経典とは
経典とは、お釈迦様の教えを書き残されたものです。
お経とも言われ、仏教では非常に大切にされています。
一般的には、葬式の読経や、お寺などで写経をする時、経典に触れると思います。
では、その時に読まれたり、写されたりしている経典とは、どのようなものでしょうか。
また、私たちは経典から何を学ぶべきなのでしょうか。
今回は経典と私たちの関わり方から、経典の基本的な内容、
経典を説かれた本来の目的について分かりやすく解説します。
経典とは?
仏教では、お釈迦様の教えが書き残されたものを「経典」といいます。
お釈迦様は、約2600年前、インドで活躍された方です。
今日では世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられ、世界最高の偉人といわれます。
そのお釈迦様が一生涯説かれた教えが、経典として書き残されています。
それは七千余巻といわれる膨大な数の経典ですが、
それらすべてを指して、「一切経」とか「大蔵経」ともいわれます。
お釈迦様が亡くなられた後、お弟子によって経典が伝えられていき、長い年月の間には、たくさんの僧侶が現れ、仏教の解説書を書いていますが、僧侶の書いた書物は経典とはいいません。
仏教では、お釈迦様の説かれた教えが書き残されたもののみを経典といいます。
この経典の「経」の一字には深い意味があります。
「経」の意味
経典の「経」という字は、古代インドの言葉であるサンスクリット語の「スートラ(sūtra)」を漢訳したものです。
「スートラ」は元々「糸」という意味です。
美しい花を一本の糸に通して首にかける花輪を作っていたように、
お釈迦様の素晴らしい教えを花にたとえて集めた糸のようなものが「スートラ」ということです。
「経」には、お釈迦様の教えを集めて、後世に伝えるという重要な役割があり、
経典のおかげで今日の私たちは、お釈迦様の教えを知ることができるのです。
それで仏教では経典を非常に大切にしています。
一切経七千余巻といわれ、非常にたくさんの経典がありますが、全部大切です。
では、読経したり、写経するのはどのお経なのでしょうか?
それは、宗派によって異なります。
あなたの家の宗旨が分かれば、その宗派が拠り所としている経典が分かります。
例えば、浄土宗や浄土真宗なら、浄土三部経、
天台宗なら『法華経』です。
代表的な宗派の所依の経典と祖師をまとめると、以下のようになります。
宗派名 | 祖師 | 所依の経典 |
---|---|---|
華厳宗 | 杜順 | 華厳経 |
法相宗 | 窺基 | 解深密経 |
天台宗 | 最澄 | 法華経 |
真言宗 | 空海 | 大日経、金剛頂経 |
融通念仏宗 | 良忍 | 華厳経、法華経 |
浄土宗 | 法然 | 浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経) |
浄土真宗 | 親鸞 | 浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経) |
時宗 | 一遍 | 阿弥陀経 |
臨済宗や曹洞宗といった禅宗では、特定の根本経典を定めず、
経典そのものよりも、師から弟子へと直接伝えられる教え(以心伝心)や、
祖師の語録を重視しますが、それでもよく拝読する経典があります。
現代日本の多くの人にとって、一番よくある経典に接する機会は、葬式の時の読経や、お寺などで行われる写経だと思います。
そこではどのように経典が読まれたり、写されたりするのでしょうか。
「読経」や「写経」の様子
「読経」とは声を出して経典を読むことをいいます。
読経は葬式だけでなく、お寺や熱心な家でも、お仏壇の前で毎日行われています。
お寺の場合、朝と夜に僧侶が読経をします。
本堂に線香を焚き、僧侶たちが袈裟を身につけて整列します。
導師の一声で始まる読経は、最初は個々の声が聞こえますが、
次第に一つの大きな響きとなって唱和します。
参拝者も読経用の経本を手に、慣れない発音ながらも一緒に唱和する姿が見られます。
読経の声の出し方やリズムの取り方も様々で、
木魚を叩いたり、決まった節をつけて拝読しています。
お彼岸やお盆、年末年始といった季節の法要では
特に荘厳な読経が行われます。
一方、「写経」とは、経典の文字を一文字一文字、丁寧に書き写すことです。
お寺で行われる写経は、読経や礼拝から始まり、
住職による写経の意義についての説法があることが多いです。
本堂や写経専用の部屋で、線香の香りや読経の音に包まれた宗教的な雰囲気の中で行われます。
他の参加者と共に静寂な環境で取り組み、完成した写経は本堂に奉納されます。
焼香や合掌などの作法も含まれ、写経後には法話や茶話会が設けられる場合もあります。
座り方は正座または椅子席で、寺院によって異なります。
一般家庭では、自由なスタイルで写経が行われていますが、
一文字一文字に心を込め、急がず、ゆっくりと書く、というのは共通しています。
このような読経や写経は、何のためにされているのでしょうか?
