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生きる意味を、知ろう。

因果応報とは?

人生には、色々な楽しみや苦しみが起きてきます。
それらの楽しいことや、苦しいことは、どうして起きてきたのでしょうか。

その幸せや不幸を生みだしている法則が、仏教に説かれている「因果応報いんがおうほう」です。
一体どんな意味なのでしょうか?

この記事では
1.因果応報の意味
2.因果応報の仏典上の根拠
3.因果応報の仏教の教えの上での位置づけ
4.恋愛での因果応報の実話
5.千年前からある因果応報の詩
6.因果応報の気をつけるべきポイント
などについて分かりやすく解説します。

因果応報は必ずあります。
これが分かれば、幸せや不幸の起きる原因が分かるので、自分にふりかかる不幸や災難を減らして、幸せを多くすることができるようになります。

因果応報とは?

まず、因果応報について、仏教の辞典で見てみましょう。

因果応報
いんがおうほう
すべての行為(ごう)には必ず結果がこたえ報いるということ。
原則は、<善因楽果・悪因苦果>であるが、一般には、悪因苦果に関して語られることが多い。
結果(果報)そのものの性質は苦楽で、また善とも悪ともいえない行為の結果は不苦不楽とされる。
一方、原因となる行為は、伝統的に身体・言語・思考による身口意しんくい三業さんごうに分類される。
また、結果が生じる時期については現世・次世、あるいは第三世以降という三時業の説が広まった。
行為そのものの性格づけと、行為がいかに結果をもたらすかについては、部派によって理解を異にした。
経量部きょうりょうぶは、行為の潜勢力を種子しゅうじと呼び、それが心と身体の継続(相続)のなかで保持され、果報を生じると説明した。
瑜伽行派ゆがぎょうははさらに、すべての種子はしきの中に熏習くんじゅうされるとし、この識を異熟いじゅく識あるいはアーラヤ識(阿頼耶あらや識)と呼んで、現世および三世にわたる因果応報の理論化につとめた。

阿頼耶識についてはこちらに詳しく解説してありますのでご覧ください。
阿頼耶識あらやしきとは?-ガンダムの阿頼耶識システムの間違い

辞典では言葉遣いが難しいので、もっと分かりやすく簡単に解説していきます。

因果応報」は、約2600年前、ブッダが説かれたことです。

ブッダについては下記をご覧ください。
ブッダ(お釈迦さま)とは?生涯と教えに簡単に分かりやすく解説!悟りの瞬間から入滅まで

因果応報」の漢字の意味を説明すると、「因に応じて果が報う」ということです。
」は原因という意味で、「」は結果です。
つまり「原因に応じた結果を受ける」ということ。
因果応報は、因果の道理のことでもあります。
因果の道理は下記「仏教の根幹」で説明します。

または「善悪応報」ともいいます。
善悪の原因に応じて結果が報いることで、
過去現在因果経』には、こう説かれています。

一切衆生、善悪の為す所は果報を受くに及ぶ。
(漢文:一切衆生 所爲善惡 及受果報)

すべての人は、善悪の所為によって結果が報うということです。
また、『無量寿経』には、こう説かれています。

善悪報応し、禍福相承かふくあいうく。
(漢文:善惡報應禍福相承)

