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盂蘭盆経の全文・書き下し文と現代語訳

盂蘭盆経うらぼんきょう』は、お盆の由来になっているお経です。
内容はお釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が、餓鬼道に落ちたお母さんを助ける話です。

ここでは、盂蘭盆経の全文、書き下し文と現代語訳を掲載します。

さらに『盂蘭盆経』を偽経だという人が有りますが、本当でしょうか?
それについても検証してみたいと思います。

盂蘭盆経とは

盂蘭盆経』とは、どんなお経なのでしょうか。
とりあえず仏教の辞典を見てみましょう。

盂蘭盆経
うらぼんぎょう
竺法護じくほうごの訳とされているが、疑問視されている。
サンスクリット原典やチベット語訳はない。
布施ふせ功徳くどくを先祖供養に結びつけて説くため、孝を重んずる中国や日本で重視された。
経によれば、目連もくれん尊者は死んだ母親が餓鬼がき世界に堕ち苦しんでいるのを発見し、仏の教えに従って安居あんごを終える7月15日、僧たちが自恣じしをするに当たり食物などの布施をしたところ、その功徳で母親は救われたという。
<盂蘭盆>はこの経典に基づく法要。
注釈書は宗密しゅうみつの『盂蘭盆経疏』(2巻)が有名。
なお目連救母説話は中国で幾種類もの変文へんぶんを生み、日本でも平安時代以来説教材として盛行し、説話文学に頻出するほか、室町物語『目連の草子』、説経浄瑠璃『目連記』を生み出すなど、文学に及ぼした影響も広範多彩である。

このように、『盂蘭盆経』は、目連尊者が、亡くなって餓鬼道で苦しんでいたお母さんを、布施の功徳によって天上界に浮かばせるという内容です。
布施の功徳のすばらしさを説かれたお経です。

お盆については、以下のページに詳しく書いてありますので、そちらをご覧ください。
お盆の期間とお供え・お盆の意味

まず『盂蘭盆経』の全文です。

盂蘭盆経の全文

盂蘭盆経の全文(漢文)

以下が、『盂蘭盆経』の全文(漢文)です。
旧字体で書かれた『盂蘭盆経』はどこにでもよくあるので、ここでは分かりやすいように、現在使われている漢字で表記してあります。

仏説盂蘭盆経

西晋月氏三藏竺法護訳

聞如是 一時仏在舎衞国祇樹給孤独園 大目乾連始得六通 欲度父母報乳哺之恩
即以道眼観視世間 見其亡母生餓鬼中 不見飮食皮骨連立
目連悲哀 即鉢盛飯往餉其母 母得鉢飯 便以左手障飯右手摶飯食未入口化成火炭
遂不得食 目連大叫悲号啼泣 馳還白仏 具陳如此

仏言 汝母罪根深結 非汝一人力所奈何 汝雖孝順声動天地 天神地神邪魔外道
道士四天王神 亦不能奈何 当須十方衆僧威神之力 乃得解脱

吾今当為汝説救済之法 令一切難皆離憂苦罪障消除

仏告目蓮 十方衆僧於七月十五日僧自恣時 当為七世父母 及現在父母厄難中者
具飯百味五果汲潅盆器 香油錠燭床敷臥具 尽世甘美以著盆中 供養十方大徳衆僧
当此之日 一切聖衆或在山間禅定或得四道果 或樹下経行 或六通自在教化声聞縁覚
或十地菩薩大人権現比丘 在大衆中皆同一心受鉢和羅飯 具清浄戒聖衆之道其徳汪洋
其有供養此等自恣僧者 現在父母七世父母六種親属 得出三途之苦 応時解脱衣食自然
若復有人父母現在者福楽百年 若已亡七世父母生天 自在化生入天華光 受無量快楽
時仏勅十方衆僧 皆先為施主家呪願 七世父母 行禅定意然後受食
初受盆時 先安在仏塔前 衆僧呪願竟 便自受食

