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毘沙門天とは?

毘沙門天は、仏法を護る神で、十二天や四天王の一人です。
四天王の中では、多聞天と呼ばれ、須弥山の北方を護っています。

古来から日本人の信仰を集めており、例えば大阪の四天王寺は、聖徳太子が、物部守屋と戦う際に四天王へ戦勝を祈願し、
勝利後に建立されたお寺で、毘沙門天を祀っています。
また、戦国最強といわれる上杉謙信は「泥足毘沙門天どろあしびしゃもんてん」を崇めています。
四天王の中では最強とみなされることもあり、
現代でも、ゲームのキャラクターに抜擢されます。
アニメにもなっています。

ちなみに毘沙門天は七福神の一人にもなっており、財宝の神とし崇められることもあります。

なぜ毘沙門天はこのように人気があるのでしょうか。
今回は、毘沙門天がどのような神で、どのようなご利益があるのか、解説します。

毘沙門天とは

毘沙門天とは、仏教を学び、求める人を護る武神です。
苦しみ悩みの多い人生で、仏教を学び、求めることは簡単ではなく、
困難や災難も訪れることがありますが、
そのような人を護るのが毘沙門天の役割なのです。

まず毘沙門天について、辞書の解説を見てみましょう。

毘沙門天
びしゃもんてん[s:Vairavaa]
多聞天たもんてん>ともいう。
<毘沙門>は原語に相当する音写で,<多聞>はその訳。
ヒンドゥー教における財宝の神クベーラ(Kubera)の別名。
仏教神話では,須弥山しゅみせんの第4層にいて四天王してんのうのうちで最も由緒正しい神で,夜叉やしゃ羅刹らせつの衆を率いて北方を守護する善神。
十二天の一つ。
福徳の名が遠く聞こえるというので<多聞天>,財を授けるから<施財天>ともいわれ,北方守護の武神として尊崇される。
日本での信仰は全国的で,特に鞍馬寺くらまでらのそれは著名。
鎌倉末期には,すでに七福神の一つに数えられる。
平安時代以降,毘沙門天の霊験説話は諸書に頻出するが,その神性に基づいて仏法護持・怨敵降伏・致富成功をテーマとするものが多い。
吉祥天きちじょうてんをその妻または妹とする俗信も平安中期にはすでに一般的で,両神の結びつきを踏まえた信仰や,それに由来する伝承形成が文学に与えた影響も見逃せない。
【美術】
四天王のうちの多聞天を独尊として祀るとき<毘沙門天>と称するのが一般的。
吉祥天と善膩師童子ぜんにしどうじ脇侍きょうじとして配することもある。
いずれかの手に宝塔を持つのが通形だが,例外もある。
兜跋毘沙門天とばつびしゃもんてん>は西域兜跋国に化現けげんしたといわれる特殊な異形像で,金鎖甲を着し,三面立の冠を被り,地天および尼藍婆にらんば毘藍婆びらんばの2邪鬼の上に立つ。
唐より請来され,もと羅城門らじょうもん上にあったという東寺(教王護国寺)像など,この遺例は少なくない。

毘沙門天は美術の分野でも有名ですので、まずは仏像を鑑賞し、
ここでは毘沙門天が仏教でどんな神だったのか、詳しく見ていきます。

ちなみに仏教に登場する「」というのはどういう位置づけなのかは、
以下の記事で解説していますので、合わせてお読みください。
神とは?神と仏の違いと実際に存在する不幸を呼ぶ神について

毘沙門天を崇拝していたことで有名な戦国武将が上杉謙信です。

上杉謙信像

上杉謙信像


武神として人気を集めていた毘沙門天は、
多くの戦国武将に崇拝されていましたが、
特に謙信は、自らを「毘沙門天の化身」とまで称しています。
それほど毘沙門天は、多くの人を魅了する存在でした。

そんな毘沙門天ですが、どのような姿をしているのでしょうか。

毘沙門天の仏像・木像や絵像の見分け方

毘沙門天の仏像には、主に以下のような5つの特徴があります。

  1. 顔や眼……恐ろしい形相をしていて、怒りに満ちた目つき
  2. 身体……甲冑を着ていて、金・銀・瑠璃るり玻璃はり硨磲しゃこ珊瑚さんご瑪瑙めのうなどの七宝が散りばめられている。
  3. 右手……腰におく、または矛や宝塔を持つ。
  4. 左手……矛をもつ、または宝塔を持つ。
  5. 足元……鬼神を踏む。

