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不老不死とは?

不老不死」は、老いず死なずの境地で、
すべての人が心の底から追い求めているものです。
老いる苦しみを避けるために、アンチエイジングの医学が発展してきています。
死ぬほど怖い」という言葉がありますが、
死を恐れているからこその表現です。

地球上では、ほとんど老化しないベニクラゲといった生物はいますが、
怪我や病気で死なない不死身の生物は存在しません。
しかし、これまで歴史的にも多くの人が不老不死になる方法を探し求め、
現在でも科学や医学で不老不死の研究が進められています。

今回の記事では
・不老不死の全体像
・本当の不老不死
について解説します。

不老不死の意味

不老不死は、歳を重ねても老衰せず、死亡しないことを意味します。
国語辞書にはこのように出ています。

ふろう−ふし【不老不死】
いつまでも老いもせず死ぬこともないこと。

怪我や病気といった外的要因によって死なないことを不死身といいますが、
不死身の人は、大抵年を取ることもないので、
この意味でも不老不死は使われます。

一方、年は取らないけど、事故や病気で死ぬことはある場合、それは不老不死ではなく、「不老長寿」です。
不老不死というのは、年を取らないだけでなく、死ぬこともないことに注意が必要です。

人間の5つの願い

人間の五願というものがあります。
たいていの人が望んでいる代表的な5つの願いです。

人間の五願
  1. いつも三月花のころ
  2. お前十八、ワシャ二十歳
  3. 死なぬ子三人、みな孝行
  4. 使ってへらぬ、金百万両
  5. 死んでも、命のあるように

この2番目が不老、5番目が不死です。
不老不死は、みんなの願いなのです。

すべての人の恐れ

逆にすべての人間は、死を心から恐れています。
芥川竜之介は次のように言っています。

芥川龍之介芥川龍之介

万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。
(引用:芥川龍之介『侏儒の言葉』)

死に対する恐れから、人間は不老不死を求め、人間の願望が形となり、世界各地にさまざまな神話や伝承が生まれました。

不老不死の神話・伝承

例えば世界史の最初に出てくるメソポタミア文明を築いた、
シュメール人の『ギルガメシュ叙事詩』です。
最古の不老不死神話といわれています。

ギルガメシュ叙事詩

ギルガメシュ叙事詩のテーマは、人間が避けられない死という運命と向き合うことです。

主人公の英雄ギルガメシュは、親友エンキドゥの死を経験し、自分の死を恐れます。
この恐怖から逃れるために長い旅に出て、不死であるとされるウトナピシュティムを訪ねました。
ウトナピシュティムと出会ったギルガメシュは、人間は死ぬ運命にあるという厳しい真実を聞かされ
不老不死になる方法を探し求めます。
最終的に、ウトナピシュティムは「若返りの草」の存在をギルガメシュに伝えました。

ギルガメシュは「若返りの草」を見つけることに成功しますが、
帰路で沐浴している間に蛇に食べられてしまいます。
若返りの草」を失うというストーリーは、人間がいかに不老不死を求めても、叶わないことを意味しています。
この経験を通じて、ギルガメシュは死を受け入れ、
ウルク国の王としての責任を全うし、偉大な城壁の建設などの業績を残しました。

若返りの草のように、他にも口にいれることで不老不死になれる食べ物がたくさんあります。

不老不死の食べ物

このような不老不死の食べ物は色々ありますが、北欧や日本、中国にもあります。
それぞれ「黄金のリンゴ」「非時香菓ときじくのかくのこのみ」「仙桃」の3つです。

黄金のリンゴ

黄金のリンゴ」は、北欧神話によく出てくる食べれば不老不死となれるリンゴです。
例えば「ヘスペリデスの黄金のリンゴ」の伝説に登場します。

ヘスペリデスの園にある黄金のリンゴは、不老不死や究極の知識を授ける力を持っているとされています。
このリンゴは、ゼウスとヘラの結婚式の際に、大地の女神ガイアからヘラへの結婚祝いとして贈られたものでした。

