ち後際なきが故なるを以てす。

(現代語訳)
5つには経典に「如來藏に依るが故に生死あり。如來藏に依るが故に涅槃を得」と説かれているのを聞いて、理解できないために、如来蔵から輪廻が生じたのだから人間には始まりがあると誤解する。また、如来の涅槃にも如来蔵から生じた始まりがあるのなら、終わりがあって、また人間に戻ることがあると誤解する。どのように正すか。如来蔵に過去の始点はなく、無明にもまた始まりはない。もし果てしない過去から輪廻する欲界色界無色界の三界の外に生きる者がいて、それが三界に入ってくるために始まりがあると説くのは、仏教以外の外道の教えである。また如来蔵には未来の終点も決してない。それは諸仏の得ている仏のさとりと一体なので、諸仏も未来永遠であることを徹底する。

法我見・生死に実体ありと思う

法我見者。依二乘鈍根故。如來但爲説人無我。以説不究竟。見有五陰生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。云何對治。以五陰法自性不生則無有滅。本來涅槃故

(書き下し文)
法我見とは二乘の鈍根に依るが故に、如來、但だ爲に人無我を説く。説くこと究竟せざるを以て五陰生滅の法ありと見る。生死を怖畏し、涅槃を妄取す。云何が對治する。五陰の法、自性は不生なれば則ち滅あることなし。本來、涅槃なるが故なるを以てす。

(現代語訳)
法我見とは、声聞縁覚の二乗の劣った人々が分かりやすいように、如来がただ人無我だけを説かれた。説かれたことが完全ではなかったので、色受想行識の五蘊には生じたり滅したりする実体があると考える。そして輪廻を恐れるあまり、その虚構の実体を離れて妄りに涅槃に入ろうとする。どのように正すか。五蘊の存在は、実体が生じたものではないから滅することもない。五蘊の存在がそのまま涅槃となることを徹底する。

究極まで執着を離れる

復次究竟離妄執者。當知染法淨法皆悉相待。無有自相可説。是故一切法從本已來。非色非心。非智非識。非有非無。畢竟不可説相。而有言説者。當知如來善巧方便。假以言説引導衆生。其旨趣者皆爲離念歸於眞如。以念一切法令心生滅不入實智故

(書き下し文)
復た次に究竟して妄執を離るとは當に知るべし、染法淨法皆悉く相待にして自相の可説あることなし。是の故に一切の法、本より已來、色にあらず心にあらず、智にあらず、識にあらず、有にあらず、無にあらず、畢竟不可説の相なり。而して言説あるは、當に知るべし、如來の善巧方便なり。假の言説を以て衆生を引導す。其の旨趣は皆、念を離れ眞如に歸せしめんが為なり。一切の法を念ずれば、心をして生滅せしめ、實の智に入らざらしむるを以ての故に。

(現代語訳)
また次に完全に迷いの執着を離れるというのは、まさに知らなければならない。迷いの法も真如もみなすべて相手を待って説けるもので、それ自体は決して説くことができない。この故にあらゆるものは、本来、物質でも精神でもなく、智でもなく識でもなく、有でもなく無でもなく、究極的には言葉を離れたものである。それでも言葉で説かれているのは、まさに知らなければならない。如来の巧みなお導きである。仮の言葉によって、人々を真実へ引き入れようとされている。その目的はみな、迷いを離れ、真如に帰せしめるためである。どんなものも念ずれば、心が認識を生じて、真実の智慧に入れなくしてしまうからである。

仏までの道のり

分別發趣道相者。謂一切諸佛所證之道。一切菩薩發心修行趣向義故。略説發心有三種。云何爲三。一者信成就發心。二者解行發心。三者證發心。

(書き下し文)
道に發趣する相を分別すとは、謂く一切諸佛、證する所の道に、一切の菩薩、發心して修行し趣向する義あるが故に。略説すれば發心に三種あり。云何が三となす。一には信成就發心、二には解行發心、三には證發心なり。

(現代語訳)
仏道を志すありさまを説くのは、すべての諸仏が証している仏のさとりに、あらゆる菩薩が菩提心をおこして修行し、進んでいくものだからである。大きく分ければ、志をおこすことには3つある。どのような3つか。1つには「信成就發心」、2つには「解行發心」、3つには「證發心」である。

信成就発心

信成就發心者。依何等人修何等行。得信成就堪能發心。所謂依不定聚衆生。有熏習善根力故。信業果報能起十善。厭生死苦欲求無上菩提。得値諸佛親承供養修行信心。經一萬劫信心成就故。諸佛菩薩教令發心。或以大悲故能自發心。或因正法欲滅。以護法因縁能自發心。如是信心成就得發心者。入正定聚畢竟不退。名住如來種中正因相應。
若有衆生善根微少。久遠已來煩惱深厚。雖値於佛亦得供養。然起人天種子。或起二乘種子。設有求大乘者。根則不定若進若退或有供養諸佛。未經一萬劫。於中遇縁亦有發心。所謂見佛色相而發其心。或因供養衆僧而發其心。或因二乘之人教令發心。或學他發心。如是等發心悉皆不定。遇惡因縁或便退失墮二乘地

(書き下し文)
信成就發心とは、何等の人に依りて、何等の行を修して信成就を得て、能く發心するに堪うるや。謂う所は、不定聚の衆生に依る。熏習と善根力あるが故に。業の果報を信じ、能く十善を起こす。生死の苦を厭い、無上菩提を欲求す。諸佛に値うことを得て親しく供養を承(ささ)げて信心を修行す。一萬劫を經て信心成就するが故に。諸佛菩薩、教えて發心せしむ。或いは大悲を以ての故に能く自ら發心す。或いは正法の滅せんと欲するに因りて護法の因縁を以て能く自ら發心す。是の如く信心成就して發心を得る者は正定聚に入り畢竟不退なり。如來種の中に住して正因と相應すと名づく。
若し衆生ありて善根微少にして久遠已來、煩惱深厚なれば、佛に値いて亦た供養するを得ると雖も、然るに人天の種子を起こし、或いは二乘種子を起こす。設い大乘を求む者あれども、根則ち不定にして若しは進み若しは退く。或いは諸佛を供養することあらば、未だ一萬劫を經ずして中に於て縁に遇い亦た發心することあり。謂う所は、佛の色相を見て其の心を發す。或いは衆僧を供養するに因りて其の心を發す。或いは二乘の人の教令に因りて發心す。或いは他に學びて發心す。是の如き等の發心、悉く皆不定なり。惡の因縁に遇いて、或いは便ち退失し、二乘地に墮す。

(現代語訳)
発心の1つ目の「信成就発心」は、どんな人がどんな修行をして信心を完成することができ、発心することにたえられるのか。それは不定聚の人である。真如の薫習と、宿善があるからである。よい行いをすればよい結果が来ると信じ、十善を行う。輪廻の苦しみを厭い、仏のさとりを求める。諸仏にめぐりあうことができて、親しく供養を捧げて信心を修行する。一万劫の間続けて信心が完成するからである。それから諸仏菩薩が教えて発心させる。或いは諸仏菩薩との縁がなくても、大慈悲心によって自ら発心することもある。或いは仏法が衰退していくことによって、護法の精神で自ら発心することもある。このように信心を完成して発心する者は、正定聚に入り、決して退くことがない。如来に向かう軌道に入り、修行が仏のさとりに向かってかみ合うようになる。
もしある人が善根がほとんどなく、果てしない過去から煩悩が深く厚ければ、仏にめぐりあって布施をすることができたとしても、人間や天に生まれる行いをしたり、声聞や縁覚になる種まきをする。たとえ大乗を求める者がいても、善をする力が定まらず、進んだり戻ったりする。
或いは諸仏に布施をすることがあれば、一万劫経過しなくても、縁によっては発心することもある。それというのも、仏のお姿を見て発心したり、たくさんの僧侶に布施をして発心したり、声聞縁覚の教えによって発心したり、それ以外に学んで発心する。このような発心はすべて定まったものではない。だから悪い因縁にあって、失われてしまったり、声聞縁覚に落ちたりする。

3つの心

復次信成就發心者。發何等心。略説有三種。云何爲三。一者直心。正念眞如法故。二者深心。樂集一切諸善行故。三者大悲心。欲拔一切衆生苦故
問曰。上説法界一相佛體無二。何故不唯念眞如。復假求學諸善之行
答曰。譬如大摩尼寶體性明淨。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治終無得淨。如是衆生眞如之法體性空淨。而有無量煩惱染垢。若人雖念眞如。不以方便種種熏修亦無得淨。以垢無量遍一切法故。修一切善行以爲對治。若人修行一切善法。自然歸順眞如法故。