実際の像としては、このような仏像が有名です。

木像

こちらは、甲冑をつけて右手を腰にあて、左手に矛を持って、邪鬼を踏み、5つの特徴を大体満たしています。

勝念寺 毘沙門天王像

勝念寺の毘沙門天王像
(出典:京都伏見 勝念寺


すべての像が同じような姿をしているのではなく、
右手や左手に宝塔や矛を持っている姿もあります。

例えば、こちらは重要文化財の兜跋毘沙門天立像です。
右手に宝棒、左手に宝塔を持っています。
足は二人の地天女が支えています。

兜跋毘沙門天立像

兜跋毘沙門天立像
(出典:奈良国立博物館


こちらは運慶作の国宝です。
甲冑を身につけ、矛と宝塔を持ち、二匹の邪鬼を踏みつけています。
玉眼入りで目が輝き、本当にそのへんにいそうな顔の表情が、運慶らしい表現となっています。

願成就院の毘沙門天立像

願成就院の毘沙門天立像
(出典:静岡県 願成就院


こちらは、宝塔を持ち、矛はありませんが、いつでも持てそうな手の形をしています。
足下はやはり邪鬼を踏みつけています。

毘沙門天立像

毘沙門天立像
(出典:奈良国立博物館


冒頭のアニメの毘沙門天でも、足下に鬼神がいないだけで、
あとの4つのポイントは満たしています。
さすがです。

これで大体、毘沙門天の仏像は見分けが付くようになりましたでしょうか?

他にも求道を妨げる鬼神から、弓矢で仏法者を護る絵もあります。

絵像

こちらは国宝の辟邪絵へきじゃえ毘沙門天像です。
毘沙門天が弓を使うという経典上の根拠はありませんが、
『法華経』に基づいて描かれているといわれています。

辟邪絵 毘沙門天像

辟邪絵 毘沙門天像
(出典:奈良国立博物館


このように、仏法者を護る守護神である毘沙門天はいずれも武器を持つ神として表現されています。

毘沙門天の仏像があるお寺

毘沙門天は他にも、全国各地の以下のようなお寺にあります。
長野県:善光寺ぜんこうじ釈迦堂世尊院
愛知県:妙福寺みょうふくじ
奈良県:朝護孫子寺ちょうごそんしじ
京都府:山科毘沙門堂門跡
京都府:鞍馬寺くらまでら
大阪府:神峯山寺かぶさんじ
広島県:権現山 毘沙門堂
愛媛県:密教山みっきょうざん 吉祥寺きちじょうじ
福岡県:津東山しんとうざん 海心寺かいしんじ

これらの像は、経典をもとに造られたり描かれたりしていますが、
毘沙門天の姿について説かれている経典は多くありません。
一応あげておきますが、難しいので、関心のある方だけ確認されればいいと思います。
それ以外の方は、飛ばして次へお進みください。

経典で示される毘沙門天の姿

毘沙門天の姿が教えられているのは、
主に密教の経典と供養の方法を説かれた典籍(経軌類)です。
例えばこのようにあります。

まづ像を書くべし、彩色中に於て並に膠を和するを得ず、白疊の上に於て一の毘沙門神を置き、七寶もて甲をし、左手に戟を執り、右手は腰上に托し、其の神の脚下に二夜叉鬼を作り、身は並に黒色に作す。
その毘沙門の面は甚だ畏るべき形にして、悪眼もて一切の鬼神を視るの勢を作す

(漢文:先須畫像於彩色中並不得和膠於白壁上畫一毘沙門神七寶莊嚴衣甲左手執戟矟右手托腰上其神脚下作二夜叉鬼身並作黒色其毘沙門面作甚可畏形惡眼視一切鬼神勢)

これはどういう意味かというと
大体このような感じです。

まず行像を書く。
色彩をするにあたり、和膠(ゼラチンのようなもの)を用いず、白い敷物の上に毘沙門天を置き、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しやこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)の七つの宝石を甲冑につけ、左手には矛をもち、右手は腰に置き、毘沙門天の足元には、2人の鬼神を造り、鬼神の身体は黒色にする。
毘沙門天の顔は、とても恐ろしい形相で、険しい目つきはすべての鬼神をにらんでいるのである。

