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悟りとは?

さとり」というと、何かに気づいたとき、「さとった」と言います。
仏教では悟り、覚り、証りなど書きますが、全て同じ意味です。
また、人生を達観している人や、年配の立派な人を
「あの人はさとりを開いているから……」
ということがあります。
本当にそれが悟りなのでしょうか?

この記事では、
・悟りと気づきの違い
・悟りの種類と名前
・崩れない悟り
・悟りを登って行くと知らされること
・これまで悟りを開いた人の段階
・悟りの内容
・誰が悟りの段階を決めたのか
について分かりやすく解説します。

悟りを開くとは?

悟りとはどんなものなのでしょうか?
参考までに仏教の辞典を見てみましょう。

悟り
さとり[s:bodhi]
迷いの世界を超え、真理を体得すること。
<覚り>とも書く。
かく><><覚悟><しょう><証得しょうとく><証悟>などともいい、bodhiを音写した<菩提ぼだい>も用いる。
また、漢訳仏典においては、bodhiの意訳として<どう>をしばしば用いるが、これは仏教における悟りを中国古典における根源的実体である道と同一視するものである。
bodhiは語根√budhに由来し、目覚めることを意味する。
同じ語根に由来する仏陀ぶっだbuddhaは目覚めた人の意である。
悟りは仏教が最終的に目的とするところで、その絶対性を表すために、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいanuttarā samyaksaṃbodhiḥ(無上正等覚むじょうしょうとうがく。この上ない完全な悟り)という言い方もなされる。
煩悩ぼんのうの炎を吹き消し、輪廻りんねの世界を超脱したというところから、涅槃ねはん解脱げだつとも同義とされる。

この辞典では、悟りの別名がたくさん記されていますが、
内容としては、迷いの世界を超え、真理を体得すること、
それは煩悩の炎を吹き消し、輪廻の世界を超脱したことだと書かれているだけです。
しかし悟りといっても複数の段階があり、それを段階的に悟っていくのが、悟りを開く意味でもあります。
そこで、このような辞典では分からないようなことまで、悟りについて分かりやすく解説していきたいと思います。

悟りとは諦めやひらめきのこと?

まず、「さとり」という言葉はよく、苦しいことが起きたとき、「人生さとった」という人があります。
これは諦めたというような意味です。

他にも、何か気づきをえたとか、何かがひらめいたことを、「さとった」という人がありますが、悟りは、諦めとかひらめき、気づきとはまったく違います。

気づきやひらめきは相対的な理解の深まりですが、悟りというのは、絶対の智慧なのです。

理解が深まったり納得するのは、相対的なものです。
例えば、昔、義経よしつね と弁慶が追っ手から逃げている時、農家に泊まると、その家には子供がたくさんいました。
義経が奧さんに
「子供さんがたくさんおられるんですね、何人おられるんですか?」
と尋ねると、
「はい。夫の子供が6人、私の子供が6人、合わせて9人です」
と答えました。

義経は「そうですか」と頷きましたが、 弁慶は、
「それじゃ12人のはずじゃないか」
と理解できません。
翌朝、家を出て、お昼に差しかかった頃に弁慶は、
「わかったー!」叫びました。そして義経に
「6人と6人で9人になる訳が、やっと分りました」
と、頭をかいて笑ったそうです。

この「わかったー」というのを悟りのように思う人がありますが、
これは同じことでも、頭の回転の違いで、理解するのに相対的な速い遅いがあります。
こういうのは、理解や納得の問題です。

ところが、悟りというのは、絶対的な智慧で、理解を延長してたどりつくものではありません。

悟りは、1段違えば、人間と虫けらほど境涯が違うといわれます。

虫けらに、テレビやパソコンのことを教えようとしても、とても分かるものではありません。

気づきやひらめきの内容は、人間でも説明して行けば、充分理解可能ですから悟りではありません。
悟りというのは、そんな程度ではなく、比較になりません。
境涯がまったく変わってしまうのです。

では何を悟るのでしょうか?

