四十二章経とは
インドから中国へ伝えられた経典第一号と言われている『四十二章経』は、42章からからなるお経です。
一言でいえば、修行や日常生活で重要となる教えが説かれ、特に禅宗で重視されています。
その『四十二章経』には、一体どんなことが教えられているのでしょうか。
全文と現代語訳も掲載しつつ、分かりやすく解説していきます。
四十二章経とは
まず『四十二章経』とはどんなお経なのか、仏教辞典を見てみると、こうあります。
四十二章経
しじゅうにしょうぎょう
摂摩騰(迦葉摩騰)と竺法蘭が共訳したとされるが、おそらく5世紀ごろ中国で編纂されたと思われる。
1巻。
漢訳経典から倫理的・実践的教説を記した章句を集め、42章にまとめたもの。
もともと小乗経典の性格を有していたが、のちに禅宗内でもてはやされ、禅宗的教説を含む改訂本もつくられた。
今日でも、この両系統のテキストが並び行われている。
『出三蔵記集』以来、本経は中国への仏教初伝の伝説と結びつき、漢訳仏典の第1号と考えられてきた。
しかし史実とは見なしがたい。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
仏教辞典では、『四十二章経』の歴史的なことばかりが記され、内容はほとんど分かりませんので、
詳しく分かりやすく解説していきます。
まず『四十二章経』には2つの系統があります。
古いほうは高麗本といって、高麗の大蔵経の中にあるものです。
もう1つは宝林伝本といって、801年の宝林伝の最初にあるものです。
四十二章経の由来
まず、高麗本には、序文があります。
そこには『四十二章経』の由来がこのように述べられています。
後漢の2代目、明帝の時のことです。(在位58 - 75)
ある夜、明帝は夢に神人を見ました。
体は金色に輝き、うなじに日光もあり、空中を飛んできました。
この夢はよい夢に違いないと思った皇帝は、明くる日、軍神たちに
「このような夢を見たが、一体何の神だったのだろうか」
と尋ねました。
すると臣下の一人が、
「天竺に仏という道を得た人がいると聞きます。
身が軽やかで飛ぶこともできるそうです。
おそらくはその神ではないでしょうか」
と答えます。
そこで明帝は張騫を初めとする12名を西域の大月氏国に派遣します。
すると派遣団は、『四十二章経』を写し取って帰ってきました。
それから寺を建立して仏教を広めるようになった、ということです。
(出典:『四十二章経』)
これは『後漢書』によれば、大月氏はクシャーナ朝で、明帝が夢を見たのは64年のことだといいます。
そして67年に迦葉摩騰と竺法蘭が洛陽にやってきて、
白馬寺にて『四十二章経』を漢訳したと伝えられています。
禅宗では仏祖三経の1つ
宝林伝本は、禅宗で重視され、仏祖三経の1つとされています。
仏祖三経の他の2つは、『仏遺教経』と『潙山警策』です。
その結果、禅宗では日常的に読まれるお経となり、解説もたくさん出ています。
ですが、このサイトでは、古い系統の高麗本について取り扱いたいと思います。
四十二章経は小乗経典?それとも大乗経典?
『四十二章経』は、小乗経典なのでしょうか?
それとも大乗仏教の宗派である禅宗で重視されるということは、
大乗経典なのでしょうか?
『四十二章経』に説かれていることは、小乗経典である阿含経に同じようなことが説かれているところが多々あります。
例えばこのような感じです。
- 第1章:長阿含遊行経
- 第3章:長阿含十上経、増一阿含経43、雑阿含経37
- 第6章:雑阿含経42、8
- 第7章:雑阿含経42、10
- 第9章:増一阿含経19、中阿含須達多経
- 第24章:雑阿含七年度経、魔女経、大荘厳経降魔品
- 第27章:雑阿含賓頭盧経
- 第28章:増一阿含枯樹経、中阿含木積喩経、法句譬喩経教学品、涅槃経聖行品
- 第33章:増一阿含耳経、中阿含沙門二十億経、雑阿含二十億耳経
- 第36章:増一阿含非時、中阿含八難経
- 第39章:中阿含蜜丸喩経、増一阿含甘露法味経
このように、阿含経に説かれることが多くあります。
内容も、無常や苦、無我を説かれ、苦しみの本は愛欲であることを色々なたとえで教えられています。
そして欲望をコントロールして精進することを勧められています。
そうなると小乗経典なのかと思いきや、第5章や第6章には慈悲や忍辱が説かれ、第8章や第9章には、布施が勧められています。
自利利他は大乗仏教の特徴なので、禅宗で重視されるだけあって、大乗仏教的なところもあるわけです。
このように、小乗経典的でもありながら、大乗仏教の特徴も併せ持つお経が『四十二章経』です。
四十二章経全文
以下が、『四十二章経』の全文です。
ここでは分かりやすいように、現在使われている漢字で表記してあります。
仏言。辞親出家為道。名曰沙門。常行二百五十戒。為四真道。行進志清浄成阿羅漢。阿羅漢者。能飛行変化。住寿命。動天地。次為阿那含。阿那含者。寿終魂霊。上十九天。於彼得阿羅漢。次為斯陀含。斯陀含者。一上一還。即得阿羅漢。次為須陀洹。須陀洹者。七死七生。便得阿羅漢。愛欲断者。譬如四支断。不復用之。
仏言。除鬚髪。為沙門。受道法。去世資財。乞求取足。日中一食。樹下一宿。慎不再矣。使人愚弊者。愛与欲也。
仏言。衆生以十事為善。亦以十事為悪。身三。口四。意三。身三者。殺。盗。婬。口四者。両舌。悪罵。妄言。綺語。意三者。嫉。恚。痴。不信三尊。以邪為真。優婆塞行五事。不懈退。至十事必得道也。
仏言。人有衆過。而不自悔。頓止其心。罪来帰身。猶水帰海。自成深廣矣。有悪知非。改過得善。罪日消滅。後会得道也。
仏言。人愚吾以為不善。吾以四等慈。護済之。重以悪来者。吾重以善往。福徳之気。常在此也。害気重殃。反在于彼。
有人聞仏道。守大仁慈。以悪来。以善往。故来罵。仏黙然不答愍之。痴冥狂愚使然。罵止問曰。子以礼従人。其人不納。実礼如之乎。曰持帰。今子罵我。我亦不納。子自持帰。禍子身矣。猶響応声。影之追形。終無免離。慎為悪也。
仏言。悪人害賢者。猶仰天而唾。唾不汚天。還汚己身。逆風坋人。塵不汚彼。還坋于身。賢者不可毀。過必滅己也。
仏言。夫人為道務博愛。博哀施徳莫大施。守志奉道。其福甚大。覩人施道。助之歡喜。亦得福報。質曰。彼福不当減乎。仏言。猶若炬火。数千百人。各以炬来。取其火去。熟食除冥彼火如故。福亦如之。
仏言。飯凡人百。不如飯一善人。飯善人千不如飯持五戒者一人。飯持五戒者万人。不如飯一須陀洹。飯須陀洹百万。不如飯一斯陀含。飯斯陀含千万。不如飯一阿那含。飯阿那含一億。不如飯一阿羅漢。飯阿羅漢十億。不如飯辟支仏一人。飯辟支仏百億。不如以三尊之教度其一世二親。教千億。不如飯一仏学願求仏欲済衆生也。飯善人。福最深重。
凡人事天地鬼神。不如孝其親矣。二親最神也。
仏言。天下有五難。貧窮布施難。豪貴学道難。制命不死難。得覩仏経難。生値仏世難。
有沙門問仏。以何縁得道。奈何知宿命。仏言。道無形。知之無益。要当守志行。譬如磨鏡。垢去明存。即自見形。断欲守空。即見道真。知宿命矣。
仏言。何者為善。唯行道善。何者最大。志与道合大。何者多力。忍辱最健。忍者無怨。必為人尊。何者最明。心垢除。悪行滅内清浄無瑕。未有天地。逮于今日。十方所有。未見之萌。得無不知無不見無不聞。得一切智。可謂明乎。
仏言。人懐愛欲不見道。譬如濁水以五彩投其中致力攪之。衆人共臨水上無能覩其影者。愛欲交錯心中為濁故不見道。水澄穢除清浄無垢即自見形。猛火著釜下中水踊躍。以布覆上衆生照臨亦無覩其影者。心中本有三毒涌沸在内。五蓋覆外。終不見道。要心垢尽乃知魂靈所従来生死所趣向。諸仏国土道徳所在耳。
仏言。夫為道者。譬如持炬火入冥室中。其冥即滅而明猶在。学道見諦愚痴都滅。得無不見。
仏言。吾何念念道。吾何行行道。吾何言言道。吾念諦道。不忽須臾也。
仏言。覩天地念非常。覩山川念非常。覩万物形体豊熾念非常。執心如此得道疾矣。
仏言。一日行常念道行道。遂得信根。其福無量。
仏言。熟自念身中四大名自有名都為無。吾我者寄生。生亦不久。其事如幻耳。
仏言。人随情欲求華名。譬如焼香衆人聞其香。然香以燻自焼愚者貪流俗之名誉。不守道真。華名危己之禍。其悔在後時。
仏言。財色之於人。譬如小児貪刀。刃之蜜甜。不足一食之美。然有截舌之患也。
仏言。人繋於妻子宝宅之患。甚於牢獄桎梏鋃鐺。牢獄有原赦。妻子情欲雖有虎口之禍。己猶甘心投焉。其罪無赦。
仏言。愛欲莫甚於色。色之為欲。其大無外。頼有一矣。仮其二。普天之民無能為道者。
仏言。愛欲之於人。猶執炬火逆風而行。愚者不釈炬。必有焼手之患。貪婬恚怒愚痴之毒。処在人身。不早以道除斯禍者。必有危殃。猶愚貪執炬自焼其手也。
天神献玉女於仏。欲以試仏意観仏道。仏言。革嚢衆穢。爾来何為。以可斯俗難動六通。去吾不用爾。天神踰敬仏。因問道意。仏為解釈。即得須陀洹。
仏言。夫為道者。猶木在水尋流而行。不左触岸。亦不右触岸。不為人所取。不為鬼神所遮。不為洄流所住。亦不腐敗。吾保其入海矣。人為道不為情欲所惑。不為衆邪所誑。精進無疑吾。保其得道矣。
仏告沙門。慎無信汝意。意終不可信。慎無与色会。与色会即禍生。得阿羅漢道。乃可信汝意耳。
仏告諸沙門。慎無視女人。若見無視。慎無与言。若与言者。勅心正行。曰吾為沙門処于濁世。当如蓮花不為泥所汚。老者以為母。長者以為姉。少者為妹。幼者子。敬之以礼。意殊当諦惟観。自頭至足自視内。彼身何有。唯盛悪露諸不浄種。以釈其意矣。
仏言。人為道去情欲。当如草見火。火来已却。道人見愛欲。必当遠之。
仏言。人有患婬情不止。踞斧刃上。以自除其陰。仏謂之曰。若断陰不如断心。心為功曹。若止功曹。従者都息。邪心不止断陰何益。斯須即死。仏言。世俗倒見。如斯痴人有婬童女与彼男誓。至期不来而自悔曰。欲吾知爾本意。以思想生。吾不思想爾。即爾而不生。仏行道聞之謂沙門曰。記之。此迦葉仏偈。流在俗間。
仏言。人従愛欲生憂。従憂生畏。無愛即無憂。不憂即無畏。
仏言。人為道譬如一人与万人戦。被鉀操兵出門欲戦。意怯胆弱乃自退走。或半道還。或格闘而死。或得大勝還国高遷。夫人能牢持其心。精鋭進行不惑于流俗狂愚之言者。欲滅悪尽。必得道矣。
有沙門夜誦経甚悲。意有悔疑。欲生思帰。仏呼沙門問之。汝処于家将阿修為。対曰。恒弾琴。仏言。絃緩何如。曰不鳴矣。絃急何如。曰声絶矣。急緩得中何如。諸音普悲。仏告沙門。学道猶然。執心調適道可得矣。
仏言。夫人為道猶所鍛鉄漸深棄去垢成器必好。学道以漸深去心垢。精進就道。暴即身疲。身疲即意悩。意悩即行退。行退即修罪。
仏言。人為道亦苦。不為道亦苦。惟人自生至老。自老至病。自病至死。其苦無量。心悩積罪。生死不息。其苦難説。
仏言。夫人離三悪道得為人難。既得為人去女即男難。既得為男六情完具難。六情已具生中国難。既処中国値奉仏道難。既奉仏道値有道之君難。生菩薩家難。既生菩薩家以心信三尊値仏世難。
仏問諸沙門。人命在幾間。対曰。在数日間。仏言。子未能為道。復問一沙門。人命在幾間。対曰。在飯食間。仏言。子未能為道。復問一沙門。人命在幾間。対曰。呼吸之間。仏言。善哉。子可謂為道者矣。
仏言。弟子去離吾数千里。意念吾戒必得道。在吾左側意在邪終不得道。其実在行。近而不行。何益万分耶。
仏言。人為道猶若食蜜中辺皆甜。吾経亦爾。其義皆快。行者得道矣。
仏言。人為道能抜愛欲之根。譬如摘懸珠。一一摘之。会有尽時。悪尽得道也。
仏言。諸沙門行道。当如牛負行深泥中。疲極不敢左右顧。趣欲離泥以自蘇息。沙門視情欲。甚於彼泥。直心念道可免衆苦。
仏言。吾視諸侯之位。如過客。視金玉之宝。如礫石。視㲲素之好。如弊帛。
四十二章経
これが『四十二章経』の全文です。
これは漢文ですので、書き下すとどうなるのでしょうか。
四十二章経の書き下し文
次に、以下が『四十二章経』の書き下し文です。
これも分かりやすいように、現在使われている漢字の表記になっています。
【第1章】仏言わく、親を辞して出家し、道を為すを名けて沙門と曰う。常に二百五十戒を行じ、四真道の行を為し、進志清浄なれば、阿羅漢を成ず。阿羅漢とは能く飛行変化し、寿命に住まり、天地を動かす。次を阿那含と為す。阿那含とは、寿終わり、魂霊十九天に上り、かしこに於て阿羅漢を得。次を斯陀含と為す。斯陀含とは、一たび上り、ーたび還りて、即ち阿羅漢を得。次を須陀洹と為す。須陀洹とは、七たび死し、七たび生まれて、すなわち阿羅漢を得、愛欲断ずれば、譬えば、四支の断たれて、また之を用いざるが如し。
【第2章】仏言わく、鬚髪を除きて沙門と為り、道法を受くれば、世の資財を去り、乞い求めて足るを取り、日中に一食し、樹下に一宿して、慎んで再びせざれ。人をして愚蔽ならしむる者は、愛と欲となればなり。
【第3章】仏言わく、衆生、十事を以て善と為し、亦十事を以て悪と為す。身に三、口に四、意に三なり。身に三とは、殺と盗と婬となり。口に四とは、両舌と悪罵と妄言と綺語となり。意に三とは、嫉と恚と痴となり。三尊を信ぜざれば、邪を以て真と為す。優婆塞は五事を行じて懈退󠄁せずんば、十事に至り、必ず道を得るなり。