ヘスペリデスの女神たちと、百頭の竜ラードンによって黄金のリンゴは守られており、
黄金のリンゴを手に入れようとする者は、多くの試練と危険に直面することになります。
例えば、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスは、自らの12の功業の一つとして、この黄金のリンゴを取りに行くという困難な任務を課されました。

黄金のリンゴを獲るためには、それほど大変な困難が伴うとされているわけです。
不老不死になるのはそう簡単ではありません。

非時香菓

日本にも不老不死にまつわる食べ物があります。
それは、「非時香菓ときじくのかくのこのみ」です。
非時というのは、時に非ず、ということで、いつでもということです。
いつでもかぐわしい香りの漂う果実という意味です。

非時香菓ときじくのかくのこのみは『古事記』や『日本書紀』にて、垂仁天皇が家臣に命じて探させたエピソードが見られます。
例えば『古事記』にはこうあります。

天皇、三宅連等みやけのむらじらが祖、名は多遅摩毛理たぢまもりを、常世国とこよのくにに遣して、ときじくのかくの木実このみを求めしめたまひき。

日本書紀』にはこのように記されています。

九十年春二月庚子朔、天皇田道間守たじまもりみことおおせて、常世国に遣して、非時香菓ときじくのかぐのみを求めしめたまう。
〔香菓、此をカグノミと云う。〕

これらの意味は、第11代垂仁天皇が、田道間守に命じて、不老長寿の果物である非時香菓を、常世の国から取り寄せた、ということです。
常世の国とは、遥か彼方にある常住不変の国のことです。
しかし垂仁天皇は、非時香菓を食べる前に崩御、つまり亡くなってしまい、不老不死にはなれなかったようです。

仙桃

3つ目に、中国の不老不死の食べ物は「仙桃せんとう」です。

仙桃せんとうは、中国の伝説や神話に登場する神秘的な果実です。
仙人が食べるとされ、不老不死の効果をもたらすと信じられています。
この桃は、しばしば中国の道教において、不老長寿や仙人の生活を象徴するものとして描かれ、孫悟空も食べたとされます。

特に有名なのは、道教に登場する、王母娘娘(西王母)という不老不死を司る女神が持つ蟠桃ばんとうです。
彼女が統治する蓬莱山に生える数千年に一度しか実らない仙桃で、
食べると不老長寿になるとされます。
今でも中国の伝統的な行事として、蟠桃会という王母娘娘の聖誕祭が開かれています。

不老不死の人物

神話の中には、
不老不死の食べ物だけでなく、
不老不死の人物もいます。
中国や日本、ルーマニアの有名な3人です。

仙人

まずは日本で若有な、中国の仙人です。
仙人とは、人間の居住地域を離れ、山中に住み、
不老不死の仙術を極めた人をいいます。

後漢の時代に書かれた辞書では、仙人についてこのように説明されています。

老は朽なり。老いて死せざるを仙という。
仙は遷なり。遷りて山に入るなり。
故に其の字を制するに人の旁に山を作るなり。

(漢文:老朽也 老而不死曰仙 仙遷也 遷入山也 故其制字人旁作山也)

これは、年を取っても死なないことを仙という。
仙は、遷に通じる。
うつって山に入るのである。
そのため文字の成り立ちは、人の横に山と書くのである、という意味です。

仙人がいるという神仙思想が生まれた背景には、肉体を失ったあと、死後どうなるか分からない不安がありました。

たとえば儒教の孔子は次のように言っています。

未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。
(漢文:未知生 焉知死)

意味は、未だ人間の生きることが分からないのに、どうして死や死後のことが分かるだろうか、ということ。

今も昔も死について不明確な死後の不安が消せないのなら、死ななければいいと考え方から、不老不死の仙人思想が生まれました。
人間の世界と、肉体を失った死後の世界の間に、不老不死の存在として仙人が登場したのです。

