鳩摩羅什(くまらじゅう)とは

鳩摩羅什」は、もともとインドの言葉で書かれていた
法華経』や『阿弥陀経』などのお経や、
龍樹菩薩の著作を中国語に翻訳し、中国、日本の仏教界に大きな影響を与えた
偉大な三蔵法師です。

西暦400年頃の人ですが、どんな人だったのでしょうか?

鳩摩羅什の功績

鳩摩羅什は『法華経』『阿弥陀経』『維摩経
大品般若経』『金剛般若経』などの重要なお経
龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』、
成実宗の拠り所となる『成実論』を翻訳し、
三論宗の祖とされることもあります。

そして、西域の亀茲(きじ)国出身で、
インドの言葉も中国の言葉も外国語ですが、
翻訳の文章が芸術的なまでに美しく、
鳩摩羅什の選び、つむぎ出した言葉は
今日に至るまで使われています。

日本最大宗派の浄土真宗で重んじられる
阿弥陀経』と『十住毘婆沙論』、
天台宗日蓮宗で重視する『法華経』の翻訳者であることから、
現代の日本にも大きな影響を与えています。

そのような偉大な漢訳経典は、どのように生まれたのでしょうか?

鳩摩羅什の両親のなれそめ

鳩摩羅什のお母さんは、
シルクロードのテンシャン山脈の南麓にある
亀茲国の国王の妹で、耆婆(ぎば)といいました。
生まれつき聡明で、一度見たり聞いたりしたものは
二度と忘れません。

小さい頃から美人で有名で、
結婚適齢期になると、
周辺諸国の王族や貴族など、高貴な人たちから
たくさんの縁談がありましたが、
耆婆は心がときめかず、すべて断ってしまいます。

そんなある日、インド人の僧侶が東方へ仏法を伝えようとして
亀茲国を通りかかりました。
たまたまその僧侶を見かけた耆婆は、
一目見るなり恋に落ちてしまったのです。

しかし、出家した僧侶戒律があり、結婚することはできません。
お兄さんに相談することにしました。

当時の国々では、王様の相談役の知者を必要としており、
その知恵が国家の命運を左右していました。
僧侶は国師として相談役に迎えられることが多かったのです。

そこで、耆婆はお兄さんの王様にお願いして、
その僧侶に還俗して国師として迎えてもらい、
結婚することにしてもらいました。
それが、鳩摩羅什のお父さんの鳩摩羅炎(くまらえん)です。

やがて子供をみごもると、耆婆は胎教のため、
お寺で仏教を学び始めます。

すると耆婆の知恵はますます冴えわたり、
お経のインドの言葉も理解できるようになったといいます。

ちょうどブッダの十大弟子の一人、
知恵第一の舎利弗のお母さんも、舎利弗を身ごもったときに
尋常でない知恵に恵まれたというエピソードがありますので、
亀茲国の人々は、舎利弗のような賢い子供が生まれるに違いないと
噂しあいました。

やがて男の子が生まれると、
お父さんの名前とお母さんの名前をとって、
クマーラジーヴァ」と名づけました。
それに漢字を当てて「鳩摩羅什」といいます。
ですから鳩摩羅耆婆とも書きます。

西暦350年のことでした。

鳩摩羅什の生い立ち

鳩摩羅什が生まれても、
お母さんの耆婆は続けて仏教を学ぶうち、
仏教の理解を深め、
2番目の子供を出産すると、出家してしまいます。
鳩摩羅什が5歳のときでした。

2年後に正式な僧侶(比丘尼)になると、
7歳の鳩摩羅什を出家させます。

鳩摩羅什はずば抜けた才能を発揮し、
毎日千偈の経典を暗記したといわれます。
漢訳仏典では3万2000字、
400字詰め原稿用紙80枚分を毎日です。

2年後、9歳のときに、
母親と北インドのカシミールへ留学しました。

カシミールは現在はパキスタンで、
カシミール原産のカシミアヤギからとれるのが
高級繊維のカシミアです。
当時は小乗仏教の中心地でした。

鳩摩羅什は、カシミール随一の学僧、
バンズダッタ(般頭達多)から教えを受けます。
3年間で、たちまち小乗仏教を学び尽くすと、
もはや討論しても誰にも負けなかったといいます。

12歳で帰国し、
次は中央アジア諸国を遊学します。
そのときであった僧侶から、将来の苦しみを暗示する
予言を受けます。
35歳まで戒律を守り続け、
破戒することがなければ、大いに仏教を興隆するであろう
もし破戒すれば、単にすぐれた僧侶に留まるだろう

というものでした。

やがて鳩摩羅什は大きな苦しみを背負うことになります。

大乗仏教との出会い

さらに遊学中、元ヤルカンドの王子で
大乗仏教の菩薩となったスリヤソマに出会います。
すでに小乗仏教を極めていた鳩摩羅什は
大乗仏教はそう簡単には受け入れられませんでしたが、
激論を繰り返すうちに、
すべての人が救われる大乗仏教のすばらしさが知らされ、
ついに小乗仏教を捨てて、大乗仏教に帰依したのです。