【第4章】仏言わく、人には衆の過有り。而も自ら悔いて頓に其の心を止めずんば、罪来りて身に帰すること、なお水の海に帰して自ら深廣と成るがごとし。悪有るも非なるを知って、過を改むれば善を得、罪日に消滅し、後かならず道を得るなり。
【第5章】仏言わく、人愚にも以て吾れに不善を為すも、吾れは四等の慈を以て、之を護済せん。重ねて悪を以て来らば、吾れ重ねて善を以て往かん。福徳の気は常に此に在り、害気の重殃は、反ってかしこに在り。
【第6章】人有り、仏の道を守り、大仁慈あるを聞き、悪を以て来るに、善を以て往きたまう。故に来って仏を罵らば、仏は黙然として答えたまわず。之が痴冥狂愚の然らしむるを愍みたまえばなり。罵ることを止むれば、問うて日わく、「なんじ礼を以て人に従わんに、其の人納れずんば、実に礼を之の如くにするや」。曰わく、「持ち帰らん」「今なんじ、我を罵るも、我亦納れず、なんじ、自ら持って帰らば、なんじの身を禍さん。なお響の声に応じ、影の形を追うて、終いに免れ離るること無きがごとし。悪を為すことを慎め」と。
【第7章】仏言わく、悪人の賢者を害するは、なお天を仰いで而も唾せんに、唾、天を汚さずして、還って己が身を汚し、風に逆って人に坋くに、塵、彼を汚さずして、還って身に坋するがごとし。賢者は毀つべからず、禍、必ず己を滅さん。
【第8章】仏言わく、夫れ人の道を為さんには務めて博く愛せよ。博く哀みて施せ。徳は施より大なるはなし。志を守り、道を奉ずれば、其の福甚だ大なり。人の道を施すをみて、之を助けて歓喜すれば、亦福報を得ん。たずねて曰わく、「彼の福当に減ずべからざるか」。仏言わく、「なお炬火の、数千百人各炬を以て来たり、其の火を取りて去り、食を熟き冥を除くも、彼の火はもとの如くなるがごとし。福も亦之の如し」。
【第9章】仏言わく、凡人百に飯せんよりは、一善人に飯せんには如かず。善人千に飯せんよりは、五戒を持てる者一人に飯せんには如かず。五戒を持てる者万人に飯せんよりは、一須陀洹に飯せんには如かず。須陀洹百万に飯せんよりは、一斯陀含に飯せんには如かず。斯陀含千万に飯せんよりは、一阿那含に飯せんには如かず。阿那含一億に飯せんよりは、一阿羅漢に飯せんには如かず。阿羅漢十億に飯せんよりは、辟支仏一人に飯せんには如かず。辟支仏百億に飯せんよりは、三尊の教えを以て、其の一世二親を度するものに如かず。教うるもの千億よりは、一の仏たるを学び、仏たるを願い求め、衆生を済わんと欲するものに飯せんには如かず。善人に飯するは、福最も深重なり。凡人の天地鬼神につかうるは、其の親に孝なるに如かず。二親は最もとうとければなり。
【第10章】仏言わく、天下に五難有り、貧窮にして布施すること難し、豪貴にして道を学ぶこと難し、命をうけて死せざること難し、仏経を覩るを得ること難し、仏世に生まれあうこと難し。
【第11章】沙門有り、仏に問う、「何の縁を以てか道を得、奈何が宿命を知るや」。仏言わく、「道は形無ければ、之を知らんも益無し、要は当に志行を守るべし。譬えば鏡を磨くに、垢を去り明存すれば、即ち自ら形あらわるるが如し。欲を断じ、空を守れば、即ち道真を見、宿命を知らん」。
【第12章】仏言わく、何をか善と為すや。ただ道を行ずるは善なり。何をか最も大となすや。志、道と合うは大なり。何をか多力となすや。忍辱は最もつよし。忍ぶ者には怨無し。必ず人に尊ばる。何をか最明となすや。心の垢除こり、悪行滅し、内清浄にして瑕無く、未だ天地有らざるより今日にいたるまで、十方のあらゆる、未だこのきざしを見ざるより、知らざること無く、見ざること無く、聞かざること無きを得、一切智を得るは明というべきか。
【第13章】仏言わく、人、愛欲を懐いて道を見ざるは、譬えば濁水の、五彩を以て其の中に投じ、力を致して之を攪さば、衆人共に水の上に臨むも、能く其の影を覩る者無きが如し。愛欲もて心中を交錯すれば、濁りと為すが故に道を見ず、水澄み、穢れ除こり、清浄無垢なれば、即ち自ら形あらわる。猛火を釜の下につけ、中の水踊躍すれば、布を以て上を覆い、衆生照臨するも、亦其の影を覩る者無し。心中、本三毒の涌沸し、内に在る有り。五蓋外を覆うて、終いに道を見ず。要は心垢尽きなば、乃ち魂霊の従来する所、生死の趣向する所を知る。諸仏国土というも、道徳の在る所のみ。
【第14章】仏言わく、夫れ道を為す者は、譬えば、炬火を持ちて、くらき室の中に入るに、其の冥即ち滅して、而も明のみなお在るが如し。道を学び、諦を見れば、愚痴すべて滅す。見ざること無きを得るなり。
【第15章】仏言わく、吾れ何をか念ずる、道を念ずるなり。吾れ何をか行ずる、道を行ずるなり。吾れ何をか言う、道を言うなり。吾れ諦道を念ずるに、ゆるがせに須臾せざるなり。
【第16章】仏言わく、天地を覩て非常と念じ、山川を覩て非常と念じ、万物の形体豊熾なるを覩て非常と念ず。執心此くの如くんば、道を得ること疾し。
【第17章】仏言わく、一日の行に、常に道を念じ、道を行ぜば、遂に信根を得ん。其の福無量なり。
【第18章】仏言わく、熟自ら身中の四大を念ぜよ。自らに名けて名有りとするも、すべて無と為す。吾我は寄りて生ず。生も亦久しからず。其の事幻の如きのみ。
【第19章】仏言わく、人の情欲に随って華名を求むるは、譬えば香を焼きて、衆人其の香を聞けども、然も香の以て燻り、自ら燃えたるが如し。愚者は流俗の名誉を貪り、道真を守らず、華名は己を危くするの禍なり。其の悔ゆるは後の時に在り。
【第20章】仏言わく、財色の人に於けるや、譬えば小児の刀を貪りて、刃の蜜を舐むるに、一食の美に足らずして、然も舌を截るの患有るが如し。
【第21章】仏言わく、人の妻子宝宅の患に繋らるるは、牢獄、桎梏、鋃鐺よりも甚し。牢獄には原赦有り、妻子の情欲は虎口の禍有りと雖も、己はなお甘心もてこれに投ず。其の罪赦さるること無し。
【第22章】仏言わく、愛欲は色より甚しきは莫し、色の欲たる、其の大なること外無し。頼に一有るのみ。仮し其の二あらば、普天の民能く道を為す者無けん。
【第23章】仏言わく、愛欲の人に於けるや、なお炬火を執りて、風に逆いて行くに、愚者、炬を釈さずんば、必ず手を焼くの患有るがごとし。貪婬、恚怒、愚痴の毒、人の身に処在り。早く道を以てこの禍を除かずんば、必ず危殃有らん。なお愚貪のものの、炬を執りて自ら其の手を焼くがごとし。
【第24章】天神、玉女を仏に献じて、以て仏意を試み、仏道を観んと欲す。仏言わく、「革に衆穢を囊むのみ、爾来たるも何かせん。以て斯俗もて六通を動かすこと難かるべし。去れ、吾れ爾を用いず」。天神いよいよ仏を敬う。よって道の意を問う。仏為に解釈したまうに、即ち須陀洹を得たり。
【第25章】仏言わく、夫れ道を為す者は、なお木の水に在って、流れを尋ねて行くに、左に岸に触れず、亦右に岸に触れず、人の取る所とならず、鬼神の遮る所とならず、洄流の住むる所とならず、亦腐敗せず、吾れ其の海に入るを保せんがごとし。人の道を為すや、情欲の惑わす所とならず、衆邪の誑わす所とならず、精進して疑無くんば、吾れ其の道を得るを保せん。
【第26章】仏、沙門に告げたまわく、慎んで汝が意を信ずること無かれ、意終いに信ずベからず。慎んで色と会すること無かれ、色と会すれば即ち禍生ず。阿羅漢道を得て、乃ち汝が意を信ずべきのみ。
【第27章】仏、諸の沙門に告げたまわく、慎んで女人を視ること無かれ。若し見無くして視るも、慎んでともに言うこと無かれ。若しともに言わば、心を勅め正しく行じて曰わく、「吾れは沙門なり。濁世に処るも、まさに蓮華の、泥に汚されざるが如くなるべし」と。老いたる者は母とおもい、長じたる者は姉とおもい、少き者は妹とおもい、幼き者は子として、之を敬うに礼を以てせよ。意殊に当に諦かに惟観すベし。頭より足に至るまで自ら内に視よ。「彼身は何の有ぞや、唯悪露と諸の不浄種を盛るのみ」と。以て其の意を釈れ。
【第28章】仏言わく、人の道を為し、情欲を去るは、当に草に大火を来るを見て、已に却うが如くすべし。道人、愛欲を見れば、必ず当に之を遠くべし。
【第29章】仏言わく、人有り、婬情の止まざるを患い、斧刃の上に踞りて、以て自ら其の陰を除く。仏、之に謂いて日わく、「若し陰を断ぜんよりは、心を断ぜんには如かず。心は功曹たり、若し功曹を止めば、従者もすべて息まん。邪心止まずんば、陰を断ずるとも何の益かあらん。これ須らく即ち死すべし」。仏言わく、「世俗の倒見は、この痴人の如し」と。
【第30章】婬なる童女有り、彼の男と誓う。期に至るも来らず。自ら悔いて曰わく、「欲は吾れ爾の本、意なるを知れり、思と想とを以て生ず。吾れ爾れを思想せずんば、即ち爾れ生ぜず」。仏、道を行きつつ之を聞き、沙門に謂って曰わく、「之を記せよ、此れ迦葉仏の偈なり、流れて俗間に在り」。
【第31章】仏言わく、人、愛欲より憂を生じ、憂より畏を生ず。愛無くんば即ち憂無く、憂えずんば即ち畏無し。
【第32章】仏言わく、人の道を為すは、譬えば一人と万人と戦うに、鉀を被り、兵を操り、門を出でて戦わんと欲するに、意怯にして胆弱きものは、乃ち自ら退走し、或ものは半道にして還り、或ものは格闘して死し、或ものは大勝を得て還り、国高く遷るが如し。夫れ人、能く牢く其の心を持ち、精鋭進行して、流俗狂愚の言に惑わずんば、欲滅し、悪尽き、必ず道を得ん。
【第33章】沙門有り、夜経を誦するに甚だ悲し。意に悔疑有り、欲生じて帰らんことを思う。仏、沙門を呼びで之に問いたまわく、「汝、家に処してまさに何をか修め為るや」。こたえて曰さく、「恒に琴を弾ぜり」。仏言わく、「絃緩ければ何如」。曰さく、「鳴らず」。「絃急なれば何如」。曰さく、「声絶す」。「急緩中を得れば何如」。「諸音普く悲し」。仏、沙門に告げたまわく、「道を学ぶもなお然り。執心調適なれば道は得べきなり」。
【第34章】仏言わく、夫れ人の道を為すは、なお鍛わるる鉄の漸く深しく垢を棄て去り、器を成ずれば、必ず好きがごとし。道を学ぶことも、以て漸く深く、心の垢を去って、精進就道せよ。暴しければ即ち身疲る、身疲るれば即ち意悩む、意悩めば即ち行退く、行退けば即ち罪を修す。
【第35章】仏言わく、人、道を為すは亦苦なり。道を為さざるも亦苦なり。惟うに、人は生より老に至り、老より病に至り、病より死に至る。其の苦無量なり。心悩み、罪を積ぬ。生死息まず、其の苦説き難し。
【第36章】仏言わく、夫れ人、三悪道を離れ、人たるを得ること難し。既に人たるを得るも、女を去って男に即くこと難し。既に男たるを得るも、六情完具するは難し。六情已に具するも、中国に生ずるは難し。既に中国に処すとも、仏道に値い奉ること難し。既に仏道を奉ずるも、有道の君に値うは難し。菩薩の家に生ずること難し。既に菩薩の家に生ずるも、心を以て三尊を信じ、仏世に値うこと雛し。
【第37章】仏、諸の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」。こたえて曰さく、「数日の間に在り」。仏言わく、「なんじ未だ能く道を為さず」。また一人の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」。こたえて曰さく、「飯食の間に在り」。仏言わく、「なんじ未だ能く道を為さず」。また一人の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」。こたえて曰さく、「呼吸の間にあり」。仏言わく、「善いかな、なんじ、道を為せる者と謂つべし」。
【第38章】仏言わく、弟子の吾れを去り離るること数千里ならんも、意に吾が戒を念ずれば、必ず道を得ん。吾が左側に在りとも、意、邪に在らば、終いに道を得ざらん。其の実は行に在り、近くして而も行ぜずんば、何ぞ万分も益せんや。
【第39章】仏言わく、人の道を為すは、なお蜜を食するに、中辺も皆甜きがごとし。吾が経も亦しかなり。其の義皆快し。行ずれば道を得ん。
【第40章】仏言わく、人の道を為して能く愛欲の根を抜くは、譬えば懸珠を摘むが如く、一一に之を摘めば、会尽くる時有り、悪尽くれば道を得ん。
【第41章】仏言わく、諸の沙門の道を行ずるは、当に牛の負うて深泥の中を行くに、疲れ極りて敢て左右を顧みず、泥を離れんと欲するに趣いて、以て自ら蘇息するが如くすべし。沙門の情欲を視るや、彼の泥よりも甚だし。心を直くし、道を念ずれば、衆苦を免るべし。
【第42章】仏言わく、吾れ諸侯の位を視ること、過客の如く、金玉の宝を視ること、礫石の如く、㲲素の好しきを視ること、弊帛の如し。
四十二章経
四十二章経の現代語訳
次に、『四十二章経』の現代語訳は以下の通りです。
【第1章】仏様がおっしゃるには、親の膝下を辞して家を出て、仏道を求める人を「沙門」という。
常に250の戒を行じ、立居振舞も清らかにして、四つの真理を修行し、「阿羅漢」となる。
阿羅漢とは、よく飛行変化自在にして、長い生命を得て、その力はややもすれば天地を動かす。
