瞑想の意味

瞑想」というと、最近大きく注目を集めています。
マインドフルネス瞑想などは、有名な大企業でも取り入れられています。
他にも、テーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想や、禅宗の座禅など、瞑想には色々な種類があります。
瞑想にはどんな種類があり、どんな効果があるのでしょうか?

瞑想とは

瞑想とは、心を乱さず、一つの対象を見つめることです。

この瞑想によって、深く集中した状態を「三昧(さんまい)」といいます。
世間でも「勉強三昧」とか「掃除三昧」、「贅沢三昧(ぜいたくざんまい)」など、そればかりやっている時に「三昧」をつけます。
これは意味が変わってしまっていますが、もとはといえば瞑想状態から来ているのです。
インドの言葉ではサマーディですが、それを中国の言葉に音写したのが「三昧」で、意訳では「(じょう)」といいます。この三昧の状態に心が入ったとき正しい禅定が起きて真理を悟るといわれます。

その三昧に入り、悟りを得るやり方として、2つの瞑想があります。
それが、サマタとヴィパッサナーの2つです。
漢訳では、サマタの音写が「奢摩他(しゃまた)」、意訳が「(し)」です。
ヴィパッサナーの音写が「毘鉢舎那(びばしゃな)」、意訳が「(かん)」です。
この二つをまとめて「止観(しかん)」といわれます。

ですから『長阿含経』には、「いかんが二の修法なる、いわく止と観となり」と説かれています。
また『増壱阿含経』には「比丘はまさに二法を修行すべし。いかんが二法なる、いわゆる止と観となり」と説かれ、その他たくさんのお経に説かれています。

このお経に説かれる「」がインドの言葉ではサマタ瞑想で、「」がインドの言葉ではヴィパッサナー瞑想ですが、それぞれどんな瞑想なのでしょうか?

サマタ瞑想(止)とは

サマタは、「」と漢訳されるように、心を乱さず、心をしずめることです。

一番分かりやすいのは、吸ったり吐いたりする呼吸に気づき続ける瞑想です。
呼吸の数を数えるものを、数息観(すそくかん)といいます。

また、有名なものでは、九相観(くそうかん)があります。死体が朽ち果てていく9段階のプロセスを通して瞑想するものです。

ほかにも、慈・悲・喜・捨で有名な「四無量心観」があります。
四無量心」とは、慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心の4つです。
慈とは、楽を与えること、悲とは苦しみを抜くこと、喜とは、他人が楽を得るのを見て喜ぶこと、捨は、他人に愛憎などの心がなく、平等であることです。
四無量心観」は、無量の衆生に対してこれら4つの心を起こす瞑想です。これができると、

心をしずめても、微細な心の動きが残り、それによって8つの段階があります。
もし「四無量心観」ができれば、8つの段階の一番最初の初禅に至ります。そして死ねば天上界の最初の梵天(ぼんてん)という世界に生まれることができると教えられています。

ブッダはまだ仏のさとりを開かれる前、アーラーラ・カーラーマの所を訪れ、教えを受けて、すぐに無所有処(むしょうしょ)という境地に達します。
これは、2番目に高い段階です。
驚いたアーラーラ・カーラーマから一緒に教団を率いてくれないかと頼まれますが、ブッダはこの境地に満足されず、もっと高い境地を求めて去って行きます。

次にブッダは、ウッダカ・ラーマプッタを訪れ、教えを受けると、すぐに非想非非想処(ひそうひひそうじょ)という境地に達します。
これが一番上の段階です。
驚いたウッダカ・ラーマプッタから、一緒に教団を率いてもらえないかと頼まれますが、ブッダはこの境地に満足されず、去って行かれます。
それ以来、ブッダは、師に依らず、一人で悟りを求めて行かれたのです。

ヴィパッサナー瞑想(観)とは

サマタ瞑想が心をしずめるのに対して、ヴィパッサナー瞑想は、「」ると漢訳されるように、心で対象を観察する、見るということです。

見る対象は様々なものがありますが、一番分かり易いのがやはり呼吸です。
出る息、入る息を観じます。これを「入息出息観」といいます。

また、有名なのは、「四念処観(しねんじょかん)」です。
ブッダは『雑阿含経』にはこう説かれています。
もろもろの比丘よ、一乗道あり。もろもろの衆生を浄め、憂悲を越え、悩苦を滅し、如実の法を得しむる。いわゆる四念処なり(雑阿含経)」
この「四念処」とは、何かというと、ブッダは『長阿含経』に
いかんが四法の涅槃に向うなる、いわく四念処なり。身念処、受念処、意念処、法念処なり」と説かれています。
身念処、受念処、心念処、法念所の4つです。

