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華厳宗とは

東大寺大仏殿
東大寺大仏殿

華厳宗は、『華厳経』を拠り所とする宗派で、
奈良時代に隆盛を極めました。
現在、鹿が放し飼いになっている観光名所の
奈良公園にある東大寺が総本山です。

東大寺の本尊は、有名な「奈良の大仏」で、
華厳経』に説かれる毘盧遮那仏びるしゃなぶつです。

華厳宗とは

華厳宗はなぜ華厳宗というのかというと、『華厳経』を最大の拠り所とするからです。
岩波の仏教辞典にも以下のように書かれています。

華厳宗
(けごんしゅう)
中国の初唐代に成立した学派。
華厳経を最高・究極の経典とし、その思想を根本的なよりどころとして固有の教学を形成した。

このように『華厳経』に基づく教えなので、華厳宗といわれます。
では、華厳宗はどのように生まれたのでしょうか?

華厳宗の開祖と歴史

華厳宗の開祖は、中国の隋から唐の時代の
杜順とじゅんという僧侶です。

もともとインドの天親菩薩が『華厳経』を解説された
十地経論』によって
浄影じょうようが大成した地論宗の教えを元に、
杜順が華厳宗を開きました。
その後、三代目の法蔵が、当時開かれた天台宗や、
勢いがあった法相宗の教学を取り入れて、
華厳宗の教学を大成しています。

インドの龍樹菩薩にも『華厳経』の解説書の
十住毘婆沙論じゅうじゅうびばしゃろん 』があり、
華厳宗の祖師に加えられることがあります。

日本では、東大寺の良弁ろうべんがお願いして
中国の法蔵に学んだ新羅(朝鮮)の僧侶である審祥しんじょうを招き、
華厳経の講義がなされています。

それに感動した聖武天皇によって、
奈良の大仏が造られましたが、
だんだんと衰退し、
現在ではごくわずかを残すのみとなっています。

華厳経』は、お経の中でも特に難しいことで有名で、
お釈迦さまのさとりそのものといわれる
大変深い内容が説かれています。
一体どんなことが教えられているのでしょうか?

華厳経』に説かれるさとりの世界

華厳経』は、何十巻もある大きなお経ですが、
何が説かれてているのかを一言でいうと、仏のさとりそのものです。
その仏の心に、唯一絶対の真実の世界のすべてが、
同時に映っているありさまを、海にたとえて
海印三昧かいいんざんまい」といいます。

それは、時間的にも空間的にも、
すべてがお互いに邪魔することなく
完全に解け合っている究極の真理の世界で、
これを「法界縁起ほっかいえんぎ」ともいわれます。

4つの法界

華厳宗では、この仏の心にうつった世界である法界を
4通りの観点から教えられています。
事法界」「理法界」「理事無礙法界」「事々無礙法界」の4つです。

1.事法界

事法界とは、因果の道理によって現れる千差万別の現象世界です。

2.理法界

この世に現れた事象は千差万別ですが、
真理の面から見れば、固定不変なものは何もなく、
すべて同じく平等に、因と縁がそろって成立しています。
この、すべての現象が成立している本質を理法界といいます。
理法界も事法界と別のものではありません。

3.理事無礙法界

理法界と事法界が、お互いに邪魔することなくとけあっていることを
理事無礙法界といいます。

ちょうど、それぞれの波は千差万別ですが、
すべての波は、固定不変なものではなく、
等しく水でできているようなものです。
水を理法界とすれば、波が事法界です。
水と波がお互いに邪魔することなく、
融通無碍にとけあっている世界を
理事無礙法界といいます。

4.事々無礙法界

それぞれの事象と事象が邪魔することなく融合している世界を
事々無礙法界といいます。

一切の事象は、どの事象同士も
大宇宙の真理である因果の道理によって
お互いに関連し合っているということです。

仏教では、
芥子粒の中に 大千世界を入れて 広からず 狭からず
と言われます。
芥子粒というのは、あんぱんにのっている小さな芥子の種です。

なぜ芥子の種ができたかというと、
芥子の花が咲いたからです。
なぜ芥子の花が咲いたのかというと、
芥子の芽が出てきたからです。
なぜ芥子の芽が出てきたかというと、
その芥子の種があったからです。
2代前の芥子も、3代前の芥子もあります。
この芥子の種にも、遠い過去からの歴史があったということです。
そのどの一本がかけても、目の前の芥子粒はありません。

