スッタニパータとは
『スッタニパータ』はパーリ語の経典で、成立が最も古いお経といわれています。
第2章第4経は、東南アジアの結婚式で読まれ、親しまれています。
一体どんなお経なのでしょうか?
その全文の現代語訳を公開します。
スッタニパータとは
スッタニパータとはパーリ仏典の小部に属する経典です。
「スッタ」はパーリ語でお経、「ニパータ」は集成という意味なので「経集」ともいわれます。
全部で1149の詩からなる72のお経を5章にまとめられています。
仏教の辞典にはこのように出ています。
スッタニパータ[p:Suttanipāta]
南伝仏教の経蔵(小部に収められるパーリ語の経典。
最古層の仏説を伝承する。
suttaは経、nipātaは集成の意で、<経の集成>を意味する。
全体は、蛇の章・小さな章・大きな章・八つの詩句の章・彼岸に至る道の章、の5章からなり、この中に70余りの小さな経を含むためにこの名称をもつ。
長短さまざまな詩集で、ときに散文を交える。
(中略)
このように本経は、最古層の仏教思想とともに、最初期の仏教教団の状況を伝える貴重な経典である。(引用:『岩波仏教辞典』第三版)
このように、『スッタニパータ』は5章に分けられていますが、まとめるとこうなります。
第1章 蛇品 12経 221詩
第2章 小品 14経 183詩
第3章 大品 12経 361詩
第4章 義品 16経 210詩
第5章 彼岸道品 18経 174詩
この中で、第4章と第5章は、成立が最も古いといわれています。
その理由は、この第4章と第5章だけに、『ニッデーサ』という注釈書があること、第1章から第3章までの比べて、少し雰囲気の違うパーリ語が使われていることなどです。
第4章には、支謙が3世紀に翻訳した『義足経』があります。
その時点では他の章はなかったのかもしれません。
そもそもパーリ仏典自体、5世紀にブッダゴーサが編纂しているため、
それを最古のお経といえるのかは疑問です。
インドの人はあまり年代に関心がなく、7-8世紀くらいのことでも、いつのことかはほとんど分かりません。
ましてや紀元前となると、いつ頃成立したのかという成立年代はまったく分からないので、最古のお経といわれるのも、現代の学者のただの推測です。
『スッタニパータ』を原始仏典だと思っている人がいますが、そうではありません。
原始仏教というのは、現存するお経からお釈迦さまが生きておられた時の仏教を推測したもので、
お経は最初は口伝で伝えられていたので、原始仏教を明らかにすることは不可能です。
お釈迦さまは、アルダマーガディー(半マガダ語)で仏教を説かれていたと推測されますが、
パーリ仏典はそれがパーリ語に翻訳されたものですので別言語です。
ですが東南アジアでは大変親しまれていて、結婚式の前日に行われる祝福の儀式では、僧侶は第1章の第8経「慈経」の一節か、第2章の第1経「宝経」の一節、第2章の第4経「大吉祥経」の一節を読みます。
ちなみに『ダンマパダ』とはどう違うのかというと、確かに『ダンマパダ』も成立が古いといわれ、パーリ仏典の小部に納められているお経ですが、『ダンマパダ』は勝負の2番目のお経、『スッタニパータ』は5番目のお経なので、別のお経です。
ではここから『スッタニパータ』の全文を掲載します。
ちなみに『スッタニパータ』をPDFファイルで見たい場合は、南伝大蔵経「第24巻 小部経典二」にありますので、そちらをご覧ください。
スッタニパータの全文
以下が、『スッタニパータ』の全文です。
『南伝大蔵経』に収録されている現代語訳を元に、現在使われていない漢字や、非常に難しい単語は、現在使われている漢字や単語で表記している部分があります。
それでも格調の高さを保つためにあまり変更せず、その代わり、難しい単語にふりがなを振っています。
また、※印で、注釈をつけているところがあります。
経集(スッタニパータ)
彼の世尊、阿羅漢、等正覚者に帰命し奉る。
第1章・蛇品
<1. 蛇経>
1. 〔体中に〕拡がれる毒蛇をば薬草をもて〔消すが〕如く、〔心中に〕生起せる怒りを調伏するかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
2. 池に生ぜる蓮華をば〔子等が〕潜りて〔折るが〕如く、貪りを残りなく棄断せしかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
3. 急流する〔輪廻の〕流れを枯渇せしめ、渇愛を残りなく棄断せしかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
4. 大暴流がいと弱き堤を〔壊すが〕如く、慢をば残りなく破壊せしかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
5. 無花果樹の〔林〕中に花を求めて〔得ざるが〕如く、〔三界〕諸有中に堅実なるものを得ざるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
6. その内心に怒りあることなく、かつ禍福善悪を超越せるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
7. 諸の〔不善〕尋をば焼尽せしめ、心内すべて善く整備せるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
8. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、この〔愛・見・慢の三〕障礙をすべて超えたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
9. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、「一切はこれ虚妄なり」と世間を知るかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
10. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、「一切はこれ虚妄なり」とて貪欲を離れたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
11. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、「一切はこれ虚妄なり」とて貪染を離れたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
12. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、「一切はこれ虚妄なり」とて瞋恚を離れたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
13. 走り〔精進し〕過ぎず遅れ〔懈怠する〕なく、「一切はこれ虚妄なり」とて愚痴を離れたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
14. いかなる随眠もあることなく、諸の不善根を害破せしかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
15. 此岸に来るべき縁となる〔所の〕不安所生〔の煩悩〕あることなきかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
16. 有に結縛すべき因本たる、愛林所生〔の煩悩〕あることなきかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
17. 五蓋を捨断して苦なく疑惑を度り、〔煩悩の〕矢を離れたるかの比丘は、蛇が古りたる旧皮を〔棄つるが〕如く、彼此の岸をば〔共に〕捨つ。
蛇経終われり。
<2. 陀尼耶経>
18. 牧牛者陀尼耶曰く、「我は既に飯を炊き乳を搾り終わり、摩企河の岸に近く〔妻子と〕共に住す、家は葺かれ火は燈され居れり、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
19. 世尊宣わく、「我は怒りなく〔心の〕頑固を離れ終わり、摩企河の岸に近く一夜の宿をなす、〔我執の〕家は剥がれ〔煩悩の〕火は消され居れり、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
20. 牧牛者陀尼耶曰く、「虻も蚊も居ることなく、牛共は沼地に茂れる草を食み、雨降り来るとも堪え忍ぶべし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
21. 世尊宣わく、「筏(聖道)は既に組まれ善く作られたり、〔以て〕暴流を調伏し已に度りて彼岸に至れり、〔今や〕筏の要あることなし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
22. 牧牛者陀尼耶曰く、「我が妻は従順にして動貪ならず、久しく共に住し〔貞淑にして〕情愛あり、彼女に何らの悪行あるを聞かず、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
23. 世尊宣わく、「我が心は従順にして解脱し居れり、久しく遍修し善く調御せられたり、而して我に一の悪行あることなし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
24. 牧牛者陀尼耶曰く、「己が〔稼げる〕賃金もて我は暮らす、我が子女も共々に息災なり、彼等に何等の悪行あるを聞かず、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
25. 世尊宣わく、「我は何人の傭人にても非ず、〔自ら〕得たる〔一切知智〕もて一切世間を遊行す、他に傭わるるの要あることなし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
26. 牧牛者陀尼耶曰く、「子牛あり、乳牛あり、孕める牛あり、処女牛もあり、また牛主なる牡牛もあり、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
27. 世尊宣わく、「子牛(纏)なく、乳牛(随眠)あるなし、孕牛(福非福生の行の思)も処女牛(欲愛)もなく、牛主なる牡牛(行・識)も茲にあるなし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
28. 牧牛者陀尼耶曰く、「不動堅固なる杭は掘り建てられ、文邪草製の新しき縄は善く綯われ、乳牛等も〔そを〕断つ能わざるべし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
29. 世尊宣わく、「牛王の如く諸結(五上分結)を断ち、象の如く臭蔓草(五下分結)を砕破して、我は再び母胎に宿ることなかるべし、故にもし天よ、汝望まば雨を降らせよ」。
30. 低地をも高地をも満たしつつ、俄かに大雨降り来れり、天の雨降るを聞き終わりて、陀尼耶は次の義を述べたり。
31. 「世尊を見奉れる我等には、実に少なからざる利得ありき。有眼者よ、我等は尊師に帰依す、大牟尼よ、尊師は我等の師となりたまえ。
32. 従順なる妻と我とは、善逝の元にて梵行を行ぜん。生死の彼岸に達し、苦の辺際を尽くさん」。
33. 悪魔波旬曰く、子ある者は子等によりて喜び、牛ある者も牛等によりて喜ぶ。
実に依(五種欲)は人の喜びなり、依なき者は喜ばざればなり」。
34. 世尊宣わく、「子ある者は子等によりて憂い、牛ある者も牛等によりて憂う。
実に依(五種欲)は人の憂いなり、依なき者は憂えざればなり」。
陀尼耶経終われり。
<3. 犀角経>
35. 一切生物に対して〔三悪行の〕笞を控え、彼等の何れをも害することなく、子〔女〕を〔得んと〕欲せざれ、況んや朋友をや、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
36. 交わりをなせし者に親愛あり、親愛に従いてこの苦生ず。
親愛所生の過患を観察しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
37. 友人や親友を憐愍しつつ、心繋縛せられたる者は利益を失う。
親䁥にかかる怖畏あることを観察しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
38. 子や妻に対して貪愛ある者は、あたかも欝茂せる竹が〔互いに〕縛著するが如し。
筍の如くに著することなくして、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
39. あたかも鹿が林野にて縛されずして、食を求めて欲する処に行くが如く、有識の人は独存〔の自由〕をば観察しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
40. 朋友の間にては住するにも立つにも、歩くにも遊行するにも語話を交う。
〔愚者の〕願わざる独存をば観察しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
41. 朋友の間にありては戯楽あり、また〔妻〕子の中にては大愛生ず。
愛別離〔の苦〕をば嫌忌しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
42. 四方〔の有情〕に瞋怒なく、多少〔の衣食住〕にて満足し、諸の危険にも堪えて動転せず、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
43. 一種の出家者は摂益すること難し、家に住する在家者もまた然なり。
他人の子〔女〕に執心あることなく、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
44. 落葉せしコーヴィラーラ(昼度樹)の如く、〔鬚髪厳飾等の〕世俗の相を取り除き、〔道精進の〕勇者は世俗の結縛を断じて、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
45. もし聡明なる友をーー共に行じ
よく住する賢者をーー汝等得なば、一切諸の危険に打ち勝ちて、彼と共に愉快に念ありてまさに遊行すべし。
46. もし聡明なる友をーー共に行じ
よく住する賢者をーー汝等得ずば、王が征服せし国土を捨つるが如く〔一切を捨てて〕サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
47. 正に〔無学の戒等を〕成具せる朋友を我等は賞讃す。
勝れたる〔又は〕等しき朋友に親近すべし。
彼等を得ざれば無罪なる〔衣食住〕を受用して、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
48. 金工のよく仕上げたる輝ける二つの黄金の環が腕に掛けられ、接触しつつ〔騒音〕あるを見ては、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
49. この如く第二者と共ならば我に冗漫の言又は親著あるべし。
未来にかかる怖畏あるを観察しつつ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
50. 実に欲は種々甘美にして意に楽しく、雑多なる〔方法〕によりて心を撹乱せしむ。
〔五〕種欲に〔この〕過患あることを見て、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
51. こは我が疾なり、癰なり、禍なり、病なり、矢なり、また怖畏なり。
〔五〕種欲に〔この〕怖畏あることを見て、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
52. 寒さと暑さと飢えと渇きと、風と太陽の熱と虻と蛇と、これら一切に〔堪え〕打ち勝ちて、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
53. 肩(骨格)のよく発育し〔肢体が〕蓮華に似たる、大なる象が群を避けて、所欲のままに林野に住するが如く、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
54. 群集を楽しむ者が時解脱に至るべきの道理あることなし。
〔されば〕日種〔たる仏〕の語にしたがいて、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
55. 〔邪〕見を戦わすことを超越して、〔正〕決定に達し〔聖〕道を獲得し、他に導かれざる〔独覚〕智を我は起こせり、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
56. 動貪なく詭詐なく渇欲なく、覆(偽善)なく悪濁と痴とを除去し、一切世間において意楽(渇愛)あるなく、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
57. 〔正しき〕義を見ず邪曲に住著せる、悪き朋友をば回避すべし、自ら依著者・放逸者に習うべからず、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
58. 多聞にして法を持し応弁を具せる偉大なる友に交わるべし。
〔自他の〕義を知り疑惑を調伏し、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
59. 〔自ら〕荘厳せず、世間の戯楽と欲楽とを期待せずして、実語者は〔緇素の〕厳飾を離れ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
60. 子をも妻をも父をも母をも、財宝をも穀物をも親類おも、それぞれの諸欲をも捨てて、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
61. こ〔の受楽〕は縛著なり、ここの可楽は小なり、快味少なくしてここには多くの苦あり。
これ鉤針なりと知りて覚慧者は、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
62. 水中の魚が網を破るが如く、〔十〕結をば裂き破りて、燃焼せし火の戻らざるが如く、〔煩悩に戻ることなく〕サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
63. 眼を下に投げ、彷徨することなく、諸根を護り、意を守り〔制し〕、〔煩悩の〕流漏なく、〔煩悩の火に〕焼かれずして、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
64. 葉の断除せる昼度樹の如く、〔鬚髪厳飾等の〕世俗の相を取り除き、袈裟衣を着けて出家をし、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
65. 諸味の貪求をせず動貪なく、他を養うことなく、次第乞食し、家々にて心結縛せらるるなく、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
66. 〔初禅にて〕心の五蓋をば捨断し、一切の随煩悩をば除却し、依止なくして貪愛・瞋恚を断じ、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
67. あらかじめ楽と苦とを離去せしめ、かつ喜びと憂いとを〔第二第三禅にて除き〕、〔第四禅にて〕清浄なる捨と止とを得て、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
68. 第一義に達せんが為に勤精進し、沈滞の心なく懈怠の行為なく、固き努力あり、〔体〕力・〔智〕力を具し、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
69. 独座と禅とを遣つることなく、諸法において常に法に随いて行じ、〔三界〕諸有の過患を思惟し、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
70. 不放逸にして愛の滅尽を希求し、聞あり念ありて聾唖に非ず、法を察悟し〔正〕決定し〔正〕勤ありて、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
71. 獅子が諸声に驚怖せざるが如く、風が網に著せざるが如く、蓮〔葉〕が水〔滴〕に塗着されざるが如く、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
72. 歯牙強く百獣の王たる獅子が〔他を〕制圧し克服して行くが如く、〔困苦を克服して〕辺境の臥坐所を受用し、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
73. 慈と捨と悲と喜との〔四無量心〕解脱を時々に習行しつつ、一切世間に違背することなく、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
74. 貪と瞋と痴とを捨断し、諸の結を裂き破りて、生命滅尽するも驚怖せず、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
75. 利の為に〔人々は他に〕親近す、無所得の友は今や得ること難し。
不浄なる人々には自己の為の慧あり、サイの角の如くまさに独り遊行すべし。
犀角経終われり。
<4. 耕田婆羅堕闍経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は摩掲陀国〔を遊行し〕南山の一茅〔という〕婆羅門村に住したまえり。
その時、耕田婆羅堕闍婆羅門は播種時にて五百ばかりの鋤を〔牛に〕軛し居れり。
時に世尊は晨朝に着衣し鉢と〔僧伽梨〕衣とを携えて耕田婆羅堕闍婆羅門の作業の所に至りたまえり。
その時、耕田婆羅堕闍婆羅門は食物を〔農夫等に〕分配し居れり。
時に世尊はかの食物分配の所に近づきたまい、近づきて一方に立ちたまえり。
時に耕田婆羅堕闍婆羅門は世尊が受食のために立ちたまえるを見たり。
見終わりて世尊に申して言わく、「沙門よ、我は耕耘しかつ播種す。耕耘しかつ播種して然る後に食す。沙門よ、汝も耕耘しかつ播種せよ。耕耘しかつ播種して然る後に食せよ」。
「婆羅門よ、我もまた耕耘しかつ播種す。耕耘しかつ播種して然る後に食す」。
「されど我等は卿瞿曇の軛をも鋤をも鋤先をも鞭をも牛をも見ず。然るにもかかわらず卿瞿曇は『婆羅門よ、我もまた耕耘しかつ播種す。耕耘しかつ播種して然る後に食す』とかく言う」。
かくて耕田婆羅堕闍婆羅門は偈を以て〔仏に〕申せり。
76. 「耕耘者なりと汝は自称するも、我等は汝の耕耘を見ず。汝の耕耘を我等が得心するよう、我等に問われて耕耘を語れ」。
77. 「信は種子なり、苦行(根律儀)は雨なり、慧は我が軛と鋤なり、慚は鋤棒なり、意は勒なり、念は我が鋤先と鞭なり。
78. 身〔悪行〕を護り、語〔悪行〕を護り、〔衣〕食〔住〕に対し腹〔の量〕に対して自制し、〔智〕諦をば〔煩悩草の〕芟除とし、柔和を我が解脱とす。
79. 精進は我が荷駄牛にして、〔我を〕瑜伽安穏に運載し、行きて退転あることなく、そこに至らば憂いなし。
80. かくの如くこの耕耘が行わるれば、そは甘露(涅槃)の果を致す。この耕耘を行いて後は、一切の苦より解脱す」。
時に耕田婆羅堕闍婆羅門は大なる青銅の鉢に乳粥を盛りて世尊に献じたり、「卿瞿曇は乳粥を食したまえ。卿は耕耘者なり、蓋し卿瞿曇は甘露の果ある耕耘をなしたまえばなり」とて。
81. 「偈を唱え〔て得〕たる〔食〕は我が食すべきに非ず。婆羅門よ、こ〔の偈による受食〕は諸正見者の法に非ず。偈を唱え〔て得〕たる〔食〕を諸仏は退けたまう。婆羅門よ、〔浄〕法ある時は、こ〔の行乞〕が〔諸仏の〕生活法なり。
82. 而して一切〔諸徳〕を具し、漏尽き、悪作(後悔)の寂静せる大仙をば、〔偈による食以外の〕他の飲食もて供養せよ。彼〔仏〕は福を望む者の〔福〕田たればなり」。
「然らば卿瞿曇よ、誰に我はこの乳粥を与うべきや」。
「婆羅門よ、我は天を含めたる魔を含める梵天を含めたる〔一切〕世界において、沙門婆羅門を含めたる天と人とを含めたる人々の中において、如来又は如来の弟子を除きて、その乳粥を食してよく消化せしむる者あるを見ず。故に汝婆羅門よ、その乳粥をば草なき所に捨てよ、又は生物なき水中に流せ」。
時に耕田婆羅堕闍婆羅門はその乳粥を生物なき水中に流したり。
時にその乳粥は水中に投ぜられてシュッシュッと音を立て大いに湯煙を出せり。
譬えば日中に太陽に熱せられたる鋤先が水中に投ぜらるれば、シュッシュッと音を立て大いに湯煙を出すが如く、かくの如くかの乳粥は水中に投ぜられてシュッシュッと音を立て大いに湯煙を出せり。