善悪の報いによって、不幸や幸せを受けるということです。

因果応報は必ずあります。
まずは因果応報の実話を紹介します。

因果応報の恋愛での恐ろしい実話

まず、因果応報の恋愛上の恐ろしい実話があります。

外国にいた日本のある美しい女性が、
夫が重要な用件で日本に帰った留守中、
ある外人と不倫をしたのです。
その直後、彼女は子供を宿しました。

四方壁で誰も見えない所でした行為が
 3ヶ月後には何かの形をとって必ず世の中に知れる

ということわざもありますので、
彼女は内心ばれやしないかと非常に心配していました。

やがて女の子を産みましたが、
どう見ても日本人の子供だったので、
彼女はやっと安心しました。
後は胸のキズさえ包んで黙っていれば、立派な貞女です。

ところがその娘が19才になって、
ある秀才と結婚しました。

間もなく産まれてきた孫は、
赤い髪に緑色の目、白い肌もどう見ても西洋人でした。

20年間黙り込んでいた悪い行いがあばかれ、
貞女の本性が曝露されたのです。

まいたタネは必ず生える、これを「因果応報いんがおうほう」といいます。

千年前からある因果応報の詩

因果応報」は仏教の言葉ですが、 そのよくある具体例を、
中国の有名な詩人、白楽天はくらくてんが詩にしています。
白楽天は仏教熱心なことでも有名で、
最初、弥勒菩薩みろくぼさつのもとへ往生しようとしていましたが、
晩年病気になると、極楽浄土を描かせて
すべての人が阿弥陀あみだ如来の浄土往生できるよう願ったような人です。

その白楽天の残した「燕の詩」は、
このように非常に人の心をゆさぶる詩です。

雄と雌の燕が、軒下に泥で巣を作り、4羽の雛を産みました。
日に日に育っていく雛たちは、
エサを求めてピーチクパーチク鳴いています。

青虫をとってくるのは簡単ではなく、
雛達はどれだけでも食べたがります。
親鳥は、くちばしや爪が折れそうになっても、
一心にエサを取ってきます。

子供達がお腹をすかせているので
30日の間に1000回も往来すると、
母親はやせて、子供たちは太っていきます。

親は子供に言葉を教えて、毛づくろいをします。
ある日、羽ができたので、庭の枝の上に連れて行くと、
子供たちは風に乗って、
振り返ることなく四方へ飛び立っていきました。

驚いた両親は、空に向かって鳴きながら、
声をからして呼びますが、子供たちは帰りません。
親鳥は、空の巣に帰り、夜通し嘆き悲しみました。

燕よ燕、悲しむことなかれ、自分自身を思い返してみなさい。
自分が雛だったとき、同じように高く飛び立って、
母に背いたのではありませんか。
そのときの父母の思いを今日まさに知るのです。

これが燕の詩ですが、これを日本では五・七・五で
親捨てた 報いで子にも 捨てられる
といいます。
自分が親を捨てた報いで、自分も子供に捨てられるということです。
これは「因果応報」の分かりやすい一例です。

ネズミの恩返し

古代ギリシアにもあります。

百獣の王といわれるライオンが、お腹いっぱい食べて昼寝をしています。
手を伸ばした拍子に、小さいネズミを捕まえました。
ネズミはびっくりして必死に叫びます。
ライオンの大王さま、どうかお助けください。
お助けくださったら一生ご恩は忘れません。
いざという時には必ずご恩返しします

何を言ってるんだ。お前に助けてもらうことなどない。
だが今はちょうど満腹だから、命は助けてやろう。
とっととどこかへ行ってしまえ

ネズミは「ありがとうございます」と何度もお礼を言って、去っていきました。

しばらくして、ライオンが森の中を散歩している時、
人間がしかけた罠にひっかかり、網に包まれてつり上げられてしまいます。
抜け出そうと、もがけばもがくほど、網は手足に食い込みます。
人間がくれば殺されてしまう。
ライオンは絶体絶命のピンチに焦り、もがき苦しみました。

ところが、それを知った助けたネズミが、とんで来ました。
大王さま、私が助けて差し上げます
と、網を噛み切ってくれ、辛くも危機を脱することができたという話です。

救う者は救われる。
ライオンが、もしネズミを助けていなければ、死んでいたでしょう。
これはイソップ童話ですが、世界中どこでも、因果応報なのです。

では「因果応報」は、仏教ではどんな意味なのでしょうか?

姑を殺そうとして自分が死んだ嫁

例えば、『雑宝蔵経』にはこのような話が説かれています。

バラモン教を信じている夫婦と老母がありました。
美しく、色欲が盛んな嫁は、律儀な姑が目の上のたんこぶでした。
何とか亡き者にしようと思いながらも、上辺は姑を大切にします。
母親をやさしく世話する嫁に、夫はいつも感謝しました。
「そんなに言われたら穴にでも入りたい気持ちがするわ。
私のようなふつつか者が世話する位ではとてもご満足は頂けないと思うの。
それよりも天上界に生まれると、とても楽しいそうよ。
お母さんもそんな所へ行かれると、もっとすばらしい暮らしができるでしょう。
一体どうしたら天上界へ行けるんでしょうか」
「確かバラモン教では天上界に行くには身体を火の中に投げ込めばいいそうだ」
「まあ、そんなことで天国へ行けるの?
それなら一日も早くそうしてあげたらお母さんも、どんなにお喜びになるでしょう」