爾時目連比丘及此大会大菩薩衆 皆大歓喜 而目連悲啼泣声釈然除滅
是時目連其母 即於是日得脱一劫餓鬼之苦

爾時目連復白仏言 弟子所生父母 得蒙三宝功徳之力 衆僧威神之力故
若未来世一切仏弟子 行孝順者亦応奉此盂蘭盆 救度現在父母乃至七世父母
為可爾不

仏言 大善快問 我正欲説 汝今復問 善男子 若有比丘比丘尼 国王太子王子大臣宰相
三公百官万民庶人 行孝慈者 皆応為所生現在父母 過去七世父母 於七月十五日
仏歓喜日 僧自恣日 以百味飮食安盂蘭盆中 施十方自恣僧 乞願便使現在父母寿命百年無病
無一切苦悩之患 乃至七世父母離餓鬼苦 得生天人中福楽無極

仏告諸善男子善女人是仏弟子修孝順者 応念念中常憶父母供養乃至七世父母
年年七月十五日 常以孝順慈憶所生父母 乃至七世父母為作盂蘭盆施仏及僧
以報父母長養慈愛之恩 若一切仏弟子 応当奉持是法

爾時目連比丘 四輩弟子 聞仏所説歓喜奉行
仏説盂蘭盆経

盂蘭盆経の書き下し文

次に、以下が『盂蘭盆経』の書き下し文です。
これも分かりやすいように、現在使われている漢字の表記になっています。

仏説盂蘭盆経

西晋月氏三藏竺法護訳

聞くこと是の如し。
一時、仏、舎衞国しゃえいこく祇樹給孤独園ぎじゅぎっこどくおんに在しき。
大目乾連始めて六通を得。
父母を度し、乳哺にゅうほの恩を報ぜんと欲し、即ち道眼どうげんを以て世間を観視して其の亡母を見るに餓鬼の中に生まれて飮食を見ず。
皮骨連立ひこつれんりゅうせり。
目連悲哀して即ち鉢に飯を盛り、往きて其母にくるに、母、鉢の飯を得て便ち左手を以て飯をささえ、右手にて飯をにぎるに、食、未だ口に入らざるに化して火炭と成り、遂に食するを得ず。
目連大いに叫び、悲号啼泣して馳せ還りて仏に白して具にのぶること此の如し。

仏の言く汝が母は罪根深く結せり。
汝一人の力をもって奈何ともすべき所に非ず。
汝、孝順にして声、天地を動かすと雖も 天神地神も邪魔外道も
道士も四天王神も亦奈何ともすること能ず。
当に十方衆僧じっぽうしゅうそうの威神の力を須て乃ち解脱げだつすることを得せしむべし。

吾、今当に汝が為に救済の法を説き、一切の難をして皆憂苦罪障を離れしめ、消除せしむべし。

仏、目蓮に告げたたまわく、十方衆僧の七月十五日、僧自恣じいの時に於て、当に七世の父母、及び現在の父母、厄難の中なる者の為に。
具飯と百味の五果と、汲潅盆器、香油、錠燭ていしょく、床敷と臥具 世の甘美を尽して、以て盆中に著て、十方の大徳衆僧に供養すべし。
この日に当たりて一切の聖衆しょうじゅ、或いは山間に在りて禅定ぜんじょうし、或いは四道果しどうかを得、或いは樹下に経行し、或いは六通自在にして声聞しょうもん縁覚えんがくを教化し、
或いは十地の菩薩大人、権に比丘びくと現じて大衆の中に在りて、皆同一心に鉢和羅はわらの飯を受けたまう。
清浄の戒を具せる聖衆の道は、その徳汪洋たり。
其れこれらの自恣僧を供養すること有らば、現在の父母、七世の父母、六種の親属、三途さんずの苦を出ずることを得て時に応じて解脱げだつし、衣食自然じねんならん。
もしは復た人有りて父母現在せば福楽百年ならん。
もしはすでに亡ぜし七世の父母は天に生し、自在に化生けしょうし、天の華光けこうに入りて、無量の快楽けらくを受けん。
時に仏、十方の衆僧に勅したまわく、皆まず施主家の為に七世の父母を呪願し、禅定意を行じ、然して後に食を受くべし。
初めて盆を受くる時、まず仏塔の前に安在し、衆僧、呪願しおわりて便ち自ら食を受くべしと。