この四念処を、八宗の祖師といわれる龍樹菩薩は、『大智度論』にこのように解説されています。
何等かこれ四念処なる。答えていわく、身念処、受心法念処なり。
これを四念処となす。四法を観ずる四種あり、身は不浄なりと観じ、受は是れ苦なりと観じ、心は無常なりと観じ、法は無我なりと観ず

身念処観」は、身体に関するものを観察するものです。
入息出息観」も身念処観です。
歩いたり、立ったり、横たわったりするのを観察するのも、身念処観です。
これによって、身体が不浄であることを知らされます。

受念処観」は、感覚や心の苦楽を観ずることです。これによって、感ずるものは結局は苦であることが知らされます。

心念処観」は、心を観ずることです。これによって、心は変わり通しで、無常であることが知らされます。

法念処観」は、存在要素を観ずることです。これによって、一切は無我であることが知らされます。

ちなみによくある「マインドフルネス瞑想」というのは、もともと八正道の7番目の「正念」を英訳された言葉ですが、ヴィパッサナー瞑想のことをマインドフルネスと言っている人もあります。
ただ、マインドフルネスの場合、病気を治したり、集中力を高めて仕事の効率を上げるのが目的で、仏教とは異なります。

サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の関係

では、サマタ瞑想はいらなくて、ヴィパッサナー瞑想だけやればいいのでしょうか?
そうではありません。サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は、密接不離の関係にあります。

この止観を重視し、天台宗を開いた智顗(ちぎ)は、『天台小止観』に、こう言っています。
まさに知るべし、この二法は車の双輪、鳥の両翼のごとし。もし偏えに修習すれば、すなわち邪側に堕す
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は車の両輪、鳥の両翼のようなものだから、もし片方だけを修行すれば、よこしまな、間違った道に堕ちるであろう、ということです。

首楞厳経』に「心を摂するを戒と為す。戒によって定を生じ、定によって慧を発す」と説かれるように、悟りを得る修行を「戒定慧(かいじょうえ)」といわれます。
悟りを得るには、煩悩を減らして行く必要があります。
そのために、「戒定慧」の「」は戒律で、煩悩を抑え、「」で心を一つにして煩悩をさえぎり、「」は智慧で、煩悩を断つということです。
この「戒定慧」でいうと、サマタが「」で、ヴィパッサナーが「」となるのです。

各宗派の瞑想

このように、瞑想の基本はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想であり、止観ですので、各宗派でも、とても重視されています。

テーラワーダ仏教

現代のテーラワーダ仏教では、伝統的な最高権威のブッダゴーサの『清浄道論』に従った瞑想ではなく、マハーシ(1904-1982)やゴエンカ(1924-2013)の教えに従い、ヴィパッサナー瞑想に偏って瞑想を行います。

テーラワーダ仏教の世界では、瞑想はミャンマー、戒律はタイ、学問はスリランカと言われています。
そのミャンマーで廃れかけていた瞑想を復興し、僧侶の養成機関を作ったのが、レディ(1846-1923)という人です。そのレディが育てた一人がマハーシであり、オーバーキンという人です。そのオーバーキンの弟子がゴエンカです。

マハーシは、ビルマに沢山の瞑想センターを作って成功をおさめた人です。現在の瞑想センターの大半がマハーシのものです。
瞑想を簡単にするために呼吸したときのお腹の膨らみやへこみに集中するのが特徴です。

ゴエンカは、もともと商売人だった人で、瞑想で病気が治ったので瞑想に打ち込むようになり、教団を作った人です。

スリランカのテーラワーダ仏教も強く影響を受けています。
現代の日本に来ているテーラワーダ仏教も、原始仏教とか初期仏教と自称していますが、実際にはこのどちらかの系統で、仏教を参考に作られた現代的な瞑想法になっています。

これらの瞑想は、サマタ瞑想にあまり重きをおかず、ヴイパッサナー瞑想ばかりを行うのが特徴です。
ところが、本来の伝統的なテーラワーダ仏教では、サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も行います。パーリ仏典の、増支部経典には、こうあります。
「比丘衆よ、これらの二は順明分の法なり。何をか二とす。
奢摩他(サマタ瞑想)及び毘鉢舎那(ヴイパッサナー瞑想)なり。
比丘衆よ、奢摩他を修して何の義を成就するか、心を修す。
心を修して何の義を成就するか、所有する貪が断たる
比丘衆よ、毘鉢舎那を修して何の義を成就するか、慧を修す。
慧を修して何の義を成就するか、所有する無明が断たる。
比丘衆よ、貪に染せられたる心は解脱せず、無明に染せられたる慧は修せられず」(増支部経典)
このように、テーラワーダ仏教で伝えられるお経には、サマタ瞑想を軽んじていると貪(欲望)が断たれないため、解脱することはできないと説かれています。