愚かな夫は、妻の本心を知るよしもなく、
母を天上界へ生まれさせることにしました。

ある日、野原の真ん中に大きな穴を掘り、山のように薪を積んで火をつけました。
婆羅門の僧侶を呼んで昇天式をすると、夫婦は老母を火坑に突き落とし、後も見ずに逃げ帰ります。
ところが火坑の一部に安全地帯があったので、無事、老母は外に這い出すことができました。

もうあたりは真っ暗です。
家に帰ろうとするも林に迷い込み、虎狼の難を避けて大樹に登って仮眠をとることにしました。

やがて話し声で目をさますと、木の下に人相の悪い泥棒たちが集まっています。
その時、老母は不覚にも、ゴホンゴホンと咳をしてしまいました。
泥棒たちは驚いて、
「それ化物だ」
と一人が叫ぶとみんな後ろも見ず、盗んだ金銀財宝を置いたまま逃げ去ってしまいました。

夜明け近く財宝を背負って帰宅した老母を、夫婦はてっきり幽霊かと思って震え上がります。
老母はニコニコ笑って、こう言います。
「おかげで天上界へ行くことができて、こんなに土産をもらってきた。
まだまだあったが、私は年をとってあまり持てなかったので、
今度は若い者が取りに来てくれとのことだった」
それを聞いた嫁は喜んで、
「今度は私が行って思う存分もらってくるわ。
昨日と同じように火の中に落としてください」
欲深く愚かな夫は大賛成。
大好きな妻を火の中に投げ込みます。
それっきり妻は、帰ってきませんでした。
(出典:『雑宝蔵経』

嫁は姑を焼き殺そうとして、自分が焼け死んでしまいました。
まさしく因果応報です。

このように因果応報というのは、
自分のたねまきに応じた運命がやってくるという
因果の道理のことです。
因果の道理は、「縁起えんぎ」と言っても同じで、
縁起説」と言われることもありますが、
それはこの因果の道理のことです。

因縁について、詳しくはこちらをご覧ください。
【因縁とは】仏教の因縁の意味を分かりやすく解説

では、因果の道理とはどんなことなのでしょうか?

仏教の根幹

因果の道理は、仏教の根幹です。

そのことを『中阿含経』にはこう説かれています。

もし縁起を見ればすなわち法を見る。
もし法を見ればすなわち縁起を見る。

縁起」とは因果の道理のこと、「」とは仏の説かれた大宇宙の真理のことですので、因果の道理を見るものは法を見るということは、因果の道理は、大宇宙の真理である、ということです。

さらに、パーリ仏典にはこう説かれています。

縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る。

因果の道理は、大宇宙の真理であり、
その因果の道理を悟ったのが仏だということです。
ですから、仏の教えである仏教は、因果の道理を根幹として説かれています。

よく「仏教の中心思想は縁起説である」と言われたりしますが、
要するに、因果の道理は仏教の根幹ということです。

根幹」とは、根っこであり、幹である、
ということです。

仏教を木にたとえると、因果の道理は、根っこであり、
幹にあたります。

木には、枝が出て葉がしげり、花が咲いて、実がなります。
それは、根っこがあり、幹があるからです。
根っこや幹がなければ、木は枯れてしまいます。

ブッダの説かれた一切経は、
七千余巻のたくさんのお経ですが、
その七千余巻の一切経を貫いているのが、因果の道理です。

仏教の根幹は因果の道理ですから、
因果の道理が分からなければ、
仏教は一切分かりません

どんなに『法華経ほけきょう』の意味が知りたいとか、
華厳経けごんきょう』の意味が知りたいとか、
般若心経はんにゃしんぎょう』の意味が知りたいと思っても、
因果の道理が分からなければ、決して分かりません。
それだけ重要なのが、因果の道理です。

では、因果の道理とはどんなことなのでしょうか?