その時、目連比丘、及びこの大会だいえの大菩薩衆、皆大いに歓喜し、而して目連悲啼の泣声釈然として除滅す。
この時、目連その母、即ちこの日に於て一こう餓鬼の苦を脱することを得たり。

その時、目連また仏にもうしてもうさく、弟子所生の父母は、三宝の功徳の力と衆僧の威神の力をこうむることを得るが故なり。
もし未来世の一切の仏弟子、孝順を行ずる者もまたまさにこの盂蘭盆を奉じて現在の父母乃至七世の父母を救度すべきことしかるべしとせんやいなや。

仏の言わく、大いに善し。快きかな問うこと。
我まさに説かんと欲す。
汝、今また問えり。
善男子、もし比丘、比丘尼、国王、太子、王子、大臣、宰相、三公、百官、万民、庶人有りて、孝慈を行ずる者、皆まさに所生現在の父母、過去七世の父母の為に七月十五日、仏歓喜日ぶつかんぎにち、僧自恣の日に於て、百味の飮食を以て、盂蘭盆の中に安じ、十方自恣の僧に施し、乞いて願うべきはすなわち、現在の父母をして寿命百年にして病なく、一切苦悩の患なからしめ、乃至七世の父母をして、餓鬼の苦を離れ、天人の中に生じて福楽無極を得せしめんと。

仏告げたまわく諸の善男子、善女人、是の仏弟子、孝順を修する者は、まさに念念の中に常に父母の供養乃至七世の父母を憶うて、
年年、七月十五日に常に孝順慈憶を以て所生の父母乃至七世の父母の為に盂蘭盆を作り、仏及び僧に施し、以て父母長養慈愛之恩を報ずべし。
もし一切仏弟子、まさにこの法を奉持ぶじすべし。

その時目連比丘、四輩しはいの弟子、仏の所説を聞きて、歓喜し奉行しき。
仏説盂蘭盆経

盂蘭盆経の現代語訳

盂蘭盆経』の現代語訳はこちらです。

仏説盂蘭盆経

西晋月氏三藏竺法護訳

このようにお聞きしました。
ある時、お釈迦様が舎衞国の祇園精舎におられた時のことです。
大目乾連が始めて六神通を得ました。
親孝行な目連は、さっそく両親を救い、生み育ててくれた恩に報いたいと思って、天眼通によって世間を見渡し、今は亡き母を見つけると、餓鬼道に生まれて飮食を見つけることができずにいました。
骨と皮ばかりのガリガリに痩せ細った姿になっています。
目連は深く哀しんで、すぐに茶碗にご飯を盛り、母の所に持って行くと、母親はご飯をみると、左手で茶碗を受け取り、右手でご飯をつかんで口へ運ぼうとします。
ところが、ご飯が口に入る前に、ボッと燃え上がって炭になってしまい、ついに食べることができませんでした。
目連は悲しさのあまり、大いに泣き叫び、お釈迦様の所に走って帰り、このことを詳しく報告してご相談しました。

お釈迦様は、こう言われます。
そなたの母の罪悪は深く、そなた一人の力ではどうにもならない。
どんなにそなたが親孝行で、天地を動かすような声を張り上げても、天の神も、地の神でも、よこしまな魔物も、外道も、道士も、東の持国天も、南の増長天も、西の広目天も、北の毘沙門天も、どうすることもできないのだ。
まさに世界中の僧侶たちのすばらしい力によれば救うことができるだろう。

