仏教学
仏教学というと、仏教を学びたい人が関心を持つと思います。
仏教には、生きている時に本当の幸せになれる深い教えが説かれています。
人生をよく考えている人は普通は学びたくなるものです。
ところが現代日本では、仏教学を学んでも仏教は分からないのです。
それどころか、大変不幸な結末が待っています。
それは一体どうしてなのでしょうか。
そしてどうしてこんなことになっているのでしょうか?
2種類の仏教学とは?
仏教学には、実は大きく分けて2種類あります。
昔ながらの伝統的な仏教学と、近代の西洋的な仏教学の2つです。
1つ目の伝統的な仏教学は、伝統仏教で、昔、仏教の学問の「宗乗」と「余乗」と言われていたものです。
宗乗とは、自分の宗派の教え、余乗とは、自分以外の宗派の教えや、仏教全般に共通する教えのことです。
特に余乗を最近では、現代的に仏教学と呼ばれます。
2つ目の西洋的な仏教学は、明治以降、西洋の文献学の手法を用いた西洋的な学問の世界の仏教学です。
この2つを比べると、西洋の学問の手法を用いた仏教学の方が、客観的でいいイメージを受けますが、実は、大きな問題があります。
これを知らずに仏教を学ぼうとしても、仏教は分かりませんし、それを自分の人生に活かすこともできなくなってしまいます。
それはどんなことなのでしょうか?
仏教界の現状
現在主流となっているのは、西洋の学問的な仏教学です。
世界中の学者が集まる学会があり、論文が提出されるものです。
伝統的な仏教教団の作った大学でも、現在ではこの仏教学の影響を大きく受けています。
西洋の仏教学は1930年頃までは各国の一流の学者たちがたくさんの研究を発表し、盛り上がっていたのですが、その後は後継者が少なくなり、それらの学者達が死んでしまうと、学会が寂しくなってきました。
研究者たちの関心が薄れてしまったのです。
日本の仏教関係の本も、時代を経るにつれて、新しければ新しいほど程度が下がってきており、昔にさかのぼるほど、研究の質が高まる状態です。
なぜこんなことが起きるのでしょうか?というと、
仏教を研究しようという気持ちが起きるのは、仏教が盛んだからです。
仏教が衰退すれば、仏教への関心も薄れ、仏教学も衰退します。
ところが、西洋由来の仏教学に仏教を衰退させる要因があります。
すぐれた仏教学者の中には、このことに気づいて警鐘をならしている人もあります。が、
西洋由来の仏教学は、一体どんな所が、仏教を衰退させるのでしょうか?
伝統的な仏教の教えと、西洋由来の仏教学の違いを7つの観点から見てみましょう。
1.歴史
西洋の学問的な手法を使った仏教学というと、アカデミックですぐれたイメージがあります。
ところが、西洋の仏教学はまだ始まったばかりで、歴史が非常に浅いのです。
西洋の印度学はアジアの植民地化と共にアジアを研究しようという動きが始まりました。
印度学が始まったのが、ようやく18世紀の1748年にアジア協会が設立されたところからです。
ところが、仏教学はそれよりはるかに遅くなります。
19世紀の中頃、ネパールから大量の写本を持ち帰ったホジソンが1841年に、『仏教の文献と解説』を著します。その写本に基づいて、ビュルヌフが、1845年に『インド仏教史序説』、1852年に『法華経』のフランス語訳を出版して本格化することになります。
19世紀後半になると、リス・デヴィス、オルデンブルク、セナールなどの有名な学者を輩出して、パーリ文献を中心に研究がされるようになりました。
日本では、19世紀後半は、明治時代になり、文明開化の西欧に学ぶ機運に乗り、仏教学者までも、西洋の方法がすばらしいものだと思ってしまったのです。
南条文雄をはじめとする高楠順次郎などの仏教学者は、仏教を研究するのにイギリスに留学し、ドイツ出身のマックス・ミューラーに学んだのです。
こうして帰国して大学で教えるようになったために、日本の仏教学が西洋由来のものに取って代わられてしまいました。
このように、西洋の仏教学の歴史は浅く、長く見積もって200年程度です。
それに対して、伝統的な仏教学は、短く見積もっても2000年以上にわたる研究成果が蓄積され、それをふまえてできているものですので、伝統的な仏教学は、西洋をはるかに先行しています。
19世紀に始まった西洋の仏教学とは、その深みはまったく違うのです。
2.研究手法
西洋の学問的な手法というのは、文献学や歴史学です。
文献学というのは、成立の歴史を推測したり、複数の写本から原典を再現しようとするものです。
