お経をあげる意味
お通夜や葬儀、法事になると、お坊さんが来て、お経をあげます。
お経を上げることを読経とも言います。
抑揚のないお経読みといわれる棒読みですが、
それはそれは深くて太い、独特の美声です。
それを遺族は神妙に聞いていますが、日本語ではないので、
誰も読まれるお経の意味が分かっているわけではありません。
ところが、お坊さんには巨額のお布施が渡されることもあります。
はたして読経にはどんな意味があるのでしょうか?
そして、そもそもお経とは何なのでしょうか?
『般若心経』や『法華経』、『阿弥陀経』などの具体的なお経の意味については、最後のこのカテゴリの記事からご覧ください。
経(お経をあげる・唱える)の効果は死者の供養?
「よくお葬式でお経をあげるのは何のためにあげるんですか?」
と聞くと、すぐに出てくる答えとして、
「亡くなった方の冥福を祈るため」とか、
「亡くなった方が迷わず成仏できるための供養」とか、
「亡くなった方へのお供え」と思っている人があります。
また、法事では、仏さまへのお供えとか、
先祖供養と思っている人もあります。
本当にそうでしょうか?
先祖供養について、詳しくは下記をご覧ください。
➾先祖供養3つのタブーと正しいやり方・効果
お経の意味については、有名な一休さんに、
目玉が飛び出るような話が伝えられています。
一休さんについて、詳しくは下記をご覧ください。
➾一休さん(一休宗純)の生涯・とんちの逸話と改宗の謎
一休さんの読経
一休さん
禅宗の僧侶である一休さんが大徳寺にいた頃、
近くの檀家さんが亡くなられたので、
お経をお願いします、と言われました。
その方の家を訪ねると、亡くなられた方は、布団に寝かされて、
頭に白い布みたいなものをかけられ、
家族や親戚が集まって、しくしくと泣き声が聞こえてきます。
そこへ一休さんは、左手にお経、
右手になぜか大きな木槌をもって現れました。
木槌は、建築業界で「かけや」と呼ばれる
長い柄のついたものです。
そして、亡くなられた方の前に座ると、
「この人にお経を聞く力があるか、試してみよう」
と木槌をふりかぶって、思い切り
亡くなられた方の頭をガツッと殴りました。
びっくりした遺族の方々が唖然としていると、
一休さんは、とぼけたように
「おーい何か聞こえたか?」
と再び木槌を振り降ろします。
そしてピクリともしないので、
「これは完全に死んでおるわい」
と言って、そのままお経を一文字も読まずに
帰ってしまったそうです。
一休さんは、一体何をしているのでしょうか?
それは、みんなが
「お経をあげると死んだ人のためになる」
と誤解しているので、
一休さんらしいインパクトのあるやり方で、
たとえ周りの人からどんな事をいわれようとも、
みんなの間違った仏教の理解を正そうとしたのです。
しかしながら、一休さんは独自の解釈をしているかもしれないので、
仏教を説かれたお釈迦さまに聞いてみましょう。
お経をあげることについてお釈迦さまのお答え
これは『中阿含経
』や、パーリ仏典の相応部に説かれていることですが、約2600年前、お釈迦さまの時代にも、
この疑問を持った人がおり、お釈迦さまに直接質問しています。
「お釈迦さま、お経をあげると、
死んだ人が浮かばれるという人たちがいるのですが、
本当でしょうか?」
その質問を聞かれたお釈迦さまは、
静かに足もとの石を拾われると、近くの池に放り込まれました。
「この池の周りで、石よ浮かび上がれと言って祈れば、
あの石は浮かんでくると思うか」
「いえいえお釈迦さま、そんなことで
石が浮かび上がるはずがありません」
「その通りだ。石は自らの重さで沈んでいったのだ。
どんなに周りで浮かび上がれといっても、浮かび上がることはない。
それと同じように、死後、苦しんでいる人は、
その人自身が死ぬまでに造った悪業によって決まったものだ。
周りでお経をあげたからといって、どうにかなるものではないのだ」
(出典:『中阿含経』)
お経の中に、お釈迦さまは、このように、
読経は死者のためにならないと教えられているのです。
では、お経は何のためにあげるのでしょうか。
それを知るには、まずお経とは何なのか知らなければなりません。
お経って何?