悟りの境地の内容

悟りを開くと、どんなことを悟るのかというと、大宇宙の真理です。

大宇宙の真理といっても、数学的真理とか、科学的真理ではありません。
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
これを「真如しんにょ」といいます。

真如は、言葉で表せるものではなく、言葉を離れた絶対の世界なのですが、言葉でなければ伝えられません。

その真如を体得され、仏のさとりを開かれた方を、仏とか、仏様、はたまたブッダと言われるのです。

約2600年前、35歳で仏のさとりを開かれて、真如を体得されたのがお釈迦様です。

真如について、お釈迦さまは、『維摩経』にこのように説かれています。

維摩の一黙、雷の如し

お釈迦様のお弟子に、維摩居士という在家信者がいました。
居士とは在家信者という意味です。
維摩居士は大変賢く、お弟子の中でも一目置かれる存在です。

ある日、維摩が病気になり、人々がお見舞いきます。
この時の維摩の病は実は仮病で、これを機会にと訪れた人々にお釈迦様の教えを説くのでした。
ところが、お釈迦様のお弟子たちはお見舞にいこうとしません。

お釈迦様が弟子たちに見舞いに行くことを勧めます。
しかし維摩にやりこめられたことがある弟子達は、また何か言われるのかと固辞するのでした。

やがて、文殊菩薩が見舞いに行くことを決意しますと。
文殊菩薩は「三人寄れば文殊の智恵」と言われるほど、大変智恵に優れた方でした。
文殊と維摩のやりとりに関心をもった弟子たちが数十人ついてきます。

文殊菩薩が維摩の家に到着すると、さっそく維摩から厳しい追求が入ります。
部屋の中に椅子がない事を心配する舎利弗尊者は、維摩から
「あなたは法を求めに来たのか、それとも座席を求めに来たのか」 と叱られてしまいます。

それから悟りの境地にである真理(真如・空)について、文殊と維摩の高度な問答が始まります。
維摩が
「釈迦如来が真如を説かれているが、真理とはどんな境地か」
と問います。

真理について釈迦のお弟子たち31人が、言葉を尽くして色々と表現しようとします。
そして最後の32人目に、文殊菩薩が
「真理とは、言葉で表せないものだ」
と答えました。
その場にいた弟子たちはみな鋭い返答に感銘を受けるのでした。

今度は文殊が逆に維摩居士に対してと真理とはどんなものか尋ねます。
すると維摩は、一言も発せず、黙ってしまったのです。

時に維摩詰黙然として言無し。
(漢文:時維摩詰默然無言)

それを見た弟子たちは皆、心中に雷がズドンと落ちたような衝撃を受けました。
文殊は言葉にできないものを
「言葉であらわせない」
と口に出して言葉に表しました。

それに対して維摩は、真如がどんなものかを見事に表しています。
これを
維摩の一黙、雷の如し
といわれます。

このエピソードに深く感銘を受けた20世紀最大の哲学者の一人、ウィトゲンシュタインは
主著『論理哲学論考』の結論として、こう言っています。

語りえぬものについては沈黙せねばならない。

すでに2600年前から説かれていることが、このように20世紀の西洋哲学に影響を与えているのです。

真如は本来は言葉を離れた世界

また、真理ついて古歌にはこのようにいわれます。
真如とは若き女の乱れ髪
 ゆうにゆわれず
 とくにとかれず

これはどういう意味かというと、
「真如とかけて、若き女の乱れ髪と解く、その心は?」
と謎かけをした場合、
結おうとしても結うことができず(言うに言われず)
解こうとしても解くことができない(説くに説かれず)
ということです。

このように、真如は本来、言葉を離れたものなのです。

このような言葉では表現できない悟りの境地を「離言真如りごんしんにょ」といいます。

ですが、言葉を離れた境地だと言っていても、真如まで導くことはできません。
そこで、真如を言葉を尽くして教えられているのが「依言真如えごんしんにょ」です。

真如そのものは言葉を離れた境地ですので離言真如りごんしんにょですが、 お経やお聖教(仏教の本)に説かれていることは、依言真如えごんしんにょなのです。

悟りの段階・種類と名前

仏教では、悟りといっても1つや2つではありません。
1段違えば人間と虫けらほど違う悟りが、低いものから高いものまで、全部で52あります。
これを「悟りの52位」と言います。