時に耕田婆羅堕闍婆羅門は悚懼して身毛竪立し、世尊のもとに至れり。
至りて後、世尊の足下に頭を伏せ、世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、希有なり。卿瞿曇よ、希有なり。譬えば卿瞿曇よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。この我は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。我は卿瞿曇のもとにて出家を得んと欲す、具足〔戒〕を得んと欲す」。
かくて耕田婆羅堕闍婆羅門は世尊のもとにて出家を得、具足〔戒〕を得たり。
而して具戒後久しからずして、尊者婆羅堕闍は独一に遠離し、不放逸に熱心に自ら精勤して住しつつ、久しからずして、ーー諸の善男子が正に家より非家に出家するの目的たるーー無上の梵行の終局〔即ち涅槃〕をば現世にて自ら知通し作証し具足して住せり、「生すでに尽き、梵行すでに成じ、所作すでに弁じ、更にかかる〔輪廻苦界の〕状態に至らず」と了知せり。
かくて尊者婆羅堕闍は阿羅漢の一人となれり。
耕田婆羅堕闍経終われり。
<5. 淳陀経>
83. 鍛工子淳陀曰く、「広博の慧ある牟尼・仏陀・法主・離愛者・人類の最上者・御者中の優者に我は問う。世間に幾何の沙門ありや。冀わくばそを語りたまえ」。
84. 世尊宣わく、「淳陀よ、四沙門あり、第五あることなし。そを汝に現に問われて説明せん。道による〔煩悩の〕勝者と道の説示者と、道中に生活する者と道を汚す者となり」。
85. 鍛工子淳陀曰く、「諸仏は誰を道による勝者と言うや。いかんが比類なき説道者なる。道中に生活する者を問われて我に語りたまえ。また道を汚す者を我に説明したまえ」。
86. 「疑惑を度り、〔煩悩の〕矢を離れ、涅槃を楽しみ、随貪あることなく、天を含めたる世界の導師、かかる人を諸仏は道による勝者と言う。
87. この〔仏教〕中にて第一なるを第一と知り、この〔仏教〕中にて法を説き分別し、疑を断じたるかの不動の牟尼を、第二の比丘たる道の説示者という。
88. 自ら制して念あり、無罪の〔聖〕句に親しみつつ、法句の善説せられたる道中に生活する所の者を、第三の比丘たる道による生活者という。
89. 諸の善務者(漏尽者)の装いをなして、〔衆中に〕跳入し、傲慢にして在家を汚し、謟ありて自ら制せず、虚談をなして、殊勝げに行ずる者が道を汚す者なり。
90. これら〔四沙門を〕洞察せる在家の有聞有慧なる聖弟子は、彼等一切をばかくの如しと知り、かく見終わりて彼の信は退するなし。いかんが〔彼は〕染汚者と不染汚者とを〔また〕浄者と不浄者とを同視すべけんや」。
淳陀経終われり。
<6. 敗亡経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の祇樹給孤独園に住したまえり。
時に一人の麗しき容色の天神あり、夜半を過ぎたる頃、隈なく祇樹〔園〕を照らして、世尊のもとに近づけり。
近づきたる後、世尊を礼して一方に立てり。
一方に立ちたるかの天神は世尊に偈を以て申せり。
91. 「我等は瞿曇世尊に敗亡する人を問わんと〔欲〕す。何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりやを問わんがために我等は来れり」。
92. 「勝存者を識知するは易し、敗亡者を識知するは易し。法を欲する者が勝存者なり、法を嫌う者が敗亡者なり」。
93. 「第一のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第二をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
94. 「寂なき人々を彼は愛し、寂ある人々を彼は愛するなく、不善なる人々の法を願う、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
95. 「第二のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第三をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
96. 「睡眠を事とし、集会を事とし、また懶惰にして奮起するなく、忿を〔自己の〕標識とする人、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
97. 「第三のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第四をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
98. 「老いたる盛荘を過ぎたる母をば又は父をば、〔自らは〕富裕に暮らしつつ養わざる者、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
99. 「第四のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第五をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
100. 「婆羅門又は沙門を、又は他の行乞者をば、妄語を以て欺く者、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
101. 「第五のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第六をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
102. 「財産多く、金銀あり、食物を有する人が、一人美味を食する、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
103. 「第六のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第七をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
104. 「生まれ(血統)を誇り、財を誇り、また姓(家柄)を誇りて、己が親戚を軽蔑する人、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
105. 「第七のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第八をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
106. 「女に溺れ酒に溺れ、また賭博に溺れて、得たるをも得たるをも失う人、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
107. 「第八のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第九をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
108. 「己が妻〔のみ〕を以て満足せず、諸の遊女に見え、他人の妻女に見ゆ、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
109. 「第九のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第十をば世尊を語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
110. 「盛荘を過ぎたる人が、ティンバル果の如く〔盛り上がれる〕乳房ある〔若き〕女を連れ歩き、彼女への嫉妬より〔夜も〕眠らず、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
111. 「第十のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第十一をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
112. 「酒〔肉〕に耽り、財を散ずる婦人、又はこれに類する男子をば、主人の位に立つる、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
113. 「第十一のかの敗亡者は、これかくの如しと我等は知れり。第十二をば世尊は語りたまえ、何が敗亡者の〔敗亡への〕門なりや」。
114. 「刹帝利の家に生まれたる者が、財産小にして渇愛大に、この世にて〔不可能なる〕王位を希求する、これ敗亡者の〔敗亡への〕門なり」。
115. 世間に於けるこれらの敗亡者を、正しく観じて見を具足せる、賢者・聖者(不法に赴かざる者)、彼は幸福なる〔天〕界に至る」。
敗亡経終われり。
<7. 賤民経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の給孤独園に住したまえり。
時に世尊は晨朝に着衣して鉢と〔僧伽梨〕衣とを携え、舎衛城に行乞のために入りたまえり。
その時、事火婆羅堕闍婆羅門の住居にて〔神〕火が灯され供物が供えられ居たり。
時に世尊は舎衛城内を家ごとに行乞して、事火婆羅堕闍婆羅門の住居に近づきたまえり。
事火婆羅堕闍婆羅門は世尊が遥かに来たりたまえるを見たり。
見終わりて世尊に申して言わく、「坊主よ、そこに〔止まれ〕、似而非沙門よ、そこに〔止まれ〕、賤民よ、そこに〔止まれ、神聖なる所に近づくことなかれ〕」。
かくの如く言われて、世尊は事火婆羅堕闍婆羅門に次の如く宣えり。
「婆羅門よ、然らば汝は賤民を〔知るや〕、又は賤民となる法を知るや」。
「瞿曇よ、我は賤民をも賤民となる法をも知らず。卿瞿曇よ、賤民を又は賤民となる法を我が知るよう、願わくば法を説示せよ」。
「婆羅門よ、然らば聞け、善く作意せよ、我は説かん」。
「卿よ、唯諾」と事火婆羅堕闍婆羅門は世尊に答えたり。
世尊は次の如く宣えり。
116. 「忿ある者、また恨みある者、また覆(偽善)ある悪人、悪邪見ある者、謟ある者、彼を賤民なりと知るべし。
117. 一生(胎生・湿生・化生)又は二生(卵生)、〔これら〕生類をこの世にて害する者、生類に対して慈愛なき者、彼を賤民なりと知るべし。
118. 村々町々〔都市〕の人々を害し包囲〔略奪〕する者、圧制者と称せらるる者、彼を賤民なりと知るべし。
119. 村において或いは又林野において、他人の所有物をば、与えられざるに盗心もて取る、彼を賤民なりと知るべし。
120. 実に負債を被れる者が、返済を迫られて、『汝に対して負債あるなし』と遁辞をなす、彼を賤民なりと知るべし。
121. 実に些少の欲心より、道行く人々を〔殺〕害して、些少のものを奪い取る、彼を賤民なりと知るべし。
122. 証人として問われて、自己の因に、他人の因に、また財の因に〔即ち身命財産を失うを恐れて〕、虚偽を語る所の人、彼を賤民なりと知るべし。
123. 親戚等の、又は友人等の妻と、暴力によりて、或いはまた合意の上にて交わる者、彼を賤民なりと知るべし。
124. 年老いて盛壮を過ぎたる母や又は父をば、〔自らは〕富裕に暮らしつつ養わざる者、彼を賤民なりと知るべし。
125. 母や又は父に、兄弟姉妹や妻の母に、害を加え語もて悩ます者、彼を賤民なりと知るべし。
126. 〔第一〕義を問われつつも、不〔饒益の〕義をば教え、隠蔽して語る者、彼を賤民なりと知るべし。
127. 悪業を行いて、『我〔が行為〕は知られざれ』と欲し、隠れたる行為をなす者、彼を賤民なりと知るべし。
128. 実に他家に行きては、佳饌の饗応を受け、客来たらば返礼し饗せざる者、彼を賤民なりと知るべし。
129. 婆羅門又は沙門を、又は他の行乞者をば、妄語もて欺く者、彼を賤民なりと知るべし。
130. 食事の時となりたるに、婆羅門又は沙門をば、語をもて悩まし、〔食を〕与えざる者、彼を賤民なりと知るべし。
131. この世にて愚痴に纏われ、些少をば貪求しつつ、不実〔の語〕を語る者、彼を賤民なりと知るべし。
132. 自己を高揚し、かつ他人を軽賤し、自慢のために卑賤なる者、彼を賤民なりと知るべし。
133. 悩害者・吝嗇者・悪欲者・慳者・誑者・無慚者・無愧者、彼を賤民なりと知るべし。
134. 仏を誹謗する者、或いはまた出家・在家の仏弟子を〔謗る者〕、彼を賤民なりと知るべし。
135. 実に〔自ら〕阿羅漢に非ずして、阿羅漢なりと公言する者は、梵天を含めたる世間の賊なり。
この者が実に最下の賤民なり。
我が汝等に説明せし所のこれらの者が賤民と言わる。
136. 生まれによりて賤民なるに非ず、生まれによりて婆羅門なるに非ず。
行為によりて賤民となり、行為によりて婆羅門となる。
137. 我がこの説示の真偽をば、この〔次の例〕によりても知れ。
犬殺しの摩騰とて、有名なる旃陀羅の子ありき。
138. 彼摩騰は得難き所の第一の名声を得たり。
多くの刹帝利・婆羅門は彼の供奉に来たれり。
139. 彼は離塵の大道たる天乗(八等至)に乗り、欲貪をば離貪して、梵天界に至りたり。
彼が梵天界に至ることを、〔卑しき〕生まれも遮止せざりき。
140. 〔聖典を〕誦習する家に生まれ、聖典に関係深き諸の婆羅門、彼等も諸の悪業にしばしば近づき行かば、
141. 現世にては呵責せられ、また来世は悪趣に至る。
彼等が悪趣に至り、又は呵責せらるるを、〔高き〕生まれも遮止するなし。
142. 生まれによりて賤民なるに非ず、生まれによりて婆羅門なるに非ず。
行為によりて賤民となり、行為によりて婆羅門となる」。
かく言われて事火婆羅堕闍婆羅門は世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、希有なり。卿瞿曇よ、希有なり。譬えば卿瞿曇よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。この我は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。卿瞿曇は、今日より以後命尽くるまで帰依せる優婆塞として我を認受したまえ」。
賤民経終われり。
<8. 慈経>
143. 義に巧なる者が、かの寂静句(涅槃)を現観して行うべき所のことは〔次の如し〕。
有能にして直くかつ端正に、善語・柔和にしてかつ過慢ならざれ。
144. 足ることを知りかつ養い易く、雑行なくしてかつ簡素に暮らし、諸根寂静にしてかつ聡明なり、傲慢ならず、〔檀越の〕家に随貪せず。
145. また諸識者に非難せらるるが如き、いかなる雑〔穢行〕をも行わざれ。
〔ただかかる慈を修せよ〕「一切有情は幸福なれ、安穏なれ、福祉あれ、
146. いかなる生物生類たりとも、怖動者(凡夫)も定立者(阿羅漢)も、長身者も又はいかなる大身者も、中身者も短躯者も微細者も粗大者も、
147. 〔目に〕見ゆるも又は見えざる者も、遠くに住するも遠からざる者も、已生者(漏尽者)も又は求生者も、〔これら〕一切有情に福祉あれ」。
148. 互いに他を欺瞞することなかれ、何処にても何者をも軽賤せざれ。
悩害によりて、瞋恚の想によりて、互いに他を苦しめんと欲すべからず。
149. あたかも母が己が一人子をば、身命を賭しても守護するが如く、かくの如く一切生類に対しても、無量の〔慈〕意をば修習すべし。
150. また一切世間に対して、無量の慈意をばまさに修習すべし。
上に下にまた横に、障礙なき怨恨なき敵意なき〔慈を修すべし〕。
151. 立てるも行けるも坐しつつも、臥せるも睡眠を離れ居る限りは、この〔慈禅の〕念を住立せしむべし。
この〔仏教〕中にてこは〔慈〕梵住と言わる。
152. また〔悪〕見に従うことなく、戒を具し見を成具せる者は、諸欲に対する貪求を調伏して、決して再び母胎に入ることなし。
慈経終われり。
<9. 雪山〔夜叉〕経>
153. 七岳夜叉曰く、「今日は十五日の布薩日なり、天の〔輝かしき〕夜は近づけり。いざ我等は高名ある師瞿曇に見えなん」。
154. 雪山夜叉曰く、「その如き〔師〕の意は一切有情に対し、〔平等に〕善く確立し居れるや否や。また好悪〔の対象〕に対し、彼の思惟は、〔善く〕統制せられ居るや否や」。
155. 七岳夜叉曰く、「その如き彼の意は一切有情に対し、〔平等に〕善く確立し居れり。また好悪〔の対象〕に対し、彼の思惟は、〔善く〕統制せられ居れり」。
156. 雪山夜叉曰く、「与えられざるを取らざるや否や、諸生物に対して自制ありや否や、放逸より遠ざかり居れるや否や、禅〔定〕を遣つることなきや否や」。
157. 七岳夜叉曰く、「与えられざるを取ることなし、また諸生物に対して自制あり、また放逸より遠ざかり居れり、仏は禅〔定〕を遣つることなし」。
158. 雪山夜叉曰く、「妄語をなさざるや否や、悪口をなくし居れるや否や、毀傷〔の語〕を言わざるや否や、〔無義の〕綺語を語らざるや否や」。
159. 七岳夜叉曰く、「彼は妄語をなすことなし、また悪口をなくし居れり、また毀傷〔の語〕を言うことなし、彼は慧智もて〔勝〕義のみを語る」。
160. 雪山夜叉曰く、「諸欲に染せざるや否や、〔その〕心混濁せざるや否や、愚痴を超越せるや否や、諸法に対して眼を具うるや否や」。
161. 七岳夜叉曰く、「彼は諸欲に染することなし、また〔その〕心混濁あるなし、一切の愚痴を超越し居れり、仏は諸法に対して眼を具したまう」。
162. 雪山夜叉曰く、「明を成具し居れるや否や、〔その〕行為清浄なりや否や、彼は諸漏を尽せるや否や、再有あることなきや否や」。
163. 七岳夜叉曰く、「必ず明を成具し居れり、また〔その〕行為清浄なり、彼は一切諸漏を尽せり、彼に再有あることなし」。
163.イ. 牟尼の心は〔正しき身と意の〕業と、〔正しき〕言語〔業〕とを成具し居れり。
明と行とを成具せる彼(仏)をば汝が讃歎するは〔これ〕如法なり。
163.ロ. 牟尼の心は〔正しき身と意の〕業と、〔正しき〕言語〔業〕とを成具し居れり。
明と行とを成具せる彼(仏)をば汝が随喜するは〔これ〕如法なり。
164. 牟尼の心は〔正しき身と意の〕業と、〔正しき〕言語〔業〕とを成具し居れり。
いざ、明と行とを成具し居れる、瞿曇に我等は見えなん。
165. 鹿の〔如き〕脛ある、痩身なる、叡智ある、少食なる、動貪なき、林中に禅思しつつある牟尼世尊に、いざ我等は見えなん。
166. 諸欲をば期待することなき、獅子の如き独行の龍(世尊)に、近づきて我等は問わん、死の網よりの解脱をば。
167. 宣説者・解説者・一切諸法の悟達者・怨恨怖畏の越度者たる、瞿曇仏陀に我等は問わん」。
168. 雪山夜叉曰く、「何がある時世間は生起するや、何に対して親愛はなさるるや、何を執取して世間はありや、何によりて世間は損なわるるや」。
169. 世尊宣わく、「雪山〔夜叉〕よ、六がある時世間は生起す、六に対して親愛がなさる、六のみを執取して〔世間〕あり、六によりて世間は損なわる」。
170. 「それによりて世間が損なわるるその執取とは何ぞや。出脱〔の道〕を問われて語りたまえ、いかにして苦より脱するや」。
171. 「世間に五種の欲あり、第六として意が示さる。これらへの欲を離れなば、かくせば苦より脱すべし。
172. 世間のこの出脱〔の道〕を、汝等に如実に宣説せり。我は汝等にかく宣説す、『かくせば苦より脱すべし』と」。
173. 「誰がこの世の暴流を度るや、誰がこの世の海洋を度るや、支持なく懸り〔掴まる〕ものなき深き〔生死の大海に〕沈まざるは誰ぞ」。
174. 「一切常時に戒を成具し、慧ありて善く等持(禅定)し、内に思慮あり念ある者が、度り難き暴流を度る。
175. 欲愛の想いより離れ、一切諸結をば超え、喜と有とを滅尽せる、彼は深海に沈むなし」。
176. 「甚深の慧ありて微妙の義を見、無所有にして欲有に著せず、一切処に解脱して、天の路を歩きつつあるかの大仙を見よ。
177. 高名ありて微妙の義を見、慧を与え欲阿頼耶に著せず、一切を知り善慧あり、天の路を歩きつつあるかの大仙を見よ。
178. 実に今日は我等に〔義が〕善く見られ、善く輝き善く現起せり。蓋し我等は暴流を度れる無漏の正覚者に見えたればなり。
179. 神変を有し名声あるこの〔我等〕一千の夜叉は、すべて尊師に帰依をなす、尊師は我等の無上師なり。
180. この我等は村より村に、山より山に徘徊せん、正覚者と善法性の法と、〔比丘衆とを〕礼拝しつつ」。
雪山〔夜叉〕経終われり。
<10. 曠野〔夜叉〕経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は曠野の曠野夜叉の棲処に住したまえり。
時に曠野夜叉は世尊のもとに近づきたり。
近づきたる後、世尊に申して言わく、「沙門よ、去れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は去りたまえり。
「沙門よ、入れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は入りたまえり。
再び曠野夜叉は世尊に申して言わく、「沙門よ、去れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は去りたまえり。
「沙門よ、入れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は入りたまえり。
三たび曠野夜叉は世尊に申して言わく、「沙門よ、去れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は去りたまえり。
「沙門よ、入れ」。「友よ、唯諾」とて世尊は入りたまえり。
四たび曠野夜叉は世尊に申して言わく、「沙門よ、去れ」。「友よ、我は〔汝が我が去るを欲せざるが故に〕去らざるべし。汝がまさに作すべきことをなせ」。
「沙門よ、我は汝に質問をなさん。もし汝我に解答せざれば、我は汝の心を錯乱せしめん、或いは汝の心臓を引き裂かん、或いは汝の両足を捉えて恒河の彼岸に投ぜん」。
「友よ、我は天を含めたる、魔を含めたる、梵天を含めたる世界において、沙門・婆羅門を含めたる、天と人を含めたる人々の中において、我が心を錯乱せしめ、或いは〔我が〕心臓を引き裂き、或いは〔我が〕両足を捉えて恒河の彼岸に投ずる者あるを見ず。されど友よ、汝もし〔問わんと〕欲せば問え」。
時に曠野夜叉は世尊に偈を以て申さく、
181. 「この世にて何が人の最勝の富なりや、いかなる善行が楽を齎すや、実に何が味中の美味なりや、いかなる命を最勝の命というや」。
182. 「この世にて信が人の最勝の富なり、〔施戒等の〕法善行が楽を齎す、実に〔第一義〕諦が味中の美味なり、慧命をば最勝の命という」。
183. 「いかにして暴流を度るや、いかにして海洋を度るや、いかにして苦を越度するや、いかにして遍浄となるや」。
184. 「信によりて暴流を度る、不放逸によりて海洋を〔度る〕、精進によりて苦を越度す、慧によりて遍浄となる」。
185. 「いかにして慧を得るや、いかにして財を得るや、いかにして称誉を獲るや、いかにして友と結ぶや、いかにせばこの世界より他の世界に至りて憂いざるや」。
186. 涅槃を獲得せんがために、諸阿羅漢の法を信じつつある不放逸なる聡慧者が、聞欲によりて慧を得。
187. 適まさに行じ荷負に耐え、奮闘する者が財を得、〔真〕諦によりて称誉を獲、〔所欲を〕与うる者が友を結ぶ。
188. 諦と法と堅固心と捨とのこれら四法が、信を主とする在家生活者に存しなば、彼こそは〔他界に〕至りて憂えず。
189. もし諦・調御・捨・忍辱よりも、勝れたるものここに存しなば、いざ〔それら〕他のものをも、広く〔他の〕沙門・婆羅門等に問え」。
190. 「今や広く〔他の〕沙門・婆羅門等に、問うべきものいかんが〔存せん〕。この我は今日〔現世のみならず〕、後世〔安穏〕の義(原因)をも知解せり。
191. 実に我を饒益せんがために、仏は曠野に住すべく来たりたまえり。この我は今日、何処に布施せば大果ありやを知解せり。
192. この我は村より村に、城より城に徘徊せん、正覚者と善法性の法と、〔比丘衆とを〕礼拝しつつ」。
曠野〔夜叉〕経終われり。
<11. 征勝経>
193. 或いは歩き、或いは立ち、或いは坐し、或いは臥し、〔身を〕屈し伸ぶる、これ身の動作なり。
194. 骨と腱とが結び付き、深皮と肉とが上に塗着し、表皮もて覆われ居る〔が故に〕、身は如実に見られず。
195. 〔身は〕腸に満ち、胃に満ち、肝臓に〔満ち〕、また膀胱に〔満ち〕、心臓に〔満ち〕、肺臓に〔満ち〕、腎臓に〔満ち〕、また脾臓に〔満ち〕、
196. 鼻汁に〔満ち〕、唾液に〔満ち〕、汗に〔満ち〕、また肪に〔満ち〕、血に〔満ち〕、関節滑液に〔満ち〕、胆汁に〔満ち〕、また膏に〔満つ〕。
197. またこの〔身の〕九穴よりは一切常時に不浄が流漏す。
〔即ち〕眼よりは眼垢が〔流れ〕、耳よりは耳垢が〔流れ〕、
