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般若心経サンスクリット対訳

般若心経
般若心経

般若心経はんにゃしんぎょう』には、サンスクリット語で書かれたお経があります。
サンスクリット語を漢文と比較してみると、漢文の場合は単語が一切活用しないので、曖昧な部分がありますが、サンスクリット語の単語には非常に多くの活用があります。
そのために、サンスクリット語で初めて分かってくることがあります。
それは一体どんなことなのでしょうか?

なお、漢文による本格的な『般若心経』の意味については、以下の記事をご覧ください。
般若心経全文の本当の意味・読み方・効果を分かりやすく解説

目次
  1. 般若心経サンスクリット原典
    1. デーヴァナーガリー文字
    2. ローマナイズ
    3. カタカナ付き
  2. 漢文とサンスクリットの対訳
  3. サンスクリット原典の意味
    1. 一切智者に礼したてまつる
    2. 聖なる観自在菩薩が深い般若波羅蜜において
    3. 修行すべきことを実践して見極めた
    4. 五つの集合があり、それらの実体は空であると
    5. 物質は空性であり、空性こそ物質である
    6. 物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない
    7. 物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である
    8. 受想行識もまさしくこのようなものである
    9. あらゆるものが空性で特徴づけられる
    10. 生じることもなく、妨げられることもなく
    11. 空性において色も受も想も行も識もない
    12. 眼・耳・鼻・舌・身体・心はなく
    13. 色・声・香・味・触・法はなく
    14. 眼界から意識界までない
    15. 明はなく無明はなく
    16. 苦集滅道はない
    17. 不得の故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する
    18. 心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃にある
    19. 三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた
    20. 般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は
    21. 般若波羅蜜において真言は次のように言われた
    22. 往った、往った、彼岸へ往った、完全に到達した、菩提よ、幸いあれ
    23. かくして『般若心経』は完結した
  4. サンスクリット語からの和訳・現代語訳
  5. 漢文からの和訳・現代語訳
  6. サンスクリット語の般若心経から分かること
  7. 関連記事

般若心経サンスクリット原典

サンスクリット語には、決まった文字がありません。
ただ、普通はデーヴァナーガリー文字で書いてあります。
ですが、それではあまりにも読みにくいので、アルファベットで表現することもできます。

そこで、『般若心経』のサンスクリット原典を、インドで使われているデーヴァナーガリー文字と、アルファベットを使った表記、また表現しきれないですが、カタカナで振り仮名を付けてみます。

デーヴァナーガリー文字

インドで使われているデーヴァナーガリー文字による『般若心経』です。

प्रज्ञापारमिताहृदयसूत्रम्
नमस्सर्वज्ञाय ॥
आर्यावलोकितेश्वरबोधिसत्त्वो गम्भीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्यां चरमाणो व्यवलोकयति स्म ।
पञ्च स्कन्धाः, तांश्च स्वभावशून्यान्पश्यति स्म ॥ 
इह शारिपुत्र रूपं शून्यता, शून्यतैव रूपम् ।
रूपान्न पृथक्शून्यता, शून्यताया न पृथग्रूपम् । यद्रूपं सा शून्यता, या शून्यता तद्रूपम् ॥ 
एवमेव वेदनासंज्ञासंस्कारविज्ञानानि ॥ 
इहं शारिपुत्र सर्वधर्माः शून्यतालक्षणा अनुत्पन्ना अनिरुद्धा अमला न विमला नोना न परिपूर्णाः । 
तस्माच्छारिपुत्र शून्यतायां न रूपम्, न वेदना, न संज्ञा, न संस्काराः, न विज्ञानानि । 
न चक्षुःश्रोत्रघ्राणजिह्वाकायमनांसि, 
न रूपशब्दगन्धरसस्प्रष्टव्यधर्माः । 
न चक्षुर्धातुर्यावन्न मनोधातुः ॥ 
न विद्या नाविद्या न विद्याक्षयो नाविद्याक्षयो यावन्न जरामरणं न जरामरणक्षयो न दुःखसमुदयनिरोधमार्गा न ज्ञानं न प्राप्तित्वम् ॥ 
बोधिसत्त्वस्य प्रज्ञापारमितामाश्रित्य विहरति चित्तावरणः । 
चित्तावरणनास्तित्वादत्रस्तो विपर्यासातिक्रान्तो निष्ठनिर्वाणः । 
त्र्यध्वव्यवस्थिताः सर्वबुद्धाः प्रज्ञापारमितामाश्रित्य अनुत्तरां सम्यक्संबोधिमभिसंबुद्धाः ॥ 
तस्माज्ज्ञातव्यः प्रज्ञापारमितामहामन्त्रो महाविद्यामन्त्रो ’नुत्तरमन्त्रो ’समसममन्त्रः सर्वदुःखप्रशमनः सत्यममिथ्यत्वात् 
प्रज्ञापारमितायामुक्तो मन्त्रः । 
तद्यथा गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा ॥ 

これだとほとんどの人には親しみにくいと思いますので、いくらか親しみやすいアルファベットで書かれたものが以下です。

ローマナイズ

こちらがローマ字で書かれたサンスクリット語の『般若心経』です。
テキストは色々ありますが、一応代表的なもので、中村元という仏教学者の校訂した『般若心経』のテキストを挙げます。

Namas Sarvajñāya
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma: pañca skandhās, tāṃś ca svabhāva-śūnyān paśyati sma.
iha Śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam. rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ. yad rūpaṃ sā śūnyatā, yā śūnyatā tad rūpam. evam eva vedanā-saṃjñā-saṃskāra-vijñānāni.
iha Śāriputra sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ. tasmāc Chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ. na cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṃsi, na rūpa-śabda-gandha-rasa- spraṣṭavya-dharmāḥ, na cakṣur-dhātur yāvan na mano-vijñāna-dhātuḥ.
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo na duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā, na jñānaṃ na prāptiḥ.
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitām āśritya viharaty a-cittāvaraṇaḥ. cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ. tryadhvavyavasthitāḥ sarva-buddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ samyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ.
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitā-mahāmantro mahāvidyāmantro ’nuttaramantro ’samasama-mantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ, tad yathā:
gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
iti Prajñāpāramitā-hṛdayaṃ samāptam.