先ほどの仏像のところで見たような、恐ろしい表情や、宝石をちりばめた甲冑、左手に矛、右手を腰、足下の鬼神などが教えられています。

さらに詳しく、このようにも説かれています。

その像を書く時は、彩色中に輙ち皮膠を著くるを得ず、唯香汁を用ふ。
(中略)便ち細白氈を取り、若し白氈なくば好細絹も亦得たり。
一丈五尺の天王の身を書き、身には七寶金剛を著け、鉀冑を莊嚴し、其の左手は三叉戟を執り、右手は腰に托す。
[一本左手は塔を捧ぐ]其の脚下に三夜叉鬼を踏む。
中央を地天と名づけ、亦歡喜天と名づく。
左邊を尼藍婆と名づけ、右邊を毘藍婆と名づく。
其の天王の面は可畏に作し、猛形にして怒眼を滿開す。
其の右邊に五太子及び兩部夜叉羅刹の眷屬を畫く。

(漢文:其畫像時 彩色中輒不得著皮膠 唯用香汁。
(中略)便取細白疊 若無白氈疊好細絹亦得。
一丈五尺 畫天王 身著七寶金剛莊嚴鉀冑 其左手執三叉戟右手托腰。
[一本左手捧塔]其脚下踏三夜叉鬼 中央名地天亦名歡喜天。
左邊名尼藍婆右邊名毘藍婆。
其天王面作可畏 猛形怒眼滿開。
其右邊畫五太子及兩部夜叉羅刹眷屬)

どういう意味かというと
少し長くなりますが、このような意味です。

毘沙門天を書く時は、絵具の中に皮膠(ゼラチンのようなものを)を使わず、ただ香汁を用いる。
すなわち薄く白い敷物をしき、白い敷物がなければ薄い絹でもいい。
一寸五尺の毘沙門天像の書き、身体には七宝とダイヤモンドで甲冑を荘厳し、その左手には、矛をもち、右手は腰に置く。
(左手には宝塔も持つ場合もある)その足元には、3人の鬼神を踏んでいる。
中央の鬼神は「地天」または「歓喜天」といい、左端は「尼藍婆」といい、右辺を毘藍婆という。
毘沙門天の顔は、恐ろしい表情をしており、厳しく、怒りに満ちた目を見開いている。
毘沙門天の右側には「五太子(五人の子供)」をおき、また夜叉、羅刹といった眷属を書く。

ここでは、毘沙門天の家族も登場していますので、あとで詳しく解説します。

身に七宝の金剛荘厳の甲冑を著、其の左手に三叉戟を執り、右手は腰に託す。
(中略)
其の天王の面は畏る可き猛形に作し、眼を怒らし満ち開く
(一本には眼を瞋らし一切の鬼神を見る状という)。

これは左手の武器が少し違います。
身体には七宝の金剛で荘厳した甲冑をまとい、左手には三叉槍を持ち、右手は腰におく。
その毘沙門天の表情は恐るべき形相で、目は怒りにみち見開いている。
(毘沙門天の怒りに満ちた眼は一切の鬼神をにらみつけているとも言われる)

このように、いずれも武器を持つ、武神の姿をとっています。
なぜかというと、毘沙門天がお釈迦様から、天兵を用いて北方を守るように指示を受けているからです。
それについてはこのように説かれています。

(釈迦の勅命で)汝(毘沙門天)をして天兵を領して界を守り、国土を擁護せしむ
(漢文:教汝若領天兵守界擁護國土)

これはお釈迦さまが毘沙門天に、
そなたに、天兵を率いて世界を守り、国土を擁護させる、
といわれているお言葉です。

仏法者を鬼神から護るため、恐ろしい形相をしている毘沙門天は、
経典では四天王の一人として登場します。
四天王の一人として紹介される際は、多聞天と言われます。

四天王とは、どのようなものでしょうか。

四天王と毘沙門天

四天王とは、帝釈天の臣下で、須弥山の四方にいる4人の神のことです。
4人とは、多聞天、持国天、増長天、広目天です。
この中の多聞天が毘沙門天のことです。
四天王は、4人がそれぞれの家臣を連れて、たびたびお釈迦様のご説法に訪れています。

毘沙門天とお釈迦様との深い関係については、
こちらの四天王の記事をご覧ください。
四天王の意味やご利益、お釈迦様との関係を解説

ですが、毘沙門天は四天王の一人であるにも関わらず、
単体で祀られることも多く、
四天王の中で最もその名が知られています。
毘沙門天は、なぜ一人で祀られることが多いのでしょうか。