198. また鼻よりは鼻汁が〔流れ〕、口よりは時には胆汁を吐き、また〔時には〕痰を吐き、身よりは汗水が〔流る〕。
199. またかの頭は空洞にして、〔その中は〕脳もて充満せり。
愚者は無明に障えられて、そ〔の身〕を浄なりと思う。
200. されどそ〔の身〕が死して、膨張し青瘀となり、墓場に捨てられ横たわれば、親兄弟も〔これを〕顧みず。
201. そ〔の屍〕をば犬が食らい、また狐・狼・うじ虫が〔食らい〕、またカラスやワシが〔これを〕食らい、またその他の生物〔の食らう〕あり。
202. 仏の語を聞き終わりて、この〔仏教〕中にて有慧の比丘は、実にそ〔の身の不浄〕を遍知す、蓋し、彼は如実に見ればなり。
203. この〔生身の〕如く、か〔の屍〕も同じ、かの〔屍の〕如く、こ〔の生身〕も同じ。
内部においてもまた外部においても、身に対する欲をまさに離るべし。
204. 欲貪を離れたるかの有慧の比丘はこの〔仏教〕中にて、甘露・寂静にして死あるなき涅槃句をば証得したり。
205. この人間〔の身〕は愛護さるるも、〔実は〕不浄にして悪臭あり。
種々の汚穢もて充満し、ここかしこより〔垢穢〕流漏す。
206. この如き〔不浄〕の身を有しながら、〔自らを〕高揚せんことを思い、又は他人を軽視せんとする者は、無見〔の愚盲〕者に非ずして何ぞや。
征勝経終われり。
<12. 牟尼経>
207. 親䁥(渇愛・邪見)より怖畏生ず、居家(所縁)より〔煩悩〕塵垢生ず。
親䁥ならず居家なきは、これ実に牟尼の見なり。
208. 已生〔の煩悩〕を断絶して生長せしめず、現生〔の煩悩〕をしてそれに委せざる者、彼を諸牟尼中〔第〕一行者という。
かの大仙は寂静〔涅槃〕句を見たるなり。
209. 〔煩悩の〕事(根基)を考量して〔その〕種子を亡ぼし、愛潤をしてそ〔の活動〕に委せざる、生の尽滅の辺を見たるかの牟尼は実に、〔不善〕尋を捨断して〔輪廻の〕数に入らず。
210. 一切諸の住著を了知し終わりて、それらの一つをも欲求することなく、離貪して貪求なきかの牟尼は実に勤求せず、蓋し彼岸に達し居ればなり。
211. 一切に勝ち、一切を知り、善慧あり、一切諸法に塗着することなく、一切を捨て、渇愛尽き、解脱せる者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
212. 慧力あり戒と務めを具備し、等持して禅を楽しみ、念あり、著より脱して障礙なく漏なき者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
213. 一人行じつつある不放逸なる牟尼、獅子が諸声に驚怖せざるが如く、風が網に著せざるが如く、蓮〔葉〕が水〔滴〕に塗着されざるが如く、毀誉褒貶に対して動ずることなく、他を導き他に導かれざる者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
214. 他の人々が極端の〔毀誉〕語をなすも、水浴場の柱の如くに〔泰然と〕振舞い、貪を離れ諸根をよく等持せる者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
215. 梭の如く端直に自ら住立し、不正と正とを観察しつつ、諸の悪業をば嫌忌する者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
216. 自己を禁制して悪を行わず、幼年にも中年にも牟尼は自ら制す。
自ら悩害されず誰をも悩害せざる、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
217. 他の施に依存する者が上より〔の食〕、中より〔の食〕又は残余よりの食を得るも、誉むることなく貶ることなき、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
218. 青壮時にいかなる〔女色〕にも縛著せず、婬を離れて行ずる牟尼、憍と放逸とを離れ解脱せる者、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
219. 世間を了知して第一義を見たる者、暴流と大海とを越度せるが如き者、繋縛を断じ依止なく漏なき彼、彼をも諸の賢者は牟尼なりと知る。
220. 〔在家出家の〕両者は住所も生活も隔たりて等からず。
在家者は妻〔子〕を養い、善務者(漏尽者)は我執なし。
在家者は他の生物を害せざらんと自ら制せず、牟尼は自ら制して常に諸の生物を守護す。
221. あたかも空を翔ぶ青頸の孔雀が、〔金〕鵠の速力に決して及ばざるが如く、かくの如く在家者は、禅思しつつ林中に遠離せる牟尼比丘に及ぶことなし。
牟尼経終われり。
蛇品第一〔終われり〕
その摂頌、蛇と陀尼耶と〔犀〕角とまた耕田と、純陀と敗亡と賤民と慈の修習と、七岳と曠野と征勝とまた牟尼と、これら十二の経をば蛇品とは言う。
第2章・小品
<1. 宝経>
222. ここに来集せし諸の鬼神は、地上なるも又は空中なるも、一切諸鬼神は幸福なれ、また恭敬して〔我が〕所説を聞け。
223. されば一切諸鬼神よ、傾聴せよ。
人類に対して慈をば行え、昼も夜も供物を運ぶ彼等を、かるが故に不放逸にして護れ。
224. この世他世のいかなる財富も、諸天界の勝れたる財宝も、如来〔宝〕に等しきものあるなし、これ即ち勝れたる仏宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
225. 等持(入定)の釈迦牟尼が証得せし、勝れたる滅尽・離貪・甘露〔の法〕、これ即ち勝れたる法宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
226. 最勝の仏が讃歎する浄〔定〕、これを〔世人は〕無間定という、その定に等しきものあるなし。
この真理によりて吉瑞あれ。
227. 諸善人に賞讃せられたる八輩、〔即ち〕これら四雙なる〔僧衆〕は、これ善逝の弟子応施者なり。
彼等に施せるものは大果あり、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
228. 堅固なる意もて善く努力し、瞿曇の教中にて無欲なる者、彼等は応達に達し甘露に入り、得終わりて所作なく、寂定を受く、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
229. あたかも帝柱(果標)が大地に依止して、四方よりの風に動ぜざるが如く、その如く〔不動にして〕諸聖諦をば諦観する者を我は善人と言う、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
230. 甚深の慧者がよく説示したまいし諸聖諦をば分明ならしむる人々、彼等はたといしばしば放逸なりといえども、彼等は第八の有を取ることなし、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
231. 見の成具と共に、彼には実に三法が捨てられたり、〔即ち〕存在するあらゆる身見と、疑と及び戒禁〔取〕となり。
また四悪趣より解脱し、かつ六重罪を犯すあたわず、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
232. たとい彼は身をもて語をもて、また心もて悪業を行うといえども、彼はそを隠蔽するあたわず〔懺悔す〕、見〔涅槃〕句者は〔隠す〕あたわずと説かれたり、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
233. あたかも夏月中の初夏〔の月〕に、林や叢にて花の満開せるが如く、その如く涅槃に至る優れたる法を第一利益のために説ける、これ即ち勝れたる仏宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
234. 優者・知優者・施優者・優の将来者・無上者にして優れたる法を説ける、これ即ち勝れたる仏宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
235. 古き〔業〕は既に尽き、新しきは生ぜず、未来の有に対して〔その〕心離貪し、種子の尽き欲の増長するなき彼等諸の賢者はかの灯明の如く寂滅す、これ即ち勝れたる僧宝なり。
この真理によりて吉瑞あれ。
236. ここに来集せし〔我等〕諸の鬼神は地上なるも又は空中なるも、如来せし、人天に供奉されし、仏をば礼せん、〔有情に〕吉瑞あれ。
237. ここに来集せし〔我等〕諸の鬼神は、地上なるも又は空中なるも、如来せし、人天に供奉されし、法をば礼せん、〔有情に〕吉瑞あれ。
238. ここに来集せし〔我等〕諸の鬼神は、地上なるも又は空中なるも、如来せし、人天に供奉されし、僧をば礼せん、〔有情に〕吉瑞あれ。
宝経終われり。
<2. 臭穢経>
239. 〔苦行婆羅門帝須、迦葉仏に曰く〕「稷・ディングラカ・支那豆、葉果・根果・蔓果〔等の食物を〕、諸の善人は如法に得て食しつつ、欲を欲せず、虚偽を語らず。
240. 善く調理し善く炊ぎたる、他人の浄施の美味を喫しつつ、〔かつ〕米飯を食しつつある者、彼は迦葉よ、臭穢を食するなり。
241. 梵天の親類(婆羅門)たる汝は、善く料理せる鳥の肉と共に米飯を食しつつ『我は臭穢を許さず』とかく言説す。迦葉よ、我は汝にこの義を問う、汝の臭穢はいかなるものなりや」。
242. 〔迦葉仏宣わく〕「生物を殺し、打擲し、切断し、縄縛し、盗取し、妄語し、瞞着しかつ詐欺し、邪曲を習誦し他人の妻に親近する、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
243. この世にて諸欲を自ら制せざる人々、諸味を貪求し、不浄〔業〕に混入せる者、空無見者・不正〔業〕者・化導し難き者、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
244. 粗暴・冷酷にして噉背肉(陰口を言い)し、友を裏切り、悲愍なくして過慢あり、また吝嗇にして誰にも施すなし、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
245. 怒りと憍と強情と反抗心とあり、謟あり、嫉妬あり、〔自ら〕賞揚して語り、慢あり、過慢あり、諸不善者と親しむ、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
246. 悪性にして債務を果たさず、讒謗し、偽りの言説あり、ここに仮面を被り、この世の最下の人にして罪悪をなす、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
247. この世にて生物に対して禁制なき人、他の〔金品〕を取り、加害を事とする者、悪戒・残忍・粗〔語〕にして〔他人を〕敬せず、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
248. これら〔生物〕に貪求し違背し侵害し、常に〔悪事を〕事とし、死しては闇に至り、頭を下にして地獄に堕つべき諸有情、これ臭穢なり、実に肉食は然らず。
249. 魚〔肉・獣〕肉〔の不食〕も、断食も、裸体も、円頭も、結髪も、塗塵も、獣皮服も、火への供養の営みも、又は世間にて不死を得んがための多くの苦行も、真言(吠陀)も、祭祀も、犠牲も、季節の荒行も、疑惑を越度せざる人を浄むるなし。
250. 通路(六根)を護り、根に勝ちて行ぜよ、〔諦〕法に住立し、質直と柔軟を楽しみ、執着を去り、一切の苦を捨断したる、賢者は見聞せしものに染着せず」。
251. かくこの義をば世尊は反復して説きたまえり。
真言(吠陀)に通暁せる化導し難き〔帝須婆羅門〕は、牟尼が種々の偈をもて説明したまえるが故に、臭穢なく依著なくなりて、そ〔の義〕を知りぬ。
252. 仏の善説したまえるーー一切苦を薄くする、臭穢なきーー〔涅槃〕句を聞き終わりて、〔かの婆羅門は〕謙虚の意もて如来を礼拝し、その場にて出家せんことを乞えり。
臭穢経終われり。
<3. 慚経>
253. 慚を超えつつ〔これを〕嫌忌する者、「我は〔汝の〕親友なり」と語りつつも、〔自ら〕可能の所業を引受けざる者、彼を「これ我が〔友〕ならず」と知るべし。
254. 実の伴わざる愛語をば、諸の友に対して語る者を、「言うのみにて行わざる者」と諸の賢者は遍知す。
255. 常に怠らず、不和〔なるに非ざるや〕を疑惧し、〔友の〕欠点のみを見る者はこれ友ならず。
〔母の〕胸に在る子の如く、彼に我が身を託し〔信頼し〕、他の人々に裂かれざる者が真の友なり。
256. 賞讃を将来する〔涅槃の〕楽果を期待する者は、〔学〕人に適せる負担(四正勤)を運びつつ、喜悦を生ずる原因〔たる精進〕を修習す。
257. 遠離(最上果)の味と寂静(涅槃)の味とを飲み終わりて、法の喜の味を飲みつつある者は悩苦なく悪徳あるなし。
慚経終われり。
<4. 大吉祥経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の祇樹給孤独園に住したまえり。
時に一人の麗しき容色の天神あり、夜半を過ぎたる頃、隈なく祇樹〔園〕を照らし、世尊のもとに近づけり。
近づきたる後、世尊を礼して一方に立てり。
一方に立ちたるかの天神は世尊に偈を以て申せり。
258. 「多くの諸天諸人等は、諸の福祉をば望みつつ、諸の吉祥を思念せり。〔我に〕最上の吉祥を語りたまえ」。
259. 「諸の愚者に親近せずして、諸の賢者に親近し、また供奉すべき者に供奉す、これ最上の吉祥なり。
260. 適当なる場所に住し、前世にて福を積み居り、自ら正しき誓願ある、これ最上の吉祥なり。
261. 多聞(博識)と工巧と、調伏と善く学せると、善く説かれたる語とは、これ最上の吉祥なり。
262. 母や父への孝養と、子や妻の摂取(扶養)と、混濁なき〔正しき〕業務とは、これ最上の吉祥なり。
263. 布施と如法なる行為と、諸の親戚の摂取(愛護)と、罪なき諸の行業とは、これ最上の吉祥なり。
264. 悪〔行〕を楽しまずして離れ、かつ飲酒をば自ら禁制し、また諸法において不放逸なる、これ最上の吉祥なり。
265. 敬重と謙譲と、満足と知恩と、時々の聞法とは、これ最上の吉祥なり。
266. 忍辱と柔和と、諸沙門に見ゆると、時々の法談とは、これ最上の吉祥なり。
267. 苦行(離悪)と梵行と、〔四〕聖諦を見ることと、涅槃の作証とは、これ最上の吉祥なり。
268. 諸の世間法に触るとも、その心動揺することなく、無憂・離塵・安穏なるは、これ最上の吉祥なり。
269. かくの如きを行い終わりて、一切処にて〔不善に〕敗れず、一切処にて福祉に至る人々、彼等にかの最上の吉祥あり。
大吉祥経終われり。
<5. 針毛〔夜叉〕経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は伽耶村のタンキタ石床の針毛夜叉の棲処に住したまえり。
その時、粗皮夜叉と針毛夜叉とが世尊の付近を通過せり。
時に粗皮夜叉は針毛夜叉に告げて曰く、「こは沙門なり」。
「そが沙門なりや又は似而非沙門なりやを我が知るまでは、これ沙門ならず、これ似而非沙門なり」。
時に針毛夜叉は世尊のもとに近づけり。
近づきたる後、世尊の身に近接せり。
時に世尊は身を避けたまえり。
時に針毛夜叉は世尊に申して言わく、「沙門よ、汝は我を怖るるや」。
「友よ、我は汝を怖れず。ただ汝に触るるは悪し、〔故に我は避けたり〕」。
「沙門よ、我は汝に質問をなさん。もし汝我に解答せざれば、我は汝の心を錯乱せしめん、或いは汝の心臓を引き裂かん、或いは汝の両足を捉えて恒河の彼岸に投ぜん」。
「友よ、我は天を含めたる、魔を含めたる、梵天を含めたる世界において、沙門・婆羅門を含めたる、天と人とを含めたる人々の中において、我が心を錯乱せしめ、或いは〔我が〕心臓を引き裂き、或いは〔我が〕両足を捉えて恒河の彼岸に投ずる者あるを見ず。されど友よ、汝もし〔問わんと〕欲せば問え」。
時に針毛夜叉は世尊に偈を以て申せり。
270. 貪欲と瞋恚とはいかなる因縁より起こるや、不楽と楽と身毛堅立とは何より生ずるや、何の等起によりて諸〔不善〕尋は〔善き〕意をば、童子等がカラスを放つが如くに〔放捨〕するや。
271. 貪欲と瞋恚とはこの〔身体の〕因縁より起こる、不楽と楽と身毛堅立とはここ〔身体〕より生ず、この〔身体の〕等起によりて諸〔不善〕尋は〔善き〕意をば、童子等がカラスを放つが如くに〔放捨〕するなり。
272. 〔貪欲乃至不善尋は〕親愛より生じ自己中に発生す、あたかも尼拘律樹(榕樹)に寄生木が〔生ずるが〕如く。
〔貪欲乃至不善尋は〕広く諸欲に繋箸し居れり、あたかも林中に蔓草が拡がり居れるが如く。
273. そ〔の煩悩〕がいかなる因縁より生ずるやを知る人々は、そ〔の煩悩〕を除去す。ーー夜叉よ、聞けーー彼等はこの度り難き、かつて度りたることなき、〔三界の〕暴流を度り、再有あることなし。
針毛〔夜叉〕経終われり。
<6. 法行経>
274. 〔善き〕法行と梵行とは、これ最上の力(宝)といわる。
たとい在家より非家に出家せし者なりとも、
275. もし彼麁語を語り、加害を楽しむ獣〔人〕なりせば、彼の命は〔在家よりも〕更に悪く、〔彼は〕自己の塵垢を増す〔のみ〕。
276. 争闘を楽しむ比丘は、愚痴の法によりて障えられ、〔諸善友より訓〕言せらるとも、仏の説きたまえる法を知らず。
277. 〔彼は〕自修習せし者を加害し、無明のために先行せられて、雑染が、地獄に至るべき道なることを知らず。
278. 〔彼は〕堕処(悪趣)に陥り、胎より胎に、闇より闇に〔至る〕。
かくの如きかの比丘は、死して後、〔種々の〕苦を受く。
279. あたかも糞坑が長年〔月〕に、〔糞もて〕充満して〔浄め難きが〕如く、その如く〔種々の〕汚染ある人は、清浄となること実に難し。
280. かくの如き〔比丘〕をば、諸比丘よ、家に依止せる、悪欲ある、悪思惟ある、悪き所行ある、〔悪き〕行処に至る者と知れ。
281. 〔汝等は〕すべて和合して、彼〔悪比丘〕をば避斥せよ、籾かす(悪比丘)をば吹き除け、塵芥をば取り除くべし。
282. 非沙門にして沙門なりと誇る諸の籾殻〔悪比丘〕を次に除去せよ、悪欲ありて悪き所行あり、〔悪き〕行処に至る〔悪比丘〕を吹き除け。
283. 〔相互に敬重し〕念慮し、〔自ら〕浄くして、浄き人々と〔汝等は〕共住を営め。
かくて和合せる聡明なる〔汝等〕は苦の辺際を尽くすならん。
法行経終われり。
<7. 婆羅門法経>
かくの如く我聞けり。
一時、世尊は舎衛城の祇樹給孤独園に住したまえり。
時にコーサラ国の婆羅門大家の老い年長け耆宿にして年を重ね老齢に達したる者達が世尊のもとに近づけり。
近づきたる後、世尊と共に挨拶をなせり。
喜ぶべき記憶すべき〔挨拶の〕語を交わしたる後、〔彼等は〕一方に座せり。
一方に座したる彼等婆羅門大家の者達は世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、現今の諸婆羅門は婆羅門法において往昔の諸婆羅門に合致するや否や」。
「諸婆羅門よ、現今の諸婆羅門は婆羅門法において往昔の諸婆羅門に合致せず」。
「もし卿瞿曇に支障なくば、願わくば卿瞿曇は我等に往昔の諸婆羅門の婆羅門法を説きたまえ」。
「然らば諸婆羅門よ、よく聞き作意せよ。我は説かん」。
「卿よ、唯諾」と彼等婆羅門大家の者達は世尊に答えたり。
世尊はかく宣えり。
284. 「往昔の諸の仙人苦行者は自らよく自制し居れり。〔彼等は〕五種欲をば捨てて、自己の〔真の〕利を行えり。
285. 〔往昔の〕婆羅門には家畜なかりき、黄金も財穀もあることなかりき。〔吠陀〕読誦を財とし穀としたり、梵(最上善)の庫蔵を守護したり。
286. 彼等〔婆羅門〕に〔信者等によりて〕用意せられ戸口に置かれたる食、それを〔信者等は〕信施を欲する〔諸婆羅門〕に施さんと思惟せり。
287. 種々に染めたる衣服や、〔種々の〕臥具や住居を豊富に有せる、諸の地方や国土〔の人々〕は、彼等婆羅門をば礼拝せり。
288. 婆羅門は〔神聖〕不可侵なりき、法に護られて不能勝なりき。彼等をばすべての家の戸口にて、何人も妨遮することなかりき。
289. 四十八年間、彼等は童子(無妻)梵行を行えり。往古の諸の婆羅門は明と行との遍求をなせり。
290. 婆羅門は他〔階級〕と〔結婚〕せざりき、また彼等は妻を買うことなかりき。共に相愛して交際しつつ、〔愛する者との〕共住を相楽しめり。
291. かの〔妻に近づくべき〕時以外に、月経にて遠ざかれる〔妻〕に対して、諸の婆羅門はその間には、決して婬法を行うことなし。
292. 梵行(不婬)と戒と、質直と柔軟と苦行と、柔和と不害と忍辱とを、〔彼等婆羅門は〕讃説せり。
293. 彼等の中の第一の梵者は、堅固なる努力をなせり。
彼は実に婬法をば、夢の中にてすら行わざりき。
294. 彼の禁〔戒〕を随学する、この世の一部の有識の人々は、梵行(不婬)と戒と、忍辱とをば讃説せり。
295. 米〔食〕と臥具と衣服と、酥と蜜とを乞い求め、如法に〔それらを〕受取りて、その中より施与を営めり。
〔その〕施与を行いたる際にも、彼等は決して牛達を殺さざりき。
296. 「あたかも母や父や兄妹や、或いはまた他の親戚の如く、牛達は我等の第一の友なり、彼等より〔五味の〕薬が生ず、
297. これら〔の牛の薬〕は食を与え力を与え、〔皮膚の〕光沢を与えまた楽を与う」。
〔牛に〕かかる利益あるを知りて、彼等は牛達を決して殺さざりき。
298. 〔手足〕優美に身体大に容色麗しく名声ある諸婆羅門は己が諸〔行〕法もて、行〔善〕・止〔悪〕に熱心なりき。
彼等が世に生存せし限りは、この〔世の〕人々は楽を得たり。
299. 漸次に〔世の歓楽を〕見て、彼等に顛倒〔想〕ありき。
〔即ち〕王の〔栄耀〕栄華と、よく飾れる諸の女人と、
300. 良馬に軛し善く作りたる美彩の縫付けある車駕と、〔縦横に〕区画し〔門・庭等の〕部分を測定せる〔宏荘なる〕家屋敷と、
301. 牛群の繁栄し、優れたる女等を擁したる〔世俗の〕人々の広大なる財富とを〔得んことを〕、〔彼等〕婆羅門は思考したり。
302. ここに彼等は聖典(吠陀)を編み、次に甘蔗〔王〕の所に行きて〔言えり〕。
「献供せよ、汝には多くの富あり、献供せよ、汝には多くの財あり、〔然らば来世にも〕汝は財穀多かるべし」と。
303. かくて諸車兵の主たる王は、諸の婆羅門に勧説せられて、献馬祭や献人祭や擲棒祭や、ソーマ祭や無遮会〔等〕のこれらの献供祭を行いて、〔彼等〕婆羅門に財を施せり。
304. 牛や臥具や衣服や、よく飾れる諸の女人や、良馬に軛し善く作りたる美彩の縫付けある車駕や、
305. 〔縦横に〕区画し〔門・庭等の〕部分を測定せる〔宏荘なる〕家屋敷や、種々の穀物を充満したる財〔宝〕をば諸婆羅門に施せり。
306. その時、彼等は財〔宝〕を得て、〔そを〕貯蔵することを喜べり。
欲に陥りたる彼等には、ますます渇愛が増長せり。
彼等はここに聖典(吠陀)を編み、さらに甘蔗〔王〕の所に行きて〔言えり〕。
307. 「あたかも水や地や、黄金や財穀〔等〕が、人の資具なるが如く、かく牛も人々の〔資具〕なり、献供せよ、汝には多くの富あり、献供せよ、汝には多くの財あり」と。
308. かくて諸車兵の主たる王は、諸の婆羅門に勧説せられて、幾百千の多くの牛をば、献供のために殺したり。
309. 脚を以ても角を以ても、何によりても決して害せざる牛は羊に等しく柔和にして、瓶〔を満たす程多く〕の乳を出す。
〔その〕角を捕らえて、刀もて王は彼等〔諸牛〕を殺したり。
310. かくて諸天も祖神(梵天)も、帝釈も阿修羅も夜叉も、〔王が〕刀を牛に下したれば、「非法なり」と叫びたり。
311. 往古には、欲求と食不足と老との三病〔患のみ〕ありき。
諸の家畜を殺害せしが故に、〔今や〕九十八〔の病患〕来起せり。
312. 往昔にこの諸杖罰の非法生起しあり〔しが故に〕、暴害なかりし〔牛共は〕害するに至り、諸献供者(婆羅門)は法より退失せり。
313. かくの如く往昔のこの微法(非法)は、識者によりて呵責されたり。
人々はかくの如き〔非法〕を見る毎に、献供者(婆羅門)をば呵責す。
314. かくの如く法が毀失せし時、首陀・毘舎〔の二族〕は分裂〔違和〕し、刹帝利も互いに分かれ〔争え〕り。
妻は夫を軽視せり。
315. 刹帝利も梵天の親類(婆羅門)も、〔各自〕種姓に護られたるその他の者も、〔自己の〕血統を重んぜずして、〔五〕欲に左右せらるるに至れり」。
かく言われて、彼等婆羅門大家〔の人々〕は世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、希有なり。卿瞿曇よ、希有なり。譬えば卿瞿曇よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。この我等は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。卿瞿曇は今日より以後命尽くるまで帰依せる優婆塞として我等を認受したまえ」。
婆羅門法経終われり。
<8. 船経>
316. 人が他より〔学びて〕法を識らんと欲しなば、諸天が帝釈を〔礼敬するが〕如く、彼を礼敬すべし