ちなみに死について詳しくは、こちらの記事をお読みください。
死生観とは?意味と哲学、宗教(神道と仏教)との違い

次に、日本における不老不死の人物を見てみましょう。

八百比丘尼

日本の不老不死の話で有名なのは「八百比丘尼はっぴゃくびくに」の伝説です。

ある漁師が捕えた人魚の肉を周りの人々に振る舞いましたが、
誰も気味悪がり食べませんでした。
その中で1人の少女が食べてしまい、その少女だけ不老不死となってしまったのでした。
すると年月が経つたびに、親戚や友人、知人が一人ひとり亡くなっていきます。
最後、1人取り残された少女はとても孤独に感じ、
出家して全国を行脚したということでした。
そして800歳まで生きて、最後は食を断つことで命を絶ったという話です。

無常について、詳しくはこちらの記事もお読みください。
「諸行無常の響きあり」の意味と甚大な影響力

吸血鬼

ヨーロッパの不老不死の人物としては、吸血鬼が分かりやすいでしょう。

人間が生きたまま吸血鬼となるか、死者が蘇って吸血鬼となるなど、設定は様々ありますが、
人間の血を栄養源とすることで、不老不死の存在として登場します。
例外的に、日光を浴びたり、心臓に杭を指したあと
頭を刎ねられたり、体を燃やしたりすると、死ぬ場合があるともされています。

このような神話や伝承は、不老不死を渇望する中で、想像上の存在として生まれました。
伝説や神話は、現実ではありえない話ですが、
不老不死自体は想像上のものとは考えず、過去には実際に不老不死になる方法を求め続けています。

不老不死の方法を求めた歴史

不老不死を求めて、日本にも使いを送った人物として有名なのが、秦の始皇帝です。

始皇帝

始皇帝(前259年 - 前210年)は紀元前221年に史上初めて中国を統一すると、紀元前219年、不死の霊薬があるという徐福に命じて、不老不死の薬を探させました。
徐福は3000人の若い男女を連れて、船で出発しました。
長い航海の末、日本の熊野地方に辿り着いたといわれています。

ここで、彼らは「天台烏薬」という植物を見つけましたが、
この地の暖かい気候や美しい景色、そして人々の優しさに惹かれて、
熊野に永く住むことを決めました。
そして、農業や漁業、捕鯨などの技術を伝えたとされています。

徐福が日本に来たというのはフィクションのようですが、
始皇帝が不老不死の薬を探していたのは間違いありません。

他にも、様々な不老不死の妙薬として始皇帝に献上されたものの中に、水銀が含まれており、
水銀を飲んだ始皇帝は体調を崩し、結局49歳で亡くなってしまいました。

道教が目指す不老不死

中国の道教では、不老不死を目指しています。

道教を信仰する目的は、
1に仙人になること、
2に長生不老、
3に幸福を得ることであるとされます。
そのために、修練や食事、祈祷などを行います。
道教の源流には、肉体が死なない仙人になることで、死後の不安をなくそうとした神仙思想があるのです。

錬金術と不老不死

西洋でも不老不死を求められてきました。
それが錬金術です。

錬金術といえば、銅や鉄から金銀のような貴金属を作り出そうとしたことが有名ですが、実は不老不死の薬や万能薬なども作ろうとしていました。

例えば15世紀のパラケルススは、錬金術で不老不死の薬の制作を目指しながら、医療の発展に貢献しています。

また、17世紀のファン・ヘルモントも医学と化学を大きく発展させましたが、
錬金術を信じ、不老不死の妙薬を作れると信じて、研究しました。

このように、歴史的には食べ物や薬を探したり作り出すことで、肉体の不老不死を目指しましたが、
哲学では、魂の存在を認め「魂の不死」を考えました。

哲学における魂の不死

まず紀元前4世紀頃に活躍したプラトンは、私たちの存在は、「肉体」と「」が組み合わさっていると考えました。
これを根元的二元論といいます。
そして「」こそ本質であり真実であると考えます。
さらに「」は自然に発生したものであり、死によって魂の消滅はなく、魂が肉体という牢獄から解放されると考えました。

端的に言うなら「魂は不死である」ということです。
しかし、それは考え方を変えただけで、実際には死にますし、何も変わっていません。
ただの思い込みで、実は死んだらもっと大変なことになるとしたらどうするのでしょう。
そしてなぜ魂が本質なのか、本当にあるのか、確証ある説明はできませんでした。