(書き下し文)
復た次に信成就發心とは何等の心を發すや。略して説くに三種あり。云何が三となす。一には「直心」、眞如の法を正念するが故に。二には「深心」、一切の諸の善行を樂集するが故に。三には「大悲心」、一切衆生の苦を拔かんと欲するが故に。
問いて曰く、上に法界は一相にして佛體は無二なりと説く。何が故ぞ唯だ眞如を念ぜず、復た諸善の行を求學するを假りるや。
答えて曰く、譬えば大摩尼寶の體性明淨にして鑛穢の垢あるがごとし。若し人、寶性を念ずと雖も、方便を以て種種に磨治せずして終に淨を得ることなし。是の如く衆生の眞如の法、體性空淨なり。而して無量の煩惱の染垢あり。若し人、眞如を念ずと雖も、方便を以て種種に熏修されずば亦た淨を得ることなし。垢は無量にして一切法に遍するを以ての故に。一切の善行を修するを以て對治となす。若し人一切の善法を修行せば自然に眞如の法に歸順するが故に。

(現代語訳)
また次に、信成就発心とはどんな心を起こすのか。大きく分けると3つである。どのような3つか。一つには直心、真如の法を正念する心である。2つには深心、一切の諸善を喜んで実行する心である。3つには大悲信、あらゆる生きとし生けるものの苦しみを抜いてやりたいと思う心である。
問い。前に法界は一つの姿であり、仏の本質は二つも三つもないと説かれた。なぜ真如だけを念ぜず、他にも諸善の行を学び、求める、その力を借りようとするのか。
答え。例えばすばらしい宝珠の本質的には明らかで清らかだが、鉱石の汚れがついているようなものである。もしある人が宝のような本性を念じたとしても、方便によって種々に導かれなければ、決して浄らかにはなれない。汚れは限りなく、あらゆるものにゆきわたっているからである。それはあらゆる善を実行することによって正す。もしある人があらゆる善を実行すれば、真如の力で真如の法に帰順するからである。

4つの方便

略説方便有四種。云何爲四。
一者行根本方便。謂觀一切法自性無生。離於妄見不住生死。觀一切法因縁和合業果不失。起於大悲修諸福徳。攝化衆生不住涅槃。以隨順法性無住故。
二者能止方便。謂慚愧悔過。能止一切惡法不令増長。以隨順法性離諸過故。
三者發起善根増長方便謂勤供養禮拜三寶。讃歎隨喜勧請諸佛。以愛敬三寶淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。又因佛法僧力所護故。能消業障善根不退。以隨順法性離癡障故。
四者大願平等方便。所謂發願盡於未來。化度一切衆生使無有餘。皆令究竟無餘涅槃。以隨順法性無斷絶故。法性廣大遍一切衆生平等無二。不念彼此究竟寂滅故。

(書き下し文)
略して方便を説かば四種あり。云何が四となす。
一には行の根本の方便なり。謂く一切法の自性は無生なりと觀じて妄見を離れて生死に住せず。一切法の因縁和合して業果失せずと観じて大悲を起して諸の福徳を修し、衆生を攝化して涅槃に住せず。法性の無住なるに隨順するを以ての故に。
二には能止の方便なり。謂く慚愧にして悔過し、能く一切の惡法を止め増長せしめず。法性の諸過を離るるに隨順するを以ての故に。
三には發起して善根を増長する方便なり。謂く勤めて三寶に供養禮拜し、讃歎して隨喜し諸佛を勸請す。三寶を愛敬する淳厚心を以ての故に、信、增長することを得て、乃ち能く志して無上の道を求む。又た佛法僧の力護る所に因るが故に、能く業障を消し善根退かず。法性の癡障を離るるに隨順するを以ての故に。
四には大願平等方便なり。謂う所の發願は未來を盡くす。一切衆生を化度して餘あることなからしめ、皆無餘涅槃を究竟せしむ。法性の斷絶なきに隨順するを以ての故に。法性廣大にして一切衆生を遍き平等無二なり。彼此を念ぜず究竟寂滅なるが故に。

(現代語訳)
方便を大きく分けると4つある。どのような4つか。
1つには行の根本にある方便である。あらゆるものは実体がないと観察し、迷った考えを離れ、輪廻に留まらない。あらゆるものは因縁がそろって生じたもので、業は消えずに必ず報いると観察して、大慈悲心をおこして色々の善を行い、すべての人を導いて、涅槃に留まらない。真如の性質は無住であることに従うからである。
2つには能止の方便である。他人にも自分にも恥じて悪業を懺悔し、あらゆる悪行をやめて、ますます悪に向かうことはない。真如の性質は諸々の悪を離れていることに従うからである。
3つには、やる気を起こして善に向かう方便である。心がけて仏法僧の三宝に供養し、礼拝し、讃嘆して喜び、諸仏に教えを請う。三宝に親愛と敬いの厚淳な心をにより、信仰が深まり、志して仏のさとりを求める。また、仏法僧の力に護られて、罪のさわりは消滅し、善の功徳は衰えない。真如の性質は無明のさわりを離れていることに従うからである。
4つには、大誓願を起こして衆生を平等に救う方便である。その誓願は未来永遠である。すべての生きとし生けるものを救済して一人ももらさず究極の無余涅槃まで導く。真如の性質は断絶がないことに従うからである。真如の性質は広大であり、すべての生きとし生けるものにゆきわたり、平等・絶対にして、自他の区別のない究極の寂滅なのである。

発心の利益

菩薩發是心故。則得少分見於法身。以見法身故隨其願力。能現八種利益衆生。所謂從兜率天退入胎。住胎出胎。出家成道。轉法輪入於涅槃。然是菩薩未名法身。以其過去無量世來有漏之業未能決斷。隨其所生與微苦相應。亦非業繋。以有大願自在力故。如修多羅中或説有退墮惡趣者。非其實退。但爲初學菩薩未入正位而懈怠者恐怖令使勇猛故。又是菩薩一發心後。遠離怯弱。畢竟不畏墮二乘地。若聞無量無邊阿僧祇劫勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱。以信知一切法從本已來自涅槃故。

(書き下し文)
菩薩、この心を發すが故に、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故にその願力に隨って能く八種に衆生を利益することを現ず。謂う所は兜率天より退くと、入胎と住胎と出胎と出家と成道と轉法輪と入涅槃なり。然るにこの菩薩未だ法身と名づけず。その過去無量の世より來(このかた)、有漏の業未だ決斷すること能わざるを以てなり。その所生に隨い微苦と相應するも亦た業繋にあらず。大願の自在力あるを以ての故に。修多羅の中に或いは「惡趣に退墮する者あり」と説くが如きはそれ實の退にあらず。但だ初學の菩薩、未だ正位に入らずして懈怠なる者、恐怖せしめ勇猛ならしめんとなすが故なり。又この菩薩一たび發心して後は、怯弱を遠離す。畢竟して二乘地に堕することを畏ず。若し無量無邊阿僧祇劫に勤苦難行して乃し涅槃を得と聞くも亦た怯弱ならず。一切の法、本より已來自ら涅槃なりと信知するを以ての故に。

(現代語訳)
菩薩はこの発心によって仏の法身を少し見ることができる。法身を見ることにより、その願力によって、人々を救う八相を現す。八相とは降兜率(下天)、托胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、入涅槃(入滅)である。しかしこの菩薩は法身とは言わない。限りなく遠い過去から、未だ煩悩を伴う業を断ち切っていないからである。生まれた所に応じて小さな苦は受けるが、業に縛られるわけではない。誓願を立てることによってえた自在の力があるからである。経典の中に、中には「悪趣に退堕する者あり」と説かれているようなものは、本当に堕ちるのではない。ただ、仏道を求め始めた菩薩が、未だ正定聚に入らずに怠惰な者を恐怖させ、勇猛に精進させようとしているのである。この菩薩は、ひとたび発心すれば、臆病ではなくなる。結局声聞縁覚の二乗に堕ちることを恐れない。もし無量無辺阿僧祇劫という果てしない長期間、難行苦行に勤めてようやく涅槃に入ると聞いても、怖じ気づかない。あらゆるものは、果てしない過去からその本質は涅槃であると信知しているからである。

解行発心

解行發心者當知轉勝。以是菩薩從初正信已來。於第一阿僧祇劫將欲滿故。於眞如法中深解現前所修離相。以知法性體無慳貪故。隨順修行檀波羅蜜。以知法性無染離五欲過故。隨順修行尸波羅蜜。以知法性無苦離瞋惱故。隨順修行羼提波羅蜜。以知法性無身心相離懈怠故。隨順修行毘梨耶波羅蜜。以知法性常定體無亂故。隨順修行禪波羅蜜。以知法性體明離無明故。隨順修行般若波羅蜜。

