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生きる意味を、知ろう。

やりたいことをやるために生きる

自分の好きなことをやって死ねば悔いなし
という人生観を持っている人は多くあります。
どうせ死ぬなら、自分のやりたいことを思い切りやって死ねば、それで後悔しないよ

あなたもそう思っているのではないでしょうか。
本当にそうなのか、考えてみましょう。

やりたいことをやった人たちの言葉

まず、やりたいことをやったように見える人たちに、その感想を聞いてみましょう。

実例1 キューブラー=ロス

死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー=ロス
ターミナルケア(終末医療)の先駆者として
40数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきました。
死にゆく人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で
聖人とも聖女とも呼ばれていた彼女は
晩年脳梗塞に倒れ、豹変しています。

キューブラー=ロスについては、詳しくは以下の記事をご覧ください。
キューブラー=ロス

そのことを、心理学者の河合隼雄氏は、著書にこう記しています。

「もうこんな生活はたくさんよ。愛なんて、もううんざり。よく言ったもんだわ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」
そして孤独でだれにも会いたがらず、夜になって鳴き声の聞こえてくるコヨーテや鳥だけが友人、と語っています。
「インタビュアーが、あなたは長い間精神分析を受けたので、それが役立っているだろうに」と問いかけると、
「精神分析は時間と金の無駄であった」とにべもない返答がかえってくる。
彼女の言葉は激しい。
自分の仕事、名声、たくさん届けられるファン・レター、そんなのは何の意味もない。
今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない、と言うのだ。

キューブラー=ロスは、好きな仕事をしていて
倒れても後悔ない、と元気な時は思っていたはずです。
しかも、死ぬ瞬間について、人に教えていました。

ところが、実際自分の死が近づくと、精神分析は時間と金の無駄であった、と後悔が残ります。
これでは、やりたいことをやっていたとしても、最終的にはそれが生きる意味だとは思えなくなってしまいます。

実例2 岸本英夫教授

また、がんと闘って10年、東大・宗教学教授の岸本英夫氏は自らの闘病記を出版し、次のように記しています。

人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、傷つきやすい、みかけの幸福である場合が、多いようであります。
それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、それを、死に直面した場合にたたせてみると、はっきりいたします。
たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件は、たしかに、幸福をつくり出している要素であります。
また、肉体の健康とか、知恵とか、本能とか、容貌の美しさというような個人的条件も、幸福をつくり出している要素であります。
これが、人間の幸福にとって、重要な要素であることは、まちがいはないのであります。
だからこそ、みんなは、富や美貌にあこがれるのでありまして、それは、もっともなことであります。
しかし、もし、そうした外側の要素だけに、たよりきった心持でいると、その幸福は、やぶれやすいのであります。
そうした幸福を、自分の死と事実の前にたたせてみますと、それが、はっきり、出てまいります。
今まで、輝かしくみえたものが、急に光を失って、色あせたものになってしまいます。
お金では、命は、買えない。
社会的地位は、死後の問題に、答えてはくれないのであります。

岸本英夫教授も、やりたいことをやって、東大教授にまでなったのですが、がんを宣告されると、急に光を失って、色あせたものになってしまいました。
やはり、やりたいことをやることが生きる意味だとは思えなくなってしまったのです。

実例3 夏目漱石

昔、千円札に肖像が描かれていた夏目漱石は、
好きな小説を書いて、たくさんの人から評価され、文豪とまで言われるようになりました。
しかもその上、日頃「則天去私そくてんきょし」と言っていました。
一種の悟りのようなものを開いていて、「いつ死んでもいい」ということです。

ですが、臨終にはこのように言って死んでいきました。

夏目漱石夏目漱石

いま死んでは困る、いま死んでは困る
(夏目漱石)

あれだけやりたいことをやっても、人生に満足できないのです。
一帯どうすれば、やりたいことをやったことになるのでしょうか?

実例4 ある大学生

もし夏目漱石が凄すぎて、その分理想も高すぎるのだというのであれば、そこまでではない趣味程度の人を見てみましょう。
それは、趣味で山登りを楽しんでいたある大学生です。
ところがその大学生は、冬山に登って遭難して亡くなってしまいました。
新聞に、このような母親宛ての遺書が紹介されます。

山の死が美しいと言っていたのは、一種の感傷でした。
もし生きて帰れたならば、もう二度と山には登りません。

この遺書から、普段の親子の会話が想像できるのではないでしょうか。
母親が心配して、
山はいいけど、何も冬に登ることないでしょう。夏に登りなさい
と言ったところ、その大学生は
母さん、聞いてくれよ。僕は山が好きなんだ。
だから、僕は山に登って死ねれば本望。山の死は美しいんだ

と言い返します。

ところが、普段はそう言っていたのに
いざ遭難して、死ぬかもしれないとなったら
もし生きて帰れたならば、もう二度と山には登りません
と心変わりしています。

もう二度としないことが、生きる意味とは言えません。

これらの例に共通しているのは、元気な時は
自分の好きなことをやって死ねば後悔なし
と思っていますが、
死ぬ時、病気になったら「後悔」してしまう、ということです。

やりたいことが生きる意味と思えなくなる理由

なぜ元気な時と死に直面した時で、このように心が変わってしまうのでしょうか?