「道理」とは?

まず、因果の道理の「道理」とは、
三世十方を貫くもののことです。

三世さんぜ」とは、過去、現在、未来のことで、
いつでも、ということです。
十方じっぽう」とは、東西南北上下四維しゆい(北東、北西、南東、南西)のことで、
どこでも、ということです。

いつでもどこでも変わらないものを道理といわれます。

このことについて『雑阿含経ぞうあごんきょう』にこう教えられています。
お釈迦さまがある時、クル(拘留)国で教えを説いておられると、一人の修行者がやってきました。
お釈迦さまのお弟子ではありませんでしたが、礼儀正しく挨拶してから、少し下がって座ると、
一つ質問があるのですが、よろしいでしょうか?
と言います。お釈迦さまが、
何でも尋ねるがよい
と言われると、
「それではお尋ねいたします。
仏教に説かれる因果の道理は、お釈迦さまが作られたのでしょうか?
それとも他の誰かが作ったのでしょうか?

その時ブッダはこう説かれています。

縁起の法は我が所作に非ず、また余人の作にも非ず。
しかも彼の如来の法は世に出づるも、及び未だ世に出でざるも法界常住なり。
彼の如来は、自ら此の法を覚して等正覚を成じ、諸の衆生の為に分別し演説し開発し顕示す。
(漢文:縁起法者 非我所作 亦非餘人作 然彼如來出世及未出世 法界常住)

これは「そのことであったか。因果の道理は、私が作ったものでもなければ他の人が作ったものでもない
如来がこの世に現れようが現れまいが常に存在している真理である
それを悟って仏のさとりを開き、人々に説き聞かせているのが仏なのである
ということです。

ですから、昔も今も、今からも成り立つ
大宇宙の真理が、
道理」です。

では、いつでもどこでも変わらない大宇宙の真理とは
どんなことでしょうか?

「因果」とは?

いつでもどこでも変わらない、
大宇宙の真理とは何かというと、
すべての結果には必ず原因がある
ということです。
これを「因果」といわれています。

もちろん、原因が分からないことはあります。
例えば、昔はなぜ伝染病になるのか分かりませんでした。
そのため、怒りだとか、魔女のせいだとか、
色々な原因を考えましたが、全部はずれでした。

しかしそれは、原因がないということではありません。

19世紀になると、科学が発展して、
伝染病の原因は病原菌だと分かりました。

原因が分からないことはあっても、
原因がないということは絶対にありません。

この世のことすべては、どんな小さな結果にも、
必ず原因があるのです。

19世紀の生物学者で、ダーウィンの進化論を擁護したトーマス・ハクスリーは、こう言っています。

自然は注意深く研究されるほど、広く秩序が行き届いていることが明らかになってきた。
無秩序に見えたものは複雑さ以外の何ものでもないと分かる。
その結果、今日では、原因のない結果という意味での真の偶然が1つでもあると信じるほどの愚か者はいない。

すでに19世紀の時点でも、
すべての結果には必ず原因がある
として、科学研究がなされているのです。
このような科学には関心がないという人もあると思いますが、
誰でも感心があるのが、自分の運命です。

そこで仏教では特に、私たちがもっとも知りたい運命
原因と結果の関係が教えられています。

運命の原因と結果には、どんな関係があるのでしょうか?

運命をつむぎ出す原因と結果の法則

その運命の原因と結果の関係を教えられたのが、このブッダの教えです。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか

これは、善いたねは、善い運命
悪いたねは、悪い運命を引き起こす。
自分のまいたたねは、自分が刈り取らなければならない
ということです。

植物でいいますと、
アボカドのたねをまけばアボカドが出てくる、
柿のたねをまけば柿が出てきます。

アボカドのたねをまいて柿が出てきたり、
柿のたねをまいてアボカドが出てくることは
絶対にありません。

この「たね(因)」というのが、
行いのことですので、
善い行いは、幸せという運命を生みだし、
悪い行いは、不幸という運命を引き起こす、
自分の運命は、自分の行いが生み出すのだ