それぞれの悟りの段階はどんな名前かといいますと、
 1段目から10段目を「十信じっしん」、
(1段目を初信、2段目を二信、3段目を三信……10段目を十信)
11段目から20段目を「十住じゅうじゅう」、
(11段目を初住、12段目を二住、13段目を三住……20段目を十住)
21段目から30段目を「十行じゅうぎょう」、
(21段目を初行、22段目を二行、23段目を三行……30段目を十行)
31段目から40段目を「十回向じゅうえこう
(31段目を初回向、32段目を二回向、33段目を三回向……40段目を十回向)
41段目から50段目を「十地じゅうじ」、
(41段目を初地、42段目を二地、43段目を三地……50段目を十地)
といいます。

51段目は、ほとんど仏のさとりと等しいということで、「等覚」と言われます。

そして一番上の、下から数えて52段目の悟りが「仏覚ぶっかく」と言われ、仏のさとりです。
これ以上、上が無い、「無上覚むじょうかく」といわれたり、妙なるさとり、「妙覚みょうかく」とか、「阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい」ともいわれ、仏のさとりには色々な名前があります。

不退転位:崩れないさとり

このさとりの52位の中で、40段目までを「退転位たいてんい」といい、41段目以上を「不退転位ふたいてんい」といいます。

退転たいてん」とは、油断すると悟りが崩れることをいいます。

ここで一つ、悟りが崩れた実例を紹介します。

明恵の油断

鎌倉時代の華厳宗僧侶明恵みょうえは雑炊が大好物でした。
ある時、弟子が明恵に喜んでもらおうと腕によりをかけて雑炊を作ってきました。
明恵は喜んで、一口雑炊を口にすると、ピタッと箸が止まります。

近くに対機していた弟子は、緊張して様子を窺います。
明恵はすっと立ち上がると、障子のさんを指でなぞってその埃を雑炊にふりかけます。
それを見た弟子は青ざめて、
「しまったーっ、掃除ができていないというお叱りだろうか!」
と心配そうに見ていると、明恵はまずそうな顔をして食べ終わります。
弟子が
「申し訳ございません。これからはしっかりと掃除します」
と平身低頭謝ります。
すると明恵は
「いやいや、そうではない。
そなたの作ってくれた雑炊があまりに美味しかったので、思わずうまい、と思ってしまった。
執着の心を起こしそうになったので、あえて味を悪くして頂いたのだ。
そなたの親切心は十分味わった」
としみじみ言ったといいます。
普通の人は、できるだけ美味しいものを探していますが、
悟りを目指す人はいかに気を張っていなければならないかが分かります。

その明恵が、廊下を歩いていた時のこと。
うっかりお師匠様からもらった数珠を落としそうになります。
華厳宗では、お師匠様からの数珠を床に落とすなどもってのほかです。
明恵は気をはっていたので、
「まずい!」
と思い、床に着く直前でキャッチしました。
「危なかったー」
と思った瞬間、心に隙ができて、悟りが崩れてしまったといいます。
これが40段までの退転位の悟りです。

ですから、2段目、3段目と少しさとったとしても、それは退転位ですから、気を抜くと、がらっと崩れて元の木阿弥になってしまいます。

41段目以上の「不退転位」まで行くと、どんなことがあっても崩れない悟りの位となります。

悟りを開くことを山登りにたとえると?

悟りを開くことを山登りにたとえると、最初はみんな「凡夫ぼんぶ」といわれ、1段も悟りを開いていませんから、山のふもとにいるようなものです。

それが、山に登り始めて、一合目まで登ると、ふもとにいたときより、遠くまで見えるようになります。

二合目まで登ると、もっと遠くまで見えるようになります。
二合目より三合目、三合目より四合目と、登れば登るほど見える景色が広がっていきます。

51段までいっても、山の片側しか見えませんが、頂上まで登りつめたとき、360度ぐるりと見渡せるようになりす。

そのように、悟りの段階を登って行き、最後、52段の仏のさとりに到達すると、大宇宙の真理のすべてを体得できるのです。

52段目の仏のさとりについては、こちらで解説してあります。
仏のさとりとは?大宇宙最高の真理

では、悟りを開いたらどうなるのでしょうか?