この釈迦が、これからそなたのために救済の法を説き、すべての苦しみや憂い、罪や悪を離れさせ、消滅させてやろう。

お釈迦様は、目蓮に告げられました。
「雨季の間に僧侶が一カ所で修行する安居あんごの最終日である七月十五日、世界中の僧侶たちは、安居の修行を反省し、罪を懺悔告白する自恣ということを行う。
その時に、過去七回生まれ変わった時の父母と現在の父母、苦しみの中にいる者のために、具飯と百味の五果と、水を入れるお椀、香油、錠燭、床敷と臥具できる限りの美味しいものをお盆に盛って、世界中の徳の高い僧侶たちに布施をしなさい。
この日は、すべての聖者、例えば山の中で禅定ぜんじょうの修行をしている人、あるいは悟りを開いた人、あるいは樹の下で修行している人、あるいは自在の神通力で声聞や縁覚を指導している人、あるいは仮に僧侶の姿となって人々の中に混ざっている高い悟りを開いた偉大な菩薩が、皆、同じように、一心にお椀に一杯のご飯を受けられる。
清らかな戒律を守る聖者の道を行く者の徳は、海のように深くて広い。
これらの懺悔する僧侶たちに布施をすれば、現在の父母、過去七生の父母、父母、兄弟、夫婦の六種の親属、地獄餓鬼畜生の三悪道の苦しみから出ることができ、時がくれば迷いから離れ、衣食に困ることはないだろう。
つまり、もし両親が健在の人であれば、末永く幸せに暮らせるだろう。
あるいはすでに亡くなった過去七生の父母も、天上界に自由自在に生まれることができ、天上界の華光に入りて、限りない快楽を受けるだろう」。
そしてお釈迦様は、世界中の僧侶たちに命ぜられました。
「皆まず布施をされた方の家のために過去七生の父母の幸せを願い、心をしずめて、その後に布施を受けなさい。
初めてお盆を頂く時は、まずは仏塔の前に安置して、僧たちよ、願いを終えてから自分が食物を頂きなさい」。

その時、目連尊者やたくさんの大菩薩たちは皆大いに歓喜しました。
目連の悲しい泣き声もすっかりやみました。
こうして目連の母は、この日に非常に長期間の餓鬼の苦しみを脱することができたのです。

その時、目連はお釈迦様に質問しました。
「私を生み育ててくれた両親は、たくさんの僧侶たちのすばらしいお力によって、仏宝、法宝、僧宝の三宝の功徳を頂くことができました。
もし後世のすべての仏弟子や、親孝行をする人も、またこの盂蘭盆を奉じて、現在の父母、過去七生の父母までを救うべきでしょうか」。

お釈迦様は言われました。
「すばらしい。非常にいい質問だ。
それは今から話をしようとしていたことである。
そなたは、まるで打ち合わせでもあったかのようないい質問をした。
人々よ、もし僧侶や尼僧、国王、皇太子、王子、大臣、首相、最高の官僚たち、たくさんの公務員、国民庶民の中で、親孝行をする人は、自分を生んでくれた現在の両親、過去七生の父母のために、七月十五日、つまり仏歓喜日ぶつかんぎびといわれる僧侶たちが懺悔する日に、たくさんの珍味や美味の食べ物や飲み物をお盆に盛って、世界中の懺悔している僧侶に施しなさい。
そして願うべきことは、生きている両親については、病気をせずに百歳まで健康に長生きして、あらゆる苦悩がないように、そして過去七生の父母については、餓鬼道の苦しみを離れ、天上界に生じて限りない幸せが得られるように、ということだ」。

お釈迦様はこう告げられました。
「人々よ、仏弟子たちよ、親孝行をする者は、まさにひと思い、ひと思いの中に常に両親から過去七生の父母への恩返しを思いなさい。
そして毎年七月十五日に常に親孝行な心で自分を生んでくれた父母、過去七生で生んでくれた父母のために盂蘭盆を作り、や僧侶に布施をすることによって、両親が長らく育ててくだされた愛情のご恩に報いなさい。
すべての仏弟子は、この教えを実践するがよい」。

その時、目連尊者は、比丘びく比丘尼びくに優婆塞うばそく優婆夷うばいという四通りの弟子、つまり出家の男女と在家の男女が、このお釈迦様の教えを聞いて歓喜し、この尊い教えを頂いて実行しました。
仏説盂蘭盆経

これって偽経?