(書き下し文)
解行發心とは當に知るべし轉た勝れたり。是の菩薩、初の正信より已來、第一阿僧祇劫に於て將に滿ぜんと欲するを以ての故に。眞如の法の中に於て深解現前し修する所は相を離れる。
法性の體、慳貪なきことを知るを以ての故に隨順して檀波羅蜜を修行す。
法性の無染にして五欲の過(とが)を離るることを知るを以ての故に隨順して尸波(しら)羅蜜を修行す。
法性の苦なくして瞋惱を離るるを知るを以ての故に隨順して羼提(せんだい)波羅蜜を修行す。
法性、身心の相なくの懈怠を離るることを知るを以ての故に隨順して毘梨耶(びりや)波羅蜜を修行す。
法性の常に定にして體の亂なきを知るを以ての故に隨順して禪波羅蜜を修行す。
法性の體、明にして無明を離れると知るを以ての故に隨順して般若波羅蜜を修行す。

(現代語訳)
発心の2つ目の「解行発心」はまさに知らねばならない。信成就発心よりさらに優れていることを。この菩薩は、初発心住から初地に達するまでの第一阿僧祇劫の修行がまもなく満たされると知るからである。真如についての深い理解を得て、真如が前に現れ、修行は自他の相対を超えた無相の行となる。
それはいかなるものかというと、真如の性質は本質的に慳貪がないことを知らされるから、それに従って、布施波羅蜜を実践する。
真如の性質は汚れがなく、五欲の罪を離れていることを知らされるから、それに従って、戒波羅蜜を実践する。
真如の性質は苦がなく、瞋恚の悩みを離れていることを知らされるから、それに従って、忍辱波羅蜜を実践する。
真如の性質は心身のありさまがなく、懈怠を離れていることを知らされるので、それに従って精進波羅蜜を実践する。
真如の性質は常に一つであり、本質的に乱れないことを知らされるので、それに従って禅定波羅蜜を実践する。
真如の性質は本質的に明であって無明を離れていることを知らされるので、それに従って、智慧波羅蜜を実践する。

証発心

證發心者。從淨心地乃至菩薩究竟地證何境界。所謂眞如。以依轉識説爲境界。而此證者無有境界。唯眞如智名爲法身。是菩薩於一念頃能至十方無餘世界。供養諸佛請轉法輪。唯爲開導利益衆生。不依文字。或示超地速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫當成佛道。以爲懈慢衆生故。能示如是無數方便不可思議。而實菩薩種性根等。發心則等。所證亦等。無有超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。但隨衆生世界不同。所見所聞根欲性異。故示所行亦有差別。

(書き下し文)
證發心とは淨心地より乃至、菩薩究竟地までなり。何の境界をか證すや。謂う所は眞如なり。轉識に依るを以て境界を爲すと説くも、而してこの證、境界あることなし。唯だ眞如の智ありて、名づけて法身となす。この菩薩、一念の頃(あいだ)に於て能く十方無餘の世界に至り諸佛を供養して轉法輪を請う。唯だ衆生を開導して利益せんが爲なり。文字に依らず、或いは地を超えて速やかに正覺を成ずと示すは、怯弱の衆生の爲を以ての故に。或いは我、無量阿僧祇劫に於て當に佛道を成すべし説くは、懈慢の衆生の爲なるを以ての故に。能く是くの如き無數の方便不可思議を示す。而して實に菩薩の種性の根等しく發心則ち等しく證する所亦た等しくして超過の法あることなし。一切の菩薩、皆三阿僧祇劫を經るを以ての故に。但だ衆生世界の同じからず、見る所、聞く所、根、性、異ならんと欲するに隨うが故に、示す所の行亦た差別あり。

(現代語訳)
発心の3つ目の「証発心」とは初地から十地までである。どのような対象を悟るのか。それは真如である。転識という三細の2番目の主観で分かるように対象というが、実際にはこのさとりに対象はない。主観も客観もない無分別智だけがある。この菩薩は、瞬時に大宇宙のすべての世界に至り、諸仏を供養して説法を請う。それはただ人々を導いて幸せにするためである。文字に依らずに段階を飛び越えて速やかに仏覚を得ることがあると示すのは、意志の弱い人々のためである。また、私は無量阿僧祇劫という長い時間を経て仏覚を得るだろうと説くのは、怠惰と慢心で見くびっている人々のためである。このような数え切れないほどの導きの不思議を現す。しかし実際は菩薩の軌道に入った人の能力は等しく、発心も等しく、悟る内容も同じで、段階を飛び越えることはできない。すべての菩薩はみな三阿僧祇劫を経て成仏するからである。ただ人々の世界には違いがあり、見るものや聞くもの、能力、性質が異なっていることに対応するために、示す修行にも違いがあるのである。

3つの心

又是菩薩發心相者。有三種心微細之相。云何爲三。一者眞心。無分別故。二者方便心。自然遍行利益衆生故。三者業識心。微細起滅故。

(書き下し文)
又たこの菩薩發心の相は三種の心微細の相あり。云何が三となす。一には眞心、無分別の故に。二には方便心、自然に遍行して衆生を利益するが故に。三には業識心、微細に起滅するが故に。

(現代語訳)
またこの法身の菩薩の証発心の状態は、3つの微細な心の状態がある。どんな3つか。1つには真心である。無分別智だからである。2つには方便心である。自然にあまねく行き渡り、人々を救済するからである。3つには業識心である。まだ微細な生滅があるからである。

功徳成満・Q&A

又是菩薩功徳成滿。於色究竟處。示一切世間最高大身。謂以一念相應慧。無明頓盡。名一切種智。自然而有不思議業。能現十方利益衆生
問曰。虚空無邊故世界無邊。世界無邊故衆生無邊。衆生無邊故心行差別亦復無邊。如是境界不可分齊難知難解。若無明斷無有心想。云何能了名一切種智
答曰。一切境界本來一心離於想念。以衆生妄見境界故心有分齊。以妄起想念不稱法性故不能決了。諸佛如來離於見想無所不遍。心眞實故。即是諸法之性。自體顯照一切妄法。有大智用無量方便。隨諸衆生所應得解。皆能開示種種法義。是故得名一切種智。
又問曰。若諸佛有自然業。能現一切處利益衆生者。一切衆生。若見其身若覩神變。若聞其説無不得利。云何世間多不能見
答曰。諸佛如來法身平等遍一切處。無有作意故。而説自然。但依衆生心。現衆生心者猶如於鏡。鏡若有垢色像不現。如是衆生心若有垢。法身不現故
已説解釋分

(書き下し文)
又たこの菩薩、功徳成滿し、色究竟處に於て、一切世間の最高大の身を示す。謂く一念相應の慧を以て無明頓に盡きるを一切種智と名づく。自然に不思議の業ありて能く十方に現じて衆生を利益す。
問いて曰く、虚空無邊なるが故に世界無邊なり。世界無邊なるが故に衆生無邊なり。衆生無邊なるが故に心行の差別も、亦た復た無邊なり。是くの如く境界分齊すべからずして、知り難く、解し難し。若し無明斷じて心想あることなければ、云何が能く了して一切種智と名づく。
答えて曰く、一切の境界、本來一心にして想念を離れたり。衆生,境界を妄見するを以ての故に心に分齊あり。想念を妄起して法性に稱(かな)わざるを以ての故に決了すること能わず。諸佛如來、見想を離れ、遍ぜざる所なし。心、眞實なるが故に。即ちこれ諸法の性なり。自體顯われて一切の妄法を照らす。大智の用、無量の方便あり。諸の衆生の應に解を得べき所に隨いて、皆能く種種の法義を開示す。この故に一切種智と名づくを得。
又た問いて曰く、若し諸佛自然の業ありて、能く一切の處に現じて衆生を利益せば、一切の衆生、若しは其の身を見、若しは神變を覩(み)、若しはその説を聞きて利を得ざることなけん。云何ぞ世間の多く見ること能わざるや。
答えて曰く、諸佛如來の法身平等にして一切處に遍く。作意あることなきが故に而して自然に説く。但だ衆生の心に依りて現ず。衆生の心は猶し鏡の如し。鏡若し垢(く)あらば色像は現ぜず。是の如く衆生の心、若し垢(く)あらば法身現ぜざるが故に。
已に解釋分を説く。