家庭で個人的に写経をする場合は、心が落ち着くからとか、
人それぞれ色々な目的で経典を写しているかもしれませんが、
お寺の場合は、たいてい祈願や追善供養が目的とされます。
では、祈願や追善供養とは何でしょうか?
目的は祈願?
「祈願」とは、健康になることや、恋愛がうまくいくこと、家庭関係が円満になることといった、心にある願いが叶うようにと願いながら、仏や神に祈る行為です。
僧侶が祈る場合は、祈祷といいます。
各寺の仏像に向かって経典を繰り返し読経しながら、
深く瞑想状態に入るように祈願したり、
密教系の寺院になると、真言や印相、瞑想を同時に行い、
サンスクリットの言葉を唱えながら、手で特定の印を結び、
心の中で仏や曼荼羅を詳しく思い浮かべて祈祷します。
中には護摩木と呼ばれる木を燃やして祈祷したり、
燃えた木の上を歩きながら祈祷する場合もあります。
この祈願や祈祷をする際に、必ず読経や写経が行われます。
経典はとても素晴らしく尊いものですので、
様々な願いを叶える力があると考えられています。
そのため、読経したり写経をして経典に触れることで、
様々な功徳があり、願いが叶うというのです。
今日では、心を落ち着かせたい時に読経や写経をやることもありますが、これも祈願の一種です。
追善供養?
「追善供養」とは、亡くなった人の苦しみを除き、冥福を祈るために、
生きている人が法要を行い、善行を献ずることです。
死者に対して読経や写経をすることで、追善供養になると考えられています。
葬式の時の読経は、ほとんどのお寺で、追善供養のためになされています。
では、これらの祈願や、追善供養のための読経や写経は、
お釈迦様が経典を説かれた目的なのでしょうか?
そもそも一人のお釈迦様が教えを説かれたのに、
なぜ現代ではこのように色々な宗派が分かれていて、
それぞれ別々の経典を拠り所にしているのでしょうか?
各宗派が別々の経典を拠り所にしている理由
宗派がどのようにして分かれたかは、
経典が説かれ、伝えられた歴史に関係しています。
経典は、お釈迦様が書かれたように思われますが、
お釈迦様ご自身が書き残されたわけではありません。
お釈迦様は一生涯教えを説かれただけです。
お釈迦様がお亡くなりになった後、録音機のような記憶力を持った阿難をはじめ、
阿羅漢の悟りを開いた500人の弟子たちが集まり、
阿難が暗唱したお釈迦様の教えを、
「その通りだった」と他のお弟子が確認する形で、経典がまとめられました。
これを「仏典結集」といいます。
ここで初めて経典が誕生しました。
初めは口伝で伝えられていたのですが、やがて書き残されるようになります。
それでもインドの場合は、「貝葉」という葉っぱのようなものに書かれていて、約80年でボロボロになってしまうので、ボロボロになる度に新しい貝葉に写されていきます。
それでインドの経典は、あまり残っていないわけです。
ですがお釈迦様の説かれた経典は、素晴らしい内容だったので
書き残されたものも、口伝で伝えられているものも、次々に周りの国々へ伝えられます。
その中でも、日本の私たちが最も親しんでいるのは、中国に伝えられた経典です。
中国へ伝えられた経典
後漢の頃、初めて中国に経典が伝えられたといわれています。
やがて4世紀頃になると、鳩摩羅什が中国にやってきて、『法華経』や『阿弥陀経』を訳出します。
このような経典の翻訳家を三蔵法師といいます。
その後、唐の時代には玄奘、義浄といったすぐれた三蔵法師が現れます。
玄奘や義浄は、経典の内容がとても素晴らしいと知っていたので、まだ伝わっていない数多くの経典の内容を知りたいと思い、インドへ留学して学びに行きます。
そして大変な苦労の末、たくさんの経典を持ち帰ります。
ですが、そのままでは中国の人は読めません。
そこで、大変仏教に熱心な皇帝の支援を取り付け、国家をあげた大規模な翻訳作業が行われました。
三蔵法師や翻訳作業については、以下の記事をご覧ください。
➾西遊記の玄奘で有名な三蔵法師の本当の意味は?