悟りを開いた人の特徴

悟りを開いたらどうなるのか、悟りを開いた人の特徴が気になると思います。
一般的には、たとえば悟りを開いた人は以下のようになると思われています。

・物事への執着がなくなる
・私利私欲や煩悩がなくなる
・常に冷静で、正しい判断をする
・見返りを求めず利他に徹する
・誰かと比較せず自分自身を冷静に分析し限界点を定めない
・問題がおきても不安にならない
・死を恐れない
・常に感謝の気持ちで過ごしている
・穏やかな表情で、親しみやすい笑みを浮かべる

これはまあそう言われればそうも言えるというものもありますが、
とりあえず悟りを開くと煩悩がなくなるのだろうという
適当なイメージで言っているものと思います。

悟りを開けば開くほど、煩悩は少なくなっていき、仏の覚りを開けば煩悩はなくなります。
煩悩がどんなものかについては、詳しくはこちらの記事で学んでおいてください。
煩悩ぼんのうの意味・数や種類、消す方法は?

では悟りを開くとどうなるのかということについては、それぞれの段階についてお経に詳しく教えられています。
例えば不退転位の41段、初地の位は、初めて真の中道を観察できるようになり、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、衆生を幸せへ導き、大きな慶喜を得る位です。
大品般若経』には、以下のような10の特徴があると教えられています。

1.心が変わりにくくなる
2.すべての生きとし生けるものに平等に接する
3.布施をする
4.正しい仏教の先生に親しみ近づく
5.仏法を求める
6.出家する
7.仏身を愛楽する
8.仏法を説く
9.自惚れを破る
10.真実の言葉を語る

初地に至れば不退転位ですので、やがて必ず仏のさとりを開くことができます。
それで、41段の悟りを開くと、心に常に歓喜に満ちるようになります。
それがどのような喜びか、41段の悟りを開かれた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつは、このように教えられています。

この菩薩の所有の余の苦は二三の水渧のごとし。
百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。
滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。
このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。

(漢文:是菩薩所有余苦 如二三水渧 雖百千億劫 得阿耨多羅三藐三菩提 於無始生死苦如二三水渧 所可滅苦如大海水 是故此地名為歓喜)

これはどういうことかというと、初地の位に入って消滅した苦しみを大海の水とすれば、まだ消滅していない残りの苦しみは、非常に細い毛で大海の水をすくった2、3滴ほどの苦しみだ、ということです。
これまで果てしない遠い過去から迷いに迷いを重ねた大海の水のような苦しみに比べれば、たとえこれからまだ百千億劫の大変な長期間の修行が必要でも、その苦しみはほんの2、3滴のようなものです。
それで初地の菩薩は心に大歓喜を生ずるのです。

悟りを開く方法

仏教で悟りを開く方法は、お経の中で詳しく書かれています。
お経の内容を学んで(教学)、教えのとおりに実践する(行学)することができれば、悟りを開くことができます。

悟りを開く方法については、以下のページにも解説してあります。
さとりを開く方法

また、お釈迦様のご修行や、各仏教の宗派の修行については、こちらで書いていますのでご覧ください。
仏教の修行とは?その意味とさとりへの過酷な修行方法

上記記事を見ればわかりますが、修行はとても過酷です。
悟りを開いた人はいるのでしょうか?

これまで悟りを開けた人は?