かの多聞者(師)は〔学人に〕礼敬せられて、彼〔学人〕に対して心喜び、〔学人に〕法を顕示す。
317. かかる〔師〕に不放逸にして親近する賢者はそ〔の法〕を聴聞し解了し、法・随法(毘鉢舎那)を行道しつつ、識者・分別者・聡慧者となる。
318. 未だ義を得ず、かつ〔他を〕羨む小〔人〕愚者に親近する者は、ここに法を弁知することなく、疑惑を越度せずして死に近づく。
319. 譬えば人あるが如し、大水の急流する河に入るに、彼は、運ばれつつ流水に従い行く、いかでか彼は他人を度すを得ん。
320. その如く、法を〔自ら〕弁知せず、諸の多聞者に義を聴聞せず、自ら知らず、疑惑を越度せずして、いかでか他を悟解せしむるを得ん。
321. また譬えば堅固なる船に乗り、橈や舵を具備し居らば、操縦法を知れるかの巧なる覚慧者は他の多くの人々をその〔船〕に〔乗せて〕度すが如く、
322. かくの如く、吠陀(四道智)に通暁し自己を修習し、多聞にして〔世間〕法に侵されざる〔不動なる〕彼は、傾聴し近習せんとの心を起こしたる他の人々を、〔まず自ら〕知解しつつ〔彼等を〕悟解せしむべし。
323. 故に実に慧ありて多聞なる善人にのみ親近すべし。
〔第一〕義を了知して行道しつつ、法を識れる彼は楽を得べし。
船経終われり。
<9. 何戒経>
324. 「いかなる戒あり、いかなる正行あり、いかなる〔身口意〕業を増長せしめば、人は正しく〔仏教中に〕定立し、また最上の義に到達すべきや」。
325. 「長上を敬い、〔他を〕羨むべからず、また師に見ゆべき時を知るべし。法説のなさるる〔を聞く〕刹那を知り、善く説かれたるを恭敬して聞くべし。
326. 強情をなくし謙遜の態度もて、時々に師の面前に行くべし。義と法と禁制と梵行とを随念すべし、かつ〔そを〕正行すべし。
327. 法楽ありて法を楽しみ、法に住立して法決定を知り、法を冒涜する語を語るべからず。善く説かれたる真理もて暮らすべし。
328. 笑喜と饒舌と悲泣と瞋怒と、謟曲と詭詐と貪求と慢と、激情と暴言と汚濁と惑溺とを捨て、憍を離れ自ら住立して行ずべし。
329. 善く説かれたるは〔聞きてそを〕識らば真髄となる、聞きかつ識りたるは定〔もて修習せばそ〕の真髄となる。性急にして放逸なる所の人、彼には慧も聞も増大することなし。
330. 聖者の宣説したまえる諸の法を喜べる人々は語と意との業によりて無上なり。彼等は寂静・柔和にして定に住立し、聞と慧との真髄に証達せるなり」。
何戒経終われり。
<10. 起立経>
331. 起立せよ、〔而して静〕座せよ、眠りて汝等に何の益かある、〔煩悩の〕矢に射られて悩み、病痛せる人々に何の眠かある。
332. 起立せよ、〔而して静〕座せよ、寂静のために懸命に学べ、死の王をして汝等の不放逸を知りて、〔汝等を〕翻弄せしめざれ。
333. 諸の天や人がそれに依止し、〔それを〕欲求し居れる所の、かの染着(渇愛)を越度せよ。
〔修習の〕刹那を〔空〕過せしめざれ、〔修習の〕刹那を過ぎたる人々は、地獄に堕して悲しめばなり。
334. 放逸は塵垢なり、放逸に続ける放逸も塵垢なり。
不放逸にして明を以て、己が〔煩悩の〕矢を抜くべし。
起立経終われり。
<11. 羅睺羅経>
335. 「共住によりて汝はしばしば賢者を軽蔑するには非ずや。人々のために〔法〕炬を掲ぐる〔教授〕者を汝は尊敬せるや否や」。
336. 「共住によりて我はしばしば賢者を軽蔑することなし。人々のために〔法〕炬を掲ぐる〔教授〕者を我は常に尊敬せり」。
〔以上は〕序偈なり。
337. 「愛すべき悦ばしき〔色声等の〕五種欲を捨て、信によりて家より出で、苦の辺際を尽くす者たれ。
338. 諸の善友に親近せよ、また遠離せる〔騒〕音なき辺地の臥坐所に〔住せよ〕。食において量を知る者たれ。
339. 衣服や食物に対して、また臥坐所や〔薬〕品に対して、これらに対して渇を起こすなかれ。再び〔輪廻の〕世界に来るなかれ。
340. 別解脱〔律儀〕において、また五根〔律義〕において〔自ら〕防護し、汝に身至念(念身)あれ。しばしば厭離(一切世間不楽想)せよ。
341. 貪を伴える浄なる相をば回避せよ。不浄〔想〕によりて善く等持せる心一境を修習せよ。
342. また無相〔三昧〕を修習せよ。慢随眠をば捨て去れ。かくて慢の止滅の故に、汝は寂静にして行ずるならん」。
かく実に世尊は尊者羅睺羅にこれらの偈を以てしばしば教誡したまえり。
羅睺羅経終われり。
<12. 鵬耆舎経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は曠野のアッガーラヴァ廟に住したまえり。
その時、尊者鵬耆舎の和尚なる尼拘盧陀劫波という長老はアッガーラヴァ廟において般涅槃して久しからざりき。
時に閑処し禅思せし尊者鵬耆舎の心にかかる思念起これり、「我が和尚は果たして般涅槃せしや、或いは般涅槃せざりしや」と。
時に尊者鵬耆舎は夕刻に禅思より出でて世尊の所に至れり。
行きて後、世尊を礼拝して一方に座せり。
一方に座せる尊者鵬耆舎は世尊に申して言わく、「尊師よ、ここに閑処し禅思せし我が心に『我が和尚は果たして般涅槃せしや、或いは般涅槃せざりしや』との思念起これり」と。
時に尊者鵬耆舎は座より立ち上がり、衣を一肩にして世尊の方に合掌を向け、偈を以て世尊に申さく、
343. 「現世にて諸疑を断じたまえる高大なる慧ある師に問い奉る。有名にして名声あり自ら寂止せる比丘がアッガーラヴァ〔廟〕にて命終せり。
344. 尼拘盧陀劫波という名は、世尊よ、尊師によりてかの婆羅門に付せられたり。堅固法の見者よ、彼は尊師を礼拝しつつ、解脱を望み勤め精進して行ぜり。
345. 釈〔尊〕よ、普眼者よ、かの声聞〔比丘〕につきて、我等すべての者は知らんと欲す。我等の耳は聞かんとて用意し居れり。尊師は我等の師なり、尊師は無上者なり。
346. 我等の疑を断じたまえ、これを我に語りたまえ。広慧者よ、〔彼が〕般涅槃せし〔や否や〕を知りて、千眼ある帝釈が諸天の〔中にて説くが〕如く、普眼者よ、我等の中にて説きたまえ。
347. この世にて愚痴の道たり、無智の類たり、疑の根拠たるあらゆる諸結縛は、これ如来に遇いては〔滅して〕あるなし。こ〔の如来〕は人々の第一眼なればなり。
348. もし実に〔この〕人(如来)が諸煩悩をば、風が密雲を〔払うが〕如く払わざれば、一切世間は〔煩悩に〕覆われて暗黒なるべし。〔舎利弗等の智〕光ある人々も輝かざるべし。
349. また諸賢者は〔世を〕照らす者なり、故に賢者よ、我は尊師をかかる人と思惟す。〔尊師を〕観慧者と知りつつ〔我等は〕近づけり。衆中にて我等に劫波につきて明かしたまえ。
350. 速やかに種々の美妙なる声を放ちたまえ。〔金〕鵠が首を挙げて〔徐に鳴くが〕如く、善く調整せる円音を徐に出したまえ。我等一切の者は〔心を〕端直にして聞かん。
351. 生死を残りなく捨断し〔煩悩を〕除遣せし〔仏〕に、乞い奉りて我は法を説かしめんとす。蓋し、諸凡夫は〔知らんと言わんと〕欲してあたわず、諸如来は慮智ありて〔知りかつ説き〕たまえばなり。
352. 端正の慧ある尊師にはこの〔凡夫を知解せしむる〕完全なる説明法がよく把握せられ居れり。〔尊師に対して〕この最後の合掌はよく向けられたり。高慧者よ、〔劫波の趣を〕知りつつ、〔我を〕無知ならしめざれ。
353. 彼この聖法を知りたる高精進者よ、〔劫波の趣を〕知りつつ、〔我を〕無知ならしめざれ。譬えば夏時に暑熱に熱せられたる者が水を〔望む〕如く、我は〔如来の〕語を望む。聞〔の雨〕を降らしたまえ。
354. そ〔の涅槃〕を目的とする梵行をば劫波師は行ぜり。そ〔の彼の梵行〕は空しからざりしや否や、彼は解脱者(無学)の如くに般涅槃せしや、又は〔有学の如く〕有余なりしや、そを我等は問う」。
355. 世尊宣わく、「彼はここに名色に対する渇愛を、〔即ち〕長時随在せし黒〔魔〕の流れを断ぜり、生と死を残りなく越度せり」、と五者の最勝なる世尊は宣えり。
356. 「第七の仙人(釈尊)よ、これを聞きて、我は尊師の語をば信楽す。我が所問は実に空しからざりき。婆羅門(世尊)は我を欺きたまわず。
357. 仏の声聞〔第子たる劫波〕は、言の如くに〔身に〕行えり。人を訛かす悪魔の拡げたる堅固なる網を彼は断ぜり。
358. 世尊よ、劫波師は取(輪転)の初(根元)を見たり。実に劫波師は度り難き死〔魔〕の領城を越えたり」。
鵬耆舎経終われり。
<13. 正普行経>
359. 「広博の慧あり、〔暴流を〕度り、彼岸に達し、般涅槃し、自ら住立したまえる牟尼に我は問う。家より出離し、諸欲を除却したる所の比丘は、いかにして正しく世間を普行すべきや」。
360. 世尊宣わく、「吉凶判断・天変地異判断・夢判断、及び占相をば根絶〔棄捨〕し、また〔その他の〕吉凶判断の過失を捨断せし所の比丘が正しく世間を普行すべし。
361. 比丘はまさに人界と天界との諸欲に対する貪を調伏すべし。有を超越し、法を証知して、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
362. 比丘は両舌を放擲し、忿と吝とをまさに捨つべし、適順(貪)と異逆(瞋)とを捨断せる、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
363. 愛と不愛とを捨て終わり、取著あるなく、何物にも依止せず、諸の結縛の縁より離脱せるかの比丘は正しく世間を普行すべし。
364. 彼は諸〔蘊〕依中に〔常楽等の〕堅実を見ず、諸取に対する欲貪を調伏すべし、彼は無依にして他に導かれず、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
365. 語をもて意をもてまた〔身〕業もて、〔善行に〕違逆せずして正しく法を知り、涅槃の句をば欲求しつつ、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
366. 『彼は我を礼す』とて自ら高ぶるなく、〔種々に〕怒罵せらるとも瞋恨せず、他より食を得ても憍るなき比丘、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
367. 貪欲と〔三界諸〕有とを捨断し、〔他有情の〕離反結合より離れ、疑惑を度り〔煩悩の〕矢を離れたる比丘、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
368. 比丘は自己の適当〔なる行道〕を知り、また世間にて何物をも害すべからず。如実に〔蘊・処・諦等の〕法を知りて、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
369. いかなる随眠もあることなく、諸の不善の根は根絶されたり。彼は意楽(渇愛)なく希求あるなし、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
370. 諸漏尽き慢を捨断し、一切の貪路を越え過ぎ、〔自ら〕調御し、円寂し、自ら住立せる、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
371. 信あり聞ありて〔正〕決定を見たる賢者は〔邪見者〕群中にありて群に従わず。貪欲と瞋恚と瞋怒とを調伏し、かの比丘は正しく世間を普行すべし。
372. よく浄もて〔煩悩に〕勝ち、〔三毒の〕覆いを開き、〔四諦の〕法に自在にして、彼岸に達し、不動となり、諸行の滅〔たる涅槃〕の智に善巧なるかの比丘は正しく世間を普行すべし。
373. 過去及び未来〔の諸蘊〕に対して、〔妄想〕分別を越度し、極めて浄き慧あり、一切〔十二〕処より離脱せるかの比丘は正しく世間を普行すべし。
374. 〔四諦の〕句を知り、〔四諦の〕法を証知し、諸漏の捨断〔せる涅槃〕を明白に見て、一切〔蘊〕依を滅尽せるが故に、かの比丘は正しく世間を普行すべし」。
375. 「世尊よ、こ〔の世尊の所説〕は誠にかくの如し。かく住し〔自ら〕調御せるかの比丘は、一切の結縛の縁を超越し居れり、彼は正しく世間を普行すべし」。
正普行経終われり。
<14. 曇弥迦経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の祇樹給孤独園に住したまえり。
時に曇弥迦優婆塞は五百の優婆塞と共に世尊のもとに近づけり。
近づきたる後、世尊を礼拝し、一方に座せり。一方に座せる曇弥迦優婆塞は世尊に偈を以て申して言わく、
376. 「広慧者瞿曇よ、我は尊師に問わん。家より非家に至る者にせよ、或いはまた在家の優婆塞にせよ、
〔仏〕弟子はいかに行わず善妙なりや。
377. 蓋し、尊師は天を含めたる世界の〔善悪の〕趣と彼岸とを知りたまい、尊師に比すべき微妙の義を見たる者なく、〔世人は〕尊師をば優れたる仏と言えばなり。
378. 尊師は証入して諸有情を憐懲つつ、一切の智と法とを説きたまう。普眼者よ、尊師は〔三毒の〕覆いを開きたまい、無垢にして一切世間を遍く照らしたまう。
379. 伊羅婆那という龍王が〔尊師を〕勝者なりと聞きて、尊師のみもとに来れり。彼も尊師と談論して証得せり。〔仏説を〕聞き、『善哉』といいて喜び去れり。
380. 毘沙門〔天〕王鳩鞞羅も法を遍く問わんとて尊師に近づけり。賢者よ、彼にも尊師は問われて語りたまえり。彼もまた〔仏説を〕聞きて喜び去れり。
381. 邪命〔外学〕にせよ、又は尼犍にせよ、論争を事とするあらゆるこれら外学は、すべて慧をもて尊師を超ゆるなし。立てる者が走り行く者を〔超えざるが〕如し。
382. 論争を事とするこれらの老婆羅門も、また〔中幼の〕あらゆる婆羅門も、又は他の〔自ら〕論客なりと考うる人々も、すべては尊師より利益を望み居れり。
383. 世尊よ、尊師の善説したまえる、この法は微妙にして楽〔を齎す〕。一切の人々はそ〔の法〕をのみ聞かんと欲す。最勝の仏よ、尊師は問われて我等に説きたまえ。
384. 一切のこれらの比丘及び優婆塞は、共に〔仏説を〕聞かんがために集座せり。諸天が天王の〔説を聞く〕如く、離垢者が随覚し善説したまえる法を〔彼等は〕聞かん」。
385. 「諸比丘よ聞け、我は汝等に〔煩悩〕除遣の法をば聞かしめん、そをすべて〔行〕持せよ。利益を見る覚慧者は出家者に随順せるかの〔行住坐臥の〕威儀を習行すべし。
386. 比丘は非時に遊行すべからず、ただ早朝に村を行乞すべし。非時行者を縛著が縛すればなり。故に諸覚者は非時に行〔乞〕せず。
387. 諸の有情に憍を生ぜしむる所の諸の色と声と香と触とのこれら諸法に対する欲を調伏して、彼は早朝に食〔のため〕に〔村に〕入るべし。
388. また比丘は早朝に食を得終わりて、独り〔村より〕帰りて密かに座すべし。自己を摂制して内を思念し、意を外に放散せしむべからず。
389. たとい彼は他の声聞と、又はいかなる比丘と共に語るとも、勝れたる法を彼に説くべし。両舌や他人の誹謗をなすべからず。
390. 蓋し、ある人々は〔誹謗の〕語に反駁す。彼等小慧者をば我等は讃歎せず。諸縛著が彼等を縛し、かくて彼等はその心をば〔聖道より〕遠ざくるが故に。
391. 勝慧ある声聞は善逝の説きたまえる法を聞き、食と住と臥坐具と、僧伽梨衣の塵垢を除く水とを、まさに省察し終わりて用うべし。
392. 故に食と臥坐具と僧伽梨衣の塵垢を除く水との、これら諸法に対して、比丘は染着することなし、なお荷葉に〔宿る〕水滴の如し。
393. いかに行う〔在家〕弟子が善妙なりや〔に関する〕、在家者の務めを次に汝等に説かん。蓋し、純然たる比丘法はこれ〔財物〕所有の〔在家〕者が達すあたわざればなり。
394. 生物を〔自ら〕害すべからず、〔他をして〕殺さしむべからず。また他の人々が殺害するを認容すべからず。世間における強剛なる、又は戦慄する一切生類に対して笞杖を蔵むべし。
395. 次に〔在家〕弟子は何物にても何処にても与えられざるを、〔他物と〕知りつつ〔そを取ることを〕回避すべし、〔他をして〕盗ましむべからず、〔人々が〕盗むを認容すべからず。一切の与えられざるを〔取ることを〕回避すべし。
396. 諸識者は非梵行(婬行)をば回避すべし、赤熱せる炭火を〔回避するが〕如く。されど梵行(不婬)を〔行うこと〕あたわざる者は、〔少なくとも〕他人の妻を犯すべからず。
397. 集会に行ける者、又は衆中にある者は、何人も何人にも妄を語るべからず、〔他をして〕語らしむべからず、〔人々が〕語るを認容すべからず。一切の不真を〔語るを〕回避すべし。
398. また飲酒をば〔自ら〕行うべからず。この〔不飲酒〕法を喜ぶ在家者は、また、〔他をして〕飲ましむべからず、〔人々が〕飲むを認容すべからず。そ〔の飲酒〕は人を狂酔せしむと知りて。
399. 蓋し、諸の愚者は酔のために諸悪を行い、また他の酔える人々をして〔悪を〕行わしむ。かかる非福の原因たる愚者の欲する狂酔痴蒙〔の飲酒〕をまさに避くべし。
400. 生物を害すべからず、与えられざるを取るべからず、妄を語るべからず、また飲酒者たるべからず、婬〔事たる〕不梵行をば離るべし、夜に非時食を食すべからず。
401. 花輪をつくべからず、芳香を用うべからず、地上に敷きたる床にのみ臥すべし。これ即ち八支の布薩なるものにして、苦辺を尽くしたまいし仏によりて説かれたり。
402. 而して半月の第十四日・第十五日、及び第八日に布薩を行うべし。また神変月に八支を具せる〔布薩〕を、信楽せる意もて欠かさず〔行うべし〕。
403. 布薩を終わりたる諸識者は次に、心信楽し随喜しつつ、翌朝早く食物と飲物とを所応に随いて比丘衆に分かつべし。
404. 如法〔に得たる財〕もて父母を養うべし。彼は正当なる商売を行うべし。かく行じつつある不放逸の在家者は、〔死して後〕、自光と名づくる天に生ず」。
曇弥迦経終われり。
小品第二〔終われり〕。
その〔小〕品の摂頌
宝と臭穢と慚と最上の吉祥と、針毛と法行と更に婆羅門法と、船経と何戒と起立とまた羅睺羅と、劫波と普行と更にまた曇弥迦と、これらの十四経が小品と言わる。
第3章・大品
<1. 出家経>
405. 有眼者(仏)はいかに出家したまいしや、彼〔世尊〕はいかに観察しつつ出家を大いに喜びたまいしや、〔仏の〕出家を我(阿難)は述べん。
406. 「家の居住はこれ狭隘にして〔煩わしく〕、塵垢の発生処なり。然るに出家は広寛にして〔煩なし〕」と見て出家したまえり。
407. 出家したる後、身による悪業を避け離れたまえり。語悪行を捨て終わりて、活命(生活)を遍く浄めたまえり。
408. 仏は〔成道前に〕マガダ国の〔首都〕ーー山に囲まれたるーー王舎城に行きたまえり。〔三十二相等の〕優れたる相に充てる〔仏〕は、行乞のために〔王舎城に〕赴きたまえり。
409. 高殿に立ち居たる〔マガダ国王〕ビンビサーラは彼〔仏〕を見たり。〔妙〕相を具足せる〔仏〕を見終わりて、〔王は近臣に〕次の義を述べたり。
410. 「汝等よ、この者を注意せよ。〔彼は〕麗容にして長大に〔顔色〕浄し。また〔彼の〕行歩は完全にして、〔眼前〕一尋を見るのみ。
411. 念ありて眼を下に投げ、彼は賤家の出の如くならず。王使をば走り遣わすべし。比丘は何処に行かんとするや〔を知らんがために〕」。´
412. 遣わされたる彼等王使は、〔仏の〕後より追い行けり。
「比丘は何処に行くならん、〔彼の〕住所は何処ならん」と〔窺いつつ〕。
413. 家毎に〔次第に〕行乞しつつ、〔根〕門を護りよく防護し、念あり正知ある〔仏〕は、〔適量を受けて〕直ちに鉢を満たしたまえり。
414. 彼牟尼は行乞を終わりて、〔王舎城〕市より外に出で、「ここを住所とせん」とて槃荼婆〔山〕に赴きたまえり。
415. 〔仏が〕住所に近づきたまえるを見て、然る後、諸の使者は近づき行けり。
而して一人の使者は〔王城に〕還りて、王に奏上して言わく、
416. 「大王よ、この比丘は、槃荼婆〔山〕の前方なる山窟中に虎や牛の如く、獅子の如く座し居れり」。
417. 使者の言を聞き終わるや、刹帝利〔王〕は麗しき乗物にて、大いに急ぎて槃荼婆山のかの所へと出で行けり。
418. かの刹帝利は乗物の〔行く〕所まで乗り、〔それより〕下乗し、歩行して近づき行き、彼〔牟尼〕の近くに行きて座せり。
419. 座し終わりて王は喜ばしき挨拶の語を喜び交せり。
彼は〔挨拶の〕語を交したる後、次の義を逃べたり。
420. 「汝は〔未だ〕若くかつ年少なり。〔人生の〕第一期に達せる青年なり。栄え行く容色を具備せり。由緒正しき刹帝利なるが如し。
421. 我は〔汝の欲する〕財物を与えん。光輝ある〔汝〕は象衆を先頭とせる、精鋭なる軍隊を受用せよ。〔我に〕問われて〔汝の〕生まれを語れ」。
422. 「王よ、雪山の山腹に、昔よりコーサラ国に住し、財と精進(勇気)とを具備せる、端直なる一民族あり。
423. その族姓を日種といい、その生族を釈迦という。王よ、その家より我は出家せり。諸欲を希求せんがために非ず。
424. 諸欲の過患を見終わりて、出離をば安穏なりと見て、〔出離のための〕精勤に我は行かんとす。我が意はこ〔の精勤〕を喜ぶ〔諸欲には非ず〕」。
出家経終われり。
<2. 精勤経>
425. 尼連禅河の畔にて、瑜伽安穏を得んがために、極めて勤め禅思し、専心に精勤せるこの我に、
426. 〔悪魔〕障解脱は悲愍の語をば、語りつつ〔我に〕近づけり。
「汝は痩せて顔色悪し、汝の死は近づけり。
427. 〔汝の〕死に千の分あり、汝の生は一分〔にすぎず〕。卿よ、生きよ、生くるが優れり。命ありてこそ諸善も行ずべけれ。
428. 汝が〔梵行者となりて〕梵行を行ぜば、また〔聖〕火に供物を献じなば、〔汝に〕多くの福は積まるべし。汝精勤して何をかなす。
429. 精勤への道は至り難く、行じ難く、到達すること難し」。
この偈を述べつつ悪魔は仏の近くに立てり。
430. かくの如く語るかの悪魔に世尊は次の如く宣えり。
「放逸の親類よ、波旬よ、汝がここに来れる目的たる
431. 〔世間の〕福は微量だも、我に用あることなし。ただ諸の福を目的とする人々に悪魔はそを説くべし。
432. 〔まず〕信あり、次に精進あり、また我に慧のあるあり。かくの如く自ら専心せる我に、いかでか汝は生を求むるや。
433. この〔精進より起こる〕風は諸河の流水をも枯渇せしむべし。いかでか自ら専心せる我が〔身の〕血は涸れざらん。
434. 〔身体の〕血が涸るる時は、胆汁も痰も涸るべし。〔身体の〕肉が滅尽する時は、心はますます静澄し、また我が念も慧も、定もますます〔よく〕住立す。
435. かくの如く住し、最高の受を得たるこの我が心は諸欲を希求せず。見よ、有情の浄きことを。
436. 汝の第一の軍は欲なり。第二〔の軍〕は不楽と言わる。汝の第三〔の軍〕は飢渇なり。第四〔の軍〕は渇愛と言わる。
437. 汝の第五〔の軍〕は惛眠なり。第六〔の軍〕は怖畏と言わる。汝の第七〔の軍〕は疑なり。覆と強情が汝の第八〔軍〕なり。
438. 利得と名誉と恭敬と、邪〔行〕もて得たる名声と、また自己を賞揚すると、他人を貶下するとは、
439. これ障解脱よ、汝の軍なり、〔汝〕黒〔魔〕の軍勢なり。勇なき者はそれに勝たず、〔勇者は〕勝ち終わりて楽を得。
440. 我は〔勝者として〕文邪草を著けん。ここに〔汝に敗れたる〕生命は厭わしきかな。もし我敗れて生きんよりは、戦いて死すこそ優れたれ。
441. 一部の沙門婆羅門は、ここに沈没して見えず。また諸の善行者が辿り行く、かの〔涅槃への〕道をも知らず。
442. 用意怠らずして駕象に乗れる悪魔の軍勢を四方に見て、我は戦わんとて立ち向う。我は〔この〕場より動ぜしめられず。
443. 天を含めたる〔一切〕世間〔の人々〕は、汝のかの軍に堪え〔勝た〕ざるも、我は汝の軍をば慧もて破る。石もて生の〔土〕鉢を〔破るが〕如く。
444. 〔止悪行善し〕思惟を自由にし、また念をよく住立せしめ、国より国へ我は遊行せん、広く諸弟子を化導しつつ。
445. 我が教を行ずる彼等〔諸弟子〕は、不放逸にして自ら専心なり。そこに至らば憂いあるなき無欲〔涅槃〕に彼等は至るべし」。
446. 「七年間我は世尊に付き纏いて従いたり。〔されど〕念ある正覚者に、〔乗ずべき〕機会を得ざりき。
447. 脂肪の色ある石〔の周囲〕を『恐らくここに柔らかきものあらん、恐らく〔この石に〕美味あらん』とてカラスが歩き廻るが如し。
448. そこに美味を得ずして、カラスはここを捨て去る。石に近づけるカラスの如く、我等は瞿曇を厭いて去る」。
449. 憂悶に敗れたる彼〔悪魔〕の脇より琵琶は落ちたり。
かくて意気消沈せるかの夜叉はそこにてすなわち消失したり。
精勤経終われり。
<3. 善説経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の祇樹〔給孤独園〕に住したまえり。
〔時に世尊は諸比丘に告げたまえり。
「諸比丘よ」、「尊師よ」と彼等諸比丘は世尊に答えたり。〕
世尊はかく宣えり。
「諸比丘よ、四支を具備せる語は善説にして悪説ならず、無罪にして諸識者に非難せられず。いかんが四〔支〕なる。諸比丘よ、ここに比丘あり。善説のみを語り、悪説を〔語ら〕ず。法のみを語り、不法を〔語ら〕ず。愛〔語〕のみを語り、不愛〔語〕を〔語ら〕ず。真実のみを語り、虚偽を〔語ら〕ず。諸比丘よ、これらの四支を具備せる語は善説にして悪説ならず、無罪にして諸識者に非難せられず」。
世尊はかく説きたまえり。