また、歴史学は、実証主義といって、キリスト教の神学や西洋哲学の形而上学のような、観測不可能なものを根拠とせず、残されていた文献や碑文など、観測可能なものを根拠として、それに語源や当時の文化などを考え合わせて、科学的、客観的に歴史を把握しようとします。
そのため、大学の仏教関係の研究室に行くと、発掘してきた、古くて真っ黒になった文献の断片を解読しようとしたりしています。そして、よく穴が開いていたり、破れたり、読めなくなったりしているので、欠けている部分にはどんな単語が入っていただろうかという可能性を推測しています。
そこに大きな時間と労力を注ぎ込みますが、長年かかって、分かることはごくわずかです。しかもそれは神学よりは科学よりですが、科学とは大きく異なりますので、新しい発見などは、多分にその研究者の考えが入った主張になります。
それに対して、伝統的な仏教学は、経典に基づいて、仏教の教えの通りの修行をし、体で知らされる体験を通して教えを理解します。
つまり、西洋的な研究態度では実践なしに頭だけで考えるのに対し、伝統仏教では理論と実践によって仏教を理解しようとするのです。
3.拠り所
西洋から来た文献学的な仏教研究は、文献や、書かれている言葉の語源、当時の文化などを考え合わせて仏教を否定し、自分の考えでこのお経はお釈迦さまの説かれたものではないとか、この部分は後からつけ加えられたものだなどとお経を否定します。
さらに、仏教とはこういうものだとお経に説かれていないことを主張し始めます。
最終的な拠り所は自分の頭です。
伝統的な仏教では、仏教とは、今日、四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられるお釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの45年間に説かれた教えを仏教といいます。
その内容は、お経に書き残されています。そのお経全部を「一切経」といいます。
それは七千余巻といわれるたくさんのお経です。
この一切経七千余巻に説かれている教えが仏教ですので、伝統的な仏教の拠り所は一切経です。
仏教を論ずる土俵は一切経であり、この一切経から外れたものは、仏教とは言いませんので、西洋由来の仏教研究は、仏教ではなく、近代の無名な学者の思想ということになります。
4.研究内容
西洋的な研究と、伝統的な仏教では、研究内容も大きく異なります。
西洋的な研究は文献学であり歴史学ですので、主に経典の成立史を研究します。
仏教の教えの内容は、二の次です。そして教えの内容を研究する場合は、他の思想と比較したりして違いを論じます。
伝統的な仏教では、仏教の教えこそ学ぶべき対象です。
それは、仏のさとりによって明らかになったいつでもどこでも変わらない真理です。
悟りの内容であり、その悟りに至る道を教えられたのが仏教です。
歴史は二の次どころか、悟りに至るのに役立たないので、ほとんど関心を示されません。
つまり、研究内容は、西洋的な仏教研究は経典などの歴史で、伝統的な仏教は仏の明らかにされた真理です。
5.理解の傾向
西洋から来た仏教は、内容に偏りがあります。
もともと五感で観測できるものに力を入れているので、どうしても現世的になり、前世や来世を否定しがちになります。これは特に、昭和5年に宇井伯寿が、昭和8年に和辻哲郎が東京帝国大学教授に就任してから、この2人の考え方により、中心的になりました。
この傾向から、この世だけで分かる無我などは喜んで研究しますが、下手をするとお釈迦さまは死後は説かれなかったと主張する者までいます。
ところが仏教では、現世だけでなく、前世も来世も説かれます。
お釈迦さまは仏のさとりを開かれて、仏智によって、前世、現世、来世の三世を貫く因果の道理を説かれ、輪廻転生を説かれています。
三世因果の道理は仏教の旗印なのです。
伝統仏教では当然ながら、お釈迦さまの説かれた通りに理解し、三世の輪廻を前提としています。
自分がわからないからといって、死後の世界を否定するのは、仏教ではありません。お釈迦さまが断見といって排斥されている外道です。
また、西洋では伝統的に、真理は言葉で表せるものと思っています。
そのため、言葉の語源などを根拠にし、真理よりも言葉にとらわれます。
東洋ではもともと真理は言葉にかからない前提があり、それを仮に不完全な言葉で表現しているものです。