毘沙門天が単独で祀られている理由

四天王の中でも毘沙門天が単独で祀られるのは、
日本に仏教が伝わる前、中国で始まったといわれます。
その理由については、主にこのような3つの説があります。

毘沙門天が単独で祀られている理由
  1. 毘沙門天は財宝の神だから
  2. 中国では北方の他民族に悩まされ北方の守護神が求められていたから
  3. 不空三蔵が毘沙門天に祈り戦争に勝ったエピソードから

1つ目は後で紹介しますが、毘沙門天は財宝の神で、毎日捨てるほどお金があるので、
お金が欲しいと現世利益を求める人が、単独で祀ることがあります。
そしてお金が欲しい人は昔も今もたくさんいるので、
四天王の中でも特に毘沙門天が単独で祀られるようになったという説です。

2つ目は、当時の中国では、北方から他民族の攻撃を受けることが多く、
北方の守護神が求められていました。
そんな時、三蔵法師の玄奘のインド旅行記『大唐西域記』に登場する、クシャン族の王、カニシカ王が、仏教に帰依し、仏教を保護するようになりました。
クシャン族はインドから見て北方なので、カニシカ王が、須弥山世界の北方の守護神の毘沙門天と結びつけられ、中国でピックアップされ、単独で祀られるようになったという説です。

3つ目は、唐の時代の軍事書『太白陰経』に収録されている「安西城霊験譚」のエビソードです。
吐蕃(兜跋国・トルファン)の兵に襲われた安西城から、唐の玄宗皇帝に救援要請が届きました。
皇帝はこれまた三蔵法師の不空を呼び招き、毘沙門天の軍を安西に送るための祈祷をさせます。
すると毘沙門天の子、独揵の兵が現れ、安西へ救助ヘ向かい、独揵の兵によって敵が逃げ去ったとという話です。
当時は戦争も多く、この話をもとに多くの人が毘沙門天に、国の平和を願ったという説です。

このように、毘沙門天が単独で祀られる理由はいろいろ言われていますが、
ハッキリとした理由は分かっていません。
ただ毘沙門天を崇拝する人々の心には、人生の悩み苦しみを取り除きたいという
強い願いがあることは間違いありません。

さらに日本では、天台宗を中心に毘沙門天が流行しました。

日本で流行したきっかけ

日本では、毘沙門天を篤く信奉した僧侶として、天台宗の円仁がいます。
円仁は、最後の遣唐使として中国の唐を訪れたあと日本に帰国する際に、船が嵐に遭いました。
嵐の中で観音菩薩を念じ救いを求めていたところ、
毘沙門天が現れ、円仁ら遣唐使を助けたというのです。
『叡岳要記』にこのように記されています。

右は慈覚大師(円仁)入唐求法の後、解纜舶を浮かべるの間、忽ち悪風の難に遇い南海に没せんとす。
彼の観音の力を念ずるに、毘沙門の身現る。
即便ち彼の像を図画するに、風は晴れ波は平らかなり。
須臾にして彼岸に着す。
帰山の後、一宇を建立して、観音と毘沙門像を安置す。
海上の願に依る。
果遂せらる所なり。
(中略)
嘉祥元年九月、一堂を建立して、天像を図絵し、更に木像と聖観音像を造り移して共に安置すと云々。

これは、わかりやすく言えばこのような意味です。
円仁は唐に入り仏教を学んだ後、唐から帰国するする際に、海上で嵐にあった。
暴風雨が冷たく吹き荒れ、船が沈没しそうになった。
この時、円仁は観音菩薩へ船の安寧を観音菩薩へ祈願していると、毘沙門天が忽然と船上に現れた。
その時、毘沙門天の姿を書き表わすと、風がやみ波が静かになり、しばらくして船が無事岸に着くことができた。
比叡山に帰った後、寺を建立し、観音菩薩と毘沙門天の像を安置し、船上での願っていたことを果たした。
(中略)
848年9月に、根本中堂を建立して、毘沙門天の絵像を用意したが、後に、木像を掘り、聖観音菩薩の像を造り、一緒に安置した。

このとき円仁が観音菩薩に助けを求めたのは、観音菩薩について書かれている『観音経』に、
観音菩薩には「水難滅除の功徳」があると説かれているからです。
水難滅除の功徳」が水難事故から救ってもらえるという功徳です。