次を「阿那含」という。
阿那含は、寿命終わって、その魂霊は十九天に上って、阿羅漢を得る。
次を「斯陀含」という。
斯陀含は、一度天に上り、一度下界に還って、阿羅漢をさとる。
次を「須陀洹」という。
須陀洹とは、七たび死して、七たび生まれて阿羅漢を得る。
愛欲を断つことは、その四肢を断って、再び用いざるがごときをいうのである。
【第2章】仏様がおっしゃるには、髭や髪を剃除して沙門となり、仏道を修行するものは、世の資財を去り、乞い求むるところを以て足るを知り、日中に一食し、樹下に一宿して、より以上を求むるな。
人をして愚蔽たらしむるものは、愛と欲とであるからである。
【第3章】仏様がおっしゃるには、生きとし生けるもの、特に人間には、十の善事と十の悪事がある。
その十とは、身に三つ、口に四つ、意に三つある。
身の三つとは、殺生、盗み、邪淫である。
口の四つとは、二枚舌、悪口、嘘、綺語である。
意の三つとは、嫉妬、怒り、愚かさである。
三宝を信じず、邪を真とするのである。
優婆塞(在家の男性)は五つの事を行い、怠らず退かなければ、十の事を行えば必ず道を得るであろう。
【第4章】仏様がおっしゃるには、人には多くの過ちがあるが、自ら悔い改めず、にわかにその心を止めてしまうと、罪はその身に及ぶ。
ちょうど水が海に流れ込むように、自ずと深く広がっていく。
悪を知り、非を認めて、過ちを改め善を得れば、罪は日々消滅し、後に道を得るのである。
【第5章】仏様がおっしゃるには、愚かな人間は私を悪だと思う。
私は、四つの平等な心によって、彼らを護済する。
重ねて悪意を持って来たならば、私は重ねて善意によって応じるだろう。
福徳の気は常にここにあり、害をなす気と重いわざわいは反対に彼らの方にある。
【第6章】ある人が仏の教えを聞き、大きな慈悲の心を守り、悪意に対して善意で応じていた。
ある者が故意に来て罵った。
仏は黙って答えず、その者の無知で狂った愚かさがそうさせていることを憐れんだ。
罵りが止んだとき、仏が尋ねておっしゃるには
「あなたが礼を持って人に接し、その人がそれを受け入れなければ、その礼はどうなるか」
その人は答えた。
「自分の元に戻る」
「今、あなたは私を罵ったが、私はそれを受け入れない。あなたはそれを持ち帰り、あなたの身にわざわいをもたらすだろう。それは、声の響きに応じて影の形を追うようなもので、最終的には逃れることはできない。悪を為すことを慎みなさい」と。
【第7章】仏様がおっしゃるには、悪人が賢者を傷つけようとするのは、ちょうど天に向かって唾するように、天に至らず、かえって自身を汚す。
風に逆らって塵を払うと、塵は彼方には至らず、かえって自身を汚すように、賢者をそしってはならない。
過ちは必ず己を滅ぼすのである。
【第8章】仏様がおっしゃるには、人は道のために献身的に働き、慈悲深くあるべきである。
慈悲を持って徳を施すことほど偉大なものはない。
志を守り、道に従えば、その福は非常に大きい。
他人が道を実践するのを見たら、喜んでそれを助けると、福を得ることができる。
ある人が尋ねた。
「彼の福は減るのではないでしょうか」
仏は答えられた。
「それは松明の火のようなものである。数百、数千の人々がそれぞれ松明を持ってきて、その火を分けてもらって帰り、食事を作ったり明かりをとったりしても、元の火は変わらない。福もそのようなものである」と。
【第9章】仏様がおっしゃるには、凡人100人に食事を施すよりも、1人の善人に食事を施す方がよい。
善人1,000人に食事を施すよりも、五戒を守っている者1人に食事を施す方がよい。
五戒を守っている者1万人に食事を施すよりも、須陀洹1人に食事を施す方がよい。
須陀洹100万人に食事を施すよりも、斯陀含1人に食事を施す方がよい。
斯陀含1,000万人に食事を施すよりも、阿那含1人に食事を施す方がよい。
阿那含1億人に食事を施すよりも、阿羅漢1人に食事を施す方がよい。
阿羅漢10億人に食事を施すよりも、辟支仏(縁覚)1人に食事を供養する方がよい。
辟支仏100億人に食事を供養するよりも、三宝の教えで一世の両親を導く方がよい。
1,000億人を教えるよりも、一仏に食事を供養する方がよい。
一人の仏を学び、仏になることを願い求め、衆生を救おうとする人に食事を供養する方がよい。
善人に食事を施すことは、最も深くて大きな功徳がある。
凡人が天地や鬼神に仕えるよりも、両親に孝行する方がよい。
両親こそ最も神聖なものである。
【第10章】仏様がおっしゃるには、世の中に5つの難しいことがある。
貧しい人は布施することが難しい。
お金持ちの人は道を学ぶことが難しい。
運命を制して死なないことは難しい。
仏の経典を見ることは難しい。
仏の世に生まれることは難しい。
【第11章】ある修行者が仏に尋ねた。
「どのような縁によって道を得ることができるのでしょうか。また、どのようにして宿命を知ることができるのでしょうか」
仏は答えられた。
「道には形はない。それを知ろうとするのは意味のないことである。大事なことは、志を守って実践することである。たとえば鏡を磨くようなもので、垢を取り去れば明るさが残る。そうすれば自ずと自分の姿が見える。欲を断ち空を守れば、道の真理が見えてくる。そうすれば宿命を知ることができるだろう」と。
【第12章】仏様がおっしゃるには、何が善であるか。ただ道を行うことが善である。
何が最も大きいか。志が道と合致することが大きい。
何が最も力強いか。忍耐が最も強い。忍耐する者には怨みがなく、必ず人々に尊ばれる。
何が最も明らかか。心の汚れを取り除き、悪い行いを滅して、内面が清浄で欠点がないことである。
天地がまだ存在しない時から今日に至るまで、十方に存在するもので、まだ見ぬ芽生えであっても、知らないものはなく、見えないものはなく、聞こえないものはない、
一切の智慧を得ることができる。これは明らかと言えるだろう。
【第13章】仏様がおっしゃるには、人は愛欲を抱いているため、道を見ることができない。
譬えば、濁った水に五色の染料を投げ入れ、一生懸命かき混ぜるようなものだ。
大勢の人々がその水面を覗き込んでも、誰も自分の影を見ることはできない。
愛欲が心の中で交錯し、濁りを生じさせるため、道が見えないのだ。
水が澄み、汚れが取り除かれ、清浄無垢になれば、自ずと自分の姿が見える。
猛火を釜の下にくべ、中の水が沸騰して、布で上を覆えば、人々がのぞき込んでも、やはり自分の影を見ることはできない。
心の中にもともとある三毒が内側で沸き立ち、五蓋が外側を覆っているため、結局は道を見ることができない。
要は、心の汚れが尽きてこそ、魂の現れ出る所、生死の向かう所を知ることができるのだ。
諸仏の国土といっても、道徳のある所というだけである。
【第14章】仏様がおっしゃるには、道を求める者は、譬えば、炬火を持って暗い部屋の中に入ると、その暗闇はすぐに消え去り、しかも明かりだけが残るようなものである。
道を学び、真理を見れば、愚痴の心がすべて消えてなくなり、見えないものはなくなる。
【第15章】仏様がおっしゃるには、私は何を念じているのか、仏道を念じている。
私は何を行じているのか、仏道を行じている。
私は何を言うのか、仏道を言う。
私は真理の道を念じて、ほんの少しの間もおろそかにしない。
【第16章】仏様がおっしゃるには、天地を見て、常ならざるを念じよ。
山や川を見て、常ならざるを念じよ。
万物の形体が豊かに燃え盛るのを見て、常ならざるを念じよ。
このような心でいるならば、道を得るまではやいだろう。
【第17章】仏様がおっしゃるには、一日の行において、常に道を念じ、道を行ずる者は、一切無漏の禅定を得、その福徳は計り知れない。
【第18章】仏様がおっしゃるには、よく自らの身体の中の四大(地・水・火・風)について考えてみよ。
名前はあっても、実体は全くない。
我というものは仮の存在に過ぎず、生もまた長くは続かない。
これらのことは幻のようなものである。
【第19章】仏様がおっしゃるには、人は欲望に従って名声を求める。
譬えば、香を焚けば、多くの人がその香りを聞くけれども、香は自らを燃やして香りを放つ。
愚かな者は世俗の名声を求めるあまり、真の道を守らない。
名声は自らを危険に晒す災いとなり、後になって後悔することになる。
【第20章】仏様がおっしゃるには、財産と色欲が人に与える影響は、たとえば小さな子どもが刀を欲しがるようなものである。
刃に塗られた蜜を舐めても、一食分の美味しさにも及ばないが、舌を切る危険がある。
【第21章】仏様がおっしゃるには、人が妻子や宝物、舎宅の憂いに縛られるのは、牢獄の足かせ、手かせ、鎖よりもひどい。
牢獄には罪を許されることがあるが、妻子への情愛や欲望は、危険な災いがあるにもかかわらず、快くそこに身を投じる。
この罪は許されることがない。
【第22章】仏様がおっしゃるには、愛欲の中で、色欲ほど強いものはない。
色欲の大きさは他にはない。
そういう欲が色欲一つだけだからいいが、もしこれ以上あれば、世の中の人々で道を成すことができる者は誰もいないだろう。
【第23章】仏様がおっしゃるには、愛欲が人に与える影響は、ちょうど松明の火を持って逆風をいくようなものだ。
愚かな者は松明を消さないので、必ず手を焼く災いに遭う。
貪欲、淫らな欲望、怒り、愚かさという毒が人の体にある。
早く悟りによって、これらの災いを取り除かなければ、必ず危険と災難が訪れるだろう。
それはあたかも、愚かで欲深い者が松明を手放さないで、自らの手を焼くようなものである。
【第24章】天神が玉女(美しい女性)を仏様に献上して、仏の心を試し、仏道を観察しようとした。
仏様はおっしゃった。
「革の袋に満ちた穢れよ。何のために来たのか。このような世俗的なものでは、六神通を動かすことはできない。去れ、私はお前を必要としない」
天神はさらに仏を敬い、そこで道の意味を尋ねた。
仏様が天神に説明すると、すぐに須陀洹を得た。
【第25章】仏様がおっしゃるには、道を求める者は、ちょうど水に浮かぶ木が流れに従って進んでいくようなものである。
左の岸にも触れず、また右の岸にも触れず、人に取られることもなく、鬼神に邪魔されることもなく、渦巻く流れに止められることもなく、また腐敗することもない。
私はその木が海に入ると保証しよう。
人が悟りを求める時、情欲に惑わされず、多くの邪悪なものに欺かれず、精進して疑いがなくなれば、私はその人が悟りを得ると保証しよう。
【第26章】仏様は修行者に告げられた。
汝の心を信じてはならない、心は最後まで信じてはならない。
欲望の対象に会ってはならない、そのような対象に会えば、すぐに災いが生じる。
阿羅漢の悟りを得てはじめて、汝の心を信じることができるのである。
【第27章】仏様は諸々の修行者に告げられた。
慎んで女性を見てはならない。
もし見てしまったら、慎んで言葉を交わしてはならない。
もし言葉を交わしたならば、心を引き締めて正して行動せよ。
そして、こう言うのだ。
「私は修行者である。濁った世の中に生きているが、蓮の花が泥に汚されないようにあるべきだ」と。
年老いた女性は母と思い、年上の女性は姉と思い、年下の女性は妹と思い、幼い人は子として、礼をもって敬いなさい。
特に心を込めて、よく観察すべきである。
頭から足まで内側を見よ。
「その身に何があるか。ただ悪しきものと不浄なものだけである」
そう考えて、その思いを解き放つのだ。
【第28章】仏様がおっしゃるには、人が道を求めて情欲を離れるのは、草に大火が来るのを見て、残らず取り払うようであるべきだ。
道を求める者が愛欲を見れば、必ずそれから遠ざかるべきである。
【第29章】仏様がおっしゃるには、淫らな感情が止まらない悩みがある人が、斧の刃の上に座って、自ら陰部を切り落とそうとした。
仏様はその者におっしゃった。
「陰部を切り落とすよりも心を断つ方がよい。心は指揮者である。もし指揮者を止めれば、従う者たちは皆休む。邪な心を止めずに陰部を切り落としても何の効果があるだろうか。必ず即座に死ぬことになる」。
仏様がおっしゃるには、「世俗の人々は物事を逆さまに見ている。このような愚かな人のように」と。
【第30章】ある血気盛んな若い女が男と約束をした。
しかし、約束の時間に男が来なかったので、彼女は後悔して言った。
「欲というものは、私はそのもとが分別であることが知らされた。
分別は意志とイメージによって生まれる。私が男のことをイメージしたり働きかけようとしたりしなければ、欲は生じなかったのではないか」
仏様が道でこれを聞かれて、修行者におっしゃった。
「これを記録せよ。これは迦葉仏の偈である。世間に広まっているのだ」
【第31章】仏様がおっしゃるには、人は愛欲から憂いを生じ、憂いから恐れを生じる。