同時に、芥子の種があるだけでは
芽を出すことはできません。
太陽や土、空気など、
色々な条件があって生えてきたのです。

こうしてみると、因果の道理にしたがって、
大宇宙が総動員して、この芥子の種ができたということです。
これを大宇宙が芥子の種におさまっていると言います。

このように芥子粒だけでなく、
一つの事象それぞれの中に、他の一切の事象がおさまっている
ということが事々無礙法界です。
一切の事象は同じ因果の道理によって、
お互いの相互関係によって成立していることを
相即相入そうそくそうにゅう」といいます。
相即」とは、すべての事象が同じ真理によって成立していること、
相入」とは、すべての事象がお互いに関係し合って成立していることです。

これを「重々無尽」の因果とか「無尽縁起」ともいわれます。

この事々無礙法界の「相即相入」を、色々な面から
教えられているのが華厳宗です。

華厳宗と天台宗の違い

華厳宗も天台宗も、中国で開かれた仏教の宗派としては
最も高度な領域に到達しています。

天台宗では、一つの現象に
地獄餓鬼畜生修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の
十界がおさまっていると考えていますので、
これを「性具しょうぐ」といいます。

それに対して華厳宗では仏のさとりである真如法性がそのまま
あらゆる現象となって現れると考えます。
これを「性起しょうき」といいます。
天台宗の「性具」では、一つの現象に仏の世界も地獄をも含む十界がおさまっていると見るのに対して
華厳宗の「性起」では、一つの現象が真如法性の現れと見るところに違いがあります。

華厳宗の修行とは?

華厳宗では、すべてが仏のさとりの現れであるはずなのに、
それが自覚できないから、私たちは永遠に輪廻転生を繰り返し、
苦しみ迷い続けなければならないと考えています。

そこで、すべてが仏のさとりであることを自覚するための修行を行います。

華厳宗ではよく「教観不二」とか「教即観」といわれ、
学問によって法界縁起について知り、理解することが、
修行になるともいわれます。
とはいいながらやはり、華厳宗にも色々な観法の修行が説かれています。
特に「法界観」や「華厳三昧観」、
妄尽還源観」や「三聖円融観」などが重視されています。

具体的にはどうするのかというと、
一つの事象にすべてがおさまっている
仏の心にうつった世界を思い浮かべます。
これを体得した境地が「入法界」です。

また自分の心に事々無礙法界の境地を思い浮かべる方法もあります。
これができれば、煩悩即菩提、生死即涅槃の境地になると
教えられています。

仏のさとりまでの修行期間

このような修行によって、華厳宗では、基本的には
3回の生まれ変わりによって仏になれると教えられています。
これを「三生成仏さんしょうじょうぶつ」といいます。

ただし、当然ながら華厳宗は自力宗派ですので、
因果の道理にしたがって、その人の才能や努力によって
期間はまったく違います。
お釈迦さま以上に優れた人が、
人間とは思えない努力をすれば、
この世で、一瞬で仏のさとりを開けますし、
仏道修行の器ではない場合、何回生まれ変わっても
仏のさとりには到達できません。

では、これまで、華厳宗の修行が完成できた人は
いるのでしょうか?

華厳宗の名僧・栂尾の明恵

華厳宗の日本屈指の高僧とされる有名な僧侶といえば、
梅尾の明恵上人です。
厳しい戒律を守って修行に励んでいました。

そんなある日、小さい頃から雑炊が大好物だった明恵上人の元へ、
弟子の一人が特に念を入れておいしい雑炊をこしらえて
師匠の居間へ持参しました。

机に向って書物を読んでいた明恵は、
弟子の姿を見て
おお今日は雑炊のご馳走か
と言いながら、子供のような笑顔で早速、
お膳に向って箸をとり上げました。

弟子は心をこめて作った雑炊を、
どのように喜こんで召上がるかとじっと先生の口元を見つめていたところ、
雑炊を一口ほおばった瞬間、
明恵の眉がぴっくと動き、動きが止まりました。
何か口に入れた食物がのどにつかえて
飲みこみかねているように見えます。