次に、カタカナで読み仮名を振ってみます。

カタカナ付き

サンスクリット語にカタカナで読み仮名を振りました。
日本語よりもサンスクリット語のほうが母音も子音も多く、カタカナでは表しきれませんが、似たような音声にはなります。

namas sarvajñāya
ナマスサルバジニャーヤ
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma
アーリャーヴァローキテーシュヴァロー ボーディサットヴォー ガムビーラーヤーム プラジニャーパーラミターヤーム チャリヤーム チャラマーノー ヴャヴァローカヤティ スマ
pañca skandhās,tāṃś ca svabhāvaśūnyān paśyati sma.
パンチャ スカンダース タームシュチャ スヴァバーヴァシューニャーン パシュヤティ スマ
iha śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam.
イハ シャーリプトラ ルーパム シューニャター シューニャタイワ ルーパム
rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
ルーパム ナ プリタク シューニャター シューニャターヤー ナ プリタク ルーパム
yad rūpaṃ sā śūnyatā,yā śūnyatā tad rūpam
ヤッド ルーパム サー シューニャター ヤー シューニャター タッド ルーパム
evam eva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.
エーワメーワ ヴェーダナーサムジニャーサンスカーラヴィジニャーナーニ
iha śāriputra sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā
イハシャーリプトラ サルヴァダーマーハ シューニャターラクシャナー
anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ.
アヌトゥパンナー アニルッダー アマラーヴィマラー ノーナー ナ パリプルナーハ
tasmāc chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ.
タスマーチャーリプトラ シューニャターヤーム ナ ルーパム ナ ヴェーダナー ナ サムジニャーナ サムスカーラー ナ ヴィジニャーナム
na cakṣuḥśrotraghrāṇajihvākāyamanāṃsi
ナ チャクシュフシュロートラグラーナジフヴァーカーヤマナーンシ
na rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ
ナ ルーパシャブダガンダラサスプラシュタビャダルマーハ
na cakṣurdhātur yāvan na manovijñānadhātuḥ
ナ チャクシュルダートゥル ヤーヴァン ナ マノーヴィジニャーナダートゥフ
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo
ナ ヴィデャー ナーヴィデャー ナ ヴィデャークシャヨー ナーヴィデャークシャヨー ヤーヴァン ナ ジャラーマラナム ナ ジャラーマラナクシャヨー
na duḥkhasamudayanirodhamārgā na jñānaṃ na prāptiḥ
ナ ドゥフカサムダヤニローダマールガ ナ ジニャーナム ナ プラープティヒ
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitāṃ āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ
タスマード アプラープティトゥヴァード ボーディサットヴァーナーム プラジニャーラミターム アーシュリトヤ ヴィハラティ アチッターヴァラナハ
cittāvaraṇanāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ
チッターヴァラナナースティトゥワード アトゥラストー ヴィパルヤーサーティクラーントー ニシュタニルバーナハ
tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ saṃyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ.
トリャドヴァヴャワスティターハ サルヴァブッダーハ プラジニャーバーラミターム アーシュリトヤーヌッタラーム サムヤクサンボーディム アビサムブッダーハ
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitāmahāmantro mahāvidyāmantro ‘nuttaramantro ‘samasamamantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt
タスマージニャータビャム プラジニャーパーラミターマハーマントロー マハーヴィジャーマントロー ヌッタラマントロー サマサママントラハ サルヴァドゥフカプラシュマナハ サテャム アミテャトゥヴァートゥ
prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ tad yathā
プラジニャーパーラミターヤーム ウクトー マントラハ タドゥ ヤター
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
ガテーガテー パラガテー パラサムガテー ボーディスワーハー
iti Prajñāpāramitāhṛdayaṃ samāptam
イティ プラジニャーパーラミターヤーム サマープタム

次に、サンスクリット語と三蔵法師玄奘げんじょうが漢訳した『般若心経』を比較してみましょう。
玄奘三蔵については、こちらをご覧ください。
玄奘三蔵げんじょうさんぞうとはどんな人?旅行記とルートについても解説

漢文とサンスクリットの対訳

以下は最初にサンスクリット語、次にサンスクリット語の和訳、漢文、書き下し文の順です。
ところどころ、漢訳されていない部分もありますし、漢訳で増えている部分もあります。
よく注意して見てみてください。