愛がなければ憂いもなく、憂いがなければ恐れもない。
【第32章】仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、一人で一万人と戦うようなものである。
兜を被って兵を操り、門を出て戦おうとするが、意気地なく臆病になって自ら退却してしまう。
ある人は途中で引き返し、ある人は格闘して死に、ある人は大勝利を得て国に戻り、高い地位に就く。
そもそも人が自分の心をしっかりと保ち、精励して前進し、世俗の狂った愚かな言葉に惑わされないならば、欲はなくなり、悪も尽きて、必ず悟りを得るであろう。
【第33章】ある修行者が夜にお経を唱えていたが、とても悲しそうであった。
心に後悔と疑いがあり、家に帰りたいと思っていた。
仏様がその修行者を呼んで尋ねられた。
「そなたが家にいた時は何をしていたのか」
修行者は答えた。
「いつも琴を弾いていました」
仏様はおっしゃった。
「弦が緩いと、どうなるか」
修行者は答えた。
「音が鳴りません」
「弦が張りすぎたらどうなるか」
修行者は答えた。
「音が切れてしまいます」
「弦の張り具合が丁度よい時はどうか」
「すべての音が美しく響きます」
仏様は修行者に告げられた。
「修行も同じである。心を適切に保つことができれば、悟りに至ることができるだろう」
【第34章】仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、鉄を鍛えるようなものである。
徐々に深く鍛錬し、不純物を取り除いていけば、必ず良い器となる。
道を学ぶことも同様で、徐々に深く心の垢を取り除いていく。
精進して道に近づくのだ。
しかし、急ぎすぎれば身体が疲れる。
身体が疲れれば心も悩む。
心が悩めば修行から退く。
修行から退けば罪を犯すことになる。
【第35章】仏様がおっしゃるには、人は道を求めても苦しみ、道を求めなくても苦しむ。
人は生まれてから老いるまで、老いてから病むまで、病んでから死ぬまで、その苦しみは計り知れない。
心は悩み、罪を積み重ね、生死の輪廻は止むことがない。
その苦しみは言い表せないほどである。
【第36章】仏様がおっしゃるには、人が三悪道を離れて、人間として生まれることは難しい。
人間として生まれても、女性を離れて男性になることは難しい。
男性になっても、六根が完全に備わることは難しい。
六根が備わっても、中心的な国に生まれることは難しい。
中心的な国に生まれても、仏道に出会うことは難しい。
仏道に出会っても、正しい道を行く君主に出会うことは難しい。
菩薩の家に生まれることは難しい。
菩薩の家に生まれても、心から三宝を信じ、仏の時代に巡り会うことは難しい。
【第37章】仏様が諸々の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
一人が答えた。
「数日間でございます」
仏様はおっしゃった。
「そなたはまだ分かっていない」
再び別の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
その修行者は答えた。
「食事をする間でございます」
仏様はおっしゃった。
「そなたはまだ分かっていない」
さらに別の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
その修行者は答えた。
「一息つく間もありません」
仏様はおっしゃった。
「よろしい。そなたこそ、悟りを得る者と言えるだろう」
【第38章】仏様がおっしゃるには、弟子が私から数千里離れていても、私の戒めを心に留めていれば、必ず悟りを得るだろう。
しかし、私の左側にいても、心が邪であるならば、決して悟りを得ることはできない。
大切なのは実践することである。
近くにいても実践しなければ、何の益もない。
【第39章】仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、蜜を食べるようなものである。
程よく皆甘い。
仏の教説もまたそうである。
その教えはすべて素晴らしく、実践すれば道を得るのである。
【第40章】仏様がおっしゃるには、人が道を求める時、愛欲の根を抜くことができる。
それはあたかも、吊るされた珠を一つずつ摘むようなものだ。
一つ一つ摘んでいけば、いつかは必ず尽きる時が来る。
悪が尽きた時、悟りを得るのである。
【第41章】仏様がおっしゃるには、諸々の修行者が修行する時は、牛が重荷を背負って深い泥の中を歩み、どんなに疲れても左右の岸を見ることなく、泥から抜け出して、ほっと一息つくようなものだ。
修行者の情欲は、その泥よりもまとわりつく。
真っ直ぐな心で仏道を忘れなければ、あらゆる苦しみから離れることができるだろう。
【第42章】仏様がおっしゃるには、私には支配者の地位は旅人のように見える。
金玉の宝は、砂利や石ころのように見える。
絹や絹織物の美しさは、古くなっていたんだ布のように見える。
これが現代語訳です。
では、分かりやすいように、一章ずつ順番に見ていきましょう。
各章ごとの内容
第1章・四沙門果
仏言。辞親出家為道。名曰沙門。常行二百五十戒。為四真道。行進志清浄成阿羅漢。阿羅漢者。能飛行変化。住寿命。動天地。次為阿那含。阿那含者。寿終魂霊。上十九天。於彼得阿羅漢。次為斯陀含。斯陀含者。一上一還。即得阿羅漢。次為須陀洹。須陀洹者。七死七生。便得阿羅漢。愛欲断者。譬如四支断。不復用之。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、親を辞して出家し、道を為すを名けて沙門と曰う。
常に二百五十戒を行じ、四真道の行を為し、進志清浄なれば、阿羅漢を成ず。
阿羅漢とは能く飛行変化し、寿命に住まり、天地を動かす。
次を阿那含と為す。
阿那含とは、寿終わり、魂霊十九天に上り、かしこに於て阿羅漢を得。
次を斯陀含と為す。
斯陀含とは、一たび上り、ーたび還りて、即ち阿羅漢を得。
次を須陀洹と為す。
須陀洹とは、七たび死し、七たび生まれて、すなわち阿羅漢を得、愛欲断ずれば、譬えば、四支の断たれて、また之を用いざるが如し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、親の膝下を辞して家を出て、仏道を求める人を「沙門」という。
常に250の戒を行じ、立居振舞も清らかにして、四つの真理を修行し、「阿羅漢」となる。
阿羅漢とは、よく飛行変化自在にして、長い生命を得て、その力はややもすれば天地を動かす。
次を「阿那含」という。
阿那含は、寿命終わって、その魂霊は十九天に上って、阿羅漢を得る。
次を「斯陀含」という。
斯陀含は、一度天に上り、一度下界に還って、阿羅漢をさとる。
次を「須陀洹」という。
須陀洹とは、七たび死して、七たび生まれて阿羅漢を得る。
愛欲を断つことは、その四肢を断って、再び用いざるがごときをいうのである。
(補足解説)
沙門は、出家して仏道を修する者のこと。
阿羅漢とは、小乗仏教における最高の悟りの位です。
阿羅漢について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾阿羅漢の悟りとは?意味を分かりやすく解説
四真道は、四聖諦のことです。
四聖諦について、詳しくはこちらの記事をご覧ください。
➾四聖諦(四諦)ー 仏教に説かれる4つの真理
第2章・沙門の生活
仏言。除鬚髪。為沙門。受道法。去世資財。乞求取足。日中一食。樹下一宿。慎不再矣。使人愚弊者。愛与欲也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、鬚髪を除きて沙門と為り、道法を受くれば、世の資財を去り、乞い求めて足るを取り、日中に一食し、樹下に一宿して、慎んで再びせざれ。
人をして愚蔽ならしむる者は、愛と欲となればなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、髭や髪を剃除して沙門となり、仏道を修行するものは、世の資財を去り、乞い求むるところを以て足るを知り、日中に一食し、樹下に一宿して、より以上を求むるな。
人をして愚蔽たらしむるものは、愛と欲とであるからである。
(補足解説)
仏教では、愛は苦しみの元と教えられています。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾仏教の慈悲とキリスト教の愛の違い
第3章・善と悪
仏言。衆生以十事為善。亦以十事為悪。身三。口四。意三。身三者。殺。盗。婬。口四者。両舌。悪罵。妄言。綺語。意三者。嫉。恚。痴。不信三尊。以邪為真。優婆塞行五事。不懈退。至十事必得道也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、衆生、十事を以て善と為し、亦十事を以て悪と為す。
身に三、口に四、意に三なり。
身に三とは、殺と盗と婬となり。
口に四とは、両舌と悪罵と妄言と綺語となり。
意に三とは、嫉と恚と痴となり。
三尊を信ぜざれば、邪を以て真と為す。
優婆塞は五事を行じて懈退󠄁せずんば、十事に至り、必ず道を得るなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、生きとし生けるもの、特に人間には、十の善事と十の悪事がある。
その十とは、身に三つ、口に四つ、意に三つある。
身の三つとは、殺生、盗み、邪淫である。
口の四つとは、二枚舌、悪口、嘘、綺語である。
意の三つとは、嫉妬、怒り、愚かさである。
三宝を信じず、邪を真とするのである。
優婆塞(在家の男性)は五つの事を行い、怠らず退かなければ、十の事を行えば必ず道を得るであろう。
(補足解説)
十悪と十善が説かれています。
十悪と十善はそれぞれ対応していて、十悪の反対が十善です。
一例を挙げれば、殺生は十悪の一つですが、不殺生は十善の一つです。
十悪について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾悪の意味・キリスト教と仏教の違い
優婆塞は、在家の仏教信者のこと。
五事は、在家の信者である優婆塞が守るべき五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒
)のことです。
五戒については、こちらの記事をご覧ください。
➾五戒とは?仏教でやってはいけないことを分かりやすく解説
第4章・懺悔
仏言。人有衆過。而不自悔。頓止其心。罪来帰身。猶水帰海。自成深廣矣。有悪知非。改過得善。罪日消滅。後会得道也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人には衆の過有り。
而も自ら悔いて頓に其の心を止めずんば、罪来りて身に帰すること、なお水の海に帰して自ら深廣と成るがごとし。
悪有るも非なるを知って、過を改むれば善を得、罪日に消滅し、後かならず道を得るなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人には多くの過ちがあるが、自ら悔い改めず、にわかにその心を止めてしまうと、罪はその身に及ぶ。
ちょうど水が海に流れ込むように、自ずと深く広がっていく。
悪を知り、非を認めて、過ちを改め善を得れば、罪は日々消滅し、後に道を得るのである。
(補足解説)
これは一言でいえば、人には過ちばかりだけれども、過ちを改めることを心がけようということです。
これに関連して、仏教で教えられる懺悔については以下の記事をご覧ください。
➾懺悔とは?意味と後悔の違い・罪が消滅する効果と懺悔のやり方
第5章・仏の慈悲
仏言。人愚吾以為不善。吾以四等慈。護済之。重以悪来者。吾重以善往。福徳之気。常在此也。害気重殃。反在于彼。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人愚にも以て吾れに不善を為すも、吾れは四等の慈を以て、之を護済せん。
重ねて悪を以て来らば、吾れ重ねて善を以て往かん。
福徳の気は常に此に在り、害気の重殃は、反ってかしこに在り。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、愚かな人間は私を悪だと思う。
私は、四つの平等な心によって、彼らを護済する。
重ねて悪意を持って来たならば、私は重ねて善意によって応じるだろう。
福徳の気は常にここにあり、害をなす気と重いわざわいは反対に彼らの方にある。
(補足解説)
四等の慈は、慈・悲・喜・捨の四無量心と同じ。
(慈:楽しみを与えること
悲:苦しみを抜くこと
喜:他人の幸せを喜ぶこと
捨:取捨の心がなく平静なこと)
仏教で教えられる慈悲については以下の記事をご覧ください。
