持戒(じかい)とは?

六波羅蜜の2番目の「持戒」とは何でしょうか?

持戒とは

持戒」は、あらゆるを6つにまとめられた
六波羅蜜の2番目に挙げられる、基本的な善い行いです。

これをしていない人は、実質の伴わない表面的な薄っぺらい人間になります。
周りからは不誠実だと思われ、信用を失うので、お金にも恵まれません。
そんな実態がみんなに知られると嫌われるので、いつも不安にびくびくしなければなりません。
持戒というのは、幸せに生きる上でとても大切な行いなのです。

では「持戒」とはどんなことかといいますと、
戒律」を「」つと書くように、
戒律を保持し、保ちなさい、ということです。

戒律というと、五戒、八戒、十戒、二百五十戒など、色々な戒律がありますが、
要するに言動を慎みなさいということです。

一言でいうと「言行一致」です。
言行一致」とは、言っていることと、やっていることを
一致させなさい、約束を守りなさい、ということです。

ではなぜ持戒が言行一致になるのでしょうか?

持戒はなぜ言行一致なの?

なぜ戒律を保つ、持戒が言行一致ということになるのでしょうか?

戒律は普通、10人の僧侶の前で戒律を守る誓いを立てて受戒します。
戒律を守ることを誓うことによって、
悪いことをしにくくする力が備わると教えられているからです。

その力は、どこにどのように蓄えられるのかといいますと、
仏教の言葉でいえば、他の人の前で誓いを立てるという行い(業)が、
目に見えない業力となって、阿頼耶識という蔵のような心に蓄えられ、
その業力によって、が行いにくくなるのです。

ですから持戒は、まず宣言して、それを守る、ということで、
言行一致となるのです。
しかもそれは、不言実行ではなく、有言実行です。

不言実行より有言実行?

不言実行」というのは、よいイメージの言葉で、
不言実行の人」といえば、立派な人です。

それというのも、文句ばっかりいって、何もしない人が多いからです。
あーだこーだ口でがたがた言っていないで、黙って実行しなさい
というのが、不言実行です。

自分はこんなことをした、あんなことをした
とひけらかすのは品がないので、
黙々とやることをやっているのは大変奥ゆかしく、美徳とされます。

ところが、さらにその上を行くのが
不言実行」から派生して作られた
有言実行」です。

不言実行であれば、できそうもなければ
やらなくても何の問題はおきないので安全です。
ところが、先に「こうします」と宣言してしまった場合、
他の人の目がありますから、途中で諦めると恥ずかしいため、
実行せざるを得なくなります。

他の人に自分のすることを宣言するのは、恥ずかしいですし、
衆人環視になって居心地が悪いですが、
あえて自分を居心地の悪い場所に送り込むことによって
進化を加速することができるのです。

ですから、不平不満や文句ばかりで何もしないよりも、
不言実行」はずっと立派なことですし、さらに
有言実行」になると、もっと立派なすばらしいことになります。

ですから、自分がやることを、先に言ってしまうのが大事です。
そして、言っていることとやっていることを一致させる、
言行一致に突き進むのです。

裏表のある人

ここで一つ問題が起きてきます。

口で言うことは、体で実行するよりも簡単なので、
簡単にがつけるということです。

全然やる気がなくても、
あ・やりますよ〜
といくらでも立派なことがいえます。

しかし口で立派なことを言っていて、
言っていることとやっていることが全然違うような人を
立派な人だといえるでしょうか。

言っていることとやっていることが違う人は、
裏表のある人です。

ブッダは持戒を勧められ、
言行一致しなさいと教えられていますから、
裏表なく、言ったことを、しっかり実行しなさいということです。

また、裏表にはもう一つあります。
それは、人が見ているところと見ていないところ
ということです。

傾向として、人が見ているところでは、やります。
それは沢山の目が光っているからです。

でも、一人になったらやらないこともあるのではないでしょうか。
極端な人では、
人に見つかりさえしなけれぱ何をやってもいい
と思っている人もあります。

しかし、人が見ていないところでも、
因果の道理はいつでもどこでも成り立つ大宇宙の真理ですから、
まいたたねは、必ずはえてきます。
だから
裏表のない言動をしなさい
表裏相応」させなさい
ということです。

あなたは1人の時何をしますか?