盂蘭盆経』は、偽経ではないかと言われることがあります。
偽経というのは、お釈迦様が説かれたお経ではなく、中国で作られたお経のことです。

ですが、『盂蘭盆経』は、インドのお経を別の三蔵法師が翻訳した、異訳のお経の『報恩奉盆経』もありますので、中国で作られたお経ではありません。

なぜ『盂蘭盆経』が偽経ではないかと言われるのかというと、池田澄達という人が、「盂蘭盆経に就いて」の中で、『盂蘭盆経』を『報恩奉盆経』と比較して、一部中国で加えられた部分があるのではないかと言い出したからです。

その論拠は『盂蘭盆経』は、後半に『報恩奉盆経』にはない部分があり、そこで「盂蘭盆」というインドの言葉を、お盆のような意味で使っていることです。

報恩奉盆経』は以下のお経です。

報恩奉盆経の全文

報恩奉盆経の全文(漢文)

こちらが『報恩奉盆経』の全文(漢文)です。

仏説報恩奉盆経 亦云報像功徳経

闕譯附東晋録

聞如是 一時仏在舍衞国祇樹給孤独園 大目揵連始得六通 
欲度父母報乳哺之恩 即以道眼観視世界 見其亡母生餓鬼中 
不見飮食皮骨相連柱 目連悲哀即鉢盛飯往餉其母 
母得鉢飯 便以左手障飯右手搏食 食未入口化成火炭遂不得食 
目連馳還白仏 具陳如此 

仏告目連 汝母罪根深結 非汝一人力所奈何 
当須衆僧威神之力 乃得解脱 吾今当説救済之法 令一切難皆離憂苦

仏告目連 七月十五日当為七世父母在厄難中者 
具糗飯五果汲潅盆瓫器 香油庭燭床榻臥具 尽世甘美以供養衆僧 
当此之日 一切聖衆或在山間禅定 或得四道果 或樹下経行 
或得六通飛行 教化声聞縁覚 菩薩大人権示比丘在大衆中 
皆共同心受鉢和羅 具清浄戒聖衆之道其徳汪洋 其有供養此等之衆 
七世父母五種親属 得出三塗応時解脱衣食自然 

仏勅衆僧 当為施主家七世父母 行禅定意然後食此供 
目連比丘及一切衆歓喜奉行

仏説報恩奉盆経

報恩奉盆経の書き下し文

仏説報恩奉盆経 亦云報像功徳経

欠訳附東晋録

是の如く聞く。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在き。
大目乾連始めて六通を得。
父母を度し、乳哺の恩を報ぜんと欲し、即ち道眼を以て世界を観視して
其の亡母を見るに餓鬼の中に生まれて飮食を見ず。
皮骨の相連柱せり。
目連悲哀して即ち鉢に飯を盛り、往きて其母にくるに、
母、鉢の飯を得て便ち左手を以て飯をささえ、
右手にて食をにぎるに、
食、未だ口に入らざるに化して火炭と成り、遂に食するを得ず。 
目連馳ら還りて仏に白さく具にのぶること此の如し。

仏、目連に告げたまわく、汝が母は罪根深く結せり。
汝一人の力をもって奈何ともすべき所に非ず。 
当に衆僧の威神の力をもちいて乃ち解脱することを得せしむべし。
吾、今当に救済の法を説き、一切の難をして皆憂苦を離れしむ。