漢文による『般若心経』の詳しい解説はこちらをご覧ください。
般若心経全文の本当の意味・読み方・効果を分かりやすく解説

namas sarvajñāya
一切智者に礼したてまつる。
漢訳なし
同上
āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma pañca skandhās,tāṃś ca svabhāvaśūnyān paśyati sma.
聖なる観自在菩薩が深い般若波羅蜜において修行すべきことを実践して見極めた、五つの集合があり、また、それらの実体は空であると見た。
観自在菩薩かんじざいぼさつ行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじ照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう度一切苦厄どいっさいくやく
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。
iha śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
この世において、シャーリプトラよ、物質は空性であり、空性こそ物質である。物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない。
舎利子しゃりし色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。
yad rūpaṃ sā śūnyatā,yā śūnyatā tad rūpam
物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である。
漢訳なし
同上
evam eva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.
受想行識もまさしくこのようなものである。
じゅそうぎょうしき亦復如是やくぶにょぜ
受想行識もまたまたかくのごとし。
iha śāriputra sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā
この世においてシャーリプトラよ、あらゆるものが空性で特徴づけられる。
舎利子しゃりし是諸法空相ぜしょほうくうそう
舎利子、この諸法の空相は
anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ.
生じることもなく、妨げられることもなく、汚れることもなく、汚れを離れることもなく、減ることもなく、増えることもない。
不生不滅ふしょうふめつ不垢不浄ふくふじょう不増不減ふぞうふげん
不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
tasmāc chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ.
それ故にシャーリプトラよ、空性において色も受も想も行も識もない。
是故空中ぜこくうちゅう無色むしき無受むじゅそうぎょうしき
それ故にシャーリプトラよ、空性において色も受も想も行も識もない。
na cakṣuḥśrotraghrāṇajihvākāyamanāṃsi
眼・耳・鼻・舌・身体・心はなく
無眼むげんぜっしん
眼耳鼻舌身意もなく
na rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ
色・声・香・味・触・法はなく
無色むしきしょうこうそくほう
色声香味触法もなし
na cakṣurdhātur yāvan na manovijñānadhātuḥ
眼界から意識界までない。
無眼界むしきかい乃至ないし無意識界むいしきかい
眼界もなく、乃至、意識界もなし。
na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo
明はなく無明はなく明の滅はなく無明の滅はなく、乃至、老死はなく老死の滅はない。
無無明むむみょう亦無無明尽やくむむみょうじん乃至ないし無老死むろうし亦無老死尽やくむろうしじん
無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし。
na duḥkhasamudayanirodhamārgā na jñānaṃ na prāptiḥ
苦集滅道はない、智はなく、得はない。
無苦むくしゅうめつどう無智むち亦無得やくむとく
苦集滅道もなし。智もなく、また得もなし。
tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitāṃ āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ
かくして不得の故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する。
以無所得故いむしょとくこ菩提薩埵ぼだいさった依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ心無罣礙しんむけいげ
無所得を以ての故に。菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。
cittāvaraṇanāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ
心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃ねはんにある。
無罣礙故むけいげこ無有恐怖むうきょうふ遠離おんり一切いっさい顛倒夢想てんどうむそう究竟涅槃くきょうねはん
罣礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。
tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ saṃyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ.
三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた。
三世諸仏さんぜしょぶつ依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみったこ得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitāmahāmantro mahāvidyāmantro ‘nuttaramantro ‘samasamamantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt
それ故に、般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は、あらゆる苦を鎮めるものであり、偽りがない故に真実と知られるべきである。
故知こち般若波羅蜜多はんにゃはらみった是大神呪ぜだいじんしゅ是大明呪ぜだいみょうしゅ是無上呪ぜむじょうしゅ是無等等呪ぜむとうどうしゅ能除一切苦のうじょいっさいく真実不虚しんじつふこ
故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず。
prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ tad yathā
般若波羅蜜において真言は次のように言われた。
故説こせつ般若波羅蜜多呪はんにゃはらみったしゅ即説呪曰そくせつしゅわつ
故に般若波羅蜜多の呪を説く。
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
往った、往った、彼岸へ往った、完全に到達した、菩提よ、幸いあれ。
羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい波羅羯諦はらぎゃてい波羅僧羯諦はらそうぎゃてい菩提薩婆訶ぼじそわか
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
iti Prajñāpāramitāhṛdayaṃ samāptam
かくして『般若心経』は完結した。
般若心経はんにゃしんぎょう
般若心経

サンスクリット原典の意味

ここからはサンスクリット原典からの日本語訳です。
サンスクリット語には、漢文にはない単語の活用があるので、漢文では分からないことが分かる場合があります。

また、サンスクリット語の勉強がてら『般若心経』を読みたい人のために、日本語訳だけでなく、単語を一つ一つ品詞分解しておきます。
サンスクリット語の文法が分からないと理解は困難だと思いますが、文法を一通り学んだ人には仏教に親しめる教材にもなると思います。

一切智者に礼したてまつる

namas sarvajñāya
一切智者に礼したてまつる

namas」は敬礼する、敬う。
その対象は為格になります。
sarva」はすべて、「jñā」は知っているなので、「sarvajñāya」は一切を知る人の男性、単数、為格です。
般若心経』の大本では、近くにお釈迦様がおられるので、お釈迦様に敬礼しているものと思われます。

聖なる観自在菩薩が深い般若波羅蜜において

āryāvalokiteśvaro bodhisattvo gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ
聖なる観自在菩薩が深い般若波羅蜜において

āryāvalokiteśvaro」の「ārya」は、「聖なる」という形容詞です。
avalokita」は、ava√lok「観察する」という動詞の過去受動分詞、
īśvara」は「自在の」という形容詞です。
それが連声して「āryāvalokiteśvaraḥ」になっています。
観自在」ということです。

bodhisattvo」は、bodhisattva「菩提薩埵」の男性、単数、主格です。
菩薩のことです。

gaṃbhīrāyāṃ」は、gaṃbhīra「深い」という形容詞の女性、単数、処格です。
prajñāpāramitāyāṃ」は、prajñāpāramitā「般若波羅蜜」という女性名詞の単数、処格です。
観自在菩薩が、深い般若波羅蜜において、ということです。

修行すべきことを実践して見極めた

caryāṃ caramāṇo vyavalokayati sma
修行すべきことを実践して見極めた

caryāṃ」は、 √car「修行する」という動詞の未来受動分詞「修行されるべきこと」の女性、単数、対格です。
caramāṇo」は、 √car「修行する」にmāṇaがついた現在分詞の男性、単数、主格です。
vyavalokayati」は、vi-ava-√lok「見極める」「観察する」という動詞にayaがついて使役活用し、単数、三人称、現在です。
sma」は、「した」ということで現在時制を過去時制にします。

観自在菩薩が、修行すべきことを実践して見極めたということです。
修行すべきことというのは、六波羅蜜ろくはらみつです。
六波羅蜜」とは、次の6つです。

六波羅蜜
  1. 布施ふせ……親切
  2. 持戒じかい……言行一致
  3. 忍辱にんにく……忍耐
  4. 精進しょうじん……努力
  5. 禅定ぜんじょう……反省
  6. 智慧ちえ……修養

これらの六波羅蜜を実践して見極めた内容は、次に説かれます。

五つの集合があり、また、それらの実体は空であると見た

pañca skandhās,tāṃś ca svabhāvaśūnyān paśyati sma.
五つの集合があり、また、それらの実体は空であると見た

pañca」は五です。
skandhās」は、skandha「」とか「集合」という名詞の男性、複数、主格です。
漢訳の「」ですから「pañca skandhās」で五蘊ごうんです。
tāṃś ca」はtān caが連声したもので、 「tān」は「それ」の男性、複数、対格です。
ca」は「及び」「また」ということです。
文と文をつなぐ接続詞ですが、文頭ではなく二語目に置かれます。
svabhāvaśūnyān」は、sva「自分の」という形容詞と、bhāva「存在」という名詞が複合して、「自性」とか「実体」、「śūnyān」はśūnya「空の」という形容詞の男性、複数、対格です。
paśyati」は、√paś「見る」の単数、三人称、現在です。
sma」は「した」ということで、現在時制を過去時制にしますので、五つの集合があり、また、それらの実体はであることを見た、自性空であると見た、ということです。