何か失敗したかと不安になった弟子は、
思わず何か言おうとしましたが、
その後の明恵の余りにも唐突な動作に驚いて言葉を失いました。

さっと立ち上がった明恵は、
部屋の障子の桟を指で軽くこすってほこりを指につけ、
雑炊にパラパラとふりかけたのです。

そういえば、ここ2〜3日、
師匠の部屋の掃除を怠けており、
桟には薄くほこりがたまっていました。

明恵は2〜3回ほこりを雑炊にふりかけると、
黙って箸を動かして、無表情で食べ終わりました。

しまったー、これは、もう少し丁寧に掃除をせよと
 お叱りを受けるのか!?

と思って、弟子がビクビクしていると、
明恵は、静かに弟子に向って言いました。

ワシは今、妙なことをしたから、不思議に思ったであろう
弟子が
申し訳ございません!これからはしっかり掃除します!
と謝ると、
明恵は
いやいや掃除のことをいっているのではない。
実はワシはお前の心をこめて作ってくれた今日の雑炊を一口食べて、
思わず、その味の美味しいのに感嘆した。
その瞬間、身体の一部に美味い食物に対する執着が
蛇の鎌首を持ち上ぐるようにムラムラと起こって来たのだ。
美味しい雑炊を作ってくれたお前達の親切心だけを
味わえばよいのに、あまりに味がよかったので
ついに味覚のとりこになるところだった。
実に浅間しい限りだ。
だからあわててほこりを入れて、
せっかくだが美味い味を消して頂いたのだ。
これでやっと口先の誘惑からまぬがれることができた

としみじみ述懐したといいます。

そんな明恵も、ある日、歩いているときに、
師匠から頂いた念珠を落としそうになりました。
師匠から頂いた念珠を地面に落とすことは、
華厳宗では考えられない大失態です。
常に気を張っていた明恵は、
あわててもう片方の手をさっと動かして、
何とか地面すれすれでパッとつかむことができました。
あー良かったー」と思った瞬間、
その落とさずに済んだという油断によって、
それまでの悟りがガラガラと崩れ去ったといいます。

華厳宗の祖師の方々は?

華厳宗の開祖である杜順も、
華厳宗の事々無礙法界の修行が完成できず、
臨終には、『華厳経』の最後に説かれている
他力易行の救いを求め、人にも勧めて、
諸仏の王である阿弥陀仏極楽浄土往生したと伝えられています。

また、華厳宗でも祖師とされるインドの龍樹菩薩は、
悟りの52段中、41段まで自力難行でさとりを開かれましたが、
とても自力仏のさとりを開ける自分ではなかったと知らされて、『華厳経』の解説書である『十住毘婆沙論』に、こう説かれています。

心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じて為に身を現ぜん。
この故に我、彼の仏の本願力に帰命したてまつる。

(漢文:心念阿彌陀 應時爲現身 是故我歸命 彼佛本願力)

これは、この龍樹は他力易行の教え、阿弥陀仏の本願によって、この世で絶対の幸福になったのだ、ということです。

このように華厳宗には、仏のさとりに関する高遠な理論はあるのですが、
その修行については、祖師でも実践はできないほどの難行道なのです。
ところがお釈迦さまは『華厳経』の中に、こう説かれています。

一切の無碍人は一道より生死を出づ。
(漢文:一切無礙人 一道出生死)

無碍人」とは仏のことです。
すべての仏は、ただ一本の道から仏になった、と説かれています。
どんな人でも、仏のさとりを得られる唯一の道があるのです。

それは、どんな人でも苦悩の根元を断ち切られて、
煩悩あるがままで、煩悩即菩提の境地に出られる
たった一つの道です。
これを知らなければ、誰一人、仏のさとりは得られません。

その、私たちの苦悩の根元と断ち切る方法については、
以下のメール講座と電子書籍にまとめておきました。
まずは読んでみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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