ではお経とは何なのかというと、
「経」という漢字には、縦糸とか、不変の真理という意味があります。
もともとインドの言葉では「スートラ」です。
スートラには、糸という意味があり、ものさしにするひもにもなることから、教えなども指します。
それを中国語で経と翻訳したのです。
音訳して「修多羅」ともいいますし、英語ではスートラになっています。
仏教でお経というのは、お釈迦さまの説かれた教えを、お弟子が記録したものです。
お釈迦さまの説かれたもの以外はお経とはいいません。
では、お釈迦さまの教えを書き残されたお経というものは、どうやってできたのでしょうか?
お経ができた経緯
お釈迦さまは35歳で仏のさとりを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、教えを説かれました。
その間、お釈迦さまご自身は何一つ書き残されず、その時その時の相手に応じて話をされたのでした。
お釈迦さまが著作を残されなかったのは、ギリシアのソクラテスやキリスト教のイエスと同じです。
ところが、イエスは約3年、ソクラテスは約20年、近くの人々に話をしただけですが、お釈迦さまの場合は、45年間にわたって、広大なインドの色々なところへ赴かれて教えを説かれました。
お釈迦さまがお亡くなりになった後、
500人のすぐれたお弟子が集まって、
お釈迦さまの説かれた教えを確認し、まとめました。
これを「仏典結集」と言います。
仏典結集は、どのように行われたかというと、
まず、お釈迦さまのおそばにお仕えすること20年以上、
「多聞第一」といわれ、極めて記憶力のいい
阿難というお弟子が代表して、
「私はこのようにお聞きしました」と語ります。
それについて他のお弟子達が検討して、
500人全員間違いないと認めたものが、お経となりました。
このことを、パーリ仏教の研究者、水野弘元はこのように言っています。
「法」と「律」の法財を正しく後世に伝えるために、摩訶迦葉の提案によって、その年の雨季三ヶ月の間に、マガダ国首都の王舎城外七葉窟において、仏の遺弟中のおっともすぐれた五百の阿羅漢によって、仏が生存中に説かれた「法と律」が集められたのである。
これを第一結集という。
第一回の結集の意味であって、王舎城結集とか五百人結集とかとも呼ばれる。引用:水野弘元『仏教要語の基礎知識』
このように、お経とは、お釈迦さまが、
生きている人たちに説かれたご説法を書き残されたものです。
ところがお経というと、難しい漢字ばかり書いてあって、
難しいことを「お経のように難しい」といわれるように、
何が書いてあるかなかなか分かりません。
お経はインドで説かれたのになぜ漢文なのかといいますと、
もともとお釈迦さまは、インドの言葉で仏教の教えを説かれたのですが、
それが中国の言葉に翻訳されたからです。
翻訳したのが、有名な三蔵法師たちです。
三蔵法師について、詳しくは以下をご覧ください。
➾西遊記の玄奘で有名な三蔵法師の仏教の本当の意味は?