(現代語訳)
またこの菩薩が修行を完成して成仏し、色界最高の、有頂天ともいわれる色究竟処で、最も広大な身体を得る。修行の最後の瞬間に真如と一つになり、その瞬間無明が断ち切られたのを一切種智という。自然に想像もできない働きによって、大宇宙のどこにでも現れて衆生を救済する。
問い。空間は限りがないので世界にも限りがなく、世界に限りがないので人々も限りがない。人々に限りがないので、心の働きの違いもまた限りがない。このように対象は区別できず、知ることも理解することもできない。もし無明が断ち切られて分別する迷いの心はなくなるから、何を認識して一切種智というのか。
答え。あらゆる対象は本来一心であり、迷いの心を離れたものである。人間が対象を妄想するために区別ができる。イメージを妄想して真如にかなわないためにはっきり理解することができない。諸仏如来は迷いのイメージを離れ、見えないところがない。心が真実だからである。それがあらゆるものの本性である。自らの本質が現れて、あらゆる迷いを照らす。偉大な智慧の働きは数限りもない導きがある。たくさんの衆生の理解できそうなところに応じて、色々な教えを開き示す。だから一切種智というのである。
もう1つの問い。もし諸仏に自然な働きがあって、あらゆるところに現れて衆生を救済することができるのであれば、すべての人は、或いはその姿を見たり、或いはその神通力を見たり、あるいはその教えを聞いて幸せにならないことはないだろう。なぜ世間の多くの人は見ることができないのか。
答え。諸仏如来の法身は平等であらゆるところにゆきわたっている。意図しなくても自然に法を説く。ただ衆生の心を拠り所として現れる。例えば衆生の心は鏡のようなものである。鏡に汚れがあれば色形の像は映らない。このように衆生の心に汚れがあれば、法身は現れないのである。
以上が解釈分である。

修行信心分(四信・五門・六字)

次説修行信心分
是中依未入正定。衆生故。説修行信心。何等信心云何修行。

(書き下し文)
次に修行信心分を説く。
この中未だ正定に入らざる衆生に依るが故に信心を修行することを説く。何等の信心をか云何が修行せんや。

(現代語訳)
すでに解釈分を説いたので、次に修行信心分を説く。
この中に、未だ正定聚に入らない人がいるので、信心を修行することを説く。どんな信心をどのように修行すればよいのか。

4つの信心

略説信心有四種。云何爲四。
一者信根本。所謂樂念眞如法故。
二者信佛有無量功徳。常念親近供養恭敬。發起善根。願求一切智故。
三者信法有大利益常念修行諸波羅蜜故。
四者信僧能正修行自利利他。常樂親近諸菩薩衆。求學如實行故。

(書き下し文)
略して信心を説くに四種あり。云何が四となす。
一には根本を信ず。謂う所は、眞如の法を樂念(ぎょうねん)するが故に。
二には佛に無量の功徳ありと信ず。常に念じて親近し供養し恭敬し、善根を發起し、一切智を願い求むるが故に。
三には法に大利益ありと信ず。常に念じて諸波羅蜜を修行するが故に。
四には僧能く正しく自利利他を修行すと信ず。常に樂(この)みて諸菩薩衆に親近し、如實の行を求め學ぶが故に。

(現代語訳)
信心を大きく分けると4つある。どのような4つか。
1つには真如を信ずる。それは、真如の法を喜んで念ずるからである。
2つには仏に無量の功徳があると信ずる。常に仏を念じ、親しみ近づいて、供養し苦行の心をもって善を実践し、煩悩障も所知障も断じた一切智を願い求めるからである。
3つには法に偉大な利益があると信ずる。常に教えを念じて六波羅蜜を修行するからである。
4つには僧団は正しく自利利他を修行することができると信じる。常に好んで色々な菩薩に親しみ近づき、真理にかなった行を求め、学ぶからである。

五門の修行

施門(布施)

修行有五門。能成此信。云何爲五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止觀門
云何修行施門。若見一切來求索者。所有財物隨力施與。以自捨慳貪令彼歡喜。若見厄難恐怖危逼。隨己堪任施與無畏。若有衆生來求法者。隨己能解方便爲説。不應貪求名利恭敬。唯念自利利他迴向菩提故。

(書き下し文)
修行に五門あり。能くこの信を成ず。云何が五となす。一には施門、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止觀門なり。
云何が施門を修行するや。若し一切の來たりて求索(ぐさく)する者を見れば、あらゆる財物、力に隨い施與す。自ら慳貪を捨てるを以て、彼をして歡喜せしむ。若し厄難、恐怖、危逼を見れば、己の堪任に隨いて無畏を施與す。若し衆生ありて來りて法を求むる者あらば、己の能く解するに隨いて方便して爲に説く。應に名利、恭敬を貪求せざるべし。唯だ自利と利他を念じて菩提に迴向するが故に。

(現代語訳)
修行に5つの門がある。そこからこの信を成就することができる。どのような5つか。1つには布施という門、2つには持戒という門、3つには忍辱という門、4つには精進という門、5つには禅定という門である。
どのように布施の門を通ればいいのか。もしやってきて求める人がいれば、あらゆるお金や物を精一杯施す。自らケチな心を捨てて布施の相手を喜ばせる。もし災難や恐怖、迫り来る危険に気づいたならば、自分に耐えられる限界まで安心感を施す。もし仏法を聞かせてほしいという人が来れば、自分のよく分かっていることを相手が真実へ導かれるように話す。名誉や利益、尊敬を求める心は固く自戒せねばならない。ただ自他共に真の幸福に向かうことを目的とするからである。

戒門(持戒)

云何修行戒門。所謂不殺不盜不婬不兩舌不惡口不妄言不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者爲折伏煩惱故。亦應遠離憒閙常處寂靜修習少欲知足頭陀等行。乃至小罪心生怖畏。慚愧改悔不得輕於如來所制禁戒。當護譏嫌不令衆生妄起過罪故。

(書き下し文)
云何が戒門を修行するや。謂う所は不殺、不盜、不婬、不兩舌、不惡口、不妄言、不綺語にして、貪、嫉、欺詐(ぎさ)、諂曲(てんごく)、瞋恚、邪見を遠離す。若し出家せし者は、煩惱を折伏せんが為の故に、亦た應に憒閙を遠離し、常に寂靜に處し、少欲知足、頭陀等の行を修習すべし。乃至、小罪、心に怖畏を生じて慚愧改悔し、如來の制する所の禁戒に輕しむことを得ず。當に譏嫌(きげん)を護り、衆生をして過罪を妄起せしめざるべきが故に。

(現代語訳)
どのように持戒の門を通ればいいのか。それは、殺生、偸盗、邪淫、両舌、悪口、妄語、綺語をせず、貪欲、嫉、欺詐(詐欺)、諂曲(へつらいや悪だくみ)、瞋恚、邪見から離れるのである。もし出家したならば、煩悩を抑え、断ち切るために、人の多い騒がしいところを離れ,静かな拠点を構え、小欲知足や頭陀行などを実践すべきである。そして、小さな罪も恐れて自分にも他人にも恥じる慚愧の心を起こし、懺悔して改め、仏の定められた戒律を軽んじてはならない。そして人々から嫌われることをしてはならない。人々に過失や罪をいたずらに造らせないためである。

忍門(忍辱)

云何修行忍門。所謂應忍他人之惱心不懷報。亦當忍於利衰毀譽稱譏苦樂等法故。

(書き下し文)
云何が忍門を修行せんや。謂う所は應に他人の惱ますを忍び、報を懷かず。亦た當に利、衰毀、譽、稱、譏、苦、樂等の法を忍ぶべきが故に。

(現代語訳)
どのように忍辱の門を通ればいいのか。それは、他人が心を悩ませてくるのを忍び,報復の思いを懐かない耐怨害忍を実践し、また、儲かっても損しても、謗られても褒められても、怒られても讃えられても、苦しい時も楽しい時も心を乱さない安受苦忍を実践すべきである。

進門(精進)

云何修行進門。所謂於諸善事心不懈退。立志堅強遠離怯弱。當念過去久遠已來。虚受一切身心大苦無有利益。是故應勤修諸功徳。自利利他速離衆苦
復次若人雖修行信心。以從先世來多有重罪惡業障故。爲魔邪諸鬼之所惱亂。或爲世間事務種種牽纒。或爲病苦所惱。有如是等衆多障礙。是故應當勇猛精勤。晝夜六時禮拜諸佛。誠心懺悔勸請隨喜迴向菩提。常不休廢。得免諸障善根増長故。