善逝はかく説き終わりて、師〔世尊〕はまた更に宣えり。
450. 「善人は最上の善説を説く、〔これ第一なり〕。法を語り不法を〔語る〕べからず、これ第二なり。愛〔語〕を語り、不愛〔語〕を〔語る〕べからず、これ第三なり。真実を語り、虚偽を〔語る〕べからず、これ第四なり」。
時に尊者鵬耆舎は座より立ちて衣を一肩にし、世尊の方に合掌を向け、世尊に申して言わく、「善逝よ、〔世尊所説の義を〕我は明解せり」。
「鵬耆舎よ、汝の明解に任す」と世尊は宣えり。
時に尊者鵬耆舎は〔世尊の〕面前にて適当なる諸偈を以て世尊を讃歎せり。
451. 「自己を苦しめず、また他人を害せざるが如き語のみを語るべし。これ実に善説の語なり。
452. 歓び迎えらるる所の語、〔即ち〕愛語のみを語るべし。諸の悪〔語〕を用いずして、他人に愛〔語〕をば語るべし。
453. 真実は実に甘露の語なり。これ往昔よりの〔永遠の〕語なり。善人は真実の上に、義の上に、また法の上に住立せりと言わる。
454. 仏が涅槃に達せんがために、苦の辺際を尽くさんがために、説きたまう所の安穏の語は、これ実に諸語中にて最上なり。
善説経終われり。
<4. 孫陀利迦婆羅堕闍経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊はコーサラ国の孫陀利迦河畔に住したまえり。
その時、孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は孫陀利迦河畔にて〔聖〕火を祀り火への供養を行じたり。
時に孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は火を祀り火への供養を行じ終わりて、座より起ち、遍く四方を眺めたり、「この供物の残りを誰に受けしむべきや」とて。
孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は遠からざる一樹下に世尊が頭まで〔衣を〕纏いて座したまえるを見たり。
見終わりて左手もて供物の残りを持ちて世尊の所に近づき行けり。
時に世尊は孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門の足音を聞きて頭を開けたまえり。
時に孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は、「この尊は円頂なり、この尊は坊主なり」とてそこより更に引き返さんと欲せり。
時に孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門はかく思念せり、「円頂なりといえども、この世にて一部の人々は婆羅門もあり、いざ我は近づきて生まれを問わばや」と。
かくて孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は世尊の所に近づけり。
近づきて世尊に申して言わく、「尊はいかなる生まれの者なりや」。
時に世尊は孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門に偈を以て説きたまえり。
455. 「我は婆羅門に非ず、王子(刹帝利)に非ず。毘舎族にも非ず、又は〔他の〕何者にも非ず。諸の凡夫の姓(五蘊)を遍く知りて、無一物にして慧もて世間を遊行す。
456. 僧伽梨衣を着け、家なくして我は遊行す。〔鬚〕髪を剃り自〔心〕を寂滅せしめ、この世にて人々に染着することなし。婆羅門よ、汝は我に不適当なる姓の質問をなせり」。
457. 「尊よ、〔我等〕婆羅門は婆羅門と〔会える時〕、『尊は婆羅門なりや否や』と問う〔を習いとす〕」。
「汝もし〔自ら〕婆羅門なりと言わば、非婆羅門たる我に〔答えて〕言え。我は汝に三句二十四字なるかの娑毘底(吠陀の讃歌)を問う」。
458. 「何のために仙人や刹帝利や婆羅門や〔その他の〕人々はこの世間にて諸天神に多く供養を営みしや」。
「極に達し吠陀に達したる者が、供養時に人の供物を受けなば、そ〔の供養〕は有効なるべしと我は言う」。
459. 婆羅門曰く、「我が〔今〕見えたるかかる吠陀の達人、彼への供養は実に有効なるべし。〔従来〕尊師の如きを見ざりしかば、他の〔無資格の〕人々に献菓を施せり」。
460. 「〔汝は我に信楽せり〕それ故に婆羅門よ、義を求むる汝は〔我に〕近づきて問え。恐らくここに〔汝は〕寂静者・無煙〔忿〕者、無苦者・無求者・善慧者を発見せん」。
461. 「卿瞿曇よ、我は供養を楽しめり。供養を行わんと欲するも、我は知らず。卿は我に〔供養の方法を〕教えたまえ。何処への献供が有効なりや、そを我に語りたまえ」。
「然らば汝婆羅門よ、耳を傾けよ。我は汝に〔供養の〕法を説示せん。
462. 生まれを問うなかれ、ただ行を問え。実に火は〔あらゆる〕薪より生ず。卑賤の家の者といえども、牟尼、有智者・高貴者・慚慎者あり、
463. 〔真〕諦もて〔自ら〕調練し、〔諸根を〕調御し、吠陀の極に達し,梵行すでに成じたる人、かかる人に時々に供物を供うべし。福を望む婆羅門は彼を供養すべし。
464. 諸欲を捨て家なくして行じ、善く自ら制し梭の如く端直なる人々に時々に供物を供うべし。福を望む婆羅門は彼を供養すべし。
465. 貪を離れ善く諸根を〔寂静に〕等持し、月が羅睺の手を〔脱せる〕が如く〔煩悩を〕脱せる人々に時々に供物を供うべし。福を望む婆羅門は彼を供養すべし。
466. 執着あることなく、常に念あり、我意を捨てて世間を遊行する人々に時々に供物を供うべし。福を望む婆羅門は彼を供養すべし。
467. 諸欲を捨て〔諸欲に〕打ち勝ちて行じ、生と死との辺際を知り、寂滅して湖水の如く清涼なる如来は献菓〔を受くる〕に値す。
468. 如来は諸等者(諸仏)に等しく、諸不等者より遠ざかり、無辺の慧あり、この世にても他世にても染着なき、如来は献菓〔を受くる〕に値す。
469. 諂あることなく慢なく、貪欲を離れ我意なく求めなく、怒りを除き自ら寂滅し、憂垢を断じたるかの婆羅門〔即ち〕如来は献菓〔を受くる〕に値す。
470. 意の住著を既に断じ、何らの執着あることなく、この世にてもかの世にても取著なき如来は献菓〔を受くる〕に値す。
471. 〔心〕等持して暴流を度り、最上の見を以て法を知り、漏尽きて最後身となれる如来は献菓〔を受くる〕に値す。
472. 有漏と粗悪の語とは、除遣せられ滅没して存せず、吠陀に達し一切処にて解脱せる如来は献菓〔を受くる〕に値す。
473. 染着を超え、染着あることなく、慢ある有情中にて慢あるなく、田事(因縁)と共に苦を遍く知り、如来は献菓〔を受くる〕に値す。
474. 意欲に依らず、遠離を見、他人の説く〔異端の〕見を超越し、〔煩悩を起こす〕何らの所縁なき、如来は献菓〔を受くる〕に値す。
475. 彼この諸法を証知し、〔それらを〕除遣し滅没せしめて無くし、寂静となり取尽きて解脱せる如来は献菓〔を受くる〕に値す。
476. 結(煩悩)と生との究竟滅尽を見、貪路を残りなく斥除し、浄く、過なく、垢を離れ、碍なき如来は献菓〔を受くる〕に値す。
477. 自ら己我を観ることなく、〔心〕等持し、〔身〕端正にして自ら住し、不動にして〔心〕栽なく疑惑なき如来は献菓〔を受くる〕に値す。
478. 愚痴の原因(煩悩)毫もあるなく、一切諸法に対する智見あり、また最後の身体を持ち〔再有なく〕、吉瑞ある無上の正覚に達せるーー以上もて人〔心〕は浄まるーー如来は献供〔を受くる〕に値す」。
479. 「尊師の如き吠陀の達人を得たるが故に、我が供養は真実の供養にてあれかし。蓋し、梵天(如来)は〔真実の供養の〕証人なり。世尊は我が〔献菓を〕受けたまえ。世尊は我が献菓を食したまえ」。
480. 「偈を唱え〔て得〕たるは我が食すべきに非ず。婆羅門よ、こ〔の偈による受食〕は諸の正見者の法に非ず。諸仏は偈を唱え〔て得〕たるものを退けたまう。婆羅門よ、法ある時、それ〔のみ〕を〔諸仏は〕行う。
481. 而して一切〔諸徳〕を有し、漏尽き、疑惑を消滅したる〔我〕大仙をば、〔偈による以外の〕他の飲食もて供養せよ。彼〔仏〕は福を望む者の〔福〕田たればなり」。
482. 「世尊よ、いかなる人が我が如き者の施を食すべき人なりや、願わくば我識らんと欲す。尊師の教を受けて、供養時に〔我は〕、かかる人を遍く求めて〔供養せんと欲す〕」。
483. 「強情を離れたる者、その心混乱なき者、また諸欲を解脱したる者、昏沈を除去したる者
484. 諸の越境(煩悩)を調伏したる者、生と死をば明察したる者、牟尼性(智)を具備せる牟尼、かかる者が供物〔を受け〕に来れる時、
485. 〔彼に対する〕顰蹙を調伏し、〔彼に〕合掌し礼拝せよ。飲食物を以て〔彼を〕供養せよ。かくせば〔その〕施は有効なり」。
486. 「尊師仏陀は献菓〔を受くる〕に値す。〔尊師は〕無上の福田なり。一切世間の受献者なり。尊師に施さば大果あり」。
時に孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は世尊に申して言わく、「「卿瞿曇よ、希有なり。卿瞿曇よ、希有なり。譬えば卿瞿曇よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。この我は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。我は卿瞿曇のもとにて出家を得んと欲す、具足〔戒〕を得んと欲す」。
孫陀利迦婆羅堕闍婆羅門は〔世尊のもとにて出家を得、具足〔戒〕を得たり。
而して具戒後久しからずして、尊者孫陀利迦婆羅堕闍は独一に遠離し、不放逸に熱心に精勤し住して、久しからずしてーー諸の善男子が正に家より非家に出家するの目的たるーー無上の梵行の終局〔即ち涅槃〕をば現世にて自ら知通し作証し具足して住せり、「生すでに尽き、梵行すでに成じ、所作すでに弁じ、更にかかる〔輪廻苦界の〕状態に至らず」と了知せり。
かくて尊者孫陀利迦婆羅堕闍は〕阿羅漢の一人となれり。
孫陀利迦婆羅堕闍経終われり。
<5. 摩伽経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は王舎城の霊鷲山に住したまえり。
時に摩伽学童は世尊の所に近づけり。
近づきたる後、世尊と共に挨拶せり。
喜ぶべき記憶すべき挨拶の語を交わして一方に座せり。
一方に座したる摩伽学童は世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、我は施者たり施主たり、寛仁にして〔他の〕求めに応じ、法によりて財を遍求す。法によりて財を遍求し終わりて、如法に得たる如法に儲けたる諸財を以て一人にも施す、二人にも施す、三人にも施す、四人にも施す、五人にも施す、六人にも施す、七人にも施す、八人にも施す、九人にも施す、十人にも施す、二十人にも施す、三十人にも施す、四十人にも施す、五十人にも施す、百人にも施す、それ以上の人にも施す。卿瞿曇よ、我はかくの如く施し、かくの如く供養するに、多くの福を生ずるや否や」。
「学童よ、汝はかくの如く施し、かくの如く供養するに多くの福を生ず。学童よ、施者たり施主たり、寛仁にして〔他の〕求めに応じ、法によりて財を遍求す。法によりて財を遍求し終わりて、如法に得たる如法に儲けたる諸財を以て一人にも施す、乃至百人にも施す、それ以上の人にも施す。かかる人は多くの福を生ず」。
時に摩伽学童は偈を以て世尊に申せり。
487. 摩伽学童曰く、「我は袈裟を着け家なくして遊行する、寛仁なる尊瞿曇に問う。福を求め福を望みて供養し、〔他の〕求めに応ずる在家施主が、この世にて他人に飲食物を施すに、献供者には何処への供養が浄きや」。
488. 世尊宣わく、「摩伽よ、福を求め福を望みて供養し、〔他の〕求めに応ずる在家施主が、この世にて他人に飲食物を施すに、応施者(聖者)に施さば彼は幸あるべし」。
489. 摩伽学童曰く、福を求め福を望みて供養し、〔他の〕求めに応ずる在家施主が、この世にて他人に飲食物を施すに、応施者(聖者)をば、世尊よ、我に語りたまえ」。
490. 「無一物にして一切〔諸徳〕あり、自ら制し、実に染着なくして世間を遊行する人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
491. 一切の結縛を断じ、〔諸根を〕調御し、解脱して苦なく欲求なき所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
492. 一切の結を解脱し、〔諸根を〕調御し、解脱して苦なく欲求なき所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
493. 貪欲と瞋恚と愚痴とを捨断し、諸漏尽き梵行すでに成じたる所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
494. 謟あることなく、慢なく、貪欲を離れ、我意なく欲なき所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
495. 諸の渇愛に陥ることなく、暴流を度り、我意なくして行ずる所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
496. この世にても彼の世にても、いかなる世界にても、種々なる有への渇愛あるなき、人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
497. 諸欲を捨て、家なくして遊行し、善く自ら制し、梭の如く端直なる人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
498. 貪欲を離れ善く諸根を等持し、月が羅睺の手を〔脱したる〕が如く〔煩悩を〕脱したる人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
499. 〔自ら〕寂上し、貪欲を離れ、怒るなくこの世の〔五蘊を〕捨断して趣あるなき人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
500. 生と死とを残りなく断じ、一切の疑惑を超えたる所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
501. 自己〔の徳〕を依所として世間を遊行し、無一物にして一切処にて解脱せる人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
502. 『これ最後〔有〕なり、再有あるなし』とかくこの世にて如実に知る所の人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ。
503. 吠陀に達し、禅を楽しみ、念あり、正覚を得て多くの〔人天の〕帰依処たる人々は時々に供物を受くべき人なり。福を望む婆羅門は〔彼等に〕供養せよ」。
504. 「実に我が質問は空しからざりき。世尊は我に応施者を説きたまえり。蓋し、尊師にはこの法〔界〕が知られ居るが故に、尊師はこの世にてかく如実に知りたまえばなり」。
505. 摩伽学童曰く、「福を求め、福を望みて供養し、〔他の〕求めに応ずる在家施主が、この世にて他人に飲食物を施すに、完全なる供養〔法〕を世尊よ、我に語りたまえ」。
506. 世尊宣わく、「摩伽よ、供養せよ、供養するには、一切〔三〕時に心を欣浄ならしめよ。〔かく〕供養せば所縁(財物)は〔真の〕施物となる、この際〔彼は〕住立して過悪を断ず。
507. 彼は貪欲を離れ瞋恚を調伏し、慈無量心をば修習しつつ、日夜常に不放逸にして、一切諸方に無量〔心〕を遍満せしむ」。
508. 「誰が浄まり解脱するや、また〔誰が〕縛せらるるや。何によりて自ら梵天界に至るや。牟尼よ、知らざる我に、問われて語りたまえ。世尊よ、我は今日面り梵天を見たり。尊師は真に我等の梵天に等しければなり。光り輝く人よ、いかにせば梵天界に生ずるや」。
509. 世尊宣わく、「摩伽よ、三種のものの完具せる供養を行う者、かかる人は〔受施せる〕応施者と共に幸あるべし。かく供養して正しく求めに応ずる者は、梵天界に生ずと我は言う」。
かく言われて、摩伽学童は世尊に申して言わく、「卿瞿曇よ、希有なり。〔卿瞿曇よ、希有なり。譬えば卿瞿曇よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。この我は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。卿瞿曇は〕今日より以後命尽くるまで帰依せる優婆塞として我を認受したまえ」。
摩伽経終われり。
<6. 薩毘耶経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は迦蘭陀竹林園に住したまえり。
その時、薩毘耶普行者に、昔の血縁者たる一天神によりて、「薩毘耶よ、沙門又は婆羅門にして汝が問えるこれらの質問に解答〔し得〕る者のもとにて汝は梵行を行ずべし」とて、質問が提示せられたり。
時に薩毘耶普行者はその天神のもとにてそれらの質問を把持し終わりて、沙門婆羅門にして〔弟子〕衆あり、群あり、群の師たり、有名にして名声あり、宗祖にして多くの人々に善く評判せらるる者、いわゆる不蘭迦葉・末伽梨瞿舎羅・阿耆多翅舎欽婆羅・波拘陀迦旃延・散若耶毘羅弗多・尼犍若提子〔の六師なる〕彼等の所に至りて、それらの質問をなせり。
彼等は薩毘耶普行者に質問せられて、満足に答うること能わざりき。
満足に答えずして怒と瞋と不機嫌とを現わし、しかも薩毘耶普行者に反問せり。
時に薩毘耶普行者は思念すらく、「尊沙門婆羅門にして〔弟子〕衆あり、群あり、群の師たり、有名にして名声あり、宗祖にして多くの人々に善く評判せらるる者、いわゆる不蘭迦葉乃至尼犍若提子〔の六師なる〕彼等は我に質問せられて満足に答うること能わず。
満足に答えずして怒と瞋と不機嫌とを現わし、しかもこれに関して我に反問す。
いでや我は劣位(在家の状態)に転じて諸欲を受用せばや」と。
時に薩毘耶普行者は〔更に〕思念すらく、「この沙門瞿曇も〔弟子〕衆あり、群あり、群の師たり、有名にして名声あり、宗祖にして多くの人々に善く評判せらる。
いでや我は沙門瞿曇の所に至りてこれらの質問をなさばや」と。
時に薩毘耶普行者は〔更に〕思念すらく、「尊沙門婆羅門にして老い長じ耆宿にして年を重ね老齢に達し、長老にして経験多く、久しく出家し、〔弟子〕衆あり、群あり、群の師たり、有名にして名声あり、宗祖にして多くの人々に善く評判せらるる者、いわゆる不蘭迦葉乃至尼犍若提子〔の六師なる〕彼等すら、我に質問せられて満足に答うること能わざりき。満足に答えずして怒と瞋と不機嫌とを現わし、しかもこれに関して我に反問せり。然らばいかでか沙門瞿曇は我にこれらの質問をせられて解答〔し得〕べけんや。蓋し、沙門瞿曇は生年も若く、出家も新しければなり」と。
時に薩毘耶普行者は〔更に〕思念すらく、「沙門は若しとて軽視すべからず、侮蔑すべからず。たとえ沙門は若しといえども、しかも彼は大神変大威力あり。我は沙門瞿曇の所に至りてこれらの質問をなさばや」と。
時に薩毘耶普行者は世尊の〔所住〕所に〔向かいて〕旅立てり。
次第に旅行しつつ、王舎城の迦蘭陀竹林園の世尊の所に近づけり。
近づきたる後、世尊と共に挨拶せり。
喜ぶべく記憶すべき挨拶の語を交わしたる後、一方に座せり。
一方に座したる薩毘耶普行者は偈を以て世尊に申して言わく、
510. 薩毘耶曰く、「疑惑あり疑いありて、質問をなさんと欲して我は来れり。我がためにそれら〔質問〕の終息者となりたまえ。我に質問せられて、順次に法に随いて我に解答したまえ」。
511. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、汝は質問をなさんと欲して遠方より来れり。汝のためにそれら〔質問〕の終息者と我はならん。汝に質問せられて、順次に法に随いて我は汝に解答せん。
512. 薩毘耶よ、汝が意に欲する所を、何事にても我に質問せよ。我は汝がためにそれぞれの質問をして終息せしめん」。
時に薩毘耶普行者は思念すらく、「実に尊〔瞿曇〕は希有なり。実に尊〔瞿曇〕は未曾有なり。実に我は他の諸の沙門婆羅門にありては〔質問すべき〕余地すらをも得ざりしに、沙門瞿曇は我がために〔質問を〕なす余地を与えたり」とて意悦び歓喜踊躍し、喜悦を生じて世尊に質問せり。
513. 薩毘耶曰く、「何を得たる者を比丘と言うや。何によりて柔和者となるや。いかにして調御者と言うや。いかにして仏と言わるるや。世尊よ、我に問われて答えたまえ」。
514. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、自ら〔修習〕せる道によりて、般涅槃に至り、疑惑を度り、非有と有とを捨断し、〔梵行〕すでに成じ、再有を滅尽せる、これ比丘なり。
515. 一切処にて捨あり、念を有し、一切世間にて何物をも害するなく、〔暴流を〕度り、混濁なき沙門にして、増盛(煩悩)あるなき、これ柔和者なり。
516. 内と外との一切世間において、諸根を〔調御して〕修習し、この〔世〕と他世とを洞察して、修習せる者、これ調御者なり。
517. 一切の〔妄想〕分別と輪廻と、死と生との両者とを弁知し、塵を離れ穢汚なく清浄なる、生の滅尽を得たる、これ仏と言う」。
時に薩毘耶普行者は世尊の所説を大いに喜び随喜し、意悦びて歓喜踊躍し、喜悦を生じて、更に世尊に質問をなせり。
518. 薩毘耶曰く、「何を得たる者を婆羅門と言うや。何によりて沙門なりや。いかにして沐浴者と〔言う〕や。いかにして龍象と言わるるや。世尊よ、我に問われて答えたまえ」。
519. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、一切の諸悪を退け、垢を離れ、善く〔心を〕等持して自ら住立し、輸廻を越えて一切〔功徳〕あり、依止なき者はこれ婆羅門と言わる。
520. 寂静にして善悪を捨断し、塵を離れこの〔世〕と他世とを知り、生と死とを超越せるが如き、かかる者はそれ故に沙門と言わる。
521. 内と外との一切世間の、一切の諸悪をば洗い落とし、時間的(輪廻的)なる天と人〔の世界〕にて、時間(輪廻)に入らざる、これ沐浴者と言う。
522. 世間にて何等の罪悪をも行わず、一切の結の結縛を捨離し、一切処にて解脱し染着せざる、かかる者はそれ故に龍象と言わる」。
時に薩毘耶普行者は〔世尊の所説を大いに喜び随喜し、意悦びて歓喜踊躍し、喜悦を生じて、〕更に世尊に質問をなせり。
523. 薩毘耶曰く、「諸仏は誰を田の勝者と説くや。何によりて善巧なりや。いかにして賢者なりや。いかにして牟尼と言わるるや。世尊よ、我に問われて答えたまえ」。
524. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、天と人と梵天との田なる一切の田をば弁知して、一切田の根本縛を解脱せる、かかる者はそれ故に田の勝者と言わる。
525. 天と人と梵天との蔵なる一切の蔵をば弁知して、一切蔵の根本縛を解脱せる、かかる者はそれ故に善巧者と言わる。
526. 内と外との両者の白きを弁知して浄慧あり、黒自を超越せるが如き、かかる者はそれ故に賢者と言わる。
527. 内と外との一切世間において、不善と善との法を知りて、天と人よりの供養に値し、著と網とを越えたる、これ牟尼なり」。
時に薩毘耶普行者は〔世尊の所説を大いに喜び随喜し、意悦びて歓喜踊躍し、喜悦を生じて、〕更に世尊に質問をなせり。
528. 薩毘耶曰く、「何の得者を吠陀の逹人と言うや。何によりて随知者なりや。いかにして具精進者なりや。いかなる者を貴族と言うや。世尊よ、問われて我に答えたまえ」。
529. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、沙門と婆羅門とに存する、一切の吠陀をば弁知し、一切の諸受に対する貪を離れ、一切の受を超ゆる、これ吠陀の達人なり。
530. 内と外との病根たる障礙と名色とを随知して一切病根の縛を解脱せる、かかる人はそれ故に随知者と言わる。
531. この世の一切諸悪を離れ、地獄の苦を越えて精進あるかの精勤を有する賢者、かかる人はそれ故に具精進者と言わる。
532. 諸の縛と内と外との染着の根本を断除し、一切染着の根本縛を解脱せるかかる人はそれ故に高貴者と言わる」。
時に薩毘耶普行者は〔世尊の所説を大いに喜び随喜し、意悦びて歓喜踊躍し、喜悦を生じて〕更に世尊に質問をなせり。
533. 薩毘耶曰く、「何を得たる者を聞解者と言うや。何によりて聖者なりや。またいかにして具行者なりや。いかなる者を普行者というや。世尊よ、我に問われて答えたまえ」。
534. 世尊宣わく、「薩毘耶よ、聞き終わりて世間に存するあらゆる有罪無罪の一切諸法を知通せる、征勝者・無疑惑者・解脱者、一切処にて苦なき者を聞解者と言う。
535. 諸の漏と阿頼耶(執着)とを断じ、知り終わりて母胎に赴くことなく、三種の想と游泥(欲)とを除去し、〔妄想〕分別に至らざる、これを聖者と言う。