お経はもともと口伝で伝えられていたのですが、
やがてインドの標準的な文語のサンスクリットで書き残されたり、
インドの西のほうの文語のパーリ語に翻訳されて書き残されたりしています。
やがてそれは、チベットの言葉に翻訳されてチベット語のお経になったりしています。
お経はアジアの他の言語にも翻訳されていますが、
大きく分けると、サンスクリット経典、パーリ経典、漢訳経典、チベット経典があります。
この中でも、インドの言葉では口伝で伝えられていて、
サンスクリットが書き残されたのはかなり後だったり、
パーリ経典は一つの宗派が伝えていたもので5世紀頃に編集されています。
日本でも読まれている漢訳経典が、最も古くて色々な宗派の多くの経典が残されています。
パーリ経典の10倍あります。
そのお経を全部まとめて一切経といいます。
お経の数
では、一切経は何巻くらいあるのでしょうか。
一番巻数の多いマンガは、『こち亀』で、40年間連載して全200巻です。
これはすごいことです。
お経の場合はどうかというと、
お釈迦さまが45年間、色々な相手に説かれた教えを記録したものですので、
その数は、一切経七千余巻といわれるほどたくさんのお経です。
お経を全部まとめて「一切経」というのは、
中国の南北朝時代の北朝である北魏の言い方で、
南朝の梁では、「大蔵経」と言いました。
唐の時代の730年に、智昇が作った『開元釈教録』というお経の目録に、お経を分類しています。
目録だけで20巻ありますが、その前半10巻には、時代別、翻訳者別で分類し、
そこに記録されたお経の数は全部で7046巻あります。
一切経七千余巻といわれるのも、そのためかもしれません。
『開元釈教録』の後半には、本文が存在するお経のリスト、タイトルだけで本文が失われたお経のリストなどもあります。
そこに記録された本文が存在しているお経の数は5048巻でした。
そして971年の宋(北宋)の時代に、はじめての木版印刷が始まります。
『開元釈教録』を基準に12年かけて制作され、983年、ついに完成しました。
この木版印刷の北宋版の一切経は、『蜀版大蔵経』といわれ、5048巻あります。
これは日本でいえば平安時代です。
986年に奝然が宋に行き、この北宋版の一切経5048巻を日本に持ち帰っています。
これが日本最初の一切経です。
また、『蜀版大蔵経』を元に高麗でまとめられた『高麗蔵』は6791巻、
元の世祖(せいそ)による『元蔵』は6017巻、
明の永楽帝による『明蔵』は6771巻ありました。
さらに明治時代になると活版印刷の一切経が作られます。
『卍蔵経』といわれる一切経は7082巻、
『卍続蔵経』は7140巻、
『縮刷蔵経
』といわれる一切経は8534巻です。
現在最も信頼性が高く、論文などの引用に使われる一切経は、大正時代の『大正新修大蔵経』です。
『高麗蔵』を底本とし、『蜀版大蔵経』、『元蔵』、『明蔵』の各版を対校するなどして作られました。
その数1万1970巻となっています。
その後さらに『大正新修大蔵経』にもれた仏典を収めた『新纂大日本続蔵経』が作られました。
『大正新修大蔵経』と重複はなく、同じくらいの分量があります。
そして『大正新修大蔵経』も『新纂大日本続蔵経』も、
なぜか台湾のCBETAで(繁体字のみですが)検索できます。
このように、一切経は、基本的には、時代が後になるほど、
それまでの分をまとめて、数が増えていきます。
そのたくさんのお経には、八万四千の法門が説かれているといわれるので、
お経の数が八万四千だと思っている人がありますが、それは教えのことで、
お経は七千余巻というのが一般的です。
文字数でいえば、約四千万字といわれます。
ですが、『大正新修大蔵経』の場合でいえば、1ページあたり17文字×29行が3段あり、全体で80645ページありますので、1行あいていたり、タイトルの部分で少なくなったりしますが、単純計算でざっと1億1927万3955文字となります。
仏教に何が教えられているのかは、一切経を読まなければ分からないのですが、
七千余巻となるとあまりに多くのお経です。
とりあえず、一切経にはどんな種類のお経があるのでしょうか?
お経の種類
一切経七千余巻をまず2つに分けると、小乗経典と大乗経典になります。
小乗経典というのは、『長阿含経』『中阿含経』『雑阿含経』『増一阿含経』などの『阿含経』や、関連する『転法輪経』『鴦掘摩経』『玉耶経』『箭喩経』などの151のお経と、
『悲華経』『過去現在因果経』『仏本行集経』『本生経』『仏所行讃』『義足経』『雑宝蔵経』『雑譬喩経』『百喩経』『法句経』『譬喩経』などのお釈迦さまに関連する68のお経です。
パーリ経典には、これらとかぶっているお経があります。
大乗経典は、
『般若心経』を含む『般若経』に関連する42のお経、
『法華経』に関連する16のお経、
『華厳経』に関連する32のお経、
『勝鬘経』『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』などを含む、『宝積経』に関連する64のお経、
『涅槃経』に関連する23のお経、
『大集経』に関連する28のお経、