➾慈悲の意味をできるだけ簡単に分かりやすく解説
第6章・謗法
有人聞仏道。守大仁慈。以悪来。以善往。故来罵。仏黙然不答愍之。痴冥狂愚使然。罵止問曰。子以礼従人。其人不納。実礼如之乎。曰持帰。今子罵我。我亦不納。子自持帰。禍子身矣。猶響応声。影之追形。終無免離。慎為悪也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
人有り、仏の道を守り、大仁慈あるを聞き、悪を以て来るに、善を以て往きたまう。
故に来って仏を罵らば、仏は黙然として答えたまわず。
之が痴冥狂愚の然らしむるを愍みたまえばなり。
罵ることを止むれば、問うて日わく、「なんじ礼を以て人に従わんに、其の人納れずんば、実に礼を之の如くにするや」
曰わく、「持ち帰らん」
「今なんじ、我を罵るも、我亦納れず、なんじ、自ら持って帰らば、なんじの身を禍さん。なお響の声に応じ、影の形を追うて、終いに免れ離るること無きがごとし。悪を為すことを慎め」と。
(現代語訳)
ある人が仏の教えを聞き、大きな慈悲の心を守り、悪意に対して善意で応じていた。
ある者が故意に来て罵った。
仏は黙って答えず、その者の無知で狂った愚かさがそうさせていることを憐れんだ。
罵りが止んだとき、仏が尋ねておっしゃるには
「あなたが礼を持って人に接し、その人がそれを受け入れなければ、その礼はどうなるか」
その人は答えた。
「自分の元に戻る」
「今、あなたは私を罵ったが、私はそれを受け入れない。あなたはそれを持ち帰り、あなたの身にわざわいをもたらすだろう。それは、声の響きに応じて影の形を追うようなもので、最終的には逃れることはできない。悪を為すことを慎みなさい」と。
(補足解説)
ここには、お釈迦様が悪口を言われた時にどう対応されたかが簡潔に説かれています。
この様子は『雑阿含経』に詳しく説かれています。
以下の記事でご覧ください。
➾悪口とは?悪口ばかり言う人への対処法と末路(因果応報)を解説
第7章・賢者
仏言。悪人害賢者。猶仰天而唾。唾不汚天。還汚己身。逆風坋人。塵不汚彼。還坋于身。賢者不可毀。過必滅己也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、悪人の賢者を害するは、なお天を仰いで而も唾せんに、唾、天を汚さずして、還って己が身を汚し、風に逆って人に坋くに、塵、彼を汚さずして、還って身に坋するがごとし。
賢者は毀つべからず、禍、必ず己を滅さん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、悪人が賢者を傷つけようとするのは、ちょうど天に向かって唾するように、天に至らず、かえって自身を汚す。
風に逆らって塵を払うと、塵は彼方には至らず、かえって自身を汚すように、賢者をそしってはならない。
過ちは必ず己を滅ぼすのである。
(補足解説)
「天に唾す」
「天に向かって唾を吐く」
などと、諺になっています。
相手に危害を加えようとすると、かえって自分に不幸や災難がやってくる、
自業自得を教えられています。
第8章・博愛
仏言。夫人為道務博愛。博哀施徳莫大施。守志奉道。其福甚大。覩人施道。助之歡喜。亦得福報。質曰。彼福不当減乎。仏言。猶若炬火。数千百人。各以炬来。取其火去。熟食除冥彼火如故。福亦如之。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、夫れ人の道を為さんには務めて博く愛せよ。
博く哀みて施せ。
徳は施より大なるはなし。
志を守り、道を奉ずれば、其の福甚だ大なり。
人の道を施すをみて、之を助けて歓喜すれば、亦福報を得ん。
たずねて曰わく、「彼の福当に減ずべからざるか」
仏言わく、「なお炬火の、数千百人各炬を以て来たり、其の火を取りて去り、食を熟き冥を除くも、彼の火はもとの如くなるがごとし。福も亦之の如し」
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人は道のために献身的に働き、慈悲深くあるべきである。
慈悲を持って徳を施すことほど偉大なものはない。
志を守り、道に従えば、その福は非常に大きい。
他人が道を実践するのを見たら、喜んでそれを助けると、福を得ることができる。
ある人が尋ねた。
「彼の福は減るのではないでしょうか」
仏は答えられた。
「それは松明の火のようなものである。数百、数千の人々がそれぞれ松明を持ってきて、その火を分けてもらって帰り、食事を作ったり明かりをとったりしても、元の火は変わらない。福もそのようなものである」と。
(補足解説)
『ハーバードの人生を変える授業』では、
「一本のろうそくから何千本ものろうそくに火をつけることができる。
かといって、それで最初のろうそくの寿命が短くなることはない。
幸福は、分かちあうことで決して減らない」ー仏陀
と紹介されていました。
英語圏でも有名なお言葉です。
布施について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾布施とは?お布施の金額の相場や仏教の意味を分かりやすく解説
第9章・布施の相手
仏言。飯凡人百。不如飯一善人。飯善人千不如飯持五戒者一人。飯持五戒者万人。不如飯一須陀洹。飯須陀洹百万。不如飯一斯陀含。飯斯陀含千万。不如飯一阿那含。飯阿那含一億。不如飯一阿羅漢。飯阿羅漢十億。不如飯辟支仏一人。飯辟支仏百億。不如以三尊之教度其一世二親。教千億。不如飯一仏学願求仏欲済衆生也。飯善人。福最深重。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、凡人百に飯せんよりは、一善人に飯せんには如かず。
善人千に飯せんよりは、五戒を持てる者一人に飯せんには如かず。
五戒を持てる者万人に飯せんよりは、一須陀洹に飯せんには如かず。
須陀洹百万に飯せんよりは、一斯陀含に飯せんには如かず。
斯陀含千万に飯せんよりは、一阿那含に飯せんには如かず。
阿那含一億に飯せんよりは、一阿羅漢に飯せんには如かず。
阿羅漢十億に飯せんよりは、辟支仏一人に飯せんには如かず。
辟支仏百億に飯せんよりは、三尊の教えを以て、其の一世二親を度するものに如かず。
教うるもの千億よりは、一の仏たるを学び、仏たるを願い求め、衆生を済わんと欲するものに飯せんには如かず。
善人に飯するは、福最も深重なり。
凡人の天地鬼神につかうるは、其の親に孝なるに如かず。
二親は最もとうとければなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、凡人100人に食事を施すよりも、1人の善人に食事を施す方がよい。
善人1,000人に食事を施すよりも、五戒を守っている者1人に食事を施す方がよい。
五戒を守っている者1万人に食事を施すよりも、須陀洹1人に食事を施す方がよい。
須陀洹100万人に食事を施すよりも、斯陀含1人に食事を施す方がよい。
斯陀含1,000万人に食事を施すよりも、阿那含1人に食事を施す方がよい。
阿那含1億人に食事を施すよりも、阿羅漢1人に食事を施す方がよい。
阿羅漢10億人に食事を施すよりも、辟支仏(縁覚)1人に食事を供養する方がよい。
辟支仏100億人に食事を供養するよりも、三宝の教えで一世の両親を導く方がよい。
1,000億人を教えるよりも、一仏に食事を供養する方がよい。
一人の仏を学び、仏になることを願い求め、衆生を救おうとする人に食事を供養する方がよい。
善人に食事を施すことは、最も深くて大きな功徳がある。
凡人が天地や鬼神に仕えるよりも、両親に孝行する方がよい。
両親こそ最も神聖なものである。
(補足解説)
辟支仏は、師なくして独りで覚った意味というで独覚といわれたり、
十二因縁を観じて覚ったという意味では縁覚といわれます。
十二因縁について詳しく知りたい方は、こちらの記事をご覧ください。
➾十二因縁(十二縁起)とは?その意味を分かりやすく解説
仏教では、親切にする相手を三田に限っています。
三田以外に物やお金を与えても、布施にはなりません。
三田とは、敬田、恩田、悲田の3つです。
敬田とは、敬うべき徳を備えた方、
恩田とは、お世話になった方、
悲田とは、気の毒な方です。
そのうち、ここでは敬田と恩田について教えられています。
布施について詳しくは、以下の記事をご覧ください。
➾布施とは?お布施の金額の相場や仏教の意味を分かりやすく解説
第10章・五難
仏言。天下有五難。貧窮布施難。豪貴学道難。制命不死難。得覩仏経難。生値仏世難。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、天下に五難有り、貧窮にして布施すること難し、豪貴にして道を学ぶこと難し、命をうけて死せざること難し、仏経を覩るを得ること難し、仏世に生まれあうこと難し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、世の中に5つの難しいことがある。
貧しい人は布施することが難しい。
お金持ちの人は道を学ぶことが難しい。
運命を制して死なないことは難しい。
仏の経典を見ることは難しい。
仏の世に生まれることは難しい。
(補足解説)
仏教では「仏法聞き難し」といわれ、仏教の教えにめぐりあうことは非常に難しいことです。
聞き難い仏法を聞かせて頂いているという気持ちが大切です。
第11章・悟りと宿命
有沙門問仏。以何縁得道。奈何知宿命。仏言。道無形。知之無益。要当守志行。譬如磨鏡。垢去明存。即自見形。断欲守空。即見道真。知宿命矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
沙門有り、仏に問う、「何の縁を以てか道を得、奈何が宿命を知るや」
仏言わく、「道は形無ければ、之を知らんも益無し、要は当に志行を守るべし。譬えば鏡を磨くに、垢を去り明存すれば、即ち自ら形あらわるるが如し。欲を断じ、空を守れば、即ち道真を見、宿命を知らん」
(現代語訳)
ある修行者が仏に尋ねた。
「どのような縁によって道を得ることができるのでしょうか。また、どのようにして宿命を知ることができるのでしょうか」
仏は答えられた。
「道には形はない。それを知ろうとするのは意味のないことである。大事なことは、志を守って実践することである。たとえば鏡を磨くようなもので、垢を取り去れば明るさが残る。そうすれば自ずと自分の姿が見える。欲を断ち空を守れば、道の真理が見えてくる。そうすれば宿命を知ることができるだろう」と。
(補足解説)
宿命は、「しゅくめい」ではなく「しゅくみょう」と読みます。
「しゅくめい」だと、生まれた時点で決まっている運命のことになりますが、仏教ではそれは外道だと教えられています。
仏教でいう「しゅくみょう」は過去世の生活のようなものです。
高い悟りを開くと、六神通という神通力が得られますが、その中の一つに宿命通という、過去世の生活を知る力があります。
高い悟りを開けば、宿命を知ることができるのです。
第12章・善・最大・多力・最明
仏言。何者為善。唯行道善。何者最大。志与道合大。何者多力。忍辱最健。忍者無怨。必為人尊。何者最明。心垢除。悪行滅内清浄無瑕。未有天地。逮于今日。十方所有。未見之萌。得無不知無不見無不聞。得一切智。可謂明乎。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、何をか善と為すや。
ただ道を行ずるは善なり。
何をか最も大となすや。
志、道と合うは大なり。
何をか多力となすや。
忍辱は最もつよし。
忍ぶ者には怨無し。
必ず人に尊ばる。
何をか最明となすや。
心の垢除こり、悪行滅し、内清浄にして瑕無く、未だ天地有らざるより今日にいたるまで、十方のあらゆる、未だこのきざしを見ざるより、知らざること無く、見ざること無く、聞かざること無きを得、一切智を得るは明というべきか。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、何が善であるか。ただ道を行うことが善である。
何が最も大きいか。志が道と合致することが大きい。
何が最も力強いか。忍耐が最も強い。忍耐する者には怨みがなく、必ず人々に尊ばれる。
何が最も明らかか。心の汚れを取り除き、悪い行いを滅して、内面が清浄で欠点がないことである。
天地がまだ存在しない時から今日に至るまで、十方に存在するもので、まだ見ぬ芽生えであっても、知らないものはなく、見えないものはなく、聞こえないものはない、
一切の智慧を得ることができる。
これは明らかと言えるだろう。
(補足解説)
忍耐については、こちらの記事をご覧ください。
➾忍辱(忍耐)とは?どうすれば怒りを我慢し、忍耐力がつくの?