(書き下し文)
云何が進門を修行せんや。謂う所は諸の善事に於て心、懈退せず、志を立てること堅強にして怯弱を遠離す。當に過去久遠已來、虚しく一切の身心の大苦を受して、利益あることなきを念ずべし。この故に應に諸の功徳を勤修し、自利利他して速やかに衆苦を離るべし。
復た次に若し人信心を修行すと雖も先世よりこのかた、多く重罪、惡業の障あるを以ての故に魔邪と諸鬼の惱亂する所となす。或いは世間の事務の為に種種に牽纒せらる。或いは病苦の為に惱ませらる。是くの如く等の衆多の障礙あり。この故に應當(まさ)に勇猛精勤すべし。晝夜六時に諸佛を禮拜し、誠心に懺悔して勸請し隨喜して菩提を迴向すべし。常に休廢せざれば,諸の障りを免れ、善根増長するを得るが故に。

(現代語訳)
どのように精進の門を通ればいいのか。それは、色々の善に対して怠けたり、やめたりせず、強靱な決意をして、意志の弱さからは遠く離れるのである。まさに果てしない遠い過去から、すべては心も体も虚しく苦しみを受けるばかりで、幸せはどこにもなかったことをよく考えてみるべきである。だから色々の善に勤め、自利利他を実践して、速やかにその多くの苦しみを離れなければならない。
次に、もし信心を修行しても、人間に生まれる前から今まで造ってきたたくさんの重罪や悪業が障害となったり、邪を説く悪魔、色々の鬼に悩乱される場合がある。或いは世間事に色々な形でつきまとわれることがある。或いは病苦に悩まされることもある。このような数多くの障害がある。だから、まさに勇ましく激しく精進しなければならない。一日中24時間諸仏を礼拝し、まことの心で懺悔して、教えを請い、喜んで仏のさとりに向かって努力するのである。常に休んだりやめたりしなければ、色々な障害を免れ、善根を増やすことができるからである。

止観門(禅定)

云何修行止觀門。所言止者。謂止一切境界相。隨順奢摩他觀義故。所言觀者。謂分別因縁生滅相。隨順毘鉢舍那觀義故。云何隨順。以此二義漸漸修習不相捨離雙現前故。
若修止者。住於靜處端坐正意。不依氣息不依形色。不依於空不依地水火風。乃至不依見聞覺知。一切諸想隨念皆除。亦遣除想。以一切法本來無相。念念不生念念不滅。亦不得隨心外念境界後以心除心。心若馳散。即當攝來住於正念。是正念者。當知唯心無外境界。既復此心亦無自相。念念不可得。若從坐起去來進止有所施作。於一切時常念方便隨順觀察。久習淳熟其心得住。以心住故漸漸猛利。隨順得入眞如三昧。深伏煩惱信心増長速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入

(書き下し文)
云何が止觀門を修行せんや。言う所の止とは謂く一切の境界の相を止(とど)む。奢摩他(しゃまた)觀に隨順する義なるが故に。言う所の觀とは、謂く因縁生滅の相を分別す。毘鉢舍那(びばしゃな)觀に隨順する義なるが故に。云何が隨順するや。この二義を漸漸に修習して相捨離せず雙(なら)べて現前するを以ての故に。
若し止を修する者は、靜處に住し、端坐し意を正す。氣息に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至、見聞覺知に依らず、一切の諸想、念に隨いて、皆除く。亦た想を除くことも遣りて、一切の法、本來無相なるを以て、念念に生ぜず、念念に滅さず。亦た心外に隨いて境界を念じて後に、心を以て心を除くことを得ざれ。心、若し馳散せば即ち當に攝め來りて正念に住すべし。この正念は當に知るべし唯心のみにして外の境界なし。既に復たこの心、亦た自相なし。念念に不可得なり。若し坐より起きて去來進止に施作する所あり。一切時に於て常に方便を念じ、隨順して觀察すぺし。久しく習して淳熟すれば、その心住するとを得。心住するを以ての故に漸漸に猛利(みょうり)にして随順して眞如三昧に入ることを得、深く煩惱を伏し、信心を増長して速やかに不退を成ず。唯だ疑惑、不信、誹謗、重罪の業障、我慢、懈怠を除く。是くの如き等の人、入るあたわざる所なり。

(現代語訳)
どのように禅定の門を通ればいいのか。禅定は止観ということだが、止観の止とは、あらゆる対象のすがたをとめる。シャマタという観察に従うからである。止観の観とは、因縁生滅のありさまを分けて知る。ヴィパシャナーという観察に従うからである。どのように従うのか。この2つをだんだんと実践して、どちらも捨てず、同時に実現するのである。
もし止を実践するものは、静かなところにとどまり、姿勢を正して座り、心を正す。気息に執着せず、色や形に執着せず、空に執着せず、地水火風に執着せず、その他にもそういったものに執着せず、見聞きした知覚に執着しない。あらゆる想念を想念が生ずる瞬間瞬間に除去する。しかも想念を除こうとする想念も除く。あらゆるものは心が生み出したものだから、本来すがたがなく、念々に生じるものでも念々に滅するものでもない。また心の外に対象があると思って、その後にその心を除くことはできない。心がもし散り乱れるならば、すぐにその心をおさめて引き戻し、正念にしなければならない。この正念はまさに知らなければならない。ただ心のみあって、外界の対象は存在しない。同時にこの心にも自らのすがたはない。だから瞬間瞬間の心を認識することはできない。
もし立ち上がって、行ったり来たり、進んだり止まったり、動作することがある。その時でも、常に導きを忘れず、それに従って観察すべきである。長い間実践して習熟すれば、禅定に入れるようになる。この禅定によってだんだんその働きが猛々しく鋭くなり、それによって真如三昧に入ることができる。そして煩悩を深く抑え、信心を深めて、速やかに不退転の正定聚の位に入る。ただし、真如を疑う者、信心のない者、仏法を謗る者、五逆や四種の波羅夷罪などの重い罪業のさわりのある者、自己に執着して自惚れている者、懈怠の者は除く。このような人は、真如三昧に入ることはできない。

真如三昧の働き

復次依如是三昧故。則知法界一相。謂一切諸佛法身與衆生身平等無二。即名一行三昧。當知眞如是三昧根本。若人修行。漸漸能生無量三昧。

(書き下し文)
復た次に是くの如き三昧に依るが故に、則ち法界一相を知る。謂く一切諸佛の法身と衆生身とは平等無二なり。即ち一行三昧と名づく。當に知るべし眞如これ三昧の根本なり。若し人修行せば漸漸に能く無量の三昧を生ず。

(現代語訳)
次にこのような真如三昧によって、大宇宙は一つのすがたであると知らされる。すべての仏の法身と、衆生の身体は平等であり、二つのものではない。これを一行三昧という。まさに知るべし、真如三昧は三昧の根本である。もしこの真如三昧を実践すれば、だんだんと数限りもない三昧を生ずることができるのである。

善根力がない場合のリスク

或有衆生無善根力。則爲諸魔外道鬼神之所惑亂。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。當念唯心境界則滅終不爲惱。或現天像菩薩像。亦作如來像相好具足。若説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禪定智慧。或説平等空無相無願無怨無親無因無果畢竟空寂是眞涅槃。或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智辯才無礙。能令衆生貪著世間名利之事。又令使人數瞋數喜性無常准。
或多慈愛多睡多病其心懈怠。或卒起精進後便休廢。生於不信多疑多慮。或捨本勝行更修雜業。若著世事種種牽纒。亦能使人得諸三昧少分相似。皆是外道所得。非眞三昧。或復令人若一日若二日若三日乃至七日住於定中。得自然香美飮食。身心適悦不飢不渇。使人愛著。或亦令人食無分齊乍多乍少顏色變異。以是義故。行者常應智慧觀察。勿令此心墮於邪網。當勤正念不取不著。則能遠離是諸業障。應知外道所有三昧。皆不離見愛我慢之心。貪著世間名利恭敬故。