17世紀頃に活躍したデカルトは、「肉体」と「(我)」は別と考えました。
これを心身二元論といいます。
そのため、肉体が滅んだとしても、肉体と別にある魂までは死なないと考え、
やはり「魂は不死である」と考えました。
これも考えただけで、何も変わりません。

実際、死ぬ時にこう言っています。

デカルトデカルト

さあ、私の魂よ、おまえは長い間閉じ込められていた。
いまこそ牢獄を出て、この肉体のわずらわしさを脱しなければならない。
喜んで、また勇敢に、この分離に耐えねばならない。

(デカルト)

やはり死ぬのは辛く怖いのか、それに耐えるように自分を励ましています。

デカルトが魂は不死だと考えたのは、この時代の哲学者の考え方の根本には、キリスト教の信仰があるためです。
それは肉体の死後、神の作った魂は、天国に行くにせよ煉獄に行くにせよ、永遠に神の民として魂は存在するというものです。
しかし、やはり何の根拠もなく、確証的な説明もできていません。

19世紀になると、キリスト教の力は衰え、逆に物質だけを問題にする科学の力が高まっていったために、魂の不死性ついて反対する哲学者も増えてきます。
哲学での不死性の議論は、今でも十分とは言えず、未解決なままです。

不老不死は可能なのか

では現代の科学では、不老不死は可能なのでしょうか?

科学や医学でも、不老不死を目指した研究が進められています。
AIで本人の話し方や考え方に似せた「故人」を仮想空間に生み出す「バーチャル故人」や、
クローン技術を用いて本人の複製を生み出すことも考えられています。
しかし、どちらも自分とは別の人形を作っているようなものです。
自分自身の意識とは大きく離れており、全然不老不死とは言えません。

例えばこのような研究がなされています。

不老不死の研究

不老不死の研究として、機械に人間の意識を移すという研究があります。

マインドアップロード

脳の活動は、分子運動であり、電子回路に過ぎないと考え、
人間の意識をデジタル空間へアップロードするという発想を用いて、不老不死の研究が進められています。
脳を機械に置き換えるごとく、
アップロードされた意識によって、
ロボットなどの擬似的な身体を動かせるようにすることを目指し、
肉体の老化や死を超越しようとしています。

しかしマインドアップローディングが可能なのは、
唯物論が正しく、物質が心を生み出していた場合のみです。
精神と物質が別だったり、心が物質を生み出していたりすると無理です。

仮に物質が心を生み出していたとしても、
意識がどのように生じているのか、
現在は全く解明されていません。
さらに百歩譲って、物質が心を生み出しており、心のデータを転送して、今までの意識を消去することが成功したとしても、アップロードされた意識は本当に自分なのでしょうか?

イギリスの哲学者、デレク・パーフィットは、『理由と人格』で、自分の粒子のパターンを別の場所に完全に再構成し、元の自分を破棄した時、新しい粒子のパターンは自分なのか問題提起しています。
それと同じ問題が起きます。
マインドアップロードすると、自分はその時に死んで、記憶も能力も同じ別人が自分を演ずることになるのかもしれません。
遺伝子がまったく同じ一卵性双生児のように、別人かもしれません。
たとえ再構成された自分が「元の自分と同じだ」と主張したとしても、それをどうやって証明するのかなど、問題が多々あります。

仏教では、心から物質が生じているので、マインドアップローディングは原理的に不可能です。
当然、元の自分を破棄すると死にますので、やめておきましょう。

ちなみに本当の自分とは何か、については以下の記事もお読みください。
2つの自分探しの意味と自分を知る方法

iPS細胞の可能性

また、不老不死の研究でよく期待されているのは、iPS細胞です。

iPS細胞は、ノーベル賞を受賞した山中教授が作った細胞で、
多くの身体の組織や臓器の細胞に分化でき、ほぼ無限に増殖できる多能性幹細胞です。
患者自身の細胞から作れるため、臓器を作ってから移植しても、免疫拒絶反応のリスクが低い点や、
比較的扱いやすい細胞というメリットがあります。
そのため、再生医療の分野で特に注目されており、
老化した細胞を若返らせることに成功したという報告もあり、
老化した器官の再生や置換によって、
理論上は不老不死に近づくと考えられています。