仏、目連に告げたまわく、
七月十五日当に七世の父母、厄難中に在る者の為に
具糗飯と五果と汲潅盆瓫器、香油、庭燭、床榻と臥具、世の甘美を尽して、以て衆僧に供養すべし。
  この日に当たりて一切の聖衆、或いは山間ら在りて禅定し、
或いは四道果を得、或いは樹下に経行し、
或いは六通を得て飛行し、声聞縁覚を教化し、
菩薩大人、かりに比丘と示して大衆中に在りて、
皆共同心に鉢和羅はわらを受けたまう。
清浄戒を具せる聖衆の道はその徳汪洋たり。
それこれ等の衆を供養すること有らば、
七世の父母、五種の親属、三塗を出ることを得て
時に応じて解脱し、衣食自然ならん。

 

仏衆僧に勅したまわく、当に施主家、七世の父母の為に禅定意を行じ、 然して後に此供を食すべし。 目連比丘及び一切衆、歓喜し奉行しき。

仏説報恩奉盆経

報恩奉盆経の現代語訳

仏説報恩奉盆経 亦云報像功徳経

欠訳附東晋録

このようにお聞きしました。
ある時、お釈迦様が舎衞国の祇園精舎におられた時のことです。
大目乾連が始めて六神通を得ました。
親孝行な目連は、さっそく両親を救い、生み育ててくれた恩に報いたいと思って、天眼通によって世間を見渡し、今は亡き母を見つけると、餓鬼道に生まれて飮食を見つけることができずにいました。
骨と皮ばかりのガリガリに痩せ細った姿になっています。
目連は深く哀しんで、すぐに茶碗にご飯を盛り、母の所に持って行くと、母親はご飯をみると、左手で茶碗を受け取り、右手でご飯をつかんで口へ運ぼうとします。
ところが、ご飯が口に入る前に、ボッと燃え上がって炭になってしまい、ついに食べることができませんでした。
目連は悲しさのあまり、大いに泣き叫び、お釈迦様の所に走って帰り、このことを詳しく報告してご相談しました。

お釈迦様は、こう言われます。
そなたの母の罪悪は深く、そなた一人の力ではどうにもならない。
まさに世界中の僧侶たちのすばらしい力によれば救うことができるだろう。

この釈迦が、これからそなたのために救済の法を説き、すべての苦しみや憂い、罪や悪を離れさせ、消滅させてやろう。

お釈迦様は、目蓮に告げられました。
「七月十五日に、過去七回生まれ変わった時の父母と現在の父母、苦しみの中にいる者のために、具飯と百味の五果と、水を入れるお椀、香油、錠燭、床敷と臥具できる限りの美味しいものをお盆に盛って、世界中の徳の高い僧侶たちに布施をしなさい。
この日は、すべての聖者、例えば山の中で禅定ぜんじょうの修行をしている人、あるいは悟りを開いた人、あるいは樹の下で修行している人、あるいは自在の神通力で声聞や縁覚を指導している人、あるいは仮に僧侶の姿となって人々の中に混ざっている高い悟りを開いた偉大な菩薩が、皆、同じように、一心にお椀に一杯のご飯を受けられる。
清らかな戒律を守る聖者の道を行く者の徳は、海のように深くて広い。
これらの僧侶たちに布施をすれば、過去七生の父母、五種の親属、地獄餓鬼畜生の三悪道の苦しみから出ることができ、時がくれば迷いから離れ、衣食に困ることはないだろう。

そしてお釈迦様は、世界中の僧侶たちに命ぜられました。
「布施をされた方の家のために過去七生の父母の幸せを願い、心をしずめて、その後に食物を頂きなさい」。
目連尊者やお弟子、僧侶たちは歓喜し、この尊い教えを頂いて実行しました。

仏説報恩奉盆経

このように、『盂蘭盆経』とほぼ同内容ですが、より簡潔になっています。
この『報恩奉盆経』中では、「盂蘭盆」という単語は使われていません。
それに対して、『盂蘭盆経』では、お盆のような意味で3回使われています。
盂蘭盆」は本来はインドの「ウランバナ」という言葉で、倒懸とうけんという意味なのに、「」という漢字にひきずられてお盆の意味だと勘違いした中国の人が、「盂蘭盆」という単語が使われている周辺を付け加えたのではないか、と池田澄達が推測したのです。
これが『盂蘭盆経』を偽経という根拠です。