『盂蘭盆経』『維摩経』『金光明経』『楞伽経』『大乗入楞伽経』『解深密経』『薬師経』『仏蔵経』『正法念処経』『四十二章経』など、それ以外の密教ではない423のお経、
『蘇悉地経』『大日経』『金剛頂経』などの密教の573のお経があります。
まとめるとこうなります。
大小 | 関連 | 数 | 有名なお経 |
---|---|---|---|
小乗 | 『阿含経』 | 151 | 『長阿含経』『中阿含経』『雑阿含経』『増一阿含経』『転法輪経』『鴦掘摩経』『玉耶経』『箭喩経』 |
お釈迦さま | 68 | 『悲華経』『過去現在因果経』『仏本行集経』『本生経』『仏所行讃』『義足経』『雑宝蔵経』『雑譬喩経』『百喩経』『法句経』『譬喩経』 | |
大乗 | 『般若経』 | 16 | 『大般若経』『般若心経』『理趣経』 |
『法華経』 | 16 | 『法華経』 | |
『華厳経』 | 32 | 『華厳経』 | |
『宝積経』 | 64 | 『大宝積経』『勝鬘経』『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』 | |
『涅槃経』 | 23 | 『涅槃経』『蓮華面経』 | |
『大集経』 | 28 | 『大集経』『般舟三昧経』 | |
密教以外のその他 | 423 | 『盂蘭盆経』『維摩経』『金光明経』『楞伽経』『大乗入楞伽経』『解深密経』『薬師経』『仏蔵経』『正法念処経』『四十二章経』 | |
密教 | 573 | 『蘇悉地経』『大日経』『金剛頂経』 |
これらを全部合計しても七千巻にならないのは、1つのタイトルのお経が1巻ではなく、『華厳経』なら60巻、『大般若経』なら600巻と、1つのタイトルのお経で何十巻、何百巻とあるお経があるからです。
また、これはある一つの代表的な分類で、ここに入っていないお経もあります。
各宗派の依り所とするお経
このように仏教には、一切経七千余巻といわれるたくさんのお経があるのですが、宗派によって、依り所とするお経が異なります。
それは、色々なことが説かれているお経の中で、自分はこのお経に救われたい、という好きなお経を選んで、残りのお経は捨ててしまった、と思っている人がありますが、そういうことではありません。
一切経の分類整理の仕方が宗派によって違うのです。
お釈迦さまは、最初から最後まで決まった相手に、順番に教えを説かれたわけではありません。
その時その時によって聞いている相手が違います。
そこでお釈迦さまは、相手に応じて、教えを説かれたのです。
これを対機説法といいます。
それはちょうど、病に応じて薬を与えるようなものなので、「応病与薬」ともいわれます。
そのため、たくさんのお経の中には、矛盾したようなことも説かれています。
それはなぜかというと、症状としては「お腹が痛い」という人であっても、寝冷えであれば、「温めなさい」といわれますし、盲腸のような炎症であれば「冷やしなさい」といわれるからです。
そこで、各宗派を開いたような人たちは、七千余巻の一切経を全部読んだり、その教えを実践したりして、一体お釈迦さまは何を教えられているのだろうかと、その真意を求めます。
こうして宗派が分かれていったのです。
そのため各宗派には、どのように一切経を分類整理したかが教えられています。
それはもちろん、単に自分がこのお経が気に入ったからというような感情的なものではありません。
こういう観点からすれば、お釈迦さまはこのお経にこう説かれているので、全体としてこういう分類になるという客観的なものです。
これを
教相判釈
とか、略して
教判
といいます。
教相判釈なしに宗派を開くことはできません。
代表的な宗派の教相判釈については、以下の記事で解説してありますのでご覧ください。
➾仏教の宗派とは?種類と意味、分かれた理由をわかりやすく解説
このように、一切経すべてを分類整理して、お釈迦さまの真意はここにある、というのがその宗派の拠り所となるお経です。
具体的には、まず奈良仏教の法相宗は『解深密経』、華厳宗は『華厳経』です。
平安仏教の天台宗は『法華経』、真言宗は『大日経』『金剛頂教』です。
鎌倉仏教といわれる浄土宗、浄土真宗は『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』です。
禅宗の、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗
では、不立文字
といって、文字にたよらず、以心伝心を目指しますので、特に依り所とするお経はありません。
表にまとめると以下のようになります。
宗派 | 依り所のお経 |
---|---|
法相宗 | 『解深密経』 |
華厳宗 | 『華厳経』 |
天台宗 | 『法華経』 |
真言宗 | 『大日経』『金剛頂経』 |
浄土宗 | 『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』 |
浄土真宗 | 『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』 |
禅宗 | 不立文字 |
では、このようなお経の内容は、どんなことなのでしょうか?