智慧については、こちらの記事をご覧ください。
➾智慧とは?意味と実践方法と慈悲との違いを分かりやすく解説
第13章・愛欲
仏言。人懐愛欲不見道。譬如濁水以五彩投其中致力攪之。衆人共臨水上無能覩其影者。愛欲交錯心中為濁故不見道。水澄穢除清浄無垢即自見形。猛火著釜下中水踊躍。以布覆上衆生照臨亦無覩其影者。心中本有三毒涌沸在内。五蓋覆外。終不見道。要心垢尽乃知魂靈所従来生死所趣向。諸仏国土道徳所在耳。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人、愛欲を懐いて道を見ざるは、譬えば濁水の、五彩を以て其の中に投じ、力を致して之を攪さば、衆人共に水の上に臨むも、能く其の影を覩る者無きが如し。
愛欲もて心中を交錯すれば、濁りと為すが故に道を見ず、水澄み、穢れ除こり、清浄無垢なれば、即ち自ら形あらわる。
猛火を釜の下につけ、中の水踊躍すれば、布を以て上を覆い、衆生照臨するも、亦其の影を覩る者無し。
心中、本三毒の涌沸し、内に在る有り。
五蓋外を覆うて、終いに道を見ず。
要は心垢尽きなば、乃ち魂霊の従来する所、生死の趣向する所を知る。
諸仏国土というも、道徳の在る所のみ。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人は愛欲を抱いているため、道を見ることができない。
譬えば、濁った水に五色の染料を投げ入れ、一生懸命かき混ぜるようなものだ。
大勢の人々がその水面を覗き込んでも、誰も自分の影を見ることはできない。
愛欲が心の中で交錯し、濁りを生じさせるため、道が見えないのだ。
水が澄み、汚れが取り除かれ、清浄無垢になれば、自ずと自分の姿が見える。
猛火を釜の下にくべ、中の水が沸騰して、布で上を覆えば、人々がのぞき込んでも、やはり自分の影を見ることはできない。
心の中にもともとある三毒が内側で沸き立ち、五蓋が外側を覆っているため、結局は道を見ることができない。
要は、心の汚れが尽きてこそ、魂の現れ出る所、生死の向かう所を知ることができるのだ。
諸仏の国土といっても、道徳のある所というだけである。
(補足解説)
三毒とは、貪欲、瞋恚、愚痴の3つのこと。
108の煩悩の中でも最も私たちを苦しめる3つです。
煩悩について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾煩悩とは?意味や種類、消す方法を分かりやすく網羅的に解説
第14章・闇滅す
仏言。夫為道者。譬如持炬火入冥室中。其冥即滅而明猶在。学道見諦愚痴都滅。得無不見。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、夫れ道を為す者は、譬えば、炬火を持ちて、くらき室の中に入るに、其の冥即ち滅して、而も明のみなお在るが如し。
道を学び、諦を見れば、愚痴すべて滅す。
見ざること無きを得るなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、道を求める者は、譬えば、炬火を持って暗い部屋の中に入ると、その暗闇はすぐに消え去り、しかも明かりだけが残るようなものである。
道を学び、真理を見れば、愚痴の心がすべて消えてなくなり、見えないものはなくなる。
第15章・仏の三業
仏言。吾何念念道。吾何行行道。吾何言言道。吾念諦道。不忽須臾也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、吾れ何をか念ずる、道を念ずるなり。
吾れ何をか行ずる、道を行ずるなり。
吾れ何をか言う、道を言うなり。
吾れ諦道を念ずるに、ゆるがせに須臾せざるなり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、私は何を念じているのか、仏道を念じている。
私は何を行じているのか、仏道を行じている。
私は何を言うのか、仏道を言う。
私は真理の道を念じて、ほんの少しの間もおろそかにしない。
(補足解説)
「行い」といえば、世間では身体ですることをいいますが、
仏教では、行いは、心と口と身体の三方面から見られます。
仏様は常に、心に仏の道を念じ、身体に仏の道を行じ、口に仏の道を説かれ、
すべての人を救おうと、一分一秒休息されることなく活動されている、ということです。
第16章・諸行無常
仏言。覩天地念非常。覩山川念非常。覩万物形体豊熾念非常。執心如此得道疾矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、天地を覩て非常と念じ、山川を覩て非常と念じ、万物の形体豊熾なるを覩て非常と念ず。
執心此くの如くんば、道を得ること疾し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、天地を見て、常ならざるを念じよ。
山や川を見て、常ならざるを念じよ。
万物の形体が豊かに燃え盛るのを見て、常ならざるを念じよ。
このような心でいるならば、道を得るまではやいだろう。
(補足解説)
「非常」とありますが、これは「無常」のことです。
この世のすべては常がない、続かない、ということです。
すべては絶えず移ろい変化していきます。
例えば、桜の花が落ちるのを見て、自分もやがて必ず死んでいかなければならないと無常を見つめることを「無常観」といいます。
無常観が深いほど、早く真の幸せになれる、と教えられています。
第17章・真の道を念ずる者
仏言。一日行常念道行道。遂得信根。其福無量。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、一日の行に、常に道を念じ、道を行ぜば、遂に信根を得ん。
其の福無量なり。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、一日の行において、常に道を念じ、道を行ずる者は、一切無漏の禅定を得、その福徳は計り知れない。
第18章・私たちの体
仏言。熟自念身中四大名自有名都為無。吾我者寄生。生亦不久。其事如幻耳。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、熟自ら身中の四大を念ぜよ。
自らに名けて名有りとするも、すべて無と為す。
吾我は寄りて生ず。
生も亦久しからず。
其の事幻の如きのみ。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、よく自らの身体の中の四大(地・水・火・風)について考えてみよ。
名前はあっても、実体は全くない。
我というものは仮の存在に過ぎず、生もまた長くは続かない。
これらのことは幻のようなものである。
(補足解説)
四大は、地水火風の4つで、ここでは私たちの体を構成するもののこと。
ここでは無我を教えられています。
仏教の説かれた当時、バラモン教では自己の本質として、固定不変の我(アートマン)の存在を主張していましたが、仏教では、それを否定し、無我を説かれました。
私には、固定不変な我というものはない、ということです。
それはなぜなのか、ということについては以下の記事をご覧ください。
➾仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い
第19章・名誉
仏言。人随情欲求華名。譬如焼香衆人聞其香。然香以燻自焼愚者貪流俗之名誉。不守道真。華名危己之禍。其悔在後時。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の情欲に随って華名を求むるは、譬えば香を焼きて、衆人其の香を聞けども、然も香の以て燻り、自ら燃えたるが如し。
愚者は流俗の名誉を貪り、道真を守らず、華名は己を危くするの禍なり。
其の悔ゆるは後の時に在り。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人は欲望に従って名声を求める。
譬えば、香を焚けば、多くの人がその香りを聞くけれども、香は自らを燃やして香りを放つ。
愚かな者は世俗の名声を求めるあまり、真の道を守らない。
名声は自らを危険に晒す災いとなり、後になって後悔することになる。
(補足解説)
仏教では、お金や財産、地位、名誉では、本当の幸せにはなれない、と教えられています。
それらを手に入れるために悪を造り、貴重な命の時間を消耗していきます。
そして最後死んでいく時には、お金も財産も、地位も名誉も何の支えにもなりません。
求めるものが間違っていた、と後悔の中、死んでいくことになるのです。
第20章・財欲と色欲
仏言。財色之於人。譬如小児貪刀。刃之蜜甜。不足一食之美。然有截舌之患也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、財色の人に於けるや、譬えば小児の刀を貪りて、刃の蜜を舐むるに、一食の美に足らずして、然も舌を截るの患有るが如し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、財欲と色欲が人に与える影響は、たとえば小さな子どもが刀を欲しがるようなものである。
刃に塗られた蜜を舐めても、一食分の美味しさにも及ばないが、舌を切る危険がある。
(補足解説)
仏教では代表的な欲を五つあげて、五欲と教えられています。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
第19章の名誉欲に続いて、財欲と色欲について教えられています。
欲について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾欲(五欲)の仏教的意味と欲望への対処法を解説
第21章・執着
仏言。人繋於妻子宝宅之患。甚於牢獄桎梏鋃鐺。牢獄有原赦。妻子情欲雖有虎口之禍。己猶甘心投焉。其罪無赦。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の妻子宝宅の患に繋らるるは、牢獄、桎梏、鋃鐺よりも甚し。牢獄には原赦有り、妻子の情欲は虎口の禍有りと雖も、己はなお甘心もてこれに投ず。其の罪赦さるること無し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が妻子や宝物、舎宅の憂いに縛られるのは、牢獄の足かせ、手かせ、鎖よりもひどい。
牢獄には罪を許されることがあるが、妻子への情愛や欲望は、危険な災いがあるにもかかわらず、快くそこに身を投じる。
この罪は許されることがない。
(補足解説)
鋃鐺は、くさりのこと。
原赦は、罪を許すこと。
ここでは、家族やマイホーム、財産を悪いと言われているのではありません。
それらに対する自分の欲望であり、執着が恐ろしいと説かれています。
執着については、以下の記事をご覧ください。
➾執着の仏教の意味と執着を手放す・断ち切る方法を考察
第22章・色欲
仏言。愛欲莫甚於色。色之為欲。其大無外。頼有一矣。仮其二。普天之民無能為道者。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、愛欲は色より甚しきは莫し、色の欲たる、其の大なること外無し。
頼に一有るのみ。
仮し其の二あらば、普天の民能く道を為す者無けん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、愛欲の中で、色欲ほど強いものはない。
色欲の大きさは他にはない。
そういう欲が色欲一つだけだからいいが、もしこれ以上あれば、世の中の人々で道を成すことができる者は誰もいないだろう。
第23章・愛欲
仏言。愛欲之於人。猶執炬火逆風而行。愚者不釈炬。必有焼手之患。貪婬恚怒愚痴之毒。処在人身。不早以道除斯禍者。必有危殃。猶愚貪執炬自焼其手也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、愛欲の人に於けるや、なお炬火を執りて、風に逆いて行くに、愚者、炬を釈さずんば、必ず手を焼くの患有るがごとし。
貪婬、恚怒、愚痴の毒、人の身に処在り。
早く道を以てこの禍を除かずんば、必ず危殃有らん。
なお愚貪のものの、炬を執りて自ら其の手を焼くがごとし。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、愛欲が人に与える影響は、ちょうど松明の火を持って逆風をいくようなものだ。
愚かな者は松明を消さないので、必ず手を焼く災いに遭う。
貪欲、淫らな欲望、怒り、愚かさという毒が人の体にある。
早く仏道によって、これらの災いを取り除かなければ、必ず危険と災難が訪れるだろう。
それはあたかも、愚かで欲深い者が松明を手放さないで、自らの手を焼くようなものである。
(補足解説)
仏教では、苦しみの原因は煩悩だと教えられています。
煩悩の中でも、貪欲と瞋恚と愚痴の3つは、最も恐ろしい三毒といわれます。
その煩悩を抑え、遮り、断ち切ることによって悟りが得られると教えられています。
煩悩について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾煩悩の意味・数や種類、消す方法は?