536. この〔教〕中にて行もて得べきを得、善巧にして一切時に〔涅槃〕法を知り、一切処にて執着なくして解脱し、瞋恚あるなき者はこれ有行者なり。
537. 上と下と横と中(過去現在未来)の苦果を招くべきあらゆる業を回避し、謟と慢とまた貪と忿とを遍知して行じ、名色の辺際を尽くせるかの得べきを得たる者を普行者と言う」。
時に薩毘耶普行者は世尊の所説を大いに喜び随喜し、意悦び歓喜踊躍し、喜悦を生じ、座より起ち上りて上衣を一肩となし、世尊の所に合掌を向け、面前にて適当なる偈を以て世尊を讃歎せり。
538. 「沙門の論争に依上〔して起これ〕る、言説・文字・〔顛倒〕想に依止〔して起これ〕る、六十と三の異端説を調伏して、広慧者は暴流〔の闇〕を度りたまえり。
539. 苦の辺に至り、彼岸に到りたまえり。尊師は阿羅漢・等正覚者なり。尊師を漏尽者なりと我は思う。〔尊師は〕光輝あり、覚慧あり、博慧あり。尽苦際者よ、師は我を度したまえり。
540. 我に疑惑あるを知りたまえり。我を疑より度したまえり。牟尼よ、牟尼道の頂を極めたる者よ、尊師に帰命す。〔心〕裁なき日種よ、尊師は柔和なり。
541. かつて我に疑惑の存せしに、具眼者はそを我に解答したまえり。牟尼よ、尊師は確かに正覚者なり。尊師に諸蓋あることなし。
542. 而して尊師の苦悩はすべてこれ砕破せられ断滅せられたり。清涼となり、調御を得たまう。〔尊師は〕心堅固にして誠実なり。
543. かの龍象中の龍象にして大雄たる尊師の説法に、一切の天も那羅陀・鉢婆多の両〔神〕も、〔共に〕随喜するなり。
544. 人中の高貴者よ、尊師に帰命す。人中の最上者よ、尊師に帰命す。天を含めたる〔一切〕世界において、尊師に匹敵すべき者あるなし。
545. 尊師は仏なり、尊師は師なり。尊師は魔の征勝者なり、牟尼なり。尊師は諸の随眠を断じ終わり、〔自ら〕度り、この人々を度したまう。
546. 尊師は依をよく超えたまえり。尊師は諸漏を破壊したまえり。尊師は取著なき獅子なり。怖畏・恐怖の捨断者なり。
547. 譬えば麗しき蓮華が〔泥〕水に塗着せざるが如く、かく尊師は善と悪との両者に塗着したまわず、勇者よ、両足を出したまえ、薩毘耶は師を礼拝せん」。
時に薩毘耶普行者は世尊の両足に頭〔面〕を伏せて世尊に申して言わく、「希有なり、尊師よ。〔希有なり、尊師よ。譬えば尊師よ、倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く尊師は多くの教説もて法を説きたまえり。この我は尊師と〕法と比丘衆とに帰依す。我は尊師世尊のもとにて出家を得んと欲す、具足〔戒〕を得んと欲す」。
「薩毘耶よ、かつて異学徒たりし者がこの〔仏教の〕法と律とにおいて出家を望み具足〔戒〕を望むときは、彼は四ヶ月間別住す〔べし〕。四ヶ月を過ぎて、心決定せる諸比丘が〔彼を〕出家せしめ具足せしめて比丘となす。されどこの場合、人によりて相違あり、〔汝は四ヶ月の別住に及ばずして出家することを得〕」。
「尊師よ、もしかつて異学徒たりし者がこの〔仏教の〕法と律とにおいて出家を望み具足〔戒〕を望むときは、彼は四ヶ月間別住し、四ヶ月を過ぎて、心決定せる諸比丘が〔彼を〕出家せしめ具足せしめて比丘となす〔べき規定〕ならば、我は〔四ヶ月のみならず〕四ヶ年間別住せん。四ヶ年を過ぎて、心決定せる諸比丘が〔我を〕出家せしめ具足せしめて比丘となさんことを」。
〔されど即座に〕薩毘耶普行者は世尊のもとにて出家を得、具足〔戒〕を得て比丘となれり。
〔而して具戒後久しからずして、尊者薩毘耶は独一に遠離し、不放逸に熱心に精勤し住して、久しからずしてーー諸の善男子が正に家より非家に出家するの目的たるーー無上の梵行の終局〔即ち涅槃〕をば現世にて自ら知通し作証し具足して住せり、「生すでに尽き、梵行すでに成じ、所作すでに弁じ、更にかかる〔輪廻苦界の〕状態に至らず」と了知せり。
かくて〕尊者薩毘耶は阿羅漢の一人となれり。
薩毘耶経終われり。
<7. 施羅経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は大比丘衆千二百五十人と共に鴦崛多羅波国を遊行し、阿波那と名づくる鴦崛多羅波国のある町に入りたまえり。
結髪〔苦行者〕鶏尼耶は〔かかる噂を〕聞けり、「実に釈〔迦族の〕子なる沙門瞿曇は釈迦族より出家し、千二百五十人の大比丘衆と共に鴦崛多羅波国を遊行し、阿波那に到着せり。而してかの尊瞿曇には、『彼世尊は阿羅漢・等正覚者・明行具足者・善逝・世間解・無上者・調御丈夫・天人師・仏・世尊とも言わる。彼は自ら知通し作証して、天を含めたる悪魔を含めたる梵天を含めたるこの〔一切〕世界に〔教説し〕、沙門婆羅門を含めたる天と人とを含めたる人々に教説す。彼は初善・中善・後善にして義あり文ある法を説き、全く完全にして遍浄なる梵行を説き明かす』という善き名声あがり居れり。然らばかくの如き阿羅漢に見ゆることは幸福なり」と。
時に結髪〔苦行者〕鶏尼耶は世尊の所に近づけり。
近づきたる後、世尊と共に挨拶をなせり。
喜ぶべく記憶すべき挨拶の語を交わしたる後、一方に座せり。
一方に座したる結髪〔苦行者〕鶏尼耶に世尊は説法を以て教示し鼓舞し激励し悦喜せしめたまえり。
時に結髪〔苦行者〕鶏尼耶は世尊より説法を以て教示・鼓舞・激励・悦喜せしめられて、世尊に申して言わく、「尊瞿曇は比丘衆と共に明日の食を〔我より受くることを〕我に聴許したまえ」。
かく言われて、世尊は結髪〔苦行者〕鶏尼耶に宣えり、「鶏尼耶よ、比丘衆は多く、千二百五十人なり。しかも汝は諸の婆羅門を信奉し居れり、〔故に婆羅門に施食し更に我が大比丘衆に供養するは汝の大負担なり。されば我等に供養することを止めよ〕」。
再びまた結髪〔苦行者〕鶏尼耶は世尊に申して言わく、「尊瞿曇よ、たとえ比丘衆は多く、千二百五十人なりとも、かつ我は諸の婆羅門を信奉し居れりとも、尊瞿曇は比丘衆と共に我が明日の食を〔受くることを〕聴許したまえ」。
再びまた世尊は結髪〔苦行者〕鶏尼耶に宣えり、「鶏尼耶よ、比丘衆は多く、千二百五十人なり。しかも汝は諸の婆羅門を信奉し居れり」。
三たびまた結髪〔苦行者〕鶏尼耶は世尊に申して言わく、「尊瞿曇よ、たとえ比丘衆は多く、千二百五十人なりとも、かつ我は諸の婆羅門を信奉し居れりとも、尊瞿曇は比丘衆と共に我が明日の食を〔受くることを〕聴許したまえ」。
世尊は沈黙によりて聴許したまえり。
かくて結髪〔苦行者〕鶏尼耶は世尊の聴許を知りて、座より立ち上がり、己が住院に〔帰り〕近づけり。
帰りたる後、諸の友人・同僚・親戚・縁者に告げたり、「皆々友人・同僚・親戚・縁者よ、我〔が言〕を聞け。我は沙門瞿曇を比丘衆と共に明日の食に招待せり。故に汝等は我に手伝え」。
「唯諾、卿よ」と結髪〔苦行者〕鶏尼耶の友人・同僚・親戚・縁者等は結髪〔苦行者〕鶏尼耶に答え、ある者は竈を掘り、ある者は薪を割り、ある者は器具を洗い、ある者は〔水を満たせる〕水瓶を据え、ある者は座席を設け、また結髪〔苦行者〕鶏尼耶は自ら仮屋(円堂)を準備せり。
その時、「三吠陀に通暁し語彙・儀軌・音韻語源論・〔阿闥婆吠陀の〕類を含め、古伝説を第五とする〔諸書典〕の句と解説(文法)とに通じ、順世論・大人相論に熟達せる施羅婆羅門ありて阿波那に住し、三百人の学童に〔吠陀〕聖典を教え居たり。
その時、結髪〔苦行者〕鶏尼耶は施羅婆羅門を信奉し居たり。
時に施羅婆羅門は三百人の学童を従え、〔久坐より生ぜし疲労を除くべく〕膝を伸ばすための遊歩をあちこち行いつつ、結髪〔苦行者〕鶏尼耶の住院に近づけり。
施羅婆羅門は鶏尼耶の住院に属する諸の結髪〔苦行者〕が、ある者は竈を掘り、〔ある者は薪を割り、ある者は器具を洗い、ある者は水瓶を据え〕、ある者は座席を設け、結髪〔苦行者〕鶏尼耶は自ら仮屋を用意せるを見たり。
見終わりて結髪〔苦行者〕鶏尼耶に問うて曰く、「卿鶏尼耶には〔息子の〕嫁取りありや、〔息女の〕嫁入りありや、大供養が現起せりや、又はマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日〔の食事〕に招待せられたりや」。
「卿施羅よ、我には〔息子の〕嫁取りあるに非ず、〔息女の〕嫁入りあるに非ず、またマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日〔の食事〕に招待せられたるにも非ず。ただ我に大供養現起せり。〔即ち〕釈迦族より出家せし釈〔迦族の〕子たる沙門瞿曇が鴦崛多羅波国を遊行し、大比丘衆千二百五十人と共に阿波那に達せり。而してかの尊瞿曇には、〔『彼世尊は阿羅漢・等正覚者・明行具足者・善逝・世間解・無上者・調御丈夫・天人師・〕仏・世尊とも言わる』という善き名声あがり居れり。我は彼を比丘衆と共に明日〔の食〕に招待せり」。
「卿鶏尼耶よ、汝は仏と言うや」。
「卿施羅よ、我は仏と言う」。
「卿鶏尼耶よ、汝は仏と言うや」。
「卿施羅よ、我は仏と言う」。
時に施羅婆羅門は思念すらく、「この仏というはその声すらも世間にて得難きものなり。而して我等の聖典中に三十二大人相が述べられ居れり。そ〔の三十二相〕を具備せる大〔偉〕人には二途のみありてその他なし。〔即ち〕もし彼家に住しなば転輪王となり、如法(正義)なる法王にして、四辺〔の国々〕を征服し、国土を安固ならしめ、七宝を具備し、彼にはこれらの七宝あり。いわゆる、輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・第七に主兵宝なり。また彼には勇敢豪邁にして敵軍を撃破する千人以上の子あり。彼は海洋に囲まれたるこの〔全域〕土をば罰杖を用いず刀剣を用いず、法(正義)によりて征服して住す。されどもし彼家より非家に出家しなば、彼は阿羅漢・等正覚者となり、世間の〔諸煩悩の〕覆いを開く」。
「卿鶏尼耶よ、然らば阿羅漢・等正覚者たるかの尊瞿曇は今何処に住したまうや」。
かく問われて結髪〔苦行者〕鶏尼耶は右腕を差し伸べて施羅婆羅門に謂いて言わく、「卿施羅よ、この方角に当たりて一帯の青き林あり、〔そこに世尊は住したまう」。
時に施羅婆羅門は三百人の学童と共に世尊の所に赴けり。
かくて施羅婆羅門は彼等学童に告ぐらく、「汝等よ、小股に歩き静粛にして来たれ。蓋し、彼等世尊は近づき難く獅子の如く一人行けばなり。而して我沙門瞿曇と共に談ずる時、汝等はその中間に容喙することなかれ。我が談論の終わるまで汝等は待て」。
時に施羅婆羅門は世尊の所に近づけり。
近づきたる後、世尊と共に挨拶せり。
喜ぶべく記憶すべき挨拶を交わしたる後、一方に座せり。
一方に座したる施羅婆羅門は世尊の身中に三十二の大人相ありや否やを探したり。
施羅婆羅門は世尊の身中に二〔相〕を除きて三十二の大人相をほとんど見たり。
〔ただ〕陰馬蔵〔相〕と広長舌〔相〕との二大人相に関して、〔それが世尊にありや否やを〕彼は疑惑し疑い、〔仏たることを〕信解せず信受せざりき。
時に世尊は施羅婆羅門が世尊の陰馬蔵〔相〕を見るが如き神変行を行いたまえり。
また世尊は舌を出し、〔舌を以て〕両耳孔を上下に摩したまい、両鼻孔を上下に摩したまい、前額一面を舌を以て覆いたまえり。
かくて施羅婆羅門は思念すらく、「沙門瞿曇は完全なる三十二大人相を具足し、不完全ならず。されど我は彼が仏なりや否やを知らず。然るに我は諸の年老いたる耆宿の師〔婆羅門〕又は〔更に〕その師婆羅門が『阿羅漢・等正覚者たる人は自己が讃説せらるる時、自己〔の面目〕を現わす』とかく言うを聞きたり。いでや我は沙門瞿曇を面前にて適当の偈を以て讃歎せばや」と。
かくて施羅婆羅門は面前にて適当の偈を以て世尊を讃歎せり。
548. 「世尊よ、汝は身体完全し、善く輝き、善く生まれ、見ま欲しく、黄金の色をなせり、具精進者よ、汝は極めて白き歯牙あり。
549. 蓋し、善く生れたる人に存するあらゆる相好は、すべてこれ汝の身中に大人相としてあればなり。
550. 澄浄なる眼あり、善き顔あり、〔身体は〕大きく端正に光輝あり。沙門衆の中にありて、汝は太陽の如くに遍照す。
551. 〔汝は〕見るに善き(麗しき)比丘なり。黄金の如き皮膚を有す。かくの如く最上の容色ある汝に沙門たるべき何の要あらん。
552. 汝は転輪王として車兵の主となり、四辺を征服し、閻浮林(この世界)の主宰者となるに値す〔べき人なり〕。
553. 諸の刹帝利や地方の諸王は汝の隷属者となるべし。瞿曇よ、汝は王中の王として、人類の帝王として統治せよ」。
554. 世尊宣わく「施羅よ、我は王なり、無上の法王なり。法によりて輪を転ず、反転すべからざる輪を」。
555. 施羅婆羅門曰く、「汝は正覚者と公言す。瞿曇よ、汝は『我は無上の法王なり、法によりて輪を転ず』とかく説く。
556. 誰が果たして師に継ぐべき卿の将軍(最勝)弟子なりや。誰が汝が転じたるこの法輪をば〔汝に〕次いで転ずるや」。
557. 世尊宣わく、「施羅よ、我が転じたる輪をば、〔即ち〕無上の法輪をば、如来より生まれ出でたる舎利弗が〔我に〕次いで転ず。
558. 我は知通すべき〔苦〕を知通せり。修習すベき〔道〕を修習せり。捨断すベき〔煩悩〕を捨断せり。故に婆羅門よ、我は仏なり。
559. 我に対する疑惑をなくせよ。婆羅門よ、〔我を〕信解せよ。諸の正覚者にしばしば見ゆるは〔極めて〕得難きことなり。
560. 彼等〔正覚者〕がしばしば世に出現するは実に難し。婆羅門よ、この我は正覚者なり。〔煩悩の〕矢に対する無上の治癒者なり。
561. 〔我は〕最勝にして比類なく、よく悪魔の軍を撃破し、一切の敵を降伏せしめ、何処にも怖畏なくして喜ぶ」。
562. 〔施羅は三百の弟子等に言いて曰く〕「卿等よ、有眼者・矢〔毒〕の治癒者・大雄が、あたかも獅子が林中にて吠ゆるが如くに説きたまう所のこの〔所説〕をばよく傾聴せよ。
563. 最勝にして比類なく、悪魔の軍を撃破せる〔仏〕に見えて誰か信楽せざらん。賤族の者すら〔彼を信楽す〕。
564. 〔従わんと〕欲する者は我に従え。また〔従うを〕欲せざる者は去れ。我は優れたる慧者のもとにて、この〔仏教〕中に出家せんとす」。
565. 「もしこの等正覚者の教が、尊師に望ましきものなりせば、我等もまた優れたる慧者のもとにて出家をなさん」。
566. 「これら三百人の婆羅門は、合掌をなして願求す。世尊よ、我等は尊師のもとにて梵行を行ぜんと欲す」。
567. 世尊宣わく、「施羅よ、梵行は善く説かれ居れり。現に見られ、即時に〔果〕あり。〔故に〕不放逸にして学する者のここに出家するは空しからず」。
施羅婆羅門は〔徒〕衆と共に世尊のもとにて出家を得、具足〔戒〕を得たり。
時に結髪〔苦行者〕鶏尼耶はその夜を過ぎ、〔翌朝〕自己の住院にて美味なる硬食・軟食を準備し、「尊瞿曇よ、〔食〕時なり、食は〔整い〕終われり」とて世尊に時を告げしめたり。
かくて世尊は晨朝に衣を着け鉢と〔僧伽梨〕衣とを携えて結髪〔苦行者〕鶏尼耶の住院に近づきたまえり。
近づきて後、比丘衆と共に設けの席に座したまえり。
時に結髪〔苦行者〕鶏尼耶は仏を首め、比丘衆に美味なる硬食・軟食を以て手ずから〔給仕し〕満足せしめ、飽食せしめたり。
かくて結髪〔苦行者〕鶏尼耶は、世尊が食を終わり鉢より手を放したまいし時、〔自ら〕低き座を取りて一方に座せり。
一方に座したる結髪〔苦行者〕鶏尼耶に世尊は次の偈を以て随喜(礼言)したまえり。
568. 「火への献供は供養の最上なり。娑毘底〔偈〕は聖偈(吠陀)の最上なり。王は諸人中の最上者なり。海洋は諸水中の最上者なり。
569. 月は諸星辰の最上者なり。太陽は輝くものの最上者なり。僧衆は実に福を望みて供養する人々の最上〔応施〕者なり」。
かくて世尊は結髪〔苦行者〕鶏尼耶にこれらの偈を以て随喜(礼言)したまいし後、座より立ちて去りたまえり。
時に尊者施羅は〔徒〕衆と共に独一に遠離し、不放逸に熱心に自ら精勤し住しつつ、久しからずしてーー諸の善男子が正に家より非家に出家するの目的たるーー無上の梵行の終局〔即ち涅槃〕をば現世にて自ら知通し作証し具足して住せり、「生すでに尽き、梵行すでに成じ、所作すでに弁じ、更にかかる〔輪廻苦界の〕状態に至らず」と了知せり。
かくて尊者施羅は〔徒〕衆と共に阿羅漢の一人となれり。
時に尊者施羅は〔徒〕衆と共に世尊の所に近づけり。
近づきたる後、衣を一肩にし、世尊の方に合掌を向け、偈を以て世尊に申せり。
570. 「具眼者よ、今より八日以前に、我等は尊師に帰依せり。世尊よ、七夜を過ぎて我等は、尊師の教中にて調御されたり。
571. 尊師は仏なり、尊師は師なり。尊師は魔の征勝者なり、牟尼なり。尊師は諸の随眠を断じ終わり、〔自ら〕度り、この人々を度したまう。
572. 尊師は依をよく超えたまえり。尊師は諸漏を破壊したまえり。尊師は取著なき獅子なり。怖畏・恐怖の捨断者なり。
573. これら三百の諸比丘が合掌をなして立ち居れり。勇者よ、両足を伸ばしたまえ、諸龍象をして師を礼せしめん」。
施羅経終われり。
<8. 矢経>
574. この世における人々の命は、無相にして知るべからず。
また悲惨にして短し、またそは苦と相応せり。
575. 蓋し、生まれたる者の死せざるが如き手段なければなり。
〔生まれたる者は〕老と死とに至る。
これ生物の法〔性〕なればなり。
576. 熟せる果実には、早朝に落つるの怖畏あるが如く、生まれたる人々にも同様に、常に死するの怖畏あり。
577. また譬えば陶工が作りたる粘土の器具は、すべて最後には壊るる如く、人々の命もまたかくの如し。
578. 幼少者も長大者も、またあらゆる愚者も賢者も、すべての者は死に左右せらる。
すべての者は〔必ず〕死に至る。
579. 死に打敗れて去りつつある、彼等をば、父は子を、また親類は親類を他の世界より救うことなし。
580. 現に見つつあり、種々に〔親しく〕語りつつある親類の人々が、屠所に引かるる牛の如く、銘々に〔死魔に〕連れ去らるるを見よ。
581. かくの如く世間〔の人々〕は、死と老とによりて攻め撃たる。
故に諸の賢者は世間の自性を知り終わりて憂うることなし。
582. 〔生まれ〕来たり〔死して〕去るかの道を汝は知らず。
〔生死の〕両端を正しく見ざる汝は無益にも悲泣す。
583. 蒙昧にして自己を害しつつ悲泣する者がもし何等かの利益を〔自己に〕齎すべくんば、聡慧者はまさにこれをなすべし。
584. されど涕泣と憂愁とによりて〔人は〕心の寂静を得ることなし。
〔ただ〕ますます彼に苦が生じ、〔彼の〕身体は損なわる〔るのみ〕。
585. 自己自らを害しつつ身は痩せ色は褪するなり。
そ〔の悲泣〕にて死者は蘇らず。
悲泣することは無益なり。
586. 憂愁を捨断せざる人はますます苦を受くるに至る。
命終せし者を慟哭するは憂愁の虜となれるなり。
587. また他の人々が業のままに随い行きて死に左右せられ、〔他の世界に〕行く時、ここに〔彼等〕生類が戦慄しつつあるを見よ。
588. 蓋し、かくあるべしとの考えよりそは異りて〔現わるれば〕なり。
異変あることかくの如し。
世間の自性を〔かくの如しと〕見よ。
589. たとい人あり、百年生きんも、或いはまたそれ以上ならんも、彼は〔遂に〕親戚衆より別れて、この世の生命を捨つるに至る。
590. 故に〔人は〕阿羅漢より〔法を〕聴きて、命終せし亡者を見ては、「彼は我と共に〔暮らすを〕得ず」とて悲泣せる〔心〕を調伏すべし。
591. 譬えば燃えつつある家〔の火〕を、水を以て消し止むるが如く、かくの如く慧者・有慧者、賢者・善巧ある人も、風が兜羅〔綿〕を〔吹き飛ばす〕如く、生起せし憂愁を速やかに滅すべし。
592. 自己の楽を求むる者は、自己の悲泣と貪求と、憂とを〔除くべし〕、自己の〔煩悩の〕矢をまさに抜くべし。
593. 〔煩悩の〕矢を抜きて依なく、心の寂静を得なば一切の憂愁を超越して、無憂者・寂滅者となる。
矢経終われり。
<9. 婆私吒経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は伊車能伽羅(村〕の伊車能伽羅森に住したまえり。
その時、極めて有名なる多くの婆羅門諸大家が伊車能伽羅〔村〕に居住せり。
いわゆる、商伽婆羅門・多梨車婆羅門・沸伽羅娑帝婆羅門・生聞婆羅門・刀提耶婆羅門及びその他の極めて有名なる婆羅門諸大家なり。
時に婆私吒と婆羅堕闍との〔二〕学童が〔久坐より生ぜし疲労を除くべく〕膝を伸ばすための遊歩をあちこち行いつつありしに、〔彼等に〕「卿よ、婆羅門とは云何」という議論生ぜり。
婆羅堕闍学童は〔主張して〕曰く、「卿よ、母と父との両方において由緒正しく、純潔なる母胎に宿り、七世の祖先に至るまで系統に関して未だかつて指弾せられたることなく、かつて非難せられたることなきが故に、かるが故に婆羅門なり」。
婆私吒学童は主張して曰く、「卿よ、戒を具し義務を完具せるが故に、かるが故に婆羅門なり」。
婆羅堕闍学童は婆私吒学童を説得すること能わず、また婆私吒学童は婆羅堕闍学童を説得すること能わざりき。
時に婆私吒学童は婆羅堕闍学童に告げて曰く、「卿婆羅堕闍よ、釈迦族より出家せしかの釈〔迦族の〕子の沙門瞿曇が伊車能伽羅森に住す。而してかの尊瞿曇には〔『彼世尊は阿羅漢・等正覚者・明行具足者・善逝・世間解・無上者・調御丈本・天人師・〕仏・世尊とも言わる』という善き名声揚り居れり。
いざ卿婆羅堕闍よ、我等は沙門瞿曇の所に行かん。行きて沙門瞿曇にこの義を問い、沙門瞿曇が我等に解答する通りにそれを受持せん」。
「唯諾、卿よ」と婆羅堕闍学童は婆私吒学童に答えたり。
かくて婆私吒と婆羅堕闍との〔二〕学童は世尊の所に行けり。
行きて世尊と共に挨拶せり。
喜ぶべき記憶すべき挨拶の語を交わしたる後、〔彼等は〕一方に座せり。
一方に座したる婆私吒学童は偈を以て世尊に〔申して〕曰く、
594. 我等両人は三吠陀学者なりと〔他より〕認められ〔自らも〕称し居れり、我は沸伽羅娑帝の〔学童〕なり。この者は多梨車の学童なり。
595. 三吠陀に説かれ居るもの、それの秘奥を我等は極めたり。我等は〔吠陀の〕句と解説とに通じ吠陀においては阿闍梨に等し。
596. 瞿曇よ、かかる我等に、系統説に関して諍論あり。『生まれによりて婆羅門なり』と婆羅堕闍は〔主張して〕言う。されど我は『行為によりて』と言う。有眼者よ、かく知りたまえ。
597. この我等両人は相互に〔他を〕説得すること能わず。正覚者なりとの名声ある尊師に問うべく我等は来れり。
598. 譬えば人々が満ちたる月に近づき合掌して恭敬し礼拝するが如く、かく世人は瞿曇をば〔恭敬し礼拝す〕。
599. 世間の眼として興起せし〔世尊〕瞿曇に我等は問う。生まれによりて婆羅門なりや。或いは行為によりてなりや。知らざる我等に語りたまえ。我等が婆羅門を知るために」。
600. 世尊宣わく、「婆私吒よ、我は汝等にかの諸の生物の生まれの差別をば、順次に如実に解説せん。蓋し、生まれは相異なればなり。
601. 草や木〔の差別〕を知るべし。而も〔彼等はその別を〕自ら認めず。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し、〔生類の〕生まれは相異なればなり。
602. 次に蛆虫やコオロギ乃至アリ類〔の差別〕を知るべし。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し〔生類の〕生まれは相異なればなり。
603. 矮小なると粗大なるとの四足〔獣の差別〕をも知るべし。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し、〔生類の〕生まれは相異なればなり。
604. 腹にて歩く背の長き、蛇〔類の差別〕をも知るべし。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し、〔生類の〕生まれは相異なればなり。
605. 次に水に棲む水中の魚〔類の差別〕をも知るべし。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し、〔生類の〕生まれは相異なればなり。
606. 次に虚空を飛ぶ翼に乗る鳥〔類の差別〕をも知るべし。彼等には生まれによる相形〔の別〕あり。蓋し、〔生類の〕生まれは相異なればなり。
607. これら生類において生まれによる相形〔の別〕が種々なるが如く、その如くには人類においては生まれによる相形が種々なるなし。
608. 髪によりても、頭によりても、耳によりても、眼によりても、口によりても、鼻によりても、唇によりても、又は眉によりても、
609. 頭によりても、肩によりても、腹によりても、背によりても、尻によりても、胸によりても、陰部においても、行婬においても、
610. 手によりても、足によりても、指によりても、又は爪によりても、脛によりても、腿によりても、色によりても、声によりても、他の諸の生類におけるが如く、生まれによる相形〔の別〕あるなし。
611. 人々の身体中においては〔各人に〕別異あることなし。ただ〔婆羅門・刹帝利等の〕名称もて、人中に差別が説かるるなり。
612. 即ち人中にて土地を耕して生活をなす者はすべてこれ農夫にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
613. また人中にて種々の工巧もて生活をなす者はすべてこれ職人にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