ということです。

因果応報」とは、
善因善果
悪因悪果
自因自果
という運命をつむぎ出す法則のことなのです。

これをブッダは繰り返し教えられています。
例えば『ダンマパダ』にはこう説かれています。

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。

パーリ仏典の相応部にはこのように説かれています。

蒔きたる種子の如き 果実を刈るが如く
善をなして善果あり 悪をなして悪果あり
種子は蒔かれ植えられたり 汝はその果報を受くべし

この仏教の教えを元に書かれたのが、
世界的なベストセラーになっている、ジェームズ・アレンの
原因と結果の法則
であることが知られています。

因果応報のポイント

この因果応報というのは、
幸せがやってきたときには、よく分かります。
大学に合格したのは、自分が頑張って勉強したからだ
と思います。

お金が儲かったのは、自分が頑張って働いたからだとか、
難しい局面を乗り越える自分のアイディアがよかったからだ
と思います。

ところが、因果応報が分からないのは、
不幸が訪れたとき
です。

テストの点が悪かったときは、
自分の勉強不足とはなかなか思えません。
自分は頑張って勉強したのに、
先生があんな問題を出すからだと思います。

仕事がうまく行かず、損したときには、
自分は頑張って働いているのに、景気が悪いとか、
ライバル社が悪いと思います。

しかし、因果の道理は、道理ですから、
いつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理です。
自分の都合のよいときだけ、
自分が頑張ったからだ。因果応報は当然だ」と思って、
自分に都合の悪いときは、
因果応報とはとても信じられない」と思うのは、
一貫していません。

自分の都合に関係なく、
因果応報は、いつでも成り立つ真理なのです。

運命の分かれ道

因果応報は、幸せが来たときには簡単に受け入れられますが、
不幸が来たときには、なかなか受け入れられませんから、
不幸が来たときこそ、自分を振り返ってみなければなりません。

不幸がやってきたときに、自分のたねまきを反省できるかどうかが、
今後の運命の分かれ道です。

例えばパートナーが不倫をしたとき、
相手が悪いと思いますが、接し方に問題があったり、
実は自分も不倫をしていたりするかもしれません。

自分をたなにあげて、相手だけ変えようと思っても、
事態が改善することはありません。

白楽天の燕の詩のように、子供が言うことを聞かずに困っていたら、
実は自分も、親の言うことを聞いていないかもしれません。
はたまた部下が言うことを聞かなければ、
自分も上司の言うことを聞いていないかもしれません。

因果応報、すべては自分のたねまきの報いが現れているのです。
相手を責めるのではなく、自分を振り返ってみなければなりません。

自分の運命を生み出しているのは、善くも悪くも、すべて自分の行いですから、
因果の道理が知らされるほど、自分の行いを反省して、悪いことをやめようという気持ちが起きてきます。
涅槃経ねはんぎょう』にはこう説かれています。

善因より善果を生ずと知り、
悪因より悪果を生ずと知り、
果報を観じおわりて悪因を遠離す。

(漢文:知從善因生於善果知從惡因生於惡果觀果報已遠離惡因)

都合が悪いときほど、自分のたねまきを反省して、
少しでもよりよい未来を生み出せるよう、
悪いことをやめて、善い行いをするようにしていきましょう。

では、そうやって生きていくと、最期は必ず死がやってきます。
これは誰にも避けることはできません。
では因果応報だとすれば、最後、死んだら
それまでの種まきはどうなるのでしょうか?

因果応報は死んだらどうなる?

仏教では、因果の道理にしたがって、
死ぬまでの行いによって、
死んだ後が決まると教えられています。

次にどんな世界に生まれるかも、やはり因果応報なのです。
そうやって、生まれ変わり死に変わり、
永遠に苦しみ迷いの輪廻転生りんねてんしょうを繰り返します。

では、輪廻転生の原因は何なのでしょうか?
すべての結果には必ず原因がありますから、
輪廻転生にも原因があります。

その苦しみ迷いの根本原因を知り、断ち切れば、
苦しみを離れ、永遠の幸福になれると教えられたのが仏教です。

では、その苦しみ迷いの根本原因は何か、ということについては、
仏教の真髄ですので、電子書籍とメール講座に分かりやすくまとめておきました。
以下のページから一度見ておいてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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