表裏相応」とは、
」とは、人の見ているところということです。
」とは、一人の時ということです。

この表裏相応を教えた話が伝えられています。
昔、あるドイツの王が誰も見ていない夜中に町の道路の真ん中へ
そっと大きな石を置いて帰りました。

翌朝、馬に乗った紳士が間一髪で石にぶつかりそうになり、
驚いて立ち止まりました。
ああ危い!もう少しでひどいめにあうところだった。
 いたずらする奴もあるものだ

プンプン言いながら過ぎ去りました。

しばらくすると1人の百姓が荷車をひいて通りかかりました。
何だい。こんな所に大きな石をおいて、
邪魔で通れないじゃないか

腹立たしげに石をけって通りすぎます。

またしばらくすると酔っぱらいの軍人が、
その石につまずいて頭を打って倒れました。

誰だこんな往来へ石なんか置いたのは、
バッキャロー気をつけろ

散々悪口を言って立ち去りました。

こうして1ヶ月経ちましたが、
誰一人として石を取り除こうとする者はありません。

そこで王は市民を広場へ集めて
実はあの石は、私が置いたものである。
しかし、今日まで誰一人としてあの石を、
公衆の為に取り除こうとする者はなかった。
残念である。今日私が取り除こう

とその石を動かしました。

すると、その下に
この石を片づけた者に与える
と記した袋がおいてあり、
その中には宝石と金貨20枚が入っていました。

それを知った一同残念がりましたが
後の祭りだったといいます。

これは「人の見ていない所でまいたたねも、必ずはえる。
やった行いは、必ず運命となって現れる。だから表裏相応させなさい」
と教えようとした王様の話です。

このように「表裏相応」とは、
人の見ている所と、一人の時と、
身口意の三業を、一致させなさいということです。
それが、言行一致ということです。

友達とコンビニに行くと、買えないようなものは、
自分一人の時に買うのではないでしょうか。
お嫁に来たての時は、戸を閉める時、座ってしずしずとしていました。
それが、だんだん立ったままぴしゃり。
子供の二人か三人できると、子供を両手でもって足であけるようになります。
それが、やがてしめなくなります。
もうあけっぱなしです。

みんなの見ている前では、
私は紳士淑女です。人徳があって気品があります
というそぶりをしているのではないでしょうか。

一人になったら、
まあこのくらいいいや
と色々と理由をつけて、心がおれてしまいます。

そして、人前でも見えないところがあります

仏教では、私たちの行いを3方面から見ています。
身業(しんごう)……体の行い、体で何かすること。
口業(くごう) ……口の行い、口で何かしゃべること。
意業(いごう)……心の行い、心で何か思うこと。

これを身口意(しんくい)の三業(さんごう)といいます。

この中で、人前では分かるけど、
一人のときには分からないのは、口と身体のおこないです。

それに対して、心の中で思っていることは、
人前でも分かりません。

ですから、口で言ったり身体でやったりしなければ、
心で思うくらいはよかろうと思っています。

ところが仏様は、見聞知の仏といわれます。
とは、どんなことをしていても、見ておるぞ。
とは、どんなにひそひそ声で話していても、聞いておるぞ。
とは、思っているだけなら他の人に分かるまいと思っても、知っておるぞ。
ということです。

ですから、口や身体で善いことをして、
心もそれに合わせて善くしていきなさい、
ということです。

見ておるぞ、聞いておるぞ、知っておるぞ、という
見聞知の仏様相手の言動をしなさい。
ということです。

裏表相応することは、
生やさしいことではありませんが、
善い行いは幸せという運命を生み出し、
悪い行いは不幸や災難を引き起こします。
そうと分かれば分かるほど、少しでも悪いことをやめて善いことしようと
頑張ろうという気持ちが強くなってくるのです。

ブッダが持戒を教えられた目的

ではブッダは、なぜ持戒を教えられたのでしょうか?
それは、持戒以外のについても同じことがいえますが、
なぜこのような色々のを教えられたのでしょうか?

それは、すべての人を変わらない幸せに導くためです。

普通、このような言行一致でえられるものは、
名誉などのよい人間関係や、お金などのよい経済状態などを
思い浮かべていると思います。

ところが、お金や財産、地位、名誉は一時的な幸せで、続かないので、
仏教では本当の幸せとはいいません。
本当の幸せになるには、幸せになれない根本原因を断ち切ることによってなれるのです。

では、幸せになれない根本原因とは何なのかというと、
それは仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめておきました。
以下のページから一度見ておいてください。

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