(書き下し文)
或いは衆生ありて善根力なければ、則ち諸魔、外道、鬼神の惑亂せらる。若し坐中にして形を現じて恐怖せしむ。或いは端正の男女等の相を現ず。當に唯心の境界を念ずべし。則ち滅して終に惱をなさず。或いは天像、菩薩像を現じ、亦た如來像の相好具足せるを作して、若しは陀羅尼を説き、若しは布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧を説き、或いは平等、空無相無願、無怨無親、無因無果、畢竟空寂これ眞の涅槃なりと説かん。或いは人をして宿命、過去の事を知らしめ、亦た未來の事を知る。他心智を得、辯才無礙ならん。能く衆生をして世間の名利の事に貪著せしむ。又た人をして數々(しばしば)瞋り、數々喜ばしめ、性、無常の准(なら)いならしむ。或いは多く慈愛し、多く睡り、多く病す。その心、懈怠なり。或いは卒(にわか)に精進を起こして後には便ち休廢(くはい)す。不信を生じて、疑い多く慮(おもんぱか)り多し。或いは本の勝行を捨てて更に雜業を修せしめ、若しは世事に著せしめ種種に牽纒せらる。亦た能く人をして諸の三昧を少分相似を得しむ。皆これ外道の吐所得なり。眞の三昧にあらず。或いは復た人をして若しは一日若しは二日若しは三日、乃至、七日定中に住して自然の香美飮食を得しむ。身心適悦(ちゃくえつ)して飢えず渇せず、人をして愛著せしむ。或いは亦た人をして食に分齊なからしむ。乍(たちま)ち多く乍ち少くして顏色變異す。この義を以ての故に行者常に應に智慧をして觀察して、この心をして邪網に墮せしむることなかるべし。當に勤めて正念にして、取らず著せずして、則ち能くこの諸の業障を遠離すべし。應に知るべし、外道の所有の三昧は、皆見、愛、我慢の心を離れず。世間の名利恭敬に貪著するが故なりと。

(現代語訳)
宿善のない人は、色々な悪魔や外道、人ならざる者に苦しめられる。ある時は座禅中に姿を現して恐怖させる。ある場合は美しい男女の姿を現す。その時は、まさにただ心である対象を念ずるとよい。それらは消えて悩まされなくなる。またある時は、神や菩薩の姿を現し、三十二相八十随形好を具えた仏の姿を現す。ある時は真言を説き、ある時は布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧の六波羅蜜を説き、ある時は、平等や、空・無相・無願の三三昧、無怨、無親、無因無果、灰身滅智の畢竟空寂が真の涅槃であると説いたりする。あるいは過去を知る宿命通、未来を知る力、他人の心を知る他心通という神通力を得たり、雄弁になったりする。世間の名誉や利益に執着させる。また、人をしばしば怒らせ、喜ばせ、その性質は無常と説かれる通り、はかないものとなる。或いはかわいそうに思うことが多くなり、ねむることが多くなり、病気になることも多くなる。その心は怠け者である。あるいは急に精進し始めたかとおもうと、すぐに休んでやめてしまう。仏教に不信が起きて、疑いやはからいが多くなる。あるいはもともとのすぐれた行を捨てて、それ以外のことをし始める。または世間事に執着して、色々とつきまとわれる。また、色々な三昧に少し似た体験をさせる。これはすべて外道の体験であり、真の三昧ではない。あるいは一日から二日、三日、一週間と禅定に入り続け、美味しい飲食を得て心身に快感を感じ、飢えも渇きもせず、それに執着してしまう。また、食べ物の区別がつかなくなり、急に大食いになったり、急に食が細くなったりして顔色が悪くなる。だから、仏法者は常に智慧によって観察し、心が間違った教えに陥らないようにしなければならない。まさに勤めて正しい信念を貫き、執着をせずに、このような業による障害から遠く離れなければならない。これらのことからまさに知らねばならない。仏教以外の教えによる瞑想は、みな、邪見、愛欲、我慢の煩悩を離れない。世間的な名誉や利益、尊敬を得ることに執着するからである。

世間の三昧のリスク

眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。與外道共。若離善知識所護。則起外道見故

(書き下し文)
眞如三昧は見相に住せず、得相に住せず。乃至、定を出でて亦た懈慢なし。あらゆる煩惱、漸漸に微薄となる。若し諸の凡夫、この三昧法を習わずして如來の種性に入ることは、この処(とわわり)あることなし。世間の諸の禪三昧を修せば多く味著を起こすを以て我見に依りて三界に繋屬し、外道と共なるなり。若し善知識の護る所を離れれば則ち外道の見を起こすが故に。

(現代語訳)
真如三昧は自分の考えに執着せず、認識した対象にも執着しない。そして禅定から出ても怠けたり、自惚れたりしない。あらゆる煩悩が少しずつ少なくなる。もしこの三昧を習わないのに,仏のさとりへ向かう軌道に乗るということはあり得ない。世間の瞑想を行うと、その体験に多く執着するから、自己に執着して欲界、色界、無色界の3つの迷いの世界に縛られ、仏教以外の教えである外道と同じになってしまう。もし正しい仏教の先生の導きを離れれば、外道の発想をするからである。

10種の利益

復次精勤專心修學此三昧者。現世當得十種利益。云何爲十。
一者常爲十方諸佛菩薩之所護念。
二者不爲諸魔惡鬼所能恐怖。
三者不爲九十五種外道鬼神之所惑亂。
四者遠離誹謗甚深之法重罪業障漸漸微薄。
五者滅一切疑諸惡覺觀。
六者於如來境界信得増長。
七者遠離憂悔於生死中勇猛不怯。
八者其心柔和捨於憍慢不爲他人所惱。
九者雖未得定於一切時一切境界處則能減損煩惱不樂世間。
十者若得三昧不爲外縁一切音聲之所驚動。

(書き下し文)
復た次に精勤專心にこの三昧を修學する者は、現世に當に十種の利益を得べし。云何が十となす。
一には常に十方の諸佛菩薩の為に護念せらる。
二には諸魔、惡鬼の為に能く恐怖せられず。
三には九十五種の外道、鬼神の為に惑亂せられず。
四には甚深の法を誹謗することから遠離し、重罪の業障、漸漸に微薄となる。
五には一切の疑と、諸の惡覺觀を滅す。
六には如來の境界に於て信增長することを得。
七には憂悔を遠離し、生死の中に於て勇猛にして怯まず。
八にはその心柔和にして憍慢を捨て、他人の為に惱まされず。
九には未だ定を得ずと雖も、一切時と一切の境界處とに、則ち能く煩惱を減損して、世間を樂わず。
十には若し三昧を得ば、外縁の一切の音聲の為に驚動せられず。

(現代語訳)
また、精一杯勤めて、心を一つにしてこの真如三昧を学び,実践する人は、この世で10種の幸せを得られる。どのような10か。
1つには、常に大宇宙の諸仏菩薩から護られる。
2つには、悪魔や悪鬼に脅かされない。
3つには、あらゆる仏教以外の教えである外道、人ならざる者に惑わされない。
4つには、底知れず深い仏教を誹謗する謗法の罪から離れ、この重い罪の障害が少しずつ薄れてくる。
5つには、一切の疑いと、どうでもいいことを詮索する様々な尋伺の心がなくなる。
6つには、仏の覚りを信ずる心が深まる。
7つには、憂いや後悔を遠く離れ、苦しみ迷いの輪廻の中で、勇ましく仏道を求めてひるまない。
8つには、心が優しく穏やかになって自惚れがなくなり、他人から悩まされなくなる。
9つには、禅定に入れなくても、いつでもどこでも煩悩が減り、世間的な欲望に流されない。
10には、もし真如三昧に入れば、外からのあらゆる音声に驚くことはない。

4つの観

復次若人唯修於止。則心沈沒或起懈怠。不樂衆善遠離大悲。是故修觀。修習觀者。
當觀一切世間有爲之法。無得久停須臾變壞。一切心行念念生滅。以是故苦。應觀過去所念諸法恍惚如夢。應觀現在所念諸法猶如電光。應觀未來所念諸法猶如於雲忽爾而起。應觀世間一切有身悉皆不淨。種種穢汚無一可樂。
如是當念。一切衆生從無始世來。皆因無明所熏習故令心生滅。已受一切身心大苦。現在即有無量逼迫。未來所苦亦無分齊。難捨難離而不覺知。衆生如是甚爲可愍。
作此思惟。即應勇猛立大誓願。願令我心離分別故。遍於十方修行一切諸善功徳盡其未來。以無量方便救拔一切苦惱衆生。令得涅槃第一義樂。
以起如是願故。於一切時一切處。所有衆善隨已堪能。不捨修學心無懈怠。唯除坐時專念於止。若餘一切悉當觀察應作不應作。