仏教では、すべての人が
顛倒てんどう妄念もうねん
という心を持っていると説かれています。
顛倒」とは、ひっくり返った、逆立ちした、逆ということです。
妄念」とは、間違った思いということです。
どのように逆立ちしていると思いますか?

本当は「無常」なのに
あなたの心は「」であると思っているのではないでしょうか。
無常」とは常がない、続かない、移り変わっていくということです。

この世のものは何でも変わっていきますが、
私たちが死んでいくのは、中でももの凄い変化ですので
無常とは死のことです。
すべての人は、やがて必ず死んでいくのですが、
それがいつなのかは分かりません。
今日元気な人でも、事故に遭って死ぬかもしれません。
ですが、みんなそれが分かっていないのです。

例えば、あなたは明日死ぬと思いますか?
ほとんどの人は、そんなことは思っていません。
明日聞いても同じように答えると思います。
どこまでいっても、「明日は死なない」となります。
後ろから光を当てられて、影を踏もうとしているように、
どこまでいっても「明日は死なない」と思うのです。

年をとったら、明日死ぬと思うんじゃないか
と思うかもしれませんが、
何歳くらいになったら、そう思うようになるのでしょうか。
80歳くらいでしょうか。

ですが、周りにいる80歳くらいの人が
みんなそう思っているとは限りません。
本気で「明日死ぬ」となったら
相当焦るのではないでしょうか。

きんさんぎんさんという長寿の双子の姉妹がありましたが
100歳を越えてからの誕生日にインタビューを受けた時
このような発言がありました。
「おめでとうございます。たくさんお祝いもらわれて良かったですね~。
 そのお金どうするんですか?」
はい、半分は寄付します
「えらいですね~。もう半分はどうされますか?」
あとの半分は、老後のためにとっておきます

本気で今日死ぬと思ったら、そんなことはしません。
100歳を越えても、今日死ぬとは思えない、ということです。

本当はいつ死ぬか分からないのです。
今日交通事故で死ぬこともあるのに
今日も死なない、明日も死なない、
ずっと生きていられるかのような心を持っています。

このように、事実は「無常」なのに
私たちの心は「いつまでも生きていられる」と思っています。

そして私たちの人生観は、その「いつまでも生きていられる」という大前提の上に立っているものばかりです。
例えばこんな感じです。
好きなことをやれれば後悔ない
死んだら死んだ時
人生の目的なんて考えてもしょうがない

ところが、臨終にそう思っている人があるでしょうか。
好きなことやって死ねば後悔ない」と思っていた人が
いざ死んでいく時に後悔するのです。

それは、いつまでも生きていられるという間違った前提で、人生を考えているからなのです。

しかしながらこのことは、臨終にならないと誰も気づかない落とし穴だから
チェーホフは代表作『六号病室』に、人生は腹ただしい罠だと表現しています。

チェーホフチェーホフ

人生は腹だたしい罠です。
考える人間が成人に達して、成熟した自覚をもつようになると、 彼は知らずしらず自分を、さながら出口のない罠にかかっているように感じます。

(チェーホフ『六号病室』)

チェーホフが言うように、やがて必ず死ぬのになぜ生きるのか、本当の生きる意味が分からなければ、出口のない迷路をさまよっているようなものです。
本当の生きる意味を知るには、まずは確実な事実である「必ず死ななければならない」という前提で人生を考えなければなりません。
では、確実な未来である死を迎えた時、人はどのように感じるのでしょうか?

死に直面した時の心の姿

死に直面した時の心について、仏教に教えられています。
大無量寿経』に、このように説かれます。

大命だいみょうまさに終らんとして悔懼けくこもごも至る。
(漢文:大命將終悔懼交至)

大命だいみょう」とは、肉体の命のことです。
大命まさに終らんとして」とは、臨終に、ということです。
悔懼けく」とは
」とは、これまでの人生に対する後悔、
」とは、未来に対する恐れということです。

いよいよ死んでいく時に
臨終にたよりにならないものを求めてきた、今までの人生に対する後悔と
死んだらどこに行くのかハッキリしない、未来に対する恐れが
代わる代わるやってくると教えられているのです。

では、「わが人生に悔いなし」となるには、どうすればいいのでしょうか。
この答えが仏教にハッキリ説かれています。

それを知る鍵となる、仏教に説かれる苦悩の根元について、
電子書籍とメール講座にまとめておきました。
ぜひ一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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