そのようなわけで、膨大な経典が順不同で、中国へ一気に伝わりました。
すると当時の人々は、たくさんのお経にあまりに色々な教えが説かれているために、
「これだけたくさんあるお経の中で、一体どれが一番大切で、お釈迦様は最終的に何を伝えたかったのだろう?」
と疑問に思ったのです。
宗派が分かれている理由
それはなぜかというと、
お釈迦様は、生涯にわたって様々な教えを説かれましたが、
体系的に話を進められたわけではありません。
目の前に聞きに来た人々の知恵の深さや個性に応じて、
臨機応変に説かれています。
易しい教えもあれば、奥深い教えもあります。
それだけでなく、相手に合わせて話を変えておられるために、
中には矛盾しているかのように見える教えもあります。
例えば肉体を治す医師でも、お腹が痛いという人に対して、
原因が寝冷えであれば「温めなさい」と言いますし、
炎症が起きているのであれば「冷やしなさい」と言うようなものです。
それを同時に読んだ後世の人々は
「お釈迦様が本当に伝えたかったことは何だろう」と思ったのです。
そこで僧侶は、膨大に残された経典を分類し、体系づけて整理しました。
経典に説かれたお釈迦様のお言葉に基づいて、
例えば、浅いレベルの教えか、深いレベルの教えなのかとか、
人々を導くための一時的な教えか、究極の真実として教えられたか、
などを明らかにしようとしました。
この分類整理のことを「教相判釈」といいます。
それによって7000冊以上もあるといわれるお経の中から、
「このお経こそ、お釈迦様の最も重要な教えだ」
と考える経典を、拠り所とする経典に定め、
歴史上、多くの祖師たちが、仏教全体の中で自らの立ち位置を明確にして、
色々な宗派を打ち立てたのでした。
日本の僧侶も、宗派を立てる時には教相判釈を行っています。
各宗派について、詳しくは以下をお読みください。
➾【一覧図】仏教宗派とは?分かれた意味も分かりやすく解説
こうして、各宗派で、それぞれ重要と考える経典を読むのですが、
ではそれは何のためなのでしょうか?
それは、心を落ち着けるためでもなければ、祈願や祈祷のためでもありません。
例えば浄土宗の開祖・法然上人は、このように教えられています。
病気平癒の祈祷を断った法然上人
ある時、後白河天皇の子の静恵親王が重い病にかかってしまいました。
最高の医術を尽くす一方で、高名な僧侶たちに病気が治るよう祈祷をさせていましたが、病状は悪化するばかりでした。
そこで親王は、ぜひ法然上人に来てほしいと使いを送ります。
しかし、法然上人は「病気を治すための祈祷はしない」と、その申し出を二度も断りました。
三度目の使いが「祈祷ではなく、ただ経典に書かれている念仏の教えが聞きたいのです」と伝えると、法然上人はようやく親王のもとへ向かいます。
到着した法然上人に親王は尋ねます。
「どうすれば、私はこの生死の苦しみから逃れられるのでしょうか。後生救われる道をお教えください」
それに対し法然上人は、病気を治す祈祷の話は一切せず、仏教の教えについて丁寧に説きました。
親王は深く感動して涙を流し、心から仏教に帰依し、往生を遂げたといわれます。
(出典:『法然上人行状絵図』)
法然上人が病気平癒の祈祷を頑に拒まれたのは、
読経や写経の目的は、病気治しなどの祈祷や祈願ではないからです。
経典を読んだり書き写したりして、病気が治るはずもありません。
そして、経典を読む目的は追善供養のためでもありません。
お釈迦様は、死んだ人のために教えを説かれたことはなく、
生きている人のために説かれています。
そのため、生きている人が、生きている時に重要な教えが経典に書かれています。
読経や写経は、生きている人のために行われるべきなのです。
追善供養のための読経については、以下の記事をお読みください。
➾お経をあげる(唱える)・読経の意味や効果は?お経の数、種類、宗派別のまとめ
では、経典を拝読したり写経する本当の目的は何でしょうか。
それは、本当の生きる目的を知り、それを果たすためです。
経典には、私たちは何のために生まれてきたのかという、
本当の生きる意味が教えられているのです。
経典に説かれた生きる意味
一切経七千余巻といわれると、経典にはたくさんのことが教えられているように思います。
ところが経典に説かれていることは、実はただ一つのことです。
それは、私たちは何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ生きねばならないのか、
という人生の目的であり、
本当の生きる意味です。
このことは、お釈迦様がこの世にお生まれになった時のこととして説かれています。