しかし、iPS細胞で脳を置換するとなると、
自分という意識は、連続して保たれるのかなどの問題は残りそうです。

不老不死研究の問題点

ここまで見てきたように、歴史的にも医学的にも、
不老不死は、物質的な肉体のことばかり問題にしてきました。
現代の科学でさえも、道教や錬金術と同様に、肉体を長生きさせようとしています。

肉体ばかり問題にしていると、たとえそれがうまくいって、
肉体の老いを緩やかにしたり、さらには止めたり、病をなくすことさえできたとしても、
寿命が伸びただけで死ななくなったわけではありません。
なぜかというと、肉体は、事故や災害で破壊されて死ぬことがあるからです。
肉体が瞬間的に破壊されても生きていられるということはあり得ません。
形あるものは必ず壊れますので、肉体を問題にしている限り、それはただの不老長寿であり、
不老不死には絶対になれないのです。

このように肉体を長持ちさせて不老不死になるというのは、原理的に不可能なのに、
人類は、不老不死のために肉体を長持ちさせるという的外れな努力を紀元前から続けているわけです。

では、不老不死にはなれないのでしょうか?

実は、本当の不老不死とはどういうものか、
仏教には明らかに説かれています。

仏教に説かれる本当の不老不死

本当の不老不死について知る上で分かりやすい、中国の高僧のエピソードがあります。
この高僧は、仙人になる術を学んでいましたが、
仙術を捨て、改めて仏教を学び直しました。
その名も曇鸞どんらん 大師(476 - 542)です。
中国南北朝時代の高僧で、日本でいえば聖徳太子が生まれるより2年前に亡くなった方です。

曇鸞大師が仙術を捨てた理由

曇鸞大師は、中国仏教が大変盛んだった五台山の近くで育っていたため、
若くして出家し、仏道を求め始めました。
極めて頭脳明晰な上に大変な研鑽を積まれ、
大集経』という大変膨大なお経の注釈書を書きたいと思うようになります。

ところが、注釈に取り掛かられてしばらくすると、大変重い病気にかかってしまいました。
あまりにも努力し過ぎたのかもしれません。
極度の神経衰弱に陥り『大集経』の注釈を完成させることができず療養されました。

やがて身体は回復しましたが、病に肝を冷やした曇鸞大師は、
「病気になっては研究が進まない」と、
まず不老不死の方法を求めることにします。
さっそく当時有名だった仙人・陶弘景とうこうけいの弟子になりました。
曇鸞大師は極めてすぐれた方なので、わずか3年で不老不死の術を身につけ、免許皆伝を受けます。
そして不老不死の秘術が記された『仙経』十巻を授かったのでした。

その後、洛陽を通りかかると、インドから来た菩提流支ぼだいるしという三蔵法師が、大勢の僧と共に新しい経典の翻訳で大活躍していると聞きます。
曇鸞大師は、この三蔵法師に会いたいと思い、面会を求めました。

菩提流支ぼだいるしとの面会がかなうと、曇鸞大師は自分が学んだ不老不死の教え『仙経』を自慢し、
おれは不老不死の仙術を身につけたが、仏教にはこれに勝る教えがあるか
と尋ねます。
すると菩提流支 ぼだいるしは、
そんなものが何になる?
不老不死と言っても本当の不死ではない。
ただ長生きするだけで、どうせ一度は死ななければならない。
そんな仙術が役立つものか

と一蹴します。

ところが、菩提流支ぼだいるし三蔵は曇鸞大師に『観無量寿経』を渡し、
この経典には限りない命を得る方法が説かれている」と言います。
観無量寿経』は「無量寿」を「」るとあります。
無量寿」とは限りない命のことですが、曇鸞大師はその底知れない深い内容に驚き、
仙経十巻を即座に焼き捨て、仏教一本に心を決めたのでした。