(書き下し文)
復た次に若し人唯だ止を修せば則ち心沈沒し、或いは懈怠を起こす。衆善を樂(ねが)わず大悲を遠離す。是の故に觀を修す。
觀を修習すとは、當に一切世間有爲の法は、久しく停まることを得ることなく須臾に變壞す。一切の心行念念に生滅す。これを以ての故に苦なりと觀ずべし。應に過去に念ぜし所の諸法、恍惚として夢の如しと觀ずべし。應に現在念ずる所の諸法、猶し電光の如しと觀ずべし。應に未來に念ずる所の諸法、猶し雲の如く忽爾(こつじ)として起きると観ずべし。應に世間一切の有身、悉く皆不淨にして種種の穢汚(えを)あり、樂(ねが)うべき一つとてなしと観ずぺし。
是くの如く當に念ずべし。一切衆生無始の世より來(このかた)、皆無明の熏習する所なるに因るが故に、心をして生滅せしめ、已に一切の身心、大苦を受く。現在に即ち無量の逼迫あり。未來に苦しむ所亦た分齊なし。捨て難く離れ難くして覺知せず。衆生是くの如く甚だ愍れむべきとなす。
この思惟を作して即ち應に勇猛に大誓願を立てるべし。「願わくは我が心をして分別を離れしめるが故に、十方に遍いて一切の諸善功徳を修行し、其の未來を盡くして無量の方便を以て一切苦惱の衆生を救拔し、涅槃の第一義の楽を得しめん」と。
是くの如きの願を起こすを以ての故に、一切時、一切處に於いて、あらゆる衆善、已が堪能するに隨いて、修學を捨てず、心、懈怠なし。唯だ坐る時に止に專念するを除き、若し餘の一切には悉く當に應作と不應作とを觀察すべし。

(現代語訳)
次に、もし止観の止だけを実践すれば、心が落ち込んだり、怠け心を起こしたりする。色々な善をやろうという心を失い、慈悲心も失われる。だから止観の観を実践する。
観の実践とは、まさにこの世のすべては長続きせず、すぐに変化して崩れ、心は瞬間瞬間に生滅を繰り返す、そのために苦なりと観察することである。まさに過去に見たものは漠然として夢のように消えると観察しなければならない。まさに現在見ているものは、稲妻のように一瞬で消えると観察しなければならない。まさに未来に見るものは、雲のように突然起きると観察しなければならない。まさに世間のすべての体にあるものは悉く不浄であり、色々な穢れがあり、何一つ求めるべきではないと観察しなければならない。
このようにまさに念じなければならない。すべての人は、果てしない遠い過去から無明に覆われているために心が認識作用を起こし、すでにあらゆる心身が大きな苦しみを受けてきた。現在も限りない苦に責められている。これから先も苦しみに際限がない。無明を捨てることも離れることもできず、無明に気づいてもいない。すべての人はこのようなとても哀れなものである。
 このように思って、勇ましく大きな誓願を立てなければならない。「どうか迷いの分別を離れるために、大宇宙のどこでも、あらゆる善を実践し、未来永遠に、限りない導きによって、あらゆる苦しみ悩む人が涅槃の真の幸せに至るまで救済する」と。
このような誓願を立てることによって、いつでもどこでも,あらゆる善を、自分の能力の堪えうる限り、やめずに学び、実践し、怠けることがない。唯一、座って止観の止を実践して、心を一つにしている時以外は、常にするべき善としてはならない悪を観察しなければならない。

止と観を一緒に行う

若行若住若臥若起。皆應止觀倶行。所謂雖念諸法自性不生。而復即念因縁和合善惡之業苦樂等報不失不壞。雖念因縁善惡業報。而亦即念性不可得若修止者。對治凡夫住著世間。能捨二乘怯弱之見。若修觀者對治二乘不起大悲狹劣心過遠離凡夫不修善根。以此義故。是止觀二門。共相助成不相捨離。若止觀不具。則無能入菩提之道

(書き下し文)
若しは行、若しは住、若しは臥、若しは起、皆應に止觀、倶に行ずぺし。謂う所は、諸法の自性、不生なるを念ずと雖も、而して復た即ち因縁和合する善惡の業、苦樂等の報、失せず、壞せずと念ず。因縁善惡業報を念ずと雖も、而して亦た即ち性の不可得なるを念ず。若し止を修せば、凡夫の世間に住著するを對治し、能く二乘怯弱の見を捨つ。若し觀を修せば、二乘の大悲を起こさざる狹劣の心の過を對治し、凡夫善根を修めざるを遠離す。この義を以ての故に、この止觀二門、共に相助成し、相捨離せず。若し止觀具わずは則ち能く菩提の道に入ることなし。

(現代語訳)
行く時も止まっている時も臥した時も起きあがった時も、常に止観を同時に実践しなければならない。それは、あらゆるものは本来生じたものではないと念ずといっても、同時に、因縁がそろって生じる善悪の業も、苦楽の報いも、消えもしなければなくもならないと念ずるのである。また、因縁の善悪と業の報いを念ずといっても、同時に、それらに実体はないと念ずるのである。
もし止観の止を実践すれば、人間の世間ごとに執着する心を正し、声聞縁覚の二乗の弱気な考え方を捨てる。もし止観の観を実践すれば、声聞縁覚の二乗の無慈悲な狭い心の誤りを正し、人間が善を実践しないことはなくなる。このような意味があるから、止観の2つは、互いに相乗効果を発揮するのであって、相容れないものではない。もし止観がそろわなければ、仏道に入ることはできない。

勝方便の念仏

復次衆生初學是法。欲求正信其心怯弱。以住於此娑婆世界。自畏不能常値諸佛親承供養。懼謂信心難可成就意欲退者。當知如來有勝方便攝護信心。謂以專意念佛因縁。隨願得生他方佛土。常見於佛永離惡道。如修多羅説。若人專念西方極樂世界阿彌陀佛。所修善根迴向願求生彼世界。即得往生。常見佛故終無有退。若觀彼佛眞如法身。常勤修習畢竟得生住正定故
已説修行信心分

(書き下し文)
復た次に衆生初めてこの法を學び、正信を欲求するに、その心怯弱にして、この娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛に値(あ)いて親しく供養を承(ささ)げること能わざるを畏れ、懼れて信心成就すべきこと難しと謂(おも)いて意、退かんと欲する者は、當に知るべし、如來、勝れた方便ありて信心を攝護したまう。謂く意を專にして念佛する因縁を以て、願に隨いて、他方佛土に生ずることを得。常に佛を見て永く惡道を離る。修多羅に説くが如し。若し人、西方極樂世界の阿彌陀佛を專念すれば、修したまう所の善根を迴向せしめたまいて彼の世界に生ずることを願求せしむ。即ち往生を得。常に佛を見るが故に終に退くことあることなし。若し彼の佛の眞如法身を觀ずれば、常に勤めて修習す。畢竟して正定に住するを得生せしむが故に。
已に修行信心分を説きぬ。

(現代語訳)
また次に初めてこの法を学び、正しい信心を求めようとするものの、心が弱く,この苦しみの世界では、自ら常に諸仏に巡り会って、親しく供養を捧げることができないと恐れ、信心を成就することはできないのではないかと心配して、断念しようとする人は、まさに知らねばならない。如来にすばらしい導きがあり、信心を護ってくださることを。それは、心を一つにして念仏する因縁によって、阿弥陀仏の本願に従って、この世界以外の仏の国に生まれることができる。つまり往生できるのである。常に仏を観察して、永遠に悪道を離れることができる。経典に説かれる通りである。もし西方極楽世界の阿弥陀仏を専念すれば、阿弥陀仏のご修行の功徳を与えて頂き、弥陀の浄土に生まれられると決まる。常に仏を見ることができるので、決して後戻りすることがない。もし阿弥陀如来の真如法身を観察すれば、常につとめて仏の教えを実践する。結局、この世で正定聚に入ったものを往生させてくだされるからである。
以上が修行信心分である。

勧修利益分

次説勸修利益分
如是摩訶衍諸佛祕藏我已總説。若有衆生。欲於如來甚深境界得生正信遠離誹謗入大乘道。當持此論思量修習究竟能至無上之道。若人聞是法已不生怯弱。當知此人定紹佛種。必爲諸佛之所授記。假使有人能化三千大千世界滿中衆生令行十善。不如有人於一食頃正思此法。
過前功徳不可爲喩。復次若人受持此論觀察修行。若一日一夜所有功徳無量無邊不可得説。假令十方一切諸佛。各於無量無邊阿僧祇劫。歎其功徳亦不能盡。何以故。謂法性功徳無有盡故。此人功徳亦復如是無有邊際。