この世において、シャーリプトラよ、物質は空性であり、空性こそ物質である

iha śāriputra rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam.
この世において、シャーリプトラよ、物質は空性であり、空性こそ物質である

iha」は、「この世において」という副詞です。
śāriputra」は「舎利弗しゃりほつ」のことです。呼格で呼びかけています。
舎利弗とは、釈迦十大弟子の一番最初に挙げられる、智慧第一の仏弟子です。
rūpaṃ」とは、rūpa「」「物質」の中性、単数、主格です。
śūnyatā」は、「空性」という女性名詞の単数、主格です。
先ほど出てきたśūnya「空の」という形容詞に女性抽象名詞化する接尾辞「」がついた空なる性質という名詞です。
śūnyataiva」はśūnyatā evaで、「eva」は強調の不変化辞「こそ」なので、「空性こそ」です。
この世において、舎利弗よ、物質は空性であり、空性こそ物質である」ということです。
これが有名な「色即是空、空即是色」です。

色即是空について、詳しくは以下の記事をご覧ください。
色即是空の恐ろしい意味を分かりやすく解説

物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない

rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない

rūpān na」はrūpāt naが連声しています。
rūpātは、rūpāの従格です。
na」は否定の不変化辞で「ない」という意味です。
pṛthak」は従格「なしに」「別に」という不変化辞です。
rūpān na pṛthak śūnyatā」とは、物質から離れて空性はない、ということです。

śūnyatāyā」は、śūnyatā「空性」の従格「śūnyatāyāḥ」が連声したものです。
pṛthag」は、pṛthakの後に有声音が来た為に連声したものです。
śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ」は、 空性から離れて物質はない、ということです。

物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である

yad rūpaṃ sā śūnyatā,yā śūnyatā tad rūpam
物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である

yad」は、関係代名詞yat rūpaṃが連声してyadになったものです。
英語でいえば「what is」という意味ですので、
yad rūpaṃ」で物質であるもの、ということになります。
」は代名詞tatの女性、単数、主格で「それ」ということです。
yadを受けて、物質であるもの、それは、となります。
ですから「yad rūpaṃ sā śūnyatā」は、物質なるものは空性である、ということです。

次の「」は、関係代名詞yatの女性、単数、主格です。
yā śūnyatā」で「空性であるもの」です。
tad」は代名詞tatがrūpamと連声してtadとなっています。
yā śūnyatā tad rūpam」で、空性なるものは物質である、ということです。

受想行識もまさしくこのようなものである

evam eva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.
受想行識もまさしくこのようなものである

evam」は「このように」という副詞
eva」は「このように」「まさに」という副詞です。

vedanā」は「知覚」「感受」で「」のこと、
saṃjñā」は「表象」「知覚」で「」のこと、
saṃskāra」はsaṃ「共に」+√kṛ「する」で、
saṃ」+「√kṛ」の特別な意味を表す場合には間に「s」が挿入されます。
形成力」のことで「」のことです。
vijñānāni」はvijñānā「識別」「判断力」という中性名詞で、「」のことです。
vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.」という複合語全体として複数主格になっています。
これが「受想行識」です。
これは心の働きのすべてです。

物質的な色と合わせて色受想行識の五蘊で、心身、及び世界のすべてを表されています。
以下が五蘊です。

五蘊ごうん
  • 色蘊しきうん……肉体、その他の物質
  • 受蘊じゅうん……苦楽を感受する働き
  • 想蘊そううん ……表象を認識する働き
  • 行蘊ぎょううん……意思をはじめとする受蘊、想蘊以外の心の働き
  • 識蘊しきうん ……心

この世のすべては空である、ということです。

この世においてシャーリプトラよ、あらゆるものが空性で特徴づけられる

iha śāriputra sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā
この世においてシャーリプトラよ、あらゆるものが空性で特徴づけられる

iha śāriputra」は、すでに見たように、この世において、シャーリプトラよ、ということです。
sarvadharmāḥ」の「sarva」はすべてのという形容詞、
dharmāḥ」は、dharma「もの」「存在」という男性名詞の複数、主格ですので、
sarvadharmāḥ」は「すべてのもの」です。
śūnyatā」は「空性」という女性名詞、
lakṣaṇā」は、√lakṣ「表す」という動詞から来た形容詞lakṣaṇa「表現する」「特色づけられた」の男性、複数、主格です。
ですから「sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā」とは、あらゆるものが空性で特徴づけられる、ということです。

生じることもなく、妨げられることもなく、汚れることもなく、汚れを離れることもなく、減ることもなく、増えることもない

anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ.
生じることもなく、妨げられることもなく、汚れることもなく、汚れを離れることもなく、減ることもなく、増えることもない

anutpannā」は、an(否定)+ud√pad「生じる」の過去受動分詞の男性、複数、主格anutpannāḥが連声したもので、「生じない」ということです。
aniruddhā」は、a(否定)+ni√rudh「妨害する」の過去受動分詞の男性、複数、主格aniruddhāḥが連声したもので、「妨げられない」ということです。
amalāvimalā」は、a(否定)+mala「」「汚れている」+a(否定)+vi「離れる」+mala「」「汚れている
という複合語の男性、複数、主格amalāvimalāḥが連声したもので、
汚れていることもなく、汚れを離れていることもない」ということです。

nonā」は、na(否定)+ūna「欠けている」「不足している」という複合語の男性、複数、主格nonāḥが連声したもので、「減らない」ということです。

na paripūrṇāḥ」は、na(否定)+pari√pṛ「増える」の過去受動分詞の男性、複数、主格paripūrṇāḥですから、「na paripūrṇāḥ」とは、「増えない」ということです。

したがって、生じることもなく、妨げられることもなく、汚れることもなく、汚れを離れることもなく、減ることもなく、増えることもない、ということです。

漢訳では、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」です。

それ故にシャーリプトラよ、空性において色も受も想も行も識もない

tasmāc chāriputra śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ
それ故にシャーリプトラよ、空性において色も受も想も行も識もない

tasmāc chāriputra」は、tasmāt śhāriputraが連声しています。
tasmāt」は、tat「それ」の中性、従格で、それ故という副詞になります。
śhāriputra」は呼格で「シャーリプトラよ」です。