そのため、言葉よりも真理を重視します。
6.研究姿勢
なぜこれまでの5つのような違いがでてくるのでしょうか。
それは研究姿勢の違いによります。
西洋的な学問では、批判的に研究することが求められます。
先人の述べていることについて「本当にそうなの?」と疑ってかかり、
それを自分で確かめて、全否定したり、修正したりします。
これは西洋の学問としては当然の研究姿勢で、研究者としてなければならないものです。
そのために、お経の内容を取捨選択し、説かれている内容を否定したり、
説かれていない内容を推測して主張するということが出てきます。
これは確かに、人間が考えて論理的に作りあげようとしている西洋の学問の場合は、適切な考え方です。
それは、時代が進むにつれて、人間は進歩するはずなので、先人の考えを乗り越えていくべきだからです。
ですが、仏教の場合は、先人というよりも、
人間とは比較ならない高い悟りを開いた仏の説かれたことについての研究になります。
西洋の学問の研究姿勢をそれに当てはめてしまうために、
「釈迦よりも自分のほうが正しい」という前提で研究することになります。
人間が自分の信念を排除するのは不可能だと思いますが、
一応客観的を標榜していますので、研究者は仏教を信じているわけでもありません。
その研究姿勢は、「自分が正しく、釈迦が間違っている」というものです。
伝統的な仏教ではどうかというと、
お釈迦さまの開かれた仏のさとりは、大宇宙の真理をすべて体得された、最高無上の完全な覚りです。
それはこれ以上付け足すものも、引き去るものもなく、言葉を離れたものです。
ですが言葉でなければ分からないので、無理に不完全な言葉で説かれた真理が仏教です。
ですから、信じようとしても信じられず、そう簡単に近づくこともできない境地を、
いかに少しでも理解するかということになります。
そして自分の力では幸せになれないので、
仏のさとりを開かれたお釈迦さまの教えを受けるというものですので、
当然、「仏教が正しく、自分は迷っている」という姿勢で仏教を学びます。
一般的にも、先生を軽んじていては何も学べませんが、仏教は、人類の到達した最深の思想といわれる底知れず深い教えです。
仏教を軽んじて、頭だけで理解しようとしても、理解はできないのです。
仏教は、仏法僧の三宝を敬い、自分は迷いを打ち破って頂く教えを受けるという姿勢で学んで、その教えが知らされてくるのです。
そういうことで、西洋由来の仏教学は、「仏教」という言葉が入っているのですが、仏教だと思って学んだら大変です。
経典などが共通していますが、根本的なところでは正反対の、仏教とは似て非なるものです。
7.目的
このような様々な違いが出てくる根本には、目的の違いがあります。
西洋由来の仏教を学ぶ目的は、興味や好奇心であり、知識欲を満たすためです。
そのため、この西洋的な仏教学で、幸せになった人、救われた人は1人もいません。
それに対して伝統仏教は、仏教の教えによって、自分も他人も、すべての人が幸せになるために、仏教を学ぶのです。
そして、お釈迦さまが2600年前に仏教を説かれて以来、インド、中国、日本の数知れない人々が本当の幸せに救われているのです。
このような根本的な目的の違いから、それを果たすための手段にも、色々な違いが出てくるのです。それではこれまで明らかにしてきた、西洋由来のアカデミックな仏教学と、伝統的な本来の仏教の7つの違いを表にまとめてみましょう。
西洋的な仏教学と本来の仏教の7つの違い
イメージとしては本来の仏教は古く、西洋的な仏教学がアカデミックで新しく印象がいいのですが、実はこれまで見てきたように、このような違いがあります。
No. | 項目 | 西洋由来の仏教学 | 本来の仏教 |
---|---|---|---|
1 | 歴史 | 200年足らず | 2000年以上 |
2 | 研究手法 | 文献学・実践なし | 理論と実践 |
3 | 拠り所 | 自分の考え | 一切経七千余巻 |
4 | 研究内容 | 経典などの歴史 | 仏教の教え |
5 | 理解の傾向 | 現世的 真理より言葉にとらわれる |
三世を貫く 言葉より真理を重視 |
6 | 研究姿勢 | 釈迦より自分が正しい | 釈迦の教えを受ける |
7 | 目的 | 知的好奇心を満たす | すべての人の救い |
このように、表にまとめると一目瞭然です。
このような違いが出てくるのは、西洋の異なる文化の色眼鏡で、仏教の教えを見るからです。