614. また人中にて売買をなして、生活をなす者はすべてこれ商人にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
615. また人中にて他人に仕えて生活をなす者はすべてこれ奴僕にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
616. また人中にて盗みをなして生活をなす者はすべてこれ盗賊にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
617. また人中にて武術者として生活をなす者はすべてこれ武士にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
618. また人中にて司祭者として生活をなす者はすべてこれ祭官にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
619. また人中にて村や国をば、受用(領有)する者はすべてこれ王にして婆羅門に非ず。婆私吒よ、かくの如しと知れ。
620. 而して我は胎より生じ母より産まれたる〔儘の〕者を婆羅門と言わず。彼は『卿よと呼ぶ者』と言わる。彼は実に有所得の者なり。無一物にして無取著の者、彼を我は婆羅門と言う。
621. 一切の結を断じ終わり、著を超え繋縛を離れ、懼怖することなき者、彼を我は婆羅門と言う。
622. 革紐(忿)と革緒(愛)と綱(悪見)をば馬勒(随眠)と共に断じ終わりて、閂(無明)を放棄し〔四諦を〕覚れる者、彼を我は婆羅門と言う。
623. 怒罵され殴打され縄縛さるるもこれを怒らずして耐え忍ぶ者、忍辱力あり強き〔忍の〕軍ある者、彼を我は婆羅門と言う。
624. 忿なくして務め(頭陀)を具し、戒を有し、〔愛等の〕増盛なく、〔身を〕調御し、最後身となれる、彼を我は婆羅門と言う。
625. 水が蓮の葉に〔著かざるが〕如く、芥子粒が錐尖に〔止まらざるが〕如く、諸欲に染着せざる者、彼を我は婆羅門と言う。
626. この世にて自己の苦の滅尽を了知せる者、重担を卸し、縛を離れたる者、彼を我は婆羅門と言う。
627. 甚深の慧ある有慧者、道と非道との通暁者、最上義に到達せる者、彼を我は婆羅門と言う。
628. 諸の在家者とも非家者とも、両者〔のいずれ〕とも交わらざる者、少欲にして家に住せざる者、彼を我は婆羅門と言う。
629. 戦慄する(弱き)、また強剛なる(強き)〔一切〕生類に対して笞を蔵め、〔彼等を〕害せず殺さざる者、彼を我は婆羅門と言う。
630. 違背せる人々の中にて違背せず、答を執れる人々の中にて笞を執らず、有取著の人々の中にて取著なき、彼を我は婆羅門と言う。
631. 貪と瞋と慢と覆とが、芥子粒が錐尖より〔落つるが〕如くにその人より落ちたる、彼を我は婆羅門と言う。
632. 粗悪ならざる、義を含める、真実なる語〔のみ〕を語り、そ〔の語〕によりて誰をも怒らしめざる、彼を我は婆羅門と言う。
633. 長きも短きも、小なるも大なるも、浄きも不浄なるも、すべて世間にて、与えられざるは〔之を〕取らざる者、彼を我は婆羅門と言う。
634. この世界に対してもまた他の〔世界〕に対しても欲求あるなく、意楽(欲求)なく縛を離れたる者、彼を我は婆羅門と言う。
635. 阿頼耶(執着)あることなく、〔真相を〕知り終わりて疑惑なく、甘露(涅槃)に没入し到達せる者、彼を我は婆羅門と言う。
636. この世にて善と悪とを共に〔捨て〕、執着を超え憂愁なく、塵を離れ、浄き者、彼を我は婆羅門と言う。
637. 雲りなき月の如くに浄く、清澄にして濁りなき、有の喜びを遍く滅尽せし者、彼を我は婆羅門と言う。
638. この〔貪の〕険路と〔煩悩の〕難路と輪廻〔輪転〕と〔四諦への〕愚痴とを超え、〔暴流を〕度り彼岸に到りて禅定し、〔無愛〕不動にして疑惑あるなく、取著なくして〔煩悩の〕寂滅せる者、彼を我は婆羅門と言う。
639. この世にて諸欲を捨断し、家なくして普行し、欲有を遍く滅尽せし者、彼を我は婆羅門と言う。
640. この世にて愛を捨断し、衆なくして普行し、愛有を遍く滅尽せし者、彼を我は婆羅門と言う。
641. 人の軛(寿と五欲)を捨て、天の軛(寿と五欲)を超え、一切の軛より離縛せし者、彼を我は婆羅門と言う。
642. 楽と不楽とを捨て、清涼となりて依なく、一切世界に打ち勝てる勇者、彼を我は婆羅門と言う。
643. 諾有情の死と生とをすべてこれ覚知せる、著なき、善逝・〔四諦の〕覚者、彼を我は婆羅門と言う。
644. 諸天も乾闥婆も諸人も、彼の趣(行方)を知ることなき、諸漏を尽くせる阿羅漢、彼を我は婆羅門と言う。
645. 前(過去)にも後(未来)にも中(現在)にも、何物をも有することなく、無一物にして取著なき者、彼を我は婆羅門と言う。
646. 牛王・最勝者〔精進ある〕勇者、大仙・征服し終わりたる者、不動者・〔煩悩の〕洗浴者・〔四諦の〕覚者、彼を我は婆羅門と言う。
647. 〔有情の〕宿住を覚知する者、〔来世の〕天と悪趣とを見る者、また生の滅尽に達したる者、彼を我は婆羅門と言う。
648. 〔人に〕附せられたる名や姓は、これ世間の通名たるのみ、〔そは〕世俗に伝え来たりしものにて、〔人の生まれたる〕その時々に附さる。
649. 不知なる人々〔の心〕に〔この姓名は〕長時に先入見となりて随在し、諸の不知者は汝等に言う。『生まれにより婆羅門なり』と。
650. 生まれによりて婆羅門に非ず。生まれによりて非婆羅門に非ず。行為によりて婆羅門なり。行為によりて非婆羅門なり。
651. 行為によりて農夫なり。行為によりて職人なり。行為によりて商人なり。行為によりて奴僕なり。
652. 行為によりて盗賊なり。行為によりて武士なり。行為によりて祭官なり。また行為によりて王なり。
653. 縁起を見る諸の賢者は、業(行為)と異熟(結果)とに通暁し、かくの如くこの行為をば、如実に〔誤らずして〕見る。
654. 業によりて世間は存し、業によりて人々は存す。有情の業に結ばるること、なお行く車の轄〔に結ばるる〕が如し。
655. 苦行(根律儀)と、梵行と、禁制(戒)と、調御(慧)と、これによりて婆羅門なり。これ最上の婆羅門なり。
656. 三明を具備し、寂静にして、再有を尽くせる〔阿羅漢〕は、諸の識者の梵天・帝釈なり。婆私吒よ、かくの如しと知れ」。
かく言われて、婆私吒と婆羅堕闍との〔二〕学童は世尊に申して言わく、「希有なり、卿瞿曇よ、〔希有なり、卿瞿曇よ、譬えば倒れたるを起こすが如く、覆われたるを開くが如く、迷える者に道を教うるが如く、又は『眼ある者は諸色を見るならん』とて暗夜に灯火を掲ぐるが如く、かくの如く卿瞿曇は多くの教説もて法を説きたまえり。〕この我等は卿瞿曇と法と比丘衆とに帰依す。卿瞿曇は、今日より以後命尽くるまで帰依せる優婆塞として我等を認受したまえ」。
婆私吒経終われり。
<10. 拘迦利耶経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の給孤独園に住したまえり。
時に拘迦利耶比丘は世尊の所に近づけり。
近づきて後、世尊を礼して一方に座せり。
一方に座したる拘迦利耶比丘は世尊に申して言わく、「尊師よ、舎利弗・目犍連は悪欲あり。悪き諸欲に捉われ居れり」。
かく言われて世尊は拘迦利耶比丘に告げて宣わく、「拘迦利耶よ、かくの如く言うことなかれ。拘迦利耶よ、かくの如く言うことなかれ。拘迦利耶よ、舎利弗・目犍連に対して心信楽せよ。舎利弗・目犍連は敬愛すべき者なり」。
二たび拘迦利耶比丘は世尊に申して言わく、「尊師よ、たとい世尊は我にとりて信ずべく頼るべき人なりといえども、而も実に舎利弗・目犍連は悪欲あり。悪き諸欲に捉われ居れり」。
二たび世尊は拘迦利耶比丘に告げて宣わく、「拘迦利耶よ、かくの如く言うことなかれ。拘迦利耶よ、舎利弗・目犍連に対して心信楽せよ。舎利弗・目犍連は敬愛すべき者なり」。
三たび拘迦利耶比丘は世尊に申して言わく、「尊師よ、たとい世尊は我にとりて信ずべく頼るべき人なりといえども、而も実に舎利弗・目犍連は悪欲あり。悪き諸欲に捉われ居れり」。
三たび世尊は拘迦利耶比丘に告げて宣わく、「拘迦利耶よ、かくの如く言うことなかれ。拘迦利耶よ、舎利弗・目犍連に対して心信楽せよ。舎利弗・目犍連は敬愛すべき者なり」。
時に拘迦利耶比丘は座より立ちて世尊を礼し、右繞をなして去れり。
拘迦利耶比丘去りて久しからざるに、〔彼の〕全身に芥子粒大の吹出物現われたり。
〔そは初め〕芥子粒大なりしが〔次第に〕小豆程になれり。
小豆程になれるものが大豆程になれり。
大豆程になれるものが棗の核程になれり。
棗の核程になれるものが棗程になれり。
棗程になれるものが餘甘子程になれり。
餘甘子程になれるものが熟せざる木瓜程になれり。
熟せざる木瓜程になれるものが熟せる木瓜程になれり。
木瓜程になりて裂け潰れたり。
而して膿と血とが流出せり。
時に拘迦利耶比丘はその病気のために命終せり。
命終せし拘迦利耶は、舎利弗・目犍連に対して心恨みたる廉にて紅蓮地獄に生まれたり。
時に娑婆〔世界〕主なる梵天は夜半を過ぎたる頃、麗しき容色もて祇樹〔園〕を隈なく照らして世尊の所に近づけり。
近づきたる後、世尊を礼して一方に立てり。
一方に立ちたる娑婆〔世界〕主梵天は世尊に申して言わく、「尊師よ、拘迦利耶比丘は命終せり。尊師よ、命終せし拘迦利耶比丘は、舎利弗・目犍連に対して心恨みたる廉にて紅蓮地獄に生まれたり」。
娑婆〔世界〕主たる梵天は右の如く言えり。
かく言いたる後、世尊を礼し右繞してそこにすなわち消失せり。
時に世尊はその夜を過ぎて、諸比丘に告げて宣わく、「諸比丘よ、昨夜、娑婆〔世界〕主たる梵天が夜半を過ぎたる頃、〔麗しき容色もて祇樹〔園〕を隈なく照らして我が所に近づけり。近づきたる後、我を礼して一方に立ちたり。一方に立ちたる娑婆〔世界〕主梵天は我に申して言わく、『尊師よ、拘迦利耶比丘は命終せり。尊師よ、命終せし拘迦利耶比丘は、舎利弗・目犍連に対して心恨みたる廉にて紅蓮地獄に生まれたり』〕。娑婆〔世界〕主たる梵天は右の如く言えり。かく言いたる後、我を礼し右繞してそこにすなわち消失せり」。
かく〔世尊に〕言われて、一比丘あり、世尊に申して言わく、「尊師よ、紅蓮地獄の寿量は幾何なりや」。
「比丘よ、紅蓮地獄の寿量は〔極めて〕長し。そは『幾年なり』、『幾十年なり』、『幾千年なり』又は『幾十万年なり』とて数うること難し」。
「尊師よ、然らば譬喩もて説き得らるるや」。
「比丘よ、得らるるなり」。
世尊宣わく、「譬えば比丘よ、コーサラ国の〔枡目による〕二十石の胡麻の荷ありて、その中より、人が百年を過ぐる毎に一粒ずつの胡麻を取り出さんに、比丘よ、かのコーサラ国の〔枡目による〕二十石の胡麻の荷が右の方法によりて尽くるまで取り去らるる〔年時〕は、一阿浮陀地獄〔の寿量〕よりも短し。比丘よ、二十阿浮陀地獄〔の寿量〕は一尼羅浮陀地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十尼羅浮陀地獄〔の寿量〕は一阿婆婆地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十阿婆婆地獄〔の寿量〕は一阿訶訶地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十阿訶訶地獄〔の寿量〕は一阿吒吒地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十阿吒吒地獄〔の寿量〕は一白睡蓮地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十白睡蓮地獄〔の寿量〕は一青睡蓮地獄〔の寿量〕に等し。二十青睡蓮地獄〔の寿量〕は一青蓮地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十青蓮地獄〔の寿量〕は一白蓮地獄〔の寿量〕に等し。比丘よ、二十白蓮地獄〔の寿量〕は一紅蓮地獄〔の寿量〕に等し。而して比丘よ、拘迦利耶比丘は舎利弗・目犍連に対して心恨みたる廉にて紅蓮地獄に生まれたり」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言いて後、更に師は告げて宣わく、
657. 生まれたる人の口には実に斧が生じ居れり。愚者は悪言を語りつつそ〔の斧〕もて自己〔の善根〕を切る。
658. 毀疵すベき者を賞讃し、賞讚すべき者を毀疵する、彼は口もて悪運を積み、その悪運のために楽を得ず。
659. 骰子のために一切の財産のみならず、己が身をも失うとも、この悪運は些少なり。諸の善逝に対して心怒る者、彼の悪運こそ甚大なれ。
660. 悪き語と意とによりて聖者を非難する者は、十万と三十六の尼羅部陀及び五の阿浮陀〔寿量ある紅蓮〕地獄に堕つ。
661. 不真を語る者、又は行いて行わずと言う者は地獄に堕つ。彼等は共に卑劣業ある人々にて、死して他界にて等し〔く地獄に堕つ〕。
662. 瞋怒なく浄くして汚点なき人に瞋怒する所のかの愚者に悪は必ず戻る。逆風に投ぜる細塵の如し。
663. 種々の貪欲に耽る者、彼は語もて他人を誹謗し、信なく吝嗇にして親切ならず。〔物を〕慳み、両舌を事とす。
664. 悪口し、不実にして、非聖なる者よ、生類を殺し、邪悪にして、悪行をなす者よ、極劣・悪運にして、生まれ卑しき者よ、この世にて多く語るなかれ、汝は地獄に至る。
665. 汝は〔煩悩の〕塵を撒きて不利を招き、諸の善人を非難して罪過を作り、また多くの悪行を行じて、長時に深淵(地獄)に至る。
666. 蓋し、何者の業も滅することなく、そは必ず来たりて〔業の〕主が〔之を〕得、愚鈍なる者は〔自ら〕罪過を作りて、他世にて自ら苦を受くればなり。
667. 〔即ち〕鉄針の打ち込まれたる処に〔至り〕、鋭利なる刃ある槍もて突かれ、また赤熱せる鉄丸に似たる食物が〔業に〕応じて〔食せしめらるる〕あり。
668. 語る〔獄卒等〕は親切に語らず、〔和顔もて〕来らず。〔罪人等は〕避難所に至らず、拡げ敷きたる炭火の上に座し、遍く燃え盛る火焔の中に入る。
669. また〔鉄〕網を以て覆われ、鉄製の鎚もてその中にて撃たれ、真の暗黒なる闇に至る。その〔闇の〕拡がれること霧の如し。
670. また次に火の遍く燃え盛れる金属製の鑊に〔彼等は〕入る。その火の燃え盛れる〔鑊の〕中にて浮き〔沈み〕つつ長時に煮らる。
671. また膿や血の混在せる〔鑊〕あり、罪過を作りし者はそこにて煮らる。いかなる方角に往くとも、そこにて〔膿血に〕触れ悩まさる。
672. 〔また〕虫類の棲める水〔鑊〕あり、罪過を作りし者はそこにて煮らる。四辺すべて等しき大釜より〔出で〕去るべき岸あることなし。
673. また鋭利なる剣の葉の林あり、そこに入りて四肢は切断せらる。〔獄卒等は〕鉤針もて舌を捕え、引き延ばし引き延ばしては撃つ。
674. また次に鋭利なる剃刀の刃ある越え難き地獄河に〔彼等は〕至る。愚鈍なる諸の作悪者は、諸悪を行いてそこに堕つ。
675. そこにて黒き〔又は〕斑点ある犬や、黒鴉の群や狐や大鷲が、悲泣しつつある人々を噉らう。また鷹や烏は〔彼等を〕啄む。
676. 罪過を作りし人々が遭遇するここ〔地獄〕のかかる生活は実に悲惨なり。故にこの世の余命において〔善〕行をば、行う者となり、放逸なるべからず。
677. 紅蓮地獄に堕せし者〔の寿量〕は、これ胡麻荷もて智者に測られたり。即ち五千万兆〔年〕と更にまた百二十億〔年〕なり。
678. ここに地獄の苦の長さが説かれたる、その長さ、そこに住せざるべからず。故に浄き好ましき善き諸徳のために語と意とを常に遍く守護すべし。
拘迦利耶経終われり。
<11. 那羅迦経>
〔序偈〕
679. 歓喜を生じ満足せる三十三天衆、及び浄衣ある諸天が恭しく、衣を取り帝釈を極めて讚歎せるを、阿私陀仙は昼住の時見たり。
680. 意悦び踊躍せる諸天を見終わりて、ここに〔仙人は〕恭敬して問うて曰く、「何によりて天衆は極めて満悦し、衣を取りて何ぞ〔それを〕振廻すや。
681. たとい阿修羅との戦ありて、勇士が勝ち阿修羅が敗れたりとも、その時すらかくの如き身毛堅立〔の大歓喜〕なし。何の希有を見て諸天は喜悦し、
682. 口笛を吹き、歌いかつ楽を奏で、手を拍ちまた踊るや。我は須弥の頂に住する汝等に問う。汝等よ、速やかに我が疑を除きたまえ」。
683. 「比類なき最勝の宝たるかの菩薩が、人界に生まれたまえり、利益安楽のために、釈迦族の村に、藍毘尼の土地に。故に我等は満足し極めて満悦す。
684. かの一切有情の最上者・最高の人・人中の牛王・一切の人々の最上者は、仙人〔堕処〕という林にて〔法〕輪を転ぜん。猛き獅子が百獣に打ち勝ちて〔吠ゆるが〕如く吠えつつ」。
685. その〔諸天の〕声を聞きて彼は急ぎ〔人界に〕下降せり。
その時、彼は浄飯〔王〕の宮殿に近づけり。
そこに座して釈迦族等に告げて曰く、「童子は何処か、我は見えんと欲す」。
686. かくて釈迦族等は、炉辺にて名〔金〕工が鍛えたる輝ける黄金の如く赫燿たる麗しくして高貴の容貌ある童子をば、阿私陀と言う〔仙人〕に見せたり。
687. 火焔の如くに輝き、空を運行する星の牛王(月)の如く清浄に、雲を脱せる秋の太陽の如く耀やける童子を見て、歓喜を生じ広大なる喜びを得たり。
688. 諸天は多くの骨あり千の円輪ある傘蓋をば空中に保持せり。黄金の柄ある払子をば上下に扇げり。〔されど〕払子や傘蓋の持者は見えず。
689. 見終わりて黒妙(阿私陀)という結髪仙人は、頭上に自傘を翳されてあたかも赤き毛布の中の黄金の飾具の如く〔麗しき〕〔太子〕をば心踊躍し喜びて抱き取れり。
690. 相好と真言(吠陀)とに通暁せる彼は釈迦牡牛を抱き取りて検しつつ、心欣楽して〔感嘆の〕声を挙げたり。「これ無上者なり、人間の最上者なり」。
691. 時に自己の行く末を随念して、怏怏たる〔仙人〕は涙を流せり。
仙人の泣くを見て釈迦族等曰く、「童子に障礙あるには非ずや」。
692. 怏怏たる釈迦族を見て仙人曰く、「我は童子に不利あるを随念せず。また彼には障礙あらざるべし。彼は凡庸ならず、注意〔して育て〕よ。
693. この童子は最高の正覚を得べし。彼は最上の清浄を見、多くの人々を利益し憐愍し、法輪を転ずべし。彼の梵行〔の教〕は広く弘通すべし。
694. 然るにこの世の我が余命は久しからず。中途にて〔正覚以前に〕我は命終すべし。この我は無等精勤者の法を聞かじ。故に我は痛み悩み苦しむなり」。
695. 彼梵行者は釈迦族等に大なる喜を生ぜしめて、城内より出で去れり。
彼は自己の甥を憐愍しつつ、無等精勤者の法を〔学ぶを〕勧めたり。
696. 「若し汝、後に『仏あり、正覚を成じて、法道を行く』という声を聞かば、その時あそこに行きて遍問し、かの世尊のもとにて梵行を行ぜよ」。
697. 未来における第一清浄を予見せるかかる饒益の意ある彼〔仙人〕に教えられ、〔宿世の〕福善を多く積める彼那羅迦は、勝者を待望しつつ〔出家して〕諸根を護り住せり。
698. 優れたる勝者の転〔法〕輪の噂を聞き、阿私陀なる〔仙人〕の教言の実現せし時、行きて仙人牛王(仏)に見えて信楽し、最勝の牟尼に最勝の牟尼行を問えり。
序偈終われり。
699. 「阿私陀の〔語れる〕この語をば我は如実に了知し居れり。故に瞿曇よ、我は一切諸法の通達者〔たる世尊〕にこれを問う。
700. 〔家を出でて〕非家に至りて托鉢の行を求めつつある、我に問われて、牟尼よ、最上句なる牟尼行を語りたまえ」。
701. 世尊宣わく、「行い難く得ること難き牟尼行をば我は汝に知らしめん。いざ我はそを汝に告げん。強毅たれ、〔心〕堅固たれ。
702. 村にては罵らるるも礼さるるも、平等の態度もて臨むべし。意瞋ることを〔慎み〕護り、寂静にして高ぶらず行ぜよ。
703. 園中にても〔黄赤大小の〕火焔の如く、種々なるものが現われ来る。諸の女人は牟尼を誘惑す。彼女等をして彼を誘惑せしめざれ。
704. 婬の法より離れ、彼此の諸欲を捨てて、弱き強き諸生物に対して違背(瞋害)せず愛執せず。
705. 『我は彼等と同様なり、彼等は我と同様なり』とて、自己〔が害せらるる場合〕に引き比べて、〔生物を〕害し殺すべからず。
706. 凡夫が執着する所の欲求と貪欲とを捨てて、有眼者はまさに行道すべし。この〔貪欲の〕地獄を度るべし。
707. 腹を控え、食を節し、少欲にして貪求すべからず。彼は実に欲に〔飽き〕離れて、無欲となりて〔煩悩〕寂滅す。
708. 彼は行乞をなし終わりて、林辺に赴くべし。樹下に止在して、牟尼は座に就〔きて座〕す。
709. かの賢者は禅定を励み林辺をば楽しむべし。自らよく満足しつつ、樹下にて禅思すべし。
710. それより夜を過ぎて、〔翌朝〕村に赴くべし。〔信者の〕招待をも、村より持来れる〔食〕をも喜ぶべからず。
711. 牟尼は村に来たりて、家々を急ぎ行くべからず。唖者の如くせよ。食を求めんと策したる語を語るべからず。
712. もし〔食を〕得なばこれ可なり。〔もし食を〕得ざるも善しとて両者をば同様に見なし、平然として彼は還り来る。
713. 彼は鉢を手にして遊行しつつ、唖者に非ずして唖者と謂われ、僅少の施をも軽んずべからず。〔その〕施者をも軽蔑すべからず。
714. 沙門(仏)によりて種々なる〔至高の〕行道が説かれたり。彼岸に二回至ることなく、一回にてこれ(到彼岸)あるなし。
715. 〔輪廻の〕流れを断ちたるかの比丘には愛着あることなし。種々の所作(善悪)を捨断せる〔比丘〕には熱悩あることなし」。
716. 世尊宣わく、「牟尼行を汝に知らしめん。〔食を摂ること〕剃刀の刃〔を嘗むる〕が如くせよ。舌を以て口蓋を抑え、胃に対して自制すべし。
717. 沈滞の心あるべからず。また多くを思念すべからず。臭穢なく、依著あるなく、梵行を最後の目的とすべし。
718. 独座(身離)と親近沙門(心離)とをまさに学すべし。牟尼行は独一(離)と称せらる。もし独り〔行道を〕楽しまば、
719. 然らば〔名声〕十方に輝く。禅思し、諸欲を捨てたる諸の賢者の名声を聞きては、我が弟子は慚と信とをますます増長せしむべし。
720. そは河底の深く掘られたる河川〔の譬〕もて識るべし。〔即ち〕河底浅き小川は音を立てて流れ、大河は音を立てずして流る。
721. 水浅きものは音を立て、満水せるものは寂静なり。愚者は半水の瓶の如く、賢者は満水の湖の如し。
722. 沙門(仏)が、〔法と義を〕具しかつ、利益あることを多く語るは、彼は〔自ら〕知りて法を示し、彼は〔自ら〕知りて多く語るなり。
723. また〔自ら〕知りて〔心を〕自制し、〔自ら〕知りて多く語らざる彼牟尼は牟尼行に値し、彼牟尼は牟尼行に証達せり」。
那羅迦経終われり。
<12. 二種随観経>
かくの如く我聞けり。
一時世尊は舎衛城の東園鹿母高堂に住したまえり。
その時、世尊は十五日の布薩の満月の夜に、比丘衆に囲繞せられて露地に座したまえり。
時に世尊は沈黙せる多くの比丘衆を顧みて諸比丘に告げて宣わく、「諸比丘よ、〔世間を〕出離し正覚に至る聖なる諸の善法あり。諸比丘よ、『汝等は何故に〔世間を〕出離し正覚に至る聖なるそれらの善法を聞くや』と、もし諸比丘よ、〔汝等に〕問う者あらば、〔汝等は〕彼等にかく答うべし、『二法を如実に知らんがために他ならず』と。然らば汝等は何をか二と言う。『これ苦なり、これ苦の集なり』とはこれ一随観なり。『これ苦の滅なり、これ苦の滅に至る道なり』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、更にまた師は告げて宣わく、
724. 「苦を知解することなく、また苦の発生を〔知らず〕、また苦が遍く残りなく絶滅する処を〔知らず〕、また苦の寂滅に至るかの道を知らざる所の、
725. 人々は心解脱あるなく、また慧解脱も〔あるなく〕、彼等は〔苦〕際を尽くす能わず。彼等は実に生と老に至る。
726. されど苦を知解し、また苦の発生を〔知り〕、また苦が遍く残りなく、絶滅する処を〔知り〕、また苦の寂滅に至るかの道を知解する所の
727. 人々は心解脱を具足し、また慧解脱を〔具足す〕、彼等は〔苦〕際を尽くすを得。彼等は実に生と老に至らず」。
「『また他の異門によりても正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、そはすべて依によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど依の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて〕更にまた師は告げて宣わく、
728. 「世間におけるあらゆる種々なる苦は依を因縁として発生す。知らずして依を作る所の愚鈍者はしばしば苦を受く。故に苦の発生を随観する者は、〔如実に〕知りて依を作らざれ」。
「『また他の異門によりても正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて無明によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど無明の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