śūnyatāyāṃ」は、śūnyatā「空性」という女性名詞の単数、処格で、「空性において」ということです。
na」は否定で「ない」ということです。
rūpaṃ」はすでに見た中性名詞「物質」「」の単数、主格、
vedanā」もすでに見た女性名詞「知覚」「感受」で「」の単数、主格、
saṃjñā」は女性名詞「表象」「知覚」で「」の単数、主格、
saṃskāra」は男性名詞「形成力」のことで「」の複数、主格です。
漢訳では分かりませんが、行だけは複数になっています。
vijñānāni」は中性名詞vijñānā「識別」「判断力」で「」の単数、主格です。
認識主体です。
したがって「śūnyatāyāṃ na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārā na vijñānaṃ」は、
空性において物質はなく、感受はなく、表象はなく、色々の形成力はなく認識主体の心はない」ということです。
これは、この世のすべては、五蘊という五つの要素が仮に集まっているだけで、実体はないということです。
これを仏教で無我むがといいます。

無我については、詳しくは以下の記事をお読みください。
仏教の無我の意味、諸法無我と無我の境地との違い

眼・耳・鼻・舌・身体・心はなく

na cakṣuḥśrotraghrāṇajihvākāyamanāṃsi
眼・耳・鼻・舌・身体・心はなく

na」は否定で、「ない」ということです。
cakṣuḥśrotraghrāṇajihvākāyamanāṃsi」は6つの単語の並列複合語です。
cakṣuḥ」は中性名詞で「」、
śrotra」は中性名詞で「」、
ghrāṇa」は中性名詞で「」、
jihvā」は女性名詞で「」、
kāya」は男性名詞で「」、
manāṃsi」は中性名詞manas「」の複数、主格です。
それらが否定されていますので、「眼・耳・鼻・舌・身体・心もなく」ということです。

これらは「六根ろっこん」といって、認識する働きです。

六根
  • 眼根
  • 耳根
  • 鼻根
  • 舌根
  • 身根
  • 意根

これら六根にも実体がない、ということです。

色・声・香・味・触・法はなく

na rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ
色・声・香・味・触・法はなく

na」は否定で、「ない」ということです。
rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ」は6つの単語の並列複合語です。
rūpa」は物質という中性名詞で「」です。
śabda」は「」という男性名詞です。
gandha」は匂いという男性名詞で「」です。
rasa」は「」という男性名詞です。
spraṣṭavya」は√spṛś「触れる」の未来受動分詞で「触れられるべきもの」です。
dharmāḥ」という男性名詞は心で認識するすべてで、「」です。
複数、主格になっています。
ですから「na rūpaśabdagandharasaspraṣṭavyadharmāḥ」は、
色も声も香も味も触も法もない、ということです。

これらは、六境ろっきょうといって、六根の認識対象です。
六境は以下の通りです。

六境
  • 色境しききょう
  • 声境しょうきょう
  • 香境こうきょう
  • 味境みきょう
  • 触境そっきょう
  • 法境ほうきょう

これらの六境にも実体がないということです。

眼界から意識界までない

na cakṣurdhātur yāvan na manovijñānadhātuḥ
眼界から意識界までない

na」は否定で、「ない」ということです。
cakṣur」はcakṣuḥ「」という中性名詞が連声したものです。
dhātur」は、「要素」という男性名詞の単数、主格です。
cakṣurdhātur」で、眼界です。

yāvan」はyāvat「乃至」「に至るまで」という関係詞です。

na」は否定で、「ない」ということです。
manovijñānadhātuḥ」はmanaḥ vijñāna dhātuḥが連声したもので、
manas」は中性名詞「」、
vijñāna」は「識別」「判断力」で「」という中性名詞、
dhātur」は、「要素」という男性名詞の単数、主格ですので、
manovijñānadhātuḥ」は意識界です。

ですから「na cakṣurdhātur yāvan na manovijñānadhātuḥ」は、
眼界はなく、乃至、意識界はない、ということです。

これは、認識する働きである六根が、認識する対象である六境を認識しますが、その認識主体が六識ろくしきです。
六根によって、六境を認識するのが六識、ということです。

具体的には、
眼根によって、色境を認識するのが眼識です。
耳根によって、声境を認識するのが耳識です。
鼻根によって、香境を認識するのが鼻識です。
舌根によって、味境を認識するのが舌識です。
身根によって、触境を認識するのが身識です。
意根によって、法境を認識するのが意識です。

これらの六根、六境、六識を「十八界じゅうはっかい」といいます。
その時には、六根の根と、六境の境を界に変更し、六識の後に界をつけます。
表にすると以下のようになります。

十八界
  • 眼界 ─ 色界 ─ 眼識界
  • 耳界 ─ 声界 ─ 耳識界
  • 鼻界 ─ 香界 ─ 鼻識界
  • 舌界 ─ 味界 ─ 舌識界
  • 身界 ─ 触界 ─ 身識界
  • 意界 ─ 法界 ─ 意識界

ここで「眼界はなく、乃至、意識界はない」といわれているのは、
この十八界の一番最初の眼界から、一番最後の意識界まで
十八すべてに実体がないということです。

明はなく無明はなく明の滅はなく無明の滅はなく、乃至、老死はなく老死の滅はない

na vidyā nāvidyā na vidyākṣayo nāvidyākṣayo yāvan na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo
明はなく無明はなく明の滅はなく無明の滅はなく、乃至、老死はなく老死の滅はない

na」は否定、「vidyā」は、「知識」という女性名詞の単数、主格で、「」です。
nāvidyā」は「na avidyā」で、「avidyā」はa(否定)+vidyāで「無明」です。
na vidyā nāvidyā」で、
明はなく、無明はない」ということです。

vidyākṣayo」の「kṣayo」は、kṣaya「減少」「」という男性名詞の単数、主格kṣayaḥですので、
vidyākṣayo」は「明の滅」です。
na vidyākṣayo」は「明の滅はない」ということです。

それに対して「nāvidyākṣayo」は「na a(否定)+vidyā+kṣayaḥ」で、
無明の滅はない」ということです。

yāvan」は、yāvat「乃至」「に至るまで」という関係詞です。

jarāmaraṇaṃ」は、「jarā maraṇaṃ」で、
jarā」は「老い」という女性名詞、
maraṇaṃ」は「死ぬ」という中性名詞の単数、主格です。
ですから「na jarāmaraṇaṃ na jarāmaraṇakṣayo」は、
老死はなく、老死の滅はない」ということです。