ちなみに『観無量寿経』にどんなことが説かれているかは、こちらをご覧ください。
観無量寿経とは?意味と内容を分かりやすく解説

iPS細胞で肉体を若返らせるという発想も、この仙経の考え方と大差ありません。
それとは比較にならないすばらしいことが、仏教に教えられていたことを曇鸞大師は再発見したのです。

四門出遊

仏教でなぜこういうことが明らかにされているかというと、
そもそもお釈迦様が出家されたきっかけが、死の問題を解決するためだったからです。
そのきっかけとなったのが
四門出遊しもんしゅつゆう」という話です。

お釈迦様が悟りを開かれる前は、シッダールタ太子と呼ばれていました。
王様の子供だったので、幼少期から何不自由なく、カピラ城で保護された生活を送っており、
世の中の苦しみをほとんど知りませんでした。

ところがシッダールタ太子は、初めて城壁を出た時に4つの重要な経験をします。
最初に東の門から外に出ると老人に出会い、
老いという人生の避けられない真実を知ります。
次に南の門から外に出ると病人に遭遇し、
病苦の現実を目の当たりにします。
西の門から出た時には葬式(死人)を見て、
生きているものはいずれ死ぬという、死の避けられない運命を強く自覚されました。

その時シッダールタ太子は、どんなに若く、お金があり、地位が高く、一家団欒していても、やがて老いと病と死によって崩れ去ってしまう、人生の本質を見抜かれます。
お金や財産、地位、名誉、家族や友人などの、どんな幸せも続かない無常の現実を痛感したのです。

そして最後に北の門から外に出たとき、出家した修行者に出会いました。
その時シッダールタ太子は、人生において求めるべきものは、お金や恋人、地位、名誉ではなく、
生老病死を超えた本当の幸福を探さなければならないと知らされたのです。

お釈迦様について詳しくは、こちらの記事をお読みください。
ブッダ(お釈迦様)の生涯と教えを分かりやすく簡単に解説

やがてお釈迦さまは29才の時に出家され、6年間の想像も及ばない厳しい修行をなされた末、ついに仏のさとりを開かれ、
老いと病と死を超えた変わらない幸せになれる真理を体得されたのでした。
もちろんお釈迦さまとて死ななくなることはできません。

人間には、果てしない遠い過去から、生まれ変わり死に変わり、変わり続けながら苦しみ迷いの旅を続ける永遠の生命があり、その苦しみ迷いの根本原因をなくすことによって、未来永遠の幸せになれることを発見されたのです。
それは生きている時になれますので、仏教には、肉体が滅びても絶対に変わらない、絶対の幸福が教えられているのです。
それでお釈迦さまが仏のさとりを開かれた時、
不死の門は開かれた」と宣言されています。
それ以外に不死の身になる方法はありません。

では一体どうしたら、この世で絶対の幸福になれるのでしょうか。

仏教で説かれる絶対の幸福になる方法とは?

今回は、不老不死について解説しました。

不老不死とは、年齢を重ねても年をとることなく、老衰死といったこともないことを意味しています。
また怪我や病気になっても死なない、不死身という意味でも使われます。

人間は心の底から死を恐れ、不老不死を願い、
様々な神話や伝承が誕生しました。
不老不死を求める心は、歴史的に、実際に不老不死を追い求め、
世界中を旅したり、修行や食事によって目指したり、薬を作り出そうとしてきました。
ですが、ついにうまくいきませんでした。

今日でも科学や医学で不老不死の研究が進められていますが、
どれも肉体の不老不死のことを問題にしています。
しかし、肉体の寿命はいくら伸びても、肉体が壊れれば、人は必ず死ななければなりません。
では、本当の不老不死にはなれないのでしょうか?

仏教には、本当の不老不死について、絶対に崩れない変わらない、絶対の幸福を教えられています。
それには、苦悩の根元を知り、それを断ち切らなければなりません。
詳しくは電子書籍とメール講座にまとめましたので、ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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