ですが、池田澄達説でも、『盂蘭盆経』は、『報恩奉盆経』にない後半の「盂蘭盆」という単語が使われている部分を、中国で付け加えられたのではないかと推測するのみで、全部中国で作られたというわけではありません。
むしろ内容は、中国の人にはなじみのない、雨季に行われる安居あんごというインドの習慣に基いている上に、異訳のお経があるので、根幹の部分は、インドでお釈迦様の説かれたお経です。
では、「盂蘭盆」という単語の使われている周辺は、中国で付け加えられたのでしょうか。

偽経説の棄却

ところが2013年の論文で、「盂蘭盆」には、言語学の見地からお盆の意味があると辛嶋静志が明らかにしました。
これにより『盂蘭盆経』に中国で付け加えられた部分があると推測する理由は何もなくなりました。
池田澄達の説は完全に否定され、『盂蘭盆経』は、疑いなくお釈迦様が説かれたお経であることが、明らかになったのです。

それでも未だに『盂蘭盆経』は偽経だという人がたくさんあります。
そういう人たちは、あまり仏教の勉強をせずに、誰かの受け売りを語っているだけの人か、または仏教以外の宗教を深く信じていて、仏教をよく思っていない人の言うことですので、あまり気にする必要はありません。
盂蘭盆経』を偽経とする根拠はもはや何もないのですから。

では、「盂蘭盆」とはどんな意味なのでしょうか。

「盂蘭盆」の意味

盂蘭盆」はインドのウランバナという言葉で、倒懸とうけんという意味だといわれます。
倒懸」とはさかさにかかることで、逆立ちしているということです。
逆立ちして餓鬼道の苦しみを受けている者を救うお経が『盂蘭盆経』というわけです。

ところが「盂蘭盆」は『盂蘭盆経』に3回出てきますが、いずれも倒懸という意味ではなく、どちらかというとお盆の意味に近いような文脈で使われています。
また、目連尊者のお母さんは逆立ちしているとも説かれていません。
このことから、「盂蘭盆」の語源には所説あり、イラン語説まであります。
そして『盂蘭盆経』偽経説まで出てきたわけです。

ですが1つの単語に2つ以上の意味があることは、よくあることです。
辞書をみても、多くの単語に1、2、3……と複数の意味があります。

さらには日本の古典でもよくあることに「掛詞」というものがあります。
一つの単語に同時に二つの意味をこめるという修辞法です。
例えばこの小野小町の有名な歌には2つもあります。
花の色は うつりにけりな いたづらに
 わが身世にふる ながめせしまに

ふる」が降ると経る、「ながめ」が長雨と眺めの意味をかねています。

そのように「盂蘭盆」という言葉は、漢字の意味で表すお盆という意味と、「ウラボン」という音で表すインドの言葉の意味をかねて「盂蘭盆経」と使われている可能性もあります。

そして、どんなに語源や意味を推定しても、それらの語源を特定する証拠は何もないので、結局推測して、現代人の考え方で一番もっともらしいと思われることが定説になるだけです。
それは「そういう語源かもしれないね」というだけで、それほど意味があるとも思えませんし、言葉の意味を推定して一つに決めるのが仏教なわけでもありません。

仏教で間違いなく教えられていることは、すべての人は逆立ちして苦しんでいる、ということです。
無常の命を持ちながら、いつまでも生きていられると思い、限りないを求めて苦しんでいます。
現実は無常なのに、常があると思い込んでいるのです。
それが逆立ちした姿です。

限りある命で限りない欲を求めても、死ぬまで満足できずに人生を終わっていくだけです。
そんな逆立ちして苦しんでいる人に、本当の苦悩の根元と、それを断ち切って本当の幸せになる道を教えられているのが仏教なのです。

では、苦悩の根元とはどんなことで、どうすればそれを断ち切れるのでしょうか。
それについては仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍に分かりやすくまとめておきました。
ぜひ読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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