これは、無明から老死までの十二縁起じゅうにえんぎのことです。
十二縁起というのは十二因縁じゅうにいんねんともいわれますが、サンスクリット語では十二支縁起じゅうにしえんぎ(dvādaśāṅgika-pratītya-samutpāda)と支(aṅgika)が入っています。
お釈迦様が、私たちの12の苦しみの原因を明らかにされたものです。
12支のそれぞれは以下の通りです。

十二支縁起(dvādaśāṅgika-pratītya-samutpāda)
  1. 無明(avidyā)
  2. 行(saṃskāra)
  3. 識(vijñāna)
  4. 名色(nāma-rūpa))
  5. 六処(ṣaḍ-āyatana)
  6. 触(sparśa)
  7. 受(vedanā)
  8. 愛(tṛṣṇā)
  9. 取(upādāna)
  10. 有(bhava)
  11. 生(jāti)
  12. 老死(jarā-maraṇa)

ここで「明はなく無明はなく明の滅はなく無明の滅はなく、乃至、老死はなく老死の滅はない」といわれているのは、
これらの十二因縁もすべて実体がない、ということです。

十二因縁については、詳しくは以下の記事をご覧ください。
十二因縁(十二縁起)私たちの12の迷いの元

苦集滅道はない、智はなく、得はない

na duḥkhasamudayanirodhamārgā na jñānaṃ na prāptiḥ
苦集滅道はない、智はなく、得はない

na」は否定、「duḥkhasamudayanirodhamārgā」は「duḥkha samudaya nirodha mārgā」で、
duḥkha」は「」という中性名詞、
samudaya」は「連合」という意味の男性名詞で「」、
nirodha」は「」という男性名詞
mārgā」は「」という男性名詞の複数、主格です。
ですから「na duḥkhasamudayanirodhamārgā」は、
苦集滅道はない」ということです。
苦集滅道」とは、四聖諦ししょうたいのことです。
四聖諦とは、お釈迦様が明らかにされた以下の4つの真理です。

四聖諦(catur-ārya-satya)
  • 苦諦くたい(duḥkha-satya):「人生は苦なり」という真理
  • 集諦じゅうたい(samudaya-satya):苦しみの原因を明かした真理
  • 滅諦めったい(nirodha-satya):真の幸福を明かした真理
  • 道諦どうたい(mārga-satya):真の幸福になる道を明かした真理

この四聖諦にも実体はないということです。

四聖諦について詳しくは、以下の記事をご覧ください。
四聖諦ししょうたい・仏教に説かれる4つの真理

次の「na」は否定、「jñānaṃ」はjñāna「知識」という中性名詞の単数、主格、
prāptiḥ」は、prāpti「獲得」という女性名詞の単数、主格ですので、
na jñānaṃ na prāptiḥ」は、「智はない、得はない」ということです。

かくして不得の故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する

tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitāṃ āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ
かくして不得の故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する

tasmād」はtasmāt「それ故」という副詞です。
aprāptitvād」は、a(否定)+prāpti「獲得」+tva(抽象名詞を作る接尾辞)で、「不得」という意味の中性名詞の単数の従格aprāptitvātです。
bodhisattvānāṃ」は、bodhisattva「菩薩」という男性名詞の複数、属格で、「諸菩薩の」という意味です。
prajñāpāramitāṃ」は、prajñāpāramitā「般若波羅蜜」という女性名詞の単数、対格です。
āśritya」は、ā√śri「依る」にtyaがついた絶対分詞で「依って」という意味です。
viharaty」は、vi√hr「住む」の現在、単数、三人称viharatiが連声しています。
acittāvaraṇaḥ」はa(否定)+citta+āvaraṇaḥです。
citta」は中性名詞「」、
āvaraṇaḥ」は「覆うこと」という中性名詞ですが、
acittāvaraṇaḥ」は所有複合語で形容詞の働きになり、男性、単数、主格の「心の覆いがない」です。

したがって、「tasmād aprāptitvād bodhisattvānāṃ prajñāpāramitāṃ āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ」は、
かくして、不得の故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する」ということです。

心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃にある

cittāvaraṇanāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ
心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃にある

cittāvaraṇanāstitvād」は「cittāvaraṇa nāstitvād」です。
cittāvaraṇa」は、先ほど見た「心の覆い」です。
nāstitvād」は、na(否定)+√as「存在する」の現在、単数、三人称+抽象中性名詞を作る接尾辞「tva」で、
存在しないこと」という中性名詞の単数、従格です。
atrasto」は、a(否定)がついた√tras「怖れる」の過去受動分詞の男性、単数、主格atrastaḥです。
viparyāsātikrānto」は、viparyāsa atikrāntaḥです。
viparyāsa」は「顛倒」という男性名詞、
atikrāntaḥ」は、ati√kram「超える」の過去受動分詞atikrāntaの男性、単数、主格なので、
viparyāsātikrānto」は「顛倒を超えた」ということです。
niṣṭhanirvāṇaḥ」は、niṣṭha nirvāṇaḥです。
niṣṭha」は「に位する」「に基づいている」という形容詞、
nirvāṇaḥ」は、nirvāna「涅槃」という男性名詞の単数、主格ですので、
niṣṭhanirvāṇaḥ」は、「涅槃にある」ということです。

したがって、「cittāvaraṇanāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ」は、
心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃にある」ということです。

三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた

tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ saṃyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ
三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた

tryadhvavyavasthitāḥ」は、tri(三) adhvan(世) vyavasthitāḥです。
adhvanは後ろに何か複合する時はadhvaになります。
三世というのは、過去世、現在世、未来世のことです。
vyavasthitāḥ」は、vy-ava√sthā「ある」の過去受動分詞の男性、複数、主格です。
sarvabuddhāḥ」は、形容詞sarva「すべての」+男性名詞buddhāḥ「」の単数、主格です。
tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ」で「三世一切の諸仏は」です。

prajñāpāramitām」は女性名詞「般若波羅蜜」の単数、対格です。
āśrityānuttarāṃ」は、ā√śri「依る」にtyaがついた絶対分詞āśrityāと、anuttarāです。
anuttarā」はan(否定)+ud(上に)の比較級uttara(より上の)で、
この上ない」「無上の」という形容詞の女性、単数、対格です。 「saṃyaksambodhiṃ」はsaṃyak「正しい」+sambodhiṃ「悟り」です。

anuttara saṃyaksambodhi」は阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいと音訳されて仏のさとりを意味します。
最高の悟りのことです。