第24章・美しい女性
天神献玉女於仏。欲以試仏意観仏道。仏言。革嚢衆穢。爾来何為。以可斯俗難動六通。去吾不用爾。天神踰敬仏。因問道意。仏為解釈。即得須陀洹。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
天神、玉女を仏に献じて、以て仏意を試み、仏道を観んと欲す。
仏言わく、「革に衆穢を囊むのみ、爾来たるも何かせん。以て斯俗もて六通を動かすこと難かるべし。去れ、吾れ爾を用いず」
天神いよいよ仏を敬う。
よって道の意を問う。
仏為に解釈したまうに、即ち須陀洹を得たり。
(現代語訳)
天神が玉女(美しい女性)を仏様に献上して、仏の心を試し、仏道を観察しようとした。
仏様はおっしゃった。
「革の袋に満ちた穢れよ。何のために来たのか。このような世俗的なものでは、六神通を動かすことはできない。去れ、私はお前を必要としない」
天神はさらに仏を敬い、そこで道の意味を尋ねた。
仏様が天神に説明すると、すぐに須陀洹を得た。
(補足解説)
六通とは、高い悟りを開くと得られる6つの神通力のことで、
天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通、漏尽通の6つです。
お釈迦様が初めて仏のさとりを開かれた時にも、
悪魔の誘惑に打ち克って悟りを開かれたと説かれています。
第25章・悟りを求める者
仏言。夫為道者。猶木在水尋流而行。不左触岸。亦不右触岸。不為人所取。不為鬼神所遮。不為洄流所住。亦不腐敗。吾保其入海矣。人為道不為情欲所惑。不為衆邪所誑。精進無疑。吾保其得道矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、夫れ道を為す者は、なお木の水に在って、流れを尋ねて行くに、左に岸に触れず、亦右に岸に触れず、人の取る所とならず、鬼神の遮る所とならず、洄流の住むる所とならず、亦腐敗せず、吾れ其の海に入るを保せんがごとし。
人の道を為すや、情欲の惑わす所とならず、衆邪の誑わす所とならず、精進して疑無くんば、吾れ其の道を得るを保せん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、道を求める者は、ちょうど水に浮かぶ木が流れに従って進んでいくようなものである。
左の岸にも触れず、また右の岸にも触れず、人に取られることもなく、鬼神に邪魔されることもなく、渦巻く流れに止められることもなく、また腐敗することもない。
私はその木が海に入ると保証しよう。
人が悟りを求める時、情欲に惑わされず、多くの邪悪なものに欺かれず、精進して疑いがなくなれば、私はその人が悟りを得ると保証しよう。
(補足解説)
悟りを求める時には、欲に惑わされることなく、ひたすら精進しなさい、ということです。
精進について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾仏教で精進とは?精進する意味と、一流やトップの唯一の共通点
第26章・心
仏告沙門。慎無信汝意。意終不可信。慎無与色会。与色会即禍生。得阿羅漢道。乃可信汝意耳。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏、沙門に告げたまわく、慎んで汝が意を信ずること無かれ、意終いに信ずベからず。
慎んで色と会すること無かれ、色と会すれば即ち禍生ず。
阿羅漢道を得て、乃ち汝が意を信ずべきのみ。
(現代語訳)
仏様は修行者に告げられた。
汝の心を信じてはならない、心は最後まで信じてはならない。
欲望の対象に会ってはならない、そのような対象に会えば、すぐに災いが生じる。
阿羅漢の悟りを得てはじめて、汝の心を信じることができるのである。
(補足解説)
人間は煩悩の塊ですから、心は100%煩悩です。
そんな心に任せれば、苦しい結果につながります。
阿羅漢の悟りを得れば、煩悩はもうありませんが、
それまでは、自分の弱い心、欲に流される心に打ち克つことが重要です。
第27章・女性への対応
仏告諸沙門。慎無視女人。若見無視。慎無与言。若与言者。勅心正行。曰吾為沙門処于濁世。当如蓮花不為泥所汚。老者以為母。長者以為姉。少者為妹。幼者子。敬之以礼。意殊当諦惟観。自頭至足自視内。彼身何有。唯盛悪露諸不浄種。以釈其意矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏、諸の沙門に告げたまわく、慎んで女人を視ること無かれ。
若し見無くして視るも、慎んでともに言うこと無かれ。
若しともに言わば、心を勅め正しく行じて曰わく、「吾れは沙門なり。濁世に処るも、まさに蓮華の、泥に汚されざるが如くなるべし」と。
老いたる者は母とおもい、長じたる者は姉とおもい、少き者は妹とおもい、幼き者は子として、之を敬うに礼を以てせよ。
意殊に当に諦かに惟観すベし。
頭より足に至るまで自ら内に視よ。
「彼身は何の有ぞや、唯悪露と諸の不浄種を盛るのみ」と。
以て其の意を釈れ。
(現代語訳)
仏様は諸々の修行者に告げられた。
慎んで女性を見てはならない。
もし見てしまったら、慎んで言葉を交わしてはならない。
もし言葉を交わしたならば、心を引き締めて正して行動せよ。
そして、こう言うのだ。
「私は修行者である。濁った世の中に生きているが、蓮の花が泥に汚されないようにあるべきだ」と。
年老いた女性は母と思い、年上の女性は姉と思い、年下の女性は妹と思い、幼い人は子として、礼をもって敬いなさい。
特に心を込めて、よく観察すべきである。
頭から足まで内側を見よ。
「その身に何があるか。ただ悪しきものと不浄なものだけである」
そう考えて、その思いを解き放つのだ。
(補足解説)
男性の修行者に対して説かれた教えです。
煩悩をおこす縁を離れて、善い行いを心がけるよう教えられています。
第28章・情欲
仏言。人為道去情欲。当如草見火。火来已却。道人見愛欲。必当遠之。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の道を為し、情欲を去るは、当に草に大火を来るを見て、已に却うが如くすべし。
道人、愛欲を見れば、必ず当に之を遠くべし。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が道を求めて情欲を離れるのは、草に大火が来るのを見て、残らず取り払うようであるべきだ。
道を求める者が愛欲を見れば、必ずそれから遠ざかるべきである。
第29章・邪心
仏言。人有患婬情不止。踞斧刃上。以自除其陰。仏謂之曰。若断陰不如断心。心為功曹。若止功曹。従者都息。邪心不止断陰何益。斯須即死。仏言。世俗倒見。如斯痴人
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人有り、婬情の止まざるを患い、斧刃の上に踞りて、以て自ら其の陰を除く。
仏、之に謂いて日わく、「若し陰を断ぜんよりは、心を断ぜんには如かず。心は功曹たり、若し功曹を止めば、従者もすべて息まん。邪心止まずんば、陰を断ずるとも何の益かあらん。これ須らく即ち死すべし」
仏言わく、「世俗の倒見は、この痴人の如し」と。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、淫らな感情が止まらない悩みがある人が、斧の刃の上に座って、自ら陰部を切り落とそうとした。
仏様はその者におっしゃった。
「陰部を切り落とすよりも心を断つ方がよい。心は指揮者である。もし指揮者を止めれば、従う者たちは皆休む。邪な心を止めずに陰部を切り落としても何の効果があるだろうか。必ず即座に死ぬことになる」
仏様がおっしゃるには、「世俗の人々は物事を逆さまに見ている。このような愚かな人のように」と。
(補足解説)
功曹とは、中国の警視総監や参謀総長のようなものですが、
ここではもっと軽く、指揮者というほどの意味です。
仏教では、行いを心と口と身体の3方面から見られます。
その3つの中でも、最も重要なのは、心です。
なぜなら心が口や身体に命令して動かしているからです。
その口や身体の元にある、心を何とかしなければならないということです。
第30章・意思想
婬童女与彼男誓。至期不来而自悔曰。欲吾知爾本意。以思想生。吾不思想爾。即爾而不生。仏行道聞之謂沙門曰。記之。此迦葉仏偈。流在俗間。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
婬なる童女有り、彼の男と誓う。
期に至るも来らず。
自ら悔いて曰わく、「欲は吾れ爾の本、意なるを知れり、思と想とを以て生ず。吾れ爾れを思想せずんば、即ち爾れ生ぜず」
仏、道を行きつつ之を聞き、沙門に謂って曰わく、「之を記せよ、此れ
迦葉仏の偈なり、流れて俗間に在り」
(現代語訳)
ある血気盛んな若い女が男と約束をした。
しかし、約束の時間に男が来なかったので、彼女は後悔して言った。
「欲というものは、私はそのもとが分別であることが知らされた。
分別は意志とイメージによって生まれる。私が男のことをイメージしたり働きかけようとしたりしなければ、欲は生じなかったのではないか」
仏様が道でこれを聞かれて、修行者におっしゃった。
「これを記録せよ。これは迦葉仏の偈である。世間に広まっているのだ」
(補足解説)
意とは、ものごとを分別すること。
思は、心を種々に働かせる作用、
想は、対象に差別をつける作用のことです。
人は、自分の都合のいいことは本当だと信じる癖があります。
あの人は私を好きなのではないかとか、これに投資すれば儲かるのではないかと思い込んで、詐欺にひっかかります。
取らぬ狸の皮算用のイメージを思い浮かべて、欲にとらわれ、愚かな行いをしてしまうのです。
都合のいい思い込みに十分気をつけなければなりません。
第31章・憂いと畏れ
仏言。人従愛欲生憂。従憂生畏。無愛即無憂。不憂即無畏。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人、愛欲より憂を生じ、憂より畏を生ず。
愛無くんば即ち憂無く、憂えずんば即ち畏無し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人は愛欲から憂いを生じ、憂いから恐れを生じる。
愛がなければ憂いもなく、憂いがなければ恐れもない。
(補足解説)
仏教では、愛によって苦しみが生じると教えられています。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾仏教の慈悲とキリスト教の愛の違い
第32章・精進
仏言。人為道譬如一人与万人戦。被鉀操兵出門欲戦。意怯胆弱乃自退走。或半道還。或格闘而死。或得大勝還国高遷。夫人能牢持其心。精鋭進行不惑于流俗狂愚之言者。欲滅悪尽。必得道矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の道を為すは、譬えば一人と万人と戦うに、鉀を被り、兵を操り、門を出でて戦わんと欲するに、意怯にして胆弱きものは、乃ち自ら退走し、或ものは半道にして還り、或ものは格闘して死し、或ものは大勝を得て還り、国高く遷るが如し。
夫れ人、能く牢く其の心を持ち、精鋭進行して、流俗狂愚の言に惑わずんば、欲滅し、悪尽き、必ず道を得ん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、一人で一万人と戦うようなものである。
兜を被って兵を操り、門を出て戦おうとするが、意気地なく臆病になって自ら退却してしまう。
ある人は途中で引き返し、ある人は格闘して死に、ある人は大勝利を得て国に戻り、高い地位に就く。
そもそも人が自分の心をしっかりと保ち、精励して前進し、世俗の狂った愚かな言葉に惑わされないならば、欲はなくなり、悪も尽きて、必ず悟りを得るであろう。
(補足解説)
仏道を求める厳しさを教えられています。
強い決意をもって勇猛精進しなければとても求めきれるものではありません。
精進については、詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾仏教で精進とは?精進する意味と、一流やトップの唯一の共通点
第33章・懈怠
有沙門夜誦経甚悲。意有悔疑。欲生思帰。仏呼沙門問之。汝処于家将阿修為。対曰。恒弾琴。仏言。絃緩何如。曰不鳴矣。絃急何如。曰声絶矣。急緩得中何如。諸音普悲。仏告沙門。学道猶然。執心調適道可得矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
沙門有り、夜経を誦するに甚だ悲し。
意に悔疑有り、欲生じて帰らんことを思う。
仏、沙門を呼びで之に問いたまわく、「汝、家に処してまさに何をか修め為るや」
こたえて曰さく、「恒に琴を弾ぜり」
仏言わく、「絃緩ければ何如」
曰さく、「鳴らず」
「絃急なれば何如」
曰さく、「声絶す」
「急緩中を得れば何如」
「諸音普く悲し」
仏、沙門に告げたまわく、「道を学ぶもなお然り。執心調適なれば道は得べきなり」
(現代語訳)
ある修行者が夜にお経を唱えていたが、とても悲しそうであった。
心に後悔と疑いがあり、家に帰りたいと思っていた。
仏様がその修行者を呼んで尋ねられた。
「そなたが家にいた時は何をしていたのか」
修行者は答えた。
「いつも琴を弾いていました」
仏様はおっしゃった。