今日まで、地球上で仏のさとりを開かれた方は、
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
と言われるように、お釈迦さまただお一人です。

お釈迦様については下記をご覧ください。
ブッダの誕生から悟りを開き入滅までの生涯と教え・ブッダと釈迦の違い

龍樹菩薩と無著菩薩が開いた悟り

人類の歴史上、52段目の最高の悟りまで到達できたのはただ一人ですが、2番目は誰かというと、お釈迦さまの700年後、インドに生まれられた龍樹菩薩りゅうじゅぼさつです。
41段の悟りを開かれました。
その200年後には、無著菩薩むじゃくぼさつが、同じく41段の悟りを開かれています。

人類で2番目に高い悟りを開いたのは、この龍樹菩薩と無著菩薩で、41段です。

龍樹菩薩について詳しくはこちらをご覧ください。
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは

達磨大師が開いた悟り

面壁九年めんぺきくねんという手足が腐るほど厳しい修行をして禅宗を開いた達磨でも、30段程度の悟りだったといわれます。

達磨大師の生涯について詳しくはこちらをご覧ください。
達磨大師とは

天台智顗の開いた悟り

天台宗を開いた天台は、臨終に、弟子の智朗ちろうから、
先生はどのあたりまで悟りを開かれたのですか?
と聞かれて、このように答えています。

我、衆を領せずば必ず六根を浄めん。
されど他の為に己を損して、ただこれ五品位のみ。

(漢文:吾不領衆 必淨六根 爲他損己 只是五品位耳)

六根を浄めん」というのは、十信のことで、10段目です。
五品位」というのは、その下ですので、「一人で修行に打ち込んでいれば、多分10段まで行っただろうけど、弟子の指導育成に当たっていたために、そこまで行けなかった
ということです。

天台宗について詳しくはこちらをご覧ください。
天台宗の本山と開祖、その教えとは

八宗の祖師といわれて、あらゆる宗派から尊敬される
龍樹菩薩でも41段、
禅宗を開いた達磨でも30段、
天台宗を開いた天台大師でも10段程度ですから、悟りを開くのがいかに難しいかわかります。

悟りの段階を決めた人は?

たまに、「悟りの段階は誰が決めたんですか?」とか、
どれ位悟ったかは誰が認定するんですか?
と聞く人があります。
確かに書道や華道などの芸事や、武道などであれば、誰かが段位を決めて、家元や師範が認定するのかもしれません。
それは誰か創始者が作った芸術や武術だからです。

ですが、悟りは誰かが決めたものではなく、もともとそういう心の境地が存在しているものです。

分かりやすくいいますと、お釈迦さまが大宇宙の真理をすべて体得した仏のさとりまで到達されたところ、そこまで52の心の段階、悟りの境地があることを発見されたのです。
その1段1段の心の変化について、1段悟るとこんなことが知らされてこんな境地になる、もう1段上るとこんなことが知らされてこんな境涯になるということを、お釈迦さまが説き明かされ、それがお経に書き残されているのです。

ですからさとりは、誰かが作り出したものではありませんし、
仏教は誰かが考え出した教えではありません。
ちょうど、ニュートンが万有引力の法則を作り出したのではないのと同じです。
万有引力の法則は、ニュートンが現れる前からあったのですが、それをニュートンが発見して法則として明らかにしたようなものです。

同じように、ヨーロッパからアメリカ大陸までの距離は、コロンブスが決めたわけではありません。
コロンブスが、アメリカに到達して、
アメリカまで5700キロあります
と言った時、それは誰が決めたということではなく、
実際にアメリカまで行ったところ、
5700キロあったので、そう言っているだけです。

ですから、万有引力の法則が、ニュートンの思想とは言われないように、また、アメリカまでの距離がコロンブスの思想と言われないように、仏教も、釈迦の思想というわけでもありません。
もし仏のさとりを開いた人が複数いれば、それらの仏方の表現は違えど、表そうとする真理は同じになります。
今日までの所、地球上で仏のさとりを開かれたのはお釈迦さまだけですので、地球上で唯一仏のさとりを開かれたお釈迦さまが、すべての人が本当の幸福になれる道を発見され、言葉を尽くして教えられたのが、仏教なのです。

では、そのすべての人が本当の幸せになれる道とは何かということは、仏教の真髄ですが、メール講座と電子書籍に分かりやすくまとめました。
ぜひ一度読んで見て下さい。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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