仏のさとりについて、詳しくは以下の記事をお読みください。
阿耨多羅三藐三菩提(仏のさとり)とは?大宇宙最高の真理

abhisambuddhāḥ」は、abhi-sam√budh「全く目覚める」の過去受動分詞の男性、複数、主格です。

したがって、「tryadhvavyavasthitāḥ sarvabuddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ saṃyaksambodhiṃ abhisambuddhāḥ」は、
三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた」ということです。

それ故に、般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は、あらゆる苦を鎮めるものであり、偽りがない故に真実と知られるべきである

tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitāmahāmantro mahāvidyāmantro ‘nuttaramantro ‘samasamamantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt
それ故に、般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は、あらゆる苦を鎮めるものであり、偽りがない故に真実と知られるべきである

tasmāj」は、副詞tasmāt「それ故に」が連声したものです。
jñātavyaṃ」は、√jñā「知る」の未来受動分詞「知られるべき」の中性、単数、主格ですから、
故に知られるべきである」ということです。
何が知られるべきなのかというと、次に説かれています。

prajñāpāramitāmahāmantro」は、prajñāpāramitā「般若波羅蜜」mahā mantroです。
mahā」はmahat「偉大な」で、複合語の前分になる時はmahāになります。
mantro」は男性名詞「真言」の単数、主格です。
ですから「prajñāpāramitāmahāmantro」は、
般若波羅蜜の偉大な真言は」ということです。

mahāvidyāmantro」は、mahā「偉大な」+vidyā「知識」「」+男性名詞 mantro「真言」の、単数、主格です。
‘nuttaramantro」は、anuttara「無上の」+男性名詞mantro「真言」の、単数、主格です。
‘samasamamantraḥ」はa(否定)+形容詞sama「等しい」+形容詞sama「等しい」+男性名詞mantro「真言」の、単数、主格です。
比類なき真言は」ということです。

この4つの真言の表現は、性・数・格が、いずれも男性、単数、主格と一致していますので、同一のものを表していることが分かります。

ちなみに玄奘の漢訳では、「故知こち般若波羅蜜多はんにゃはらみった是大神呪ぜだいじんしゅ是大明呪ぜだいみょうしゅ是無上呪ぜむじょうしゅ是無等等呪ぜむとうどうしゅ」となっています。
「是」は動詞なので、玄奘は、「般若波羅蜜多」を「般若波羅蜜多は」と主語として翻訳しています。
それに対して中村元は、「般若波羅蜜多の大神呪」というように、複合語としています。
これはサンスクリット語の文法上はどちらともとれます。
そこで、サンスクリット語の「mahāmantra」の用例を調べると、複合語として使われるほうが少ないので、玄奘のほうが自然ということになります。

sarvaduḥkhapraśamanaḥ」は、形容詞sarva「すべての」+中性名詞duḥkha「」+形容詞praśamanaḥ「しずめる」の男性、単数、主格です。
satyam」は中性名詞「真実」の単数、主格です。
amithyatvāt」は、「偽りがないこと」という中性名詞の単数、従格です。

したがって、「tasmāj jñātavyaṃ prajñāpāramitāmahāmantro mahāvidyāmantro ‘nuttaramantro ‘samasamamantraḥ, sarvaduḥkhapraśamanaḥ. satyam amithyatvāt」は、
それ故に、般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は、あらゆる苦を鎮めるものであり、偽りがない故に真実と知られるべきである」ということです。

般若波羅蜜において真言は次のように言われた

prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ tad yathā
般若波羅蜜において真言は次のように言われた

prajñāpāramitāyām」は、女性名詞「般若波羅蜜」の単数、処格です。
ukto」は、√vac「言う」の過去受動分詞の男性、単数、主格です。
mantraḥ」は、男性名詞「真言」の単数、主格です。

tad」はtat「それ」が連声しています。
yathā」は「次のように」という接続詞です。
ですから「tad yathā」で「それはすなわち」となります。

したがって、「prajñāpāramitāyām ukto mantraḥ tad yathā」は、
般若波羅蜜において、真言は次のように言われた」ということです。

往った、往った、彼岸へ往った、完全に到達した、菩提よ、幸いあれ

gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
往った、往った、彼岸へ往った、完全に到達した、菩提よ、幸いあれ

gate」とは、√gam「行く」の過去受動分詞gataの男性、単数、処格で「行った」ということです。
pāragate」の「pāra」とは「向こうへ」「彼岸へ」という形容詞ですので、
pāragate」は「彼岸へ往った
saṃ」は「完全に」という接頭辞なので、
pārasaṃgate」は「完全に彼岸に往った」ということです。
bodhi」は女性名詞「悟り」「菩提」の単数、呼格、
svāhā」は「幸あれ」という不変化辞です。
般若波羅蜜」というのは、智慧の完成という意味ですので、
この真言は、智慧の完成によって、彼岸へ往って得た仏のさとり、真の幸せを喜ぶ言葉です。

かくして『般若心経』は完結した

iti Prajñāpāramitāhṛdayaṃ samāptam
かくして『般若心経』は完結した

iti」とは、「」「このように」という不変化辞です。
Prajñāpāramitāhṛdayaṃ」は、Prajñāpāramitā「般若波羅蜜多」+中性名詞hṛdayaṃ「」の単数、主格です。
般若心経』のことです。
samāptam」は、sam√āpの過去受動分詞の中性、単数、主格ですから、
iti Prajñāpāramitāhṛdayaṃ samāptam」は、
かくして『般若心経』は完結した」ということです。

では次に、これを現代の言葉で分かりやすく和訳してみると以下のようになります。

サンスクリット語からの和訳・現代語訳

これがサンスクリット語からの『般若心経』の和訳であり、現代語訳です。

一切智者に礼したてまつる。
聖なる観自在菩薩が深い般若波羅蜜において六波羅蜜を実践して、五つの集合があり、また、それらの実体は空であると見極めた。
シャーリプトラよ、この世において、物質は空性であり、空性こそ物質である。
物質から離れて空性はなく、空性から離れて物質はない。
物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である。
受想行識もまさしくこのようなものである。