「弦が緩いと、どうなるか」
修行者は答えた。
「音が鳴りません」
「弦が張りすぎたらどうなるか」
修行者は答えた。
「音が切れてしまいます」
「弦の張り具合が丁度よい時はどうか」
「すべての音が美しく響きます」
仏様は修行者に告げられた。
「修行も同じである。心を適切に保つことができれば、悟りに至ることができるだろう」
(補足解説)
これは「弾琴の譬え」といわれています。
仏教で重要な中道の中でも「緊緩中道」を表された例えです。
中道には、このような修行についての教えもあれば、真理についての教えもあります。
詳しくは以下の記事をご覧ください。
➾中道とは?複数の宗派による意味も分かりやすく解説
第34章・鍛錬
仏言。夫人為道猶所鍛鉄漸深棄去垢成器必好。学道以漸深去心垢。精進就道。暴即身疲。身疲即意悩。意悩即行退。行退即修罪。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、夫れ人の道を為すは、なお鍛わるる鉄の漸く深しく垢を棄て去り、器を成ずれば、必ず好きがごとし。
道を学ぶことも、以て漸く深く、心の垢を去って、精進就道せよ。
暴しければ即ち身疲る、身疲るれば即ち意悩む、意悩めば即ち行退く、行退けば即ち罪を修す。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、鉄を鍛えるようなものである。
徐々に深く鍛錬し、不純物を取り除いていけば、必ず良い器となる。
道を学ぶことも同様で、徐々に深く心の垢を取り除いていく。
精進して道に近づくのだ。
しかし、急ぎすぎれば身体が疲れる。
身体が疲れれば心も悩む。
心が悩めば修行から退く。
修行から退けば罪を犯すことになる。
(補足解説)
仏道を求める時は、「急いで急がず、急がず急げ」ということです。
焦っている時は、危ない時です。
結果を焦るが故に、結局結果が得られなくなってしまうことがあるのです。
すべての結果には必ず原因があります。
結果を急ぐのではなく、たねまきを急ぐのが大切です。
第35章・人生の苦しみ
仏言。人為道亦苦。不為道亦苦。惟人自生至老。自老至病。自病至死。其苦無量。心悩積罪。生死不息。其苦難説。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人、道を為すは亦苦なり。
道を為さざるも亦苦なり。
惟うに、人は生より老に至り、老より病に至り、病より死に至る。
其の苦無量なり。
心悩み、罪を積ぬ。
生死息まず、其の苦説き難し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人は道を求めても苦しみ、道を求めなくても苦しむ。
人は生まれてから老いるまで、老いてから病むまで、病んでから死ぬまで、その苦しみは計り知れない。
心は悩み、罪を積み重ね、生死の輪廻は止むことがない。
その苦しみは言い表せないほどである。
(補足解説)
生死とは輪廻ことです。
輪廻(六道輪廻)について詳しく知りたい方は、
こちらの記事をご覧ください。
➾六道の意味と輪廻から抜け出し解脱する方法
仏教を聞くと大変だという人がありますが、仏教を聞かなくても大変です。
どちらにしろ、老いて、病にかかり、死んでいきます。
人生に苦労は絶えません。
ですが、どうせ苦労するなら、報われる苦労がいいのではないでしょうか。
仏教には本当の生きる目的を教えられています。
本当の生きる目的を知らない苦労は果てしなく悲惨ですが、
本当の生きる目的を知り、それを達成した時、それまでの苦労が全部報われるのです。
第36章・八難
仏言。夫人離三悪道得為人難。既得為人去女即男難。既得為男六情完具難。六情已具生中国難。既処中国値奉仏道難。既奉仏道値有道之君難。生菩薩家難。既生菩薩家以心信三尊値仏世難。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、夫れ人、三悪道を離れ、人たるを得ること難し。
既に人たるを得るも、女を去って男に即くこと難し。
既に男たるを得るも、六情完具するは難し。
六情已に具するも、中国に生ずるは難し。
既に中国に処すとも、仏道に値い奉ること難し。
既に仏道を奉ずるも、有道の君に値うは難し。
菩薩の家に生ずること難し。
既に菩薩の家に生ずるも、心を以て三尊を信じ、仏世に値うこと雛し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が三悪道を離れて、人間として生まれることは難しい。
人間として生まれても、女性を離れて男性になることは難しい。
男性になっても、六根が完全に備わることは難しい。
六根が備わっても、中心的な国に生まれることは難しい。
中心的な国に生まれても、仏道に出会うことは難しい。
仏道に出会っても、正しい道を行く君主に出会うことは難しい。
菩薩の家に生まれることは難しい。
菩薩の家に生まれても、心から三宝を信じ、仏の時代に巡りあうことは難しい。
(補足解説)
三悪道とは、地獄、餓鬼、畜生のこと、
六情とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根のことです。
「人身受け難し、今已に聞く
仏法聞き難し、今已に聞く」
と言われるように、まず人間に生まれることが滅多にないことです。
たとえ人間に生まれても、五体満足で、仏法を信じる家族の元に生まれることは滅多にないことです。
そして、その時代のその国で、仏教の教えが説かれていることも滅多にないことです。
もし生まれがたい人間に生まれ、聞き難い仏法を聞かせていただける仏縁に恵まれたら、真の幸せになれる、またとないチャンスです。
奮起して仏教を聞かなければなりません。
第37章・命の長さ
仏問諸沙門。人命在幾間。対曰。在数日間。仏言。子未能為道。復問一沙門。人命在幾間。対曰。在飯食間。仏言。子未能為道。復問一沙門。人命在幾間。対曰。呼吸之間。仏言。善哉。子可謂為道者矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏、諸の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」
こたえて曰さく、「数日の間に在り」
仏言わく、「なんじ未だ能く道を為さず」
また一人の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」
こたえて曰さく、「飯食の間に在り」
仏言わく、「なんじ未だ能く道を為さず」
また一人の沙門に問いたまわく、「人の命は幾ばくの間に在りや」
こたえて曰さく、「呼吸の間にあり」
仏言わく、「善いかな、なんじ、道を為せる者と謂つべし」
(現代語訳)
仏様が諸々の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
一人が答えた。
「数日間でございます」
仏様はおっしゃった。
「そなたはまだ分かっていない」
再び別の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
その修行者は答えた。
「食事をする間でございます」
仏様はおっしゃった。
「そなたはまだ分かっていない」
さらに別の修行者に尋ねられた。
「人の命の長さは、どれくらいだと思うか」
その修行者は答えた。
「一息つく間もありません」
仏様はおっしゃった。
「よろしい。そなたこそ、悟りを得る者と言えるだろう」
(補足解説)
仏様のまなこからご覧になると、
人間の50年ないし80年の人生は、吸った息を吐き出す間もない、短いものだ、ということです。
これを無常観といいます。
命の短さは信仰が進むほど知らされてきます。
無常観が深いほど早く救われるということです。
第38章・持戒
仏言。弟子去離吾数千里。意念吾戒必得道。在吾左側意在邪終不得道。其実在行。近而不行。何益万分耶。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、弟子の吾れを去り離るること数千里ならんも、意に吾が戒を念ずれば、必ず道を得ん。
吾が左側に在りとも、意、邪に在らば、終いに道を得ざらん。
其の実は行に在り、近くして而も行ぜずんば、何ぞ万分も益せんや。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、弟子が私から数千里離れていても、私の戒めを心に留めていれば、必ず悟りを得るだろう。
しかし、私の左側にいても、心が邪であるならば、決して悟りを得ることはできない。
大切なのは実践することである。
近くにいても実践しなければ、何の益もない。
(補足解説)
仏教は実践が大切ということです。
第39章・経典まこと
仏言。人為道猶若食蜜中辺皆甜。吾経亦爾。其義皆快。行者得道矣。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の道を為すは、なお蜜を食するに、中辺も皆甜きがごとし。
吾が経も亦しかなり。
其の義皆快し。
行ずれば道を得ん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が道を求めることは、蜜を食べるようなものである。
程よく皆甘い。
仏の教説もまたそうである。
その教えはすべて素晴らしく、実践すれば道を得るのである。
(補足解説)
仏教は、本当の幸せが明らかにされたすばらしい教えです。
本当の幸せになるには、仏の教えを聞いて正しく理解し、教えの通りに進んで、本当の幸せという目的地にたどりつきます。
まずは仏教の教えを正しく理解することが大切です。
第40章・愛欲の根
仏言。人為道能抜愛欲之根。譬如摘懸珠。一一摘之。会有尽時。悪尽得道也。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、人の道を為して能く愛欲の根を抜くは、譬えば懸珠を摘むが如く、一一に之を摘めば、会尽くる時有り、悪尽くれば道を得ん。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、人が道を求める時、愛欲の根を抜くことができる。
それはあたかも、吊るされた珠を一つずつ繰っていくようなものだ。
一つ一つ繰っていけば、いつかは必ず尽きる時が来る。
悪が尽きた時、悟りを得るのである。
(補足解説)
懸珠とは、念珠のようなものです。
念珠の珠の数は、煩悩の108に合わせて108あります。
煩悩を1つ断ち切るごとに、数珠の珠を1粒ずつずらしていけば、
全部ずらして一周した時に、煩悩も全部なくなり、悟りが得られます。
第41章・専心
仏言。諸沙門行道。当如牛負行深泥中。疲極不敢左右顧。趣欲離泥以自蘇息。沙門視情欲。甚於彼泥。直心念道可免衆苦。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、諸の沙門の道を行ずるは、当に牛の負うて深泥の中を行くに、疲れ極りて敢て左右を顧みず、泥を離れんと欲するに趣いて、以て自ら蘇息するが如くすべし。
沙門の情欲を視るや、彼の泥よりも甚だし。
心を直くし、道を念ずれば、衆苦を免るべし。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、諸々の修行者が修行する時は、牛が重荷を背負って深い泥の中を歩み、どんなに疲れても左右の岸を見ることなく、泥から抜け出して、ホッと一息つくようなものだ。
修行者の情欲は、その泥よりもまとわりつく。
真っ直ぐな心で仏道を忘れなければ、あらゆる苦しみから離れることができるだろう。
第42章・仏の知見
仏言。吾視諸侯之位。如過客。視金玉之宝。如礫石。視㲲素之好。如弊帛。
(引用:『四十二章経』)
(書き下し文)
仏言わく、吾れ諸侯の位を視ること、過客の如く、金玉の宝を視ること、礫石の如く、㲲素の好しきを視ること、弊帛の如し。
(現代語訳)
仏様がおっしゃるには、私には支配者の地位は旅人のように見える。
金玉の宝は、砂利や石ころのように見える。
絹や絹織物の美しさは、古くなっていたんだ布のように見える。
(補足解説)
世間では、高い地位が欲しい、金銀財宝が欲しい、きれいな服を着たいと思います。
ですが、それらによって苦しみがなくなるかというと、全くなくなりません。
高い地位にあるが故の苦しみ、お金があるが故の不安、きれいな服に身を包んでいるが故の悩みが起きてきます。
幸せにする働きという観点では、それらには価値がないのです。
お釈迦様は、欲望に流され、本当の幸せになる機会を失ってしまわないように、そのことを教えられているのです。
四十二章経から学ぶこと
このように、『四十二章経』には、無常や無我、愛欲などの煩悩から、慈悲や布施、持戒、忍辱や精進、禅定、智慧など、基本的な仏教の教えが、多くのたとえで分かりやすく説かれています。
では、仏教に説かれる本当の幸せとはどんな世界なのでしょうか。
そして、どうすれば本当の幸せになれるのでしょうか。
それには苦悩の根元を知り、それを断ち切らなければなりません。
それについては仏教の真髄ですので、以下のメール講座に分かりやすくまとめておきました。
ぜひそれも見ておいてください。
関連記事
この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)