729. 「この状態より他の状態へと、生と死の輪廻をば、しばしば〔輪転し〕行く人々はその趣(縁)は無明にあり。
730. 蓋し、無明はこれ大痴なり。それによりてこの久しき輪廻あり。明(智慧)に至れる諸有情は、再有に来ることなし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて行によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど諸行の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
731. 「いかなる苦が発生すとも、すべて行によりて〔発生す〕。諸行の滅によりて、苦の発生あることなし。
732. 苦は行によりて〔発生す〕。これ過患なりと知りて、一切の行を止息せしめ、〔欲等の〕諸想を断滅せば、ここに苦の滅尽あり、これを如実に知り終わりて、
733. 正しく見、吠陀に達し、正しく知れる諸の賢者は、悪魔の結に打ち勝ちて、再有に来ることなし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて識によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど識の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
734. 「いかなる苦が発生すとも、すべて識によりて〔発生す〕。識の滅によりて、苦の発生あることなし。
735. 苦は識によりて〔発生す〕。これ過患なりと知りて、識を寂静ならしむるが故に、比丘は愛なく寂滅す」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて触によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど触の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
736. 「かの触に打ち敗れて、有の流れに従い行き、邪道を行く人々には、結の滅尽あることなし。
737. されど触を遍知し了知して、寂静を喜ぶ所の人々、彼等は実に触の止滅の故に、愛なくして寂滅す」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて受によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど受の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
738. 「楽にせよ或いは苦にせよ、また不苦不楽にせよ、内なるもまた外なるも、すべて感受せられたるは、
739. これ苦なりと知り、虚偽の〔滅〕法・破壊の法に〔智もて〕触るる度毎に、衰滅を認め、かくてそれを離貪す。諸受の滅尽の故に比丘は、愛なくして寂滅す」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて渇愛によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど渇愛の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
740. 「渇愛を友とせる人は、長時に輪廻しつつ、この状態より他の状態への輪廻を超度するなし。
741. 渇愛は苦の発生〔の縁〕なり。これ過患なりと知りて、渇愛を離れて取あるなく、念ありて比丘は普行すべし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて取によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど取の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
742. 「取によりて有あり。有者(生類)は苦を受く。生まれたる者には死あり。これ苦の発生〔の縁〕なり。
743. 故に取の滅尽の故に、正しく了知する諸賢者は、生の滅尽をば知通し、再有に来ることなし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて齷齪によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど齷齪の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
744. 「いかなる苦が発生すとも、すべて齷齪によりて〔発生す〕。諸の齷齪の滅によりて、苦の発生あることなし。
745. 齷齪によりて苦あり、これ過患なりと知りて、一切の齷齪を捨遣し、齷齪なくして解脱し、
746. 有愛を断絶し、心寂静となれる比丘は、生の輪廻を越度せり。彼には再有あることなし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて食によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど食の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
747. 「いかなる苦が発生すとも、すべて食によりて〔発生す〕。諸の食の滅によりて、苦の発生あることなし。
748. 食によりて苦あり、これ過患なりと知りて、一切の食を遍く知り、一切の食に依止せず。
749. 吠陀の達人は無病(涅槃)を正しく了知し、諸漏の遍尽の故に、省察して〔食を〕受用し、法に住し、〔輪廻の〕数に入ることなし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『いかなる苦が発生すとも、すベて動転によりて〔発生す〕』とはこれ一随観なり。『されど動転の残りなき離と滅との故に苦の発生あることなし』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
750. 「いかなる苦が発生すとも、すべて動転によりて〔発生す〕。諸の動転の滅によりて、苦の発生あることなし。
751. 動転によりて苦あり。これ過患なりと知り、かくて愛欲を捨て、諸行を滅せしめ、不動にして取あるなく、念ありて比丘は普行すべし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『依止ある者には動揺あり』とはこれ一随観なり。『依止なき者は動揺せず』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
752. 「依止なき者は動揺せず。依止ある者は取著し、この状態より他の状態への輪廻を越度せず。
753. 諸の依止に大怖畏あり。これ過患なりと知りて、依止なく取著あるなく念ありて比丘は普行すべし」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。『色〔界定〕よりも無色〔界定〕は一層寂静なり』とはこれ一随観なり。『無色〔界定〕よりも滅〔尽定〕は一層寂静なり』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
754. 「色〔界定〕に至る諸の有情、及び無色〔界定〕に住する人々は、滅〔尽定〕を知解することなく、再有に来る人々なり。
755. されど色〔界定〕を遍知し、無色〔界定〕に善く住立し、滅〔尽定〕の中に解脱する人々、彼等は死〔魔〕を捨てたるなり」。
「『また他の異門によりても〔正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。〕然らば云何。諸比丘よ、『天を含めたる魔を含めたる梵天を含めたる世界において、沙門婆羅門を含めたる天と人とを含めたる〔一切の〕人々の中において、「こは真理なり」と考えられたるものは、諸聖者には、「これ虚妄なり」と如実に正慧もて善く見られたるものなり』とはこれ一随観なり。諸比丘よ、『天を含めたる魔を含めたる梵天を含めたる世界において、沙門婆羅門を含めたる天と人とを含めたる〔一切の〕人々の中において、「こは虚妄なり」と考えられたるものは、諸聖者には、「これ真理なり」と如実に正慧もて善く見られたるものなり』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく〔二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、〕更にまた師は告げて宣わく、
756. 「非我なるものを我と謂える、名と色とに住著し居れる天を含めたる世〔人〕を見て、これ真理なりと〔愚者は〕考う。
757. 〔愚者が〕かく考うる所のそ〔の考え〕よりそは異れり。蓋し彼〔愚者〕のそ〔の考え〕は虚妄なり、暫時〔的世〕法は虚妄(滅)法なればなり。
758. 涅槃は不虚妄法なりと、そを諸聖者は真に知る。彼等は実に真理を解するが故に、愛なくして寂滅す」。
「『また他の異門によりても正しき二種随観ありや』と諸比丘よ、もし問う人々あらば、『あり』と彼等に答うべし。然らば云何。諸比丘よ、『天を含めたる〔魔を含めたる梵天を含めたる世界において、沙門婆羅門を含めたる〕天と人とを含めたる〔一切の〕人々の中において、「こは楽なり」と考えられたるものは諸聖者には、「これ苦なり」と如実に正慧もて善く見られたるものなり』とはこれ一随観なり。諸比丘よ、『天を含めたる〔魔を含めたる梵天を含めたる世界において、沙門婆羅門を含めたる〕天と人とを含めたる〔一切の〕人々の中において、「こは苦なり」と考えられたるものは、諸聖者には、「これ楽なり」と如実に正慧もて善く見られたるものなり』とはこれ第二随観なり。諸比丘よ、かくの如く正しく二を随観し、不放逸にして熱心に自ら精勤して住する比丘には、(一)現世における完全智(阿羅漢)又は(二)残余〔の煩悩〕ある時には〔現状への〕不還(阿那含)の二果中の随一の果が期待せらる」。
世尊は右の如く宣えり。
善逝はかく言い終わりて、更にまた師は告げて宣わく、
759. 「有りと言わるるだけのあらゆる色と声と味と香と触と法とは好ましく愛すべく意に適うものなり。
760. 天を含めたる世界〔の人々〕にはこれらは実に楽なりと思惟せらる。されどこれらが滅する時は、そは彼等に苦なりと思惟せらる。
761. 有身の断滅することは、諸聖者には楽なりと見らる。〔正しく〕見る人々のこ〔の考え〕は、一切世間〔の考え〕と反対なり。
762. 他の人々が楽なりと言うものを、諸聖者はこれを苦なりと言う。他の人々が苦なりと言うものを、諸聖者はこれを楽なりと言う。〔かく〕了知し難き法を見よ。無知の人々はここに痴迷す。
763. 〔無明に〕覆われたる人々には闇あり。〔正しく〕見ざる人々には暗黒あり。〔正しく〕見る諸の善人には光明の〔輝く〕如く〔涅槃の〕開顕あり。法に熟達せざる獣〔の如き愚人〕は、近くにある〔涅槃〕を識ることなし。
764. 有貪に打ち敗れ、有の流れに従い行き、魔の支配下に至れる人々には、この法は善く正覚せられず。
765. 諸の聖者を除きては〔涅槃の〕句を正覚するに値する者誰かある。その〔涅槃〕句を正しく了知せば、〔人々は〕無漏となりて般涅槃す」。
右の如く世尊は宣えり。
意悦べる彼等諸比丘は世尊の所説を〔聞きて〕歓喜せり。
而してこの説法がなさるる時、六十人の比丘の心は取著なくして諸漏を解脱せり。
二種随観経終われり。
この〔二種随観経の〕摂頌
諦(真理)と依と無明と、諸行と第五には識と、触と諸受と渇愛と、取と齷齪と諸の食と、動転と動揺と色と、真理と苦とによりて十六なり。
大品第三〔終われり〕。
その摂頌
出家と精勤と、善説とまた孫陀利と、摩伽経と薩毘耶と、施羅と矢とが説かる、また婆私陀と拘迦利耶と那羅迦と二種随観とのこれらの十二の経が大品と言わる。
第4章・義品
<1. 欲経>
766. 欲〔の対象〕を欲しつつある彼にもしそが成じなば、人は欲せしものを得て、確かに〔彼は〕心喜ぶ。
767. もしかの欲しつつある欲を生じたる人に、それら諸欲が失わるれば、〔彼は〕矢に射られたるが如く悩む。
768. 蛇の頭より足〔を避くる〕が如く、諸欲を回避する者、彼は世間の愛着をば、念ありて正に超越す。
769. 田畑や道具や黄金や、牛や馬や奴僕や傭人や、婦人や親類や多くの欲やを、追い求むる所の人あらば、
770. 彼に無力(煩悩)が打ち勝ち、彼を諸危難が打ち破る。
かくて彼に苦が従うこと、壊れたる舟に水の〔入るが〕如し。
771. 故に人は常に念ありて、諸欲をまさに回避すべし。
船のあかを汲み出すが如く、到彼岸者は、彼等〔諸欲〕を捨断して暴流を度るべし。
欲経終われり。
<2. 窟八偈経>
772. 窟(身体)に著し多くのものに覆われて住しつつある人は令愚(欲)中に沈潜せり。
かくの如き人は実に遠離より遠ざかる。
欲は世間にて捨断し易からざればなり。
773. 欲求を因縁として有の楽に結ばれたる、彼等は解脱し難し。
蓋他脱に非ざればなり。
〔彼等は〕後(未来)をも前(過去)をも期待しつつ、これら〔現在未末〕の諸欲も前(過去の欲)をも求む。
774. 諸欲に対して貪求し熱中し昏迷し、吝嗇にして彼等不正(悪業)に住著せる者は、「これより死して我等はいかになるならん」とて苦に陥りて悲泣す。
775. 故に人はここ(仏教)にて〔次の如く〕学すべし。
世間におけるあらゆる不正を〔不正と〕知り、そ〔の不正〕によりて不正を行うべからず。
諸賢者はこの命は短少なりと言えばなり。
776. 我は世間にて顫動しつつある者を見る。
この人々は有に対する愛に至れるなり。
劣れる人々は死〔神〕に直面して泣き、種々の有に対する愛を越えず。
777. 我執ありて動じつつある人々を見よ。
〔彼等は〕涸れたる河の少水中の魚の如し。
これを見ては我執なくして行ずべし。
有に対して繋著をなさずして。
778. 両辺(極端)に対する欲を調伏すべし。
触を遍知し随貪あることなく、自ら呵すべき〔悪業〕を行うなく、賢者は見と聞とに著するなし。
779. 想を遍知して暴流を度るべし。
牟尼は諸遍取に染着するなく、矢を抜き不放逸にして行じつつ、この世と他〔世〕とを願求するなし。
窟八偈経終われり。
<3. 瞋怒八偈経>
780. 一部の人々は実に瞋怒の意ありて〔誹謗を〕語り、他の人々は〔そを妄信し〕真実と意いて〔誹謗を〕語る。
牟尼は生じたる〔誹謗の〕語に近づかず。
故に牟尼には何処にも〔心〕裁あるなし。
781. 欲に牽かれ、意欲に住著せる者は、己が見をいかにして越ゆべけんや。
〔彼は〕自ら完成せりと〔思い〕なしつつ、知るが如くにそのままに言うなるべし。
782. 質問せられずして他の人々に、自己の戒と務め(頭陀)とを言う人、〔及び〕自己を自ら言う者あらば、そを諸善巧者は非聖法なりと言う。
783. また寂にして自ら寂滅せる比丘は、我はかくの如しと諸戒を誇るなく、彼には世間の何処にも〔煩悩〕増盛あるなし。
そを諸善巧者は聖法なりと言う。
784. 不浄白の諸法ありて〔そを〕遍計し、造作し重視する所の人は、かの自己〔の見〕に功徳を見て、その動(妄見)による〔虚〕寂に依止せり。
785. 諸法に対する取著を〔取著と〕確知して、見住著を離越するは実に易からず。
故に人は彼等住著に在りて、〔正〕法を放棄し、また〔諸法を〕取著す。
786. 除遣者には実に何処の世間にても、種々の有に対する遍計の見なし。
除遣者は謟と慢とを捨断せり。
近著なき彼は何ぞ〔輪廻に〕赴かん。
787. 近著者は諸〔煩悩〕法の語を受く、(彼は貪あり瞋あり等と)。
不近著者をばいかんが何〔の語〕もて説くべけん。
蓋し、彼には我も非我もあるなく、彼はここに一切の見を遣りたればなり。
瞋怒八偈経終われり。
<4. 浄八偈経>
788. 「第一無病なる浄を我は見る、〔その〕見によりて人に正浄あり」、とかく知解するを第一なりと知り、浄観者は〔見を〕智なりと解す。
789. もし見によりて人に浄あらば、又は智によりて彼は苦を捨断せば、〔聖道〕以外によりて彼有依者は浄まる〔べし〕。
実にかく説く彼を〔邪〕見者と言う。
790. 婆羅門(漏尽者)は〔聖道〕以外の見や聞や、戒や務めや覚における浄を言わず。
〔彼は〕善にも悪にも染着し居らず。
自己を捨ててこの世にて〔善悪を〕行わず。
791. 前〔の師等〕を捨てて後〔の師等〕に依止し、動〔貪〕に従う人々は著を度ることなし。
彼等は把捉しては放棄すること、〔他を放して〕面前の枝を把うる猿の如し。
792. 自ら諸務を受持する人は、想に著して彼此〔の師等〕に至る。
智者は吠陀(智)もて法を証知し、広慧ありて彼此に至ることなし。
793. あらゆる見たる聞きたる覚りたる一切諸法において彼は破〔煩悩〕軍し居れり。
かの〔煩悩の覆を〕開き行ずるかかる見者を、何ぞこの世間において〔妄想〕分別すべけん。
794. 〔諸の漏尽者は諸法を〕分別せず重視せず。
彼等は〔世間を〕究竟清浄なりと言わず。
繋せられたる取繋を放棄して世間の何処においても意欲をなさず。
795. 婆羅門(漏尽者)は界(煩悩)を超えたり。
知り終わり見終わりて彼には執取なし。
貪への貪なく離貪への貪もなし。
彼には「これ第一なり」との執取なし。
浄八偈経終われり。
<5. 第一八偈経>
796. 第一なりとて〔各自〕諸見に遍住し、そを人は世間において最上となし、それ以外のものはすべて劣なりと言う。
故に諍論を離越することなし。
797. あらゆる自己の見や聞や戒や、務めや覚において彼は功徳を見る。
それのみを彼はそこに執取し、他の一切をば賤劣なりと見る。
798. 他を劣なりと見るあらゆる依上者、彼をも諸善巧者は繋ありと言う。
故に見や聞や覚や戒や務めに、比丘はまさに依著すべからず。
799. 智によりても戒や務めによりても世間において見を営み〔起こす〕べからず。
自己を〔他に〕等しと見做すべからず。
劣なりとも勝なりとも思うべからず。
800. 自己を捨断して取著することなく、智に対しても彼は依上をなさず。
彼は実に異浄者中にて違和に至らず。
彼は何等の〔悪〕見にも戻り来らず。
第5章・彼岸道品
スッタニパータの名言を解説
ではここで、よく名言とされるお言葉を5つ挙げて解説していきます。
35.サイの角の如くまさに独り遊行すべし(犀角経)
35.サイの角の如くまさに独り遊行すべし(犀角経)
これは、修行者に対していわれた言葉です。
出家して解脱を求める人は、一人で修行しなさい、ということです。
そもそも当時の修行者は、午前中には人々の間に乞食に回って食事の布施を受け、それから午後に修行をすることになっています。
すべての人間関係を断つという意味ではありませんので注意が必要です。
在家の人にとっては、
「262. 母や父への孝養と、子や妻の摂取(扶養)と、混濁なき〔正しき〕業務とは、これ最上の吉祥なり。」とも説かれています。
これは、親孝行することや、妻子を養うことが最高の幸せということです。
普通は何か苦しいことが来た時に、
「あいつのせい、こいつのせい」と他人のせいにしますが、
仏教では、自業自得が教えられています。
自分の行いを反省して改善していきなさい、ということです。
145.一切有情は幸福なれ、安穏なれ、福祉あれ(慈経)
145.一切有情は幸福なれ、安穏なれ、福祉あれ。
「有情」とは心のあるもの、ということで、生き物のことです。
仏教では、一切の生きとし生けるものに上下関係はなく、みな平等です。
なぜかというと、私たちは、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わりを繰り返していますが、それは人間にだけ生まれ変わるわけではありません。
犬や猫、鳥や魚、虫など、一切の生きとし生けるものに生まれる可能性があります。
ですから、今は他の動物や虫に産まれている生命も、これまでの果てしない長い間には、父母、兄弟姉妹、子供などだったかもしれません。
人類はみな兄弟とはよくいわれますが、仏教では、すべての生きとし生けるものはみな兄弟なのです。
それで、一切の生きとし生けるものに幸せになってもらいたいという慈悲の心を起こすのです。
666.何者の業も滅することなく必ず来たりて業の主これを得
666. 蓋し、何者の業も滅することなく、そは必ず来たりて〔業の〕主が〔之を〕得、愚鈍なる者は〔自ら〕罪過を作りて、他世にて自ら苦を受くればなり。
仏教は、因果の道理を根幹として説かれています。
因果の道理というのは
すべての結果には必ず原因がある、ということです。
しかも、私たちの運命は、自らの行為の生み出したものであり、
行為と運命の間には、
「善因善果、悪因悪果、自因自果」
という関係があります。
善いことをすれば善い結果、
悪いことをすれば悪い結果、
自分のまいた種は自分が刈り取らなければならない、ということです。
この行いのことを仏教で業といいます。
「何者の業も滅することなく」と説かれているように、一度やったことは,決して消えることはありません。
すぐには結果にならなかったとしても、やがて必ず自分の運命を作り出す時がきます。
愚かな人は、悪いことをやっても大丈夫じゃないかと思って、自ら悪い行いをして、未来に苦しむのだということです。
業は決して消えずに未来の運命を作り出すということは、悪い行いをせずに作せずに、善い行いをすることが大切です。
657.生まれたる人の口には実に斧が生じ居れり。愚者は悪言を語りつつそ〔の斧〕もて自己〔の善根〕を切る。
657. 生まれたる人の口には実に斧が生じ居れり。愚者は悪言を語りつつそ〔の斧〕もて自己〔の善根〕を切る。
これは、私たちの口の中には斧が生えていて、愚か者は、悪口をいってその斧で自分を切るということです。
悪口というと、他人を傷つける言葉なので、他人を斧で切るのかと思ったらそうではありません。
他人を傷つければ、それは悪業となって、自分に不幸や災難をもたらします。
政治家なら、不用意な発言が問題にされて、辞職に追い込まれることもあります。
まさに口は自らを断ち切る斧です。
「口はわざわいの門」といわれるように、うっかり言ったことが後々まで自分を苦しめるということです。
136.行為によりて婆羅門となる
136. 生まれによりて賤民なるに非ず、生まれによりて婆羅門なるに非ず。
行為によりて賤民となり、行為によりて婆羅門となる。
お釈迦さまの当時、インドではカースト制度といわれる身分制度がありました。
その中で、婆羅門というのは、司祭階級のバラモンです。
その下に、王族武人階級のクシャトリヤ、
一般人のヴァイシャ、
奴隷階級のシュードラと続きます。
賤民がシュードラを表しています。
このお言葉は、生まれによって決められていたのですが、お釈迦さまはその生まれによる身分差別を否定されたお言葉です。
人は生まれが大事なのではなく、何をするのかという行いが大事だ、ということです。
「行為によってバラモンとなる」というのは、バラモン教のバラモンではなく、行為によって聖者になる、ということです。
だから、善い行いをすることが大切のです。
スッタニパータの内容を要約すると?
このように『スッタニパータ』は色々なお経を集められたものですので、お釈迦さまの伝記もあれば、因果の道理、怒りや執着といった煩悩など、様々なことが説かれています。
体系化されたり、ストーリーとなっているわけではないので、スッタニパータの内容を要約することは難しいものとなっています。
ですが『ダンマパダ』と同じように、初めての人でも分かりやすい、因果の道理のような仏教の初歩的な教えが説かれているといえるでしょう。
因果の道理というのは、
善い行いをすれば幸せが生じ、
悪い行いをすれば不幸や災難が生じる。
自分のまいたタネは自分が刈り取らなければならない、
ということです。
そして、因果の道理に立脚して、苦しみの原因についてこう教えられています。
「1050.世間におけるあらゆる種々なる苦は、依を因縁として発生す」
「依」というのは執着のことですので、人間の苦しみの原因は執着である、ということです。
ところが、執着というのは煩悩のことで、人間の基本的な心の働きなので、執着をなくすことはできません。
そこでお釈迦さまは、別のお経には、さらに深い苦悩の根元を説かれています。
それを断ち切って本当の幸せになる道を教えられているのが仏教です。
では、苦悩の根元とはどんなことで、どうすればそれを断ち切れるのでしょうか。
それについては仏教の真髄ですので、以下のメール講座と電子書籍に分かりやすくまとめておきました。
ぜひ読んでみてください。
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この記事を書いた人

長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部で量子統計力学を学び、卒業後、学士入学して東大文学部インド哲学仏教学研究室に学ぶ。
仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)