お経に何が書かれているの?
このように、たくさんのお経があって、色々な分類がなされているのですが、お経には何が説かれているのでしょうか?
どのお経にも共通していえるのは、お経に説かれている内容は、お釈迦さまの仏のさとりの内容です。仏のさとりの内容というのは、尊い法です。
「法」とは、いつでもどこでも変わらない不変の真理です。
そして私たちを永遠に変わらない幸せに導く力があります。
これを「仏法」といわれます。
永遠に変わらない、本当の幸せというのは、本来は言葉にかからない世界です。
だからブッダは、何億年かかっても説き尽くすことはできないといわれています。
ですが、言葉にかからないからといって言葉を遣わなければ伝えることができません。
私たちとしては、本当の幸せが正しく理解できなければ、正しく求めることもできません。
正しく求めることができなければ、本当の幸せになることもできないので、非常に重要なことです。
それでブッダは、本来は言葉にかからない本当の幸せを、
「どうしたら分かってもらえるだろうか」
と、言葉を尽くして説かれたのが仏教です。
それだけ深い境地を説き明かそうとされているのがお経なので、一切経七千余巻といわれる膨大なお経になっているのです。
お経を説かれた目的
一休さんがある夏、天台宗の比叡山に登ったそうです。
ちょうどその日は年に一度、一切経を経堂から出して虫干しする日でした。
お経には非常に尊い教えが記されていますので、七千余巻の一切経を吹き抜ける風を体に受けてさえも功徳になる、と遠くの方からもたくさんの人たちが比叡山に押しかけていました。
一休はそれを見て、
「私の一切経も大分汗をかいたわい」
と、大きな木のかげに入って昼寝を始めます。
比叡山の山道で、半分裸の坊さんが寝ているのを見つけて、比叡山の僧侶が注意しようと近づいてみると、なんとあの有名な一休さんです。
同じ比叡山の僧侶だったらこっぴどく叱るところですが、身内ではありませんので
「そこにおられるのは一休さんではありませんか?
当山では本日、一切経の虫干しをしておりまして、たくさんの参詣者がありますので、裸で昼寝されては困ります」
と声をかけます。
すると一休さんは、
「比叡山には紙に書いたお経しかないとみえる。
この一休は飯も食えば話もする、法も説けば何でもする一切経じゃ。
あんたたちは紙に書いた一切経を読むが、体で読むことを知らない。
これでは仏教が衰えるのは当たり前だ。
私はその活きた一切経の虫干しをしているのだ」
と言ったといわれます。
これはどういうことかというと、お経に書かれている教えは非常に尊いので、大切にするのは当然なのですが、そこにとどまってはいけません。
一切経は、私たちが本当の幸せになるために説かれているのです。
お釈迦さまの教えを学ぶだけにとどまらず、教えの通りに進んで行き、仏教に説かれた本当の幸せになった時、一切経を体で読み破ったというのです。
お経をあげる本当の意味は?
お釈迦さまは、幸せに導く教えを説かれたのですから、
死んだ人のために教えを説かれたのではありません。
生きている人のために、
生きている時に本当の幸せになれる道を教えられているのです。
ですから、その教えが書き残されたお経も、死んだ人のためではなく、生きている人のためです。
お経をあげるということは、
自らお釈迦さまの尊い教えを聞かせて頂くご縁ですから、
私たちが本当の幸せになる尊い仏縁なのです。
お経を聞く時は、死んだ人のためではなく、
自分のためと心得て聞かせて頂きましょう。
では、お釈迦さまの説かれたお経には、
どんなことが教えられているのかについては、
その本質的なところを電子書籍とメール講座にまとめてあります。
ぜひ見ておいてください。
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この記事を書いた人
長南瑞生
日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか1人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。たまたまインターネットの技術を導入して爆発的に伝えられるようになり、日本仏教学院を設立。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと今も奮戦している。
仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者4千人、メルマガ読者5万人。X(ツイッター)(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能。
著作
- 生きる意味109:5万部のベストセラー
- 不安が消えるたったひとつの方法(KADOKAWA出版)