大乗仏教の教えを吸収した鳩摩羅什は、
われが昔、小乗を学べるは、
たとえば人の金を知らずして銅をもって妙と為すが如し

小乗仏教を学んでいた時は、小乗仏教が素晴らしいと思っていたが、
それは黄金を知らないで、銅を素晴らしいと思っているようなものだった
と言っています。

13歳で亀茲国に帰国すると、
20歳で戒律を受けて、正式な僧侶とになり、
大乗仏教の『般若経』を学び始めます。

そんなある日、恩師のバンズダッタが
久しぶり〜、元気にやっとるかの?
と尋ねてきます。

すでに大乗仏教のすばらしさを知らされていた
鳩摩羅什は、
以前教えて頂いた小乗仏教ではなく、
大乗仏教が本物でした

と話すと、激論になります。

さすがは徳の高いバンズダッタは、
ならば大乗仏教がどんな教えか聞かせてもらおう
と、鳩摩羅什の講義に耳を傾けます。

そしてついに、大乗仏教の教えを理解すると、
バンズダッタは
私は小乗の師でしたが、あなたは私の大乗の師です
と、鳩摩羅什を師と仰ぎ、弟子になったのです。

当時、小乗仏教の第一人者であったバンズダッタが
帰依したことにより、鳩摩羅什の名は
インドから中国にまで轟き渡りました。

ちょうどその頃、鳩摩羅什の母親は、
あなたには、東方へ仏法を伝えてもらいたい
と告げ、鳩摩羅什は中国行きを決意します。

中国への道のり

ところが、中国は五胡十六国という戦乱の世で、
そう簡単に中国に行くことはできませんでした。
やがて華北を統一した前秦王が、
鳩摩羅什の噂を聞き、前秦に招こうとしますが、
亀茲国王が承知しません。

ついに前秦王は、呂光に7万の兵をもって、
亀茲国を攻めさせます。
それでも鳩摩羅什を手放さず、徹底抗戦した亀茲国王は、
半年に及ぶ激闘の末、ついに破れ、
鳩摩羅什は呂光に捕まりました。

ところが、鳩摩羅什のあまりに若いのにあなどった呂光は、
いたずらの為に、鳩摩羅什に無理矢理酒を飲ませて破戒させ、
王女と共に密室に閉じ込めたのです。

鳩摩羅什は、ついに戒律を破り、
王女との結婚を受け入れることになりました。
かつてある僧侶から予言された通り、
ちょうど35歳でした。

翌年、36歳のときに中国に向かうことになりましたが、
その途中、呂光を派遣した前秦王が
臣下の姚萇(ようちょう)に追い詰められて自害し、
姚萇は後秦を建国したのでした。

呂光は長安に戻る必要がなくなり、
その場で独立して涼州を平定し、
後涼国を建国します。

その後涼国で、鳩摩羅什は、
政治や軍事の相談役をする傍ら、
長安からやってきた僧侶たちに仏教の講義をしたり、
中国語を学んで過ごしていました。

そしてあっという間に歳月が過ぎて行きます。

後秦の姚萇が没した後、皇帝となった
姚萇の子の姚興(ようこう)は、
篤い仏教の信者でした。

何度も鳩摩羅什を迎えようとしますが、
後涼国は拒絶します。
ついに大軍を派遣して降伏させ
姚興は、鳩摩羅什を長安に迎えたのです。

ようやく中国行きの念願がかなった鳩摩羅什は、
すでに52歳となっていました。

画期的な翻訳方法

姚興は国立の仏典翻訳所を建て、
500人のすぐれた僧侶をアシスタントとして
鳩摩羅什の翻訳を手伝わせました。

国をあげて仏教を保護したのは、
中国の歴史上初めてのことです。

鳩摩羅什の翻訳方式も画期的でした。
それまでの翻訳作業は、インドから来た僧侶
インドの言葉で経典を暗唱すると、
それを書き取り、それを元に中国語訳の作業が進められました。

ところが鳩摩羅什は、
インドの言葉も中国の言葉も堪能だったため、
インドの言葉の経典を頭の中で翻訳し、
中国語で話したのを弟子が書き留めました。

次に鳩摩羅什は、その経典を講義し、
講義をふまえて、大勢の僧侶が検討して、
訳文を決定していったのです。

この画期的な翻訳の方式によって、正確で美しく、
分かりやすい漢訳経典が生まれたのです。

鳩摩羅什の翻訳は、平均10日に1巻という
ハイペースで翻訳がなされ、
60歳で没するまでのわずか8年間で
294巻の翻訳を完成させ、
後の中国、日本の仏教に多大な影響を与えています。

では、鳩摩羅什の伝えたお経には、どんなことが教えられていたのでしょうか?

鳩摩羅什の伝えた仏教は大乗仏教ですので、
すべての人が本当の幸せになれる道が教えられています。
それは、仏教の真髄ですので、小冊子とメール講座にまとめておきました。
一度見ておいてください。

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