シャーリプトラよ、この世においてあらゆるものが空性で特徴づけられる。 生じることもなく妨げられることもなく、汚れることもなく汚れを離れることもなく、減ることもなく増えることもない。
それ故にシャーリプトラよ、空性において色も受も想も行も識もない。
眼・耳・鼻・舌・身体・心はなく
色・声・香・味・触・法はなく
眼界から意識界までない。

明はなく無明はなく明の滅はなく無明の滅はなく、乃至、老死はなく老死の滅はない。
苦集滅道はない、智はなく、得はない。
かくして得がない故に諸菩薩の般若波羅蜜に依りて覆いのない心に住する。
心の覆いがない故に恐れはなく顛倒を超えた涅槃に安住する。
三世一切の諸仏は般若波羅蜜によって仏のさとりを開いた。

それ故に、般若波羅蜜の偉大な智の無上の比類なき真言は、あらゆる苦を鎮めるものであり、偽りがない故に真実と知られるべきである。
般若波羅蜜において真言は次のように言われた。
往った、往った、彼岸へ往った、完全に到達した、菩提よ、幸いあれ。
かくして『般若心経』は完結する。

漢訳の『般若心経』からの和訳と比べてみましょう。

漢訳からの和訳・現代語訳

以下が漢訳からの現代語訳(意訳)です。

観音菩薩が、六波羅蜜ろくはらみつ を実践されている時、人間の心身を構成している5つのもの(物質的な肉体、苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)に固有の実体はないと知らされて、一切の苦しみを解決された。

舎利弗しゃりほつよ。 物質的なものには実体がない。
では何もないかというとそうではなく、因縁が一時的にそろって物質的なものが生じているのだ。
つまり、物質は実体のないものであり、実体のないものが物質として生じているわけだ。
心身を構成する物質以外の心の4つの働き(苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体)もまた同じである。

舎利弗よ、一切が空であるすがたというものは、因縁がそろったり離れたりするだけで、
無から有が生じたり、有ったものがなくなったりしているわけではない。
汚れているとか清らかというのも因縁によるもので、汚れた実体や清らかな実体というものもない。
因縁がそろったり離れたりしているだけで、何かが増えたり減ったりしているのでもない。

だから、すべては因縁によって生じている空なるものだから、今あると思っている物質も、因縁が離れればなくなって、別のものになってしまう。
今あると思っている苦楽の感覚、イメージ、意思、認識する主体という心の4つの働きも、因縁が離れればなくなって、別のものになってしまう。
認識の働きも、認識の対象も、認識の主体も、実体がない。

十二因縁の最初の無明にも実体がなく、無明が尽きるということも実体がない。
そこから始まって、十二因縁の最後の老死に至るまで実体がないし、老死が尽きることにも実体がない。
十二因縁のすべてに実体がないし、十二因縁が尽きることにも実体がないのである。

また、苦集滅道の四聖諦ししょうたいにも実体はない。

このように言うと、般若の智慧というのは、「一切が空ということだ」と思うだろうが、そのように頭で理解するようなものではない。
なぜなら何かを知ったり、得たりする私にも実体はないし、得る対象にも実体がないのだ。

菩薩は六波羅蜜を実践して高い悟りを開くとそのような境地に至り、心に煩悩がなくなる。
煩悩がなくなるから、恐怖がなくなる。
一切の逆立ちした考えも、妄想も離れて、究極の涅槃に入る。
過去、現在、未来の一切の仏も、そのように六波羅蜜によって仏のさとりを開かれたのである。

だから知るがよい。
この彼岸に渡る智慧の、
不可思議なまことの言葉、
明らかなまことの言葉、
この上ないまことの言葉、
並ぶもののないまことの言葉を。
六波羅蜜を実践し、彼岸に至る智慧を完成すれば、自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができる。

この故に智慧の完成のまことの言葉を説こう。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
この意味は、「仏道を求め、完成して、彼岸へ至り、仏のさとりを得た」ということである。

これが『般若心経』の和訳です。
では、サンスクリット語によって何が分かるのでしょうか?

サンスクリット語の般若心経から分かること

般若心経』のサンスクリット語と漢訳を比べてみると、
サンスクリット語では、最初に「一切智者に礼したてまつる」とあったり、
色即是空にあたる「物質は空性であり、空性こそ物質である」について、
もう一度「物質なるものは空性であり、空性なるものは物質である
と繰り返されたりしています。

また、観自在菩薩が五蘊が空であることを見極めたのは、過去のことであることが分かります。
このように、一定の発見はありますが、総じて正確に漢訳されていることが分かります。

ということは、漢訳とサンスクリット語の違いから分かることよりも、
どちらでもいいので、『般若心経』に明かされている「」のほうが
はるかに深い内容を持っています。

この空については、龍樹菩薩りゅうじゅぼさつが理論的に解明されていますので、
詳しいことは、以下の記事をご覧ください。
龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の大乗仏教と空とは?

また、仏教の教えを勉強するだけにとどまらず、
修行すべきことである、六波羅蜜ろくはらみつなどを実践しなければ、本当の意味で理解することはできません。

さらに、『般若心経』にしても、六波羅蜜にしても、
お釈迦様が、本当の幸せに導くために説かれた方便です。
仏教では、もっと深い本当の幸せが教えられています。

では、仏教に教えられている本当の幸せとはどんなものなのか、
どうすれば本当の幸せになれるのかについては、電子書籍とメール講座にまとめておきました。
一度見てみてください。

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この記事を書いた人

長南瑞生

長南瑞生

日本仏教学院 学院長
東京大学教養学部卒業
大学では量子統計力学を学び、卒業後は仏道へ。仏教を学ぶほど、その底知れない深さと、本当の仏教の教えが一般に知られていないことに驚き、何とか一人でも多くの人に本物を知って頂こうと、失敗ばかり10年。インターネットの技術を導入して日本仏教学院を設立。著書2冊。科学的な知見をふまえ、執筆や講演を通して、伝統的な本物の仏教を分かりやすく伝えようと奮戦している。

仏教界では先駆的にインターネットに進出し、通信講座受講者3千人、メルマガ読者5万人。ツイッター(@M_Osanami)、ユーチューブ(長南瑞生公式チャンネル)で情報発信中。メールマガジンはこちらから講読可能

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