観音経』について、詳しくはこちらの記事をお読みください。
観音経全文の意味と不思議な力(ご利益・功徳)を解説

観音菩薩は苦しむ人々に合わせて、さまざまな姿になって助けますので、
船上に現れた毘沙門天は、観音菩薩が姿をかえて現れたものと考えられたのでした。
円仁は帰国したあと、毘沙門天像を何体もつくったと言います。
そして円仁以降、天台宗のお寺が全国に広がる中で、
観音菩薩信仰と一緒に毘沙門天信仰も広がりを見せたといわれています。

そういうわけで、ここまでは毘沙門天の姿や、世間でどのように信奉されてきたのかを解説してきました。
ではいよいよ、毘沙門天がどのような神なのか、毘沙門天の特徴を掘り下げていきます。

まずは「毘沙門天」という名前の由来についてです。

毘沙門天の名称

毘沙門天は、サンスクリット語ではヴァイシュラヴァナ(Vaiśravaṇa)と言い、
サンスクリット語に漢字をあてた表音文字(音標表記)には、
毘沙門天」の他に
吠室羅末拏べいしらまな」、
毘沙羅門びしゃらもん」、
毗沙門びしゃもん」、
鞞沙門ひしゃもん」、
鞞室羅懣囊ひしらまんのう」などがあります。

このサンスクリットのヴァイシュラバナの
「ヴァイ(Vai)」は多いとか遍く、
「シュラヴァナ(śravaṇa)」は聞くという意味ですから、それを翻訳して
多聞天たもんてん」や
多聞子たもんし
普聞ふもん
種種聞しゅしゅもん 」などとも称されています。

このように「多聞」と言われるのは、
毘沙門天が実際にとてもよく仏教を聞いていたからなのですが、
どのようにして聞いていたのでしょうか。

「多聞」の由来

毘沙門天の毘は、「遍く」という意味で、沙門は「聞く」という意味です。
毘沙門天は、仏法を説かれる多くの場所に行き、聞法に来た人々を護っていました。
その時、ただ護っていただけでなく、そこで説かれる仏法をいつも真剣に聞いていたのです。
それで名称に「」が入り、しかも多くの場所で聞いていましたので、
多聞」という名称がついたのです。

それについて『法華義疏』にはこのように教えられています。

毘沙門は北方の天王なり。
此に多聞と云ふ。
恆に佛の道場を護り、常に説法を聞くが故に多聞と云ふ。

(漢文:毘沙門是北方天王此云多聞恒護佛道場常聞説法故云多聞也)

これは、
毘沙門は北方を護る天上界の神である。
または多聞天という。
常に仏法を話される場所を護り、常に説法を聞いているので、多聞というのである、
という意味です。

神である毘沙門天でさえも学んでいるのが仏教ですから、
私たち人間も、当然仏教を学ばなければなりません。
また、『一切経音義』にはこのように教えられています。

毘沙門。或は鞍舎囉婆拏と言ふ。
此にして離聞と云ひ、普聞と云ひ、或は多聞と云ふ。

(漢文:毘沙門或言鞞舍囉婆拏此譯云離聞亦云普門或云多聞)

これは、
毘沙門天、あるいは鞍舎囉婆拏という。
ここに離聞といい、普聞といい、あるいは多聞という、
という意味です。
また、このようにも教えられています。

毘沙門。具さに正しく鞞室羅懣囊と云ひ、此に多聞と云ふ。
調はく此の王の徳は多處に知開するなり。
或は日はく、毘は遍なり、沙門は聞なり。
謂はく諸處に遍聞するなり。

(漢文:毘沙門具正云鞞室羅懣嚢此云多聞謂此王福徳多處知聞也或曰毘遍也沙門聞也謂諸處遍聞)

この意味は、
毘沙門天について、細かく正確には鞞室羅懣囊ひしらまんのうといい、多聞ともいいます。
毘沙門天の徳は多くの所で知られている。
また「」の文字は「遍く」の意味で、「沙門」は「」の意味です。
さまざまな場所で広く仏教の教えをよく聞いているという意味である、
ということです。

また日本では、毘沙門天を兜跋毘沙門天とばつびしゃもんてん という名前で呼ばれることもあります。
この兜跋毘沙門天は何に由来するのでしょうか。

兜跋毘沙門天

名前の由来は、先述した「安西城霊験譚」にあると言われています。
西域の兜跋国とばつこく (現在のトルファン)に現れた毘沙門天が、王国滅亡の危機を救ったという伝説です。
安西城霊験譚」では毘沙門天の子なのですが、
この文脈ではなぜか毘沙門天が現れたことになっています。