また、テーラワーダ仏教の最高権威の僧侶であるブッダゴーサの『清浄道論』にも、サマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も行うことを、このように記されています。
「止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)との習熟によりてこれらの区別を知るべし。止に習熟せざる者には苦行道あり、習熟せる者には楽行道あり。次に観に習熟せざる者には遅通達あり、習熟せる者には速通達あり」(清浄道論)
現代のテーラワーダ仏教のように、サマタ瞑想を軽んずると、苦しい道のりとなるのです。

天台宗

天台宗を開いた中国の智顗(ちぎ)は、止観を重視しました。三種止観によって、瞑想を整理しています。
三種止観とは、漸次止観(ぜんじしかん)、不定止観(ふじょうしかん)、円頓止観(えんどんしかん)の3つです。
漸次止観とは、戒律をたもち、だんだん深い境地に入る瞑想方法で、『次第禅門』に解説されています。
不定止観とは、性質や能力に応じて定まっていない瞑想方法で、『六妙法門』に解説されています。
円頓止観は速やかで完全な究極の瞑想で、『摩訶止観』に解説されています。

摩訶止観』は、四種三昧(ししゅざんまい)から始まり、十乗観法に至ります。
四種三昧が「」で、十乗観法が「」です。

基本に忠実に、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が実践されるのです。

真言宗

真言宗の瞑想の特徴としては、口には真言を唱え、手には印を結びます。
瞑想に入るまでの細かい作法があります。

種類としては、呼吸を数える「数息観(すそくかん)」もありますし、月輪を観ずる「月輪観(がちりんかん)」もあります。
代表的な瞑想は「阿字観(あじかん)」といわれるものです。
究極的にはすべてをサンスクリットの「(あ)」に相当する一文字と観ずるものです。

また、「入我我入観」という瞑想もあります。「入我」とは、本尊の身が自分に入ることで、「我入」とは、自分の身が本尊の身に入ることです。
本尊の身と自分の身と不二と観ずる瞑想です。

さらに、本尊の言葉と自分の言葉が不二と観ずる正念誦、本尊の心と自分の心が不二と観ずる字輪観も行い、本尊と一体になって即身成仏しようとするのが真言宗の瞑想です。

禅宗

達磨が開いたといわれる禅宗では、瞑想を極めて重視します。
そして禅宗の瞑想には特徴があります。

現在の禅宗に大きな影響を与えたのは、中国の達磨から8代目の馬祖道一(ばそどういつ)です。

馬祖道一の禅は、「平常心(びょうじょうしん)これ道なり」という言葉に表れています。
日常生活のありのままが瞑想であり、日常生活の中に悟りを見いだすというものです。

そして禅宗のもう一つの特徴は、公案を使うことです。
公案というのは、師匠の僧侶から与えられる問題です。
最初は答えのある問題だったようですが、「だんだん片手で拍手をした時どんな音がするか」など、答えが出ない問題になります。
師匠に回答を求められて答えると、否定されます。
これによって問題を考え続け、心を一つにしようというものです。

瞑想の意味

瞑想は、現代ではリラックスしてストレスを解消するためとか、集中力を鍛えて仕事に生かすために世間でも取り入れる企業がありますが、それは本来の目的ではありません。
仏教の瞑想は、悟りを得るための修行です。

ではその悟りをうるための瞑想修行は簡単なのかというと、瞑想を行う宗派では、必ず出家して、戒律を守る必要があります。
では出家して戒律を守れば悟りが得られるのかというと、極めて困難です。
悟りには、低いものから高いものまで全部で52の段階があります。
その最高のさとりを仏のさとりといい、どの宗派も目指すゴールです。

ところが、天台宗を開いた智顗でも、一生涯瞑想修行を行って、52段でいえば10段にも達しなかったと言い残しています。
真言宗を開き、弘法大師といわれる空海でも、現在も瞑想修行をしているという伝説があるほどですので、仏のさとりまでは至りません。
禅宗を開いた達磨は、手足が腐ってなくなるほど「壁観(へきかん)」という瞑想修行を行いましたが、それでも30段程度だったといわれます。

このような一宗一派を開いた祖師達でも瞑想によって悟りを開くことはできないのです。

ブッダが瞑想を説かれたのは、それによって悟りを得させようというのではなく、怒り愚痴ばかりで、一つにならない私たちの心の姿を知らせて、苦しみ迷いの根本原因は別にあることを知らせるための方便なのです。
その苦しみ迷いの根元さえ絶ちきれば、煩悩あるがままで、変わらない幸せになれます。
それが、ブッダの明らかにされた、どんな人でも本当の幸せになれる道なのです。

では、苦しみ迷いの根元とは何かというと、仏教の真髄なので、小冊子とメール講座にまとめておきました。
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