例えば太陽なら、日本では日の丸に見られるように、赤い色をイメージします。
「真っ赤な太陽」という言葉もあります。
ではその太陽を英語に翻訳するとどうなるかというと「サン(sun)」になります。
英語圏で「サン」は赤いとは思いません。黄色です。
しかし日本人は、「真っ黄色な太陽」とはあまり考えません。
やはり真っ赤な太陽のほうがしっくりきます。
科学的なことをいえば、太陽光のスペクトルはすべての色を含んでいるので、太陽の色は白です。
ですが文化によって、同じ太陽が赤く見えたり、黄色く見えたり、色が変わってしまうのです。
西洋の文化では、人文科学といえば、文献の精緻な読解と研究によるもので、それが知のコアとなります。
そして良書を正確に読めば教養が高まり、真理に到達できるという文化があります。
読書が人格の完成に必要不可欠であり、文献の読解によって、真理に到達できるという暗黙の了解があるわけです。
そして人間にはその能力があると確信しています。
ところが、仏教では、真理は言葉を離れたものです。
そして人間は煩悩でできた迷いの深いものです。
だから文献を読んだだけでは真理を体得できません。
それを西洋文化に基づくまなざしで、どんなに仏教に説かれる真理を研究しても、正しい理解には到らないのです。
では、仏教を学ぶ時には、どのようなことに気をつけなければならないのでしょうか。
仏教の大学で学ぶとき気をつける点
現在の大学では、この西洋由来の仏教学が行われています。
国立大学はもちろん、伝統的な宗派の作った大学でも大きく影響を受けているので注意が必要です。
なぜなら、西洋由来の仏教学では、実践なしに、頭で考えるだけなので、仏教は分からないのです。
従来の仏教は主観的だからもっと客観的にみなければならないと批判していますが、何しろ仏教学者と名乗ってはいても、仏教を信じてはいないので、門外漢です。
外野であれこれ批評していても、仏教は分かりません。
ちょうど、3歳や5歳の女の子に、子供を産んだ女性がお産について教えても理解できないようなものです。
自分で子供を産むわけでもない3歳や5歳の子供からあれこれ詮索され、論じられ、無責任な批判を受けても、命をかけて子供を産んでいるお母さんにははた迷惑な話です。
それだけではありません。
門外漢が、お経はお釈迦さまの説かれたものではないと主張して仏教の教えをおとしめているのです。それでは人々を混乱させ、仏教から遠ざけ、本当の幸せになれる道も閉ざしてしまいます。
こうして人を救う力がなくなれば、仏教も衰退しますが、仏教が衰退すれば、それによって仏教学も衰退しますので、西洋由来の仏教学者たちの後継者もなくなり、人々を仏教から遠ざけることは、自らの墓穴を掘ることになります。
なぜこんなことになってしまうのかというと、自分が抜けているからです。
仏教には、私たちのことが説かれています。
老いて、病にかかり、死んで行くのは自分のことです。
四苦八苦は知っていても、自分のことと思っていないのです。
限られた人生で何をすればいいのか。
本当の生きる意味は何なのか。
自分が必ず死んでいかねばならないことが抜けていては、仏教は始まりません。
その死の大問題を解決して、本当の幸せになる道が教えられているのが仏教です。
仏教は、自分のこととして聞かなければ聞けないのです。
仏教の教えは、西洋の文献学では分かりません。
本当に仏教を学びたい場合には、根強い西洋尊重、白人崇拝の風潮を脱して、仏教とは何なのか、その目的は何か、自分はどういう状況にあるのかを客観的にみる必要があります。
本当の仏教学は、学べば学ぶほどますます仏の説かれた真理が知らされ、より一層、聞法心が強くなるものですし、そうでなければ、本当の仏教学とは言えません。
また、仏教の学問は、単なる頭だけの理解で終わらずに、日常生活を通して仏教の教えが真理であることを確かめていく実践的な学びでなけれぱならないのです。
ところが、そんな伝統的な仏教といっても、伝統的な教団は、現代の日本では、教えを説かずに葬式や法事などの儀式に力を入れる葬式仏教になってしい、本来の仏教はなかなか学ぶことができななってしまいました。
そこで、本来の仏教に説かれるすべての人が本当の幸せになれる道を、電子書籍とメール講座にまとめました。
以下にありますので、ぜひ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)