このように、兜跋毘沙門天は普通、武神の姿をしていますが、
毘沙門天は、富をもたらす神ともいわれます。
それにはどんな由来があるのでしょうか。

毘沙門天と財富

お経の中で裕福な人が登場すると、その人を
毘沙門天ほどの財を蓄え、毘沙門天の財に匹敵するほどであった
という定型文で表現されることがあります。
それほど毘沙門天は財富の神でもあるのです。

毘沙門天は、クベーラと呼ばれることもありましたが、
クベーラが仏教に帰依すると毘沙門天と呼ばれるようになりました。
仏教を聞く前からクベーラは裕福な神で、
仏教へ帰依したあとも、天上界のものすごく財宝にあふれた城に住んでいます。
どのような城に住んでいるのでしょうか?

毘沙門天の住まい

毘沙門天は、須弥山から北千由旬に3つの城を持っており、
七宝で飾られています。

毗沙門天王有り。
王に三城有り。
一可畏と名け、二天敬と名け、三衆歸と名く。
各々縱廣六千由旬なり。
其の城七重にして、七重の欄楯 七重の羅網 七重の行樹あり、 周匝し校飾せり。
七宝の所成なり。

(漢文:有毗沙門天王。王有三城。一名可畏 二名天敬 三名衆歸。
各各縱廣六千由旬。其城七重七重欄楯七重羅網七重行樹。周匝校飾七寶所成)

わかりやすく言うと、こういう意味になります。
毘沙門天は、須弥山から北千由旬に3つの城を持っています。
各城の名称は、可畏、天敬、衆帰と名付けられています。
縦横の広さは六千由旬で、其の城七重にして、
七重に張り巡らされた垣根、七重に張り巡らされた綱、七重に植えられた樹木があると言います。
そして城の周囲は七宝で飾られています。

さらに毘沙門天の住む城には、定期的に焼却しなけえばならないほど、
多くの財宝や福物に溢れていると説かれているのです。

(城には)八十億那由陀の大福聚あり。
我每日三時にこの福を燒く。

(漢文:有八十億那由陀大福聚 我毎日三時 焼此福)

城には八十億那由陀(ものすごく数の多い単位)の財宝があり、
毘沙門天は毎日三回この財宝を焼却している。

財宝に溢れた場所で暮らす毘沙門天には、実は家族がいます。
どのような家族がいるのでしょうか。

毘沙門天の家族

毘沙門天の家族は妻と子供です。
妻は誰かというと、吉祥天です。
吉祥天も、福徳を施す神とされています。

毘沙門天の子供は5人います。
5人の名前は禅尼只、独健、那吒、鳩跋羅と甘露です。
この中で、トルファンに現れたのは、独健です。
木像であらわされるときは、禅尼只が、吉祥天と共に毘沙門天像の脇にいることがあります。

毘沙門天・吉祥天・善膩師童子立像

毘沙門天・吉祥天・善膩師童子立像
(中央:毘沙門天、右:吉祥天、左:善膩師童子)
(出典:サライ.jp


このように毘沙門天には家族がいるのですが、それだけでなく、多くの家臣も従えています。

毘沙門天の家臣

毘沙門天は、夜叉や羅刹といった鬼神を眷属として従えており、
その数は数千にのぼります。
その数多くの眷属に指示したり、従えながら仏教を学ぶ人々を護衛しているのです。

眷属の中でもリーダー的な八大夜叉大将がおり、さらにその下に二十八使者といった眷属がいます。
一応名前だけあげておくと、以下のようになります。

八大夜叉大将
  1. 宝賢夜叉ほうけんやしゃ
  2. 満顕夜叉まんけんやしゃ
  3. 散支夜叉さんしゃやしゃ
  4. 衆徳夜叉しゅうとくやしゃ
  5. 応念夜叉おうねんやしゃ
  6. 大満夜叉だいまんやしゃ
  7. 無比力夜叉むひりきやしゃ
  8. 密厳夜叉みつごんやしゃ
毘沙門天二十八使者
  1. 隠形使者
  2. 香王使者
  3. 勝方使者
  4. 奇方使者
  5. 禁呪使者
  6. 高官使者
  7. 興生利使
  8. 五官使者
  9. 金剛使者
  10. 座神使者
  11. 持斎使者
  12. 自在使者
  13. 神山使者
  14. 神通使者
  15. 説法使者
  16. 総明多智使者
  17. 太山使者
  18. 大力使者
  19. 田望使者
  20. 多魅使者
  21. 読誦使者
  22. 博識使者
  23. 左司命使者
  24. 伏蔵使者
  25. 北斗使者
  26. 右司命使者
  27. 龍宮使者
  28. 論議使者