お釈迦様はお生まれになると、
東西南北へそれぞれ七歩歩かれ、
右手で天を、左手で地を指しながら
「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安此」と宣言されたといわれます。
あの4月8日の花祭りで、甘茶をかけるお釈迦様です。
天上天下唯我独尊の意味
生まれたばかりで歩いたり話したりできるはずがないにもかかわらず、
生まれた時のこととして説かれていることには意味があります。
それはお釈迦様が、「私はこのために生まれてきた」とご自身の使命を宣言されているのです。
それは、とりもなおさず経典にどのようなことが説かれているかを表されていることになります。
では「天上天下唯我独尊」とはどういう意味かというと、
「天上天下」とは、この大宇宙広しといえども、ということです。
ですが、「唯我独尊」は、ただ私だけが偉いんだ、という意味ではありません。
「唯我独尊」の「我」は、我々ということで、私たち人間一人一人のことです。
自分だけ、お釈迦様ご自身だけ、ということではないのです。
「唯」は唯一、つまり二つとないということで、
「独尊」とは、たった一つの尊い使命とか目的のことです。
ですから「天上天下唯我独尊」とは、この広い大宇宙の中で、唯一人間に生まれた時にだけできるたった一つの尊い使命がある、ただ一つの尊い目的がある、ということなのです。
その「たった一つの尊い使命」こそが、本当の生きる目的です。
これは、個人の好みや趣味、人それぞれ異なる生きがいとは全く別ものです。
なぜかというと、生きがいの楽しさは続かないからです。
具体的にいえば、生きがいというのは、得意なことや、好きなこと、誰かから必要とされること、儲かることなどです。
このようなことをやっている時は、とても心が充実します。
ですが、その充実感は続きません。
すぐに飽きてしまいます。
たとえ次から次へと新しいことをやっても、やはり次々と喜びが色あせ、心は虚しくなります。
限りある人生の時間が過ぎていくだけで、本当の充実感は得られません。
生きる意味と生きがいの違いについて、詳しくはこちらをご覧ください。
➾生きがいない・生きがいが欲しい人へ生きがいの意味を解説
何のために人間に生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
生まれてから死ぬまでに果たさなければならない本当の生きる目的を知り、それを達成することによって、心から大満足の人生になるのです。
それをお釈迦様は、次のお言葉で教えられています。
三界皆苦吾当安此の意味
「三界」は、苦しみ迷いの世界のことです。
どんな人も、この三界のどこかで生きています。
その三界が「皆苦」ということは、どんな人の人生も皆苦しみである、ということです。
三界は悩みのみです。
お金や地位や名誉といった、欲を満たす幸せは知っていても、それらは一時的な幸せで、私たちを本当の幸せにはしてくれません。
幸せはいとも簡単に崩れ去り、苦しみに変わるものばかりです。
そして時間だけが過ぎていきます。
限りある人生、使ってしまった時間を取り戻すことはできません。
命と引き換えに何かをするわけですから、何をやっても、何を手に入れても虚しいだけです。
どんなに若さを愛しても、やがて老いと病と死のために崩れ去ります。
だから、どんな人の人生も、皆苦しみであると教えられているのです。
そこでお釈迦様は次に、「吾当安此」と言われています。
「吾」とは、先ほどの「我」とは違い、お釈迦様ご自身のことです。
「この釈迦が」という意味です。
「当安此」とは、まさにここに安んずべし、ということで、
この苦しみ迷いの世界から、どこか別の世界に行って苦しみから逃れるのではなく、
この世界で苦しみ悩むすべての人に本当の生きる意味を伝え、真の幸せにしてみせるとおっしゃっているのです。
このようにお釈迦様の
「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安此」のお言葉は、
「大宇宙広しといえども、ただ人間に生まれた時にだけ果たすことができる本当の生きる目的がある。
その本当の生きる目的を、苦しみ悩むすべての人に知らせて教えて分からせて、本当の幸せに導くために私は生まれてきた」
ということです。
それをお生まれになられた時に明言されたというのは、
お釈迦様が「本当の生きる意味を今から説くぞ」という一大宣言なのです。
天上天下唯我独尊について、詳しくは以下の記事もお読みください。
➾天上天下唯我独尊の本当の意味を解説。唯我独尊的な人は謙虚?傲慢?