(書き下し文)
次に勸修利益分を説く。
是くの如く摩訶衍は諸佛の祕藏なり。我已に總説せり。若し衆生ありて、如來甚深の境界に於て正信を生ずることを得て、誹謗を遠離し、大乘の道に入らんと欲せば、まさにこの論を持し、思量修習すべし。究竟して能く無上の道へ至らん。若し人この法を聞きて已に怯弱を生ぜずば、當に知るべし、この人定んで佛種に紹(つ)ぎ、必ず諸佛の授記する所とならん。假使(たとい)人ありて能く三千大千世界の中に滿つる衆生を化して十善を行ぜしむるも、人ありて一食の頃に正しくこの法を思うに如かず。前の功徳に過ぐること喩となすべからず。
復た次に若し人この論を受持し、觀察修行せば、若しは一日一夜あらゆる功徳、無量無邊不可得説なり。假令十方一切の諸佛、各無量無邊阿僧祇劫に於て、その功徳を歎ずとも亦た盡くすこと能わず。何を以ての故に。法性の功徳、盡きることあることなきが故に。この人の功徳亦た復た是の如く邊際あることなし。

(現代語訳)
次に勧修利益分を説く。
このように大乗は、諸仏の秘密の蔵である。私はすでにその全体の要旨を説いた。もし如来の底知れず深い境地に正しい信心を発し、誹謗を離れ、大乗の道に入りたいと思う人があれば、まさにこの起信論を心に刻み、よく理解して実践するがよい。究極的に仏のさとりに至ることができるであろう。もしこの法を聞いて、ひるまない段階に入った人は、当に知らねばならない。その人は仏のさとりに至る軌道に乗ったのであり、必ず諸仏から成仏の予言である授記を得られるであろう。たとえ大宇宙に満ちる人々を十善を実践するように導いたとしてもこの素晴らしさには及ばない。一回の食事の間にこの法を正しく思惟するほうがすばらしい。その超越したすばらしさは、大宇宙のすべての人に十善を実践させる功徳では喩にならないほどである。
また、この起信論を心に刻み観察の修行をすれば、例えば一昼夜でも、あらゆる功徳は、大きさも広さもはかりしれず、言葉に表せない。たとえ大宇宙のすべての仏がそれぞれ限りない長期間にその功徳をほめたたえたとしても、言い尽くすことはできない。それはなぜか。真如の功徳は尽きることがないからである。この人の功徳もまた際限がない。

誹謗不信の報い

其有衆生於此論中毀謗不信。所獲罪報經無量劫受大苦惱。是故衆生但應仰信不應誹謗。以深自害亦害他人。斷絶一切三寶之種。以一切如來皆依此法得涅槃故。一切菩薩因之修行入佛智故。當知過去菩薩已依此法得成淨信。現在菩薩今依此法得成淨信。未來菩薩當依此法得成淨信。是故衆生應勤修學

(書き下し文)
其れ衆生ありてこの論の中に於て毀謗して信ぜずば、獲る所の罪報、無量劫を經て大苦惱を受く。この故に衆生、但だ應に仰いで信すべし、應に誹謗すべからず。深く自ら害し、亦た他人を害して一切の三寶の種を斷絶するを以てなり。一切の如來、皆この法に依りて涅槃を得るを以ての故に。一切の菩薩、之に因りて修行し佛智に入るが故に。當に知るべし、過去の菩薩已にこの法に依りて淨信を成ずることを得。現在の菩薩今この法に依りて淨信を成ずることを得。未來の菩薩當にこの法に依りて淨信を成ずることを得。是の故に衆生、勤めて修學すべし。

(現代語訳)
この起信論を謗り、信じない人がいれば、その罪悪の報いは、無量劫という果てしない長期間、大苦悩を受けることになる。だからこの論を尊く信じて謗ってはならない。自らを傷つけ、他人も傷つけ、あらゆる仏、真理、伝える人の3つの宝の種を断ち切ることになるからである。すべての仏はこの真理によって涅槃を得たからである。すべての菩薩は、これによって修行をして仏智を得るからである。まさに知らなければならない。過去の菩薩はすでにこの真理によって浄信を得た。現在の菩薩は今この真理によって浄信を得る。未来の菩薩はこの真理によって浄信を得る。だからすべての人よ、つとめてこの真理を学び,修めるがよい。

廻向頌

    諸佛甚深廣大義 我今隨分總持説
    迴此功徳如法性 普利一切衆生界

(書き下し文)
    諸佛の甚深にして廣大の義 我今分に隨いて總持し説きたり
    この功徳の法性の如くなるを迴して 普く一切の衆生界を利せん

(現代語訳)
諸仏の明かした甚だ深く、広大なる教えを、私は今、大きく分けて保ち伝えた。
この法施による真如の性質のようにすばらしい功徳を差し向けて、すべての人のあらゆる世界を幸せにしたい。

大乗起信論の結論

大乗起信論』は、結局何を言いたいのでしょうか?
修行信心分」のほとんどは止観が説かれ、
分量だけから言えば、
止観を勧めて、
もしできない人は念仏でもよいと言われているように見えます。

念仏を勧めているというのは、
浄土門の人が自己の信念に従った解釈だとされてきました。
しかし実際は、以下の3つの根拠により、
その意図は念仏によって不退の信を決定せよ、と言っていることが分かります。

1冒頭の宣言

因縁分」の3番目に、
本論の目的は不退の信と説かれています。

三には善根成熟の衆生をして、摩訶衍の法に於て堪任の不退の信ならしめんが為の故に。

そして止観と念仏について、
こう述べています。

六には止觀を修習するを示し、凡夫と二乘の心の過を對治せんが為の故に。
七には專念方便を示し、佛前に必定して不退の信心を生ぜしめんが為の故に。

止観を示すのは凡夫と二乗の誤りを正すためであり、
念仏を示すのが不退の信心を生じさせるためであるということです。
本論の意図は、
止観で誤りを正し、
念仏によって不退の信を起こさせるところにあるのです。

2現実的な制約

念仏を勧められている対象は、
娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸佛にいて親しく供養をささげること能わざるを畏れ」ている人です。
娑婆世界というのは、この地球のことです。
凡夫が見るのは「応身」と説かれていますが、
応身というのは、お釈迦様のような肉体を持たれた仏様です。
経典には、地球上に次の仏が現れるのは56億7千万年後であると説かれていますので、
本論が説かれた「如来の滅後」の当時、
普通の人が諸仏にうことはできません。

3諸仏にあえて1万劫

ただ、「如来の滅後」の人でも、
報身や応身ではなく、
化仏なら諸仏にえるもしれません。
しかしその場合でも、
信成就発心の不退の信まで、
諸佛に値うことを得て親しく供養をささげて信心を修行す。
一萬劫を經て信心成就するが故に
」といいます。
諸仏に値うことができ、
供養を捧げて1万劫の間、信心の修行をしなければなりません。

信心の修行」とは、
修行信心分」に「修行に五門あり。
能くこの信を成ず
」とあるように、
念仏を含まない止観門を中心とする五門です。

劫は人間の寿命をはるかに超える長期間で、
その1万倍です。
普通の人には事実上不可能です。
その後に説かれる1万劫を経ずに得る信心は不退ではありません。

一方、念仏の場合は
即ち往生を得。常に佛を見るが故に終に退くことあることなし
とあるように仏に値うことができます。

このように『大乗起信論』が書かれた目的は
念仏で不退の信を起こさせること」と宣言しており、
内容の論理構造からも不退の信を得るための選択肢は、
必然的に念仏となります。

大乗起信論』は大乗の教えをまとめた結果、
明らかに念仏の信を勧めているのです。

まとめ

最後の「観修利益分」では、
本論を受持修行する功徳と、
疑い謗ることの報いを簡潔に示し、
修学を勧めています。

このように、『大乗起信論』は真如であり教えの本質である大乗を解説し、
信を起こすことを勧めたものです。
従って『大乗起信論』の主張は、
本論に説く教えを正しく理解し、
不退の信を起こせ、ということです。

では、無明とはどんな心で、どうすればなくせるのか、
どうすればこの世で不退の信を獲られるのかなどは、仏教の真髄ですので、
以下のメール講座と電子書籍で分かりやすくまとめておきました。
ぜひ見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生(日本仏教学院創設者・学院長)

東京大学教養学部で量子統計力学を学び、1999年に卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
25年間にわたる仏教教育実践を通じて現代人に分かりやすい仏教伝道方法を確立。2011年に日本仏教学院を創設し、仏教史上初のインターネット通信講座システムを開発。4,000人以上の受講者を指導。2015年、日本仏教アソシエーション株式会社を設立し、代表取締役に就任。2025年には南伝大蔵経無料公開プロジェクト主導。従来不可能だった技術革新を仏教界に導入したデジタル仏教教育のパイオニア。プロフィールの詳細お問い合わせ

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著作

京都大学名誉教授・高知大学名誉教授の著作で引用、曹洞宗僧侶の著作でも言及。