では、このようなたくさんの眷属を従える毘沙門天には、
一体どのようなご利益があるのでしょうか。

毘沙門天のご利益

毘沙門天のご利益について、色々言われていますが、
毘沙門天王経』から抜粋すると、主にこのようなご利益があります。

  • 願うところのすぐれた願いをすべてかなえる(十種の福など)
  • 不老不死となる
  • 如意宝(願いをかなえる宝石)を得る
  • 大空を飛べるようになる
  • 姿を隠すことができる
  • 地中に埋まっている宝を得られる
  • 男、女、王など皆を思いのままにする(操る)ことができる
  • すべての動物の言葉を理解できる
  • 財にあふれ貧しくならない

ですが、これらの功徳は、ただ毘沙門天に祈るだけでは得られません。
では、一体どのようにしたら毘沙門天の功徳は得られるのでしょうか。

毘沙門天の功徳を得る方法

毘沙門天王経』を読み解くと、
毘沙門天を功徳を得るには、
まず大前提として「悪趣の門を閉じることを願う」必要があります。
悪趣というのは、地獄や餓鬼、畜生などの苦しみの世界です。
そこへ行かないようになる方法は、仏教に説かれています。
つまり仏教を学び本当の幸福を求めることが前提となります。

欲を満たすことを目的としては、毘沙門天から功徳を得られません。
仏教に説かれる本当の幸福を求める中で、必要なものが得られるということです。

その上で、少なくとも以下のことを行う必要があります。

  • 毘沙門天や眷属に布施をする
  • 自檀香・龍腦香・多蘖囉香・薫陸香・蘇合香を混ぜ合毘沙門天を一定の方法で供養する
  • 毘沙門天の根本印を結ぶ(指先で決まった動作を行う)
  • 途切れること無く真言を唱える
  • 毘沙門天の子、シャニシャが現れるように唱える
  • シャニシャに財宝がほしいと告げる
  • 毘沙門天やその眷属の恩徳を念じ、吉祥讃を唱える
  • 釈迦の絵と吉祥天の絵を描き供養する
  • 絵師には八戒を受けさせ、 操浴して新浄衣を着させる
  • 所定の書き方で描かなければならない
  • 疑いのない心で、仏の教えに従い、吉祥天の真言を唱える

このようなことが、細かく指示されています。
絵師を雇って絵師を清めてから絵を描かせたり、
真言をとなえシャニシャが現れること、
疑いを持たず吉祥天の真言を唱えるなどの条件は、
普通の人にほとんど不可能と思えるような条件です。

もし財産などが足りなければ、
この方法でお金を獲得しようとするよりも、
一生懸命働いたほうが
すぐに、そして確実に結果を得られることでしょう。

毘沙門天に幸福を願えないとなれば、
本当の幸福になるには私たちは何をすべきなのでしょうか。

毘沙門天に護られる幸せ

今回の記事では、毘沙門天について詳しく解説しました。

毘沙門天とは、四天王の一人であり、四天王として紹介されるときは、多聞天といわれます。
多聞天といわれる理由は、仏教が説かれる場所をたくさん訪れ、仏法者を護りながら毎回真剣に聞法をしたからです。

毘沙門天は武神として敬われていますが、財宝の神として崇められ、
毘沙門天の住む城には捨てなければならないほどの財宝があると言います。

毘沙門天からの功徳の中に、財宝を得られるという、貧乏にならないというものがありますが、
これらの功徳を得るには、様々な難しい条件をクリアしなければなりません。
常人には到底できないものばかりです。
では、毘沙門天から功徳を得られない私たちは、
どのようにしたら幸福になれるのでしょうか。

真実の仏教には、毘沙門天が指示するような難しい条件を満たせない者でも、
本当の幸福になれると教えられます。
そして本当の幸福になったならば、毘沙門天などの様々な諸神に
四六時中、護っていただける身になれるのです。

どうすれば、本当の幸福になり、毘沙門天に護られるのでしょうか。

その方法を分かりやすく、メール講座と電子書籍にまとめてあります。
一度お読みください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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