その本当の生きる目的を果たした幸福も、経典に説かれています。
経典に説かれる「人間に生まれた喜び」
経典には、人間に生まれた喜びを、このように教えられます。
人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん。(お釈迦様)
これは、大変有名なお釈迦様のお言葉です。
「人身受け難し、今已に受く」とは、人間に生まれることは非常に難しい。
その生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という喜びの言葉です。
あなたの周りには、「人間に生まれてよかった」と喜んでいる人はいるでしょうか?
どちらかといえば「人間に生まれてこなければよかった」という人はいても、
なかなか「人間に生まれてよかった」と生きる喜びいっぱいの人は見かけないと思います。
ですが、人間に生まれることは、考えてみると非常に難しいことです。
虫や動物だけ考えても、地球上には何億、何兆、何京、どれだけたくさんの生き物がいるか分かりません。
そのような中で、人間に生まれるということは、天文学的に小さい確率です。
宝くじに何十回連続であたるよりも難しいといわれます。
そのような生まれ難い人間に生まれた時しか果たせない目的があります。
だからこそ、その目的を果たすことができたならば、
「人間に生まれて本当によかった」という生命の大歓喜が起きるのです。
次の「仏法聞き難し、今已に聞く」とは、聞き難い仏教を、今聞くことができた喜びを教えられています。
経典には、本当の仏教の教えを聞く難しさを、
ヒマラヤ山の山頂から糸を垂らして、
麓の針の穴に通すよりも難しいと教えられています。
実際、世の中には様々な情報が溢れていますが、
本当の生きる意味は仏教にしか教えられていません。
人類は幸せを求めて努力しているのに、未だにその努力は実りません。
本当の幸せになる道も誰も知らないのです。
そのような中で仏教を聞くことは極めて難しいことです。
その聞き難い仏教を聞かせていただき、
仏教にのみ説かれている本当の生きる目的を知り、
果たすことができて本当に良かったという喜びが、
「仏法聞き難し、今已に聞く」 というお言葉です。
最後に
「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん」と言われています。
「この身今生に向かって」とは、「今生」というのは、「生きている時」ということです。
では、生きている時はいつなのかというと、人はいつ死ぬか分かりません。
もし明日死ねば、生きている時は今日だけです。
1時間後に死ねば、今の1時間だけです。
1分後に死ねば、今の1分だけです。
1秒後に死ねば、今の1秒だけです。
こうやって突き詰めていくと、「今生」というのは、今しかありません。
「今生に」というのは、「今」ということです。
「度せずんば」とは、本当の生きる目的を達成しなければ、という意味です。
ですのでこれは、生きている今、仏教を聞いて、本当の幸福にならなければ、という意味です。
「さらにいずれの生に向かってか、この身を度せん」とは、
もし今、本当の生きる目的を果たさなければ、
「いつ果たすというのか、この生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞くチャンスを逃したら永遠に果たせない」という意味です。
今、仏教を聞いて、生命の大歓喜あふれる幸せになりなさいとお釈迦様は勧められているのです。
では、経典はどのようにして学べばいいのでしょうか。
経典の学び方
経典を学ぶには、経典をよく知った人から教えてもらうのが最短の近道です。
自分で独学しようとしても、自分なりの理解に止まり、どうしても理解が深まりません。
また、経典の数は大変多いため、一人で読み続け、理解し続けられる人は、ほとんどいません。
すでによく分かった人から経典の内容を学ぶことで、自分の理解に止まらずに理解を深められて、分からないところが解消されていきます。
そこで、経典に説かれている本当の生きる目的と、それを果たす方法を分かりやすくメール講座と電子書籍にまとめておきました。
ぜひ一度、読んでみてください。
関連記事
この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)